毛沢東
外文出版社 北京(1968年初版を電子化)
一 本訳書は北京人民出版社一九六四年九月出版の『毛沢東選集』第一巻から第四巻までの完訳である。各論文の解題と注釈もこの版から訳出したものである。一 注釈は底注と訳注にわかれ、原注は漢数字を〔 〕でかこみ(電子版は漢数字ではなく、半角数字を〔 〕で囲んでいる)、各論文の末尾においた。訳注は訳者がくわえたもので、算用数字を○(電子版では機種依存文字である①などで表現)でかこみ、原注のあとにおいた。一 度量衡、通貨、行政区画については、一部をのぞいてすべて原文のままの単位を用い、訳注を付した。一 読み仮名は、《 》で囲まれた範囲で示される。一 第二水準で表現できない漢字は、基本的に[片+旁]で表現した。それ以外の表現も、適宜[ ]内で記した。一 本電子版はMS IMEを用いて作成された。一 傍点のある部分は” #“と”# “で囲み、電子版では太字の部分は” ##“と”## “で囲んだ。一 原文では旧字体などで表現されていても、電子版で表現できないなどの理由により新字体で表現しているところがある。例えば、蒋介石は原文では旧字体だが、電子版では新字体である。
第三次国内革命戦争の時期
(一九四五年八月十三日)
これは、毛沢東同志が延安での幹部会議でおこなった演説である。この演説は、マルクス・レーニン主義の階級分析の方法にもとづいて、抗日戦争勝利後の中国の政治の基本情勢にふかい分析をくわえるとともに、プロレタリア階級の革命的戦術を提起している。毛沢東同志が、一九四五年四月、中国共産党第七回全国代表大会の開会のことばで指摘したように、日本帝国主義をうちやぶってからも、中国のまえには、新しい中国となるか、それとも、ふるい中国のままでいるか、という二つの運命、二つの前途が依然としてよこたわっていた。蒋介石に代表される中国の大地主・大ブルジョア階級は、人民の手から抗日戦争の勝利の果実をうばいとり、中国をこれまでどおりの大地主・大ブルジョア階級独裁の、半植民地・半封建の国家にしようとしていた。プロレタリア階級と人民大衆の利益を代表する中国共産党は、一方では、極力、平和のためにたたかい内戦に反対しなければならず、他方では、全国的な規模の内戦をおこそうとする蒋介石の反革命の計画にたいしても十分なそなえをもち、正しい方針をとらなければならなかった。それはつまり、帝国主義と反動派にたいして、幻想をいだかず、そのおどかしをおそれず、断固として人民の闘争の果実をまもりぬき、プロレタリア階級の指導する、人民大衆の、新民主主義の新中国をうちたてるために努力するということであった。中国の二つの運命、二つの前途の勝敗を決するたたかいが、抗日戦争の終結から中華人民共和国の成立にいたるまでのこの歴史的時期の内容であり、この歴史的時期とは、中国人民解放戦争の時期、または第三次国内革命戦争の時期のことである。蒋介石はアメリカ帝国主義の援助のもとに、抗日戦争の終結後、たびたび、和平についての取り決めをやぶるとともに、人民の力を一掃しようとして、空前の、大がかりな反革命の内戦をおこした。しかし、中国共産党の正しい指導により、中国人民はわずか四ヵ年のたたかいによって、全国的な範囲にわたって蒋介石をうちやぶり、新中国をうちたてるという偉大な勝利をかちとった。
この数日間、極東の時局にひじょうに大きな変動がおきている。日本帝国主義降伏の大勢はすでにさだまった。日本降伏の決定的な要因はソ連の参戦である。赤軍百万の大軍が中国の東北地方にはいったが、これは手向かうことのできない力である。日本帝国主義はもう戦争をつづけられなくなった〔1〕。中国人民の苦難にみちた抗戦はすでに勝利をおさめた。抗日戦争は、ひとつの歴史的段階としてはすでにすぎさったのである。
こうした情勢のもとで、中国国内の階級関係、国共両党の関係は、現在どうなっているか。将来はどうなるのか。わが党の方針はどうなのか。これは全国の人民が大きな関心をよせている問題であり、全党の同志が大きな関心をよせている問題である。
国民党はどうなのか。その過去をみれば、その現在がわかるし、その過去と現在をみれば、その将来がわかる。この党は過去にまる十年間、反革命の内戦をおこなったことがある。抗日戦争中にも、国民党は、一九四〇年、一九四一年、一九四三年と三回にわたって、大がかりな反共の高まり〔2〕をひきおこしては、そのたびに全国的な内戦にもっていこうとした。ただそれがわが党の正しい政策と全国人民の反対によって実現をみなかっただけである。中国の大地主・大ブルジョア階級の政治的代表者である蒋介石は、周知のように、このうえもなく残忍で陰険な男である。手をこまねいて勝利を待ち、実力を保存して内戦を準備する、というのがかれの政策であった。はたして、待ちのぞんだ勝利がおとずれ、この「委員長」はいよいよ「山をおりる」〔3〕ことになった。八年このかた、われわれと蒋介石は居場所をとりかえていた。以前はわれわれが山の上にいて、かれが水のほとりにいたが〔4〕、抗日の時期には、われわれが敵後方にいて、かれが山にのぼっていた。いま、かれは山をおりようとしている。山をおりて抗戦勝利の果実を横取りしようというわけである。
わが解放区の人民と軍隊は、この八年らい、ぜんぜんほかからの援助のない状況のもとで、まったく自分だけの努力によって、広大な国土を解放し、中国侵略日本軍の大部分とかいらい軍のほとんど全部を相手に戦ってきた。われわれの断固とした抗戦、英雄的な奮闘があったからこそ、大後方〔5〕の二億の人民は日本侵略者の蹂躙をまぬかれ、二億の人民のすむ土地は日本侵略者の占領をまぬかれたのである。蒋介石は峨眉山に逃げこんでいたが、前方でかれをまもってやったものがいた。それは解放区であり、解放区の人民と軍隊であった。われわれは大後方の二億の人民をまもったが、それは同時に、この「委員長」をもまもることになり、かれに、手をこまねいて勝利を待つ時間と場所をあたえた。時間――八年と一 ヵ月、場所――二億の人民のすむ土地、これらの条件はわれわれがかれにあたえたのである。われわれがいなければ、かれも手をこまねいてはいられなかったはずである。それなら、「委員長」はわれわれに感謝しているだろうか。とんでもない。この男はむかしから恩知らずである。蒋介石はどのようにして権力の座についたか。北伐戦争のおかげであり、第一次国共合作のおかげであり、当時人民がまだかれの素性をよく知らすにかれを支持していたおかげである。かれはいったん権力の座につくと、人民に感謝するどころか、人民をはりたおし、人民を十年にわたる内戦の血の海につきおとした。このあたりの歴史は、同志諸君がみな知っているとおりである。こんどの抗日戦争で、中国人民はまたかれをまもってやった。いま、抗日戦争は勝利し、日本は降伏することになったが、かれはけっして人民に感謝はせず、逆に、一九二七年のふるい帳面をめくってみて、もう一度おなじ手を打とうと考えている。蒋介石は、中国にはこれまで「内戦」などなかった、あったのは「匪賊討伐」だけだといっている。だが、それをなんとよぼうと、要するに、反人民的な内戦をおこそうとしているのであり、人民を殺そうとしているのである。
全国的な規模の内戦がまだおこらないうちは、人民のあいだでも、わが党の多くの同志のあいだでも、まだこの問題について、みんながみんなはっきりした認識をもつわけではない。大規模な内戦がまだはじまっておらず、内戦がまだ普遍的な、公然とした、ひんぱんなものになっていないので、「まさか!」と考えている人がたくさんいるし、また、内戦になるのをおそれている人もたくさんいる。おそれるのにはわけがある。かつては十年間戦争をし、抗戦でまた八年間戦争をした、これ以上戦争をするのはたまらないからである。おそれる気持ちになるのも無理はない。内戦をおこそうとする蒋介石の陰謀にたいして、わが党がとっている方針は、明確であり、一貫している。それは、断固として内戦に反対することであり、内戦に賛成せず、内戦を阻止することである。今後さらに、われわれは最大の努力と辛抱づよさをもって人民を指導して、内戦をくいとめなければならない。しかし、内戦の危険性がひじょうに大きいことをはっきりと見ぬかなければならない。蒋介石の方針はもうきまっているからである。蒋介石の方針は、内戦をやることである。われわれの方針、人民の方針は、内戦をやらないことである。内戦をやらないのは中国共産党と中国人民だけで、残念ながら、蒋介石と国民党はそうではない。一方はやらないが、一方はやる。もし両方ともやらないのなら戦争にはならない。現在、やらないのは一方だけで、しかも、この一方にはまだ他の一方をおさえるだけの力がない。したがって、内戦の危険性はひじょうに大きい。
蒋介石が専制と内戦の反動的方針をあくまで固持しようとしていることを、わが党は時をうつさずはっきり指摘してきた。党の第七回代表大会以前にも、第七回代表大会の開催中にも、第七回代表大会以後にも、われわれは内戦の危険性について人民の注意をうながす活動を十分におこなって、全国人民およびわれわれの党員と軍隊に、はやくから心がまえをさせてきた。これはひじょうに重要な点で、この点があるのとないのとでは大変なちがいである。一九二七年のころは、わが党はまだ幼年期の党で、蒋介石による反革命の突然の襲撃にたいしなんの心がまえもなかったために、人民がかちとった勝利の果実をたちまちうしない、人民は長いあいだ災いをこうむり、光明の中国は暗黒の中国と化した。しかし、こんどはちがっている。わが党はすでに三回にわたる革命のゆたかな経験をつみ、党の政治的成熟の度合いも大いにたかまっている。党中央は内戦の危険性をくりかえしはっきり指摘して、全国人民および全党の同志と党の指導する軍隊をそなえある状態においている。
蒋介石は、人民からは、わずかな権利もかならずうばい、わずかな利益もかならずとりあげる。われわれはどうか。われわれの方針は、まっこうから対決し、一寸の土地もかならず争うことである。われわれは蒋介石のやり方にならってやっている。蒋介石はいつも人民に戦争をおしつけ、左手にも刀をもてば、右手にも刀をもっている。だから、われわれもかれのやり方にならって、刀をとる。これは調査研究のすえ、やっと見つけたやり方である。この調査研究はひじょうにたいせつである。相手が手にものをもっているのをみたら、われわれはすぐそれを調査してみる。かれが手にもっているのはなにか。刀である。刀にはどういう使いみちがあるか。人を殺すことができる。かれは刀をもってだれを殺そうとしているのか。人民を殺そうとしている。こうしたいくつかのことを調査したら、さらに調査をすすめる。中国人民にも手があり、刀をもつことができるし、刀がなければつくることもできる。中国人民は長いあいだ調査研究をしたすえ、この真理を発見した。軍閥、地主、土豪劣紳①、帝国主義はみな手に刀をもっていて、人を殺そうとしている。それがわかったので、人民もそのやり方でやっていく。われわれのなかには、この調査研究に注意をはらわないものがいる。たとえば陳独秀で、かれには、刀をもっていれば人を殺せる、ということがわからなかった。これはありふれた普遍的な真理で、共産党の指導者にわからぬはずはなかろう、というものもいるが、そうとばかりはいいきれない。陳独秀は調査研究をしていなかったので、このことがわからなかった。だから、われわれはかれに日和見主義者という名まえをつけた。調査研究がなければ発言権はない。そこで、われわれはかれから発言権をとりあげた。われわれは、陳独秀とはちがったやり方をとり、抑圧され、殺害されている人民に刀をとらせた。またもわれわれを殺そうとするものがあれば、われわれはおなじやり方をするまでである。ついさきごろ、国民党はわが関中分区の攻撃に六コ師団をさしむけ、そのうちの三コ師団が攻めこんできて、幅百華里、長さ二十華里の地域を占領した。そこでわれわれも相手のやり方にならって、この幅百華里、長さ二十華里の地域にいた国民党軍を、きれいに、徹底的に、のこらず殲滅した〔6〕。われわれはまっこうから対決し、一寸の土地もかならず争うのであって、国民党がやすやすとわれわれの土地を占領し、われわれの人間を殺すようなことは、絶対にゆるさない。もちろん、一寸の土地もかならず争うとはいっても、かつての「左」翼路線のように「根拠地の土地は一寸も放棄しない」というのではない。こんど、われわれは幅百華里、長さニ十華里の地域を放棄した。七月の末に放棄して、八月のはじめにとりかえした。安徽省南部事変ののち、国民党の連絡参謀がわれわれの動向について質問したことがあった。わたしは、君は毎日延安にいながらまだわからないのか、「何応欽が攻めてくればわれわれも反撃するし、何応欽がやめればわれわれもやめる」〔7〕のだといってやった。そのときはまだ蒋介石の名はあげないで、何応欽だけをあげた。現在は「蒋介石が攻めてくればわれわれも反撃するし、蒋介石がやめればわれわれもやめる」で、かれのやり方にならってやっていく。蒋介石はもうすでに刀をといでいる。したがって、われわれも刀をとがなければならない。
人民の獲得した権利をかるがるしく手放すことは断じてゆるされず、これは戦いによってまもらなければならない。われわれは内戦をのぞまない。だが蒋介石がどうしても中国人民に内戦をおしつけてくるなら、自衛のために、解放区の人民の生命、財産、権利、幸福をまもるために、われわれは武器をとってかれと戦うほかはない。この内戦は、かれがわれわれにおしつけてきたものである。もしわれわれが戦争に勝てなかったとしたら、天をうらまず、地をうらまず、ただ自分が戦争に勝てなかったことをうらむだけである。しかし、人民がすでに獲得した権利をやすやすと奪いとったり、だましとったりしようとしても、それはとうていできない相談である。昨年、あるアメリカの記者がわたしにたずねた。「あなたたちはだれから権限をあたえられて仕事をしているのか。」わたしはいった。「人民からあたえられている」と。人民があたえるのでなければ、ほかにだれがあたえるだろうか。権力をにぎっている国民党はあたえはしなかった。国民党はわれわれを認めないのである。われわれは国民参政会に参加しているが、参政会条例の規定によると、それは「文化団体」としての資格によるものである〔8〕。われわれにいわせれば、われわれは「文化団体」ではなく、軍隊をもっているから、「武化団体」である。ことしの三月一日に蒋介石は、軍隊をひき渡さなければ、共産党は合法的な地位がえられない、といった。蒋介石のこのことばは、いまでも生きている。われわれは軍隊をひき渡していないので、合法的な地位はなく、われわれは「無法者」である。われわれの責務は、人民にたいして責任をおうことである。一言一句、一つ一つの行動、一つ一つの政策がすべて人民の利益にかなっていなければならないし、もしあやまりがあれば、かならずあらためなければならない。これが人民にたいして責任をおうということである。同志諸君、人民は解放をもとめて、われわれ共産党員に、つまりかれらを代表できる、かれらのために忠実にはたらくことのできるものに権限をゆだねるのである。人民の代表者となったからには、われわれはりっぱに代表しなければならず、陳独秀のようであってはならない。陳独秀は、反革命が人民に攻撃をくわえてきたのにたいして、まっこうから対決し一寸の土地もかならず争うという方針をとらなかった。その結果、人民がすでに手にいれていた権利を、一九二七年の数ヵ月のうちに、一つ残らずきれいにうしなってしまった。こんどはわれわれも気をつけなければならない。われわれの方針は陳独秀の方針とはまったくちがっており、どんなごまかしもわれわれをだますことはできない。われわれははっきりした頭脳と正しい方針をもつべきであり、あやまりをおかさないようにすべきである。
抗戦勝利の果実はだれのものであるべきか。それはひじょうにはっきりしている。たとえば一本の桃の木があって、その木に桃がなったとする。その桃は勝利の果実である。桃はだれがもぐべきか。それには、桃の木をだれがうえ、だれが水をくんできてかけたかを見なければならない。蒋介石は山のなかにひきこもって、一杯の水もくんでこなかったのに、いまになって、ながながと手をのばして桃をもごうとしている。かれはいう。この桃の所有権はこのおれ蒋介石のものである。おれは地主で、お前たちは農奴だ。お前たちがもぐのをゆるさない、と。われわれは新聞紙上でかれに反論した〔9〕。われわれはいう。お前は水をくんだことがない。だから、桃をもぐ権利はない。われわれ解放区の人民は毎日水をやった。もぐ権利をいちばんもっているのは当然われわれである、と。同志諸君、抗戦の勝利は人民が血の犠牲をはらってかちえたものであって、当然人民の勝利であり、抗戦の果実は当然人民のものである。蒋介石はどうだったか。かれは抗戦には消極的、反共には積極的で、人民の抗戦のじゃまものだった。いまこのじゃまものがのりだしてきて、勝利の果実をひとり占めにし、抗戦勝利後の中国をふたたび抗戦前の状態に逆もどりさせ、すこしの変化をもゆるすまいとしている。こうして闘争がはじまった。同志諸君、これはひじょうに重大な闘争である。
抗戦勝利の果実が当然人民のものであるということ、これが一つのことである。しかし、勝利の果実がはたしてだれの手にはいるか、人民のものになるかどうかということ、これはまた別のことである。勝利の果実がすべてまちがいなく人民の手にはいるなどとおもってはならない。ひとやまの大桃、たとえば上海、南京、杭州などといった大都市は、蒋介石にうばいさられることになろう。蒋介石はアメリカ帝国主義と結託しており、それらのところでは、かれらの力が優勢なので、革命的な人民は基本的にはまだ農村しか占領できない。別のひとやまの桃は、双方でうばいあうことになるだろう。太原以北の大同=風陵渡鉄道、北平=包頭鉄道の中部区間、北平=瀋陽鉄道、鄭州以北の北平=漢□鉄道、石家荘=太原鉄道、白圭=晉城鉄道〔10〕、徳州=石家荘鉄道、天津=浦口鉄道、青島=済南鉄道、鄭州以東の天水=蓮雲港鉄道、こういった地方の中小都市はかならず争わなければならないところであり、このひとやまの中小の桃はすべて解放区の人民が血と汗をそそいでそだてたものである。これらの地方がはたして人民の手にはいるかどうかは、いまのところまだなんともいえない。いまいえるのは、あくまで争う、ということだけである。まちがいなく人民の手にはいるところはないだろうか。ある。河北省、察哈爾省、熱河省〔11〕、山西省の大部分、山東省、江蘇省北部がそれで、これらの地方の広い農村や多くの都市は、農村と農村が一つにつながり、百ほどもの都市、七、八十もの都市、四、五十もの都市がかたまっており、そうしたものが大小あわせて三つ、四つ、五つ、六つとある。それはどういう都市か。中都市と小都市である。これはまちがいなく手にはいるところで、われわれには、これらの勝利の果実を手にいれることのできる力がある。これらの果実が手にはいるのは、中国革命の歴史にはじめてのことである。歴史上、われわれは一九三一年の後半に、敵の三回目の「包囲討伐」をうちやぶったのち、江西省中央区であわせて二十一の県都〔12〕をもったことはあるが、まだ中都市はなかった。二十一の小都市がつらなって、いちばん多いときには人口二百五十万であった。これをよりどころにして中国人民は、あれほど長いあいだたたかい、あれほど大きな勝利をおさめ、あれほど大がかりな「包囲討伐」を粉砕することができた。その後、われわれは戦いに負けたが、これは蒋介石のせいではなく、われわれ自身がうまく戦わなかったせいである。こんど、大小何十もの都市が一つにつらなり、それが三つ、四つ、五つ、六つもあるということになれば、中国人民は、江西省中央区よりさらに大きな革命根拠地を三つ、四つ、五つ、六つももつことになり、中国革命の情勢は相当すばらしいものになるだろう。
全体の情勢からみて、抗日戦争の段階はすぎさり、新しい状況と新しい任務は国内闘争である。蒋介石は「建国」するといっているが、どういう国を建てるかが今後の闘争である。プロレタリア階級の指導する、人民大衆の、新民主主義の国家を建てるのか、それとも、大地主・大ブルジョア階級独裁の、半植民地・半封建の国家を建てるのか。これはひじょうに複雑な闘争となるであろう。いまこの闘争は、蒋介石が抗戦の勝利の果実を横取りしようとし、われわれがその横取りに反対する、そうした闘争としてあらわれている。この時期にもし日和見主義があるとすれば、それはあくまでも争うということをせず、人民のものとなるべき果実をみずからすすんで蒋介石に献上するものである。
公然とした、全面的な内戦はおこるだろうか。それは国内的な要因と国際的な要因によってきまる。国内的な要因は、主として、われわれの力と自覚の程度である。国際的、国内的な大勢のおもむくところと人心のむかうところによって、また、われわれの奮闘をつうじて、内戦を局部的な範囲にくいとめたり、全面的な内戦のおこる時期をひきのばしたりすることができるだろうか。その可能性はある。
蒋介石がおもいきって内戦をはじめるのにも、いろいろ困難がある。第一に、解放区には一億の人民、百万の軍隊、二百余万の民兵がいる。第二に、国民党支配区の自覚した人民は内戦に反対しており、これが蒋介石にとって一種の牽制になっている。第三に、国民党の内部にも、一部に内戦に賛成しないものがいる。当面の情勢は、一九二七年のころと大いにちがっている。ことに、わが党の現在の状況は一九二七年のころの状況と大いにちがっている。あのころの党はまだ幼年期の党で、はっきりした頭脳も、武装闘争の経験も、まっこうから対決する方針ももっていなかった。いまでは党の自覚は大いにたかまっている。
われわれの自覚、プロレタリア階級の前衛の自覚という問題のほかに、もうひとつ人民大衆の自覚という問題がある。人民がまだ自覚していないときには、革命の果実を他人にやってしまうようなことも十分にありうることである。こうしたことは、かつて歴史のうえにもみられた。こんにちでは中国人民の自覚も大いにたかまっている。人民のあいだにおけるわが党の信望がいまほどたかまったことはかってなかった。しかし、人民のなかには、主として日本占領区と国民党支配区の人民のなかには、蒋介石を信用し、国民党とアメリカに幻想をいたいているものがまだかなりいるし、蒋介石もまたそうした幻想をふりまくことに力をいれている。中国人民のなかに、そうしたまだ自覚していない人たちがいるということは、われわれの宣伝活動と組織活動がまだひじょうに不十分だということを物語っている。人民が自覚するのは容易なことではなく、人民の頭のなかのあやまった考えをとりのぞくには、われわれが多くの地についた活動をやっていく必要がある。中国人民の頭のなかにあるおくれたものは、ほうきで部屋を掃くように、われわれがそれを掃除しなければならない。掃除もしないで、ごみがひとりでになくなったためしはない。われわれは、人民が中国の実際の状況と動向を理解し、自分の力に自信をもつように、人民大衆のあいだで広く宣伝教育活動をおこなわなければならない。
人民はわれわれが組織しなければならない。中国の反動分子は、われわれが人民を組織することによってうちたおさなければならない。すべて反動的なものは、たおさないかぎり、たおれはしない。これも掃除とおなじで、ほうきがとどかなければ、ごみはやはりひとりでに逃げはしない。陝西・甘粛・寧夏辺区の南に介子河という川がある。介子河の南側は洛川県、北側は[鹿+”おおざと”]県である。川の南側と北側とでは別々の世界である。川の南側は国民党のもので、われわれがいったことがないので、人民は組織されておらず、きたないものがたくさんある。われわれの一部の同志は、政治的影響というものを信じ、影響によって問題が解決できると考えている。これは迷信である。一九三六年にわれわれは保安〔13〕にいた。保安から四、五十華里のところに極悪地主の土塀がこいの部落があった。当時、党中央の所在地は保安だったので、政治的影響はこれ大なり、というべきであったが、しかし、その土塀のなかの反革命分子たちはなんとしても降伏しなかった。われわれがその南側を掃いても、北側を掃いても、だめだったので、あとでほうきをなかにつっこんで掃くと、やっと「こりゃかなわん、お手あげだ」といいだした〔14〕。世の中のことはこうしたものである。鐘はつかないと鳴らない。机ははこばないと動かない。ソ連の赤軍が東北地方にはいらなければ、日本は降伏しはしない。われわれの軍隊がやっつけなければ、敵軍・かいらい軍も武器を渡しはしない。ほうきがとどかないと、政治的影響も十分には効力を発揮しないのである。われわれのほうきは共産党、八路軍、新四軍である。ほうきを手にしたら、掃きかたを研究すべきであり、大風でも吹いてごみをすっかり吹きとばしてくれるだろうなどとおもって、寝台に寝ころんでいてはならない。われわれマルクス主義者は革命的現実主義者で、けっして空想などはしない。中国には「黎明に起きて、庭を掃除する」〔15〕という古いことばがある。黎明とは夜明けのことをいう。夜が明けたらすぐ起きて掃除をするように、むかしの人は教えている。これはわれわれにひとつの任務を教えたものである。こういうふうに考え、こういうふうにやってこそ、ためにもなり、またする仕事もできてくる。中国は土地が広いので、われわれが少しずつ掃いていくほかはない。
われわれの方針は、なにを根底とすべきか。自分の力を根底とすべきで、これが自力更生である。われわれは孤立してはいない。帝国主義に反対する全世界のすべての国ぐにと人民はみなわれわれの友である。しかし、われわれは自力更生を強調する。われわれはわれわれ自身の組織する力によって、内外のすべての反動派をうちやぶることができる。蒋介石はわれわれとは逆で、まったくアメリカ帝国主義の援助にたより、アメリカ帝国主義をたのみの綱としている。専制、内戦、売国の三位一体、これが一貫して蒋介石の方針の根底になっている。アメリカ帝国主義は蒋介石をたすけて内戦をやらせ、中国をアメリカの従属国にしようとしているが、アメリカ帝国主義のこの方針もはやくからきまっているものである。しかし、アメリカ帝国主義はうわべは強そうでも、中味はからっぽである。われわれははっきりした頭脳をもっていなければならないが、それには、帝国主義の「甘いことば」を信じない、帝国主義のおどかしをおそれない、ということがふくまれている。かつてあるアメリカ人がわたしに「あなた方はハーレーのいうことをきいて、何人かの人を国民党政府におくって、役人にすべきだ」といったが〔16〕、わたしは、「役人も手足をしばられていたのではやりにくいから、われわれはならない。なるなら、手足をのばして自由自在にやりたい。つまり民主主義を基礎にして連合政府をつくることである」といってやった。かれは「ならないのはよくない」というので、「なぜよくないのか」とたずねると、「第一に、アメリカ人があなた方を悪くいうだろうし、第二に、アメリカ人が蒋介石のあと押しをするようになるからだ」という。そこでわたしはいった。「あなた方は、パンはたらふく食った、睡眠はたっぷりとった、それで、人の悪口をいい、蒋介石のあと押しをする、それはあなた方アメリカ人の勝手で、わたしは干渉しない。いま、われわれのところにあるのは粟に小銃で、あなた方のところにあるのはパンに大砲だ。あなた方が蒋介石のあと押しをしたいのならすればよいし、好きなだけいつまででもあと押ししたらよい。ただ、一つのことだけはおぼえていてもらいたい。中国はだれの中国か。中国はけっして蒋介石のものではない。中国は中国人民のものである。いつかはかならず、あなた方があと押ししきれなくなる日がくるだろう」と。同志諸君、このアメリカ人のいったことは、おどかしである。帝国主義者は人をおどかすのがお手のものだし、植民地にはおどかしをおそれるものもたくさんいる。かれらは、どこの植民地の人間もおどかしがきくものとおもっている。だが、かれらは、中国に、そんな手をおそれない人びとがいることを知らない。われわれはこれまで、アメリカの援蒋反共政策を公然と批判し、暴露してきたが、これは必要なことで、今後もひきつづきそれをあばいていかなければならない。
ソ連が出兵し、赤軍は中国人民が侵略者を追いだすのをたすけにきてくれたが、これは中国の歴史にかつてなかったことである。このことからうまれる影響には、はかりしれないものがある。アメリカと蒋介石の宣伝機関は、二発の原子爆弾で赤軍の政治的影響をはらいのけようとしている〔17〕。しかし、はらいのけられるものではないし、そんなにたやすいことではない。原子爆弾で戦争の解決ができるだろうか。できはしない。原子爆弾で日本を降伏させることはできなかった。原子爆弾だけで、人民のたたかいがないなら、原子爆弾も役にはたたない。もし原子爆弾で戦争が解決できるなら、どうしてさらにソ連に出兵をたのまなければならなかったのか。なぜ、原子爆弾を二発おとしても日本はまだ降伏しなかったのに、ソ連が出兵するとたちまち降伏したのか。われわれの同志のなかにも、原子爆弾を大したものとおもいこんでいる人がいるが、それは大きなあやまりである。そうした同志のものの見方は、イギリスの一貴族にもおよばない。イギリスにマウントバッテン卿という貴族がいる。かれは、原子爆弾で戦争が解決できるとおもうのは最大のあやまりだ、といっている〔18〕。これらの同志たちはマウントバッテンよりもおくれている。これらの同志たちが原子爆弾を世にも神秘なものとおもいこんでいるのは、なんの影響によるのか。ブルジョア階級の影響である。こうした影響はどこからきているのか。ブルジョア的学校教育からきており、ブルジョア新聞、ブルジョア通信からきている。世界観と方法論には、二つのものがある。プロレタリア階級の世界観と方法論、ブルジョア階級の世界観と方法論である。これらの同志たちは、ブルジョア階級の世界観と方法論はいつも手からはなさないが、プロレタリア階級の世界観と方法論はいつも頭の外におきざりにしている。われわれの隊列内にある唯武器論、軍事一点ばりの観点、官僚主義、大衆遊離の作風、個人主義思想などは、みなブルジョア階級の影響である。われわれの隊列内にあるこれらのブルジョア的なものはやはり、ごみを掃くように、いつも掃除しなければならない。
ソ連の参戦は日本の降伏を決定的なものにし、中国の時局は新しい時期にはいった。新しい時期と抗日戦争の時期とのあいだには、過渡的な段階がある。過渡的な段階での闘争は、蒋介石が抗戦勝利の果実を横取りすることに反対する闘争である。蒋介石は全国的な規模の内戦をはじめようとしており、かれの方針はすでにきまっている。われわれはこれにたいして、そなえがなければならない。全国的な内戦がいつおこっても、われわれにはそなえができていなければならない。少しはやく、あすの朝戦争になってもよいように、われわれはそれにそなえておくのである。これが第一の点である。現在の国際情勢と国内情勢からみて、内戦を、しばらくのあいだ、局部的な範囲にとどめることは可能であり、内戦はしばらくのあいだ、いくつかの地方的な戦争になる可能性がある。これが第二の点である。第一の点では、われわれはそなえをしておくし、第二の点では、まえからそうなっている。要するに、われわれにはそなえがなければならない。そなえがあれば、いろいろな複雑な局面にも適切に対処することができるのである。
〔1〕 一九四五年八月八日、ソ連政府か日本にたいして宣戦した。ハ月十日、モンゴル政府が日本にたいして宣戦した。ソ連赤軍は海陣両方面から中国東北地方と朝鮮にはいり、たちまち日本の関東軍を撃破した。ソ連・モンゴル連合軍は内蒙古の砂漠をこえて熱河省と察哈爾省にはいった。日本政府はやむなく、八月十日には降伏申し出の照会文書を発し、十四日には正式に無条件降伏を宣言せざるをえなくなった。関東軍は日本陸軍のもっとも精鋭な主力部隊であり、日本の戦略的な総予備軍であった。日本帝国主義はこの軍隊をたのみとし、また、中国東北地方と朝鮮の有利な戦略的地位にたよって、長期戦をおこなおうとたくらんでいた。だが、ソ連の参戦によって、日本帝国主義のこの計画が徹底的に破産したので、日本政府も敗北を認めざるをえなくなり、ついに降伏勧告をうけいれた。
〔2〕 国民党反動派が三回にわたって反共の高まりをひきおこした経過については、本選集第三巻の『国民党中央執行委員会第十一回全体会議と第三期国民参政会第二回会議を評す』にみられる。
〔3〕 ここにいう「山」とは峨眉山のことであるか、実際には、ひろく中国西南部、西北部の山岳地帯をさしている。一九三八年、武漢が日本軍に占領されてからは、蒋介石自身とその指揮下の主力部隊は、これちの山岳地帯にひきこもって、解放区の軍民が敵後方で日本侵略者と困難な闘争をおこなうのを傍観していた。
〔4〕 抗日戦争前、中国共産党の指導する革命根拠地の多くは山岳地帯につくられていた。当時、蒋介石の支配の中心は、河川流域や沿海地帯の大都市にあった。毛沢東同志が、一方は「山の上」におり、一方は「水のほとり」にいたといっているのはそのためである。
〔5〕 抗日戦争の時期、抗日の前線は華北、華東、華中、華南にあった。日本侵略軍に占領されず、国民党が支配していた中国の西南部、西北部はふつう「大後方」とよばれていた。
〔6〕 一九四五年七月二十一日、国民党第一戦区司令長官胡宗南指揮下の臨時編成第五十九師団と騎兵第二師団は、突如、わが陝西・甘粛・寧夏辺区の関中分区にある淳化県の爺台山を攻撃してきた。二十三日にはさらに、予備第三師団を攻撃にくわわらせた。わが軍は、七月二十七日、主動的に爺台山とその西の四十一の村落から撤退した。国民党軍はひきつづき[木+旬]邑、耀県などの地方を襲撃した。わが軍は八月八日、国民党の侵入部隊に反撃をくわえ、爺台山地区をとりもどした。
〔7〕 国民党の連絡参謀とは、抗日戦争の時期に国民党政府から延安に派遣されて連絡にあたっていた要員のことである。一九四〇年十月十九日と十二月八日に、蒋介石は国民党軍の参謀総長何応欽と副参謀総長白崇禧の名で、前後二通の電報を発して、敵後方で抗戦を堅持している八路軍、新四軍をほしいままに中傷し、黄河以南の人民の抗日武装部隊に、期限つきで黄河以北に撤去することを強制する命令をくだした。つづいて国民党反動派は、新四軍の北上部隊を襲撃するという「安徽省南部事変」をおこした。中国共産党は当時、反共の高まりをひきおこした国民党反動派の代表人物として何応欽をあげたが、じっさいには蒋介石をさしていた。
〔8〕 「国民参政会」は、抗日戦争かはじまってから、国民党政府がもうけた一種の諮問機関であった。参政員はすべて国民党政府が「厳選」したもので、国民党員が大多数をしめ、中国共産党やその他の政党の代表はごく少数にすぎなかった。しかし、国民党政府は抗日諸政党の対等の地位と合法的地位をみとめず、また、それらの政党の代表が政党の代表という資格で「国民参政会」に参加することをゆるさなかった。国民党政府の公布した「国民参政会組織条令」なるものには、「かつて重要な文化団体あるいは経済団体に三年以上勤務して信望顕著なるもの、あるいは国事にはげんで多年信望の顕著なるもの」は国民参政会参政員になれる、という規定があった。当時、国民党は、この規定にしたがって、中国共産党の参政員を「厳選」した。
〔9〕 毛沢東同志が新華社にかわって書いた論評『蒋介石は内戦を挑発している』をさす。
〔10〕 白圭=晉城鉄道とは、山西省東南部の[示+”おおざと”]県の白圭から晉城にいたる、当時まだ完成していなかった鉄道のことである。
〔11〕 察哈爾は、もとは一つの省であったが、一九五二年に廃止された。熱河も、もとは一つの省であったが、一九五五年に廃止された。そして、この二つの省の管轄区域は、河北省、山西省、遼寧省、内蒙古自治区にそれぞれ編入された。
〔12〕 ここにいう二十一の県都とは、江四省の瑞金、会昌、尋[鳥+”おおざと”]、安遠、信豊、[”あまかんむり”の下に”一”、その下に”号の口のない字”]都、興国、寧都、広昌、石城、黎川、および福建省の建寧、泰寧、寧化、清流、帰化、竜岩、長汀、連城、上杭、永定をさす。
〔13〕 保安は陝西省西北部の県で、いまの志丹県である。中国共産党中央は、一九三六年七月のはじめから一九三七年一月まで保安にあったが、その後、延安にうつった。
〔14〕 ここにいう土塀がこいの部落とは、保安県の西南にあった旦八寨のことである。この部落には二百余戸の人家があり、ひじょうな要害の地であった。この地方の極悪地主で民団の首領をかねていた曹俊章は、反動武装力百余人をひきいて、長いあいだ、この部落を根城にしていた。赤軍はなんども包囲攻撃をしたが、攻め落とすことができなかった。一九三六年八月、赤軍は地方武装力をもってこれを包囲する一方、部落の基本大衆を獲得し、部落内の敵軍を瓦解させた。この年の十二月、曹俊章は少数の部下をつれて逃亡し、旦八寨は解放された。
〔15〕 明朝末期の朱柏蘆の著『治家格言』にみられる。
〔16〕 ここにいう「アメリカ人」とは、在延安米軍観察班班長バレット大佐のことである。この観察班は、当時対日作戦に参加していたアメリカ軍が、一九四四年、中国共産党の同意をえて、延安に派遣したものである。ハーレーは、アメリカ共和党の反動的政治家のひとりで、一九四四年九月、アメリ力大統領の私的代表の資格で中国にきた。そして、同年の末、中国駐在のアメリカ大使となった。本選集第三巻の『愚公、山を移す』注〔3〕を参照。
〔17〕 一九四五年八月の六日と九日に、アメリカは日本の広島と長崎に、それぞれ一発の原子爆弾を投下した。アメリカと国民党の宣伝機関はこれについて、日本政府が降伏したのはアメリカの原子爆弾をおそれたためだと、大いに宣伝につとめた。かれらはこうした宣伝によって、ソ連の参戦が日本の降伏にたいしてはたした決定的な役割をけなそうとした。
〔18〕 マウントバッテンは、当時、東南アジア連合軍の最高指揮官であった。一九四五年八月九日、かれはソ連の対日作戦参加を歓迎する談話を発表し、「原子爆弾によって極東の戦争を終わらせることができると考えるのは最大のあやまりである」といった。
① 本選集第一巻の『中国社会各階級の分析』訳注④を参照。
(一九四五年八月十三日)
これは、毛沢東同志が新華社にかわって書いた論評である。
国民党中央宣伝部のスポークスマンは談話を発表して、第十八集団軍の朱徳総司令が八月十日に延安の総司令部で発表した、敵軍・かいらい軍を期限つきで投降させよとの命令〔1〕を、「唐突で不法な行為」だといっている。こうした論評はでたらめもはなはだしい。この見解でいくと、朱徳総司令がポツダム宣言〔2〕と敵の降伏の意向にもとづいて、所属部隊に敵軍・かいらい軍の投降をうながすよう命令したのはむしろまちがいで、敵軍・かいらい軍に投降を拒否するよう勧告することこそ正しいし、合法的なのだ、という理屈になる。中国のファシストの頭目・暴君・人民の敵蒋介石が、まだ敵がほんとうに降伏をうけいれていないうちから、解放区の抗日部隊に「現在地にとどまって命令を待つべし」という「命令」までだして、その手をしばりあげ、敵の攻撃にまかせるようなことをするのもふしぎではない。また、おなじこのファシストの頭目が、解放区の抗日部隊には、敵軍・かいらい軍にたいして「勝手な行動」をとるのを許さず、いわゆる地下軍(実際には「曲線救国」〔3〕をやっているかいらい軍や、敵軍・かいらい軍と合流している戴笠系の特務〔4〕である)やかいらい軍には「地方の治安維持の任にあたれ」という「命令」までだしたのもふしぎではない。このような敵味方の転倒は、まさに蒋介石の自供であり、終始一貫、敵軍・かいらい軍と結託して、自分と異なる立場のものを一掃しようとしてきたかれの腹の中をあらいざらい如実にえがきだしている。しかし、中国解放区の人民抗日部隊は、そうした悪らつな計略にはぜったいにのらない。かれらは、朱徳総司令の命令こそ、「日本国が抵抗をやめるまで、同国にたいし戦争を遂行する」というポツダム宣言の第二条の規定をだんこ実行するものであり、蒋介石の「命令」なるものこそ、かれ自身の署名したポツダム宣言に違反するものであることを知っている。この点を比較しさえすれば、「連合国の共同協定の規定を厳格にまもって」いないのはだれであるかがすぐわかる。
国民党中央宣伝部スポークスマンの論評と蒋介石の「命令」は、徹頭徹尾、内戦を挑発するものであって、それは、国の内外の注意力が日本の無条件降伏に集中しているこのさいに、抗戦が終わったらすぐ内戦にうつれるような口実をみつけようというねらいをもっている。実のところ、国民党反動派はあわれなほど間がぬけている。かれらは、敵軍・かいらい軍の投降と武装解除についての朱徳総司令の命令を口実としてみつけだした。これがりこうな口実といえるだろうか。いえない。このようにして口実をみつけるのは、国民党反動派が敵軍やかいらい軍を同胞よりも親しいものと考え、同胞を敵軍やかいらい軍よりも憎むべきものと考えていることを立証するだけである。淳化事件〔5〕は、あきらかに、胡宗南軍が陝西・甘粛・寧夏辺区に攻めこんで内戦を挑発した事件であるのに、国民党反動派はこれを中共の「デマ攻勢」だといっている。淳化事件というこの口実は、国民党反動派がやっとのことでみつけだしたものではあるが、内外の世論にたちまち見破られてしまった。そこで、こんどは、八路軍、新四軍は敵軍・かいらい軍に武器のひき渡しを要求すべきではないといいだした。八年の抗戦で、八路軍、新四軍は蒋介石と日本軍によるはさみ撃ちや包囲攻撃の苦しみをなめつくしてきた。抗戦はもうすぐ終わろうとしているが、蒋介石はこんどは、武器を八路軍、新四軍にひき渡さないよう日本軍に(そのうえかれの親愛なるかいらい軍にも)暗示して、武器はこのわたし蒋介石にしかひき渡してはならないといっている。蒋介石はその先をいわなかったが、それはつまり、その武器を手にして、わたしは共産党をやっつけ、また中国と世界の平和を破壊することができる、ということばである。そうではないだろうか。日本軍には武器を蒋介石にひき渡させ、かいらい軍には「地方の治安維持の任」にあたらせれば、どういう結果になるか。結果は一つしかない。すなわち、南京と重慶の合流〔6〕、蒋介石とかいらい政権の協力が、「中日提携」、日本とかいらい政権の協力にとってかわるだけであり、蒋介石の反共建国が、日本侵略者と汪精衛の反共建国にとってかわるだけである。これでもポツダム宣言にそむかないといえるだろうか。いったん抗戦が終われば、すぐに内戦の危険が全国人民の重大な脅威になるという点に、まだ疑問の余地があるだろうか。われわれはここに、全国の同胞と世界の連合諸国にうったえる。いっしょに立ちあがって、解放区の人民とともに、世界の平和を危うくするこの中国の内戦をだんこ阻止しよう。
日本軍・かいらい軍の降伏を受理する権利は、はたしてだれにあるのか。中国解放区の抗日部隊は、国民党政府からなんの補給もうけず、また承認もされなかったという条件のもとで、まったく自分自身の努力と人民の支持だけにたよって、独力で、広大な国土と一億以上の人民を解放し、日本の中国侵略部隊の五六パーセントとかいらい軍の九五パーセントを相手にたたかってきた。この軍隊がなかったならば、中国にはこんにちの局面がぜったいにあらわれなかったであろう。卒直にいって、中国の領土内で、敵軍・かいらい軍の降伏を受理する権利をもっているのは、解放区の抗日部隊だけである。蒋介石はといえば、かれのとってきたのは手をこまねいて勝利を待つという政策であり、じっさいに、敵軍・かいらい軍の降伏を受理する権利は少しももっていない。
われわれは、全国の同胞と全世界の人民に宣言する。重慶の統帥部は中国人民と中国の真の抗日部隊を代表することはできない。中国人民は、中国解放区の抗日部隊が朱徳総司令の指揮のもとで、直接その代表を派遣して、四大連合国による日本の降伏の受理と日本の軍事管理に参加する権利をもつことと、将来の講和会議に参加する権利をもつことを要求する。それが実行されなければ、中国人民は、きわめて不当だと考えるであろう。
〔1〕 一九四五年八月十日、延安総司令部の朱徳総司会は、日本侵略者の降伏の受理について、各解放区のすべての武装部隊に命令を発した。その全文はつぎのとおりである。「日本はすでに無条件降伏を宣言した。連合国は、ポツダム宣言を基礎に、降伏受理の方法を協議することになるであろう。そこで、わたしは、各解放区のすべての武装部隊につぎの命令を発する。一、各解放区のいかなる抗日武装部隊も、ひとしくポツダム宣言の規定にしたがって、その付近の各部市や主要交通線の敵軍とその指揮機関にたいして、期限つきでその武器装備の全部をわが作戦部隊にひき渡すようにという、そしてまた武装解除後には、わが軍が捕虜優待条例にしたかってその生命の安全を保証するという通牒をだすことができる。二、各解放区のいかなる抗日武装部隊も、ひとしくその付近のいっさいのかいらい軍とかいらい政権にたいして、敵の降伏調印以前に部隊をひきいて帰順し、編成がえまたは解散の命令をまつようにという、またその期限をすぎたばあいには武器装備の全部をひき渡さなければならないという通牒をだすことができる。三、各解放区のすべての抗日武装部隊は、もし敵やかいらい政権の武装部隊か投降、武装解除を拒否したばあいは、断固としてこれを殲滅すべきである。四、わか軍は、敵軍・かいらい軍の占拠するいかなる都市や主要交通線にたいしても、部隊を派遣してこれを接収し、占領し、軍事管理をおこない、秩序を維持するとともに、また同地区のいっさいの行政事務の管理の任にあたる要員を任命する完全な権限をもつ。いかなる破壊事件あるいは反抗事件が発生したばあいにも、ひとしく民族の裏切り者として断罪すべきである。」ついで、八月十一日、延安の総司令部はさらに六つの命令をつぎつぎに発して、山西・綏遠解放区の賀竜同志指導下の武装部隊、山西・察哈爾・河北解放区の聶栄臻同志指導下の武装部隊、河北・熱河・遼寧解放区の武装部隊には、内蒙古と東北地方にむかって進軍するよう命じ、山西解放区の武装部隊には、大同=風陵渡鉄道沿線および汾河流域における日本軍とかいらい軍の一掃を命じ、各解放区の武装部隊には、敵の占拠するいっさいの主要交通線に積極的な攻撃を展開して、日本軍とかいらい軍に投降をせまるよう命令した。各解放区の解放軍は、断固としてそれらの命令を執行し、大きな勝利をおさめた。
〔2〕 一九四五年七月二十六日、中、英、米三国がポツダム会議にだした、日本に降伏を要求する宣言のことである。そのおもな内容は、日本の軍国主義は永久に一掃されなければならない、日本の軍隊は完全に武装解除されなければならない、日本の軍事工業は解体されなければならない、日本の戦犯は裁判に付されなければならない、日本はこれまでに略奪した土地、たとえば朝鮮、中国の満州、台湾、澎湖列島などを放棄しなければならず、日本の領土は本州、北海道、九州、四国およびその他の小島嶼の範囲にかぎられるとするカイロ宣言は履行されなければならない、連合国軍は日本に民主政府が樹立されるまで日本を占領する、というものであった。ソ連も、八月八日に日本にたいして宣戦したのち、この宣言に署名した。
〔3〕 「曲線救国」というのは、抗日戦争の時期に国民党反動派が、日本に降伏して共産党に反対するためにとった卑劣な手段のことである。国民党反動派はその一部の軍隊や官吏を日本侵略者に投降させてかいらい軍やかいらい政府官史にしたて、日本軍といっしょに解放区を攻撃させ、これを「曲線救国」と詐称した。
〔4〕 戴笠系の特務とは、国民党軍事委員会調査統計局長の戴笠をかしらとする特務系統で、国民党の膨大な特務組織の一つである。
〔5〕 淳化事件とは、一九四五年七月に国民党の軍隊が陝西・甘粛・寧夏辺区関中分区の淳化、[木+旬][”口”の下に”巴”]、耀県などを侵犯した事件である。本巻の『抗日戦争勝利後の時局とわれわれの方針』注〔6〕にみられる。
〔6〕 「南京」とは当時南京にあった民族の裏切り者汪精衛一味のかいらい政権のこと、「重慶」とは当時重慶にあった蒋介石政権のこと、「南京と重慶の合流」とは当時日本帝国主義と国民党親日派が策動していた政治的陰謀のことである。
(一九四五年八月)
この二通の電報は、毛沢東同志が第十八集団軍総司令にかわって書いたものである。当時、蒋介石政府は、日本侵略者か降伏を宣言していながら実際にはまだ降伏していないときに、アメリカ帝国主義の武力による援助をえて、日本の降伏を受理する権利を独占するとともに、降伏受理を口実に、大軍を移動させて解放区にせまり、積極的に反革命の内戦を準備していた。毛沢東同志が一通目の電報を書いた目的は、蒋介石の反革命的な正体を暴露し、蒋介石の内戦の陰謀を警戒するよう全国の人民を教育することにあった。二通目の電報では、蒋介石一味の内戦準備の陰謀をさらに暴露するとともに、内戦をくいとめることについての中国共産党の六項目の主張を提起している。おなじ目的から、毛沢東同志はまた新華社にかわって、本巻所載の二つの論評『蒋介石は内戦を挑発している』と『蒋介石のスポークスマンの談話を評す』を書いた。中国共産党か蒋介石の反動的な気炎にけっしてたじろがない、断固とした、果断な立場をとったことによって、解放区と解放軍は急速に拡大し、蒋介石は、中国の内戦に反対する国内国外の強大な政治的圧力のもとに、やむなく戦術をあらため、平和のよそおいをこらし、毛沢東同志を重慶にまねいて和平交渉をすすめた。
われわれは重慶放送をつうじて中央通信社のふたつのニュースをきいた。ひとつは貴下がわれわれにあたえた命令であり、ひとつは貴下が各戦区の将兵にあたえた命令である。貴下がわれわれにあたえた命令には、「第十八集団軍所属のすべての部隊は、現在地にとどまって命令を待つべし」とあり、そのほかに、敵の兵器を接収してはならない、というようなことものべられている。貴下が各戦区の将兵にあたえた命令は、重慶十一日発中央社電によれば、こうのべている。「最高統帥部はきょう電報で、各戦区の将兵に、戦闘への努力を強め、いっさい、既定の軍事計画と命令にしたがって積極的に前進し、いささかも怠ることなきよう命令した」と。 われわれは、このふたつの命令は相矛盾するものと考える。前の命令によれば、「とどまって命令を待つ」ことになり、もう進攻もしない、戦争もしない、ということになる。現在、日本侵略者はまだ実際には降伏しておらず、しかも、四六時中、中国人を殺し、中国の軍隊と戦い、ソ連、アメリカ、イギリスの軍隊と戦っており、ソ米英の軍隊も、四六時中、日本侵略者と戦っているのに、なぜ貴下はわれわれに、戦ってはならないといわれるのか。あとの命令なら、ひじょうによいとわれわれは考える。「戦闘を強め、積極的に前進し、いささかも怠ってはならぬ」といっているが、これなら結構なことである。残念ながら、貴下はこの命令を貴下の直系の軍隊にあたえただけで、われわれにあたえたのではなく、われわれにあたえたのは、まったく別のものであった。朱徳は八月十日に中国各解放区のすべての抗日部隊に命令〔1〕をくだしたが、これこそ「戦闘を強める」趣旨のものであった。さらに、もうひとつ、「戦闘を強める」にあたっては、日本侵略者に投降を命じるよう、また敵軍・かいらい軍の兵器・装備などを接収するようにと抗日部隊に命じているが、これはひじょうによいことではなかろうか。疑いもなく、それはひじょうによいことであり、疑いもなく、それは中華民族の利益に合致するものである。しかし、「とどまって命令を待つべし」というのは、あきらかに民族の利益に合致しない。われわれの考えでは、貴下がこの命令をくだしたのはまちがいであり、しかもそのまちがいは実にひどいもので、われわれとしては、この命令をだんこ拒否するむね貴下に表明せざるをえない。なぜなら、貴下がわれわれにあたえたこの命令は、不公平であるだけでなく、中華民族の民族的利益にもそむいており、日本侵略者および祖国にそむいた民族裏切り者どもを利するだけだからである。
われわれの共同の敵――日本政府が、すでにポツダム宣言を受諾して降伏を宣言したが、実際にはまだ降伏していないこのときにあたり、わたしは、中国解放区、中国被占領区のすべての抗日武装力と二億六千万の人民を代表して、ここに貴下にたいし、つぎの声明と要求を提出するものである。
抗日戦争が勝利のうちに終わろうとしているこのときにあたり、わたしは、現在の中国戦場におけるつぎのような事実について貴下の注意をうながすものである。それは、敵軍・かいらい軍に占領され、貴下にみすてられた広大な被占領区内で、われわれが、貴下の意志にそむき、八年にわたる苦しい戦いをへて、百万平方キロに近い土地を奪回し、一億をこえる人民を解放し、百万をこえる正規部隊と二百二十余方の民兵を組織し、遼寧、熱河、察哈爾、綏遠、河北、山西、陝西、甘粛、寧夏、河南、山東、江蘇、安徽、湖北、湖南、江西、浙江、福建、広東の十九の省にわたって十九の大きな解放区〔2〕をうちたて、そのうち少数の地区をのぞいた大部分の地区は、一九三七年の七・七事変いらい敵軍・かいらい軍に占領された中国の都市、主要交通線および沿海地帯を包囲している、というこの事実である。このほか、われわれはまた、中国の被占領区(ここには一億六千万の人口がある)で、広範な地下軍を組織し、敵・かいらい勢力に打撃をあたえてきた。戦闘においては、われわれはいまも、中国(東北地方をのぞく)を侵略している日本軍の六九パーセントおよびかいらい軍の九五パーセントを相手に戦い、これを包囲している。ところが、貴下の政府と軍隊は、これまでずっと、手をこまねいて勝利を待ち、実力を保存して内戦を準備するという方針をとっており、わが解放区とその軍隊を承認することも、これに補給することもしなかったばかりか、九十四万の大軍をもってわが解放区とその軍隊を包囲し攻撃した。中国解放区の全軍民は敵軍・かいらい軍と貴下の軍隊の双方からはさみ撃ちされるという苦しみをなめつくしてきたが、抗戦、団結、民主を堅持する意志は、いささかもおとろえなかった。中国解放区の人民と中国共産党は、国内の紛争を停止し全中国人民の抗日勢力を動員し統一して、抗日戦争を勝利にみちびき、戦後の平和を保証するために、各党派による会議を招集して、民主的な挙国一致の連合政府をつくるよう、貴下と貴下の政府にこれまでいくたびも提案してきたが、貴下と貴下の政府によってことごとく拒否された。これらはすべて、われわれのはなはだ不満とするところである。
現在、敵国の降伏について調印がおこなわれようとしているのに、貴下と貴下の政府は依然としてわれわれの意見を無視しており、しかも、八月十一日には、わたしにきわめて不当な命令をくだし、また、敵兵器の接収を口実に、大挙して解放区を圧迫するよう貴下の軍隊に命令した。こうして内戦の危機はかってないほど重大化している。こうした種々の点からして、われわれは貴下および貴下の政府につぎの要求を提出せざるをえない。
一、わたしは、貴下と貴下の政府およびその統帥部が、日本およびかいらい側の降伏を受理し、また降伏受理後のいっさいの協定と条約を締結するさいには、貴下が事前にわれわれと相談し、意見の一致をはかられるよう要求する。なぜなら、貴下と貴下の政府は人民の不満とするところであり、中国解放区、中国被占領区の広範な人民とすべての抗日人民武装力を代表することができないからである。協定や条約のなかに、中国解放区、中国被占領区のすべての抗日人民武装力についてふれた箇所がありながら、事前にわれわれの同意をえていないばあいには、われわれは自己の発言権を留保するものである。
二、中国解放区、中国被占領区のすべての抗日人民武装力は、ポツダム宣言および連合国のさだめた降伏受理規定〔3〕にもとづき、われわれの包囲している日本軍・かいらい軍の降伏を受理し、その兵器・資材を接収するとともに、降伏受理後に連合国のさだめるいっさいの規定を、責任をもって実施する権利をもつ。わたしは、八月十日、中国解放区の軍隊にたいし、敵軍にむかって進撃するようつとめるとともに、敵軍の降伏を受理する準備をととのえることを命令した。八月十五日、わたしは、敵軍の最高指揮官岡村寧次にたいし、その部隊をひきいて降伏するよう命令した〔4〕。だが、これは解放区の軍隊の作戦範囲内だけにかぎられ、他の地域に干渉するものではない。わたしのこれらの命令は、きわめて合理的で、中国と連合国の共同の利益にひじょうにかなっているものと考える。
三、中国解放区、中国被占領区の広範な人民とすべての抗日武装力は、当然、連合国による敵降伏の受理と、敵国降伏後の事務処理に自己の代表を派遣して参加させる権利をもつ。
四、中国の解放区とすべての抗日武装力は、当然、自己の代表団を選出して、将来、日本の処理にかんする講和会議および国際連合の会議に参加させる権利をもつ。
五、内戦をくいとめるよう貴下に要請する。その措置としては、およそ解放区の軍隊に包囲されている敵軍・かいらい軍は、解放区の軍隊がその降伏を受理し、貴下の軍隊は貴下の軍隊の包囲している敵軍・かいらい軍の降伏を受理することとする。これはあらゆる戦争の通例であるばかりでなく、とくに、内戦をさけるためにはかならずそうすべきである。もし、貴下がそうしないなら、いきおい好ましくない結果をまねくであろう。この点について、ここに厳重な警告を発し、貴下がこれをなおざりにすることのないようのぞむものである。
六、貴下にたいして、一党独裁の廃止、各政党による会議の招集、民主的な連合政府の樹立、汚職官吏とすべての反動分子の罷免、民族裏切り者の処罰、時務機関の廃止、各政党の合法的地位の承認(中国共産党とすべての民主諸政党はいまなお貴下と貴下の政府によって非合法とされている)、人民の自由を弾圧するいっさいの反動的法令の廃止、中国解放区の民選政府と抗日軍隊の承認、解放区を包囲している軍隊の撤退、政治犯の釈放、経済改革その他各種の民主改革などをただちに実行することを要請する。
このほか、わたしは、貴下が八月十一日にわたしにあたえた命令に回答する電報を八月十三日に貴下あてにおくったが、すでにうけとられたものとおもう。わたしはここに、貴下のあの命令はまったくのあやまりであるということをかさねて声明する。貴下は八月十一日、わたしの軍隊に、「現在地にとどまって命令を待ち」、敵を攻撃しないよう命じた。しかし、八月十一日どころか、きょう(八月十六日)になってもなお、日本政府は口先で降伏を宣言しているだけで、実際には降伏しておらず、降伏協定はまだ調印されておらず、降伏の事実はまだうまれていない。わたしのこの見解は、英米ソ各連合国の見解と完全に一致している。貴下がわたしに命宅をくだしたその日(八月十一日)、ビルマ前線のイギリス軍当局は「対日戦争はいまなおおこなわれている」と宣言し、アメリカ軍の最高指揮官ニミッツ〔5〕は「戦争状態が存在しているというだけでなく、さらに、あらゆる壊滅的結果のともなう戦争がつづけられなければならない」と宣言し、ソ連の極東赤軍は「敵を容赦なく粉砕しなければならない」と宣言した。八月十五日、赤軍参謀総長アントノフ大将は、またつぎのように声明した。「八月十四日、日本の天皇が発表した降伏声明は、無条件降伏の一般的宣言にすぎず、敵対行動停止の命令はまだ武装部隊に発せられていない。そのうえ、日本軍隊はなおも抵抗をつづけている。したがって、日本の実際上の降伏はまだ実現していない。日本の天皇がその軍隊に、敵対行為をやめ武器を捨てるよう命令し、しかもその命令が実際に執行されたときでなければ、われわれは、日本軍隊が降伏したものとは認めない。上述の諸点にかんがみ、ソ連極東軍は、日本にたいする進攻作戦をつづけるであろう」と。これらのことからみても、連合諸国の統帥者のうちで、まったくあやまった命令をくだしているのは貴下ひとりだけである。真下のこのあやまりは貴下の私心からうまれたものであり、きわめて重大な性質のものであって、貴下の命令は敵を利するものであると考える。したがって、わたしは中国と連合国の共同の利益の立場にたち、貴下が公然とあやまりを認めるとともにこのあやまった命令を公然と撤回するまで、断固として徹底的に貴下の命令に反対するものである。わたしはここにひきつづき、わたしが統率する軍隊にたいし、敵が実際に敵対行為をやめて武器をさしだし、祖国のすべての国土が完全に回復されるまで、ソ連、アメリカ、イギリスの軍隊に呼応してだんこ敵にむかって進攻するよう命令するものである。わたしは一愛国軍人として、そうせざるをえないことを貴下に声明する。
以上の諸項について、貴下が一日もはやく回答されることをのぞむ。
〔1〕 本巻の『蒋介石は内戦を挑発している』注〔1〕にみられる。
〔2〕 十九の解放区とは、陝西・甘粛・寧夏解放区、山西・綏遠解放区、山西・察哈爾・河北解放区、河北・熱河・遼寧解放区、川西・河北・河南解放区、河北・山東・河南解放区、山東解放区、江蘇省北部解放区、江蘇省中部解放区、江蘇省南部解放区、淮河北部解放区、淮河南部解放区、安徽省中部解放区、浙江解放区、広東解放区、海南島解放区、湖南・湖北・江西解放区、湖北・河南・安徽解放区、河南解放区をさす。
〔3〕 一九四五年八月十日、日本政府はソ連、中国、アメリカ、イギリスの四ヵ国に降伏を申しでた。十一日、四ヵ国政府は回答文のなかで、「日本のすべての陸海空軍当局およびその支配下にあるすべての部隊は(それがどこにいようとも)」、「積極的な活動を停止し、武器をさしださ」なければならない、と規定した。
〔4〕 岡村寧次は、当時、日本の中国侵略軍総司令官であった。岡村寧次にあたえた朱徳総司令の命令はつぎのとおりである。「(一)日本政府はすでに、正式にポツダム宣言の条項をうけいれて降伏を宣言した。(二)貴下は貴下の指揮下にあるすべての部隊に、いっさいの軍事行動を停止し、中国解放区の八路軍、新四軍および華南抗日縦隊の命令をまってわが方に降伏するよう命令すべきである。ただし、国民党政府の軍隊によって包囲されている部分をのぞく。(三)降伏の件にかんしては、つぎのようにすべきである。華北における日本軍については、下村定将軍にたいし、八路軍の阜平地区に代表を派遣して聶栄臻将軍の命令をうけるよう命じること、華東における日本軍については、貴下が直接代表を新四軍本部所在地の天長地区に派遣して陳毅将軍の命令をうけること、湖北、河南両省における日本軍については、武漢にいる代表にたいし、新四軍第五師団の大別山地区におもむいて李先念将軍の命令をうけるよう命じること、広東における日本軍については、貴下の指名する広州にいる代表が華南抗日縦隊の東莞地区におもむいて曽生将軍の命令をうけるようにすること。(四)華北、華東、華中および華南におけるすべての日本軍(国民党軍に包囲されている日本軍をのぞく)は、いっさいの兵器、資材をしばらく保存して、わが軍が降伏を受理するのを待つようにし、八路軍、新四軍および華南抗日縦隊以外の命令にしたがってはならない。(五)華北、華東のすべての飛行機、艦船は、そのまま現在地に停留させること。ただし、黄海、渤海に面した中国海岸の艦船は、それぞれ連雲港、青島、威海衛、天津に集結させること。(六)物資、施設はいっさい破壊してはならない。(七)貴下および貴下の指揮する華北、華東、華中および華南の日本軍指揮官は、上述の命令の執行にたいして、絶対的な責任を負うこと。」
〔5〕 ニミッッは、当時のアメリカ太平洋艦隊兼太平洋戦区司令長官であった。
(一九四五年八月十六日)
これは、毛沢東同志が新華社にかわって書いた論評である。
蒋介石のスポークスマンは、十五日午後の重慶での記者会見で、共産党が蒋介石委員長の朱徳総司令にたいする命令に違反した件なるものについてのべ、そのさい、「委員長の命令には、かならず服従しなければならない」、「違反者は人民の共同の敵である」と語った。新華社記者はつぎのように指摘する。これは蒋介石が公然と発した全面的内戦の信号である。蒋介石はさる十一日、日本侵略者を最後的に一掃するこの重大なせとぎわに八路軍・新四軍およびすべての人民軍隊が日本軍・かいらい軍を攻撃することを禁ずるという、民族を裏切る命令を出した。この命令は、もちろん絶対にうけいれられないものであり、また、絶対にうけいれてはならないものであった。つづいて蒋介石は、かれのスポークスマンをつうじて、中国人民の軍隊を「人民の共同の敵」であると宣言した。これは蒋介石が中国人民にむかって内戦を宣言したことをしめすものである。蒋介石の内戦の陰謀は、もちろん十一日の命令にはじまったわけではなく、八年の抗戦をつうじて、かれの一貫した計画であった。この八年間に蒋介石は、一九四〇年、一九四一年、一九四三年と三回にわたって大がかりな反共の高まり〔1〕をひきおこしては、そのたびに全国的内戦にまでもっていこうとした。ただそれが、中国人民と連合諸国の人びとの反対によって実現をみなかっただけであり、蒋介石はそれをくやんできた。そこで、蒋介石は全国的内戦を抗戦終結のときまでもちこさざるをえなくなり、こうして出されたのが今月十一日の命令と十五日の談話である。蒋介石は内戦をひきおこすために、これまでいろいろなことばを発明してきた。たとえば「異見」「奸党」「奸軍」「叛軍」「奸区」「匪区」「軍令、政令に服従しない」「封建的割拠」「抗戦を破壊する」「国家を危うくする」とか、または、中国にはこれまで「共産党討伐」があっただけで、「内戦」はなく、したがって「内戦」は今後もありえないなどということばがそれである。今度いくらか変わっている点は、「人民の共同の敵」という新しいことばが一つふえたことである。しかし、人びとはこの発明を愚かなものと感じるにちがいない。それというのも、中国では、「人民の共同の敵」といいさえすれば、それがだれをさすかはみんなが知っているからである。中国にはこういう人間がいる。かれは孫中山の三民主義と一九二七年の大革命を裏切った。かれは中国人民を十年にわたる内戦の血の海につきおとし、そのために日本帝国主義の侵略をまねいた。するとかれは肝をつぶして一目散に逃げだし、一味徒党をひきつれて黒竜江から貴州省まで退却した。かれは手をこまねいて勝利を待った。はたして勝利がおとずれた。かれは大手をふって南京にかえるために、人民の軍隊には「とどまって命会を待つ」よう命じ、敵軍や民族裏切り者には「治安を維持する」よう命じた。これだけいえば、それが蒋介石だということは、中国人民にはすぐわかる。蒋介石はこうしたことをすべてやってのけたのである。かれが人民の共同の敵かどうかという問題に、まだ議論があるだろうか。議論はある。人民はそうだといい、人民の共同の敵はそうでないという。こういった議論があるだけである。人民大衆のあいだでは、そういう議論もますます少なくなってきている。いま問題なのは、この人民の共同の敵が内戦をやろうとしていることである。人民はどうしたらよいか。新華社記者はつぎのように指摘する。蒋介石が内戦をひきおこすことにたいして、中国共産党のとっている方針は、明確であり一貫している。つまり、内戦に反対することである。中国共産党は、日本帝国主義が中国に侵入しはじめたときからすでに、内戦をやめ一致して外敵にあたるよう要求してきた。そして、一九三六年から一九三七年にかけては、おどろくほどの努力をはらって、蒋介石にわれわれの主張をうけいれさせ、これによって抗日戦争が実現された。抗日の八年のあいだ、中国共産党は、内戦の危険をくいとめるよう、人民の喚起をうながすのを一度もおこたったことはなかった。昨年からは、共産党はさらに、抗戦の終わるのを侍って全国的な内戦をひきおこそうという、蒋介石によってたくらまれていた大陰謀について、再三再四、人びとの注意をよびおこしてきた。共産党は、中国人民ならびに中国の平和に関心をよせている全世界の人びとと同様に、新しい内戦を災厄だと考えている。しかし、共産党は、内戦はやはりくいとめることができるし、またくいとめなければならないと考えている。共産党が連合政府の樹立を主張しているのは、内戦をくいとめるためである。現在、蒋介石はこの主張をはねつけ、いまにも内戦がおこりそうな状態をつくりだしている。しかし、蒋介石のその手を封ずる方法はじゅうぶんにある。断固として、すみやかに、人民の民主勢力の拡大につとめ、人民の手で敵の占領している大都市を解放し、敵軍・かいらい軍の武装を解除し、もしこの暴君・人民の敵があえて人民を侵してくるならば、自衛の立場から、内戦挑発者に勝手なふるまいをさせないよう、これにだんこ反撃をくわえる。これがその方法であり、またこの方法しかないのである。新華社記者は、全中国と全世界がつぎのようなもっともそらぞらしい、もっとも恥しらずな欺瞞に反対するようよびかける。その欺瞞というのは、蒋介石が中国人民にたいし、敵占領下の大都市を解放することを禁じ、敵軍・かいらい軍の武装を解除し民主政治を確立することを禁じ、かれみずからそれらの大都市にでかけていって、敵・かいらい勢力の支配を「世襲」(破壊するのではなく)すれば、かえって中国の内戦はさけられる、というものである。新華社記者はつぎのように指摘する。これは欺瞞であり、こうした欺瞞は、あきらかに中国人民の民族的利益と民主的利益に反するばかりでなく、中国近代史の全事実にまっこうから反するものである。つぎのことを永久に心にとめておかなければならない。一九二七年から一九三七年にかけて蒋介石が十年の内戦をおこなったのは、大都市が蒋介石の手中にはなくて共産党の手中にあったからではない。まったくその逆で、一九二七年からこんにちまで、大都市は一つとして共産党の手中にあったことはなく、蒋介石の手中または蒋介石からそれをゆずり渡された日本と民族裏切り者の手中にあったからこそ、内戦が全国的な規模で十年間もおこなわれ、しかも、局部的にこんにちまでつづいているのである。つぎのことも永久に心にとめておかなければならない。十年の内戦が停止されたのは、また、抗戦中の三回にわたる反共の高まりやその他の数しれぬ挑戦(さいきんの陝西・甘粛・寧夏辺区南部への蒋介石の侵犯事件〔2〕にいたるまで)がくいとめられたのは、蒋介石の力が強大だったからではなく、まったくその逆で、蒋介石の力が相対的にそれほど強大でなく、共産党と人民の力が相対的に強大だったからである。十年の内戦は、全国の、平和をのぞみ戦争をおそれる人びとのうったえ(たとえば、かつての「内戦廃止大同盟」〔3〕などのうったえ)によってやんだのではなく、中国共産党の武力による要求や、張学良、楊虎城の指導する東北軍、西北軍の武力による要求①によってやんだのである。三回にわたる反共の高まりやその他の数しれぬ挑戦は、共産党のきりのない譲歩と服従によって撃退されたのではなく、共産党が「相手が侵してこなければこちらも侵さない、相手が侵してくれはこちらもかならず侵す」〔4〕という厳正な自衛の態度を堅持したことによって撃退されたのである。もし共産党が、少しの力ももたず、少しの気骨もなく、民族と人民の利益のためにたたかいぬくことをしなかったら、どうして十年の内戦を終わらせることができただろうか。どうして抗日戦争をはじめることができただろうか。たとえはじめたとしても、どうしてこんにちの勝利まで堅持することができただろうか。また、どうして蒋介石のようなやからがこんにちまで無事に生きのび、前線からあれほどはなれた山奥で、命令とか談話とかを発表することができただろうか。中国共産党はだんこ内戦に反対するものである。「内部の平和状態を確立し」、「民衆のあいだのすべての民主的な人びとの代表が広範に参加する臨時政府を樹立するとともに、できるだけはやく、自由選挙をつうじて、人民の意志に責任を負う政府の樹立を確実に保証する」こと、これはソ米英三国がクリミアでのべたことばである〔5〕。中国共産党はまさにこの主張、つまり「連合政府」の主張を堅持している。この主張が実現すれば、内戦をくいとめることができる。その条件は力をもつことである。全人民が団結して自己の力を強大にすれば、内戦はくいとめることができる。
〔1〕 蒋介石がひきおこした三回にわたる大がかりな反共の高まりの経過については、本選集第三巻の『国民党中央執行委員会第十一回全体会議と第三期国民参政会第二回会議を評す』にみられる。
〔2〕 一九四五年七月、国民党軍が陝西・甘粛・寧夏辺区関中分区の淳化、[木+旬][”口”の下に”巴”]、耀県などの地方を襲撃した事件をさす。本巻の『抗日戦争勝利後の時局とわれわれの方針』注〔6〕にみられる。
〔3〕 「内戦廃止大同盟」は、一九三二年八月に上海で成立したもので、主として一部のブルジョア人士によって構成されていた。かれらは「内戦をなくし、ともに外侮をふせぐ」ことを主張する宣言を発表した。
〔4〕 本選集第二巻の『中央通信社、掃蕩報、新民報の三記者との談話』にみられる。
〔5〕 これらのことばは、一九四五年二月十一日のソ米英三国クリミア(ヤルタ)会議のコミュニケからの引用である。
① 本選集第一巻の『蒋介石の声明についての声明』注〔1〕にみられる。
(一九四五年八月二十六日)
これは、毛沢東同志が蒋介石と和平交渉をおこなうため重慶へ出発する二日前に、中国共産党中央のために起草した党内通達である。中国共産党と中国の広範な人民が蒋介石のたくらむ内戦の陰謀に断固として反対していたため、また、アメリカ帝国主義が当時はまだ、蒋介石の内戦政策と専制政策に一致して反対していた世界の民主的世論の手前をはばかっていたためもあって、蒋介石は一九四五年八月十四日、二十日、二十三日の三回にわたり、毛沢東同志に和平交渉のため重慶をおとずれるよう要請する電報をおくった。当時の中国駐在アメリカ大使ハーレーも、このことで八月二十七日に延安にやってきた。中国共産党は、できるかぎりの手をつくして平和をかちとるため、また、平和をかちとる過程でアメリカ帝国主義と蒋介石の正体を暴露し、これによって広範な人民を結集し教育するため、毛沢東、周恩来、王若飛の三同志を重慶に派遣して国民党と和平交渉をおこなうことを決定した。毛沢東同志の起草したこの通達は、日本の降伏宣言俊二週間のあいだの中国情勢の発展を分析し、中国共産党中央の和平交渉にかんする方針、その交渉のなかでおこなう用意のある若千の譲歩、その交渉の結果うまれる二つの可能な状況にたいする対策について説明し、華北、華東解放区と華中、華南解放区での闘争についてそれぞれ原則的な指示をあたえ、さらに、全党にたいし、交渉をやっているからといって蒋介石にたいする警戒と闘争を絶対にゆるめてはならないということを教えている。毛沢東同志らは八月二十八日に重慶につき、自民党と四十三日間にわたって交渉をすすめた。この交渉では、「国共双方代表会談記録要綱」(すなわち「双十協定」)の発表という結果をみたにすぎなかったが、政治的には中国共産党がきわめて大きな主動性を獲得し、国民党は受動的な立場におちいることになった。したがって、この交渉は成功であった。十月十一日、毛沢東同志は延安に帰った。周恩来、王若飛の二同志はなお、重慶にのこって交渉をつづけた。この交渉の結果については、本巻の『重慶交渉について』を参照されたい。
日本侵略者がたちまち降伏したため、全情勢は一変した。蒋介石が敵軍の降伏を受理する権利を独占したため、大都市や主要交通線は、当分(一定段階のあいだ)われわれのものになる見込みがない。しかし、華北方面では、われわれはなお、あくまでも争い、獲得できるところはすべて、全力をあげて獲得しなければならない。この二週間に、わが軍は大小五十九の都市と広大な農村をとりもどして、以前からのものを合わせると、百七十五の都市をもっという偉大な勝利をおさめた。華北方面では、威海衛、烟台、竜□、益都、[シ+”巛”の下に”田”]川、楊柳青、畢克斉、博愛、張家口、集寧、豊鎮などをとりもどして、わが軍はすでに華北を震憾させており、長城の線までおしよせたソ連軍やモンゴル軍の勢いとあいまって、わが党の有利な地位をつくりだしている。今後の一時期は、なおひきつづき攻勢に出て、できるかぎり、北平=包頭鉄道、大同=風陵渡鉄道北部区間、石家荘=太原鉄道、徳州=石家荘鉄道、白圭=晉城鉄道、道口=清化鉄道を奪取し、北平=瀋陽、北平=漢□、天津=浦口、青島=済南、天水=連雲港、上海=南京の各鉄道を切断し、たとえ一時的にでも、掌握できるところはすべて掌握しなければならない。同時に、必要な力を投じて、農村と府都、県都、小郡市をできるだけ多く占拠することである。たとえば、新四軍は南京、太湖、天目山のあいだの多くの県都や、長江と淮河のあいだの多くの県部を占領し、山東省のわが軍は膠東半島の全部を占領し、山西省、綏遠省のわが軍は北平=包頭鉄道南北の多くの都市を占領して、きわめて有利な情勢をうみだしている。さらに一時期のあいだ攻勢に出れば、わが党は長江下流以北地区、淮河以北地区、山東、河北、山西、綏遠の各省のほとんど全部、熱河、察哈爾両省の全部および遼寧省の一部を支配することができるであろう。
現在、ソ米英三国はいずれも中国の内戦に賛成していないし〔1〕、わが党も平和、民主、団結の三大スローガン〔2〕をかかげ、また毛沢東、周恩来、王若飛の三同志を重慶に派遣して、蒋介石と団結建国の大方針について話しあうことになっているので、中国反動派のたくらむ内戦の陰謀はくじかれる可能性がある。国民党は上海、南京などを手にいれ、海への通路をひらき、敵の武装を解除し、かいらい軍を自軍に編入して、まえよりもその地位を強めているが、あいかわらず満身創痍の状態で、内部の矛盾はひじょうに多く、困難ははなはだ大きい。交渉の結果、国民党は内外の圧力のもとに条件つきでわが党の地位をみとめ、わが党もまた条件つきで国民党の地位をみとめ、両党の協力(民主同盟〔3〕その他をくわえる)と平和的発展という新しい段階がうまれる可能性がある。こうした局面があらわれたばあい、わが党は合法闘争のあらゆる方法を身につけるよう努力し、国民党地域における都市活動、農村活動、軍隊活動の三大活動(いずれもわれわれの弱点である)に力をいれなければならない。交渉の過程で、国民党はかならず、わが方に解放区の面積と解放軍の数の大幅な縮小を要求し、紙幣の発行を禁止するにちがいないが、わが方としても、人民の根本的利益をそこなうことのない、必要な譲歩はおこなう用意がある。こうした譲歩がなければ、国民党のたくらむ内戦の陰謀をうちやぶることはできず、政治的に主動的な地位にたつことはできず、世界の世論と国内の中間派の共鳴を得ることはできず、わが党の合法的な地位と平和の局面をかちとることはできない。しかし、譲歩には限度があり、人民の根本的利益をそこなわないことを原則とする。
わが党が上述の措置をこうじてもなお国民党が内戦をおこすなら、国民党は全国および全世界のまえで道理をうしなうことになり、わが党は、その攻撃を撃破するための自衛戦争をおこなう理由をもつことになる。同時に、わが党は強大な力をもっており、もし侵してくるものがあれば、条件が有利なかぎり、かならず自衛の立場にたって、断固として、徹底的に、きれいに、のこらずこれを消滅するであろう(軽率に戦ってはならず、戦うからにはかならず勝たなければならない)。ぜったいに反動派のいたけだかな勢いにのまれてはならない。しかしながら、団結もすれば闘争もし、闘争の手段によって団結の目的をたっすること、道理があり、有利であり、節度があること、矛盾を利用し、多数を獲得し、少数に反対し、各個に撃破することなどの原則〔4〕は、どんなときでも、忘れずに堅持しなければならない。
広東、湖南、湖北、河南などの省におけるわが党の勢力は、華北地方、長江・淮河地区におけるものよりも困難な状態にあり、中央はこれらの地方の同志たちに深い関心をよせている。しかし、国民党は隙だらけだし、地域もきわめて広いので、同志たちが軍事政策(行動と戦闘)や人民と団結する政策のうえで大きなあやまりをおかさず、謙虚で慎重で、おごらずあせらないかぎり、じゅうぶんに対処することができる。中央も必要な指示はあたえるが、これらの地方の同志は、自分で状況を分析し、問題を解決し、困難を突破して、その生存と発展をはからなければならない。国民党は、諸君にたいしてどうにも手のうちようがないというときになれば、両党の交渉の過程で諸君の力をみとめざるをえなくなり、双方に有利な措置をとることを承諾するであろう。しかし、諸君はぜったいに交渉にたよったり、国民党が善心をおこすことに期待をかけたりしてはならない。国民党は善心をおこすはずがないのである。諸君は、自分のもっている力、行動をみちびくうえでの正しさ、党内の兄弟のような団結、人民との良好な関係にたよらなければならない。断固として人民にたよること、これが諸君の活路である。
要するに、わが党のまえにはひじょうに多くの困難があり、これを無視してはならない。全党の同志はじゅうぶんな心構えをしておかなければならない。しかし、国際、国内の大勢は、全般的に、わが党と人民に有利であって、全党が一致団結するかぎり、あらゆる困難に一歩一歩うち勝っていくことができる。
〔1〕 日本降伏前後の一時期、ソ米英三国はいずれも、中国に内戦がおこることに賛成しないことを表明した。しかし、中国の内戦に賛成しないというアメリカの声明が、国民党反動政府の反革命的内戦の準備を積極的に援助するための掩護でしかなかったことは、その後まもなく事実によって立証された。
〔2〕 平和、民主、団結の三大スローガンは、一九四五年八月三十五日、中国共産党中央委員会の『当面の時局についての宣言』のなかでかかげられたものである。宣言には、日本帝国主義の降伏後、「わが全民族の直面している重大な任務は、国内の団結をかため、国内の平和を保障し、民主主義を実現し、人民の生活を改善すること、これによって、平和、民主、団結の基礎のうえに全国の統一を実現し、独立、自由、富強の新中国を建設することである」と指摘されている。
〔3〕 民主同盟は一九四一年に結成され、当時は中国民主政団同盟と称していたが、一九四四年に改組して中国民主同盟になった。
〔4〕 本選集第二巻の『当面の抗日統一戦線における戦術の問題』と『政策について』を参照。
(一九四五年十月十七日)
これは、毛沢東同志が重慶から延安にかえったのち延安での幹部会議でおこなった報告である。
当面の時局の問題について話すことにしよう。これは同志諸君が関心をよせている問題である。こんど、国共両党は重慶で交渉をおこない、四十三日間話しあった。交渉の結果は、すでに新聞に発表されている〔1〕。現在、両党の代表はまだ交渉をつづけている。こんどの交渉は収穫があった。国民党は、平和・団結の方針と人民の若干の民主的権利を認め、また、内戦をさけ両党が平和的に協力して新中国を建設することを認めた。これらの点については、取り決めができた。このほかに、取り決めのできなかったものもある。解放区の問題は解決されなかったし、軍隊の問題も実際には解決されなかった。すでにまとまった取り決めも、まだ紙の上のものにすぎない。紙の上のものは、現実のものではない。それを現実のものとするには、なお大きな努力をはらわなければならないことを、事実は立証している。
国民党は、一方でわれわれと交渉しながら、他方ではさかんに解放区を攻撃している。陝西・甘粛・寧夏辺区を包囲している軍隊はさておき、直接、解放区を攻撃している国民党軍だけでも八十万人にのぼっている。現在、解放区のあるところではどこでも、戦争をしているか、あるいは戦争の準備をしている。「双十協定」の第一条は「平和建国」であるが、紙に書かれたこのことばは事実と矛盾しているのではないか。そのとおり、矛盾している。だから、紙の上のものを現実のものとするには、このうえとも、われわれの努力が必要なのである。なぜ、国民党はあれほど多くの軍隊を動員してわれわれを攻撃してくるのか。それは、国民党の腹がとっくにきまっていて、人民の力を消滅し、われわれを消滅しようとしているからである。すぐ消滅できれば、それにこしたことはないが、すぐには消滅できなくても、われわれの形勢をもっと不利にし、国民党の形勢をもっと有利にしたいからである。平和という一ヵ条は、協定には書いてあっても、実際には実現されていない。現在、一部の地方ではかなり大きな戦いがおこなわれており、山西省の上党区がその一例である。大行山、大岳山、中条山にかこまれて一つのたらいがあるが、それが上党区である。そのたらいのなかには魚もあれば、肉もあるので、閻錫山が十三コ師団をくりだして略奪しにきた。われわれの方針もとっくにきまっている。それは、まっこうから対決し、一寸の土地もかならず争うということである。こんど、われわれは「対決」し、「争」った。しかも、みごとに「対決」し、みごとに「争」った。つまり、かれらの十三コ師団をのこらず殲滅したのである。攻撃してきたかれらの部隊が合計三万八千人であったのにたいし、われわれは三万一干人を出動させた。かれらは、三万八千人のうち、三万五千人を殲滅され、二千人が逃げのび、一千人がちりぢりになった〔2〕。こうした戦いは、これからもやるであろう。かれらは、われわれの解放区の土地を死にものぐるいで奪いにくる。この問題は説明のしようがないようにみえる。かれらは、なぜ、こうまでして奪いにくるのか。われわれの手中にあり、人民の手中にあって、それで結構ではないか。これはわれわれの考えであり、人民の考えである。もしかれらもそう考えるなら、それで統一したことになり、みんな「同志」だということになる。しかし、かれらはそう考えるはずがなく、あくまでもわれわれに反対する。かれらは、われわれに反対しなければ釈然としない。かれらが攻めてくるのは、きわめて自然なことである。われわれとしても、解放区の土地をかれらに奪われるのでは、やはり釈然としない。われわれが反撃に出るのも、きわめて自然なことである。釈然としないものがいっしょになると、いくさになる。両方とも釈然としないのに、なぜ交渉をしたり、「双十協定」を結んだりしたのか。世の中のことは複雑で、いろいろな面の要因によってきまる。問題は、一つの面からだけ見るのでなく、いろいろな面から見なければならない。重慶には、蒋介石はあてにならない、うそつきだ、かれと交渉してなんらかの結果をえようとしてもそれは不可能だ、という考えの人も一部にいる。わたしの会った多くの人はそういっていたし、そのなかには国民党員もいた。わたしはその人たちにこういった。あなた方のいわれることには道理があり、根拠がある、そんなところだろうということは、十八年の経験から〔3〕よくわかっている。国共両党は、きっと交渉がうまくいかず、きっといくさになり、きっと決裂するだろうが、しかし、これはことの一面にすぎない。そのほかにも別の一面があり、多くの要因があって、蒋介石もなおあれこれと気がねをしないわけにいかないのである。それには、主として三つの要因がある。解放区が強大なこと、大後方の人民が内戦に反対していること、それに国際情勢である。わが解放区には一億の人民、百万の軍隊、二百万の民兵がおり、この力はだれも軽視することができない。わが党が国内の政治でしめている地位は、もはや一九二七年のころの状態とはちがっているし、また一九三七年のころの状態ともちがっている。国民党は、これまで共産党の対等の地位を認めようとしなかったが、いまでは認めるほかなくなっている。わが解放区の事業はすでに全中国、全世界に影響をおよぼしている。大後方の人民はみな平和をのぞみ、民主をもとめている。わたしはこんど重慶で、広範な人民がわれわれを心から支持していることをしみじみと感じた。かれらは国民党政府に不満をいだき、われわれの側に希望をかけている。わたしはまた、アメリカ人をもふくめて、多くの外国人がわれわれに大いに共鳴していることを知った。外国の広範な人民は、中国の反動勢力に不満をいだき、中国の人民の力に共鳴している。かれらも蒋介石の政策に賛成していない。われわれは全国、全世界に、多くの友人をもっており、われわれは孤立していない。中国の内戦に反対し、平和と民主を主張しているのは、われわれ解放区の人民だけでなく、大後方の広範な人民、全世界の広範な人民もそうである。蒋介石の主観的な願望は、あくまでも専制をつづけ、共産党を消滅することにあるが、その願望を実現するには、客観的に多くの困難がある。そこで、かれも現実主義でいかざるをえない。むこうが現実主義でくるなら、こちらも現実主義でいく。むこうが現実主義で招くなら、こちらも現実主義で交渉に出かける。われわれは八月ニ十八日に重慶についた。二十九日の晩に、わたしは国民党の代表にいった。九・一八事変のときから、平和・団結の必要がうまれた。われわれはそれを要求したが、実現されなかった。西安事変のあと、「七・七」抗戦のまえになって、やっと実現した。八年の抗戦では、みんなが一致して日本と戦った。しかしひっきりなしに大小の摩擦がおき、内戦は絶えたことがなかった。内戦などなかったというなら、それは人をあざむくものであり、事実に反している。八年のあいだ、われわれは交渉の用意があることを一再ならず表明してきた。われわれは党の第七回代表大会でも、国民党当局が「いったん、いまのあやまった政策を放棄することをのぞみ、民主改革をおこなうことに同意しさえすれば、われわれはかれらとの交渉を再開する用意がある」〔4〕ことを声明した。交渉の過程で、われわれは、第一に中国は平和を必要としている、第二に中国は民主を必要としている、と主張した。蒋介石は反対する理由がないので、しかたなく賛成した。「会談記録要綱」に発表されている平和の方針と若干の民主についての取り決めは、一方では紙に書かれたもので、まだ現実のものではないが、他方ではやはり各方面の力によって決定されたものである。解放区の人民の力、大後方の人民の力、国際情勢など、大勢のうごきによって、国民党はこれらのものを認めざるをえなかったのである。
「まっこうから対決する」にも、情勢を見なければならない。時によっては、交渉に出かけないことが、まっこうから対決することになるし、時によっては、交渉に出かけることが、やはりまっこうから対決することになる。以前に出かけなかったのも正しければ、こんど出かけたのも正しく、どちらもまっこうからの対決である。こんど、われわれは、出かけていってよかった。これによって、共産党は平和をのぞまない、団結をのぞまない、という国民党のデマを粉砕したのである。つづけざまに三通も招請の電報をよこしたので、出かけていったわけだが、かれらにはなんの準備もなく、提案はみなわれわれのほうからださなければならなかった。交渉の結果、国民党は、平和・団結の方針を認めた。これは結構なことだ。国民党がまた内戦をおこすなら、かれらは全国と全世界のまえで道理をうしなうことになり、われわれは、なおさら、その攻撃を粉砕するための自衛戦争をおこなう理由をもつことになる。「双十協定」成立後のわれわれの任務は、この協定を堅持し、国民党にその実施を要求し、ひきつづき平和をかちとることである。もしかれらが戦うというなら、かれらを徹底的に消滅するまでである。相手が攻めてくれば、われわれはそれを消滅する、そうすれば相手はさっぱりする。つまり、すこし消滅してやれば、すこしさっぱりし、たくさん消滅してやれば、たくさんさっぱりし、徹底的に消滅してやれば、徹底的にさっぱりする。ものごとはそうしたものである。中国の問題は複雑だから、われわれの頭もすこし複雑にならなければならない。むこうが攻めてくれば、こちらも戦うが、戦うのは平和をかちとるためである。解放区をあえて攻撃する反動派に大きな打撃をあたえなければ、平和はやってこない。
一部の同志から、なぜ八つの解放区〔5〕をわたすのか、という質問が出ている。この八つの地域をわたすのはひじょうに惜しいが、そうしたほうがよいのである。なぜ惜しいのか。それは人民が血と汗をながしてつくりあげ、苦労してきずきあげた解放区だからである。したがって、わたすことになったところでは、土地の人たちにはっきりと事情を説明し、適切な処置をとらなければならない。では、なぜわたすのか。それは国民党が安心しないからである。かれらが南京にもどろうとしているのに、南方の一部の解放区が寝床のそばにあったり、廊下にあったりして、われわれがそこにいたのでは、かれらは安心して眠れない。だから、どうしても争うのである。この点でわれわれが譲歩すれば、国民党のたくらむ内戦の陰謀をうちやぶり、国内国外の広範な中間層の共鳴をうるのに有利である。現在、全国の宣伝機関は、新華社をのぞいて、みな国民党の手ににぎられている。それらはすべてデマ製造工場である。こんどの交渉にさいしても、それらの宣伝機関は、共産党はとにかく地盤をほしがる、とても譲歩はすまい、というデマをとばした。われわれの方針は、人民の基本的利益をまもることである。人民の基本的利益をそこなわないという原則のもとでいくらかの譲歩をし、そうした譲歩によって全国人民の必要とする平和と民主を手にいれるということは許される。われわれは以前、蒋介石と交渉したさいにも、譲歩したし、現在よりもっと大きな譲歩をした。一九三七年には、全国の抗戦を実現するため、われわれは自発的に労農革命政府の名称をとりけし、赤軍も国民革命軍と改称し、さらに、地主の土地の没収を小作料・利子の引き下げにあらためた。こんど、われわれが南方で若干の地域をわたしたため、国民党のデマは全国人民と全世界人民の目のまえで、完全に破産したのである。軍隊の問題もそうである。共産党はとにかく鉄砲を争いとろうとする、と国民党は宣伝した。われわれは、譲歩の用意があるといった。われわれは、まず、われわれの軍隊を現在の数から四十八コ師団にまで縮小する案をだした。国民党の軍隊は二百六十三コ師団だから、われわれは六分の一をしめることになる。その後、われわれはまた四十三コ師団、つまり、七分の一にまで縮小する案をだした。すると、国民党はかれらの軍隊を百二十コ師団にまで縮小するといった。そこで、われわれは、おなじ割合でへらして、われわれの軍隊を二十四コ師団に縮小してもよいし、さらに二十コ師団にまでへらしてもよい、やはり七分の一である、といった。国民党軍は、将校の多いわりに兵士が少なく、一コ師団は六干人にたっしない。かれらの編制でいくと、われわれの百二十万人の軍隊は、二百コ師団に編成できる。しかし、われわれはそうはしない。こうなっては、かれらも返すことばがなくなり、デマはすっかり破産してしまった。では、われわれは鉄砲をかれらにひき渡すのか。そうではない。ひき渡せば、かれらのほうがさらに多くなるではないか。人民の武装力は、たとえ一ちょうの銃、一発の弾丸ものこしておくべきであり、ひき渡してはならない。
以上が、同志諸君に話そうとおもっていた時局の問題である。当面の時局の発展には、多くの矛盾した現象がみられる。国共間の交渉で、なぜ、一部の問題については取り決めができ、一部の問題については取り決めができなかったのか。「会談記録要綱」には平和・団結がうたわれているのに、なぜ実際には戦っているのか。こうした矛盾した現象が一部の同志には納得できない。わたしの話はこれらの問題に答えたものである。蒋介石は一貫して反共、反人民であるのに、なぜ、われわれはかれと交渉しようとするのか、一部の同志はこのことが理解できない。わが党の第七回代表大会では、国民党の政策に転換が見えさえすれば、かれらと交渉する用意があるという決定をおこなったが、これは正しかっただろうか。まったく正しかった。中国の革命は長期にわたるものであり、勝利は一歩一歩かちとられるものである。中国の前途がどうなるかは、われわれみんなの努力いかんにかかっている。半年ぐらいのあいだ、情勢はなお不安定なままであろう。われわれは情勢を全国人民に有利なほうへ発展させるため、いっそう努力しなければならない。
われわれの活動についても、すこしばかり話しておきたい。ここにいる同志のなかには、前線におもむくものもいる。多くの同志は、先をあらそって前線へ仕事にいこうという熱意にもえているが、こうした積極性と熱意は非常にとうといものである。しかし、ごく一部にではあるが、まちがった考えをもっている同志もいて、むこうには解決しなければならない困難がたくさんあるとは考えず、なにもかもうまくいっていて延安よりも楽だ、と考えている。こんなふうに考えているものはいないだろうか。いるとおもう。わたしはそうした同志に、自分の考え方をあらためるようすすめたい。いくのは、仕事のためにいくのである。仕事とは何か。仕事とは闘争である。そうしたところには困難があり問題があるので、われわれがいって解決しなければならない。われわれは困難を解決するために仕事をしにいくのであり、闘争をしにいくのである。困難なところほどすすんでいく、それでこそりっぱな同志である。そうしたところの仕事はひじょうな困難にみちている。困難な仕事は、われわれの目のまえにおかれている荷物のようなもので、それをかつぐ勇気があるかどうかが問題である。荷物には軽いのもあれば、重いのもある。なかには重いのをいやがって軽いのをとり、重い荷物は人におしつけ、自分は軽いのをえらんでかつぐものもいる。これでは、りっぱな態度といえない。ある同志たちはそうではない。楽しみは人にゆずり、荷物は重いのをえらんでかつぎ、人に先だって苦しみ、人におくれて楽しむ。こうした同志こそりっぱな同志である。こうした共産主義者の精神を、われわれは学ばなければならない。
多くの地元の幹部は、いま郷里をあとにして、前線におもむこうとしている。また、多くの南方生まれの幹部は、以前に南方から延安にやってきたのだが、いまやはり前線におもむこうとしている。前線におもむくすべての同志は、むこうについたち、そこで根をおろし、花を咲かせ、実を結ぶよう、じゅうぶんな心構えをしておかなければならない。われわれ共産党員はいわば種子であり、人民はいわば土地である。われわれはいく先ざきで、そこの人民と結びつき、人民のあいだに根をおろし、花を咲かせなければならない。われわれの同志は、どこへいこうと、大衆との関係をよくし、大衆に関心をよせ、かれらをたすけて困難を解決しなければならない。広範な人民と団結すべきで、団結する大衆は多ければ多いほどよい。思いきって大衆を立ちあがらせ、人民の力を強大にし、わが党の指導のもとに、侵略者をうちやぶり、新しい中国をきずきあげる。これが党の第七回代表大会の方針〔6〕であり、われわれはこの方針のためにたたかわなければならない。中国のことは、共産党がやり、人民がやらなければならない。われわれには、平和を実現し民主を実現する決意があり、その万策がある。われわれが全人民といっそうよく団結するなら、中国のことはうまくいくであろう。
第二次世界大戦後の世界の前途は明るい。これは全般的な趨勢である。ロンドンの五ヵ国外相会議は失敗したが〔7〕、これですぐ第三次世界大戦になるだろうか。そんなことはない。考えてもみたまえ、第二次世界大戦が終わったばかりなのに、どうして第三次世界大戦がおこりえよう。資本主義国と社会主義国は、多くの国際問題でやはり妥協するであろう。なぜなら、妥協したほうがためになるからである〔8〕。反ソ、反共の戦争には、全世界のプロレタリア階級と人民がみな断固として反対している。ここ三十年間に世界大戦が二度おきたが、第一次大戦と第二次大戦のあいだには、二十数年のへだたりがあった。人類の歴史五十万年のうち、世界戦争がおきたのはこの三十年間だけである。第一次大戦後、世界は大きな進歩をとげた。こんどの大戦のあとでは、世界はより急速な進歩をとげるにちがいない。第一次大戦後、ソ連がうまれ、全世界に数十の共産党がうまれたが、これはかつてなかったことである。第二次世界大戦ののち、ソ連はいっそう強力となり、ヨーロッパはその面目をあらため、全世界のプロレタリア階級と人民の政治的自覚はいっそうたかまり、全世界の進歩勢力はいっそう団結している。わが中国もはげしい変動のさなかにある。中国の発展の全般的な趨勢もわるくはならず、かならずよくなっていくであろう。世界は進歩しつつあり、前途は明るい。この歴史の全般的な趨勢は、だれも変えることができない。われわれは世界の進歩の状況と明るい前途をつねに人民に宣伝して、人民に勝利の確信をもたせなければならない。同時に、われわれはまた、道がまがりくねっていることを人民におしえ、同志たちにおしえなければならない。革命の道にはまだ多くの障害があり、多くの困難がある。わが党の第七回代表大会では多くの困難を予想した。困難はむしろおお目に考えておくほうがよいのである。一部の同志は、困難についてあまり考えたがらない。しかし、困難は事実であり、あればあるだけ認めるべきで、「不承認主義」をとってはならない。われわれは困難を認め、困難を分析し、困難とたたかわなければならない。世の中にはまっすぐな道はない。安易なことばかり考えずに、まがりくねった道をあゆむ覚悟がなければならない。ある朝突然、すべての反動派がのこらすみずから地べたにひざまずくなどということは、とうてい考えられないことである。要するに、前途は明るいが、道はまがりくねっている。われわれの前にはまだ多くの困難があり、これを無視してはならない。全人民と団結してともに努力すれば、かならず万難を排して勝利の目的をとげることができるのである。
〔1〕 一九四五年十月十日、国共双方の代表によって調印された「会談記録要綱」、すなわち「双十協定」をさす。この記録要綱のなかで、蒋介石はうわべではしかたなく、中国共産党の提出した「平和建国の基本方針」に同意し、「平和、民主、団結、統一を基礎として……長期にわたって協力し、あくまで内戦をさけ、独立、自由、富強の新中国を建設する」こと、「政治の民主化、軍隊の国家化および諸政党の対等と合法化が平和建国を達成するためにかならず通らなければならない道である」ことを認め、また国民党の訓政期をはやく終わらせて、政治協商会議を招集すること、「すべての民主主義国の人民の平時に享有すべき身体、信教、言論、出版、集会、結社の自由を人民か享有できるよう保証し、この原則にしたがって現行法令をそれぞれ廃止あるいは改正する」こと、時粉機関を撤廃し、「司法および警察以外の機関か人民を逮捕、審問、処罰する権限をもつことを厳禁し」、「政治犯を釈放する」こと、「積極的に地方自治をおしすすめ、下からの普通選挙を実行する」ことなどにも同意した。だが、同時に、蒋介石政府は人民の軍隊と解放区の民主政権の合法的地位を承認することを頑強に拒否するとともに、「軍令の統一」と「政令の統一」を口実にして、中国共産党の指導する人民軍隊と解放区を完全に解消しようとたくらんだ。そのため、この問題について取り決めをまとめることができなかった。以下は、「会談記録要綱」のなかで解放区の軍隊と政権の問題についての交渉の経過を記載した部分である。ここでいわれている「政府側」とは蒋介石の国民党政府のことである。
「軍隊の国家化の問題について、中国共産党側はつぎのような案をだした。政府は、全国の軍隊を公平に合理的に再編成し、数期に分けてそれを実施する計画をきめるとともに、軍区の再区画をおこない、補充徴集の制度をきめて、軍会の統一をはかるべきである。こうした計画のもとでは、中国共産党は、その指導する抗日軍隊を現在の数から二十四コ師団、さらには最少限二十コ師団にまで縮小する用意があり、また、広東省、浙江省、江蘇省南部、安徽省南部、安徽省中部、湖南省、湖北省、河南省(河南省北部をのぞく)の八地区に散在しているその指導下の抗日軍隊の復員にすぐ着手するとともに、再編成されるべき部隊を上述の地区から逐次撤退させて、天水=連雲港鉄道以北および江蘇省北部、安徽省北部の解放区に集結してもよい、と表明した。政府側はつぎのように表明した。全国的な再編成計画はいま立案中であり、このたびの交渉に提出された各項の問題か全面的に解決されるなら、中国共産党の指導する抗日軍隊を二十コ師団に縮小することは考慮してもよい。駐屯地の問題については、中国共産党側から案をたし、討議のうえ決定してもよい、と。中国共産党側はまたつぎのような案をだした。中国共産党およびその地方軍事要員は軍事委員会およびその各部の仕事に参加するのが当然である。政府は、人事制度を保障して、原部隊所属要員を再編成後の部隊の各級の将校に任用し、編成からはみだした将校にたいしては各区ごとに訓練をほどこし、公平で合理的な給与制度を設け、政治教育計画を確定すべきである、と。政府側は、提案された各項目については問題がない、詳細な方法についても相談したい、と表明した。中国共産党側は、解放区の民兵は一律に地方自衛隊に編成すべきである、と提案した。政府側は、地方の状況にしたがってその必要性と可能性があるばあいにのみ、適宜にこれを編成する、と表明した。本項にのべられた諸問題について具体的な計画をたてるため、双方は三人小委員会(軍令部、軍政部および第十八集団軍からそれぞれひとりを派遣する)を設けることに同意した。」
「解放区の地方政府の問題について、中国共産党側は、政府が解放区の各級民選政府の合法的地位を認めるべきである、と提案した。政府側は、解放区という名称は、日本が降伏したのちには、過去のものとなるべきであり、全国の政令はかならず統一されるべきである、と表明した。中国共産党側が最初だした案は、いま十八の解放区が存在するという事情にてらして、省と行政区の再区画をおこなうとともに、もとからの各級民選地方政府の名簿をただちに中央に提出し、その任命の承認をもとめて、政令の統一をはかる、というものである。政府側はつぎのように表明した。蒋主席かかって毛氏に表明したように、中央は、全国の軍令、政令が統一されたのち、中国共産党の推薦する行政要員の人選を考慮してもよい。回復地区の抗戦関係のもとの行政要員にたいしては、その仕事の能力と実績におうじて、政府はこれを適宜に、ひきつづきその地方で勤務させるようにし、政党関係によって差別をつけるようなことはしない、と。そこで、中国共産党側は、第二の解決案、すなわち陝西・甘粛・寧夏辺区および熱河、察哈爾、河北、山東、山四の五省では、中国共産党の推薦するものを省政府の主席および委員に任命し、綏遠、河南、江蘇、安徽、湖北、広東の六省では、中国共産党の推薦するものを省政府の副主席および委員に任命し(以上の十一省には、広大な解放区または地域的な解放区があるからである)、北平、天津、青島、上海の四つの特別市では、中国共産党の推薦するものを副市長に任命し、また東北各省では中国共産党の推薦するものが行政に参加することを承認するよう、中央に要請するという案をだした。この件については、いくども討議をかさねたのち、中国共産党側で、上述の提案にいくらかの修正をくわえ、省政府の主席および委員への任命を要請するものを陝西・甘粛・寧夏辺区および熱河、察哈爾、河北、山東の四省にあらため、省政府の副主席および委員への任命を要請するものを山西、綏遠の両省にあらため、副市長への任命を要請するものを北平、天津、青島の三つの特別市にあらためることにした。政府側は、これにたいし、抗戦に顕著な働きのあったもので、政治的にも能力のある同志について、中国共産党が、政府に任用の決定を申請することはさしつかえないが、もし、中国共産党が某省の主席や委員、某省の副主席になどと推薦するなら、それは誠意をもって軍令、政令の統一をはかるということにはならない、と表明した。そこで、中国共産党は第二の主張を放棄してもよいと表明し、あらためて、つぎのような第三の解決案をだした。解放区の各級民選政府によって、あらためて人民による普通選挙をおこなう。諸政党および各界の人士が帰郷して、政治協商会議から派遣されたものの監督のもとで、選挙に参加することを歓迎する。過半数の区、郷がすでに民選を実行している県では、県の民選をおこなう。過半数の県がすでに民選を実行している省もしくは行政区では、省もしくは行政区の民選をおこなう。選出された省、行政区、県の政府は、一律に中央に報告してその任命の承認をもとめ、それによって政令の統一をはかる、と。政府側はつぎのように表明した。こうした省、行政区の任命方式は、政令の統一をはかるものではない。県の民選だけは考慮してもよいが、省の民選は、憲法が公布され、省の地位か確定するのをまって実施すべきである。目下のところ、行政をすぐ正常な状態にもどすには、中央から任命された省政府官吏が各地におもむいて行政をひきつぐほかはない、と。ここにいたって、中国共産党側はつぎのような第四の解決案をだした。それは、各解放区については、しばらく現状を維持して変えず、省政府の民選が憲法によってきめられ、実施されるのをまって、あらためてこれを解決することにし、いまは、臨時の規定をさだめて、平和的秩序の回復を保証する、というものである。同時に、中国共産党側はこの問題を政治協商会議に提出して解決すべきであるとした。政府側は、政令の統一を予定よりはやく実現すべきであるとし、この問題がいつまでも未解決のままになっていれば、平和建設の障害となるおそれがあるので、やはり、具体的解決案について話し合いがつくことを切望した。中国共産党側もまたひきつづき交渉することに同意した。」
〔2〕 上党とは山西省東南部の長治県を中心とする地区のことで、むかしは上党郡に属していた。この一帯の山岳地区は、抗日戦争の時期には、八路軍第一二九師団の根拠地であり、山西・河北・山東・河南解放区に属していた。一九四五年九月、国民党の軍閥閻錫山は十三コ師団の兵力を集中し、日本軍・かいらい軍の協力のもとに、あい前後して臨汾、浮山、翼城および太原、楡次から出発し、山西省東南部解放区の襄垣、屯留、[シ+路]城などに侵入した。十月、同解放区の軍民は反撃にでて、侵入部隊の三万五千人を殲滅し、軍団長、師団長などの多くの高級将校を捕虜にした。
〔3〕 「十八年の経験から」とは、一九二七年に国民党が革命を裏切ったときから一九四五年までのあいだ中国共産党が国民党とたたかってきた経験をいう。
〔4〕 本選集第三巻『連合政府について』の第四部分の「われわれの具体的綱領」の第二節から引用。
〔5〕 広東省、浙江省、江蘇省南部、安徽省南部、安徽省中部、湖南省、湖北省、河南省(河南省北部をのぞく)の八地区に散在していた人民軍隊の根拠地をさす。
〔6〕 本選集第三巻の『中国の二つの運命』、『愚公、山を移す』にみられる。
〔7〕 一九四五年九月十一日から十月二日まで、ソ、中、米、英、仏五ヵ国の外相がロンドンで会談し、ファシスト・ドイツの侵略戦争に荷担したイタリア、ルーマニア・ブルガリア・ハンガリー、フィンランドとの平和条約の締結、イタリアの植民地の処理などの問題について討議した。この会議は、米、英、仏などが帝国主義的侵略政策を固持し、反ファシズム戦争の勝利後に樹立されたルーマニア、ハンガリー、ブルガリアなどの人民政権の転覆をたくらみ、ソ連の道理にかなった主張を拒否したために、話がまとまらなかった。
〔8〕 本巻の『当面の国際情勢についてのいくつかの評価』を参照。
(一九四五年十一月五日)
これは、毛沢東同志が中国共産党スポークスマンの名で発表した談話である。そのころ、蒋介石はすでに「双十協定」を破棄しており、解放区を攻撃する内戦の規模は日ましに拡大していた。
重慶三日発UP電は、国民党中央宣伝部長の呉国楨が「政府はこんどの戦争では完全に守勢にたっている」と声明するとともに、交通回復についての規定〔1〕なるものをもちだしたと伝えている。新華社記者は、これについて中国共産党側のスポークスマンにただした。
中国共産党のスポークスマンは記者につぎのように語った。呉氏のいう「守勢」うんぬんは、真っ赤なうそである。わが軍のすでに撤退した浙江省東部、江蘇省南部、安徽省中部、安徽省南部、湖南省などの五つの解放区は、すべて国民党軍が占領し、ほしいままに人民を蹂躙しているが、そのほか、広東省、湖北省、河南省、江蘇省北部、安徽省北部、山東省、河北省などの他の大多数の解放区でも、国民党正規軍の七十余コ師団が、わが地区とその付近に移動してきて、人民を圧迫し、わが軍を攻撃しているか、あるいは攻撃しようとしている。このほか、現在わが解放区にむかって移動中のものが数十コ師団ある。これで守勢をとっているといえるだろうか。そのうち、彰徳から北進して邯鄲地区まで進撃してきた八コ師団は、そのニコ師団が内戦に反対し、平和を主張したが、他の六コ師団(そのうち三コ師団は米式装備)は、わが解放区の軍民が自衛の反撃にでたのち、やむなく武器を捨てたのである。この方面の国民党軍の多くの将校は、副司令長官、軍団長、副軍団長など多数をふくめて、げんざい解放区にいるが〔2〕、かれらはみな、自分たちがどこから進発してきたのか、どのように命令をうけて進攻してきたのか、そのすべての真相について証言することができる。これでも守勢をとっているといえるだろうか。わが河南、湖北両省の解放区の軍隊は、いま国民党の第一、第五、第六の三戦区の軍隊あわせて二十数コ師団に四方から包囲されており、劉峙がそれらの戦区の「共産党討伐」の総指揮官となっている。わが河南省西部、河南省中部、湖北省南部、湖北省東部、湖北省中部などの解放区は、いずれも国民党軍が占領して、放火・殺人をほしいままにしており、そのためわが李先念、王樹声らのひきいる部隊はどこにもいられなくなって、生存のため河南・湖北省境地区に駐屯地をもとめざるをえなくなっているが、なおも国民党軍からきびしい追撃をうけている〔3〕。これでも守勢をとっているといえるだろうか。山西、綏遠、察哈爾の三省でも同様である。十月上旬、閻錫山の指揮する十三コ師団は、わが上党解放区の襄垣、屯留地区に攻めこみ、この地方の軍民の自衛のための戦闘によってぜんぶ武装解除されたが、捕虜となったもののなかには、やはり軍団長や師団長が何人もいる。かれらは、みな生きていて、いまわが大行解放区におり、自分たちがどこから進発してきたのか、どのように命令をうけて進攻してきたのか、そのすべての真相について証言することができる。さいきん、閻錫山は重慶でいろいろとうそをつき、自分はどのように攻撃されたかとか、自分としては「守勢」をとっただけだとか言いふらしている。かれはおそらく、自分の第十九軍団長の史沢波、臨時編成第四十六師団長の郭溶、臨時編成第四十九師団長の張宏、第六十六師団長の李佩膺、第六十八師団長の郭天興、臨時編成第三十七師団長の楊文彩らの将軍〔4〕が現在わが解放区におり呉国楨氏、閻錫山氏、および内戦を挑発しているすべての反動派のあらゆるでたらめを反ばくできるということを忘れているのであろう。傅作義将軍は、命令をうけてわが綏遠、察哈爾、熱河三省の解放区に進攻をはじめてから三ヵ月あまりになるが、いちどは張家口の入口まで攻めよせ、わが綏遠解放区の全部と察哈爾省西部を占領した。これでもまだ、守勢をとっている、「最初の一発」は放っていない、などといえるだろうか。わが察哈爾、綏遠両省の軍民は自衛のためたちあがり、やはり反撃戦でおびただしい将兵を捕虜にしたが、これちの捕虜はみな、自分たちがどこから進発してきたのか、どのように進攻してきたのかなどについて証言することができる〔5〕。これまでの自衛のための戦闘で、わが方は大量の「匪賊討伐」文書と反共文書をぶんどったが、そのなかには、国民党の最高当局が配布しておきながら、呉国楨氏がそんなことは「でたらめだ」などといっている「匪賊討伐手帳」、「匪賊討伐」命令〔6〕、その他の反共文書があり、いま延安に回送中である。これらの反共文書はみな、国民党軍が解放区を攻撃していることの動かぬ証拠である。
記者はまた中国共産党のスポークスマンにたいし、呉国楨氏のもちだした交通回復規定についての見解をただした。同スポークスマンはつぎのように答えた。これは時をかせぐための計略にすぎない。国民党当局はいま兵力の大移動をおこない、洪水のように、わが全解放区をのみつくそうとしている。かれらは、九、十のニヵ月間の何回かの進攻に失敗したのち、いま、より大規模な新たな進攻のための部署配置をおこなっている。ところが、こうした進攻をはばむ武器、つまり、効果的に内戦を阻止する武器の一つは、鉄道による軍隊輸送をかれらに許さないことである。われわれも他の人びとと同様に、交通線の急速な回復を主張するが、降伏の受理、かいらい軍の処理、解放区自治の実施という三つの問題が解決をみたあとでなければ、交通線を回復させるわけにはいかない。さきに交通の問題を解決し、あとで三つの問題を解決するのか、それとも、さきに三つの問題を解決し、あとで交通の問題を解決するのか。解放区の軍隊は、八年間も苦難にみちた抗日の戦いをすすめてきたのに、なぜ敵軍の降伏を受理する資格がなく、ほかの軍隊にはるばる遠いところから降伏受理にきてもらわなければならないのか。かいらい軍は、すべての人から懲罰をうけるべきなのに、なぜ、ことごとく「国軍」に編入し、解放区への進攻にさしむけるのか。地方自治については、「双十協定」に明文の規定があり、孫中山先生もはやくから省長の民選を主張していたのに、なぜ、いまさら政府が官吏を派遣する必要があるのか。交通の問題もすみやかに解決すべきであるが、この三大問題はとくにすみやかに解決しなければならない。三大問題を解決せずに、交通の回復をうんぬんするのでは、内戦を拡大し、長びかせて、内戦挑発者たちの解放区をのみつくそうという目的をとげさせるだけのことである。すでに全国にひろがっている反人民、反民主の内戦をすみやかに阻止するため、われわれはつぎのように主張する。(一)すでに華北地方、江蘇省北部、安徽省北部、華中地方の各解放区およびその付近にはいっている政府の降伏受理部隊と攻撃部隊は、ただちに原駐屯地に撤退すること、そして、解放区の軍隊が敵軍の降伏を受理し、各部市と交通線に駐屯し、占領されていた解放区を回復すること。(二)すべてのかいらい軍をただちに武装解除し、解散させること、そして、華北地方、江蘇省北部、安徽省北部のかいらい軍は、解放区が責任をもって武装解除し、解散させること。(三)すべての解放区における人民の民主的自治を認めること、中央政府は官吏を任命、派遣してはならず、「双十協定」の規定を実行にうつすこと。なお、スポークスマンはつぎのようにいった。こうしてこそ内戦を阻止できるのであって、そうでなければ、その保障はまったくない。交通の回復は内戦のためではなくて人民のためだなどという国民党当局のことばがすこしも信用できないことは、綏遠、上党、邯鄲での三回にわたる自衛のための戦闘でぶんどった文書や、兵力の大移動と大挙進攻という実際行動によってじゅうぶんに立証されている。中国人民はすでにいやというほどだまされており、もうこれ以上だまされはしない。現在の中心問題は、全国人民が立ちあがり、あらゆる手をつくして内戦を阻止することである。
〔1〕 抗日戦争が終わったとき、中国の鉄道線路はその大部分が解放区の軍民に掌握されていたか、または包囲されていた。国民党反動派は「交通の回復」という口実のもとに、これらの線路を利用して、解放区を分断するとともに、かれらの数百万の軍隊を東北、華北、華東、華中地方に送りこんで、解放区を攻撃し、大都市をうばおうとたくらんだ。
〔2〕 一九四五年九月、国民党軍は鄭州、新郷一帯から北平=漢口鉄道にそって山西・河北・山東・河南解放区への進攻を開始した。十月下旬、その先頭の三コ軍団が、磁県、邯鄲地区に侵入した。解放区の軍民は自衛のために立ちあがった。一週間の激戦ののち、国民党第十一戦区副司会長官兼新編第八軍団長高樹勛将軍は、その配下の新編第八軍団と一コ縦隊あわせて一万余人をひきいて、邯鄲地区で蜂起をおこない、残りの二コ軍団も潰走中にわか軍に包囲殲滅され、武器を捨てた。当時、武器を捨てることをよぎなくされた高級将校は、国民党第十一戦区副司会長官兼第四十軍団長馬法五、第四十軍団副軍団長劉世栄、軍団参謀長李旭東、副師団長劉樹森など多数にのぼった。
〔3〕 日本が降伏したのち、国民党は三つの戦区の二十余コ師団の兵力をかきあつめ、大挙して河南、湖北両省の解放区に侵入した。国民党第一戦区司令長官胡宗南は、一部の兵力をさいて、西北方から天水=連雲港鉄道の両側ぞいに東進し、河南省西部解放区に侵入した。第五戦区司会長官劉峙の部隊は、北平=漢口鉄道の両側ぞいに、北から南にむかって阿南省中部、湖北省中部、湖北省東部の解放区に侵入した。第六戦区の部隊は、湖北省南部から北にむかって攻撃し、これに呼応した。以上の国民党軍は、そのほとんどか劉峙の指揮下にあった。河南・湖北解放区の人民軍隊は、侵入軍とだんこ戦い、実力を保存しながら、一九四五年十月下旬に、河南省と湖北省の省境にある大洪山、桐柏山、棗陽地区に移動したが、国民党がなおも追撃してきたので、さらに北平=漢□鉄道以東の宣化店地区に移動した。
〔4〕 上党戦役については、本巻の『重慶交渉について』注〔2〕を参照。ここにあげられている将校はみな、上党戦役で解放軍の捕虜となった閻錫山軍の高級将領である。
〔5〕 綏選はもと一つの省であったが、一九五四年三月六日に廃止され、その管轄区域は内蒙古自治区に編入された。博作義将軍は当時、国民党第十二戦区の司令長官であった。かれの部隊は、抗日戦争の時期には、綏遠省西部の五原、臨河一帯に駐屯していた。日本が降伏したのち、かれは命令をうけて綏遠、熱河、察哈爾三省の解放区を攻撃した。そして、一九四五年八月に帰綾、集寧、豊鎮を攻略し、九月はじめに興和、尚義、武川、陶林、新堂、涼城を占領し、大挙して察哈爾解放区を攻撃し、張家口にせまった。わが軍は自衛のために立ちあがって、これを撃退し、おびただしい将兵を捕虜にした。
〔6〕 「匪賊討伐手帳」とは、一九三三年に蒋介石が編集した反革命的な小冊子のことで、もっぱら中国の人民軍隊と革命根拠地を攻撃する方法についてのべたものである。一九四五年、抗日戦争が終わると、蒋介石はこの小冊子を再版して、国民党の将校に配布し、つぎのような密令をくだした。「今回の匪賊討伐は人民の幸福のかかるところである。かならず、従来の抗戦の精神にもとづき、中正の編集せる『匪城討伐手帳』にしたがって、配下のものを督励し、討伐に力をつくし、すみやかに任務をなしとげよ。国家に功労あるものはかならず賞をうけ、怠りたるもの、誤りをおかせるものはかならず法によって罪に問わるべきである。配下の匪賊討伐部隊に伝達し、将兵一体となってこれを遵守せんことをのぞむ。」
(一九四五年十一月七日)
これは、毛沢東同志が中国共産党中央のために起草した党内指示である。
(一)国民党は、アメリカの援助のもとに、あらゆる力を動員してわが解放区を進攻している。全国的な規模の内戦はすでにはじまっている。わが党の当面の任務は、あらゆる力を動員して、自衛の立場にたって国民党の進攻を粉砕し、解放区をまもり、平和の局面をかちとることである。この目的をたっするには、解放区の農民がひろく小作料引き下げという利益をえられるようにし、労働者とその他の勤労人民が適当な賃上げ、待遇改善という利益をえられるようにすること、同時に、地主も暮らしていけるようにし、工商業資本家もなお利潤をえられるようにすること、また、来年大規模な生産運動をくりひろげて、食糧や日用必需品の生産をふやし、人民の生活を改善し、飢民、難民を救済し、軍隊の必要物資を供給することなどが、ひじょうにさしせまった任務となってくる。小作料引き下げと生産という二つの重要な仕事をりっぱになしとげてこそ、困難を克服し、戦争を支援し、勝利をおさめることができる。
(二)いま、戦争は規模が大きく、多くの指導者は前線で指揮をとっているので、小作料引き下げや生産にまで心をくばることはできない。したがって、分業をおこなわなければならない。後方にのこっている指導者は、直接前線を支援するいろいろな仕事をするほかに、時機を失することなく小作料引き下げと生産という二つの重要な仕事の手配をしなければならない。全解放区、とくに広大な新解放区では、大多数の農民大衆の革命的情熱をもりあげるために、ぜひともこの数ヵ月のうちに(冬季と春季に)大規模な小作料引き下げ運動をおこし、小作料引き下げを普遍的に実行しなければならない。同時に、一九四六年には、ぜひとも全解放区の農業と工業の生産の新たな発展をはからなければならない。新しい大規模な戦争があるからといって、小作料引き下げと生産をおろそかにしてはならない。それとは逆に、国民党の進攻にうち勝つためにこそ、小作料引き下げと生産に力をいれなければならないのである。
(三)小作料引き下げは、政府が恵むものであってはならず、大衆闘争によってかちとるべきものである。これが、小作料引き下げが成功するかどうかの鍵である。小作料引き下げのたたかいのなかでいきすぎの現象がうまれることはさけがたい。それが、ほんとうに広範な大衆の自党にもとづくたたかいでさえあれば、いきすぎの現象は、あらわれてから是正すればよい。そのときにならなければ、地主に生きる道をあたえ国民党を援助させないようにすることが農民と全人民にとって有利なのだということを、大衆に説いて理解させることはできないのである。当面のわが党の方針は、依然として小作料引き下げであって、土地の没収ではない。小作料引き下げ中でもそのあとでも、大多数の農民が農会に組織されるように援助しなければならない。
(四)大多数の生産者を生産互助団体に組織することは、生産運動が勝利する鍵である。政府が農業貸付金、手工業貸付金を出すことは、どうしても欠くことのできない措置である。農期をたがえないこと、農作業のおくれを少なくすることも、きわめて重要である。現在は、一方では戦争のために民力を動員しなければならないし、他方ではできるだけ農期をたがえないようにしなければならないのであって、調整の方法を講ずる必要がある。部隊、機関、学校は戦争、仕事、学習をさまたげないことを条件に、やはり適当に生産に参加しなければならない。そうしなければ、生活を改善し、人民の負担を軽減することはできない。
(五)われわれはすでに、いくつかの大都市と多くの中都市を手にいれた。これらの都市の経済を支配し、工業、商業、金融業を発展させることが、わが党の重要な任務となっている。この目的をたっするには、いま社会にいるすべての有用な人材を活用すること、かれらと協力しかれらから技術と管理の方法を学ぶよう党員を説得することが、ひじょうに必要である。
(六)あくまで人民と一体になり、人民の経済的困難に関心をよせ「小作料引き下げの実施と生産の発展という二つの重要な仕事を、人民の困難解決をたすける重要な鍵とすれば、われわれは人民の心からの支持を得ることができ、反動派のどんな進攻にもうち勝つことができるのだということを、党員におしえなければならない。何ごとについても、長期間もちこたえるという点から考えて、人力、物力をたいせつにし、すべてを長期計画でやるようにすれば、われわれはかならず勝利することができる。
(一九四五年十二月十五日)
これは、毛沢東同志が中国共産党中央のために起草した党内指示である。
これまでの数ヵ月間に、わが党は人民を指導して、敵・かいらい勢力を一掃し、解放区にたいする国民党の進攻を粉砕するはげしいたたかいのなかで、偉大な勝利をおさめた。全党の同志は心を一つにし力をあわせて、すべての活動においていちじるしい成果をおさめた。一九四五年はやがてすぎさろうとしている。一九四六年の各解放区の活動では、つぎの諸点に注意しなければならない。
(一)新たな進攻の粉砕。国民党は、綏遠省、山西省、河北省南部の三ヵ所でわが解放区を大挙進攻してわが軍に粉砕された。そののち、またもや大きな兵力を動かして、新たな進攻を準備している。国民党に内戦をすみやかに停止させるだけの新しい状況があらわれなければ、一九四六年春の戦闘ははげしいものとなるであろう。したがって、自衛の立場にたち、あらゆる努力をはらって国民党の進攻を粉砕することが、依然として、各解放区の中心任務である。
(二)高樹勛運動〔1〕の展開。国民党の進攻を粉砕するために、わが党は、攻撃を準備しているかまたは現に攻撃しているすべての国民党軍を分化させる工作をすすめなければならない。一つは、わが軍が国民党軍にたいして公然たる幅広い政治宣伝と政治攻勢をおこなって、国民党の内戦部隊の戦意をくじいていくことである。他の一つは、国民党軍の内部で蜂起を準備し組織すること、つまり、高樹勛運動を展開して、大量の国民党軍が戦争の重大な局面にさいし、高樹勛に見習って、人民の側にたち、内戦に反対し平和を主張するようにすることである。この工作を着実にすすめ、急速にその効果をあげるために、各地とも中央の指示にしたがって、専門部門を設け、大量の幹部を配置してこの工作に専心させなければならない。各地の指導機関は、これに周到な指導をあたえなければならない。
(三)軍隊の訓練。各解放区の野戦軍は、一般的にいってすでに編成ができており、地方軍もまた少なくない。いまのところ、軍隊の拡大は一般に停止し、作戦のあいまを利用して訓練に力をいれるべきである。野戦軍、地方軍、民兵のいずれをとわずそうすべきである。訓練の課目では、やはり射撃、銃剣術、手榴弾投擲などの技術の向上を主とし、戦術水準の向上を補助とし、とくに夜戦の訓練に重点をおく。訓練の方法としては、将校が兵士に教え、兵士が将校に教え、また兵士同士で教えあうといった大衆的な訓練運動を展開すべきである。一九四六年には、軍隊内の政治工作改善の任務をいっそうよく遂行し、軍隊に存在する教条主義と形式主義の作風を克服して、将兵の団結、軍民の団結、友軍との団結のため、敵軍を瓦解させるため、訓練、供給、戦闘の任務の達成を保証するために奮闘しなければならない。各地の民兵は、いまの条件におうじて、組織しなおさなければならない。軍隊の後方勤務の仕事は、再調整しなければならない。あらゆる努力をはらって、各地の砲兵部隊と工兵部隊を新設または拡充すべきである。軍事学校はこれからもつづけ、技術要員の訓練に重点をおくべきである。
(四)小作料引き下げ。中央の一九四五年十一月七日づけの指示〔2〕にしたがって、各地方はぜひとも、一九四六年にすべての新解放区で大規模な、大衆的な、だが党の指導による小作料・利子引き下げ運動をおこさなければならない。労働者には適当な賃上げをする。この運動のなかで、広範な大衆がみずからを解放し組織して、解放区の自覚した主人公になるようにさせるのである。新解放区で、この断固とした措置をとらなければ、大衆は国共両党のどちらがよくどちらが悪いかを区別することができず、両党のあいだを動揺してわが党をだんこ援助することができなくなる。旧解放区では小作料・利子引き下げの仕事を再点検し、旧解放区をさらにかためるべきである。
(五)生産。十一月七日の指示にしたがって、各地方は、ただちにあらゆる準備をととのえて、ぜひとも、一九四六年のわが全解放区の公営、私営の生産を、規模の面でも成果の面でもこれまでのどの年をもしのぐものとしなければならない。人民のあいだにうまれている疲労気分は、小作料引き下げと生産の二つの任務の実現にしんけんに取り組んでいちじるしい成果をおさめたときはじめて、克服することができる。小作料引き下げと生産の二大任務が完成されるかどうかによって、解放区における政治闘争、軍事闘争の勝敗が最後的に決定される。各地とも絶対にこれをおろそかにしてはならない。
(六)財政。最近のさしせまった大量の仕事をまかなうために重くなった財政上の負担を、一九四六年中に、計画的に順をおって正常な状態にかえていかなければならない。人民の負担のあまり重いものは、適当に軽減しなければならない。長くもちこたえられるように、各地とも、生産からはなれるものの数はその地方の財政的負担がゆるす限度内におさえなければならない。軍隊は数より精鋭をとうとぶということは、今後も建軍原則の一つである。生産の発展、供給の保障、指導の集中、経営の分散、軍民双方への配慮、公私双方への配慮〔3〕、生産と節約を同等に重視することなどの原則は、依然として、財政経済問題を解決する適切な方針である。
(七)擁政愛民と擁軍優抗〔4〕。一九四六年には、この二つの活動を、この数年間よりももっとりっぱにやっていかなければならない。これは国民党の進攻を粉砕し、解放区をかためるうえで、重大な意義をもつであろう。軍隊内では、一人ひとりの指揮員、戦闘員が擁政愛民の重要性を徹底的に認識できるように、かれらの思想の面から問題を解決しなければならない。軍隊のほうでりっぱにやっていけば、それにつれて、地方側も軍隊との関係を改善するにちがいない。
(八)救済。各解放区には、多くの罹災民、難民、失業者、半失業者がいて、早急の救済を必要としている。この問題の解決のよしあしが各方面におよぽす影響はひじょうに大きい。救済の方法としては、政府も各種の万策を講ずるが、主として大衆の相互援助によって解決すべきである。党と政府は、大衆がこうした相互援助による救済をおこなうようにはげまさなければならない。
(九)地元の幹部をたいせつにすること。現在ではどの解放区でも、よそからきた幹部がおおぜい各級で指導の仕事をしている。東北地方の各省ではとくにそうである。各地の指導機関は、よそからきたそれらの幹部に、じゅうぶんな熱意と誠意をもって地元の幹部をたいせつにするよう、じゅんじゅんと説ききかせなければならない。そして地元の幹部をみわけ、そたて、抜てきすることを自己の重要な任務とするようにさせなければならない。こうしてこそ、わが党は解放区に根をおろすことができるのである。よそからきたものが地元のものを軽視する作風は批判されなければならない。
(十)すべてに持久的な計画をたてること。時局の発展がどうであろうと、わが党としては、すべてに持久的な計画をたてなければならない。そうしてこそ、不敗の地にたつことができるのである。いまわが党は、一方では解放区の自治、自衛の立場を堅持して、国民党の進攻にだんこ反対し、解放区の人民がすでに獲得した成果をかためており、他方では、国民党地区で発展しつつある民主運動(昆明の学生ストライキ〔5〕によって代表される)を援助して、反動派を孤立させ、広範な同盟者を獲得し、こうしてわが党の影響下にある民族民主統一戦線を拡大している。同時に、全国の平和と民主をめざして奮闘するために、わが党の代表団は近く諸政党および無党派の人びとの政治協商会議に出席し、また国民党との交渉を再開することになっている。しかし、事態はなお曲折をへるだろう。われわれの前には、新しい地区新しい部隊がまだしっかり固まっていないこと、財政的に困難があることなど、なお多くの困難がよこたわっている。われわれはそうした困難を正視し、克服しながら、すべての仕事の配置にあたって持久的な計画をたて、人力、物力の節約にじゅうぶん注意し、万一の成功をのぞむ気持ちを極力いましめなければならない。
以上の十項目は、一九四六年、ことにその前半の活動でとくに注意をはらうべき点である。各地の同志はその地方の状況にもとづいて、上述の方針を弾力性をもって実現するようにしてもらいたい。各地の政権建設の活動、統一戦線の活動、党の内外で時事教育をひろめる活動、解放区の付近の都市にたいする活動などもみな重要であるが、ここではふれないことにする。
〔1〕 一九四五年十月三十日、国民党第十一戦区副司令長官高樹勛は、一コ軍団と一コ縦隊の兵をひきいて、邯鄲の内戦前線で蜂起し、全国に大きな影響をあたえた。国民党軍の分化・瓦解工作および国民党軍に蜂起させる工作をさらにつよめるため、中国共産党中央は、国民党軍にたいして宣伝運動を展開し、国民党軍の将兵に、高樹勛部隊に見習って、解放区にたいする進攻を拒否し、内戦職場でサボタージュをおこない、人民解放軍と交歓し、蜂起して人民の側にたつようよびかけることを決定した。この運動は「高樹勛運動」とよばれた。
〔2〕 本巻の『小作料引き下げと清算は解放区をまもる二つの重要な仕事である』のこと。
〔3〕 ここにいう「公私双方への配慮」の「公私」とは、国家と個人の双方のことで、国営企業と私営企業の双方のことではない。
〔4〕 「擁政愛民」とは「政府を擁護し、人民を愛護しよう」という人民解放軍のスローガンを略したもの。「擁軍優抗」とは「軍隊を擁護し、抗日軍人家族を優遇しよう」という解放区の党・政府機関、大衆団体、人民大衆のスローガンを略したもの。「擁軍優抗」のスローガンはその後、「擁軍優族」つまり人民解放軍を擁護し革命軍人家族を優遇しよう、にあらためられた。
〔5〕 一九四五年十一月二十五日夜、雲南省の省都昆明市の大学生、高校生、中学生六千余人が、西南連合大学構内で内戦に反対する時事問題集会をもよおしたが、国民党反動派は軍隊をくりだして会場を包囲し、小口径砲、機関銃、小銃を発砲するとともに、学校付近を厳重に警戒し、教師や学生の通行、帰宅を禁止した。そこで各校の学生は共同ストをおこなった。国民党反動派は、十二月一日、多数の軍人や特務を西南連合大学と師範学院の二ヵ所におくり、手榴弾によって、四人を死亡させ、十余人を負傷させた。一般に、この流血事件を「一二・一虐殺事件」とよんでいる。
(一九四五年十二月二十八日)
これは、毛沢東同志が中国共産党中央のために起草した中国共産党中央東北局への指示である。ソ連が日本にたいして宣戦を布告し、ソ連赤軍が東北地方にはいってのち、中国共産党中央と中国人民解放軍は、ただちに多くの幹部と部隊を東北地方に派遣し、東北地方の人民を指導して、日本侵略者とかいらい満州国の残存勢力を消滅し、民族裏切り者を一掃し、土匪を掃討し、各級の地方民主政府を樹立した。しかしこのとき、あくまで全東北地方を独占しようとする国民党反動派は、アメリカ帝国主義の援助のもとに、海、陸、空の三方面から、東北地方に大量の軍隊をおくりこむとともに、すでに人民解放軍の手で解放されていた山海関、錦州などの要地を攻撃し、占領した。東北地方でのきびしい闘争はすでにさけがたいものとなり、しかも、この闘争は、あきらかに全国の情勢にとってとくに大きな意義をもっていた。毛沢東同志は、中国共産党中央のために起草したこの指示のなかで、東北地方の闘争が困難にみちたものであることを予見して、大衆の動員にしんけんにとりくみ、強固な根拠地を建設し、一歩一歩力をたくわえて、将来反攻に転ずる準備をととのえるために、東北地方の活動の重点を国民党占領区の中心から比較的遠くはなれた都市と広大な農村におき、「幹線はあけて、その両側を占領する」ことをいちはやく提起した。党中央と毛沢東同志のこの正しい方針が、林彪同志をはじめとする東北局によって効果的に実現されたために、三年後の一九四八年十一月には、全東北地方の解放という偉大な勝利をおさめることができた。
(一)わが党の東北地方における現在の任務は、根拠地をきずくこと、つまり、東満、北満、西満に強固な軍事的、政治的根拠地をきずくことである〔1〕。このような根拠地をきずくことはなまやさしいことではなく、苦難にみちたたたかいをへなければならない。このような根拠地をきずくには三、四年の時間が必要である。しかし、一九四六年の一年間に、初歩的な、しっかりとした創建の仕事をぜひともやりとげておかなければならない。そうしなければ、われわれはここにふみとどまれなくなるだろう。
(二)このような根拠地をきずく地域は、国民党がすでに占領し、あるいはこれから占領しようとしている大都市や主要交通線ではないということをいまはっきりさせておかなければならない。それは現在の条件のもとでは不可能なことである。このような根拠地をきずく地域はまた、国民党が占領している大都市や主要交通線の付近でもない。というのは、国民党が大都市と主要交通線をにぎったからには、われわれがそのすぐ近くの地域に強固な根拠地をきすくのを許すはずがないからである。このような地域では、わが党はじゅうぶんな活動をおこなって、軍事上の第一防御線をきずくべきで、けっしてかるがるしくこれを手ばなしてはならない。しかし、このような地域はわれわれの強固な根拠地にはならず、両党の遊撃区になるだろう。したがって、強固な根拠地をきずく地域は、国民党の占領地の中心から比較的遠くはなれた都市や広大な農村になる。現在、われわれはこのような地域を定めて、力を配置し、全党をこの目標にむかって前進させなければならない。
(三)強固な根拠地をきずく地域を定め、力を配置し、さらに、わが軍が量的に大きく発展してからは、わが党の東北地方における活動の重点は大衆活動になる。国民党は東北地方で一時期わが党より強い力をもつだろうから、もしわれわれが、大衆を闘争に立ちあがらせ、大衆のために問題を解決し、すべてを大衆にたよる、という点から出発せず、また、あらゆる力を動員して綿密な大衆活動をおこない、一年以内、とくにここ数ヵ月の緊迫した時機に、初歩的な、しっかりとした基礎をきずかないなら、われわれは東北地方で孤立して、強固な根拠地をきずくことも国民党の進攻にうち勝つこともできず、きわめて大きな困難にぶつかり、失敗するおそれさえあるということ、逆に、大衆にしっかりとたよっていくなら、われわれはあらゆる困難にうちかって、自己の目的を一歩一歩たっしていくだろうということを、すべての幹部にはっきりと理解させなければならない。大衆活動の内容は、人民を立ちあがらせて民族裏切り者にたいする清算闘争①をおこなうことであり、小作料引き下げと賃金引き上げの運動であり、生産運動である。これらの闘争のなかで、さまざまな大衆団体を組織し、党の中核を確立し、大衆の武装組織と人民の政権をうちたて、大衆闘争を経済闘争から政治闘争へと急速にたかめていき、大衆を根拠地の建設に参加させなければならない。最近、熱河省委員会が出した大衆を闘争に立ちあがらせることについての指示〔2〕は、東北地方にも適用することができる。わが党は東北地方の人民に目に見える物質的な利益をあたえなければならず、そうすることによってはじめて大衆はわれわれを支持し、国民党の進攻に反対するようになるのである。そうでなければ、大衆は国民党と共産党のどちらがよく、どちらが悪いかがわからず、一時国民党の欺瞞宣伝にのり、はては、わが党に反対するようにさえなって、東北地方でわれわれにきわめて不利な情勢がもたらされるだろう。
(四)わが党は現在、東北地方で一つの主体的な困難にぶつかっている。それは、多くの幹部と軍隊にとって東北地方ははじめてなので、地理や民情にくらいこと、幹部が、大都市を占領できないことに不満をいだいたり、大衆を立ちあがらせて根拠地をきずくという骨のおれる仕事に根負けしたりしていることである。このような状況はいずれも当面の情勢や党の任務と矛盾するものである。調査研究を重んじ、地理や民情に通じるとともに、東北地方の人民と一体になるよう心をきめ、人民大衆のなかから多くの活動家や幹部を育てあげるよう、外来のすべての幹部をくりかえし教育しなければならない。たとえ大都市や交通線が国民党のものになっても、東北地方の情勢はわれわれにとって依然として有利であることを、幹部に説明しなければならない。われわれが、大衆を立ちあがらせ、根拠地をきずくという思想をすべての幹部と兵士のあいだにひろめ、あらゆる力を動員して、すみやかに根拠地建設の偉大な闘争をすすめることができるなら、われわれは東北地方と熱河省に地歩をかためることができ、確実な勝利をおさめることができるのである。国民党の勢力をけっして過小評価してはならないし、また、国民党が東満と北満に進攻してくるだろうということで、骨のおれる仕事に根負けする気分をおこしてはならないことを、幹部におしえなければならない。こうした説明をするさい、国民党の勢力は途方もなく大きく、国民党の進攻は粉砕できないといった感じを幹部にあたえないようにしなければならないのはもちろんである。国民党は東北地方に深い組織的基盤をもっておらず、かれらの進攻は粉砕できるのであって、これがわが党に根拠地建設の可能性をあたえているのだということを指摘しなければならない。しかし、国民党軍は現在、熱河、遼寧両省の省境にむかって進攻しつつあり、もし打撃をこうむらなければ、かれらはまもなく東満と北満に進攻してくるだろう。したがって、わが党のすべてのものが決意をかためて、もっとも骨のおれる仕事にたずさわり、すみやかに大衆を立ちあがらせ、根拠地をさすき、西満と熱河省で国民党の進攻を断固として計画的に粉砕しなければならない。東満と北満では、国民党の進攻を粉砕する条件をすみやかにととのえることである。幹部のあいだにある、みずから血と汗をながして刻苦奮闘するかわりに、思いがけない便宜や僥倖によって勝利をえようとする気持ちは、すべて一掃しなければならない。
(五)西満、東満、北満では、すみやかに軍区と軍分区を設け、軍隊を野戦軍と地方軍にわける。地方を安定させ、野戦軍に呼応して国民党の進攻を粉砕するために、正規軍のかなりの部分を各軍分区に分散させて、大衆の動員、土匪の一掃、政権の樹立、遊撃隊、民兵、自衛軍の組織などの活動にたずさわらせる。すべての軍隊はきまった地区と任務をもたなければならす、そうしてはじめて、すみやかに人民と結びつき、強固な根拠地をきずくことができるのである。
(六)こんどわが軍十余万人が東北地方と熱河省にはいった。また、新たに入隊したものは二十余万人にのぼっており、なおひきつづき拡大していく傾向にある。これに党と政府の要員をくわえると、一年内に、四十万人以上になるだろう。このように多くの生産からはなれたものがもっぱら東北地方の人民の給養にたよるなら、けっして長くもちこたえることはできず、ひじょうに危険である。したがって、集中的に行動し、重大な作戦任務をになっている野戦兵団をのぞき、すべての部隊と機関は、戦闘と仕事のあいまに、生産にたずさわるようにしなければならない。一九四六年をけっしてむだに過ごしてはならず、全東北地方でただちにこのことを計画しなければならない。
(七)東北地方では、労働者と知識人の動向が、われわれの根拠地建設と将来の勝利の獲得にきわめて大きな関係をもっている。したがって、わが党は大都市と主要交通線にたいする活動、とくに労働者と知識人の獲得にじゅうぶんな注意をはらわなければならない。抗戦の初期にわが党が労働者と知識人を根拠地に獲得することに注意を欠いたことにかんがみ、こんど、東北地方の党組織は、国民党占領地区での地下活動に注意をはらうだけでなく、できるだけ労働者と知識人を軍隊および根拠地のさまざまな建設活動に参加させるようにしなければならない。
〔1〕 東満根拠地とは、中国長春鉄道の瀋陽・長春区間以東の吉林、西安、安図、延吉、敦化などの地区をさす。北満根拠地とは、哈爾浜、牡丹江、北安、佳木斯などの地区をさす。西満根拠地とは、中国長春鉄道の瀋陽・長春区間以西の齊齊哈爾、[シ+兆]安、開魯、阜新、鄭家屯、扶餘などの地区をさす。このほか、党は南満にも根拠地をきずいた。南満とは、中国長春鉄道の瀋陽・大連区間以東の安東(現在の丹東――訳者)、荘河、通化、臨江、清原および瀋陽西南の遼中などの地区をさす。南満の対敵闘争を堅持したことも、東北根拠地の建設に重要な役割をはたした。
〔2〕 一九四五年十二月、中国共産党熱河省委員会が出した「大衆を立ちあがらせることについての指示」のことである。この指示は、大衆を動員して民族裏切り者、持協にたいする摘発、報復を内容とした清算運動をおこなうことが、当面の大衆動員の中心的な環であり、この運動をつうじて、大衆の積極性をもりあげ、大衆の社会的、政治的、経済的地位をたかめ、労働組合、農民協会その他の大衆団体を組織するとともに、この運動が一段落したのちに、小作料と利子の引き下げの大衆運動にきりかえられるよう準備しなければならない、と指摘している。また、都市で大衆を立ちあがらせるには、まず労働者を立ちあがらせ、民族裏切り者、特務にたいする清算運動をすすめるなかで、労働者に前衛的な役割と指導的な役割をはたさせなければならない、と指摘している。この指示はさらに、都市管理についての一連の方法を身につけ、人民の力を愛護し、すべてのことを長期の見とおしをもってやらなければならないとのべている。
① 民族裏切り者にたいする清算闘争とは、党が人民を指導して、民族裏切り者にたいしておこなった大衆的な闘争のことである。闘争のおもな方式は、民族裏切り者にたいする大衆の摘発と公開審理をつうじて、国を裏切って敵につかえ、革命を破壊し、人民を苦しめ、しいたげたかれらの散々の犯罪行為をあばきたし、その清算をおこない、かれらに大衆のまえで罪を認めさせるとともに、人民法廷で罪状にもとづいて判決をくだすことであった。
(一九四六年四月)
この文書は、当時みられた国際情勢についてのある種の悲観的な評価に反対して書かれたものである。一九四六年の春、アメリカをかしらとする帝国主義と各国の反動派は、反ソ・反共・反人民の活動にますます拍車をかけ、「米ソはかならず戦う」とか、「第三次世界大戦はかならず勃発する」とか鼓吹した。こうした状況のもとで、当時、一部の同志は、帝国主義の力を過大評価し、人民の力を過小評価して、アメリカ帝国主義をおそれ、あらたな世界戦争の勃発をおそれたため、米蒋反動派の武力攻撃に直面して弱腰になり、革命戦争によってだんこ反革命戦争に反対しようとしなかった。毛沢東同志はこの文書で、こうしたあやまった思想に反対した。毛沢東同志は、世界の人民勢力か世界の反動勢力にたいして断固とした効果的な闘争をすすめるかぎり、あらたな世界戦争の危険を克服することができると指摘し、同時にまた、帝国主義国と社会主義国とは若干の妥協をおこなう可能性があるが、そうした妥協は「けっして、資本主義世界の各国人民に、これにならって国内でも妥協せよと要求するものではない」、「各国の人民はやはり、それぞれの状況にもとづいてそれぞれの闘争をおこなうだろう」と指摘した。この文書は、当時は党中央の一部の指導者のあいだで回覧されただけで、発表されなかった。一九四七年十二月の中国共産党中央の会議でこの文書は配布された。会議に参加した同志がその内容に一致して同意したので、その後、一九四八年一月に中国共産党中央が出した「一九四七年十二月の中央の会議における決議事項についての通達」のなかに全文が収録された。
(一)世界の反動勢力はたしかに第三次世界大戦を準備しており、戦争の危険は存在している。しかし、世界の人民の民主勢力は世界の反動勢力をしのいでおり、しかもますます発展しているので、戦争の危険は克服しなければならないし、またかならず克服することができる。したがって、米英仏とソ連との関係は、妥協か決裂かという問題ではなく、妥協が比較的はやくなるかおそくなるかという問題である。妥協というのは、平和的な話し合いをつうじて取り決めにたっすることである。比較的はやくなるとかおそくなるとかというのは、それが数年または十数年内になるか、それとももっと長くかかるかということである。
(二)上述のこうした妥協は、すべての国際問題についていうのではない。米英仏がひきつづき反動派に支配されるという条件のもとでは、それは不可能なことである。こうした妥協は、いくつかの重大問題をふくむ若干の問題についていうのである。しかし、このような妥協は、ここ当分のあいだは、まだそれほどおこなわれないだろう。米英仏とソ連との通商貿易関係は拡大する可能性がある。
(三)米英仏とソ連とのあいだのこうした妥協は、全世界のすべての民主勢力が米英仏の反動勢力にたいして、断固とした効果的な闘争をおこなう結果としてのみえられるのである。こうした妥協は、けっして、資本主義世界の各国人民に、これにならって国内でも妥協せよと要求するものではない。各国の人民はやはり、それぞれの状況にもとづいてそれぞれの闘争をおこなうだろう。反動勢力が人民の民主勢力にたいしてとる原則は、消滅できるものはかならず消滅し、しばらくのあいだ消滅できないものは将来消滅するようにする、ということである。こうした状況にたいして、人民の民主勢力も同様の原則をもって反動勢力に対処しなければならない。
(一九四六年七月二十日)
これは、毛沢東同志が中国共産党中央のために起草した党内指示である。蒋介石は一九四五年の冬に「双十協定」を破棄したが、しかし、かれは当時まだ全面的内戦の準備かできていなかった。なによりも、大量の国民党軍をまだ内戦の前線にはこんでいなかった。このため、国民党政府は、平和と民主を要求する全国人民の圧力におされて、一九四六年一月、中国共産党とその他の民主政党の参加する政治協商会議を招集しなければならなくなった。この会議では平和と民主にとって有利な一連の決議が採択され、そして一月十日には休戦令が公布された。しかし、蒋介石は政治協商会議の決議と休戦令をまもろうとはしなかった。一九四六年の前半には、国民党の軍隊かびきつづき、多くの地方で解放区に進攻してきたが、なかでも東北地方における進攻は規模が大きく、山海関以南では小規模の戦い、東北地方では大規模の戦いがおこなわれるという局面がつくりだされた。同時に、アメリカは、ひじょうに大きな力をさいて国民党軍の輸送と装備にあたった。一九四六年六月末、蒋介石とその主人アメリカは、すでに十分な準備ができたと考え、三ヵ月ないし六ヵ月のあいだに人民解放軍ぜんぶを殲滅できると考えて、六月二十六日、大挙、中原解放区を包囲攻撃したのを手はじめに、解放区にたいする全面的な進攻にのりだした。七月から九月までのあいだに、国民党軍はあい前後して江蘇・安徽解放区、山東解放区、山西・河北・山東・河南解放区、山西・察哈爾・河北解放区、山西・綏遠解放区に大挙進攻した。十月には、東北解放区にたいしてふたたび大規模な進攻をはじめ、同時に、ひきつづき大軍をもって陝西・甘粛・寧夏解放区を包囲した。全国的な規模の内戦が勃発したとき、国民党が解放区の進攻にまわした兵力は、正規車百九十三コ旅団(師団)ほぼ百六十万人にたっした。これは、総兵力つまり正規軍二百四十八コ旅団(師団)二百万人の八〇パーセントをしめている。各解放区の軍隊と人民は党中央と各中央局、中央分局の指導のもとに、蒋介石軍の進攻にたいし勇敢に反撃をくわえた。当時、解放区には六つの大きな作戦地域があった。この六つの作戦地域と、そこで戦った人民解放軍は、つぎのとおりである。山西・河北・山東・河南解放区、ここで戦ったのは劉伯承、鄧小平らの同志が指導する人民解放軍。華東解放区(山東解放区と江蘇・安徽解放区からなっている)、ここで戦ったのは陳毅、粟裕、譚震林らの同志が指導する人民解放軍。東北解放医、ここで戦ったのは林彪、羅栄桓らの同志が指導する人民解放軍。山西・察哈爾・河北解放区、ここで戦ったのは聶栄臻同志らが指導する人民解放軍。山西・綏遠解放区、ここで戦ったのは賀竜同志らが指導する人民解放軍。中原解放区、ここで戦ったのは李先念、鄭位三らの同志が指導する人民解放軍。当時、人民解放軍の総兵力はほぼ百二十万人で、敵の兵力にくらべると、数のうえでは劣っていた。人民解放軍は、毛沢東同志のさだめた作戦方針を正しく実行し、侵入してくる敵にたえず強力な打撃をあたえた。そして、およそ八ヵ月のあいだに、敵の正規軍六十六コ旅団と非正規軍とをあわせて七十一万余人殲滅して、ついに敵の全面的な進攻をくいとめた。つづいて、人民解放軍はしたいに、戦略的な反攻をくりひろげていった。
(一)蒋介石は休戦協定〔1〕をふみにじり、政治協商会議の決議〔2〕をふみにじって、東北地方でわが四平、長春などを占領したのち、いままた華東、華北地方で大挙してわが方に進攻しているが、将来ふたたび東北地方で進攻をおこなう可能性がある。自衛戦争によって蒋介石の進攻を徹底的に粉砕したときはじめて、中国人民は平和をとりもどすことができる。
(二)わが党とわが軍は、平和をかちとるため、いま、蒋介石の進攻を粉砕するいっさいの準備をすすめている。蒋介石にはアメリカの援助はあるが、人心が離反し、士気はあがらず、経済は困難におちいっている。われわれには外国の援助はないが、人心が集まり、士気はあがり、経済も自信がある。したがって、われわれは蒋介石にうち勝つことができる。全党はこのことについて、十分な確信をもつべきである。
(三)蒋介石にうち勝つ作戦方法は、一般的には運動戦である。したがって、いくつかの地方、いくつかの都市の一時的な放棄はさけられないばかりでなく、必要でもある。いくつかの地方、いくつかの都市を一時的に放棄するのは最後の勝利を得るためであって、そうしなければ最後の勝利はおさめられない。この点を全党と全解放区の人民がはっきり理解し、その心がまえをするようにさせなければならない。
(四)蒋介石の進攻を粉砕するためには、人民大衆と緊密に協力し、獲得できるすべての人びとを獲得しなければならない。農村では、一方ではだんこ土地問題を解決し、あくまで雇農、貧農に依拠し、中農と団結すべきであり、他方では土地問題の解決にさいして、普通の富農、中小地主と、民族裏切り者、豪紳、悪覇①とを区別すべきである。民族裏切り者、豪紳、悪覇のあつかいはきびしくし、富農、中小地主のあつかいはゆるやかにしなければならない。土地問題がすでに解決されている地方ではすべて、少数の反動分子はべつだが、地主階級全体にたいして態度をゆるめるべきである。生活の困難な地主にはすべて援助をあたえ、逃亡した地主はよびかえして生計の途をあたえ、こうして敵対分子を少なくし、解放区の強化をはかるのである。都市では、労働者階級、小ブルジョア階級およびすべての進歩的な人びとと団結するのはもちろん、すべての中間的な人びとと団結することにも心がけて、反動派を孤立させるべきである。国民党軍のなかでは、内戦に反対する可能性のあるものはすべて獲得して、好戦分子を孤立させるべきである。
(五)蒋介石の進攻を粉砕するためには、持久的な計画を立てなければならない。われわれの人的資源と物的資源を十分に節約し、浪費を極力いましめなければならない。各地ですでに発生している汚職現象を調査し、是正しなければならない。生産にはげんで、すべての必需品、まず第一に食糧と衣料の完全な自給をはかるようにしなければならない。いたるところに綿花を栽培し、どの家も糸をつむぎ、どの村も布を織るよう奨励しなければならない。東北地方であっても、こうした奨励をはじめるべきである。財政上の供給の面では自衛戦争の物的需要をみたすようにしなければならないし、同時にまた、人民の負担を以前よりも軽くし、わが解放区の人民の生活が戦争のなかでも改善されるようにしなければならない。要するに、蒋介石がすべてを外国にたよっているのとまったく反対に、われわれはすべてを自力更生にたよって、不敗の地に立つようにするのである。蒋介石支配区の、上には汚職と腐敗があり、下では人民が塗炭の苦しみをなめているというのとまったく反対に、われわれは刻苦奮闘し、軍隊と人民の双方に配慮をくわえるのである。こうした状況のもとでは、われわれはかならず勝利する。
(六)われわれのまえには困難があるが、それらの困難は克服できるし、また克服しなければならない。全党の同志と全解放区の軍民は、一致団結し、蒋介石の進攻を徹底的に粉砕して、独立、平和、民主の新中国をうちたてなければならない。
〔1〕 「休戦協定」とは、一九四六年一月十日、中国共産党の代表と蒋介石国民党政府の代表が協議のうえとりきめた軍事衝突停止についての協定のこと。この協定には、双方の軍隊は一月十三日の二十四時、それぞれの現在地で軍事行動を停止すべきであることが規定されている。しかし、蒋介石は、実際には、この休戦協定を大規模な戦争を手配するための煙幕として利用し、休戦令を下すと同時に、国民党の軍隊に「戦略的重要地点の先制奪取」を命じ、つづいて、ひんぱんに軍隊を動かし解放区にたいする進攻をおこなった。七月になると、蒋介石は休戦協定を公然と破棄し、解放区にたいする全面的な進攻をはじめた。
〔2〕 「政治協商会議」とは、国民党、共産党、その他の政党および無党派人士の代表が、一九四六年一月十日から三十一日まで、重慶でひらいた政治協商会議のこと。この会議では、つぎの五つの決議が採択された。(一)政府の組織問題についての取り決め。この取り決めには、「国民政府組織法を改正し、国民政府委員会を充実させる」こと、国民政府委員の定員をふやすこと、「国民政府委員は国民政府主席が中国国民党内外の人びとからこれを選任」し、「国民政府主席が各政党の人びとを国民政府委員に選任するよう申請するさいには、各政党がみずから指名する、ただし主席が同意しないばあいには、各政党がべつに人選する」こと、「国民政府主席が無党派の人びとを国民政府委員に選任するよう申請するさい、もし指名されたもののなかに、被選任者の三分の一から反対されるものがあれば、主席は考慮しなおし、べつにこれを選任しなければならない」こと、「国民政府委員の定員の半数は国民党員をもってこれにあて、のこりの半数はその他の政党と賢明達識の士をもってこれにあてる」ことがきめられている。国民政府委員会は抽象的に「政府の最高国務機関」と規定され、その権限は立法の原則、施政方針、軍政上の大方針、財政計画と予算、および国民政府主席の提出した事項などを討議、決定するにあると規定されている。他方、国民政府主席はきわめて大きな権限をもち、指定権、議案の相対的否決権および緊急処置権をもつものと規定されている。また、国民政府「行政院の、現有の部、会の政務委員および将来おかれる無任所政務委員の総数のうち、七名ないし八名は国民党外の人びとをむかえてこれにあてる」とも規定されている。(二)平和建国の綱領。この綱領は「総則」「人民の権利」「政治」「軍事」「外交」「経済および財政」「教育および文化」「善後救済」「華僑事務」など九章からなっている。「総則」の章では、全国各政党が「一致団結して、統一、自由、民主の新中国を建設する」こと、「政治の民主化、軍隊の国家化および政党の平等と合法化」を実行すること、「政治上の紛糾は政治的方法で解決し、それによって国家の平和的発展をたもつ」ことが規定されている。「人民の権利」の章では、「人民に、身体、思想、宗教信仰、言論、出版、集会、結社、居住、移転、通信の自由を享有することを確実に保障する」こと、「司法および警察以外のいかなる機関あるいは個人にたいしても、人民を逮捕し、審問し、処罰する行為にでることを厳禁し、これを犯したものは処罰すべきである」ことが規定されている。「政治」の章では、「各級の行政機構を整頓し、その権限と責任を統一し、かつ明確に区分し、いっさいの重複機関を廃止し、行政手続を簡素化し、各級の責任制を実施する」こと、「適任者の在職を保障し、人をもちいるには党派の別なく、能力と経歴を基準とし、兼職と情実採用を禁止する」こと、「監察制度を励行し、汚職に厳罰をくわえ、人民の自由な摘発を容易にする」こと、「地方自治を積極的に推進し、下から上への普通選挙を実施する」こと、「中央と地方の権限については均権主義をとり、各地でその地方の実情におうじた措置を講じうるものとするが、省、県の公布する法規は中央の法令に抵触してはならない」ことが規定されている。「軍事」の章では、「軍隊の編成は国防上の必要にこたえ、民主的政治制度と国情におうじて、軍制を改革し、軍隊と政党の分立、軍事と民政の分離を実行し、軍事教育を改善し、装備を充実させ、人事、経理制度を健全にして、近代的な国軍を建設すべきである」こと、「全国の軍隊は、改編計画にしたがって、確実に編制を縮小すべきである」ことが規定されている。「経済および財政」の章では、「官僚資本の発展を防止するとともに、官吏がその権勢と地位を利用して、投機、独占、脱税、密輸、公金費消、輸送手段の不法使用をおこなうことを厳禁する」こと、「小作料・利子引き下げを実施し、小作権を保護し、小作料の納入を保証させ、農業貸付を拡大し、高利の搾取を厳禁して、農民の生活を改善するとともに、土地法を施行して、『耕すものに土地を』という目的を達成する」こと、「労働法を施行し、労働条件を改善する」こと、「財政を公開すること。予算決算制度を励行し、支出を緊縮し、収支を平衡させ、中央と地方の財政を区分し、通貨を収縮させ、幣制を安定させ、内外債の募集と用途を公表し、これちを民意機関に監督させる」こと、「税制を改革し、苛酷雑多な税と不法な割当てを根絶する」ことが規定されている。「教育および文化」の章では、「学術の自由を保障し、宗教信仰、政治思想を理由にして学校行政に干渉をくわえない」こと、「国家予算のなかで、教育・文化事業費の比率をふやす」こと、「戦時に実施した新聞、出版、映画、演劇、郵便・電信・電話の検閲の規定を廃止する」ことが規定されている。(三)国民大会の問題についての取り決め。この取り決めには、国民大会の代表として「各政党および賢明達識の土の代表七百名をふやす」こと、「第一期国民大会の権限は憲法の制定にある」ことが規定されている。(四)憲法草案の問題についての取り決め。この取り決めには、憲法草案審議委員会を組織し、国民党の憲法草案を改正することが規定されているとともに、憲法草案改正の原則が規定されている。国民大会、政府機関の権限について、原則的な規定をおこなったほか、とくに「地方制度」と「人民の権利義務」について規定した。「地方制度」については、「省を地方自治の最高単位ときめる」こと、「省と中央の権限の区分は均権主義によって規定する」こと、「省長は民選とする」こと、「省は省の憲法を制定してよいが、国の憲法に抵触してはならない」ことか規定されている。「人民の権利義務」については、「民主国家の人民が享有すべき自由および権利はすべて、不法に侵犯されないように憲法によって保障さるべきである」こと、「人民の自由について、もし法律によって規定するときは、自由保障の精神によるべきであって、制限を目的とすべきでない」こと、「労役については、自治法で規定すべきであり、憲法では規定しない」こと、「一定の地方に集まり住む少数民族は、その自治権を保障される」ことが規定されている。(五)軍事問題についての取り決め。この取り決めには、「軍隊の制度は、わが国の民主的政治制度と国情におうじて改革すべきである」こと、「徴兵制度を改善する」こと、「軍隊の教育は建軍の原則によってこれをおこない、永久に政党や私人関係を超越すべきである」こと、「軍隊と政党の分立を実行する」こと、「いかなる政党および個人も軍隊を政争の具に供してはならない」こと、「軍事と民政の分離を実行する」こと、「軍隊に勤務する現役の軍人は、すべて、行政官をかねえない」ことが規定されている。国民党の軍隊と解放区の軍隊の編成がえについては、「軍事三人小委員会が、もとの計画にしたがって、できるかぎりすみやかに、中国共産党の軍隊の編成規定をとりきめ、編成がえを終わるべきである」こと、国民党の軍隊は、「軍政部のもとの計画によって、六ヵ月内に、できるだけすみやかに、その九十コ師団の編成がえをおこなう」こと、「以上の二つの編成がえを終えたのち、さらに、全国のすべての軍隊を五十コ師団ないし六十コ師団に統一的に編成すべきである」ことが規定されている。政治協商会議のこれらの取り決めは、それぞれ程度の差はあれ、人民に有利で、蒋介石の反動支配に不利であった。蒋介石は、一方では、これらの取り決めを利用して和平の見せかけとするため、これらの取り決めの承認を表明し、他方では、全国的な内戦をおこすため、積極的に戦争の準備をすすめた。政治協商会議のこれらの取り決めは、その後まもなく、蒋介石によってつぎつぎと破棄された。
① 悪覇とは、ある種の反動勢力にたより、あるいは反動勢力をかたちづくり、縄張りをもうけ、悪事のかぎりをつくしていたもののことである。かれらは、いつも暴力と権勢をもちいて人民をしいたげ、人民の財産をうばいとり、人民の生命と財産に重大な損害をもたらした。
(一九四六年八月)
これは、毛沢東同志が第二次世界大戦終了後まもなく、国際情勢と国内情勢について語ったひじょうに重要な談話である。毛沢東同志はこの談話のなかで、「すべての反動派はハリコの虎である」という有名な論断を下した。この論断は、わが国の人民を思想的に武装させ、わが国の人民に勝利の確信をつよめさせ、人民解放戦争のなかできわめて大きな役割をはたした。レーニンが帝国主義を「泥の足の巨人」とみなし、「かかし」とみなしたのと同様に、毛沢東同志は帝国主義とすべての反動派をハリコの虎とみなしたが、これらはすべてかれらの本質をのべたものである。これは、革命的人民の根本的な戦略思想である。第二次国内革命戦争の時期いらい、毛沢東同志は、革命家は、戦略的には、全体においては、敵を{蔑視|べっし}して、かれらと果敢にたたかい、果敢に勝利をかちとらなければならず、同時にまた、戦術的には、個々の局部、個々の具体的な闘争においては、敵を重視して、慎重な態度をとり、闘争の芸術を重んじ、異なった時間、場所、条件におうじて、適切な闘争方式をとり、それによって、敵を一歩一歩孤立させ、消滅しなければならないことを、かつていくどとなく指摘した。毛沢東同志は、一九五八年十二月一日の中国共産党中央政治局の武昌会議で、つぎのように指摘した。「世の中のあらゆる事物が二重性をそなえている(すなわち対立面の統一の法則)ように、帝国主義とすべての反動派も二重性をそなえており、かれらは本物の虎でもあれば、ハリコの虎でもある。歴史上、奴隷主階級、封建地主階級、ブルジョア階級は、支配権力をにぎるまえと支配権力をにぎったのちのある時期には、生気にあふれ、革命家であり、すすんだ人間であり、本物の虎であった。だが、その後は、かれらの対立面である奴隷階級、農民階級、プロレタリア階級がしだいに強大になって、かれらと闘争し、しかもその闘争がますます激しくなったので、かれらはしだいに反対の側に転化して、反動派になり、おくれた人間になり、ハリコの虎になり、ついには人民によってくつがえされたか、あるいは、くつがえされようとしている。反動的な、おくれた、朽ちはてた階級は、人民の決死の闘争に直面したときも、やはりこうした二重性をあらわす。一方では、かれらは本物の虎であって、人を食う。何百万、何千万の人を食う。人民のたたかいの事業は苦難の時代におかれ、多くのまがりくねった道があらわれる。中国人民は、帝国主義、封建主義、官僚資本主義の中国における支配をくつがえすために、百余年の歳月をついやし、何千万人もの生命を犠牲にして、はじめて一九四九年の勝利をかちとった。みたまえ、これは生きた虎、鉄の虎、本物の虎ではないか。だが、かれらはついに、ハリコの虎、死んだ虎、豆腐の虎に転化してしまった。これは歴史の事実である。まさか、こうした事実を見たり聞いたりしたことがないとはいえまい。それはほんとうに、何千何万、何千何万とあるのである。したがって、本質的に見、なかい目で見、戦略的に見るときには、帝国主義とすべての反動派をありのままにハリコの虎と見なければならない。われわれの戦略思想は、この観点のうえにうちたてられる。他方では、かれらはまた、生きた、鉄の、本物の虎であって、人を食う。われわれの戦術思想は、この観点のうえにうちたてられる。」戦略的には敵を蔑視し、戦術的には敵を重視しなければならないという問題については、本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』の第五章第六節と、本巻の『当面の党の政策におけるいくつかの重要問題について』の第一部分を参照されたい。
ストロングの問い 中国の問題は、近い将来、政治的解決、平和的解決の望みがあるとお考えになりますか。
毛沢東の答え それはアメリカ政府の態度にかかっています。もしアメリカの人民が、蒋介石の内戦をたすけているアメリカ反動派の手をおさえることができるなら、平和の望みはあります。
問 もしアメリカが、いままでにあたえた援助はべつとして、これ以上援助しないとしたら〔1〕、蒋介石はあとどのくらい戦えるでしょうか。
答 一年以上でしょう。
問 蒋介石は、経済的にそんなに長くもちこたえることができるでしょうか。
答 できます。
問 もしアメリカが、今後これ以上蒋介石になんの援助もあたえないということを表明したら?
答 いまのところ、アメリカ政府と蒋介石が近く戦争をやめようという願望をもっていることをしめす兆候は、まだなにも見られません。
問 共産党はどのくらいもちこたえられますか。
答 わたしたち自身の願いからいえば、ただの一日も戦いたくはありません。しかし、情勢にせまられて、どうしても戦わなければならないなら、わたしたちは最後まで戦うことができます。
問 アメリカの人民から、共産党はなんのために戦争するのかと聞かれたら、わたしはどう答えたらよいでしょうか。
答 蒋介石が中国人民を殺そうとしているので、人民は生きていくために、どうしても自分で自分をまもらなければなりません。これは、アメリカの人民にもわかってもらえることです。
問 アメリカが反ソ戦争をやるかどうかについて、あなたはどう見ておられますか。
答 反ソ戦争の宣伝には二つの面があります。一面では、アメリカ帝国主義はたしかに反ソ戦争の準備をしており、いまの反ソ戦争の宣伝やその他の反ソ宣伝は、反ソ戦争のための政治的な準備です。他の一面では、こうした宣伝は、アメリカ帝国主義がいま直面している現実の多くの矛盾をおおいかくそうとして、アメリカの反動派がはっている煙幕です。それらの矛盾というのは、アメリカの反動派とアメリカの人民とのあいだの矛盾であり、アメリカ帝国主義とその他の資本主義国、植民地・半植民地国とのあいだの矛盾です。アメリカの反ソ戦争のスローガンがもつ当面の現実的な意義は、アメリカの人民を抑圧し、また、資本主義世界にむかってその侵略勢力をひろげる点にあります。ご承知のように、ヒトラーやその仲間の日本軍閥は、かつて長いあいだ、自国の人民を奴隷化し他の国ぐにを侵略するための口実に、反ソのスローガンをつかっていましたが、いまのアメリカの反動派のやり方もまったくおなじです。
アメリカの反動派が戦争をひきおこすには、まず第一に、アメリカの人民を攻撃しなければなりません。現に、かれらはアメリカの人民に攻撃をくわえ、政治的に経済的にアメリカの労働者と民主的な人びとを抑圧しており、アメリカでファシズムを実行しようとしています。アメリカの人民は立ちあがってアメリカの反動派の攻撃に抵抗すべきです。わたしは、アメリカの人民がそうするにちがいないと信じています。
アメリカとソ連のあいだはきわめてひろい地帯でへだてられており、そこにはヨーロッパ、アジア、アフリカの三つの州の多くの資本主義国と植民地・半植民地国があります。アメリカの反動派は、これらの国ぐにを屈服させてからでなければ、ソ連への攻撃などできるものではありません。現在アメリカは、太平洋で、イギリスが以前もっていた全勢力範囲よりもっと大きな地域を支配し、日本、国民党支配下の中国、朝鮮の半分、南太平洋を支配しています。また、はやくから中南米を支配しています。さらに、全大英帝国と全西ヨーロッパを支配しようと考えています。アメリカはいろいろな口実のもとに、多くの国ぐにで大がかりな軍事配置をおこない、軍事基地を設けています。アメリカの反動派は、かれらが世界の各地にすでに設け、あるいはこれから設けようとしているすべての軍事基地は、みなソ連に反対するためのものだ、といっています。たしかにそのとおりで、これらの軍事基地はソ連を目標にしています。しかし、いままっさきにアメリカの侵略をうけているのは、ソ連ではなく、軍事基地の設けられているこれらの国ぐになのです。これらの国ぐにが、ほんとうに自分たちを抑圧しているのはだれか、ソ連なのか、それともアメリカなのか、ということを知るようになるのは、それほど遠いことではないと、わたしは信じています。アメリカの反動派は、いつかはきっと、かれら自身が全世界人民の反対のただなかにあるのを発見するでしょう。
もちろん、わたしは、アメリカの反動派がソ連にたいする攻撃を考えていないといっているのではありません。ソ連は、世界平和のまもり手であり、アメリカの反動派の世界制覇をはばむ強大な要素であって、ソ連があるかぎり、アメリカと世界の反動派の野心はぜったいに実現できません。そのために、アメリカの反動派はソ連をひじょうに憎んでおり、たしかに、この社会主義国を消滅しようと夢みています。しかし、いま第二次世界大戦が終わって間もないときに、アメリカの反動派がこのように鳴り物入りで米ソ戦争を強調し、険悪な空気をかきたてているのでは、だれでも、かれらの実際のねらいがなんであるかを見きわめずにはいられません。かれらは、実は、反ソのスローガンのもとで、アメリカの労働者と民主的な人びとに気違いじみた攻撃をくわえ、また、アメリカの対外拡張の対象となっているすべての国ぐにをアメリカの従属物に変えようとしているのです。アメリカの人民と、アメリカの侵略の脅威をうけているすべての国ぐにの人民は、団結して、アメリカの反動派と各国におけるその手先の攻撃に反対すべきだと、わたしは考えます。このたたかいが勝利したときにだけ、第三次世界大戦は避けることができるのであって、そうでなければ、さけることはできません。
問 ひじょうに適切なご説明です。けれども、もしアメリカが原子爆弾をつかうとしたら? もしアメリカがアイスランドや沖縄から、また中国にある基地から、ソ連を爆撃するとしたら?
答 原子爆弾は、アメリカの反動派が人をおどかすためにつかっているハリコの虎で、見かけはおそろしそうですが、実際にはなにもおそろしいものではありません。もちろん、原子爆弾は一種の大量殺人兵器ですが、しかし、戦争の勝敗を決定するのは人民であって、一つや二つの新兵器ではありません。
すべての反動派はハリコの虎です。反動派は、見たところおそろしそうですが、実際にはたいした力はもっていません。ながい目で見れば、ほんとうに強大な力をもっているのは、反動派ではなくて、人民です。一九一七年のロシアの二月革命以前に、ロシアでは、いったいどちらの側がほんとうの力をもっていたでしょうか。うわべから見れば、当時のツァーは力をもっていました。ところが、二月革命の一陣の風はたちまちツァーを吹きとばしてしまいました。結局、ロシアでは、労農兵ソビエトの側に力があったのです。ツァーはハリコの虎にすぎませんでした。ヒトラーも、かつては、たいへん力があると見られていたのではないでしょうか。しかし、歴史は、かれがハリコの虎であることを証明しました。ムッソリーニもそうでしたし、日本帝国主義もそうでした。これとは逆に、ソ連および民主と自由を愛する各国人民の力は、人びとの予想よりはるかに強大でした。
蒋介石や、その支持者であるアメリカの反動派もすべてハリコの虎です。アメリカ帝国主義といえば、人びとは途方もなく強大なものだとおもっているようですし、中国の反動派も、アメリカの「強大さ」をもちだして中国人民をおどかしています。しかし、アメリカの反動派も、歴史上のすべての反動派とおなじように、なんの力ももっていないことが証明されるでしょう。アメリカでほんとうに力をもっているのは他の部類の人たちで、それはアメリカの人民です。
中国の状況についていえば、わたしたちがたよりにしているのは粟プラス小銃にすぎませんが、この粟プラス小銃のほうが蒋介石の飛行機プラス戦車よりもっと強いことを、歴史は最後に証明するでしょう。中国人民のまえにはまだ多くの困難があり、アメリカ帝国主義と中国反動派の共同攻撃のもとで、中国人民は長いあいだ苦しみをなめるでしょうが、しかし、これらの反動派はいつかはかならず敗北し、わたしたちはいつかはかならず勝利します。その理由はほかでもなく、反動派は反動を代表し、わたしたちは進歩を代表しているからです。
〔1〕 アメリカ帝国主義は、蒋介石が反人民の内戦をひきおこすのを支持するために、蒋介石政府に膨大な援助をあたえた。一九四六年六月までに、アメリカは、計四十五コ師団の国民党軍を装備した。また国民党のために、陸軍、海軍、空軍、侍務、交通警察、参謀、軍医、主計などの軍事要員十五万人を訓練した。アメリカは軍艦、飛行機をつかって、国民党軍十四コ軍団、計四十一コ師団および交通警察八コ総隊、計五十四万人あまりを解放区攻撃の前線に輸送した。アメリカ政府は、九万人の海兵隊を中国に上陸させ、上海、青島、天津、北平、秦皇島などの重要都市に進駐させるとともに、華北ではさらに、国民党のために交通線をまもった。アメリカが蒋介石政府にあたえた各種の援助は、一九四九年八月五日にアメリカ国務省が発表した「アメリカと中国の関係」と題する白書のなかで明らかにされた資料によれば、抗日戦争から一九四八年までに、総計四十五億ドルあまりにたっしている(アメリカが抗日戦争中に国民党政府にあたえた援助のほとんどすべても、国民党は、のちに反人民の内戦をおこなうためにとっておいた)。だが実際には、アメリカの蒋介石にたいする援助は、この数字をはるかにこえている。アメリカの白書は、アメリカが蒋介石政府にあたえた援助は、蒋介石政府の「貨幣支出の五〇パーセント以上」に相当し、「その政府予算との関係では、比重のうえで、戦後アメリカがあたえた西欧諸国のいずれの国にたいする援助をも上回るもの」であることを認めている。
(一九四六年九月十六日)
これは、毛沢東同志が中国共産党中央革命軍事委員会のために起草した党内指示である。
(一)優勢な兵力を集中して敵を各個に殲滅する〔1〕作戦方法は、戦役上の部署配置にも適用されなければならず、また戦術上の部署配置にも適用されなければならない。
(二)戦役上の部署配置の面では、敵が多くの旅団〔2〕(あるいは連隊)で、数路からわが軍をめざして前進してきたばあいには、わが軍は圧倒的に優勢な兵力、すなわち敵の六倍、五倍、あるいは四倍の兵力、すくなくとも敵の三倍の兵力を集中し、適当な時機をとらえて、まず敵軍の一コ旅団(あるいは連隊)を包囲殲滅しなければならない。この旅団(あるいは連隊)は、敵軍の旅団のなかでも比較的弱いもの、あるいは支援が比較的すくないもの、あるいはまたその敵軍地の地形や民情がわが方にもっとも有利で敵に不利であるものでなければならない。わが軍は、この旅団(あるいは連隊)をまず殲滅するうえで有利にするために、少数の兵力で敵軍の他の各旅団(あるいは連隊)を牽制して、わが軍に包囲攻撃されているこの旅団(あるいは連隊)を迅速に増援できないようにする。これを殲滅してから、状況におうじて、さらに敵軍の一コ旅団ないし数コ旅団を殲滅するか(たとえば、わが粟裕・譚震林軍が如皋付近で八月三十二日に敵の交通警察部隊①五千人を職域、八月二十六日にまた敵一コ旅団を殲滅、八月ニ十七日にさらにまた敵一コ旅団半〔3〕を殲滅したように、また、わが劉伯承・鄧小平軍が定陶付近で九月三日から九月六日にかけて敵一コ旅団を競願、九月六日の午後にまた敵一コ旅団を殲滅、九月七日から九月八日にかけてさらにまた敵二コ旅団〔4〕を殲滅したように)、あるいは、兵をひいて休養と整備・訓練をおこない、つぎの戦闘にそなえるようにする。戦役上の部署配置では、敵を軽視して、兵力を均分して各路の敵にあたらせ、その結果一路の敵をも殲滅することができず、自分を受け身の立場においこむようなあやまった作戦方法をとることに反対しなければならない。
(三)戦術上の部署配置の面では、わが軍がすでに圧倒的に優勢な兵力を集中して、敵軍の数路のなかの一路(一コ旅団あるいは一コ連隊)を包囲したばあい、攻撃にあたっているわが軍の各兵団(あるいは各部隊)は、わが方に包囲されたこの敵を一挙に全部殲滅しようとして、兵力を均分し、いたるところで攻撃をおこなって、いたるところで力がおよばず、手間どろばかりでなかなか戦果があがらない、といったことになってはならない。圧倒的に優勢な兵力、すなわち敵の六倍、五倍、四倍の兵力、すくなくとも敵の三倍の兵力を集中するとともに、全部あるいは大部分の砲兵を集中し、敵軍の諸陣地のなかから比較的弱い点を一つ(二つではない)えらんで、これに猛烈な攻撃をくわえ、かならずそれを攻略するようにしなければならない。それに成功してから、すみやかに戦果を拡張して、この敵を各個に殲滅する。
(四)この戦法をとれば、一つには完全に殲滅でき、二つには速決できるという効果があげられる。完全に殲滅することによってはじめて、敵軍にもっとも効果的な打撃をあたえることができるのであり、敵軍はそれによって一コ連隊殲滅されては一コ連隊うしない、一コ旅団殲滅されては一コ旅団うしなっていくのである。第二線の兵力の乏しい敵にたいしては、この戦法がもっとも有効である。また完全に殲滅することによってはじめて、もっとも十分に自己を補充することができるのである。これはわが軍の当面の兵器弾薬の主要な補給源であるばかりでなく、兵員の重要な補給源でもある。完全に殲滅すれば、敵側は士気がおとろえ、意気が消沈し、わが方は士気がたかまり、意気があがる。速決すれば、わが軍は、敵軍の増援部隊を各個に殲滅することができるし、また敵軍の増援部隊を避けることもできる。戦術的速決および戦役的速決は、戦略的持久にとって必要な条件である。
(五)わが軍の幹部のなかには、兵力を集中して敵を各個に殲滅する原則に平素は賛成していても、いざ実戦になると、しばしばこの原則を応用できないものがまだたくさんいる。これは敵を軽視しているからであり、また教育を強めず、研究を重んじていないからである。詳細に戦例をあげて、この作戦方法の長所をくりかえし説明し、これが蒋介石の攻撃にうち勝つ主要な方法であることを指摘しなければならない。この方法を実行すれば勝利する。この方法にそむけば敗北する。
(六)兵力を集中して敵を各個に殲滅する原則は、わが軍の建軍いらい十余年のすぐれた伝統で、いまはじめて出されたものではない。だが、抗日戦争の時期には、わが軍は兵力を分散して遊撃戦をおこなうことを主とし、兵力を集中して運動戦をおこなうことを従としていた。現在の内戦の時期では、状況が変わっているので、作戦方法も変えなければならず、兵力を集中して運動戦をおこなうことを主とし、兵力を分散して遊撃戦をおこなうことを従としなければならない。まして、蒋介石軍の兵器が増強されている条件のもとでは、わが軍は、優勢な兵力を集中して敵を各個に殲滅する作戦方法をとくに強調しなければならない。
(七)敵が進攻の地位にあり、わが方が防御の地位にあるばあいには、かならずこの方法を運用しなければならない。敵が防御の地位にあり、わが方が進攻の地位にあるばあいには、状況を二つにわけて、それぞれ異なった方法をとらなければならない。わが軍の兵力が多く、その地方の敵軍が比較的弱いかあるいはわが軍が敵の不意をついて襲撃するばあいには、いくつかの部分の敵軍を同時に攻撃してもよい。たとえば、六月五日から六月十日にかけて、山東省のわが軍は青島=済南、天津=浦口両鉄道沿線の十数都市を同時に攻撃して占領した〔5〕。また、八月十日から八月二十一日にかけて、わが劉伯承・鄧小平軍は天水=連雲港鉄道の開封、徐州間の十数都市を攻撃して占領した〔6〕。わが軍の兵力がたりないばあいには、敵軍の占領している諸都市を一つずつ奪取していくべきで、いくつもの都市の敵軍を同時に攻撃してはならない。たとえば、山西省のわが軍が大同=風陵渡鉄道沿線の諸都市を奪取した〔7〕のは、このような戦い方であった。
(八)わが軍の主力が集中して敵を殲滅するばあいには、地方の兵団、地方の遊撃隊および民兵の積極的な活動とあい呼応しなければならない。地方の兵団(あるいは部隊)が敵の一コ連隊、一コ大隊、一コ中隊を攻撃するばあいにも、やはり兵力を集中して各個に敵を殲滅する原則が適用される。
(九)兵力を集中して敵を各個に殲滅する原則は、敵軍の兵員の殲滅を主な目標とし、地域の保持あるいは奪取を主な目標とはしない。ときによっては、兵力を集中して敵軍を殲滅する目的から、あるいは、わが軍の主力が敵軍からひどい打撃をこうむるのをさけて、休養と整備・訓練をおこない、つぎの戦いをするうえで有利にする目的から、一部の地域を放棄することも許される。わが軍が敵軍の兵員を大量に殲滅することができれば、失地を回復することもできるし、あらたな地域を奪取することもできるのである。したがって、敵軍の兵員を殲滅することができたものは、すべてこれを表彰しなければならない。敵軍の正規部隊を殲滅したものを表彰するだけでなく、敵軍の保安隊、還郷隊〔8〕など反動的な地方武装部隊を殲滅したものも表彰しなければならない。しかし、敵味方の力関係からみて、保持あるいは奪取することができる地域および戦役的、戦術的にみて意義のある地域は、かならず保持あるいは奪取しなければならないのであって、そうしないのはあやまりである。したがって、こうした地域を保持あるいは奪取することができたものも表彰しなければならない。
〔1〕 「敵を殲滅する」あるいは「敵を消滅する」ということのなかには、敵を殺し、傷つけ、捕虜にすることがふくまれている。
〔2〕 国民党正規軍の編制は、もとは一コ軍団のもとに三コ師団あるいは二コ師団をおき、一コ師団のもとに三コ連隊をおいていた。一九四六年五月から、国民党は、時期をわけて、そのころ黄河以南の地域にあった正規軍を編成がえし、従来の軍団を改編師団にあらため、従来の師団を旅団に編成しなおして、旅団の下に三コ連隊あるいは二コ連隊をおいた。黄河以北の地域の一部の軍隊は、編成がえをおこなわず、従来どおりの編制にした。一部の改編師団は、その後ふたたび軍団の編制にもどった。
〔3〕 一九四六年七月、国民党軍が大挙して、江蘇・安徽解放区に侵入してきたので、わが軍は自衛のために立ちあがった。江蘇省中部解放区を攻撃した敵軍は、湯恩伯の指揮する十五コ旅団、約十二万人であった。華東人民解放軍の粟裕、譚震林らの同志が指揮する十八コ連隊は、七月十三日から八月二十七日にかけて、江蘇省中部の泰興、如皋、海安、邵伯一帯で、優勢な兵力を集中して連続七回にわたる戦闘をおこない、あわせて敵軍六コ旅団、交通警察五コ大隊を殲滅した。本文にあげてあるのは、そのうちの二回の戦闘の戦果である。
〔4〕 一九四六年八月、国民党の軍隊は、徐州、鄭州一帯から、二路にわかれて、山西・河北・山東・河南解放区に侵入した。山西・河北・山東・河南解放区人民解放軍は劉伯承、鄧小平らの同志の指揮のもとに、優勢な兵力を集中して、鄭州からきた敵軍をむかえうち、九月三日から九月八日にかけて、山東省の[”くさかんむり”の下に”河”]沢、定陶、曹県一帯で、敵軍計四コ旅団をあいついで殲滅した。
〔5〕 一九四六年六月上旬、山東人民解放軍は、青島=済南鉄道と天津=浦口鉄道沿線のかいらい軍にたいして討伐戦をおこし、膠県、張店、周村、徳州、泰安、棗荘など十数都市をあいついで解放した。
〔6〕 山西・河北・山東・河南解放区人民解放軍は、中原、華東人民解放軍に呼応して戦うため、一九四六年八月十日から二十一日にかけて、天水=連雲港鉄道の開封・徐州間に駐屯していた敵軍にたいし、数路にわかれて出撃し、錫山、蘭封、黄□、李荘、楊集などの十数都市をあいついで占領した。
〔7〕 一九四六年七月、国民党の胡宗南軍と閻錫山軍は共同して山西省南部解放区に侵入した。山西・河北・山東・河南解放区人民解放軍の太岳部隊と山西・綏遠解放区人民解放軍の一部はこれに反撃をくわえて、山西省南部の敵軍の侵入を撃退した。八月にはまた、大同=風陵渡鉄道の臨汾・霊石間に駐屯していた敵軍にたいする攻撃をはじめ、洪洞、趙城、霍県、霊石、汾西などの都市をあいついで解放した。
〔8〕 人民解放戦争の時期に、一部の解放区の地主、悪覇は国民党支配区にのがれた。国民党はかれらを組織して「還郷隊」「還郷団」などの反動武装部隊をつくり、国民党軍とともに解放区を攻撃させた。これら地主の反動武装部隊は、いたるところで略奪・虐殺をおこない、悪事のかぎりをつくした。
① 国民党の交通警察部隊は、一九四五年三月につくられた。この部隊は、日本降伏後、交通保護を口実に、各交通線に配置されて、「守備」の任務につき、侍務活動をおこなった。これは、国民党が内戦をおこなうための部隊の一つであった。
(一九四六年九月二十九日)
スチールの問い 中国の内戦を調停しようというアメリカのこころみはすでに失敗したものと、閣下はお考えでしょうか。アメリカの政策がいまの形でひきつづきおこなわれるとしたら、結果はどうなるでしょうか。
毛沢東の答え アメリカ政府の政策が調停〔1〕であるということには、ひじょうに疑問をいだいています。アメリカが蒋介石に大量の援助をあたえて、かつてない大規模な内戦をおこなえるようにしてやった事実から考えれば、アメリカ政府の政策は、「調停」なるものを煙幕として、あらゆる面から蒋介石を強化するとともに、蒋介石の虐殺政策をつうじて中国の民主勢力を抑圧し、中国を事実上アメリカの植民地にすることにあります。この政策がひきつづきおこなわれるなら、かならず全中国のすべての愛国的な人民を断固とした抵抗に立ちあがらせることになるでしょう。
問 中国の内戦はどのくらいつづくでしょうか。その結果はどうなるでしょうか。
答 もしアメリカ政府が、いまとっている援蒋政策をすて、中国に駐留するアメリカ軍を撤退させ、モスクワのソ米英三国外相会議の協定〔2〕を履行するなら、中国の内戦はきっと早く終わることでしょう。そうでなければ、長期戦になる可能性があります。その結果、中国人民が苦しみをなめるのはいうまでもありませんが、他方、中国人民はかならず団結して、自己の生存をまもり、自己の運命を決定することになるでしょう。どんなに大きな困難があろうとも、中国人民の独立、平和、民主をかちとる任務はかならず達成されます。自国や外国のどのような抑圧勢力も、この任務の達成をはばむことはできません。
問 閣下は蒋介石を中国人民の「当然の領袖」とお考えですか。共産党はどんな状況のもとでも蒋介石の五項目の要求〔3〕をうけいれないのですか。もし国民党が共産党の参加しない国民大会〔4〕を招集しようとするなら、共産党はどんな行動をとりますか。
答 世の中に、「当然の領袖」などというものはありません。もし、蒋介石がことし一月の休戦協定〔5〕と政治協商会議の共同決議〔6〕にそむいたいわゆる「五項目」あるいは十項目の一方的な要求にもとづくのでなく、この協定と決議にもとづいて、中国の政治、軍事、経済の諸問題を処理するのなら、われわれはやはりかれと一緒にやっていきたいとおもいます。国民大会は、政治協商会議の決議どおり、諸政党がともに責任をもって招集すべきものです。そうでなければ、われわれはだんこ反対の態度をとります。
〔1〕 一九四五年十二月、アメリカ政府はマーシャルを大統領特使として中国に派遣し、「国共軍事衝突の調停」なるものを煙幕として、各方面からアメリカの侵略勢力と国民党反動派の支配的地位を強化しようとした。蒋介石も、内戦の態勢をととのえる時間をかせぐため、アメリカ帝国主義の意をうけて、うわべでは、中国共産党と中国人民の内職停止についての要求をうけいれた。一九四六年一月、国民党政府の代表と中国共産党の代表のあいだで休戦協定の調印がおこなわれて、休戦令が公布され、アメリカ代表も参加する「三人小委員会」と「北平軍事調停執行部」がつくられた。「調停」なるものがおこなわれているあいだ、マーシャルはざまざまな奸計をめぐらして、まず東北地方、のちには華北、華東、華中地方で、国民党軍の解放区への侵入をたすけるとともに、積極的に国民党軍を訓練し装備し、蒋介石に大量の兵器弾薬その他の作戦物資を提供した。一九四六年六月までに、蒋介石は国民党正規軍の総兵力(およそ二百万人)の八〇パーセントを解放区攻撃の前線に集結させたが、そのうち五十四万人あまりは、アメリカの武装部隊が直接、軍艦や飛行機で輸送した。蒋介石は態勢がととのうと、七月に、全国的な反革命戦争をおこした。つづいてマーシャルは、八月十日、アメリカの中国駐在大使スチュアートと共同声明を発表して、「調停」の失敗を宣言し、蒋介石がおもいきり内戦をやれるようにした。
〔2〕 一九四五年十二月のソ米英三国外相のモスクワ会議における中国問題についての取り決めをさす。このモスクワ会議のコミュニケのなかで、三国の外相は「中国の内政への不干渉政策を堅持することをかさねて表明し」、またソ米の外相は、ソ米両国の軍隊ができるだけ早く中国から撤退することに一致して同意した。ソ連はこの取り決めを忠実に実行した。ただ国民党政府からなんども要請があったので、ソ連車は撤退の時期をおくらせただけである。一九四六年五月三日、ソ連軍は中国の東北地方から完全に撤退した。ところが、アメリカ政府のほうは、まったく自己の約束にそむき、がんとして自国の軍隊を撤退させず、いよいよはげしく中国の内政に干渉するようになった。
〔3〕 一九四六年の六月と八月に、蒋介石は前後二回にわたって、中国共産党に五項目の要求なるものをつきつけ、中国共産党側がこれらの要求を認めないかぎり、内戦の停止は考慮できないといった。この五項目の要求とは、中国人民解放軍につぎの各地からの退去をもとめるものであった。すなわち、一、天水=連雲港鉄道以南のすべての地区、二、青島=済南鉄道の全線、三、承徳と承徳以南の地区、四、東北地方の大部分、五、一九四六年六月七日以降に解放区の人民武装力が山東、山西両省でかいらい軍の手から解放したすべての地区である。中国共産党はこれらの反革命的な要求をだんこ拒否した。
〔4〕 一九四六年一月の政治協商会議の決議によれば、国民大会は、諸政党の参加する民主と団結の大会でなければならず、政治協商会議のそれぞれの取り決めか実施にうつされたのち、改組された政府の指導のもとでひらかれるべきであるとされていた。一九四六年十月十一日、国民党軍が張家口を占領すると、蒋介石集団は、その「勝利」にのぼせあがり、すぐその日の午後、公然と政治協商会議の決議にそむいて、国民党お手盛りの分裂と独裁の「国民大会」をひらくよう命令した。このいわゆる「国民大会」は、同年十一月十五日、南京で正式にひらかれたが、中国共産党、各民主政党および全国人民からだんこ反対され、ボイコットされた。
〔5〕 本巻の『自衛戦争によって蒋介石の進攻を粉砕せよ』注〔1〕にみられる。
〔6〕 本巻の『自衛戦争によって蒋介石の進攻を粉砕せよ』注〔2〕にみられる。
(一九四六年十月一日)
これは、毛沢東同志が中国共産党中央のために起草した党内指示である。この指示は、一九四六年七月に全国的な規模の内戦が勃発してからの三ヵ月間の戦争の一連の経験を詳細に総括し、人民解放軍の今後の作戦方針と作戦任務を提起するとともに、人民解放戦争が一時期の困難を克服したのち、かならず勝利することを指摘している。人民解放戦争をささえ、これに呼応していくうえで解決する必要のある解放区内部の土地改革の問題、解放区の生産を発展させる問題、国民党支配区の大衆闘争の指導を強化する問題およびその他の関係ある諸問題についても、この文書は原則的な説明をおこなっている。
(一)七月二十日に党中央がだした時局についての指示〔1〕は、「われわれは蒋介石にうち勝つことができる。全党はこのことについて、十分な確信をもつべきである」とのべている。七、八、九の三ヵ月間の戦いは、この断定が正しかったことをすでに証明している。
(二)蒋介石が政治上、経済上の基本矛盾を克服できないということは、わが方がかならず勝利し蒋介石がかならず敗北する根本的な原因であるが、そのほかに、軍事上でも、蒋介石軍の戦線のひろがりすぎと兵力不足とのあいだにすでに鋭い矛盾があらわれている。この矛盾はかならず、わが方が勝利し蒋介石が敗北する直接の原因になるだろう。
(三)解放区を攻撃している蒋介石の正規軍は、かいらい軍、保安隊、交通警察部隊などをのぞいて、計百九十数コ旅団である。これ以外には、せいぜい南の一部の兵力を増援のために北にさしむけることができるぐらいで、それからさきは、兵力をさしむけることはむずかしい。しかも、この三ヵ月間に、この百九十数コ旅団のうち、二十五コ旅団がすでにわが軍によって殲滅されている。このなかには、ことしの二月から六月までに東北地方でわが軍によって殲滅されたものはふくまれていない。
(四)蒋介石軍百九十数コ旅団のうち、ほぼ半数は守備にまわさなければならないので、野戦にまわせるのは半数をややうわまわる程度にすぎない。しかも、この野戦にまわせる兵力も、一定の地域にはいれば、どうしても一部または大部分を守備にまわさなければならない。敵の野戦軍は、一方では、たえずわが軍によって殲滅され、他方では、多数が守備にまわるので、どうしても戦えば戦うほどすくなくなっていくのである。
(五)三ヵ月間にわが軍によって殲滅された二十五コ旅団は、湯恩伯(もとは李黙庵)の七コ旅団、薛岳の二コ旅団、顧祝同(もとは劉峙)の七コ旅団、胡宗南の二コ旅団、閻錫山の四コ旅団、王耀武の二コ旅団、杜聿明の一コ旅団である。李宗仁、博作義、馬鴻逵、程潜の四部隊がまだわが軍から殲滅的な打撃をうけていないほかは、他の七部隊は、わが軍からかなりひどい打撃をうけているか、ある程度の打撃をうけている。わが軍からひどい打撃をうけたものは、杜聿明(ことし二月から六月にかけての東北地方での戦いをふくむ)、湯恩伯、顧祝同、閻錫山である。わが軍からある程度の打撃をうけたものは、薛岳、胡宗南、王耀武である。以上のべたことはすべて、わが軍が蒋介石にうち勝つことができることを証明している。
(六)これからの一時期の任務は、さらに敵軍約二十五コ旅団を殲滅することである。この任務をなしとげれば、蒋介石軍の進攻をやめさせることができるし、また一部の失地を回復することもできる。二番目の二十五コ旅団を殲滅するというこの任務をなしとげたときには、わが軍はかならず戦略上の主動権をうばい、防御から進攻に転ずることができるとみてよい。そのときの任務は、三番目のニ十五コ旅団の敵軍を殲滅することである。これができれば、失地の大部分ないし全部を回復することができるし、また解放区を拡大することもできる。そのときには、国共両軍の力関係にかならず大きな変化がおきるだろう。この目的をとげるには、これから約三ヵ月のうちに、ひきつづき、この三ヵ月間に敵軍二十五コ旅団を殲滅したような偉大な成果をあげて、さらに敵軍約二十五コ旅団を殲滅しなければならない。これは敵味方の情勢を変える鍵である〔2〕。
(七)この三ヵ月間に、われわれは淮陰、[”くさかんむり”の下に”河”]沢、承徳、集寧など数十の中小都市をうしなった。そのうちの多くは放棄することが避けられなかったか、主動的に一時放棄しなければならなかったが、一部は、うまく戦えなかったためにやむなく放棄した。いずれにせよ、今後うまく戦っていくかぎり、失地は回復することができる。今後も、一部の地域は、やむをえないばあい、敵に占領されることもあるだろうが、これもゆくゆくはみな回復することができる。各地では、これまでの戦闘の経験を検討し、教訓をくみとり、あやまりをくりかえさないようにしなければならない。
(八)この三ヵ月間に、わが中原解放軍は、たぐいない気力をもって困難を克服し、すでにその一部が旧解放区にはいったほか、主力は陝西省南部、湖北省西部の両地区に二つの遊撃根拠地をつくった〔3〕。そのほか、湖北省東部や湖北省中部にも遊撃戦を堅持している部隊がある。これらはすべて旧解放区の戦いを大いにたすけたし、いまもひきつづきたすけており、また、今後の長期の戦争にたいしてさらに大きな役割をはたすだろう。
(九)この三ヵ月間の戦争によって、蒋介石が東北地方へさしむけることにしていたいくつかの有力部隊が山海関以南にひきつけられたため、われわれは、東北地方で軍隊の休養と整備・訓練をおこない、大衆を立ちあがらせる時間を得ることができた。これもまた将来の闘争にとって大きな意義をもつものである。
(十)優勢な兵力を集中して敵を各個に殲滅する、これはこの三ヵ月間に敵軍二十五コ旅団を殲滅したさいとられた唯一の正しい作戦方法である。われわれは敵の六倍、五倍、四倍の兵力、すくなくとも敵の三倍の兵力を集中しなければならず、そうしてはじめて敵を効果的に殲滅することができるのである。戦役上でも戦術上でもすべてそうしなければならない。高級の指揮員も中級、下級の幹部もすべてこうした作戦方法を身につけなければならない。
(十一)この三ヵ月間に、わが軍は敵の正規軍二十五コ旅団を殲滅しただけでなく、かいらい軍、保安隊、交通警察部隊などの反動軍隊を多数殲滅したが、これもひとつの大きな成果である。今後もこの種の軍隊を大量に殲滅しなければならない。
(十二)この三ヵ月間の経験は、敵軍一万人を殲滅するには、わが方も二千ないし三千人の死傷者をだすという代価を支払わなければならない、ということを証明している。これは避けられないことである。長期の戦争にそなえるため(各地ではなにごとも長期の戦争という観点から見るべきである)、今後、計画的に兵員を拡大して、つねに主力軍の定員を確保するとともに、大量の軍事幹部を訓練しなければならない。また、経済の発展と供給の保障、統一指導と分散経営、軍民双方への配慮と公私双方への配慮〔4〕などの諸原則にもとづいて、断固として、計画的に、生産を発展させ、財政を整理しなければならない。
(十三)三ヵ月間の経験は、一月から六月までの休戦期間中、党中央の指示にもとづいて軍事訓練に大いに力をいれた部隊(党中央は、訓練、生産、土地改革の三つの活動を中心任務とするよう、くりかえし各地に指示した)は戦闘能力が高いが、そうでないものは戦闘能力がはるかに低い、ということを証明している。今後各地区では、戦闘のあいまを利用して、軍事訓練を強化しなければならない。すべての部隊では、政治工作を強化しなければならない。
(十四)三ヵ月間の経験は、党中央の五月四日の指示〔5〕を断固として、すみやかに実行し、土地問題を深く徹底的に解決したところでは、農民はわが党、わが軍の側に立って蒋介石軍の攻撃とたたかっているが、「五・四指示」を断固として実行しなかったり、手配がおそすぎたり、機械的にいくつもの段階にわけたり、あるいは戦争におわれていることを口実に土地改革をおろそかにしたりしているところでは、農民はなりゆきを見まもる態度をとっている、ということを証明している。各地では、どれほど戦争におわれていても、今後数ヵ月内に、断固として農民大衆を指導して土地問題を解決するとともに、土地改革の基礎のうえに、来年の大規模な生産活動の手配をしなければならない。
(十五)三ヵ月間の経験は、民兵、遊撃隊、武装工作隊①などの地方武装力がよく組織されているところでは、敵に一時多くの点や綿を占領されていても、われわれは依然として広大な農村をにぎることができるが、地方武装力が弱く、指導がうまくいっていないところでは、敵に大きな便宜をあたえている、ということを証明している。今後は、党の指導を強化し、一時的に敵に占領されている地区で、地方武装力を発展させ、遊撃戦争を堅持し、大衆の利益をまもり、反動派の活動に打撃をくわえなければならない。
(十六)三ヵ月間の戦争によって、国民党の予備兵力は残りすくなくなり、国民党支配区の軍事力は大いに弱まった。また、国民党が徴兵、現物徴収〔6〕を復活させて人民の不満をまねいていることは、大衆闘争の発展を有利にしている。全党は国民党支配区における大衆闘争の指導を強化し、国民党軍にたいする瓦解活動を強化しなければならない。
(十七)国民党反動派は、アメリカのさしずのもとに、ことし一月の休戦協定と政治協商会議の決議をふみにじって内戦にふみきり、人民の民主勢力を消滅しようとくわだてている。かれらの口にする巧言はすべて人をだますためのものであり、われわれは、アメリカと蒋介石のあらゆる陰謀をあばかなければならない。
(十八)この三ヵ月らい、民族ブルジョア階級をもふくむ国民党地区のもっとも広範な階層の人民のあいだでは、国民党とアメリカ政府が結託して内戦をひきおこし、人民を抑圧しているという事態にたいする認識が急速にたかまっている。マーシャルの調停はペテンであり、国民党は内戦の元凶であるという真理をさとる人びとが日ましに多くなっている。広範な大衆がアメリカと国民党に失望して、わが党の勝利に希望をよせてきている。これはきわめて有利な国内政治情勢である。アメリカ帝国主義の反動政策は、各国の広範な人民の不満を日ましにつのらせている。各国人民の自覚は日ましにたかまっている。すべての資本主義国の人民の民主主義のための闘争は日ましにたかまり、各国共産党の力は大きく発展しており、反動派がこれらをおきえつけようとしても不可能になっている。ソ連の国力と、各国人民のあいだにおけるその威信は日ましにたかまっている。アメリカの反動派とアメリカの反動派にたすけられている各国の反動派は、必然的に日一日と孤立していくだろう。これらはきわめて有利な国際政治情勢である。こうした国内、国際情勢はいずれも、第一次世界大戦後の時期とくらべて、大いに異なっている。第二次世界大戦後の革命勢力はきわめて大きな発展をとげた。内外の反動派がどれほど横暴にふるまおうとも(このようにふるまうのは歴史の必然性であって、少しもふしぎなことではない)、われわれはかれらにうち勝つことができる。各地の指導者は、党内の一部の同志、すなわち有利な国内、国際情勢にたいする認識不足から闘争の前途に悲観的な気持ちをいだいている人びとにたいして、これらのことを十分に説明してやらなければならない。敵はまだ力をもっており、われわれ自身もまだ弱点をもっていて、闘争の性質は依然として長期にわたる残酷なものであるが、われわれはかならず勝利をおさめることができる、ということをはっきりと理解しておかなければならない。この認識と確信を全党にしっかりと確立しなければならない。
(十九)これからの数ヵ月間は重要な、しかも困難な時期であり、全党は奮起して行動に立ちあがり、細心に計画された作戦をすすめることによって、軍事情勢を根本的に転換させなければならない。各地では、上述の各項の方針を断固として実行し、軍事情勢の根本的な転換をたたかいとるよう努力しなければならない。
〔1〕 本巻の『自衛戦争によって蒋介石の進攻を粉砕せよ』のことである。
〔2〕 その後の状況が証明しているように、敵味方の情勢が転換しはじめたのは、一九四七年七月、山西・河北・山東・河南解放区人民解放軍が黄河を強行渡河して、大別山にむかって進軍したときからである。このときまでに、人民解放軍はすでに十二ヵ月間戦ってきており、月平均八コ旅団の敵軍を殲滅し、計約百コ旅団の敵軍を殲滅していたが、それはここで予測されている数よりやや多い。それは、蒋介石がアメリカ帝国主義の支持のもとに、あらゆる可能な力をかたむけて攻撃してきたためである。
〔3〕 一九四六年六月末、李先念、鄭位三らの同志が指導する中原解放軍は、三十万の国民党軍の包囲攻撃のもとで、主動的に戦略的転移をおこなって、勝利のうちに敵の包囲を突破した。毛沢東同志がここでのべている旧解放区にはいった一部というのは、包囲を突破して欧西・甘粛・寧夏辺区にはいった王震同志らの指導する部隊のことである。陳西省南部遊撃根拠地というのは、中原解放軍の一部の主力か河南省西部の盧氏、浙川および陝西省南部の[各+隹]南、山陽などの地区で創設した遊撃根拠地のことである。湖北省西部遊撃根拠地というのは、中原解放軍の他の一部が湖北省の西北部に創設した武当山を中心とする遊撃根拠地のことである。
〔4〕 本巻の『一九四六年の解放区活動の方針』注〔3〕を参照。
〔5〕 一九四六年五月四日の中国共産党中央の「土地問題についての指示」のことである。日本降伏後、農民が切実に土地を要求したので、中国共産党中央は抗日戦争の時期における党の土地政策の変更を決定した。つまり、小作料と利子の引き下げを、地主の土地を没収して農民に分配することに変更した。「五・四指示」はこうした変更をしめすものである。
〔6〕 現物徴収とは、地租として現物(食糧)を徴収することである。
① 本選集第三巻の『連合政府について』訳注④を参照。
(一九四七年二月一日)
これは、毛沢東同志が中国共産党中央のために起草した党内指示である。
(一)いまの各方面の状況は、中国の時局が新しい段階にはいろうとしていることをはっきりと示している。この新しい段階とは、全国的な反帝、反封建の闘争が新しい人民大革命に発展した段階のことである。いまはその前夜である。わが党の任務は、この高まりの到来とその勝利をかちとるためにたたかうことである。
(二)いまの軍事情勢は、人民に有利な方向に発展している。昨年七月からことし一月までの七ヵ月間の戦いで、われわれは、解放区に攻めこんできた蒋介石の正規軍五十六コ旅団を殲滅した。月平均八コ旅団の殲滅である。このなかには、殲滅された大量のかいらい軍と保安部隊、撃破された正規軍はふくまれていない。蒋介石の攻勢は、山東省南部、山東省西部、陝西・甘粛・寧夏辺区、北平=漢□鉄道北部区間、南満などでまだつづいているが、昨年の秋にくらべると、ずっと弱くなっている。蒋介石軍は配置すべき兵力に不足しており、徴兵も規定の数にたっしていない。このこととその戦線が広く兵員の消耗が多いこととのあいだには深刻な矛盾がうまれている。蒋介石軍の士気は日ましにおとろえている。さいきん江蘇省北部、山東省南部、山東省西部、山西省西部などでおこなわれた数回の作戦における蒋介石軍の多くの部隊の士気のおとろえは、はなはだしいものであった。わが軍はいくつかの戦場で主動権をにぎりはじめ、蒋介石軍は主動権をうしないはじめた。これから数ヵ月のうちに、まえに殲滅したものとあわせて蒋介石軍を百コ旅団殲滅するという目標がたっせられるであろう。蒋介石は、かいらい軍、警察、地方保安部隊、交通警察部隊、後方勤務部隊、技術兵科などをのぞいて、正規軍の歩兵と騎兵を九十三コ師団(軍団)―二百四十八コ旅団(師団)、百九十一万六千人もっている。このうち解放区を攻撃しているのは七十八コ師団(軍団)―二百十八コ旅団(師団)、百七十一万三千人で、蒋介石の正規軍兵力のほぼ九〇パーセントをしめている。蒋介石支配区の後方にとどまっているのはほぼ一○パーセントで、十五コ師団―三十コ旅団、二十万三千人にすぎない。したがって、蒋介石はもはや、その後方から戦闘力のある部隊を多く解放区の進攻にさしむけることができなくなっている。解放区を進攻した二百十八コ旅団のうち、わが方に殲滅されたものはすでに四分の一をこえている。一部の部隊は殲滅されたのち補充をうけ、もとの部隊名で復活したが、その戦闘力はひじょうに弱い。一部は補充されたのちにまた殲滅され、一部はぜんぜん補充されていない。わが軍がこれから数ヵ月のうちに、さらに四十ないし五十コ旅団を殲滅して、まえに殲滅したものとあわせてその数が百コ旅団前後にたっすれば、軍事情勢にはかならず重大な変化がおこるであろう。
(三)同時に、蒋介石支配区では偉大な人民運動が発展している。昨年十一月三十日国民党が露店商人に圧迫をくわえたことからおこった上海市民の騒動〔1〕と、昨年十二月三十日アメリカ兵が中国の女子学生を強姦したことからおこった北平の学生運動〔2〕は、蒋介石支配区における人民闘争の新しい高まりをしめしている。北平からはじまった学生運動はすでに全国の各大都市にひろがり、参加者は数十万にたっし、「一二・九」抗日学生運動〔3〕の規模をこえている。
(四)解放区の人民解放軍の勝利と蒋介石支配区の人民運動の発展は、中国における反帝、反封建の新しい人民大革命がまちがいなく到来し、また勝利をおさめるであろうことを予告している。
(五)この情勢は、アメリカ帝国主義とその手先蒋介石が、日本帝国主義とその手先汪精衛にとってかわり、中国をアメリカの植民地にする政策、内戦をおこす政策、ファッショ的専制支配をつよめる政策をとっているという状況のもとでうまれたものである。米・蒋のこうした反動政策のもとでは、全国人民は闘争する以外に生きる道はない。独立のため、平和のため、民主のためにたたかうことは、依然として、現在の時期の中国人民の基本的要求である。すでに一昨年の四月、わが党の第七回全国代表大会は、米・蒋がこうした反動政策を実施する可能性のあることを見通し、こうした反動政策にうちかつための完ぺきな、まったく正しい政治路線をうちだした。
(六)上述の米・蒋の反動政策によって、中国各階層の人民は、団結してみずからを救う立場に立たざるをえなくなった。これには労働者、農民、都市小ブルジョア階級、民族ブルジョア階級、開明紳士①、その他の愛国者、少数民族、海外の華僑がふくまれている。これはきわめて広範な全民族的な統一戦線である。抗日時期の統一戦線とくらべると、その規模が同様に大きいばかりでなく、いっそう強固な基礎をもつようになっている。全党の同志はかならず、この統一戦線の強化と発展のために奮闘しなければならない。解放区では、耕すものに土地を、という制度を、ためらうことなく、だんこ実現することを前提として、ひきつづき「三三制」の政策〔4〕をとる。政権機関と社会団体のなかには、共産党員のほかに、広範な党外の進歩的な人びと、中間的な人びと(開明紳士など)をひきつづき吸収して活動に参加させなければならない。解放区では、民族裏切り者や、人民の利益にそむいて人民から深い恨みをかっている反動分子をのぞいて、階級、性別、信仰のいかんにかかわりなく、すべての公民が選挙権と被選挙権をもつ。耕すものに土地を、という制度を徹底的に実現したのちでも、解放区の人民の私有財産権はこれまでどおり保障される。
(七)蒋介石政府が長いあいだ反動的な財政経済政策を実施してきたため、また蒋介石の官僚買弁資本が悪名たかい売国条約――中米通商条約〔5〕でアメリカの帝国主義資本と結びついたため、悪性インフレは急速に発展し、中国の民族商工業は日ましに破産し、勤労大衆や公務員、教員の生活は日ましに悪化し、中流階級にぞくする多数の人びとは日ましにそのたくわえをうしない、ぜんぜん財産をもたなくなり、その結果、労働者スト、学生ストなどの闘争がたえず発生している。中国にかつてなかった重大な経済危機が、すでに各階層の人民をおびやかしている。蒋介石が、内戦をつづけるために、抗日時期のきわめてあくどい徴兵制度、食糧徴発制度を復活させたので、広範な農村の人民、まず第一に貧しい農民は生きていけなくなり、そのため、民衆騒動がすでにおこっており、ひきつづき発展するであろう。こうして、蒋介石反動支配集団は、広範な人民にたいする威信を日ましにうしない、重大な政治危機と軍事危機にみまわれようとしている。この情勢は、一方では蒋介石支配区における反帝、反封建の人民運動を日ましに発展させており、他方では蒋介石軍の士気をさらに低下させ、人民解放軍の勝利の可能性を増大させている。
(八)わが党と他の民主勢力の孤立化をねらってひらかれた、蒋介石の不法な、分裂をめざす国民大会と、そこでつくられたにせ憲法は、人民にたいしてなんの威信ももっていない。それは、わが党と他の民主勢力を孤立させることはできず、逆に、蒋介石反動支配集団じしんを孤立させている。わが党と他の民主勢力はにせ国民大会への参加を拒否する方針をとったが、これはまったく正しかった。蒋介石反動支配集団は青年党〔6〕、民社党〔7〕という、これまで社会的にまったく信望のなかった二つの小党派と一部のいわゆる「賢明達識の士」〔8〕を自分のほうにだきこんでおり、そのうえ、中間派の隊列のなかから今後も一部のものが反動派の側に投ずる可能性のあることが予想される。中国の民主勢力が日ましに大きくなり、反動勢力が日ましに孤立してきたため、敵味方の二つの戦線がこのようにはっきりわかれざるをえなくなったのである。民主戦線の内部にかくれて人民を欺瞞するものどもは、結局は、その正体をさらけだして人民から唾棄されるであろうし、人民の反帝、反封建の隊列は、かくれた反動分子と一線を画すことによって、いっそう強大になるであろう。
(九)国際情勢は中国人民の闘争にとってきわめて有利に発展している。ソ連の力が増大し、その外交政策が勝利をおさめていること、世界各国の人民が日ましに左翼化し、自国ならびに外国の反動勢力にたいするかれらの闘争が日ましに発展していること、この二大要因は、すでにアメリカ帝国主義と各国におけるその手先を日ましに孤立させているし、またひきつづき孤立させるであろう。これにアメリカの不可避的な経済危機という要因がくわわるなら、アメリカ帝国主義と各国におけるその手先はいっそう窮地に追いやられるにちがいない。アメリカ帝国主義とその手先蒋介石の強大さは一時的なものにすぎず、かれらの進攻は粉砕することができる。反動派の進攻は粉砕できないといったおとぎ話が、われわれの隊列内に存在するのを許してはならない。党中央はたびたびこの点を指摘してきたが、国際・国内情勢の発展はこの判断の正しさを日ましに証明している。
(十)息つぎの時間をかせいで軍隊を補充し、ふたたび進攻に乗りだすため、アメリカから新しい借款と武器を手にいれるため、人民の怒りをやわらげるために、蒋介石はまたもやわが党にたいしていわゆる和平交渉の復活をもとめる〔9〕という新しい欺瞞策を弄している。わが党の方針は、和平交渉を拒否せず、それによってその欺瞞性を暴露するということにある。
(十一)蒋介石軍の進攻を徹底的に粉砕するために、これから数ヵ月のうちに、さらに蒋介石軍を四十ないし五十コ旅団殲滅しなければならない。これがいっさいを決定する鍵である。この目的をたっするには、昨年十月一日づけで党中央から出された三ヵ月の総括の指示と、昨年九月十六日づけで軍事委員会から出された、兵力を集中して敵を各個に殲滅することについての指示をよく実行しなければならない。ここではとくにあらためて、いくつかの点を重点的に指摘して、各地の同志の注意をうながすことにする。
(1)軍事問題。この七ヵ月間の苦難にみちた奮戦の過程は、わが軍に蒋介石の進攻を粉砕して最後の勝利をおさめるだけのじゅうぶんな自信があることを証明した。わが軍の装備と戦術にはともに進歩がみられる。軍事建設の面での今後の中心任務は、全力をあげて砲兵と工兵の建設を強めることである。それぞれの大小軍区、それぞれの野戦兵団は、砲兵と工兵を強化するためにおこっている諸問題、おもに幹部の訓練と弾薬の製造との二つの問題を具体的に解決しなければならない。
(2)土地問題。各区とも、ほぼ三分の二の地域が、中央の一九四六年五月四日づけの指示〔10〕を実施して、土地問題を解決し、耕すものに土地を、という制度を実現した。これは偉大な勝利である。しかし、あとの三分の一の地域は、今後ひきつづき努力し、思いきって大衆を立ちあがらせ、耕すものに土地を、という制度を実現しなければならない。耕すものに土地を、という制度をすでに実現した地方にまだ解決の不徹底という欠点があるのは、主として、思いきって大衆を立ちあがらせなかったからである。そのため、土地の没収と分配が不徹底で大衆の不満をかっている。こうした地方では、しんけんに点検し、不均衡を調整し〔11〕、土地のない農民や土地の少ない農民がすべて土地をえられるようにしなければならず、また豪紳、悪覇には制裁をくわえなければならない。耕すものに土地を、という制度を実現する全過程をつうじて、断固として中農と団結しなければならず、中農の利益(富裕中農もふくむ)をぜったいにおかしてはならない。もし中農の利益をおかしたばあいには、賠償し、陳謝しなければならない。このほか、一般の富農と中小地主にたいしては、土地改革の期間でも土地改革のあとでも、大衆の同意にもとづく適切な配慮をくわえるべきであり、すべて「五・四指示」にしたがって処理すべきである。要するに、農村の土地改革運動では、土地改革に賛成する九〇パーセント以上の大衆を結集し、土地改革に反対する少数の封建反動分子を孤立させて、耕すものに土地を、という制度を実現する任務をすみやかに達成するようにしなければならない。
(3)生産の問題。各地とも、長期の計画をたて、生産に努力し、節約を励行し、また、生産と節約を基礎にして、財政問題を正しく解決しなければならない。ここでの第一の原則は、生産を発展させ、供給を保障することである。したがって、財政と商業ばかりを重視して農業生産と工業生産を軽視するというあやまった観点に反対しなければならない。第二の原則は、軍民双方への配慮、公私双方への配慮である。したがって、一方だけに配慮をくわえて他の一方を軽視するというあやまった観点に反対しなければならない。第三の原則は、統一指導、分散経営である。したがって、状況によって集中的に経営しなければならないものは別として、状況を考えずにすべてを集中し思いきって分散経営にふみきれないというあやまった観点に反対しなければならない。
(十二)わが党と中国人民は最後の勝利をおさめるじゅうぶんな自信をもっている。これはまったく疑問の余地がない。しかし、このことはけっして、われわれのまえにはもはや困難がなくなったということではない。中国の反帝、反封建の闘争は長期にわたるものであること、内外の反動派はひきつづき全力をあげて中国人民に反対するであろうこと、蒋介石支配区のファッショ的支配はいよいよ強まるであろうこと、解放区の一部は一時的に被占領区あるいは遊撃区となるであろうこと、革命勢力の一部は一時的に頃失をこうむる可能性があること、長期の戦争で人力物力を消耗するであろうこと、こうした数かずのことを、全党の同志はじゅうぶんに見通し、不撓不屈の気力をもって、あらゆる困難を計画的に克服する用意がなければならない。反動勢力のまえにも、われわれのまえにも、困難はある。しかし、反動勢力の困難は克服できないものである。なぜなら、かれらは滅亡にちかづいた、前途のない勢力だからである。われわれの困難は克服できるものである。なぜなら、われわれは新興の、光明にみちた前途をもつ勢力だからである。
〔1〕 上海の国民党当局は、一九四六年八月から黄浦、老閘両区の露店商人の営業を禁止し、十一月下旬には営業をつづけていた露店商人を千人ちかく逮捕した。露店商人は十一月三十日に三千人の請願デモをおこない、黄浦区警察局を包囲した。国民党当局はかれらを虐殺するよう命令した。そのため、露店商人は七人が殺され、多数が負傷し、逮捕された。十二月一日、露店商人はひきつづき闘争をすすめ、当日また十人が殺され、百余人が負傷したが、闘争の隊列はかえって五千余人に増大した。上海全市の商店は同情休業をおこなった。こうして、全市的な反蒋の大衆連動となっていった。
〔2〕 一九四六年十二月二十四日、北平でアメリカ兵が北京大学の女子学生を強姦するという事件がおこった。このため、蒋介石支配区の数十の大中部市の学生は、十二月三十日から一九四七年一月にかけてあいついでストをおこない、反米反蒋のデモ行進をおこなって、アメリカ軍の中国撤退を要求した。この運動に参加した学生は五十万以上にのぼった。
〔3〕 一九三五年十二月九日、北平でおこった学生の愛国運動のこと。詳細は、本選集第一巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』注〔8〕にみられる。
〔4〕 「三三脚」の政策は、中国共産党の、抗日戦争の時期における統一戦線政権についての政策である。この政策によれば、抗日民主政権の構成員の割りふりは、共産党員がだいたい三分の一、左派の進歩的な人びとがだいたい三分の一、中間的な人びとその他がだいたい三分の一をしめることになっている。
〔5〕 「中米通商条約」とは「中米友好通商航海条約」のことで、一九四六年十一月四日、蒋介石政府とアメリカ政府が南京で調印したものである。中国の主権を大量に売りわたしたこの条約は三十ヵ条からなり、おもな内容はつぎのとおりである。第一、アメリカ人は中国の「全領土内」で、居住し、旅行し、商業、製造業、加工業、科学、教育、宗教、慈善事業にたずさわり、鉱産資源を調査・開発し、土地を貸借・所有し、各種の職業にたずさわる権利をもつ。アメリカ人は中国において、経済上の権利の面では、中国人と同等の待遇をうける。第二、アメリカ商品の中国における課税、販売、分配または使用については、いかなる第三国あるいは中国の商品にもおとらない取り扱いをうける。中国はアメリカのいかなる植物、物産または製品の輸入にたいしても、また中国からアメリカに輸送されるいかなる物品にたいしても、「いっさい、禁止または制限をくわえてはならない」。第三、アメリカの船舶は、中国の開放しているいずれの港湾、地方または領水内をも自由に航行することができ、その人員または物品は、「もっとも便利な経路」をとって中国の領土を通過する自由をもつ。アメリカの船舶は軍艦をもふくめて、「なんらかの危険」に遭遇したということを口実に、中国が「外国の商業または航運業のために開放していない、いずれの港湾、地方または領水」にもはいることができる。当時、蒋介石政府の駐米大暁顧維鈞は恥知らずにも公然と、この条約は「全中国の領土をひとしくアメリカの商人のために開放する」ものである、とのべた。
〔6〕 本選集第一巻の『中国社会各階級の分析』注〔1〕を参照。
〔7〕 民社党とは「民主社会党」の略称で、一九四六年八月、「民主憲政党」と「国家社会党」が合併してできたものである。この政党のおもな成員は、いずれも北洋軍閥時代の反動政治家と封建勢力の残党である。
〔8〕 「一部のいわゆる賢明達識の士」とは、無党無派の看板をかかげて、蒋介石の「国民大会」のためにその外観をかざりたてた恥知らずのやから、たとえば王雲五、傳斯年、胡政之らのことである。
〔9〕 国民党政府は、その軍事進攻があいついで失敗し、軍事情勢が日ましに悪化したので、息つぎの時間をかせいで新しい進攻を準備するため、一九四七年一月十六日、アメリカの国民党政府駐在大使スチュアートをつうじて、中国共産党にたいし、「和平交渉」のため代表を延安におくることについての同意をもとめた。米・蒋のこの新しい欺瞞策は、すぐ中国共産党によって徹底的に暴露された。中国共産党は、交渉を復活させるには二つの最低条件が実現されなければならないことを指摘した。すなわち、(一)国民党が政治協商会議の取り決めにそむいて制定したにせ憲法を廃止すること、(二)国民党の軍隊が、一九四六年一月十三日の休戦協定発効ののちに占領した解放区のいっさいの土地から撤退すること、そうでなければ、これからの交渉で取り決めが成立しても、国民党はもうそれを破棄しないという保証かない。国民党政府は、「和平」の欺瞞策がつかえないことを見てとると、二月二十七日と二十八日、南京、上海、重慶などに駐在して交渉と連絡にあたっていた中国共産党の代表全員に引き揚げるよう通告し、国共交渉の全面的な決裂を宣言した。
〔10〕 一九四六年五月四日の、中国共産党中央の「土地問題についての指示」のこと。本巻の『三ヵ月の総括』注〔5〕にみられる。
〔11〕 「不均衡を調整する」とは、土地改革か比較的徹底しておこなわれた旧解放区で、一部の貧・雇農の土地その他の生産手段が不足している問題、そのほか土地改革中にのこされた問題を解決するため、比較的小さな範囲で、よいほうからさいて悪いほうをおぎない、多いほうからさいて少ないほうをおぎなうという方法で、土地その他の生産手段の合理的な調整をおこなったことをさす。
① 本巻の『民族ブルジョア階級と開明紳士の問題について』、および本選集第二巻の『当面の抗日統一戦線における戦術の問題』訳注②を参照。
(一九四六年十一月、一九四七年四日)
毛沢東同志が起草したこの二つの文書は、一つは、一九四六年の冬、国民党軍が延安を攻撃しようとしているときに延安で書かれたものであり、もう一つは、国民党軍が一九四七年三月十九日延安を占領してから二十日後に、陳西省北部の横山県青陽岔で書かれたものである。蒋介石は、解放区にたいする全面的進攻の計画が破たんしたのち、瀕死の状態にあるその支配をもちなおすために、にせ国民大会の招集、中国共産党代表の追放、中国共産党中央の所在地延安の攻撃など、狂気じみた措置をとった。本文でのべられているように、蒋介石はこうした措置をとった結果、政治上、完全に自滅にむかうこととなった。また軍事上では、解放区の東西両翼、すなわち山東解放区と陝西・甘粛・寧夏解放区に兵力を集中して、重点攻撃なるものをくわだてたが、やはり完全な失敗に終わった。陝西・甘粛・寧夏辺区を攻撃した国民党軍の兵力が二十三万余人であったのにたいし、西北人民解放軍の陝西・甘粛・寧夏辺区における部隊は二万余人にすぎなかったため、敵軍はいちど、わが軍が主動的に放棄した延安と陝西・甘粛・寧夏辺区のすべての県都をあい前後して占領した。たが、敵軍は、中国共産党中央首脳機関と西北人民解放軍の消滅、あるいは黄河以東への駆逐という目的をとげることができなかったばかりか、わが軍のたびかさなる痛撃にあって、ほぼ十万人の兵力をうしない、ついには命からがら辺区から逃げ出さざるをえなくなり、わが軍は勝利のうちに広大な西北地方解放のための進攻に転じた。同時に、西北戦場のわが軍は、きわめてわずかな兵力で敵軍の大量の主力部隊をひきつけ、殲滅し、その他の戦場、まず第一に山西・河北・山東・河南戦場におけるわが軍の作戦に有力な支援をあたえ、比較的急速に進攻に転ずるのをたすけた。わか軍が一九四七年三月に延安を撤退してから、一年後に西北戦場で進攻に転ずるまで、毛沢東同志と中国共産党中央、人民解放軍総司令部はずっと陝西・甘粛・掌夏辺区にとどまっていたが、この事実は、きわめて大きな政治的意義をもっている。それは、陝西・甘粛・寧夏辺区をはじめ全国の解放区の軍民の戦意と勝利の確信をかぎりなく強め、ふるいたたせた。毛沢東同志は陝西・甘粛・寧夏辺区にとどまっているあいだ、全国各戦線の人民解放戦争をひきつづき指導したばかりでなく、西北戦場の人民解放戦争を直接に指揮し、本文で提起した「断固たる戦闘精神をもって陝西・甘粛・寧夏辺区と西北解放区を防衛し、発展させる」という目的をみごとに達成した。西北戦場での戦闘については、本巻の『西北戦場の作戦方針について』と『西北地方の大勝利を評し、あわせて解放軍の新しい型の整軍運動を論ず』を参照されたい。
窮地におちいった蒋介石は、「国民大会」の招集と延安攻撃という三つの手段によって、わが党に打撃をくわえ、自己の強化をはかろうとしている。だが、実際にはまったく逆の結果となるであろう。中国人民は蒋介石お手盛りの分裂のための「国民大会」にだんこ反対しており、その開会の日は、蒋介石集団がみずから滅亡にむかいはじめる日となるであろう。蒋介石軍がわれわれに三十五コ旅団〔1〕を殲滅されて、その進攻能力がつきはてようとしているとき、たとえ突然の襲撃によって延安を占領しても、人民解放戦争の勝利の大局にはひびかず、蒋介石を滅亡の運命から救うことはできない。要するに、蒋介石はみずから破滅への道をあゆんでおり、「国民大会」の招集と延安攻撃という二つの手をうてば、その欺瞞性があますところなく暴露されることとなろう。これは人民解放戦争の展開にとって有利である。各地では、蒋介石の「国民大会」招集と延安攻撃という二つの点について党内外によく説明し、全党、全軍および全人民を結集して、蒋介石の進攻を粉砕し民主の中国を樹立するためにたたかわなければならない。
国民党は、瀕死の状態にあるその支配をもちなおすために、にせ国民大会の招集、にせ憲法の制定、南京、上海、重慶などに駐在するわが党の代表機関の追放、国共決裂の宣言〔2〕などの措置をとったばかりでなく、わが党中央と人民解放軍総司会部の所在地である延安および陝西・甘粛・寧夏辺区を攻撃するという措置をとった。
国民党がこれらの措置をとったことは、いささかも国民党支配の強さをしめすものではなく、国民党支配の危機が異常に深まっていることをしめすものである。また、かれらが延安と陝西・甘粛・寧夏辺区を攻撃したのは、まず、西北問題をかたづけてわが党の右腕を切りおとすとともに、わが党中央と人民解放軍総司令部を西北地方から追いだし、そのうえで兵力を動かして華北地方を攻撃し、各個撃破の目的をとげようと夢みていたためでもある。
上述の状況のもとで、党中央はつぎの決定をおこなった。
一、断固たる戦闘精神をもって陝西・甘粛・寧夏辺区と西北解放区を防衛し、発展させなければならない。この目的は完全に達成できるものである。
二、わが党中央と人民解放軍総司令部は、ひきつづき陝西・甘粛・寧夏辺区にとどまらなければならない。ここは、地勢がけわしく、大衆の条件がよく、機動できる地域が広いので、安全が完全に保障されている。
三、また、活動の便宜をはかるために、劉少奇同志を書記とする中央工作委員会を組織し、山西省西北部あるいはその他の適当な地点におもむいて中央の委託する活動をおこなわせる〔3〕。
以上の三項目は先月決定され、それぞれ実行にうつされている。ここにこれを通達する。
〔1〕 これは一九四六年七月のはじめから十一月十三日までの統計である。
〔2〕 一九四七年二月二十七、二十八の両日、国民党政府は、南京、上海、重慶などに駐在して交渉と連絡にあたっていた中国共産党の代表と勤務員全員に、期限つきで引き揚げることをせまった。一九四七年三月十五日、国民党は第三回中央執行委員会全体会議を招集したか、蒋介石はその席上、国共両党の決裂を宣言し、最後まで戦う決意をあきらかにした。
〔3〕 一九四七年三月十九日に人民解放軍が延安を撤退したのち、毛沢東同志、周恩来同志、任弼時同志など、中国共産党中央書記局の多数の同志は、ひきつづき陝西・甘粛・寧夏辺区にとどまった。また、中国共産党中央書記局書記劉少奇同志、朱徳同志、その他一部の中央委員は、劉少奇同志をはじめとする中央工作委員会をつくり、山西・綏遠解放区をへて山西・察哈爾・河北解放区にはいり、河北省平山県西柏坡村におもむいて、中央から委託された活動をおこなった。一九四八年五月、毛沢東同志と中国共産党中央が西柏坡村に到着したのち、中央工作委員会は解散した。
(一九四七年四月十五日)
これは、毛沢東同志が西北野戦軍にあてた電報である。当時の西北野戦軍は彭徳懐、賀竜、習仲勲らの同志が指導する陝西・甘粛・寧夏解放区と山西・綏遠解放区の人民解放軍によって編成されていた。
(一)敵はいまかなり疲労しているが、まだ疲労しきってはいない。敵は食糧がかなり困難になっているが、まだ極度に困難になってはいない。わが軍は敵の第三十一旅団を殲滅した〔1〕のち、まだ大量の敵を殲滅してはいないが、この二十日間に、敵をかなりの疲労と食糧の欠乏においこむという目的をとげたので、今後、敵を極度に疲労させ、食糧をたち、最後的に殲滅するうえで有利な条件がつくりだされた。
(二)いまの敵の方針は、疲労や食糧の欠乏をかえりみず、わが軍の主力を黄河以東においやったのち、綏徳、米脂を封鎖し、兵をわけて「掃討」をおこなうことである。三月三十一日、敵が清澗に到着後すぐに北進しなかったのは、わが軍に道を一本あげておくのが目的であり、敵が西進して瓦窰堡にむかったのは、わが軍を綏徳、米脂のほうへおいやるのが目的であった。いま、敵はわが軍を発見したので、また瓦窰堡の南と西に方向をかえ、そこからふたたび瓦窰堡にむかい、わが軍を北へおいやろうとしている。
(三)わが方の方針は、ひきつづきこれまでの方法をとり、いまの地区でなお一定期間(約一ヵ月)敵をあしらうことであって、その目的は、敵を極度の疲労と食糧の欠乏においこんでから、機会をとらえてくれを殲滅することにある。わが軍の主力は、北上して楡林を攻撃するのをいそぐ必要はなく、また南下して敵の後方部隊を攻撃するのをいそぐ必要もない。わが軍のこうしたやり方は、敵を最後的にうちやぶるためにかならず経なければならない道であることを、指摘員、戦闘員および人民大衆に説明しなければならない。敵を極度に疲労させ、完全に飢えさせなければ、最後の勝利をおさめることはできない。こうしたやり方を「まつわり」戦術とよぶのであって、どこまでもまつわりついて敵を精魂ともにつきはてさせてから消滅するのである。
(四)諸君はいま瓦窰堡の東と北の地区にいるが、敵を瓦窰堡の北に誘いこむのがもっとも有利である。そのあとで、敵廖昂〔2〕部隊の弱い部分を攻撃して、敵を東に誘いこめばよい。そうしたうえで、諸君はまた方向をかえて安塞方面にむかい、敵をふたたび西に誘いこめばよい。
(五)しかし、諸君は、第三五九旅団(全部)にたいしては、いまから一週間後に、これを南進させて、延長、延安の線以南、宜川、洛川の線以北の地区を襲撃させ、敵の食糧輸送をたちきらせるために、ここ数日中に南進襲撃の準備を終えるよう命じなければならない。
(六)以上の意見の当否について返答されたい。
〔1〕 西北人民解放軍は、主動的に延安を撤退してのち、小部分の兵力をもって敵主力を安型(延安の西北)におびきよせ、主力を延安東北の青化[石+乏]地区にまち伏せさせて、敵殲滅の機をまった。一九四七年三月二十五日、国民党軍胡宗南指揮下の改編第二十七師団第三十一旅団司令部が一コ連隊をひきいてわが軍の要撃圏内にはいってきたので、わが軍は一時間余の戦闘で、敵をせんぶ殲滅した。
〔2〕 廖昂は国民党軍胡宗南指揮下の改編第七十六師団師団長で、のちに一九四七年十月十一日、清澗の戦闘でわが軍の捕虜となった。
(一九四七年五月三十日)
これは、毛沢東同志が新華社にかわって書いた論評である。この論評は、中国の事態の発展が人びとの予想以上にはやいことを指摘し、人民に、中国革命の全国的な勝利のために必要なあらゆる条件をすみやかにととのえるようよびかけている。この予言はまもなく実証された。この論評と『西北戦場の作戦方針について』は、毛沢東同志が陝西省北部の靖辺県王家湾村で書いたものである。
全人民を敵とする蒋介石政府は、いまやかれら自身が全人民の包囲のなかにあることを発見した。軍事戦線であろうと政治戦線であろうと、蒋介石政府はことごとく敗北を喫し、かれらが敵と宣言した勢力によって包囲され、もはやぬけだす方法を見いだせなくなっている。
蒋介石売国集団とその主人アメリカ帝国主義者は、情勢の評価をあやまった。かれらは自己の力を過大に評価し、人民の力を過小に評価していた。かれらは第二次世界大戦後の中国と世界をこれまでどおりのものと考えて、なにごとについてもその様式を変えることを許さず、だれであろうとかれらの意志にそむくことを許さなかった。日本が降伏したのち、かれらは中国を以前の旧秩序に逆もどりさせようと決意した。政治上の話し合いや軍事上の調停などといった欺瞞的な手口で時をかせいだのち、蒋介石売国政府は二百万の軍隊をうごかして全面的な進攻をおこなった。
中国の国内にはすでに二つの戦線ができている。蒋介石侵入軍と人民解放軍との戦争、これが第一の戦線である。いままた、第二の戦線ができた。偉大な正義の学生運動と蒋介石反動政府とのあいだの先鋭な闘争がそれである〔1〕。学生運動のスローガンは、飯をよこせ、平和をよこせ、自由をよこせ、つまり、飢餓反対、内戦反対、迫害反対、である。蒋介石は「社会秩序維持臨時措置法」〔2〕を公布した。いたるところで、蒋介石の軍隊、警察、憲兵、特務と学生大衆とのあいだに衝突がおきている。蒋介石は逮捕、投獄、殴打、殺害などの暴力行為をもって素手の学生におそいかかっており、そのために学生運動は日ましにひろがっている。社会の同情はすべて学生の側にあつまり、蒋介石とその手先は完全に孤立している。蒋介石の凶暴な姿は、すっかり暴露された。学生運動は人民運動の一部分である。学生運動の高まりは、かならず人民運動全体の高まりをうながすものである。以前の五・四運動の時期と一二・九運動の時期の歴史的経験はすでにこのことを示している。
アメリカ帝国主義とその手先蒋介石は、日本帝国主義とその手先汪精衛にとってかわり、中国をアメリカの植民地にする政策、内戦をおこす政策、ファッショ的専制支配をつよめる政策をとることによって、かれら自身が全国人民の敵であることをみずから宣言し、全国各階層の人民を飢えと死の淵に追いやった。そのために、全国各階層の人民は団結して蒋介石反動政府との生死をかけた闘争に立ちあがらざるをえなくなり、また、この闘争は急速に発展していった。全国人民には、もはやそうする以外に生きる道がないのである。蒋介石政府のさまざまな反動政策におさえつけられ、団結によってみずからを救うよりほかなくなった中国各階層の人民、それには労働者、農民、都市小ブルジョア階級、民族ブルジョア階級、開明紳士、その他の愛国者、少数民族、海外の華僑がふくまれている。これはきわめて広範な全民族的な統一戦線である。
蒋介石政府が長いあいだとってきた極度に反動的な財政経済政策は、いま空前の売国条約、すなわち中米通商条約によっていっそう強められている。中米通商条約を基礎として、アメリカの独占資本と蒋介石の官僚買弁資本は緊密に結びつき、全国の経済生活を支配している。その結果、通貨は極度に膨脹し、物価はこれまでになく騰貴し、民族商工業は日ましに破産し、勤労大衆と公務員、教員の生活は日ましに悪化している。こうした状況から、各階層の人民は、死からぬけだすために団結してたたかわざるをえなくなっている。
軍事的弾圧と政治的欺瞞は、蒋介石が自己の反動的支配を維持する二つの主要な道具であったが、いまや人びとは、これらの道具が急速に破綻しつつあるのを見てとっている。
蒋介石の軍隊は、どこの戦場でも敗北を喫した。昨年七月から現在までの十一ヵ月間に、正規軍だけでも、すでにほぼ九十コ旅団が殲滅されている。昨年長春、承徳、張家口、[”くさかんむり”の下に”河”]沢、淮陰、安東を占領したときのような鼻息の荒さがもはや見られないばかりか、ことし臨沂を占領し、延安を占領したときのような鼻息の荒ささえも、いまはもう見られなくなっている。蒋介石、陳誠はかつて、人民解放軍の力と人民解放軍の作戦方法にあやまった評価をくだし、退却は臆病を意味し、一部の都市の放棄は敗北を意味すると考え、三ヵ月ないし六ヵ月のうちに山海関以南の問題を解決し、そのあとで東北地方の問題を解決しようと妄想した。ところが、十ヵ月ののち、蒋介石の侵入軍は全部がはやくも窮地におちいり、解放区の人民と人民解放軍に幾重にもとりかこまれ、ぬけだすことはもはや困難となった。
蒋介石軍が前線で敗れたというニュースがますますひんぱんに後方につたえられるにつれて、これまで蒋介石反動政府に圧迫されて息もつけないでいた広範な人民大衆は、自分たちが日の目を見、解放されるという望みがでてきたことを、ますます強く感じるようになった。ちょうどそのとき、蒋介石のあらゆる政治的欺瞞が、蒋介石の矢つぎはやな出演によって、急速に破産してしまった。すべてが反動派の予想をうらぎった。国民大会を招集して憲法を制定するとか、一党政府を改組して多党政府にするとかいっても、その目的はもともと、中国共産党とその他の民主勢力を孤立させることにあった。だが、結果はまったく逆に、孤立したのは中国共産党でもなければ他のいかなる民主勢力でもなくて、反動派自身であった。それいらい、中国人民は自分の経験をつうじて、蒋介石の国民大会とはどんなものか、蒋介石の憲法とはどんなものか、蒋介石の多党政府とはどんなものかを知った。それまで、中国人民のなかの多くの人びと、主として中間層の人びとは、蒋介石のこうしたやり方にたいして多かれ少なかれ幻想をいだいていた。蒋介石のいわゆる和平交渉についても同様である。だが、何回かの厳粛な休戦協定が蒋介石によって徹底的にふみにじられてからは、また、平和を要求し内戦に反対する学生大衆に銃剣がつきつけられてからは、人をだまそうとする下心のある連中とか、政治的経験のまったくないもののほかは、もうだれ一人、蒋介石のいわゆる和平交渉など信じなくなった。
すべての事態は、われわれの評価が正しかったことを証明している。われわれはこれまでたえず、つぎのように指摘してきた。蒋介石政府は売国、内戦、専制の政府以外のなにものでもない。この政府は、内戦という手段で中国共産党とすべての民主勢力を根こそぎにし、それによって、中国をアメリカの植民地にし、また自己の専制支配を維持するという目的をたっしようとしている。この政府は、そうした反動政策をとったことによって、政治的に、なんらの威信、なんらの力もないものとなった。蒋介石政府の強大さは一時的、表面的なものにすぎず、実際には見かけだおしの政府である。その進攻は、どんなところでも、どんな戦線でも、うちやぶることができる。そしてその前途は、みんなにそむかれ、見はなされ、全軍覆滅のうきめをみることは必然である。すべての事態は、こうした評価の正しさをすでに証明したし、今後もひきつづき証明するであろう。
中国における事態の発展は、人びとの予想以上にはやいであろう。一方には人民解放軍の勝利があり、他方には蒋介石支配区における人民闘争の進展があり、その速度はどちらもきわめてはやい。平和、民主、独立の新中国をうちたてるために、中国人民は必要なあらゆる条件をすみやかにととのえなければならない。
〔1〕 一九四六年十二月から、人民解放戦争の発展にともなって、国民党支配区の広範な学生の飢餓反対、内戦反対、迫害反対の民主・愛国運動が新しい高まりをみせ、しだいに蒋介石反動支配にたいする闘争の第二の戦線を形づくっていった。一九四六年十二月の末から一九四七年一月のはじめにかけて、北平、天津、上海、南京など数十の大中都市の五十余万にのぼる学生は、アメリカ兵が北京大学の女子学生を強姦した暴行に抗議し、アメリカ軍の中国撤退を要求して、あいついでストとデモ行進をおこなった。この闘争はたちまち、労働者、教員その他の人民大衆の支持をえた。一九四七年五月四日、上海各校の学生は内戦に反対するデモ行進をおこなった。同時に、上海の労働者、学生八千人が国民党警察局を包囲するという事件がおこった。この愛国運動はたちまち、南京、北平、杭州、瀋陽、青島、開封など多くの都市にひろがった。国民党反動派は学生の愛国・民主運動にたいして野蛮きわまる弾圧策をとった。五月二十日に南京と天津で同時に、学生百余人をなぐって傷つけたり、逮捕したりするという、有名な「五・二〇流血事件」をひきおこした。しかし、学生の愛国運動は、広範な人民の支持のもとに、けっして弾圧されはしなかった。「飢餓反対、内戦反対、迫害反対」をスローガンとする学生のストとデモ、労働者、教員のストなど、各界人民の反米反蒋闘争は、当時、六十余の大中部市にひろがった。一九四八年五月、上海の学生はまた、文化人、ジャーナリスト、その他各界の人びととともに、アメリカが日本の侵略勢力をもりたてそれを復活させることに反対する愛国運動をくりひろげたが、この運動も急速に他の多くの都市にひろがった。学生の愛国闘争は、全国的勝利の日まで一度もとだえたことがなく、国民党に大きな打撃をあたえた。
〔2〕 蒋介石政府は一九四七年五月十八日に、いわゆる「社会秩序維持臨時措置法」なるものを公布して、人民の十人以上の請願とすべてのスト、同盟休校、デモ行進を厳禁するとともに、各地の国民党政府に、人民の愛国・民主運動にたいして血なまぐさい弾圧をするための「必要措置」とか「緊急処置」とかをとる権限をあたえた。
(一九四七年九月一日)
これは、毛沢東同志が中国共産党中央のために起草した党内指示である。当時、毛沢東同志は中国共産党中央とともに陝西省北部の葭県の先官寨にいた。この指示は、解放戦争第三年目の基本的任務が、主力をもって国民党地域に進出し、内線作戦から外線作戦に転ずること、すなわち、戦略的防御の段階から戦略的進攻の段階に転ずることであると規定した。人民解放軍は、毛沢東同志のさだめた戦略計画にしたがって、一九四七年七月から九月にかけて全国的規模の進攻に転じた。山西・河北・山東・河南解放区野戦用は、六月三十日に山東省西南地区で黄河を強行渡河し、八月上旬に天水=連雲港鉄道をこえて大別山に挺進した。山西・河北・山東・河南解放区野戦軍の太岳兵団は、八月下旬に山西省南部から黄河を強行渡河して、河南省西部地区に挺進した。華東野戦軍は、敵の重点攻撃を撃破したのち、九月のはじめに山東省四南地区に挺進した。華東野戦軍の山東兵団は、九月から山東省膠莱河以東地区の敵にたいする攻勢作戦を開始した。西北野戦軍は、八月下旬に反攻に転じた。山西・察哈爾・河北解放区野戦軍は、九月のはじめに北平=漢口鉄道北部区間の敵にたいする攻勢作戦を開始した。東北野戦軍は、全東北地方での夏季攻勢につづいて、九月から、長春、吉林、四平地区と北平=瀋陽鉄道の錦西から義県にいたる地区で大規模な秋季攻勢を開始した。これらすべての戦場における攻勢によって、人民解放軍の全面進攻という全般的局面が形づくられた。人民解放軍の大規模な進攻によって、解放戦争は、戦局の根本的変化をしめすひとつの転換点にたっした。本巻の『当面の情勢とわれわれの任務』を参照されたい。
(一)第一年目の作戦(去年の七月からことしの六月まで)で、敵の正規軍九十七コ旅団半七十八万人と、かいらい軍、保安隊などの雑軍三十四万人、あわせて百十二万人を殲滅した。これは偉大な勝利である。この勝利は、敵に重大な打撃をあたえ、敵の陣営全体にきわめて深刻な敗北の気分を生じさせ、全国の人民を喜びにわきたたせ、わが軍が全敵軍を殲滅して最後の勝利をかちとるための基礎をすえた。
(二)第一年目の作戦では、敵は二百四十八の正規旅団のうち二百十八コ旅団百六十余万人と、百万にちかい特種部隊(海軍、空軍、砲兵部隊、工兵部隊、機甲部隊)、それにかいらい軍、交通警察部隊、保安部隊などをもって、わが解放区に大挙進攻してきた。わが軍は、正しく戦略上の内線作戦の方針をとり、三十余万の死傷者をだすことも、広大な土地を敵に占領されることも辞さず、いつでもどこでも主動的な立場に立った。その結果、百十二万人の敵を殲滅し、敵軍を分散させ、わが軍を鍛え、強大にすることができるとともに、東北地方、熱河省、河北省東部、山西省南部、河南省北部で戦略的反攻にでて、広大な土地を奪回し、また新たに解放することができた〔1〕。
(三)わが軍の第二年目の作戦の基本的任務は、全国的な反攻にでること、すなわち、主力をもって外線に進出し、戦争を国民党地域にもちこみ、外線で大量の敵を殲滅して、国民党の、ひきつづき戦争を解放区にもちこみ解放区の人力物力をいっそう破壊し消耗させて、わが方をもちこたえられなくさせようという反革命の戦略方針を徹底的に粉砕することである。わが軍の第二年目の作戦の部分的任務は、一部の主力と多くの地方部隊をもって、ひきつづき内線で戦い、内線の敵を殲滅して、失地を回復することである。
(四)わが軍が戦争を国民党地域にもちこむ外線作戦の方針をとれば、当然多くの困難にぶつかるだろう。なぜなら、国民党地域に新たな根拠地をつくるには時間が必要であり、いったりきたりする機動作戦をくりかえすなかで、大量の敵を殲滅し、大衆を立ちあがらせ、土地を分配し、政権をうちたて、人民の武装組織をつくらなければ、強固な根拠地をつくることができないからである。それまでは、困難もすくなくないだろう。だが、こうした困難は克服できるし、また克服しなければならない。なぜなら、敵はますます分散をよぎなくされ、広大な地域がわが軍の機動作戦の戦場になって、運動戦ができるようになるからであり、そこの広範な民衆が国民党を憎み、わが軍を支持しているからであり、一部の敵軍はまだ比較的強い戦闘力をもっているが、全般的には敵軍の士気は一年まえよりずっと衰え、戦闘力は一年まえよりずっと弱くなっているからである。
(五)国民党地域における作戦で勝利をおさめる鍵は、第一に、たくみに戦機をつかみ、勇猛果敢に戦い、勝ちいくさをかさねること、第二に、大衆獲得の政策をだんこ実行して、広範な大衆に利益をえさせ、かれらをわが軍の側に立たせることである。この二つのことをやりとげさえすれば、われわれは勝利する。
(六)ことしの八月末現在、敵軍の配置は、殲滅されたものや殲滅的な打撃をうけたものをもふくめて、南部戦線に百五十七コ旅団、北部戦線に七十コ旅団、国民党後方に二十一コ旅団で、その全国総数は、いぜんとして二百四十八コ旅団、兵員実数約百五十万人であり、ほかに特種部隊、かいらい軍、交通警察、保安部隊などが約百二十万人、敵の後方軍事機関の非戦闘員が約百万人で、敵軍の総数は約三百七十万人である。南部戦線の各軍のうち、顧祝同系が百十七コ旅団、程潜系その他が七コ旅団、胡宗南系が三十三コ旅団である。顧祝同軍の百十七コ旅団のうち、わが方に殲滅されたものと殲滅的な打撃をうけたものは六十三コ旅団である。そのうち一部はまだ補充されていない。一部は補充されたが、人員がひじょうにすくなく、戦闘力もきわめて弱い。他の一部はかなり多くの人員と兵器が補充され、戦闘力もある程度回復しているが、以前とくらべればはるかにおよばない。まだ殲滅されていないものと殲滅的な打撃をうけていないものは、五十四コ旅団にすぎない。顧祝同軍全体のうちでは、守備にあてられているものと、地域的な機動作戦にしかつかえないものとが八十二ないし八十五コ旅団をしめ、戦略的な機動作戦につかえるものは三十二ないし三十五コ旅団にすぎない。程潜系その他の七コ旅団はだいたい守備にしかつけず、そのうち一コ旅団はまえに殲滅的な打撃をうけている。胡宗南系(蘭州以東、寧夏・楡林以南、臨汾、洛陽以西のものをふくむ)の三十三コ旅団のうちでは、殲滅されたものと殲滅的な打撃をうけたものが十二コ旅団あり、戦略的な機動作戦につかえるものは七コ旅団にすぎず、その他はすべて守備についている。北部戦線の敵軍は計七十コ旅団である。そのうち、東北系は二十六コ旅団で、うち十六コ旅団が殲滅されたり、殲滅的な打撃をうけたりしている。孫連仲系は十九コ旅団で、うちへコ旅団が殲滅されたり、殲滅刑な打撃をうけたりしている。傳作義は十コ旅団で、うち二コ旅団が殲滅的な打撃をうけている。閻錫山は十五コ旅団で、うち九コ旅団が殲滅されたり、殲滅的な打撃をうけたりしている。これらの敵軍はいまのところだいたい守勢をとっており、機動作戦をおこなうことができる兵力は一部にすぎない。国民党後方で守備にあたっている兵力はわずかに二十一コ旅団である。そのうちわけは、新疆省と甘粛省西部に八コ旅団、四川省と西康省に七コ旅団、雲南省にニコ旅団、広東省に二コ旅団(つまり殲滅された第六十九師団)、台湾省に二コ旅団で、湖南、広西、貴州、福建、浙江、江西の六省には正規軍はまったくいない。国民党は、アメリカの援助のもとに、ことしは、百万の徴兵をおこなって、前線を補充するとともにいくつかの新旅団と補充連隊を訓練する計画をたてている。しかし、わが軍が、第一年目の作戦で月平均ハコ旅団の敵を殲滅したように、第二年目でもさらに九十六ないし百コ旅団を殲滅することができれば(七、八の二ヵ月ですでに十六コ旅団半の敵を殲滅した)、敵軍はさらにいちだんと弱まり、その戦略的機動兵力は極度にへって、ついには全国のすべての地方で防御の地位に追いこまれ、いたるところでわが方の攻撃をうけるようになるだろう。国民党が、百万の徴兵をおこなって、新旅団と補充連隊を訓練する計画をたてたところで、それはなんの足しにもならないだろう。徴兵とはいっても、もっぱら拉致と売買の方法によるのであって、百万にたっする見込みがないのはもちろんのこと、逃亡するものもたくさんでている。わが軍が外線作戦の方針を実行すれば、それによってもまた、敵の人的資源や物的資源をすくなくさせることができる。
(七)わが軍の作戦方針は、やはり、これまでに確立したとおりである。さきに、分散し孤立した敵を攻撃し(たとえばことし二月の莱蕪戦役〔2〕、七月の山東省西南部戦役〔3〕のような、いちどに数コ旅団を攻撃する大規模な殲滅的戦役をふくむ)、あとで、集中した強大な敵を攻撃する。さきに、中、小都市と広大な農村を奪取し、あとで、大都市を奪取する。敵の兵員の殲滅を主な目標とし、地域の保持あるいは奪取を主な目標とはしない。地域の保持あるいは奪取は、敵の兵員を殲滅することによってえられる結果であって、何度もくりかえさなければ最後的に保持あるいは奪取できないばあいが多い。どの戦いでも、圧倒的に優勢な兵力を集中して、四方から敵を包囲し、一兵も逃がさないよう、極力、完全殲滅をはかる。特殊な状況のもとでは、敵に殲滅的な打撃をあたえる方法をとる。すなわち、全力を集中し、敵の正面とその一翼あるいは両翼を攻撃して、その一部を殲滅し、他の一部を撃破する目的をとげ、それによって、わが軍が迅速に兵力を移動させて、他の敵軍を殲滅しあるいは打撃をあたえることができるようにする。一方では、準備のない戦いはせず、勝算のない戦いはしないよう注意し、どの戦いでも、できるかぎり、十分に準備をととのえ、敵味方の条件を比較したうえで、十分に勝利の確信をもてるようにしなければならないが、他方では、勇敢に戦い、犠牲を惜しまず、疲労をおそれず、連続的に戦う(すなわち、短期間内に、たてつづけにいくつもの戦闘をする)というすぐれた作風を発揮しなければならない。できるかぎり敵を運動戦のなかにひきいれなければならないが、同時にまた、ひろく敵の拠点や都市を奪取するために、陣地攻撃の戦術を学び、砲兵、工兵部隊の建設を強化することにも大いに力をいれなければならない。守備の手薄な拠点や都市はすべて、断固として攻略し、守備が中程度で、まわりの条件からいっても攻略してよい拠点や都市はすべて、機をみて攻略し、守備の強固な拠点や都市はすべて、一時放置しておく。敵から鹵獲した兵器のすべてと、捕虜にした兵員の大部分(八割ないし九割の兵士と少数の下級将校)で自己を補充する。おもに敵軍と国民党地域に補充をもとめ、旧解放区からの補充は一部分にとどめる。とくに南部戦線の各軍はそうすべきである。新解放区でも旧解放区でもすべて、断固として土地改革を実行し(これは長期の戦争をささえ、全国的な勝利をかちとるためのもっとも基本的な条件である)、生産を発展させ、節約を励行し、軍需工業の建設を強化しなければならず、すべてを前線の勝利のためにおこなわなければならない。そうしなければ、長期の戦争をささえ、全国的な勝利をかちとることはできない。ほんとうにこのようにやれば、かならず長期の戦争をささえ、全国的な勝利をかちとることができるだろう。
(八)以上は、一年間の戦争の総括と今後の戦争の方針である。各地の指導者が軍隊の連隊以上、地方の地方委員会および専員公署①以上の各級の幹部にこれをつたえて、すべてのものに自己の任務をはっきりと理解させ、断固として少しも動揺することなくこれを遂行させるようのぞむ。
〔1〕 本文にいう、わが軍の東北地方、熱河省、河北省東部での戦略的反攻とは、東北人民解放軍の一九四七年の夏季攻勢のことである。わが軍は、五月十三日から東北地方、熱河省、河北省東部の各戦場で同時に攻撃を展開し、七月一日までに八万余人の敵を殲滅し、四十余の県部を奪回して、敵軍のわが東北各解放区にたいする分断計画を完全に粉砕した。そのため、敵軍は中国長春鉄道と北平=瀋陽鉄道の細長い回廊地帯にひっこんで、いわゆる「重点防御」に転ぜざるをえなくなり、その結果、東北地方の全局面が一変した。また、本文にいう、わが軍の山西省南部、河南省北部での戦略的反攻とは、山西・河北・山東・河南解放区人民解放軍が一九四七年の三、四、五月に河南省北部と、山西省南部の大同=風陵渡鉄道の両側で展開した攻勢のことである。河南省北部のわが軍は、三月二十三日から攻撃をはじめて、延津、陽武、濮陽、封邱をあいついで攻略したのち、戦果を北に拡張して、五月二十八日までにさらに淇県、濬県、滑県、湯陰などの県都を攻略し、四万五千余人の敵を殲滅した。山西省南部のわが軍は、四月四日に攻撃をはじめて、五月四日までに曲沃、新絳、永済など二十二の県都と黄河の渡し場禹門口、風陵渡の要地をあいついで攻略し、一万八千余人の敵を殲滅した。
〔2〕 莱蕪戦役とは、華東人民解放軍が山東省の莱蕪(済南の東南にあたる)地区でおこなった運動戦のことである。一九四七年一月末、国民党軍は南北二つの戦線にわかれて、わが山東解放区に攻撃をくわえてきた。南部戦線では、国民党軍は八コ改編師団をもって三路から沂河、[シ+朮]河ぞいに北進して、臨沂をおかし、北部戦線では、国民党軍李仙洲集団の三コ軍団が明水、[シ+”巛”の下に”田”]川、博山などから莱蕪、新泰方面に南下してこれと呼応し、沂蒙山区で華東人民解放軍の主力と決戦をおこなおうとくわだてた。わが軍は、一部を南部戦線の敵の阻止にあて、主力を莱蕪にむけて北上させ、李仙洲集団を殲滅した。戦闘は、二月二十日にはじまって二十三日の午後に終わった。この戦闘で、六万余人の敵軍を完全に殲滅し、国民党徐州綏靖公署第二綏靖区副司令官李仙洲を捕虜にし、十三の都市を奪回した。
〔3〕 山東省西南部戦役とは、山西・河北・山東・河南解放区人民解放軍が一九四七年七月に山東省西南部の[”くさかんむり”の下に”河”]沢、鄲城、鉅野、定陶、金郷、曹県地区でおこなった戦役のことである。この戦役で、国民党軍四コ師団の師団本部と九コ旅団半、計五万六千余人を殲滅した。
① 地方委員会は、省委員会または辺区委員会の下、県委員会の上の級にあたる指導機構である。専員公署とは専区専員公署のことである。軍区は、省の下、県の上にあたる行政区の単位で、数県から十数県を管轄している。地方委員会と専員公署は、おなじ級の党機関と行政機関である。
(一九四七年十月)
これは、毛沢東同志が中国人民解放軍総司令部のために起草した政治宣言である。この宣言では、当時の国内政治情勢が分析され、「蒋介石を打倒し、全中国を解放せよ」というスローガンが提起され、中国人民解放軍の、したがってまた、中国共産党の八項目の基本政策が公表された。この宣言は一九四七年十月十日に公表されたので、『双十宣言』とよばれている。宣言は、陝西省北部葭県の神泉堡で起草された。
中国人民解放軍は、蒋介石の進攻を粉砕して、すでに大がかりな反攻にうつっている。南部戦線のわが軍は長江流域にむかって進撃しており、北部戦線のわが軍は中国長春鉄道と北平=瀋陽鉄道の両線にむかって進撃している。わが軍のむかうところ、敵は風をくらって潰走し、人民は歓呼の声をとどろかせている。一年まえにくらべると、敵味方の情勢全体には、すでに基本的な変化がうまれている。
本軍の作戦目的は、しばしば内外に声明したとおり、中国人民と中華民族を解放することである。そして、今日では、人民と民族を解放する総目標を達成するため、内戦の元凶蒋介石を打倒し、民主連合政府を組織するという、全国人民の切実な要求を実現することである。
中国人民は、自己の解放と民族の独立のために、八年もの長いあいだ日本帝国主義と英雄的に戦った。日本が降伏したのち、人民は平和を渇望したが、蒋介石は平和をめざす人民のあらゆる努力をふみにじり、かつてない内戦の災禍を人民におしつけた。こうして、全国各階層の人民は、団結して蒋介石をたおす以外に生きる道はなくなった。
蒋介石の現在の内戦政策は偶然のものではない。それは、蒋介石とその反動集団が一貫してとってきた反人民的な政策の必然的な結果である。はやくも民国十六年(一九二七年)に、蒋介石は恩義を忘れて国共両党の革命的同盟を裏切り、孫中山の革命的三民主義と三大政策を裏切った。そのときいらい、かれは専制支配をうちたて、帝国主義に投降し、十年の内戦をつづけ、日本侵略者の侵略をまねいた。民国二十五年(一九三六年)の西安事変〔1〕のさい、中国共産党は恨みにむくいるに徳をもってし、張学良、楊虎城両将軍に協力して蒋介石を釈放させ、蒋介石が反省悔悟して、ともに抗日に立ちあがることをのぞんだ。ところが、蒋介石はまたしても恩義を忘れ、日本侵略者にたいしては消極的に応戦し、人民にたいしては積極的にこれを弾圧し、共産党にたいしては極度にこれを敵視した。一昨年(一九四五年)、日本が降伏したとき、中国人民は、いまいちど蒋介石を許し、蒋介石にたいして、すでにはじめていた内戦を停止し、民主政治をおこない、各政党と団結して平和建国にあたるよう要求した。だが、信義のひとかけらもない蒋介石は、休戦協定に調印し、政治協商会議の決議を通過させ、四項目の公約〔2〕を宣言したのち、ただちに、その全部をくつがえした。人民の側は、忍耐をかさねて妥結をはかったが、蒋介石はアメリカ帝国主義の援助のもとに、国家、民族の存亡もかえりみず、人民にたいしてかつてない全面的進攻をおこなう腹をきめた。昨年(一九四六年)一月に休戦協定が公布されてから現在までのあいだに、蒋介石は二百二十余の正規旅団と百万人にちかい雑軍部隊①を動かして、中国人民が血みどろの戦いで日本帝国主義の手から奪回した解放区に大挙進攻し、瀋陽、撫順、本溪、四平、長春、永吉、承徳、集寧、張家口、淮陰、[”くさかんむり”の下に”河”]沢、臨沂、延安、烟台などの都市と広大な農村をあいついで占領した。蒋介石軍は、行くさきざきで殺人、放火、強姦、略奪をおこない、三光政策を実行し、その行為は日本の強盗どもとまったくおなじであった。昨年十一月、蒋介石はにせ国民大会を招集し、にせ憲法を公布した。ことし三月、蒋介石は共産党の代表を追放した。ことし七月、蒋介石は反人民的な総動員令〔3〕をくだした。内戦に反対し、飢餓に反対し、アメリカ帝国主義の侵略に反対する全国各地の正義の人民運動にたいし、労働者、農民、学生、市民および公務員、教員の生きるためのたたかいにたいして、蒋介石は、弾圧し、逮捕し、殺害するという方針をとっている。国内の各少数民族にたいして、蒋介石は、大漢族主義を実行して、迫害と弾圧のかぎりをつくすという方針をとっている。蒋介石の支配するすべての地区では、汚職がはびこり、特務が横行し、税金が重くなり、物価があがり、経済が破産し、市場がさびれ、壮丁と食糧が徴発され、怨嗟の声が道にあふれて、全国の圧倒的多数の人民を苦しみのどん底におとしいれているのである。ところが、蒋介石をかしらとする金融寡頭、汚職官吏、土豪劣紳は巨万の富をその手に集中している。これらの富はすべて、蒋介石らがその専制権力によって苛酷な取りたてをおこない、公に名をかりて私腹をこやすというふうにして手にいれたものである。蒋介石は、専制を維持し内戦をすすめるために、国家の権利を外国帝国主義に売りわたすことをも辞せず、アメリカ軍をひきいれて青島その他に駐留させ、アメリカから顧問をまねいて内戦の指摘と軍隊の訓練に参加させ、自分の同胞を惨殺させている。内戦のための飛行機、戦車、銃砲、弾薬を大量にアメリカからもちこみ、内戦のための経費を大量にアメリカから借り入れている。そして蒋介石は、軍事基地を売りわたし、航空権、航海権を売りわたし、奴隷的な通商条約〔4〕に調印するなど、袁世凱の売国行為よりもさらに何倍もひどい条件をうけいれ、アメリカ帝国主義への感謝の贈り物としている。要するに、蒋介石の二十年の支配は、売国、専制、反人民の支配であった。今日では、全国の圧倒的多数の人民は、地の南北をとわず、年の老幼をとめず、みな蒋介石の極悪非道の罪悪を知っており、本軍がすみやかに反攻にでて、蒋介石を打倒し、全中国を解放することをまちのぞんでいる。
本軍は中国人民の軍隊であり、すべてにおいて中国人民の意志を自己の意志としている。本軍の政策は中国人民の切実な要求を代表しており、その主要なものはつぎの各項目である。
一、労働者、農民、兵士、知識層、商工業者など各被抑圧階級、各人民団体、各民主政党、各少数民族、各地の華僑およびその他の愛国者と連合して民族統一戦線を結成し、蒋介石の専制政府を打倒して、民主連合政府を樹立する。
二、蒋介石をかしらとする内戦犯罪人を逮捕し、裁判にかけ、処罰する。
三、蒋介石支配の専制制度を廃止し、人民民主主義制度を実施し、人民の言論、出版、集会、結社などの自由を保障する。
四、蒋介石支配の腐敗した制度を廃止し、汚職官吏を一掃し、廉潔な政治をうちたてる。
五、蒋介石、宋子文、孔祥煕、陳立夫兄弟などの四大家族およびその他のおもだった戦犯の財産を没収し、官僚資本を没収し、民族商工業を発展させ、労働者、職員の生活を改善し、被災者と貧民を救済する。
六、封建的搾取制度を廃止し、耕すものに土地を、という制度を実施する。
七、中国領土内の各少数民族が平等と自治の権利をもつことをみとめる。
八、蒋介石専制政府のいっさいの売国外交を否定し、いっさいの売国条約を廃棄し、内戦の期間に蒋介石が借り入れたいっさいの外債を否認する。中国の独立をおびやかす在華駐留米軍の撤退をアメリカ政府に要求し、また、いずれの国であろうと、蒋介石の内戦をたすけたり日本の侵略勢力を復活させたりすることに反対する。外国と平等互恵の通商友好条約を結ぶ。われわれを平等に遇する世界のすべての民族と連合し、ともに奮闘する。
以上の各項が、本甲の基本政策である。本軍が到達したところでは、ただちにこれらの政策を実施する。これらの政策は、全国の九〇パーセント以上の人民の要求にそうものである。
本軍は、蒋介石側の人員にたいして、一律に排斥するのではなくて、区別してとりあつかうという方針をとる。すなわち、首謀者はかならず罰し、強迫されて従ったものは追及せず、功をたてたものには賞をあたえる。大罪をおかした極悪の、内戦の元凶蒋介石と、あくまで蒋介石をたすけて悪事をはたらき、人民を迫害し、しかも広範な人民から戦犯とみなされているすべてのものにたいしては、本軍はかならず地のはて海のはてまでもこれを追跡し、逮捕して裁判にかけ、法によって処罰する。本軍は蒋軍の将兵、蒋政府の官吏、蒋党の党員のすべてにつぎのように警告する。まだ無辜の人民の血にまみれていないものは、けっして、あの犯罪人どもの仲間入りをしてともに悪事をはたらいてはならない。すでに悪事をはたらいたものも、すみやかに悪事をやめ、反省悔悟して、蒋介石とたもとをわかつならば、功をたててその罪をつぐなうことを許すであろう。本軍は、武器をすてた蒋軍の将兵にたいしては、一律に、これを殺さず、はずかしめず、とどまりたいものはうけいれ、去りたいものは帰らせる。蜂起して本軍にくわわった蒋軍の部隊や、公然あるいは秘密裏に本軍のため活動した人びとにたいしては、賞をあたえる。
一日もはやく蒋介石を打倒し、民主連合政府を樹立するために、われわれは全国各界の同胞によびかける。本軍が到達したところでは、積極的にわれわれと協力して、反動勢力を一掃し、民主的秩序をうちたてよ。本軍がまだ到達していないところでは、みずからすすんで武器をとり、壮丁と食糧の徴発に抵抗し、土地を分配し、債務を破棄し、敵の間隙をついて遊撃戦を展開せよ。
一日もはやく蒋介石を打倒し、民主連合政府を樹立するために、われわれは解放区の人民によびかける。土地改革を徹底的に実行し、民主主義の基礎をかため、生産を発展させ、節約を励行し、人民の武装力をつよめ、敵の残存拠点を一掃し、前線の戦いを支援せよ。
本軍の全指揮員、戦闘員の同志諸君! われわれは、いま、わが国の革命史上もっとも重要でもっとも光栄な任務をになっている。われわれは、自己の任務をはたすために積極的に努力しなければならない。わが偉大な祖国がいつになれば暗黒から光明に転ずることができるか、わが愛する同胞がいつになれば人間らしい生活をいとなみ、自己の意志によって自己の政府をえらぶことができるか、それはひとえにわれわれの努力にかかっている。わが全軍の将兵は、軍事芸術をたかめて、必勝の戦争のなかで勇猛果敢に前進し、すべての敵を、断固として、徹底的に、きれいに、のこらず殲滅しなければならない。自覚性をたかめて、だれもが敵を殲滅し、民衆を奮起させるという二つの力を身につけ、大衆と緊密に団結し、新しい解放区を強固な解放区に急速にきずきあげなければならない。規律性をつよめて、だんことして、命令を遂行し、政策を遂行し、三大規律・八項注意を遂行し、軍民の一致、軍政の一致、将兵の一致、全軍の一致をはからなければならず、規律違反のいかなる現象もあってはならない。わが全軍の将兵は、われわれが偉大な人民解放軍であり、偉大な中国共産党の指導する軍隊であることをつねに銘記していなければならない。たえず党の指示をまもっていくかぎり、われわれはかならず勝利する。
蒋介石を打倒せよ!
新中国万歳!
〔1〕 本選集第一巻の『蒋介石の声明についての声明』注〔1〕を参照。
〔2〕 「四項目の公約」とは、一九四六年、政治協商会議の開会にあたって蒋介石の宣言した、人民の自由の保障、各政党の合法的地位の保障、普通選挙の実施、政治犯の釈放をさす。
〔3〕 一九四七年七月四日、国民党反動政府は蒋介石の「国家総動員提案」を採択し、ついで、いわゆる「共匪反乱鎮定総動員令」を発した。だが、実際には、蒋介石の反革命的内戦のための総動員は、ずっと前からおこなわれていた。このとき、中国人民解放軍はすでに全国的な進攻に転じていた。蒋介石自身も、その支配が「重大な危機」にみまわれたことを認めた。この「総動員△ヱは、蒋介石の瀕死のあがきをしめすものにほかならなかった。
〔4〕 「奴隷的な通商条約」とは、一九四六年十一月四日、蒋介石政府がアメリカ政府と調印した、中国の主権を売りわたす、いわゆる「中米友好通商航総条約」をさす。本巻の『中国革命の新しい高まりを迎えよう』注〔5〕を参照。
① 国民党の非正規軍のことで、これには地方保安部隊、交通警察部隊、憲兵および国民党によって接収・編成されたかいらい軍などがある。
(一九四七年十月十日)
一、わが軍の三大規律・八項注意は長年実施されてきたが〔1〕、その内容は各地、各軍によって多少ちがっている。いま統一した規定をもうけ、あらためて公布する。これを基準として、徹底した教育をおこない、厳格に執行するようのぞむ。そのほかの注意すべき事項については、各地、各軍の最高指導者が、具体的な状況にもとづいて、若干の項目をもうけ、命令の形で施行してよい。
二、三大規律はつぎのとおりである。
三、八項注意はつぎのとおりである。
〔1〕 三大規律・八項注意は、毛沢東同志が第二次回内革命戦争の時期に中国労農赤軍のためにさだめた規律である。これらの規律はかつて、赤軍の政治工作の重要な内容をなしたもので、人民軍隊の建設、軍隊内部の関係の正しい処理、人民大衆との団結、捕虜にたいする人民軍隊の正しい政策の確立などの面で偉大な役割をはたした。毛沢東同志は、赤軍創設の当初から、大衆に接するばあい言葉づかいはおだやかに、売り買いは公正に、人夫を拉致しない、人をなぐらない、人をののしらない、ということを部隊に要求した。一九二八年の春、労農赤軍が井岡山にいたころ、毛沢東同志は、第一、行動は指揮にしたがう、第二、労働者、農民のものはなに一つ取らない、第三、土豪から取りあげたものは公のものとする、という三項目の規律をさだめた。一九二八年の夏にはさらに、一、寝るために借りた戸板はもとどおりはめておく、二、寝るために借りたわらはもとどおりくくっておく、三、言葉づかいはおだやかに、四、売り買いは公正に、五、借りたものは返す、六、こわしたものは弁償する、という六つの注意事項をかかげた。一九二九年以後、毛沢東同志はさらに、三大規律のうちの「労働者、農民のものはなに一つ取らない」を「大衆のものは針一本、糸一すじも取らない」にあらため、「土豪から取りあげたものは公のものとする」を「調達した金は公のものとする」にあらため、その後また、「いっさいの鹵獲品は公のものとする」にあらためた。また、六つの注意事項については、「入浴は婦人の目にふれないところで」と「捕虜の私物に手をつけない」の二項をくわえた。こうして三大規律・八項注意となったのである。
(一九四七年十二月二十五日)
これは、毛沢東同志が、一九四七年十二月二十五日から二十八日まで陝西省北部の米脂県楊家溝でひらかれた中国共産党中央の会議でおこなった報告である。この会議には当時出席することのできた中央委員と中央委員候補のほかに、陝西・甘粛・寧夏辺区と山西・綏遠辺区の責任者も参加した。この会議では、毛沢東同志のこの報告と、毛沢東同志の書いた『当面の国際情勢についてのいくつかの評価』(本巻一〇五ページ)が討議され、採択された。毛沢東同志の報告について、会議の決定はつぎのように指摘している。「この報告は、蒋介石反動支配集団を打倒し、新民主主義の中国をうち建てる全時期をつうじて、政治、軍事、経済の各方面で綱領的性質をもつ文献である。全党、全軍はこの文献を、一九四七年の双十節の各文献(一九四七年十月十日に公布された『中国人民解放軍宣言』『中国人民解放軍のスローガン』『三大規律・八項注意をあらためて公布することについての訓令』『中国土地法大綱』『中国土地法大綱の公布にかんする中国共産党中央の決議』をさす)と結びつけて、徹底した教育をおこなうとともに、実践のなかでこれを厳格に遵守、実施しなければならない。各地の政策実施の過程に、この報告で指摘されている原則とあわないところがあれば、ただちにあらためなければならない。」この会議ではこのほか、つぎの重要な決定がわこなわれた。(1)中国人民の革命戦争を完全な勝利にまでたえず発展させるよう努力すべきであり、敵が、時間をかせぐ策謀(和平交渉)によって、休養と整備・訓練の時間をかせいだうえで、ふたたび人民に襲いかかるのを許してはならない。(2)革命的中央政府をつくる時機はいまのところまだ熟していない。この問題は、わが軍がさらに大きな勝利をおさめたのち、あらためて考慮すべきであり、憲法の発布はなおさら将来の問題である。会議ではまた、当時党内にあった偏向および土地改革と大衆運動におけるいくつかの具体的政策についての問題がくわしく討議された。討議の結果は、のちに毛沢東同志によって、『当面の党の政策におけるいくつかの重要問題について』(本巻二三九ページ)のなかにまとめられた。この文章から一九四八年三月二十日の『状況についての通報』まではみな、陝西省北部の米脂県楊家溝で書かれたものである。
中国人民の革命戦争は、いまや一つの転換点にたっしている。つまり、中国人民解放軍はすでにアメリカの手先蒋介石の数百万の反動軍隊の進攻を撃退するとともに、進攻に転じたのである。一九四六年七月から一九四七年六月にいたるこの戦争の最初の一年間に、人民解放軍ははやくもいくつかの戦場で蒋介石の進攻を撃退して、蒋介石を防御の地位に追いこんだ。そして、戦争第二年目の第一・四半期、すなわち一九四七年の七月から九月にかけて、人民解放軍は全国的規模の進攻に転じて、戦争をひきつづき解放区にもちこみ解放区を徹底的に破壊しようとする蒋介石の反革命計画を粉砕した。いま、戦争はすでに主として解放区のなかではなく、国民党支配区でおこなわれており、人民解放軍の主力はすでに国民党支配区に攻め入っている〔1〕。中国人民解放軍はすでに、この中国という大地のうえで、アメリカ帝国主義とその手先蒋介石匪賊一味の反革命の車輪を逆転させて、これを覆滅の道にむかわせ、自己の革命の車輪をおしすすめて、これを勝利の道にむかわせている。これは歴史の転換点である。これは、蒋介石の二十年にわたる反革命支配が発展から消滅にむかう転換点である。これは、中国における帝国主義の百余年にわたる支配が発展から消滅にむかう転換点である。これは偉大なできごとである。このできごとが偉大であるのは、それが四億七干五百万の人口を擁する国でおこったからであり、このできごとは、ひとたびおこった以上、かならず全国的な勝利へとすすむからである。このできごとが偉大であるのは、また、それが世界の東方でおこったからであり、ここでは十億以上の人口(人数の半ばをしめる)が帝国主義の抑圧をうけているからである。中国人民の解放戦争が防御から進攻に転じたことは、これらの被抑圧民族を喜びにわきたたせ、ふるいたたせずにはおかない。同時に、いまたたかっているヨーロッパとアメリカ大陸の諸国の被抑圧人民にたいする援助でもある。
蒋介石が反革命戦争をひきおこしたその日から、われわれは、蒋介石をうち破らなければならす、またうち破ることができる、といってきた。われわれが蒋介石をうち破らなければならないのは、蒋介石のひきおこした戦争が、アメリカ帝国主義の指摘のもとでの、中国の民族独立と中国人民の解放に反対する反革命の戦争だからである。中国人民の任務は、第二次世界大戦が終わり、日本帝国主義がうち倒されたのちに、政治、経済、文化の面で新民主主義的改革を完成し、国家の統一と独立を実現し、農業国を工業国にかえることであった。ところが、反ファシズムの第二次世界大戦が勝利をもって終わったそのときから、アメリカ帝国主義と各国におけるその手先は、ドイツ・日本帝国主義およびその手先にとってかわり、反動陣営を結成して、ソ連に反対し、ヨーロッパの人民民主主義諸国に反対し、資本主義諸国の労働運動に反対し、各植民地・半植民地の民族運動に反対し、中国人民の解放に反対してきた。このようなときに、蒋介石をかしらとする中国の反動派は、日本帝国主義の手先汪精衛とまったく同様に、アメリカ帝国主義の手先になりさがって、中国をアメリカに売りわたし、戦争をひきおこして、中国人民に反対し、中国人民の解放事業の前進をはばんできた。このようなときに、もしわれわれに断固立ちあがって革命戦争によって反革命戦争に反対する勇気がなく、弱腰をみせ、後退でもしたならば、中国は暗黒の世界と化し、わが民族の前途はほうむりさられたであろう。中国共産党は、中国人民解放軍を指導して、断固として愛国・正義・革命の戦争をおこない、蒋介石の進攻とたたかった。中国共産党は、マルクス・レーニン主義の科学をよりどころにして、冷静に国際・国内情勢を評価しており、内外反動派のあらゆる攻撃をうち破らなければならず、またうち破ることができることを知っている。空に暗雲があらわれたとき、われわれは、これは一時の現象にすぎない、暗黒はまもなくすぎさるだろう、暁の光はすぐ目のまえにきている、と指摘した。一九四六年七月、蒋介石匪賊一味が全国的規模の反革命戦争をひきおこしたとき、かれらは、三ヵ月から六ヵ月もあれば、人民解放軍をうち破ることができるとおもっていた。かれらは、自分たちは正規軍二百万、非正規軍百余万、後方の軍事機関と部隊百余万、計四百余万の軍事力をもっている、自分たちはすでに、時間を有効につかって、進攻の準備を完了している、自分たちはふたたび大都市を支配している、自分たちは三億以上の人口をもっている、自分たちは中国侵略の日本軍百万人の装備をぜんぶ接収している、自分たちはアメリカ政府から、軍事上、財政上の莫大な援助をえている、と考えていた。かれらはまた、中国人民解放軍は八年の抗日戦争でひどく戦いつかれており、そのうえ、数のうえでも、装備のうえでも、国民党の軍隊にはるかにおよばない、中国の解放区はまだ一億をすこしこえる人口しかもたず、そのうち大部分の地区では反動的な封建勢力がまだ一掃されておらず、土地改革がまだゆきわたっていないし、徹底していない、つまり、人民解放軍の後方はまだかたまっていない、と考えていた。こうした評価から出発して、蒋介石匪賊一味は、中国人民の平和への願いをかえりみず、一九四六年一月に結ばれた国共両党間の休戦協定および各政党の政治協商会議の決議を最後的にふみにじって、冒険的な戦争をひきおこした。そのとき、われわれは、蒋介石の軍事力の優勢は一時の現象にすぎず、一時的に作用する要因にすぎない、アメリカ帝国主義の援助もまた一時的に作用する要因にすぎない、それにひきかえ、蒋介石の戦争の反人民的な性格、人心の向背は、恒常的に作用する要因であり、この面では、人民解放軍が優勢をしめている、といった。愛国・正義・革命の性格をもつ人民解放軍の戦争は、かならず全国人民の支持を得るのである。これが蒋介石にうち勝つ政治的基礎である。十八ヵ月間の戦争の経験は、われわれの断定をあますところなく実証した。
十七ヵ月間(一九四六年七月から一九四七年十一月までで、十二月の分はまだ計算にいれていない)の作戦で、蒋介石の正規軍と非正規軍あわせて百六十九万人を殺傷し、あるいは捕虜にしたが、そのうち、殺傷したものは六十四万人、捕虜にしたものは百五万人である。こうして、わが軍は蒋介石の進攻を撃退し、解放区の基本的な地域を保持するとともに、進攻に転じた。われわれがこのようになしえたのは、軍事面からいえば、正しい戦略方針を実行したからである。われわれの軍事原則はつぎのとおりである。(1)さきに、分散し孤立した敵を攻撃し、あとで、集中した強大な敵を攻撃する。(2)さきに、小都市、中都市および広大な農村を奪取し、あとで、大都市を奪取する。(3)敵の兵員の殲滅を主な目標とし、都市や地域の保持あるいは奪取を主な目標とはしない。都市や地域の保持あるいは奪取は、敵の兵員を殲滅することによってえられる結果であって、何度もくりかえさなければ最後的に保持あるいは奪取できないばあいが多い。(4)どの戦いでも、圧倒的に優勢な兵力(敵の兵力のニ倍、三倍、四倍、ときには五倍あるいは六倍もの兵力)を集中して、四万から敵を包囲し、一兵も逃がさないよう、極力、完全殲滅をはかる。特殊な状況のもとでは、敵に殲滅的な打撃をあたえる方法をとる。すなわち、全力を集中し、敵の正面とその一翼あるいは両翼を攻撃して、その一部を殲滅し、他の一部を撃破する目的をとげ、それによって、わが軍が迅速に兵力を移動させて、他の敵軍を殲滅しあるいは打撃をあたえることができるようにする。損得のつぐなわない、あるいは損得相半ばするような消耗戦は極力さける。そうすれば、われわれは、全体的には劣勢(数のうえからいって)であっても、個々の局部、個々の具体的な戦役では圧倒的優勢となり、戦役の勝利が保障される。そして、ときがたつにつれて、われわれは全体的にも優勢に転じ、ついには、すべての敵を殲滅するようになるのである。(5)準備のない戦いはせず、勝算のない戦いはしない。どの戦いでも、できるかぎり、十分に準備をととのえ、敵味方の条件を比較したうえで、十分に勝利の確信をもてるようにしなければならない。(6)勇敢に戦い、犠牲をおそれず、疲労をおそれず、連続的に戦う(すなわち、短期間内に、休まず、たてつづけにいくつもの戦闘をする)という作風を発揮する。(7)できるかぎり、敵を運動のなかで殲滅するようにする。同時に、陣地攻撃の戦術を重視し、敵の拠点や都市を奪取する。(8)都市の攻略の問題では、敵の守備の手薄な拠点や都市はすべて、断固として奪取する。敵の守備が中程度で、まわりの条件からいっても奪取してよい拠点や都市はすべて、機をみて奪取する。敵の守備の強固な拠点や都市はすべて、条件の熟するのをまって奪取する。(9)敵から図捜した兵器のすべてと、捕虜にした兵員の大部分で自己を補充する。わが軍の人力物力の補給源は主として前線にある。(10)二つの戦役のあいまをたくみに利用して、部隊の休養と整備・訓練をおこなう。休養と整備・訓練の時間は、できるだけ敵に息ぬきの時間をあたえないために、一般に長すぎてはならない。以上の諸点は、人民解放軍が蒋介石をうち破る主要な方法である。これらの方法は、人民解放軍が内外の敵との長期にわたる戦いの鍛練のなかでうみだしたものであって、完全にわれわれの現在の状況にかなった方法である。蒋介石匪賊一味やアメリカ帝国主義の在中国軍事要員は、われわれのこれらの軍事方法をよく知っている。蒋介石は、これまで幾度となく、かれの将官、佐官たちを集めて訓練し、かれらにわれわれの軍事書籍や戦争のなかで手にいれた文書をあたえて研究させ、これに対処する方法をみつけだそうとした。アメリカの軍事要員も、蒋介石に、人民解放軍を消滅するための戦略戦術をあれこれと提案し、また、蒋介石のために軍隊を訓練し、軍事装備を補給した。だが、あらゆるこれらの努力も、蒋介石匪賊一味の敗北を救うことはできない。それは、われわれの戦略戦術が人民戦争という基礎のうえにうちたてられたものであって、いかなる反人民の軍隊も、われわれの戦略戦術を応用することができないからである。人民解放軍は、人民戦争の基礎のうえに、軍隊と人民の一致団結、指俺員と戦闘員の一致団結、敵軍の瓦解などの原則の基礎のうえに、自己の強力な革命的政治工作をうちたてており、これが、われわれが敵に勝利する重要な要因である。われわれが、優勢な敵からの致命的な打撃をさけるとともに、兵力を移動させて敵を運動のなかで殲滅するために、みずからすすんで多くの都市を放棄したとき、われわれの敵は有頂天になった。かれらは、これこそかれらの勝利であり、われわれの敗北であると考えた。かれらは一時的な勝利なるものにすっかりのぼせあがってしまった。張家口が占領されたその日の午後、蒋介石は、ただちに自己の反動的な国民大会の招集を命じたが、まるで、かれの反動支配が、これからさきは泰山のように安泰であるかのようであった。アメリカ帝国主義者たちもすっかりうかれてしまい、まるで、中国をアメリカの植民地にしようとするかれらの気違いじみた計画が、これからさきはなんのさまたげもなく実現できるかのようであった。だが、ときがたつにつれて、蒋介石やその主人であるアメリカのことばの調子にも変化が生じた。いまでは、内外のあらゆる敵が悲観的な気分に支配されている。かれらはため息をつき、さかんに危機をさけんでおり、うきうきした様子はみじんもみられなくなった。十八ヵ月のあいだに、蒋介石の前線高級指揮官は大部分が戦敗のかどで更迭された。そのなかには、鄭州の劉峙、徐州の薛岳、江蘇省北部の呉奇偉、山東省南部の湯恩伯、河南省北部の王仲廉、瀋陽の杜聿明、熊式輝、北平の孫連仲などがいる。作戦全体の指揮の任にあたった蒋介石の参謀総長陣誠も指揮権をとりあげられて、東北戦場の指揮官に格下げされた〔2〕。ところが、蒋介石自身が陳誠にかわって全体の指揮にあたるようになった期間に、かえって、蒋介石軍が進攻から防御に転じ、人民解放軍が防御から進攻に転ずるという局面がうまれたのである。蒋介右反動集団とその主人であるアメリカは、いまこそ自分自身のあやまりに気づくべきである。かれらは、日本降伏後長いあいだ、中国共産党が中国人民の願いを代表して、平和をめざし内戦に反対してきたあらゆる努力を、臆病と力の弱さのあらわれだとみていた。かれらは、自己の力を過大評価し、革命の力を過小評価して、冒険的に戦争をひきおこし、その結果、みずからしかけた落とし穴におちこんでしまった。われわれの敵の戦略的な企図は徹底的に失敗したのである。
現在では、十八ヵ月前にくらべて、人民解放軍の後方もずっとかたまっている。これは、わが党が断固として農民の側にたって、土地改革を実行した結果である。抗日戦争の時期には、国民党との抗日統一戦線をうちたて、また、当時まだ日本帝国主義に反対することのできる人びとを結集するために、わが党はみずからすすんで、地主の土地を没収して農民に分配するという抗日以前の政策を、小作料と利子の引き下げの政策にあらためたが、これはまったく必要なことであった。日本降伏後、農民が切実に土地を要求したので、われわれは、時をうつさず土地政策をあらためる決定をおこない、小作料と利子の引き下げを、地主階級の土地を没収して農民に分配することに変更した。わが党中央が一九四六年五月四日に出した指示〔3〕は、こうした変更をしめすものである。一九四七年九月、わが党は全国土地会議を招集し、中国土地法大綱〔4〕を制定するとともに、これをただちに各地であまねく実施した。この措置は、昨年の「五・四指示」の方針を確認したばかりでなく、さらに、「五・四指示」のなかにあった若干の不徹底さをもはっきりとあらためている。中国土地法大綱は、封建的・半封建的搾収の土地制度を消滅して、耕すものに土地をあたえる土地制度を実行するという原則のもとに、人口におうじて土地を平均分配すること〔5〕を規定している。これは、封建制度をもっとも徹底的に消滅する方法であり、中国の広範な農民大衆の要求に完全に合致するものである。断回として徹底的に土地改革をおこなうためには、土地改革をおこなう合法機関として、農村に雇農、貧農、中農からなるもっとも広範な大衆性をもつ農民協会およびそれが選出する委員会をつくるだけでなく、まず、貧農、雇農大衆からなる貧農団およびそれが選出する委員会をつくらなければならず、しかも、貧農団がすべての農村闘争の指導的骨幹とならなければならない。われわれの方針は、貧農に依拠し、かたく中農と連合して、地主階級と旧式富農の封建的・半封建的搾取制度を消滅することである。地主、富農の収得する土地や財産は、農民大衆より多くてはならない。しかしまた、一九三一年から一九三四年の期間に実施した、「地主には土地をあたえず、富農には悪い土地をあたえる」という極左的なあやまった政策をくりかえしてもならない。農村人口のなかで地主、富農がしめる割合は、ところによって多い少ないのちがいはあるが、一般的な状況についていえば、だいたい八パセーント前後(戸を単位に計算して)にすぎない。だが、かれらの所有する土地は、一般的な状況からいえば、土地全体の七〇ないし八〇パーセントにたっしている。したがって、われわれが土地改革でたたかう対象はごく少数であり、それにひきかえ、農村で土地改革の統一戦線に参加できる、また当然参加すべき人数(戸数)は、およそ九〇パーセント以上という大きな数である。ここで、つぎの二つの基本原則に注意しなければならない。第一に、貧農と雇農の要求を満足させなければならない。これは土地改革のもっとも基本的な任務である。第二に、中農の利益をそこなってはならず、断固として中農と団結しなければならない。この二つの基本原則をつかんでさえいれば、われわれはかならず土地改革の任務を成功裏になしとげることができるだろう。平均分配の原則からみて余分な旧式富農の土地および財産の一部が分配ざれなければならないのは、中国の富農が一般に、きわめて濃厚な封建的・半封建的搾取の性質をもち、そのほとんどが同時に、土地を小作にだしたり、高利貸しをしたりしており、労働力の雇用条件も半封建的だからである〔6〕。それに、かれらの所有する土地は比較的多く、質もよい〔7〕ので、平均分配をしなければ、貧農、雇農の要求を満足させることができないからである。だが、土地法大綱の規定にしたがって、富農のとりあつかいと地主のとりあつかいとは、一般に区別されなければならない。土地改革で中農が平均分配に賛成するのは、平均分配が中農の利益をそこなわないからである。平均分配にあたって、一部の中農は土地の変動がなく、一部の中農は土地がふえる。ただ一部の富裕中農にわずかながら余分の土地があるが、かれらもそれを平均分配のために提供することに同意する。それは、平均分配後、かれらの土地税の負担も軽くなるからである。そうではあるが、各地で土地の平均分配をおこなうさいは、やはり、中農の意見をよく聞き、中農が同意しなければ、中農に譲歩しなければならない。封建搾取階級の土地・財産を没収分配するさいは、一部の中農の要求に心をくばらなければならない。階級所属をきめるさいは、もともと中農にぞくするものを、あやまって富農のわくにいれないよう注意しなければならない。農民協会の委員会にも、政府にも、中農の積極的な人びとをいれて仕事に参加させなければならない。土地税や戦争支援の負担では、公正と合理の原則をとらなければならない。これらは、わが党がかたく中農と連合するという戦略的任務を遂行するうえでとらなければならない具体的な政策である。全党は、土地制度の徹底的な改革が、現段階の中国革命の基本的任務であることを理解しなければならない。普遍的に徹底的に土地問題を解決することができれば、われわれは、すべての敵にうち勝つのに十分な、もっとも基本的な条件をえたことになる。
土地改革を断固として徹底的に実行し、人民解放軍の後方をかためるためには、党の隊列をととのえなければならない。抗日戦争の時期のわが党内の整風運動は、一般的には成果をおさめた。その成果は、主として、われわれの指導機関および広範な幹部と党員に、マルクス・レーニン主義の普遍的真理と中国革命の具体的実践との統一という基本的な方向をいっそうしっかりと把握させたことである。この点では、わが党は、抗日前のいくつかの歴史的時期にくらべて、大きく進歩した。だが、党の地方組織の面、とくに党の農村基礎組織の面に存在する、階級構成の不純と作風の不純という問題は、まだ解決されていない。一九三七年から一九四七年までの十一年間に、わが党の組織は数万の党員から二百七十万の党員にまで発展したが、これはきわめて大きな躍進である。これによって、わが党は、中国の歴史上かつてない強大な党になった。これによって、われわれは、日本帝国主義をうち破るとともに、蒋介石の進攻を撃退し、一億以上の人口をもつ解放区と二百万の人民解放軍を指導することができるようになった。だが、それにともなって欠点もうまれた。つまり、多くの地主や富農、ごろつきが、機に乗じてわが党にまぎれこんだのである。かれらは農村で党や政府、民衆国体の多くの組織をにぎって、いばりちらし、人民をいじめ、党の政策をゆがめ、これらの組織を大衆からうきあがらせ、徹底的に土地改革をおこなうのをさまたげている。このような重大な事態が、党の隊列をととのえるという任務をわれわれのまえに提起したのである。この任務が解決されなければ、われわれは農村で前進することができない。党の全国土地会議は、この問題を徹底的に討議するとともに、適切な措置と方法をきめた。これらの措置と方法は、現在、土地の平均分配の決定とともに、各地で断固として実地にうつされている。そのうちでも、まず第一に重要なことは、党内で批判と自己批判をくりひろげ、各地の組織にみられる、党の路線からはずれたあやまった思想やゆゆしい現象を徹底的に暴露することである。この党内不純の問題を解決し、党の隊列をととのえることによって、党がもっとも広範な勤労大衆と完全におなじ方向にたち、かれらの前進を倍導できるようになることが、土地問題を解決し、長期の戦争を支援する決定的な環であることを、全党の同志は理解しなければならない。
封建搾取階級の土地を没収して農民の所有に移し、蒋介石、宋子文、孔祥煕、陳立夫をかしらとする独占資本を没収して新民主主義国家の所有に移し、民族商工業を保護する。これが新民主主義革命の三大経済綱領である。蒋、宋、孔、陳の四大家族は、かれらが権力をにぎっていた二十年間に、すでに百億ドルないし二百億ドルにたっする膨大な財産をかきあつめ、全国の経済動脈を独占した。この独占資本は、国家権力と結びついて、国家独占資本主義となった。この独占資本主義は、外国帝国主義、自国の地主階級および旧式富農と緊密に結びついて、買弁的、封建的な国家独占資本主義となった。これが蒋介石反動政権の経済的土台である。この国家独占資本主義は労働者・農民を抑圧するだけでなく、都市小ブルジョア階級を抑圧し、中層ブルジョア階級をもいためつけている。この国家独占資本主義は、抗日戦争の期間および日本降伏後に頂点にたっしたが、それはまた新民主主義革命のために十分な物質的条件を準備した。この資本は、中国ではふつう官僚資本とよばれている。このブルジョア階級は、官僚ブルジョア階級とよばれるもので、つまり中国の大ブルジョア階級である。新民主主義革命の任務は、帝国主義の中国における特権を廃止するほかに、国内で、地主階級と官僚ブルジョア階級(大ブルジョア階級)の搾取と抑圧を消滅し、買弁的、封建的な生産関係をあらため、束縛されている生産力を解放することである。これらの階級とその国家権力によって抑圧され、いためつけられている小ブルジョア階級の上層や中層ブルジョア階級もやはりブルジョア階級であるが、新民主主義革命に参加し、あるいは中立をまもることができる。かれらは、帝国主義とはつながりがなく、あっても比較的すくなく、真の民族ブルジョア階級である。新民主主義の国家権力のおよぶところでは、これらの階級を、断固として、いささかもためらうことなく保護しなければならない。蒋介石支配区の小ブルジョア階級の上層や中層ブルジョア階級は、そのうちの一部少数のもの、すなわちこれらの階級の右翼分子が反動的な政治傾向をもっており、かれらは、アメリカ帝国主義と蒋介石反動集団のために幻想をふりまき、人民民主主義革命に反対している。かれらの反動的傾向がなお大衆に影響をおよぼしうるようなばあいには、われわれは、かれらの影響をうけている大衆のあいだでかれらを暴露し、大衆のなかにあるかれらの政治的影響に打撃をくわえて、大衆をかれらの影響下から解放しなければならない。しかし、政治上の打撃と経済上の消滅とは別の問題であって、この二つを混同するとあやまりをおかすことになる。新民主主義革命が消滅する対象は、封建主義と独占資本主義だけであり、地主階級と官僚ブルジョア階級(大ブルジョア階級)だけであって、資本主義一般を消滅するのではなく、小ブルジョア階級の上層や中層ブルジョア階級を消滅するのではない。中国の経済はおくれているので、広範な小ブルジョア階級の上層や中層ブルジョア階級が代表する資本モ義経済は、革命が全国で勝利したのちにおいても、やはり、長いあいだその存在を許さなければならないし、また、国民経済の分業からいって、そのうちの国民経済に有益なすべての部分はなおある程度発展させる必要がある。それは、国民経済全体のなかでやはり欠くことのできない一部分である。ここでいう小ブルジョア階級の上層とは、労働者または店員をやとっている小規模の商工業者のことである。このほか、なお労働者または店員をやとっていない広範な自営小商工業者がいるが、これらの小商工業者は、いうまでもなく、断固として保護しなければならない。革命が全国で勝利したのちは、新民主主義国家は、官僚ブルジョア階級から接収した、全国の経済動脈を支配する巨大な国家企業をもち、また、封建制度から解放された、なおかなり長期にわたって基本的には依然として分散的で小私有的ではあるが、将来はしだいに協同組合の方向に発展させることのできる農業経済をもつので、こうした条件のもとでは、この種の中小の資本主義的要素が存在し発展することは、なにも危険ではない。土地改革ののち農村に必然的に発生する新しい富農経済もまたそうである。小ブルジョア階級の上層や中層ブルジョア階級などの経済的要素にたいしては、わが党が一九三一年から一九三四年にかけてとったような極左的なあやまった政策(たかすぎる労働条件、たかすぎる所得税率、土地改革にさいしての商工業者にたいする侵害、生産の発展、経済の繁栄、公私兼顧、労資両利を目標とせず、近視眼的な一面的な勤労者福祉なるものを目標とした)を絶対にくりかえしてはならない。これらのあやまりをくりかえすならば、かならず、勤労大衆の利益と新民主主義国家の利益をそこなうだろう。中国土地法大綱には、「商工業者の財産とその合法的な営業は、侵害されないよう保護される」という規定がある。ここでいう商工業者とは、すべての自営小商工業者およびすべての中小の資本主義的要素のことである。以上を要約すれば、新中国の経済構成はつぎのとおりである。(1)国営経済、これが指導的な要素である。(2)小私有からしだいに集団化の方向に発展する農業経済。(3)自営小商工業者の経済および中小の私的資本主義経済。これらのものが、新民主主義の国民経済の全体である。そして、新民主主義の国民経済の指導方針は、生産の発展、経済の繁栄、公私兼顧、労資両利という総目標にぴったりとそっていかなければならない。この総目標をはなれた方針、政策、方法はすべてあやまりである。
一九四七年十月、人民解放軍は宣言を発表したが、そのなかでつぎのようにのべている。「労働者、農民、兵士、知識面、商工業者など各被抑圧階級、各人民団体、各民主政党、各少数民族、各地の華僑およびその他の愛国者と連合して民族統一戦線を結成し、蒋介石の専制政府を打倒して、民主連合政府を樹立する。」これが人民解放軍の、同時にまた中国共産党のもっとも基本的な政治綱領である。表面的にみれば、現在の時期は、抗日の時期にくらべて、われわれの革命的民族統一戦線は縮小したかのようにみえる。だが、実際には、現在の時期においてこそ、蒋介石が民族の利益をアメリカ帝国主義に売りわたし、反人民的な全国的規模の国内戦争をひきおこしたのちにおいてこそ、アメリカ帝国主義と蒋介石反動支配集団の罪悪が中国人民の目のまえであますところなく暴露ざれたのちにおいてこそ、われわれの民族統一戦線はほんとうに拡大したのである。抗日の時期には、蒋介石と国民党は、中国人民のあいだでまだ完全には威信をうしなっていなかったし、まだいろいろとごまかしがきいた。だが、いまはちがっている。かれらのすべてのごまかしはすでにかれら自身の行動によって暴露されており、かれらはもはやどのような大衆をももっておらず、完全に孤立しているのである。国民党とは反対に、中国共産党は、解放区においてもっとも広範な人民大衆の信頼をえているばかりでなく、国民党支配区、国民党が支配している大都市においても、広範な人民大衆の支持をえている。一九四六年には、蒋介石支配下の小ブルジョア階級の上層や中層ブルジョア階級の知識人のうちの一部に、まだいわゆる第三の道〔8〕という考え方があったが、現在では、すでにこのような考え方は破産してしまっている。徹底した土地政策をとったことによって、わが党は、抗日の時期よりはるかに広範な農民大衆の心からの支持をえている。アメリカ帝国主義の侵略と蒋介石の抑圧によって、また、わが党の断固として大衆の利益を保護する正しい方針によって、わが党は、蒋介石支配区の労働者階級、農民階級、都市小ブルジョア階級および中層ブルジョア階級の広範な大衆の共鳴をえている。これらの大衆は、飢えにせまられているために、政治的に抑圧されているために、蒋介石の反人民的な内戦によって人民の生きる道がすべてうばいさられているために、たえず、アメリカ帝国主義と蒋介石反動政府に反対する闘争をまきおこしている。かれらの基本的なスローガンは、飢餓反対、迫害反対、内戦反対およびアメリカの中国内政干渉反対である。抗日の以前においても、抗日の時期においても、また日本降伏後のある時期においても、かれらの自覚はこれほどまでにはなっていなかった。だから、われわれは、われわれの新民主主義の革命的統一戦線が、いまはこれまでのいずれの時期よりも広範なものになり、これまでのいずれの時期よりも強固なものになっている、というのである。このことは、われわれの土地政策や都市政策とつながりがあるばかりでなく、人民解放軍が勝利し、蒋介石が進攻から防御に転じ、人民解放軍が防御から進攻に転じ、中国革命がすでに新たな高揚期にはいったという全般的な政治情勢と密接なつながりがある。現在、人びとは、蒋介石支配の滅亡がすでに避けがたいものであることを見てとっており、そのために、中国共産党と人民解放軍にのぞみを託しているが、これはきわめて当然なことである。中国の新民主主義革命の勝利は、全民族の圧倒的多数の人口をふくむもっとも広範な統一戦線がなければ不可能である。それだけでなく、この統一戦線は、中国共産党の確固とした指導のもとにおかれなければならない。中国共産党の確固とした指導がなければ、どのような革命的統一戦線も勝利することはできない。一九二七年、北伐戦争が高揚期をむかえたとき、わが党指導機関の投降主義者は、みずからすすんで、農民大衆、都市小ブルジョア階級、中層ブルジョア階級にたいする指導権を放棄し、とくに武装力にたいする指導権を放棄したため、そのときの革命を失敗に終わらせてしまった。抗日戦争の時期には、わが党は、こうした投降主義思想に似かよった思想、すなわち、国民党の反人民政策に譲歩し、人民大衆を信頼する以上に国民党を信頼し、思いきって大衆闘争をおこす勇気がなく、日本占領地区で解放区を拡大し、人民の軍隊を拡大する勇気がなく、抗日戦争の指導権を国民党に進呈する、といった思想に反対した。わが党は、マルクス・レーニン主義の原則にそむいたこのような軟弱無能な腐敗した思想にたいして、断固たる闘争をおこない、「進歩勢力を発展させ、中間勢力を獲得し、頑迷勢力を孤立させる」という政治路線を断固として実行し、解放区と人民解放軍を断固として拡大した。これによって、わが党は日本帝国主義の侵略の時期に、日本帝国主義に勝利することを保障されたばかりでなく、日本降伏後、蒋介石が反革命戦争をおこなった時期にも、人民革命戦争によって蒋介石の反革命戦争に反対する道に、順調に損害をうけることなく転ずることができ、短期間のうちに偉大な勝利をおさめることを保障されたのである。これらの歴史の教訓を、全党の同志はしっかりと心にとめておかなければならない。
蒋介石反動集団が、一九四六年に全国的規模の反人民的な国内戦争をひきおこし、あえて冒険にでたのは、かれら自身の優勢な軍事力をたのみにしていたからだけでなく、主として、かれらが「とてつもなく強大」で「天下無敵」だと考えていた、手に原子爆弾をもったアメリカ帝国主義をたのみにしていたからである。かれらは、一方では、アメリカ帝国主義がかれらの軍事上、財政上必要とするものを湯水のようにつぎこんでくれると考えており、他方では、「米ソはかならず戦う」「第三次世界大戦はかならず勃発する」と妄想していた。このようにアメリカ帝国主義にたよることは、第二次世界大戦が終わってのちの世界各国の反動勢力に共通した特徴である。このことは、第二次世界大戦が世界の資本主義にあたえた打撃の深刻さをしめし、各国の反動派の力の弱さと恐怖感、自信の喪失をしめし、全世界の革命勢力の強大さのために、各国の反動派がアメリカ帝国主義の援助にたよる以外にまったく活路がないと感じていることをしめしている。だが、実際のところ、第二次世界大戦後のアメリカ帝国主義は、ほんとうに、蒋介石や各国の反動派が考えているほど強大だろうか。ほんとうに、蒋介石や各国の反動派に湯水のようにつぎこむことができるだろうか。そんなわけにはいかない。第二次世界大戦の時期に膨脹したアメリカ帝国主義の経済力は、不安定な、日ましに縮小する国内市場と国際市場に直面している。このような市場の縮小がさらにすすめば、経済恐慌の勃発をひきおこすことになる。アメリカの戦争景気は一時的な現象にすぎない。その強大さは表面的、一時的なものにすぎない。内外の調和しがたい各種の矛盾は、火山のように毎日アメリカ帝国主義をおびやかしており、アメリカ帝国主義はこの火山の上にすわっているのである。こうした事情にせまられて、アメリカの帝国主義者たちは、世界奴隷化の計画をたて、野獣のようにヨーロッパ、アジアその他の地域をかけずりまわり、各国の反動勢刀や、人民にはきすてられたかすをかき集めて帝国主義と反民主主義の陣営を結成し、ソ連を先頭とするすべての民主勢力に反対し、戦争を準備し、将来、遠い先のいつの日にか第三次世界大戦をひきおこして民主勢力をうち破ろうとたくらんでいる。これは気違いじみた計画である。全世界の民主勢力はこの計画をうち破らなければならず、また完全にうち破ることができる。全世界の反帝国主義陣営の力は、帝国主義陣営の力をしのいでいる。優勢は、敵の側にではなく、われわれの側にある。ソ連を先頭とする反帝国主義陣営はすでに形成されている。恐慌のない、発展しつつある、全世界の広範な人民大衆から愛護されている社会主義のソ連の力は、いまや、恐慌の重大な脅威をうけ、没落しつつある、全世界の広範な人民大衆から反対されている帝国主義のアメリカをしのいでいる。ヨーロッパの人民民主主義諸国は、いまその内部をかためるとともに、たがいに団結しつつある。フランス、イタリアをはじめとするヨーロッパの資本主義諸国の人民の反帝国主義の力は発展しつつある。アメリカの内部にも、日ごとに強大になっている人民の民主勢力がある。ラテン・アメリカの人民もげっしてアメリカ帝国主義に従順な奴隷ではない。全アジアには偉大な民族解放運動がおこっている。反帝国主義陣営のすべての勢力は団結しつつあり、発展しつつある。ヨーロッパの九ヵ国の共産党と労働者党は、すでに情報局をもうけ、全世界の人民に、帝国主義の奴隷化計画に反対して立ちあがれというよびかけ〔9〕を発表している。このよびかけは、全世界の被抑圧人民をふるいたたせ、かれらに闘争の方向をさししめし、かれらに勝利への確信をかためさせている。全世界の反動派は、このよびかけを前にしてあわてふためいている。東方諸国のあらゆる反帝国主義勢力も、東方の十億をこえる被抑圧人民の解放を奮闘目標に、団結して、帝国主義と国内の反動派の抑圧とたたかわなければならない。われわれ自身の運命は、当然われわれ自身の手に握らなければならない。われわれは、自己の内部にあるあらゆる軟弱無能な思想を一掃しなければならない。敵の力を過大評価し、人民の力を過小評価する見方はすべてあやまりである。われわれと全世界の民主勢力がひとつになり、ともに努力しさえすれば、かならず帝国主義の奴隷化計画をうち破り、第三次世界大戦がおこりえないようにし、あらゆる反動派の支配をくつがえし、人類の永遠の平和の勝利をかちとることができるだろう。われわれのすすむ道には、なお、さまざまな障害、かずかずの困難があることをわれわれははっきりと知っている。われわれは、内外のあらゆる敵の最大限の抵抗とあがきに対処する準備をしておかなければならない。しかし、われわれがマルクス・レーニン主義の科学を把握し、大衆を信頼し、大衆としっかりとひとつになり、かれらの前進を指導することができるかぎり、われわれは完全に、いかなる障害をものりこえ、いかなる困難にもうち勝つことができるのである。われわれの力は無敵である。いまは、全世界の資本主義と帝国主義が滅亡にむかい、全世界の社会主義と人民民主主義が勝利にむかう歴史的時代である。暁の光は目のまえにある。われわれは努力しなければならない。
〔1〕 人民解放軍が各戦場でつぎつぎと進攻に転じ、国民党支配区に攻め入った状況については、本巻の『西北地方の大勝利を評し、あわせて解放軍の新しい型の整軍運動論ず』注〔1〕を参照。
〔2〕 劉峙は元国民党鄭州綏靖公署主任で、一九四六年九月の定陶戦役で敗北したため、十一月に解職された。薛岳は元国民党徐州綏靖公署主任で、その指揮下の国民党軍が一九四六年十二月の宿遷県北部戦役、一九四七年一月の山東省南部戦役および同年二月の莱蕪戦役でたてつづけに惨敗を喫したため、三月に解職された。呉奇偉は元国民党徐州綏靖公署副主任で、一九四六年十二月の宿遷県北部戦没で敗北したため、一九四七年三月に解職された。湯恩伯は元国民党第一兵団司令官で、一九四七年五月、孟良[”やまかんむり”に”固”]戦役で国民党改編第七十四師団が殲滅されたため、六月に解職された。王仲廉は元国民党第四兵団司令官で、一九四七年七月の山東省西南部戦役で敗北したため、八月に解職された。杜聿明は元国民党東北保安司令長官、熊式輝は元国民党東北行轅主任で、いずれも一九四七年六月、東北地方におけるわが軍の夏季攻勢のさい惨敗を喫したため解職された。孫連仲は元国民党第十一戦区司令長官で、一九四七年六月の青県・滄県戦役、保北(保定以北の徐水地区)戦役で敗北したため、保定綏靖公署主任にまわされた。陳誠は蒋介石の元参謀総長で、山東省のいくつもの戦役を指揮して、つづけざまに敗北したため、一九四七年八月、東北行政長官に転出させられた。
〔3〕 中国共産党中央の一九四六年五月四日の「土地問題についての指示」のこと。本巻の『三ヵ月の総括』注〔5〕を参照。
〔4〕 中国共産党全国土地会議は、一九四七年九月に河北省平山県西柏坡村でひらかれた。この会議で九月十三日に採択された「中国土地法大綱」は、同年十月十日、中国共産党中央によって公布された。土地法大綱はつぎのように規定している。「封建的・半封建的搾取の土地制度を廃止して、耕すものに土地をあたえる土地制度を実行する」、「村のすべての地主の土地および公有地は村の農民協会が接収し、村のその他のすべての土地とあわせて、村の全人口におうじて男女老幼のべつなく統一的に平均分配する」、「村の農民協会は地主の役畜、農具、家屋、食糧およびその他の財産を接収するとともに、富農からも上述の財産のうちの余分な部分を徴収して、これらの財産をもたぬ農民およびその他の貧民にこれを分配し、また地主にもこれとおなじだけのものを分配する」。こうして、土地法大綱は、一九四六年の「五・四指示」がうちだした「地主の土地を没収して農民に分配する」という原則を確認したばかりでなく、「五・四指示」のなかにあった、一部の地主にたいする過度の配慮という不徹底さをもあらためた。
〔5〕 「中国土地法大綱」に規定された土地中均分配の方法は、その後の実施の過程でいくらかあらためられた。一九四八年二月、中国共産党中央は、「旧解放区および準旧解放区での土地改革活動および整党活動の遂行についての指示」のなかで、つぎのことを規定した。封建制度がすでにくつがえされているすべての旧解放区と準旧解放区では、ふたたび土地を平均分配するということはやらずに、ただ、必要なばあいにのみ、多いほうからさいて、すくないほうを補い、よいほうからさいて、悪いほうを補うという方法をとって、一部の土地その他の生産手段を調整し、これをまだ徹底的には解放されていない貧農、雇農にあたえるとともに、中農には、一般の貧農が収得する土地の平均より多い土地の保有を許す。封建制度がなお存在しているところでも、平均分配の重点は、やはり、地主の土地・財産や旧式富農の余分の土地・財産の面にかぎられる。いずれの地区でも、中農と新式富農の余分の土地については、たしかに調整の必要があり、また本人がたしかに同意したばあいにたけ、それをさいて調整にまわすことが許される。新解放区の土地改革では、中農の土地はすべて手をつけない。
〔6〕 中世の土地改革における富農の問題は、中国の具体的な歴史的・経済的条件のもとで形成された特殊な問題である。中国の富農は一般に濃厚な封建的・半封建的搾取の性質をもっているが、こうした富農経済は、全国の農業経済のなかで重要な地位をしめてはいない。この二つの点はいずれも、多くの資本主義国の富農とは異なっている。中国における地主階級の封建的搾取に反対する闘争のなかで、広範な貧農、雇農は、富農の封建的・半封建的搾取をも同時に一掃するよう要求した。解放戦争の時期には、中国共産党は、富農の余分の土地と財産を徴収して農民に分配する政策をとったことによって、広範な貧農、雇農の要求をみたし、人民解放戦争の勝利を保障した。戦争が勝利のうちに発展するにともない、一九四八年二月に、中国共産党中央は、新解放区で土地改革を実行するための新しい政策をさだめた。それは、新解放区の土地改革を二つの段階にわけ、第一の段階では、富農を中立化させ、もっぱら地主に打撃をあたえ、まず大地主に打撃をあたえる、第二の段階で、地主の土地を分配するさいには、富農が小作にだしている土地やかれらの余分の土地も分配するが、富農のとりあつかいと地主のとりあつかいとでは区別をつけろ、というものであった(本巻の『新解放区における土地改革の要点』を参照)。中華人民共和国の成立後、中央人民政府は、一九五〇年六月に土地改革法を公布し、土地改革のさい、富農からはその小作にだしている土地の一部または全部を徴収するだけで、富農のその他の土地および財産はこれを保護すると規定した。その後の社会主義革命の段階では、農業協同化運動の深化と農村経済の発展にともない、富農経済はもはや存在しなくなった。
〔7〕 ここで、富麗の土地が比較的多く、質もよいというのは、富農一戸あたりのしめる土地を、貧農一戸あたりのそれと比較していっているのである。全国的にみれば、中国の富農の所有する生産手段とそれによって生産される農産物の量は、いずれもわすかなものである。富農経済は、全面農村経済のなかで、重要な地位をしめてはいない。
〔8〕 人民解放戦争の初期に、一部の民主的な人びとは、国民党の大地主・大ブルジョア階級の独裁と中国共産党の指導する人民民主主義独裁のほかに、いわゆる第三の道を見いだそうと幻想をいだいていた。この道は実際には英米式のブルジョア独裁の道にほかならない。
〔9〕 共産党・労働者党情報局は、一九四七年九月にポーランドのワルシャワでおこなわれたブルガリア、ルーマニア、ハンガリー、ポーランド、ソ連、フランス、チェコスロバキア、イタリア、ユーゴスラビアの九ヵ国の共産党と労働者党の代表者会議の決議によってうまれた。のちにユーゴスラビア共産党は、その反マルクス・レーニン主義的立場を固執したことと反ソ、反社会主義陣営の態度をとったことによって、一九四八年六月、ルーマニアでひらかれた情報局会議で、情報局からの除名を宣告された。毛沢東同志がここでのべている、帝国主義の奴隷化計画に反対して立ちあがれという情報局発表の全世界人民へのよびかけとは、情報局が一九四七年九月の会議で採択した『国際情勢にかんする宣言』のことである。
(一九四八年一月七日)
これは、毛沢東同志が中国共産党中央のために起草した党内指示である。この指示で定められている報告制度は、民主集中制を堅持し、無規律、無政府的傾向に反対して、党中央がすすめてきた長期にわたる闘争の新たな条件のもとでの発展である。この問題がこの時期にとりわけ重要であったのは、革命の情勢がすでにきわめて大きな進展をとげ、多くの解放区がすでにひとつにつらなり、多くの都市がすでに解放され、あるいはまもなく解放されようとしており、人民解放軍と人民解放戦争の正規化の度合いが大いに高まり、全国的勝利が目の前に追っていたからである。こうした状況は、党内および軍隊内におけるどのような無規律、無政府状態をも早急に克服して、集中しなければならず、また集中することのできるすべての権力を党中央に集中することを党に要求した。厳格な報告制度の確立は、この目的のために党がとった重要な措置のひとつであった。この問題については、本巻の『一九四八年の土地改革活動と整党活動』の第六部分と『九月会議にかんしての中国共産党中央の通達』の第四項を参照されたい。
適時に状況を反映させ、それによって、党中央が、各地に、あやまりをおかさぬようあるいはあやまりを少なくするよう、事前または事後に援助をあたえることができるようにし、革命戦争のより偉大な勝利をかちとるために、ことしからつぎのような報告制度をもうける。
(一)各中央局と分局①は、書記が責任をもち(秘書に代筆させず、自分で書くこと)、二ヵ月に一回、党中央と党中央の主席に総合報告をおこなう。報告の内容は、その地区の軍事、政治、土地改革、整党、経済、宣伝、文化などの諸活動の動態、活動のなかでうまれた問題と偏向、それらの問題や偏向の解決方法などとする。報告の字数は、毎回一千字前後を限度とし、特殊なばあいのほかは、多くとも二千字をこえないこととする。一回にすべての問題を書きつくせないときは、二回にわけて書く。あるいは、一回目には、いくつかの問題に重点をおいて書き、のこりの問題には重点をおかないで簡単にふれ、二回目には、のこりの問題に重点をおいて書き、さきに重点をおいて書いたものについては簡単にふれるようにする。総合報告の内容は要をえたものにし、文章は簡潔にし、問題または論争点がどこにあるかをしめす。総合報告の執筆、提出の期日は奇数月の上旬とし、報告は電報でおこなう。これは、各中央局、分局の書記個人が責任をもって党中央と党中央の主席にたいしておこなう恒常的な報告であり、指示要請である。書記が前線で作戦の指揮にあたっているときは、自分でも報告するほか、後方での活動の報告を代理書記または副書記がおこなうよう指定する。なお、各中央局と分局が党中央にたいしておこなう臨時の報告と指示要請はこれまでどおりとし、これにはふくまれない。
われわれがこのような政策的意義のある、恒常的で、総合的な報告と指示要請の制度をもうけるのは、党の第七回全国代表大会以後も、一部の(すべてのではない)中央局と分局の同志が、あいかわらず、事前または事後に党中央にたいして報告と指示要請をおこなうことの必要性と重要性を認識していなかったり、あるいは、たんに技術的な報告と指示要請しかおこなっていなかったりしているので、党中央はかれらの重要な(第二義的なものまたは技術的なものではない)活動と政策の内容をはっきりとつかめず、あるいはあまりはっきりとつかめず、そのために、取りかえしのつかない事態、取りかえすのに困難な事態、あるいは取りかえすことはできてもすでに損失をまねいているといった事態がいくつか生じているからである。事前に指示を要請し、事後に報告をおこなっている中央局または分局では、そうした損失をまぬかれ、あるいは少なくしている。ことしから、全党の各級指導機関は、上級にたいして事前に指示を要請もしなければ、事後に報告もしないといったよくない習慣をあらためなければならない。各中央局と分局は、党中央の委任をうけ、党中央を代表して、党中央が委託した任務を遂行する機関であって、党中央とはもっとも緊密なつながりをもたなければならない。また、各省党委員会あるいは区党委員会②は、各中央局、分局と緊密なつながりをもたなければならない。革命が新たな高揚期にはいったいま、こうしたつながりを強めることは、きわめて必要なことである。
(二)各野戦軍の指導者と軍区の指導者は、そのつど作戦方針の報告と指示要請をおこない、これまでの規定どおり、毎月一回、戦績報告、損失報告および実力報告をおこなうほか、ことしからは、二ヵ月に一回、政策的意義のある総合的な報告と指示要請をおこなわなければならない。報告と指示要請の内容は、その部隊の規律、物質生活、指揮員・戦闘員の気分、指揮員・戦闘員のあいだにうまれている偏向、偏向克服の方法、技術と戦術の進歩または退歩の状況、敵軍の長所と短所および士気の高低、わが軍の政治工作の状況、わが軍の土地政策、都市政策、捕虜政策の遂行状況および偏向克服の方法、軍民関係および各階層の人民の動向などにかんするものである。この報告の宇敷、書き方および提出期日は、各中央局、分局の報告のばあいと同様である。規定の報告期日(奇数月の上旬)にたまたま戦闘が緊迫しているばあいは、期日を若干繰り上げるか、繰り下げるかしてもさしつかえないが、その理由をはっきり説明しなければならない。報告の政治工作にかんする部分は、政治部主任が起草し、司令員、政治委員が審査、修正したうえで、共同署名する。報告は電報で軍事委員会主席あてにおくる。われわれがこのような政策的意義のある、総合報告をおこなうことをきめた理由は、上述の、中央局、分局が総合報告をおこなう理由とおなじである。
① 本選集第二巻の『抗日根拠地の政権問題』訳注①を参照。
② 本選集第二巻の『抗日根拠地の政権問題』訳注②を参照。
(一九四八年一月十八日)
これは、毛沢東同志が中国共産党中央のために起草した党内指示である。本巻の『当面の情勢とわれわれの任務』の解題を参照されたい。
敵の力を過大評価することに反対する。たとえば、アメリカ帝国主義をおそれ、国民党地域にいって戦うことをおそれ、買弁・封建制度の一掃、地主の土地の分配、官僚資本の没収をおそれ、長期戦をおそれることなどがそれである。こうしたことはいずれも正しくない。全世界の帝国主義と中国の蒋介石反動集団の支配は、もはや腐れきっていて、前途がない。われわれには、かれらを軽視する理由があり、中国人民のあらゆる内外の敵にうち勝つ成算と確信がある。だが、個々の局部、個々の具体的な闘争の問題では(軍事上、政治上、経済上、思想上のどの闘争でも)、けっして敵を軽視してはならず、逆に、敵を重視し、全力を集中して戦うべきであって、そうしなければ勝利を得ることはできない。全体的、戦略的には敵を軽視すべきであると指摘するのは正しいが、個々の局部、個々の具体的な問題ではけっして敵を軽視してはならない。もし全体的に敵の力を過大評価したため、かれらを打倒し勝利をかちとる勇気がもてないなら、われわれは右翼日和見主義のあやまりをおかすことになる。もし、個々の局部、個々の具体的な問題について慎重な態度をとらず、闘争の芸術に工夫をこらさず、全力を集中して戦うことをせず、獲得すべきすべての同盟者(中農、自営商工業者、中産階級、学生・教員・教授その他一般知識人、一般公務員、自由職業者、開明紳士)を獲得することに心をそそがないなら、われわれは「左」翼日和見主義のあやまりをおかすことになる。
党内の「左」右の偏向とたたかうには、具体的な状況にもとづいて方針を決定しなければならない。たとえば、軍隊が勝ちいくさをしているときには、「左」翼的偏向を防止しなければならないし、負けいくさをしているときとか、まだあまり勝ちいくさをやれないでいるときには、右翼的偏向を防止しなければならない。土地改革で、まだしんけんに大衆を立ちあがらせておらず、まだ闘争を展開していないところでは、右翼的偏向に反対しなければならないし、すでに、しんけんに大衆を立ちあがらせており、すでに闘争を展開しているところでは、「左」翼的偏向を防止しなければならない。
一、貧農・雇農の利益と貧農団の率先的役割を第一位におかなければならない。わが党は、かならず貧農・雇農をつうじて土地改革運動をおこさなければならないし、貧農・雇農が農会と農村権力機関のなかで率先的役割をはたすようにしなければならないが、この率先的役割とは、中農と団結して自分たちとともに行動させることであり、中農をほうりだして、貧農・雇農だけですべてを一手にきりまわすことではない。旧解放区のなかで、中農のほうが多く、貧農・雇農が少ないところでは、中農の地位はとりわけ重要である。「負農・雇農で天下を取り、天下をおさめよう」というスローガンはあやまりである。農村では、雇農、貧農、中農その他の勤労人民が連合して、共産党の指導のもとに、天下を取り天下をおさめるのであって、貧農・雇農だけで天下を取り天下をおさめるのではない。全国では、労働者、農民(新富農をふくむ)、自営商工業者、反動勢力から抑圧されいためつけられている中小資本家、学生・教員・教授・一般知識人、自由職業者、開明紳士、一般公務員、抑圧されている少数民族および海外華僑が連合して、労働者階級(共産党をつうじて)の指導のもとに、天下を取り天下をおさめるのであって、少数のもので天下を取り天下をおさめるのではない。
二、中農にたいしては、どのような冒険的政策をとることも避けなければならない。中農その他の階層のものにたいしてその階級所属の決定をあやまったばあいには、すべてこれをあらため、分配してしまったものはできるかぎり返さなければならない。農民代表や農民委員会から中農をしめだす傾向や、土地改革闘争のなかで貧農・雇農を中農と対立させる傾向は、これを是正しなければならない。搾取による所得のある農民は、その搾取による所得が全所得の二五パーセント(四分の一)以下のものを中農とし、それ以上のものを富農とすべきである〔1〕。富裕中農の土地は、本人の同意なしに分配してはならない。
三、中小商工業者にたいしては、どのような冒険的政策をとることも避けなければならない。各解放区で国民経済に有益な私営商工業の発展をすべて保護し奨励してきたいままでの政策は、正しいものであって、今後ともつづけていくべきである。小作料・利子引き下げの時期に、地主、富農が商工業に転じるのを奨励した政策も正しいものであって、「偽装したもの」とみなして反対し、これを没収し分配するのはあやまりである。地主、富農の商工業は、一般に保護すべきであり、没収してよいのは、官僚資本とほんとうの悪覇、反革命分子の商工業だけである。この没収すべき商工業は、国民経済に有益なものであるかぎり、国家と人民が接収したのちも、経営をつづけさせるべきで、これを分散させたり閉鎖したりしてはならない。国民経済に有益な商工業から営業税を徴収するばあいには、すべてその発展をさまたげないことを限度にしなければならない。公営企業では、原価を引き下げ、生産を増大させ、公私双方の利益をはかる、という目的をたっするため、管理者側と労働組合側で合同の管理委員会をつくって、管理をつよめなければならない。私的資本主義企業でも、原価を引き下げ、生産を増大させ、労資双方の利益をはかる、という目的をたっするため、こうした方法をこころみるべきである。労働者の生活は適度に改善しなければならないが、度をこえた待遇は避けなければならない。
四、学生、教員、教授、科学関係者、芸術関係者、一般知識人にたいしては、どのような冒険的政策をとることも避けなければならない。中国の学生運動と革命闘争の経験が立証しているように、学生、教員、教授、科学関係者、芸術関係者、一般知識人は、圧倒的多数が革命に参加するか、中立をたもつことができ、徹底した反革命分子はごく少数にすぎない。したがって、わが党は学生、教員、教授、科学関係者、芸術関係者、一般知識人にたいし慎重な態度をとらなければならない。それぞれの状況におうじて団結し、教育し、登用し、ごく少数の徹底した反革命分子にたいしてだけ、大衆路線をつうじて適切な処置をとるべきである。
五、開明紳士の問題について。抗日の時期に、わが党が各解放区の権力機関(参議会と政府)のなかで開明紳士と協力したことは、ぜひとも必要であったし、また成功でもあった。わが党と苦難をともにして、たしかにかなりの貢献をした開明紳士にたいしては、土地改革のさまたげにならないという前提で、それぞれの状況におうじて配慮をくわえなければならない。そのうち、政治面で比較的よく、仕事の能力もあるものは、ひきつづき上級の政府にとどめて適当な仕事をあたえるべきである。政治面では比較的よいが、仕事の能力に欠けているものは、その生活を保障すべきである。地主、富農にぞくするが、人民がさほど悪感情をいだいていないものにたいしては、その封建的所有の土地、財産を土地法にもとづいて分配するが、闘争にはかけないようにすべきである。以前からわが権力機関にもぐりこんでいたが、実際には一貫して悪質であり、人民の役にたたないばかりか、広範な大衆からひどく憎まれているものにたいしては、悪覇一般を処分するやりかたで、これを人民法廷にひきわたし、審理し処分する。
六、新富農と旧富農①とは区別しなければならない。小作料・利子引き下げの時期に新富農と富裕中農の生産にたいする奨励を提起したことは、中農をおちつかせ、解放区の農業生産を発展させるうえで効果があった。土地の平均分配後は、農民にたいして、生産を発展させ、衣食を豊かにするようよびかけるとともに、変工隊、互助組あるいは換工班②といった農業互助協同組織をつくるよう勧めなければならない。土地の平均分配のさい、旧解放区の新富農にたいしては、これを富裕中農なみにあつかい、本人の同意なしにその土地を分配してはならない。
七、旧解放区における小作料・利子引き下げの時期に生活の方式をかえた地主、富農のうち、地主では労働するようになってから満五年以上、富農では中農または貧農にさがってから満三年以上になるものは、もし言動がよければ、現在の状況にもとづいてその階級所属を変更してもよい。そのうち、たしかにいまなお余分の財産をたくさんもっている(わずかではない)ものには、農民の要求におうじてその余分のものを差しださせるべきである。
八、土地改革の中心は、封建搾取階級の土地と食糧、役畜、農具などの財産を分配する(富農には余分のものだけをださせる)ことであって、地下隠匿財産〔2〕の摘発闘争を強調しすぎてはならない。とりわけ、地下隠匿財産の摘発闘争にながい時間をついやして、主要な仕事をさまたげてはならない。
九、地主のとりあつかいと富農のとりあつかいは、土地法大綱にもとづいて区別しなければならない。
十、大、中、小の地主にたいし、また地主や富農のなかの悪覇と悪覇でないものにたいしては、土地の平均分配の原則のもとでも、それぞれ区別をつけるべきである。
十一、ごく少数のほんとうに重大な罪をおかした極悪人は、人民法廷でしんけんに審理し判決をくだすとともに、一定の政府機関(県級あるいは分区級で組織された委員会)の承認をえて銃殺に処し、それを公表すること、これはぜひとも必要な革命的秩序である。これがひとつの面である。もうひとつの面では、殺すのはあくまでも少数にとどめ、やたらに殺すことを厳重に禁止しなければならない。たくさん殺し、やたらに殺すことを主張する意見はまったくあやまりであって、そんなことをすれば、わが党は支持をうしない、大衆からうきあがり、孤立におちいるだけである。人民法廷で審理し判決をくだすという、土地法大綱にさだめられている闘争方式は、しんけんに実行しなければならない。それは、農民大衆が地主、富農のうちのもっとも悪質なものに打撃をくわえる有力な武器であり、また、やたらに人を殴ったり殺したりするあやまりをふせぐものでもある。適当な時機(土地闘争がもりあがったのち)に、大衆を教育して自己の遠大な利益について理解させ、全国で何千万という(全国の約三億六千万の農村人口のうち約三千六百万にのぼる)地主、富農のうち、あくまで戦争を妨害し土地改革を破壊しようとするもの以外は、みな国の労働力とみなしてこれを生存させ改造していくようにしなければならない。われわれの任務は封建制度を消滅することであり、階級としての地主を消滅することであって、地主個人を消滅することではない。土地法にもとづいて、農民の取得分をこえない生産手段と生活物資をあたえなければならない。
十二、重大なあやまりをおかした一部の幹部と党員、および労農大衆のなかの一部の悪質分子にたいしては、批判と闘争をおこなわなければならない。批判、闘争のさいには、大衆が正しい方法と方式をとり、乱暴な行動にでないよう、これを説得すべきである。これがひとつの面である。もうひとつの面では、大衆に報復しないことをこれらの幹部、党員、悪質分子に保証させるべきである。大衆はかれるにたいして思いきり批判をくわえる権利があるばかりでなく、必要なときにはかれらを免職したり、免職を提案したり、あるいは党からの除名を提案したり、さらには、そのうちのもっとも悪質なものを人民法廷にひきわたして、審理し処分したりする権利があることをあきらかにすべきである。
一、新民主干義の政権は、労働者階級の指導する、人民大衆の、反帝・反封建の政権である。人民大衆とは、労働者階級、農民階級、都市小ブルジョア階級、ならびに、帝国主義と国民党反動政権およびそれに代表される官僚ブルジョア階級(大ブルジョア階級)や地主階級から抑圧されいためつけられている民族ブルジョア階級からなるもので、その主体は労働者、農民(兵士は主として軍服を着た農民である)およびその他の勤労人民である。この人民大衆は自己の国家(中華人民共和国)を構成するとともに、国家を代表する政府(中華人民共和国の中央政府)をうちたてる。労働者階級は自己の前衛である中国共産党をつうじて、人民大衆の国家とその政府にたいする指導を実現する。この人民共和国とその政府がたたかう敵は、外国帝国主義、自国の国民党反動派およびそれに代表される官僚ブルジョア階級と地主階級である。
二、中華人民共和国の権力機関は、各級人民代表大会とその選出する各級政府である。
三、現在の時期は、農村では、農民の要求にもとづいて、郷・村農民大会を招集して郷・村政府を選出し、区農民代表大会を招集して区政府を選出することができるし、また、そうしなければならない。県、市および県、市以上の政府は、村の農民を代表するばかりでなく、鎮、県都、省都および大商工業都市の各階層、各職業にわたる人民をも代表するものであるから、県、市、省あるいは辺区の人民代表大会を招集して各級政府を選出する。将来、革命が全国的な勝利をおさめたときには、中央と地方の各級政府は、いずれも各級人民代表大会によって選出される。
指導する階級および政党が、指導される階級、階層、政党および人民団体にたいして自己の指導を実現するには、二つの条件をそなえていなければならない。つまり、(1)被指導者(同盟者)をひきいて、共通の敵と断固たたかい、勝利をおさめること、(2)被指導者に物質上の利益をあたえるか、すくなくともかれらの利益をそこなわないこと、それと同時に、被指導者に政治教育をほどこすこと、である。この二つの条件がないなら、あるいは、この二つの条件のうち一つでも欠けるなら、指導を実現することはできない。たとえば、共産党が中農を指導するには、中農をひきいて、ともに封建搾取階級と断固たたかい、勝利をおさめるようにしなければならない(地主の武装組織を消滅し、地主の土地を分配する)。もし断固たるたたかいをおこなわないなら、あるいは、たたかっても勝利をおさめないなら、中農は動揺するであろう。さらに、中農のうちの比較的貧しいものには地主の土地、財産の一部を分配しなければならず、富裕中農にたいしてはその利益をそこなわないようにしなければならない。農会や郷政府、区政府では、中農の積極分子をその仕事に参加させ、数のうえで適当な規定(たとえば委員の三分の一をしめるというふうに)を設けなければならない。中農にたいしてその階級所属の決定をあやまってはならず、中農にかける土地税や戦争のための役務は公正でなければならない。同時にまた、中農に政治教育をほどこさなければならない。こうしたことをやらなければ、われわれは中農の支持をうしなうことになる。都市の労働者階級と共産党が、反動勢力から抑圧されいためつけられている中産階級および民主政党、人民団体にたいして指導を実現するばあいも、これと同様である。
〔1〕 農村での階級区分の基準については、本選集第一巻の『農村の階級をいかに分析するか』と第二巻の『中国革命と中国共産党』第二章第四節を参照。
〔2〕 「地下隠匿財産」とは、地主が地下に埋めた財産のことである。
① 新富農とは、革命根拠地で、土地改革や小作料・利子引き下げ運動をへて中農あるいは貧農から富農になったものをさす。旧富農とは、革命根拠地がうちたてられるまえからの富農をさす。旧富農は、一般にかなりひどい封建的・半封建的搾取をおこなっていた。
② 本選集第三巻の『組織せよ』注〔4〕と本選集第一巻の『われわれの経済政策』注〔2〕を参照。
(一九四八年一月三十日)
これは、毛沢東同志が中国共産党中央革命軍事委員会のために起草した党内指示である。
部隊における政治工作の方針は、兵士大衆、指揮員およびすべての要員をおもいきり立ちあがらせ、集中的指導のもとでの民主運動をつうじて、政治面で高度に団結し、生活面で改善をはかり、軍事面で技術と戦術を向上させるという三大目的を達成することである。いま、わが軍の部隊でさかんにおこなわれている三査、三整〔1〕は、政治面の民主、経済面の民主という方法によって、はじめの二つの目的を達成するためのものである。
経済面の民主についていえば、兵士の選んだ代表が、中隊の指導幹部に協力して(さしおいてやるのではない)、中隊の給与と食事を管理する権限をもつようにしなければならない。
軍事面の民主についていえば、訓練のさいには、将校と兵士が教えあい、兵士と兵士が教えあうようにし、戦闘のさいには、中隊が火線で大小さまざまな会合をもつようにしなければならない。そして、いかに敵陣を攻略するか、いかに戦闘任務を完遂するかを、中隊の指導幹部の指導のもとで兵士大衆に討議させる。戦闘が何日間もつづくときには、このような会合を何回かひらくべきである。この軍事面の民主は、陝西省北部の蟠竜戦役〔2〕や山西・察哈爾・河北辺区の石家荘戦役〔3〕で実行され、きわめて大きな効果をあげた。こうしたやり方は、益こそあれ、すこしも害はないということが立証されている。
幹部のなかの悪質分子のあやまりと罪悪については、これを摘発する権利を兵士大衆にあたえるべきである。よい幹部や比較的よい幹部なら、兵士が大事にしないはずはない、ということを信じるべきである。また、必要なばあいには、兵士大衆のなかから自分たちの信頼するものを下級幹部の候補者として推薦し、上級から任命してもらうようにする権利を、兵士にあたえるべきである。下級幹部が極度に不足しているときは、こうした推薦は大いに役にたつ。しかし、こうした推薦はいかなるばあいにもがくなうのではなく、必要なばあいにかぎられる。
〔1〕 「三査」「三整」は、党と軍隊を整頓する重要な運動で、わが党が人民解放戦争の時期に土地改革とむすびつけておこなったものである。「三査」とは、軍隊以外では、出身階級、思想、作風を点検することであり、軍隊では、出身階級、活動、闘志を点検することである。「三整」とは、組織、思想、作風を整頓することである。
〔2〕 蟠竜は、延安東北方の町である。一九四七年五月、西北人民解放軍は、蟠竜で胡宗南軍六干七百余人を包囲殲滅した。
〔3〕 石家荘は、一九四七年十一月十二日、山西・察哈爾・河北辺区人民解放軍によって解放され、ここを守っていた敵軍二万四千余人はのこらず殲滅された。これは、わが軍が華北地方で解放した最初の重要都市である。
(一九四八年二月三日)
これは、毛沢東同志が劉少奇同志におくった電報である。
土地法を実施するばあい、三つの種類の地区にわけて、それぞれ異なった戦術をとるべきである。
一、日本が降伏するまえからの旧解放区。こうした地区では、だいたいにおいて土地は早くから分配されているので、一部の土地を調整するだけでよい。こうした地区での活動の中心は、平山県の経験〔1〕にもとづいて、党内と党外との結合という方法で党の隊列を整頓し、党と大衆とのあいだの矛盾を解決することにおかなければならない。こうした旧解放区では、土地法にもとづいて土地を分配しなおしたり、人為的に無理に貧農団をつくって農会を指導したりしないで、農会のなかに貧農班をつくることである。貧農班の積極分子が憲会や農村政権で指導的活動にあたるのはよいが、しかし、指導的活動にはかならず貧農があたると規定して、中農をしめだすようなことをしてはならない。こうした地区の農会や農村政権では、貧農と中農のなかの、思想がよくて、事を公正に処理できる積極分子が指導的活動にあたるべきである。こうした地区では、まえに貧農だったものも大多数が中農になっており、中農がすでに農村人口の大多数をしめているので、中農のなかの積極分子を農村の指導的活動に参加させなければならない。
二、日本が降伏してから大反攻にいたるまで、すなわち、一九四五年九月から一九四七年八月までの二年間に解放された地区。こうした地区は、現在の解放区の圧倒的な部分をしめており、準旧解放区とよんでよい。こうした地区では、二年にわたる清算闘争をへて、また「五・四指示」〔2〕の実行をへて、大衆の自覚の程度と組織化の程度がかなり高まっており、土地問題はいちおう解決されている。しかし、大衆の自覚の程度と組織化の程度はまだ高いとはいえず、土地問題はまだ徹底的には解決されていない。こうした地区では、土地法が完全に適用され、どこでも徹底的に土地を分配する。そして、一回でうまく分配できないときは、もう一度分配するようにし、さらに、一、二度は点検する必要がある。こうした地区では、中農は少数で、しかもなりゆきを見まもっている。貧農は大多数で、積極的に土地を要求している。したがって、貧農団を組織し、膿会や農村政権における貧農団の指導的地位を確立しなければならない。
三、大反攻ののちに新しく解放された地区。こうした地区では、大衆がまだ立ちあがっておらず、国民党と地主、富農の勢力がまだ大きく、われわれはあらゆる面でまだ基盤をもっていない。したがって、土地法を一挙に実施しようなどと考えず、二つの段階にわけて実施すべきである。第一段階では、富農を中立化させ、もっぱら地主に打撃をあたえる。この段階では、それをさらに、宣伝、初歩的な組織活動、大地主の動産〔3〕の分配、大・中地主の土地の分配と小地主にたいする配慮などのいくつかの段どりにわけ、そのあとで、全地主階級の土地の分配にまでもっていくようにしなければならない。この段階では、指導的骨幹として貧農団をつくるべきであり、また、貧農を主体とする憲会(農民協会とよんでもよい)をつくるのもよい。第二段階では、富農が小作にだしている土地や余分にもっている土地、およびその財産の一部を分配し、あわせて、第一段階でまだ分配が徹底していなかった地主の土地を分配する。第一段階にはおよそ二年、第二段階には一年の時間をかけなければならない。せいては、かならず事を仕損じる。旧解放区、準旧解放区の土地改革と整党にも、三年の時間(ことしの一月から数えて)をかけるべきで、これまた、せいては事を仕損じる。
〔1〕 平山県は河北省西部にあり、当時は山西・察哈爾・河北解放区にぞくしていた。ここにいう平山県の経験とは、土地改革運動のさい、党外の大衆を党の会議に列席させる方式で、農村における党の基礎紐織を整頓した経験をさす。
〔2〕 中国共産党中央が一九四六年五月四日に出した「土地問題についての指示」のことである。本巻の『三ヵ月の総括』注〔5〕にみられる。
〔3〕 「動産」とは、食糧、金銭、衣類、家具などをさす。
(一九四八年二月十一日)
これは、毛沢東同志が中国共産党中央のために起草した党内指示である。
ここ数ヵ月間、多くの地方の通信社や新聞は、選択も分析もせずに、「左」翼的なあやまりの偏向をもった不健全な報道や文章をたくさんながしている。例をあげればつぎのとおりである。
一、貧農・雇農に依拠し、かたく中農と連合して、封建制度を消滅するという路線を宣伝するのではなく、貧農・雇農路線というものを孤立的に宣伝している。また、プロレタリア階級はすべての勤労人民、抑圧されている民族ブルジョア階級、知識人およびその他の愛国者(このなかには、土地改革に反対しない開明紳士もふくまれる)と連合して、帝国主義、封建主義、官僚資本主義の支配をくつがえし、中華人民共和国と人民民主政府をうちたてるのだ、ということを宣伝するのではなく、貧農・届農が天下を取り、天下をおさめるのだとか、民主政府は農民だけの政府だとか、民主政府は労働者と貧農・雇農の意見を聞くだけでよいとかいったことを孤立的に宣伝し、中農、独立勤労者、民族ブルジョア階級、知識人などについては、まったくふれていない。これは重大な原則的なあやまりである。ところが、われわれの通信社、新聞、あるいは放送局はこうした報道を発表している。また、各地の党委員会宣伝部は、こうしたあやまりについてなに一つ報告してこない。こうした宣伝は、ここ数ヵ月間、普遍的とはいえないまでも、かなり多く、これが正しい指導思想ででもあるかのように誤解される一種の雰囲気をつくりだしている。さらには、陝北放送局がある種の正しくないニュースを放送したため、それが中央の承認した見解だという誤解さえうまれている。
二、整党問題では、出身階級を無視することにも反対し、出身階級唯一論にも反対するという宣伝が、一部の地区ではそれほど十分におこなわれておらず、出身階級唯一論のあやまった宣伝さえおこなわれている。
三、土地改革の問題では、静観して動かないことにも反対し、せっかち病にも反対するという宣伝が、しっかりやられている地区も一部にあるが、多くの地区では、かえってせっかち病を助長しており、はてはせっかち病をたたえるようなものまで発表している。指導者と大衆との関係の問題では、命令主義にも反対し、追随主義にも反対するという宣伝に、注意をはらっている地区も一部にあるが、多くの地区では、「なんでも大衆のいうとおりにやる」といったことを強調して、大衆のなかのまちがった意見に追随するというあやまりをおかしている。ひどいばあいには、大衆の意見ではなくて、少数のもののあやまった意見にすぎないものまでも無批判にうけいれている。これは、党の指導的役割を否定し、追随主義を助長するものである。
四、商工業と労働運動の方針では、一部の解放区にみられる重大な「左」翼的偏向にたいして、これをほめあげるか、あるいは見すごしている。
要するに、この数ヵ月の宣伝活動は、戦争、土地改革、整党、生産、前線支援といった偉大な闘争を正しくつたえ、みちびいて、これらの闘争が偉大な成果をあげるうえにあずかって力があったし、また、それが宣伝活動のなかの主流であったということ、これはまず第一に認めなければならない点である。だが、一部のあやまりや欠点もやはり見のがすべきではない。その特徴は、左にいきすぎたことである。なかには、マルクス・レーニン主義の原則と立場にまったくそむき、中央の路線からまったくはずれているものもある。各中央局、中央分局とその宣伝部、新華社本社と各地の総局、および各地の新聞関係の同志たちが、マルクス・レーニン主義の原則と中央の路線にもとづいて、ここ数ヵ月の宣伝活動を点検し、成績をのばし、あやまりを是正し、それによって戦争、土地改革、整党、労働運動などの偉大な闘争の勝利、この反帝・反封建革命全体の勝利を保障するよう希望する。この点検は、各地の党委員会宣伝部と新華社本社が主要な責任をもち、その結果を自分の名義で政策的意義のある報告にまとめ、中央宣伝部に提出されたい。
(一九四八年二月十五日)
これは、毛沢東同志が中国共産党中央のために起草した党内指示である。
一、周囲の状況、大衆の自覚の程度、指導的幹部の力にもとづいて、土地改革の進度をきめるべきであり、あせってはならない。数ヵ月で土地改革をやりとげようなどと考えてはならず、全区の土地改革には二、三年かけるつもりでいなければならない。この点は、旧解放区や準旧解放区も同様である。
二、新解放区の土地改革は、二つの段階にわけるべきである。第一段階では、地主に打撃をあたえ、富農を中立化させる。それをまた、まず大地主に打撃をあたえ、ついでその他の地主に打撃をあたえるというように、いくつかの段どりにわけなければならない。悪覇と悪覇でないものにたいし、また大、中、小の地主にたいしては、そのとりあつかいにそれぞれ区別をつけなければならない。第二段階では、土地の平均分配をおこなうが、これには、富農が小作にだしている土地と余分にもっている土地もふくまれる。しかし、とりあつかいの点で、富農と地主とでは区別をつけなければならない。全打撃面は、一般に戸数の八パーセント、人口の一〇パーセントをこえてはならない。とりあつかいに区別をつけることと全打撃面については、準旧解放区でも同様である。旧解放区では、一般に不均衡を調整する〔1〕だけで、ことにのべたような問題はおこらない。
三、まず貧農団をつくり、何ヵ月かたってから農民協会をつくる。地主、富農が農民協会や貧農団にもぐりこむことを厳重に禁止する。貧農団の積極分子が農民協会の指導的骨幹となるべきであるが、中農の積極分子の一部をも農民協会の委員会に参加させるようにしなければならない。土地改革の闘争では、中農を参加させるとともに、中農の利益について配慮しなければならない。
四、全面的に手をつけるようなことはせず、能力のある幹部をえらんで、まず若干の地点でおこない、経験をつんでから、これをしだいにおしひろめ、波状的に発展させていくべきである。これはひとつの戦略地区でもそうであるし、ひとつの県内でもそうである。旧解放区や準旧解放区でもそうすべきである。
五、強固な地区と遊撃地区を区別する。強固な地区では、土地改革を一歩一歩すすめていく。遊撃地区では、宣伝活動と非公然の組織活動をおこない、若干の動産を分配するにとどめる。大衆にたいする敵の迫害を防ぐため、公然と大衆団体をつくってはならないし、土地改革をおこなってはならない。
六、反動的な地主の武装組織と侍路組織は利用すべきでなく、消滅しなければならない。
七、反動分子は弾圧しなければならないが、やたらに殺すことは厳重に禁止すべきで、殺すのは少なければ少ないほどよい。死刑の案件は、県級の委員会をつくって審査、認可すべきである。政治犯容疑事件の審理・処分権は、区党委員会級の委員会にある。この点は、旧解放区や準旧解放区にも適用される。
八、地主、富農の家庭出身ではあるが、土地改革に賛成している地元の革命的な知識人や準知識人は、これを利用して、根拠地建設の仕事に参加させるべきである。ただし、かれらにたいする教育をつよめ、かれらが権力をにぎって土地改革を妨害するのを防がなければならない。一般的にいって、かれらを出身地の区や郷で仕事につかせるのは適当でない。農民の家庭出身の知識人や準知識人の任用に重きをおく。
九、商工業の保護にとくに注意する。遠い先のことを考えて経済と財政の計画をたてる。軍隊や区政府、郷政府はみな浪費を防止しなければならない。
〔1〕 本巻の『中国革命の新しい高まりを迎えよう』注〔11〕にみられる。
(一九四八年二月二十七日)
これは、毛沢東同志が中国共産党中央のために起草した党内指示である。
一、一部の地方の党組織は、党中央の商工業政策にそむいて、商工業をひどく破壊するという事態をまねいている。こうしたあやまりはすみやかに是正しなければならない。これらの地方の党委員会は、こうしたあやまりを是正するさい、指導方針と指導方法の二つの面から、まじめに点検しなければならない。
二、指導方針について。地主、富農を闘争にかけて封建勢力を消滅するという農村でのやり方を都市にもちこむあやまりをあらかじめ防止すべきである。また地土、富農の封建的搾取を消滅することと、地主、富農の経営する商工業を保護することとを厳密に区別し、生産の発展、経済の繁栄、公私兼顧、労資両利の正しい方針と、一面的で偏狭な、実際には商工業を破壊し人民の革命事業をそこなう、労働者の福祉をまもるなどという救済方針とを厳密に区別すべきである。労働組合の同志と労働者大衆にたいし、目先の一面的な福祉だけにとらわれて、労働者階級の遠大な利益を忘れるようなことがあってはならないことを理解できるよう、教育すべきである。労働者と資本家が、その地方の政府の指導のもとに、共同して生産管理委員会をつくり、あらゆる努力をはらって原価を引き下げ、生産をふやし、販売を順調にし、公私兼顧、労資両利、戦争支援の目的をたっするよう、かれらをみちびくべきである。多くの地方でおかしたあやまりは、上述の方針の全部、大部分あるいは一部をよくのみこんでいないために生じたものである。各中央局、分局はこの問題をはっきり提起し、それを分析、点検して、正しい方針をきめるとともに、党内指示と政府の法令をそれぞれださなければならない。
三、指導方法について。方針をさめ、指示をだしたら、中央局、分局は、区党委員会、地方委員会あるいは自分のところからおくった工作団と、電報、電話、車馬による連絡、面談などの方法で緊密な連係をとるとともに、活動を組織し指導するうえでのきわめて重要な道具として新聞を活用すべきである。随時、活動の進行状態を把握し、経験を交流し、あやまりを是正すべきであって、数ヵ月、半年ないし一年たってからやっと総括の会をひらいて総決算をし、ひとまとめに是正するというようなことをしてはならない。そんなことでは損失があまりにも大きくなる。そのつど是正すれば損失は比較的すくなくてすむ。ふつうの状況のもとでは、各中央局は、つとめて下部との連係を緊密にし、やってよいこととやってはならないこととのけじめをはっきりさせるようつねに注意し、下部のものがあまりあやまりをおかさないよう、随時、注意をうながさなければならない。これはみな指導方法の問題である。
四、全党の同志はつぎのことを知らなければならない。いまや敵は徹底的に孤立している。しかし、敵の孤立はそのままわれわれの勝利を意味するものではない。もし政策のうえであやまりをおかすなら、われわれはやはり勝利をおさめることはできない。具体的にいえば、戦争、整党、土地改革、商工業、反革命弾圧という五つの政策上の問題のどれ一つについても、原則的なあやまりをおかし、これをあらためないなら、われわれは失敗するであろう。政策は、革命政党のあらゆる実際行動の出発点であり、同時に、行動の過程および帰結となってあらわれる。革命政党のいかなる行動も政策の実行である。正しい政策を実行しているか、あやまった政策を実行しているか、そのどちらかであり、ある政策を意識的に実行しているか、盲目的に実行しているか、そのどちらかである。いわゆる経験とは、政策実行の過程であり、帰結である。政策は人民の実践のなかで、つまり経験のなかで、はじめて正しいかどうかが立証され、また、どの程度正しいか、どの程度あやまっているかが確定される。ところが、人びとの実践、とりわけ革命政党と革命的大衆の実践で、あれこれの政策とつながっていないものはない。したがって、いかなる行動をとるばあいにも、状況にもとづいてきめられたわれわれの政策を党員と大衆にまえもって説明しておかなければならない。そうしなければ、党員と大衆は、われわれの政策の指導からはなれて、盲目的に行動し、あやまった政策を実行することになる。
(一九四八年三月一日)
これは、毛沢東同志が中国共産党中央のために起草した党内指示である。
中国の現段階における革命の性質は、プロレタリア階級の指導する、人民大衆の、反帝国主義・反封建主義・反官僚資本主義の革命である。人民大衆とは、帝国主義、封建主義、官僚資本主義から抑圧され、いためつけられ、あるいは束縛されているすべての人びと、すなわち、一九四七年十月の中国人民解放軍宣言のなかではっきりと指摘されている労、農、兵、学、商およびその他のあらゆる愛国者〔1〕のことである。宣言にいわれている「学」とは、迫害され、束縛されているすべての知識人のことである。「商」とは、迫害され、束縛されているすべての民族ブルジョア階級、すなわち中小ブルジョア階級のことである。「その他の愛国者」とは、主として開明紳士のことである。現段階の中国革命は、これらの人びとが団結して反帝・反封建・反官僚資本主義の統一戦線を結成し、しかも勤労人民が主体となる革命である。勤労人民とは、すべての肉体労働者(たとえば労働者、農民、手工業者など)、および人を搾取しないで人から搾取されている、肉体労働者に近い頭脳労働者のことである。中国の現段階における革命の目的は、帝国主義、封建主義、官僚資本主義の支配をくつがえして、勤労者を主体とする、人民大衆の新民主主義共和国をうちたてることにあって、資本主義一般を消滅することにはない。
われわれは、かつてわれわれに協力し、いまもわれわれに協力していて、反米、反蒋と土地改革に賛成している開明紳士を見すててはならない。たとえば、山西・綏遠辺区の劉少白、陝西・甘粛・寧夏辺区の李鼎銘〔2〕らの人びとは、抗日戦争や抗日戦争後の困難な時期に、われわれをかなり援助したし、われわれが土地改革を実行したさいにも、土地改革をさまたげたりこれに反対したりするようなことはしなかった。だから、かれらにたいしては、やはり団結の政策をとるべきである。しかし、かれらと団結するといっても、かれらを、中国革命の性質を決定する力とみなすわけではない。革命の性質を決定する力は、主要な敵と主要な革命勢力の双方である。こんにち、われわれの主要な敵は帝国主義、封建主義、官僚資本主義であり、敵とたたかっているわれわれの主要な力は、全国の人口の九〇パーセントをしめる、肉体労働と頭脳労働に従事するすべての人民である。このことが、われわれの現段階の革命の性質を、十月革命のような社会主義革命とは異なる、新民主主義の人民民主主義革命として決定づけているのである。
帝国主義、封建主義、官僚資本主義に依存し、人民民主主義革命に反対する、民族ブルジョア階級の少数の右派は、やはり革命の敵である。勤労人民に依存し、反動派に反対する、民族ブルジョア階級の左派、および封建搾取階級から分化してきた少数の開明紳士は、やはり革命勢力である。ただし、この両者はいずれも敵または革命勢力の主体ではなく、いずれも革命の性質を決定できる力ではない。民族ブルジョア階級は政治的にはひじょうに軟弱で、動揺している階級である。しかし、かれらの大多数は、やはり、帝国主義、封建主義、官僚資本主義の迫害と束縛をうけているため、人民民主主義革命に参加するか、あるいは革命にたいして中立をまもることができる。かれらは人民大衆の一部ではあるが、人民大衆の主体ではなく、革命の性質を決定する力でもない。しかし、かれらが経済面で重要性をもっているため、また、反米、反蒋の闘争に参加するか、あるいはその闘争のなかで中立の態度をとることができるため、われわれはかれらと団結することが可能であり、必要でもある。中国共産党がうまれるまでは、孫中山を指導者とする国民党は、民族ブルジョア階級を代表し、当時の中国革命(不徹底な旧民主主義革命)の指導者となっていた。しかし、ひとたび中国共産党がうまれ、その能力をあらわすようになると、かれらはもはや中国革命(新民主主義革命)の指導者ではありえなくなった。民族ブルジョア階級は、かつて一九二四年から一九二七年までの革命運動に参加したが、一九二七年から一九三一年(九・一八事変以前)までは、かれらのうちのすくなからぬものが賭介石の反動に追随した。だが、この点を理由に、われわれはあの時期にかれらを政治的に獲得すべきではなく、経済的に保護すべきではなかった、と考えたり、また、われわれがあの時期にとった民族ブルジョア階級にたいする極左的な政策は冒険主義的政策ではなかった、と考えたりしてはけっしてならない。それどころか、あのときのわれわれの政策は、やはり、主要な敵とのたたかいに力を集中できるようにするため、かれらを保護し獲得することでなければならなかった。抗日の時期には、民族ブルジョア階級は、国民党と共産党の両党のあいだを動揺する、抗日の参加者であった。現段階では、民族ブルジョア階級の多数はアメリカと蒋介石にたいする惜しみをつよめており、かれらのうちの左派は共産党にたより、右派は国民党にたより、中間派は国共両党のあいだに立って、ためらいと静観の態度をとっている。こうした状況から、われわれはその少数を孤立させ、大多数を獲得することが必要となり、またそれが可能となっているのである。この目的をたっするため、この階級の経済的地位については、慎重に処理すべきで、原則として一律に保護する政策をとらなければならない。そうしなければ、われわれは政治的にあやまりをおかすことになる。
開明紳士とは、地主・富農階級のうちの、民主的色彩をおびた個々の人のことである。これらの人びとは、官僚資本主義や帝国主義とのあいだに矛盾があり、封建的地主・富農とのあいだにもある種の矛盾がある。われわれがかれらと団結するのは、かれらが政治上なにか大きな力をもっているからではなく、経済上なにか重要性をもっているからでもなく(封建所有にぞくするかれらの土地は、その同意をえたうえで、農民に分配する)、抗日戦争の時期と反米、反蒋の闘争の時期に、政治上われわれをかなり援助してくれたからである。土地改革の時期に、少数でも、われわれの土地改革に賛成を表明する開明紳士があれば、それはやはり全国の土地改革をすすめるうえで有益である。とりわけ、全国の知識人(中国の知識人の大部分は地主や富農の家庭出身である)を獲得するうえで、全国の民族ブルジョア階級(中国の民族ブルジョア階級の大部分は土地とつながりをもっている)を獲得するうえで、全国の開明紳士(およそ数十万人)を獲得するうえで、さらにまた中国革命の主要な敵である蒋介石反動派を孤立させるうえで、いずれも有益である。開明紳士にはこうしたはたらきがあるからこそ、かれらも反帝・反封建・反官僚資本主義の革命的統一戦線の一員となるのであり、したがって、かれらとの団結もやはり注意すべき問題となるのである。われわれが開明紳士に要求するのは、抗日の時期には、抗日に賛成し、民主に賛成し(反共をやらない)、小作料・利子引き下げに賛成することであったが、現段階では、反米、反蒋に賛成し、民主に賛成し(反共をやらない)、土地改革に賛成することである。かれらがそうするかぎり、われわれは、いささかの例外もなしに、かれらと団結し、団結のなかでかれらを教育していかなければならない。
〔1〕 本巻の『中国人民解放軍宣言』の八項目の政策のなかの第一項にみられる。
〔2〕 劉少白は山西・綏遠辺区の開明紳士で、山西・綏遠辺区臨時参議会の副議長に選ばれたことがある。李鼎銘は陝西省北部の開明紳士で、陝西・甘粛・寧夏辺区政府の副主席に選ばれたことがある。
(一九四八年三月七日)
これは、毛沢東同志が中国人民解放軍総司令部スポークスマンにかわって起草した論評である。このときには、西北戦場の敵軍の進攻はすでに粉砕され、わが軍が進攻に転じていた。この論評は、西北戦場の情勢を分析し、また全国の他の戦場の概況をも要約して紹介している。この論評のいっそう重要な点は、「訴苦」と「三査」の方法ですすめた、新しい型の整軍運動の偉大な意義を強調して説明していることである。この新しい型の整軍運動は、人民解放軍の政治工作と民主運動の重要な発展であり、当時の全解放区におけるあらしのような土地改革運動と整党運動か軍隊のなかに反映したものであった。この運動は、全軍の将兵の政治的自覚、規律性、戦闘力を大いに高めたし、同時に、捕虜となったおびただしい国民党軍の兵士を解放軍の戦士に改造する過程をはやめるという大きな効果をあげ、人民解放軍の強化拡大と作戦の勝利に大きな役割をはたした。この新しい型の整軍運動の意義については、本巻の『軍隊内の民主運動』『山西・綏遠解放区幹部会議での演説』『九月会議にかんしての中国共産党中央の通達』などを参照。
人民解放軍総司令部スポークスマンは、西北人民解放軍の最近の大勝利を評し、つぎのように指摘する。こんどの勝利は、すでに西北地方の情勢を変え、さらに中原の情勢にも影響をおよばすであろう。こんどの勝利は、人民解放軍が、訴苦と三否の方法で新しい型の雑用運動をおこなったことによって、天下無敵となるであろうことを立証している。
スポークスマンはつぎのように指摘する。こんど、西北人民解放軍が突如、宜川の敵軍一コ旅団を包囲したので、胡宗南はその第二十九軍団長劉戡にたいし、改編師団ニコ師団の四コ旅団、すなわち改編第二十七師団の第三十一旅団、第四十七旅団、改編第九十師団の第五十三旅団、第六十一旅団、合計二万四千余人をひきいて、洛川・宜君の線から宜川の救援にはせつけるよう命じ、同部隊は二十八日に亘川の西南地区に到達した。西北人民解放軍は殲滅戦を展開し、二十九日から三月一日にかけての三十時間にわたる戦闘をへて、この増援部隊を一人ものがさず全部殲滅した。捕虜は一万八千余人、死傷者は五千余人にたっし、劉戡自身および厳明第九十師団長らも戦死した。つづいて三日には、宜川を攻略し、またも守備の敵改編第七十六師団の第二十四旅団五千余人を殲滅した。この戦役では、敵の軍団司令部一つ、師団司令部二つと五コ旅団、合計三万人を殲滅した。これは西北戦場での最初の大勝利である。
スポークスマンは、西北戦場の情勢を分析し、つぎのように指摘する。胡宗南の直接指揮するいわゆる「中央軍」二十八コ旅団のうち八コ旅団は、三つの主力師団、すなわち改編第一師団、改編第三十六師団、改編第九十師団にぞくしており、そのうち改編第一師団の第一旅団は、一昨年九月に山西省南部の浮山でわが軍に一度殲滅され、同第百六十七旅団の主力は昨年五月に陝西省北部の蟠竜鎮でわが軍に一度殲滅された。改編第三十六師団の第百二十三旅団、第百六十五旅団は、昨年八月に陝西省北部の米脂県沙家店でわが更に一度殲滅された。こんど、改編第九十師団も完全に殲滅されたので、胡宗南軍ののこる主力のなかでまだ一度も殲滅されたことのないのは、改編第一師団の第七十八旅団と改編第三十六師団の第二十八旅団だけである。したがって、胡宗南軍全体をつうじて精鋭な骨幹部隊などはもうなくなったといえる。こんどの宜川の殲滅戦の結果、胡宗南がこれまで直接指揮していた正規軍ニ十八コ旅団はいま二十三コ旅団をのこすだけとなり、この二十三コ旅団は、つぎの地区に分散している。山西省南部の臨汾には一コ旅団いて、すでに死石となっており、陝西・河南の省境と洛陽・潼関の線には九コ旅団いて、わが方の陳[”庚”の下に”貝”]・謝富治の野戦軍に対抗しており、陝西省南部には一コ旅団いて、漢中①一帯の守備にあたっている。このほか、潼関から宝鶏、咸陽から延安にいたる「丁」字形の交通線上に、十二コ旅団いる。そのうち、三コ旅団は「後方補充旅団」②で、全部新兵であり、二コ旅団はわが軍に完全に殲滅されて最近新しく補充してできたもの、一一コ旅団はわが軍からかって殲滅的な打撃をうけたもの、五コ旅団はわが軍から比較的軽い打撃をうけたものである。これでわかるように、これらの部隊はきわめて弱体であるばかりでなく、そのほとんどが分散して守備にあたっている。胡宗南軍のほかに、鄧宝珊のニコ旅団が楡林を守備しており、寧夏省の馬鴻逵と青海省の馬歩芳の九コ旅団が三辺と隴東③に分散している。以上、胡宗南、鄧宝珊、馬鴻逵、馬歩芳の各部隊の正規軍は、かつて一度ないし二度殲滅されてから補充しなおした部隊をもふくめて、現在あわせて三十四コ旅団である。
以上は、西北地方の敵軍の態勢についてのべたものである。なお、いわゆる「丁」字形の交通線上にいて、わが軍からの打撃の比較的軽かった五コ旅団についていえば、そのうち二コ旅団は延安にとじこめられており、三コ旅団は大関中④にいる。その他は、多くが新しく補充された部隊であり、少数が殲滅的な打撃をうけたことのある部隊である。つまり、大関中ぜんたい、とりわけ甘粛省方面の敵軍はひどく手薄で、人民解放軍の攻勢を阻止するすべがない。こうした情勢はかならず、蒋介石軍の南部戦線の一部の配置にひびくことになり、なによりもまず、河南・陝西省境でわが陳[”庚”の下に”貝”]・謝富治の野戦軍に対抗しているその配置にひびくことになる。わが西北人民解放軍は、こんどの南方への進攻で、戦いをはじめるやいなや勝利をかちとり、声威をとどろかせ、西北地方における敵味方の力関係を変えた。今後は、これまでよりいっそう効果的に南部戦線の各戦場の人民解放軍とあい呼応して戦えるであろう。
スポークスマンはつぎのように指摘する。わが劉伯承・鄧小平、陳毅・粟裕、陳[”庚”の下に”貝”]・謝富治の三路の大野戦軍は、昨年の夏から秋にかけて黄河を渡って南進し、長江、淮河、黄河、漢水のあいだを縦横無尽にかけめぐって大量の敵を殲滅し、蒋介石軍の南部戦線の総兵力百六十余コ旅団のうち九十コ旅団前後を自分の周囲に移動させ、ひきつけ、蒋介石軍を受け身の立場に追いこんで、決定的な戦略的役割をはたし、全国人民の賞賛を博している〔1〕。わが東北野戦軍は、冬季攻勢にさいし、零下三十度の酷寒をおかして大量の敵を殲滅し、つぎつぎと著名な都市を攻略し、全国にその名をとどろかせている〔2〕。わが山西・察哈爾・河北解放区、山東解放区、江蘇省北部解放区、山西・河北・山東・河南解放区の各路の野戦軍はいずれも昨年、勇敢に戦って大量の敵を殲滅〔3〕したのち、冬季の整備・訓練を終えて、さらに春季攻勢作戦〔4〕をまもなく展開しようとしている。全局を観察すると、ひとつの真理がしめされている。すなわち、断固として保守主義に反対し、敵をおそれることに反対し、困難をおそれることに反対し、そして党中央の戦略船方針とその十大軍事原則の指示〔5〕にしたがうかぎり、われわれは、攻勢をくりひろげて敵を大量に殲滅することができるし、蒋介石匪賊一味を、一時は受け太刀できても反撃する力のなくなるか、または受け太刀さえできないでわが方から一つ一つきれいに殲滅されるまでにたたきのめすことができる、ということである。
スポークスマンはつぎのことを強く指摘する。西北野戦用の戦闘力は、昨年にくらべると、かつてないまでに高まっている〔6〕。西北野戦軍は、昨年の戦いでは、まだ、一度に多くて二コ旅団の敵を殲滅できたにすぎなかったが、こんどの宜川戦役では、一度に敵五コ旅団を殲滅することができた。こんどの勝利がこれほどきわだっているのには、多くの原因がある。前線の指導的同志たちの断固とした、弾力性のある指摘、後方の指導的同志たちと広範な人民の懸命の支援、および敵軍が比較的孤立していたこと、地形がわが方に有利だったことなどはいずれも指摘すべき点である。しかし、もっとも注目すべき点は、冬の二ヵ月あまりのあいだに、訴苦と三査の方法で、新しい型の整軍運動をおこなったことである。訴苦(旧社会と反動派が勤労人民にあたえた苦しみを訴えること)と三査(出身階級を点検し、活動を点検し、闘志を点検すること)の運動を正しくすすめたことによって、搾取されている勤労大衆の解放のため、全国の土地改革のため、人民の共同の敵蒋介石匪賊一味の消滅のために戦うという全軍の指揮員、戦闘員の自覚が大いに高まるとともに、共産党の指導のもとでの全指摘員、戦闘員のゆるぎない団結が大いに強まった。これを基礎として、部隊の純潔性が高まり、規律がととのえられ、大衆的な訓練運動が展開され、完全に指導と秩序をもって部隊内で実行されている政治、経済、軍事の三つの面での民主がさらに発揚された。こうして、部隊は、全員の心が一つになり、みんなで知恵をしぼり、みんなが力をだし、犠牲をおそれず、困難な物質的条件を克服し、集団の威力と気魄を発揮して勇敢に敵と戦うことができるようになった。このような軍隊は天下無敵となるであろう。
スポークスマンはつぎのように指摘する。こうした新しい型の整軍運動は、西北地方で実施されたばかりでなく、全国の人民解放軍のあいだでもすでに実施されたか、あるいは実施されつつある。この整軍運動は、戦闘のあいまにおこなわれるもので、戦闘のさまたげにはならない。この整軍運動は、わが党が正しくすすめている整党運動、土地改革運動と結びつき、わが党の正しい方針、すなわち打撃面を小さくして、帝国主義、封建主義、官僚資本主義にだけ反対し、やたらに殴ったり殺したりすることを厳禁し(殺すのは少なければ少ないほどよい)、全国の九〇パーセント以上の人民大衆とあくまで団結するという方針と結びつき、またわが党の実施する正しい都市政策、民族商工業をあくまで保護し発展させるという方針と結びつくことによって、かならず人民解放軍の威力を天下無敵のものとするであろう。蒋介石匪賊一味とその主人アメリカ帝国主義が、中国の人民民主主義革命の偉大な闘争をまえにして、どんなに必死になってあがいても、勝利はかならずわれわれのものである。
〔1〕 劉伯承、鄧小平らの同芯の指導する山西・河北・山東・河南野戦軍の七コ縦隊は、一九四七年六月三十日から黄河の強行渡河をはじめ、大別山をめざして進撃し、これによって人民解放軍の戦略的進攻の幕を切っておとした。そして、一九四八年三月末までに、あわせて十万余の敵を殲滅し、湖北・河南地区、安徽省西部地区、桐柏山地区、長江・漢水地区などに根拠地をつちたてた。陳毅、粟裕らの同志のひきいる華東野戦軍の八コ縦隊は、一九四七年八月、山東省にたいする敵の重点進攻をつち被ったのち、山東省四南部へ挺進し、河南・安徽・江蘇辺区に進軍し、あわせて十万余の敵を殲滅し、河南・安徽・江蘇解放区を拡大し、敵の戦略上の要地である開封、鄭州を孤立させた。山西・河北・山東・河南地区では、陳[”庚”の下に”貝”]、謝富治らの同志の指導する太岳兵団の二コ縦隊と一コ軍団が、一九四七年八月、山西省南部から黄河を強行渡河して河南省西部へ挺進し、あわせて敵四万余を殲滅し、河南・陝西・湖北地区、陝西省南部地区などに根拠地をうちたて、河南省西部における敵の重要都市洛陽を完全に孤立させ、また潼関をおびやかした。
〔2〕 林彪、羅栄桓らの同志の指導する東北野戦軍の十コ縦隊と独立師団十二コ師団は、一九四七年十二月十五日から一九四八年三月十五日にかけて、中国長春鉄道の四平街から大石橋にいたる区間の沿線および北平=瀋陽鉄道の山海関から瀋陽にいたる区間の沿線で、かつてない大規模な冬季攻勢をおこし、連続九十日間におよふ戦いで、十五万六千余の敵を殲滅し、敵が堅固な防備をほどこしていた戦略上の要地四平街およびその他十八都市を攻略した。営口市を守備する敵一コ師団が蜂起した。吉林中を守備する敵は同市を放棄して長春へ逃げた。こうして、東北地方における敵軍の占領区は東北地方の面積のわずか一パーセントに縮小され、東北地方の敵軍の巣窟である長春、瀋陽、錦州などをむすぶ線上の都市は孤立してしまった。
〔3〕 聶栄臻らの同志の指導する山西・察哈爾・河北野戦軍の五コ縦隊は、一九四七年九月はじめから十一月中旬にかけ、あい前後して大清河以北地区、清風店地区および石家荘解放などの戦役をおこない、あわせて五万ちかくの敵を殲滅し、山西・察哈爾・河北および山西・河北・山東・河南の両解放区を一つにつないだ。華東野戦軍の山東兵団にぞくする三コ縦隊と地方武装部隊は、一九四七年の九月から十二月にかけて、許世友、譚震林らの同志の指揮のもとに、膠東戦役をおこない、六万三千余の敵を殲滅し、十あまりの県部を奪回し、山東省ぜんたいの局面をかえた。江蘇省北部では、華東野戦軍の一部が、一九四七年八月から十二月にかけて、塩城、李堡などの戦役をおこない、あわせて二万四千余の敵を殲滅し、江蘇省北部の広大な地域を奪回した。徐向前らの同志の指導する川西・河北・山東・河南野戦軍の一部は、一九四七年十二月に、西北野戦軍の一部と協同して運城を攻略し、一万三千余の敵を殲滅した。山西省四南部の敵はわが軍によってすべて一掃され、臨汾を守備する敵は孤立してしまった。
〔4〕 一九四八年の春、人民解放軍の各野戦軍は、冬季の整備・訓練をすませたのち、あいついで春季攻勢をはじめた。山西・察哈爾・河北野戦軍ならびに山西・河北・山東・河南野戦軍および山西・綏遠野戦軍の各一部は、三月から五月にかけて、察哈爾省南部、綏遠省東部、臨汾などの各戦役をおこない、あわせて四万三干余の敵を殲滅し、広大な地域を奪回した。中原野戦軍と華東野戦軍の各一部は、三月八日から五月二十九日にかけて、洛陽戦役、宋河戦役、南陽西部地区戦役、南陽東部地区戦役をおこない、あわせて五万六千余の敵を殲滅し、敵の中原防御体制を粉砕して中原解放区を拡大し、強固にした。華東野戦軍の山東兵団は、三月十一日から五月八日にかけて、青島=済南鉄道西部区間戦役と[シ+維]県戦役をおこない、あわせて八万四千余の敵を殲滅した。こうして山東省は、済南、青島、臨沂、[”なべぶた”の下に”兌”]州などの少数の拠点をのぞいて全部解放された。江蘇省北部兵団は、三月に益林戦役をおこない勝利をおさめた。
〔5〕 十大軍事原則については、本巻の『当面の情勢とわれわれの任務』第三節にみられる。
〔6〕 彭徳懐、賀竜、習仲勲らの同志の指導する西北野戦軍のうち、一九四七年の夏、陝西省北部の戦闘に参加した主力部隊は、二コ縦隊と二コ旅団、合計二万五千余であった。一九四八年の春には、陝西省北部の戦闘に参加した主力部隊は五コ縦隊、七万五千余にふえた。一年間の戦いによって鍛えられ、また一九四七年の冬におこなわれた新しい型の整軍運動をへて、広範な将兵の政治的自覚と部隊の戦闘力もかつてないほど高まった。こうして、一九四八年三月に西北野戦軍が外線作戦に転じるための必要な条件がつくりだされた。宜川の大勝利につづいて、西北野戦軍は、四月十二日に、西府(西安以西の涇水、渭水の両河の中間地区)・隴東戦役をおこし、涇水と渭水の中間の広大な地域に挺進し、西安・蘭州自動車進路を切断したうえ、四月二十二日には延安を奪回した。
① 漢中とは陝西省西南部の漢中市一帯の地区をさす。
② 戦場で中国人民解放軍によって大部分を殲滅され、補充のため後方へ移動し、部隊名をもとのままにしている国民党軍隊の旅団をさす。
③ 三辺とは陝西省四北部省境地区をさし、隴東とは甘粛省東部地区をさす。
④ 大関中とは渭水流域一帯をさす。
(一九四八年三月二十日)
これは、毛沢東同志が中国共産党中央のために書いた党内通報である。これ以後、党中央は、陝西・甘粛・寧夏辺区をはなれ、山西・綏遠解放区をへて山西・察哈爾・河北解放区にはいり、一九四八年五月に河北省西部の平山県の西柏坡村についた。
一、この数ヵ月、党中央は、全力を集中して新しい情勢下における土地改革、商工業、統一戦線、整党、新解放区での活動など各方面にかんするそれぞれの具体的な政策、戦術の問題を解決し、党内の右翼的傾向と「左」翼的傾向、主として「左」翼的傾向に反対してきた。わが党の歴史は、わが党と国民党が統一戦線を結成している時期には、党内に右翼的傾向がうまれやすく、わが党と国民党が分裂している時期には、党内に「左」翼的傾向がうまれやすいことをしめしている。現在の「左」翼的傾向は、主として、中農の利益を侵すこと、民族ブルジョア階級の利益を侵すこと、労働運動のなかで労働者の目先の福利を一方的に強調すること、地主と富農とのとりあつかいに区別がないこと、地主のなかの大、中、小のとりあつかい、悪覇と悪覇でないものとのとりあつかいに区別がないこと、平均分配の原則にもとづいて地主に必要な生活の道をのこしてやるということをしないこと、反革命弾圧闘争にあたって政策上の限界を一部とえること、そしてまた、民族ブルジョア階級を代表する政党をのけものにすること、開明紳士をのけものにすること、新解放区において打撃面を縮小するということの戦術上の重要性を無視すること(つまり富農や小地主の中立化を無視すること)、仕事の段どりをふむうえでせっかちであること、などである。これらの「左」翼的傾向は、この二ヵ年ほどのあいだに、各解放区に多かれ少なかれ発生しており、ときには重大な冒険主義的偏向となったこともある。さいわい、これらの傾向を是正するのはそれほど困難ではなく、数ヵ月のうちにすでにだいたい是正したか、あるいは現に是正しつつある。しかし、各級の指導者がとくに力をそそがなければ、これらの傾向は徹底的に是正することができない。右翼的傾向は主として、敵の力を過大評価すること、アメリカが蒋介石に大量の援助をあたえるのをおそれること、長期の戦争にいくらか嫌気がさしていること、国際的な民主勢力の強大さについていくらか懐疑的であること、封建制度を消滅するうえで思いきって大衆を立ちあがらせようとしないこと、党内の階級構成の不純、作風の不純を見ても気にとめないこと、などである。しかし、これらの傾向は、いまのところ主要なものではなく、あらためるのも困難ではない。この数ヵ月、わが党は、戦争、土地改革、整党と整軍、新解放区の創設、民主諸政党の獲得など、どの面でも成果をあげており、これらの活動のなかでうまれた傾向はすでに力をいれて是正したか、あるいは現に是正しつつある。こうして、中国の革命運動ぜんたいを健全な発展の軌道にのせることができるようになった。党の政策と戦術がすべて正しい軌道にのってこそ、中国革命は勝利することができる。政垢と戦術は党の生命である。各級の指導者は、これにじゅうぶんな注意をはらうべきで、けっしておろそかにしてはならない。
二、アメリカと蒋介石にある種の幻想をいだいていたために、わが党と人民が内外のいっさいの敵にうち勝つだけの力をもっているということを疑い、そこから、いわゆる第三の道〔1〕がなお存在しうるものと考えて国共両党の中間の立場にたっていた一部の民主的な人びとは、国民党の突然の攻勢にあって受動的な立場にたたされ、一九四八年一月ついにわが党のスローガンを採用し、反蒋反米、連共連ソを声明した〔2〕。これらの人びとにたいして、われわれは団結の政策をとるべきであり、かれらのある種のまちがった見方にたいしては適切な批判をくわえる。将来、中央人民政府が成立したさいに、そのなかの一部の人を招請して政府の仕事に参加させることは必要であり、また有益である。これらの人びとの特徴は、勤労大衆に近づこうとしたことがなく、また大都市の生活になじんでいて、おいそれとは解放区にこようとしないことである。とはいっても、かれらの代表する社会的基盤つまり民族ブルジョア階級は、それなりの重要性をもっており、ゆるがせにしてはならない。したがって、かれらを獲得しなければならない。われわれがさらに大きな勝利をおさめ、瀋陽、北平、天津のようないくつかの都市を奪取し、共産党が勝ち国民党が負けるという情勢がすっかりあきらかになってから、かれらを中央人民政府に参加するよう招請すれば、かれらもおそらく解放区にやってきてわれわれといっしょに仕事をする気になるだろう。
三、われわれはことしのうちに中央人民政府を設立しようとはおもわない。それは時機がまだ熟していないからである。ことし蒋介石のにせ国民大会がひらかれ、蒋介石が総統に選挙され〔3〕、かれの威信がいっそう地におちたのちには、また、われわれがさらに大きな勝利をおさめ、もっと多くの地域を拡大するとともに、できれば第一級の大都市を一つ、二つ手にいれたのちには、そして東北、華北、山東、江蘇北部、河南、湖北、安徽などの地区を一つに結びつけたのちには、中央人民政府をつくることもまったく必要になってくる。その時機は、だいたい一九四九年になるだろう。いま、われわれは山西・察哈爾・河北辺区、山西・河北・山東・河南辺区、山東の渤海地区を一つの党委員会(華北局)、一つの政府、一つの軍事機構の指揮下に統一しようとしている(渤海地区は合併がすこしおくれるかもしれない)。この三つの地区には、天水=連雲港鉄道以北、天津=浦口鉄道および渤海以西、大同=風陵渡鉄道以東、北平=包頭鉄道以南の広大な地域がふくまれる〔4〕。この三つの地区はすでに一つにつながっていて、合計五千万の人口があり、合併の仕事はおそらく短期間で完成されるだろう。そうなれば、南部戦線の作戦を力づよく支援することができるし、多くの幹部を新解放区へまわすことも可能になる。この地区の指導の中心は石家荘におく。党中央も、華北に移転して中央工作委員会と合併する予定である。
四、わが南部戦線の各軍、つまり山東兵団の九コ旅団、江蘇省北部地区兵団の七コ旅団、黄河・淮河間地区兵団の二十一コ旅団、河南・湖北・陝西辺区兵団の十コ旅団、長江・淮河・漢水間地区兵団の十九コ旅団、西北兵団の十二コ旅団、山西省南部・河南省北部地区兵団の十ニコ旅団は、長江・淮河・漢水間地区の劉伯承・鄧小平兵団の主力だけが、白崇禧が兵力を集中して大別山に進攻してきたため〔5〕、まだ休養と整備・訓練ができず、二月末になってやっとその一部を淮河以北にやって休養と整備・訓練をさせたというのをのぞいて、みな、十二月から二月までに休養と整備・訓練をすませている。これは、この二十ヵ月の作戦における最初の大がかりな休養と整備・訓練であった。こんどの休養と整備・訓練では、大衆による訴苦(旧社会と反動派が勤労人民にあたえた苦しみを訴えること)、三査(出身階級を点検し、活動を点検し、闘志を点検すること)、大衆的な訓練(将校が兵士に教え、兵士が将校に教え、兵士が兵士に教えること)の方法によって、全軍の指揮員、戦闘員に高度の革命的積極性を発揮させ、軍隊のなかにいる一部の地主、富農または悪質分子を教育改造し、あるいはこれを追いだし、規律性をたかめ、土地改革における各種の政策、商工業と知識人にたいする政策をはっきりと説明し、軍隊における民主的作風を発揚し、軍事技術と戦術を向上させた。このようにしてわが軍は大いに戦闘力を増強することができた。いま、劉伯承・鄧小平兵団はその一部がまだ休養と整備・訓練をおこなっているが、その他の各兵団はすべて、二月末から三月はじめにかけて、あい前後して新しい作戦行動をおこし、二週間で敵九コ旅団を殲滅した。北部戦線の各軍、つまり東北兵団の四十六コ旅団、山西・察哈爾・河北辺区兵団の十八コ旅団、山西・綏遠辺区兵団の二コ旅団は、冬季には大部分が作戦に従事し、一部が休養と整備・訓練をおこなった。東北兵団は、遼河の結氷を利用して三ヵ月にわたる作戦をおこない、敵八コ旅団を殲滅し、敵一コ旅団を蜂起させ、彰武、法庫、新立屯、遼陽、鞍山、宮口、四平街を攻略し、吉林を奪回した。この兵団はいま休養と整備・訓練をはじめている。休養と整備・訓練がおわれば、長春を攻撃するか、または北平=瀋陽鉄道沿線の敵を攻撃する。山西・察哈爾・河北辺区兵団は一ヵ月あまりの休養と整備・訓練をおえて、いま北平=包頭鉄道へむかって行動をおこしている。山西・綏遠辺区兵団は数が比較的すくなく、その主要な任務は、閻錫山を牽制する役割をはたすことである。総計すると、わが軍は現在、南北両戦線に大小十コ兵団を擁しており、正規の兵力はすでに五十コ縦隊(縦隊は国民党の改編師団にひとしい)―百五十六コ旅団(旅団は国民党の改編旅団にひとしい)、百三十二万二干余人にたっし、各旅団(三コ連隊)の人数は平均八千前後である。このほかに、地方の兵団、部隊、遊撃隊および後方の軍事機関、軍事学校などをふくむ非正規軍が百十六万八千余人(このうち戦闘部隊は八十万人をしめる)あり、全軍の総計はニ百四十九万一千余人となっている。ところが、一九四六年七月以前には、われわれは正規軍二十八コ縦隊―百十八コ旅団、六十一万二干余人をもっていたにすぎず、各旅団(三コ連隊)の人数は平均五千に満たなかった。これに非正規軍の六十六万五千余人をくわえても、総計百二十七万八千余人であった。これからみても、われわれの軍隊がいまは大きなものになっていることがわかる。旅団の数はそうふえていないが、各旅団の人数は大いにふえている。二十ヵ月の戦いをへて、戦闘力も大いに増強した。
五、国民党の正規軍は、一九四六年七月から昨年の夏までは九十三コ師団―二百四十八コ旅団であったが、いまは、百四コ師団―三百七十九コ旅団の部隊名をもっている。その分布は、北部戦線に二十九コ師団―九十三コ旅団(瀋陽の衛立煌の十三コ師団―四十五コ旅団、北平の傳作義の十一コ師団―三十三コ旅団、太原の閻錫山の五コ師団―十五コ旅団)約五十五万人、南部戦線に六十六コ師団―百五十八コ旅団(鄭州の顧祝同の三十八コ師団―八十六コ旅団、九江の白崇禧の十四コ師団―三十三コ旅団、西安の胡宗南の十四コ師団―三十九コ旅団)約百六万人、第二線に九コ師団―二十八コ旅団(蘭州以西の地区をふくむ西北地区に四コ師団―八コ旅団、四川、西康、雲南、貴州の各省をふくむ西南地区に四コ師団―十コ旅団、長江以南の各省をふくむ東南地区に八コ旅団、台湾省に一コ師団―二コ旅団)約十九万六千人である。国民党正規軍の部隊名がふえたのは、国民党軍が、わが軍から大量に殲滅され、また戦略的攻勢から戦略的守勢に転じたのち、兵力の不足を痛感して、大量の地方部隊とかいらい軍を正規軍に格上げまたは編成したからであり、そのうちわけは、北部戦線の衛立煌系が三コ師団―十四コ旅団の増加、傳作義系が二コ師団ー六コ旅団の増加、南部戦線の顧祝同系が六コ師団―九コ旅団の増加、胡宗南系がニコ旅団の増加で、合計十一コ師団―三十一コ旅団の増加となっている。このため、国民党軍は現在では、九十三コ師団ではなくて百四コ師団となり、二百四十八コ旅団ではなくて二百七十九コ旅団となっている。しかし、第一に、この数ヵ月間(三月二十日まで)に、わが軍に殲滅された六コ師団―二十九コ旅団は部隊名があるだけで、まだ再建も補充もできないままであるし、一部は永久に再建も補充もできないかもしれない。したがって、国民党軍は現在実際には九十八コ師団―二百五十コ旅団を擁するにすぎず、昨年の夏以前にくらべて、師団名が五つ、実際は旅団が二つふえているにすぎない。第二に、現在実際にある二百五十コ旅団のうち、わが軍からまだ殲滅的打撃をうけていないのは百十八コ旅団にすぎず、あとの百三十二コ旅団は、わが軍によって、一回、二回、または三回も殲滅され、そのあとで補充されたものか、あるいはわが軍によって一回、二回、または三回も殲滅的打撃(旅団を単位として、全部が消滅されたかまたは大部分が消滅されたばあいを殲滅といい、一コ連隊以上消滅されたが主力はまだ損害をうけていないばあいを殲滅的打撃という)をうけたもので、その士気と戦闘力はいちじるしく低下している。まだ殲滅的打撃をうけていない百十八コ旅団のうち、一部は第二線で訓練中の新兵であり、他の一部は地方部隊とかいらい軍から格上げまたは編成されたものであり、戦闘力はひじょうに弱い。第三に、国民党軍は人数も減っている。一九四六年七月以前には、その正規部隊は二百万人、非正規部隊は七十三万八千人、特種部隊は三十六万七千人、海空軍部隊は十九万人、後方勤務機関、学校にいるものは百一万人、合計四百三十万五千人であった。ところが、一九四八年二月には、その正規部隊は百八十一万人、非正規部隊は五十六万人、特種部隊は二十八万人、海空軍部隊は十九万人、後方勤務機関、学校にいるものは八十一万人、合計三百六十五万人となっている。つまり、六十五万五干人減ったわけである。一九四六年七月から一九四八年一月までの十九ヵ月間に、わが軍は国民党の軍隊を合計百九十七万七千人(二月と三月の前半は統計がまだできていないが、およそ十八万人前後)消滅した。つまり、国民党は、これまでの作戦期間中に軍隊にいれた百余万の新兵を消耗したばかりでなく、さらに、もとからあった兵力をもおびただしく消耗したわけである。こうした情勢のもとで、国民党は、われわれとは逆の方針をとり、各旅団の人員を充実させるのでなく、旅団の人員を減らして、旅団名をふやした。国民党軍は、一九四六年には、各旅団が平均ほぼ八千人を擁していたが、現在では、各旅団は平均六千五百人前後にすぎない。今後わが軍の占領地域は日ましに拡大し、国民党軍の兵員と食糧の補給源は日ましにせばまっていくので、さらにまる一年戦えば、つまり来年の春になれば、敵軍とわが軍は数のうえでほぼ同じくらいになるだろう。われわれの方針は、速効をもとめず着実に戦うことで、ただ毎月平均して国民党の正規軍八コ旅団前後を消滅し、毎年敵軍百コ旅団前後を消滅すればよいのである。ところが実際には、昨年の秋以後はこの数をこえており、今後はいっそう大幅にこえることになるだろう。五年前後(一九四六年七月からかぞえて)〔6〕で国民党の全軍を消滅する可能性は存在するのである。
六、いまのところ、南北両戦線の敵軍は、二つの地区でまだかなり大きな機動兵力をもっており、戦役的進攻をおこなうことができ、そこにいるわが軍を一時困難な立場にたたせている。その一つは大別山で、機動できる旅団を約十四擁している。もう一つは淮河以北地区で、機動できる旅団を約十二擁している。この二つの地区では、国民党軍がまだ主動権をにぎっている(淮河以北地区では、わが方が、主力の九コ旅団を他の方面の任務につかせるため、それを黄河以北にまわして休養と整備・訓練をおこなわせているので、国民党軍が主動権をにぎっている)。その他のすべての戦場の敵軍はみな、受動的な、たたかれる立場にある。わが方にとってとくに情勢が有利な戦場は、東北地方、山東省、西北地方、江蘇省北部地区、山西・察哈爾・河北辺区、山西・河北・山東・河南辺区および鄭州=漢□鉄道以西、長江以北、黄河以南の広大な地域である。
〔1〕 本巻の『当面の情勢とわれわれの任務』注〔8〕を参照。
〔2〕 一九四七年十月、国民党反動政府は民主同盟の解散を命じた。国民党反動派の圧力をうけて、民主同盟内の一部の動揺分子は、民主同盟を解散し活動を停止するむねの宣言を発表した。当時は、他の民主政党もみな国民党反動派の迫害をうけ、国民党支配区では公然と活動することはできなかった。一九四八年一月、民主同盟の指導者沈鈞儒らは香港で会議をひらき、民主同盟の指導機関を再建し、活動を再開することを決定した。おなじ月に、国民党民主派の李済深らも香港で国民党革命委員会を結成した。当時、かれらはみな、時局についての中国共産党の主張をうけいれ、中国共産党および他の民主政党と連合して蒋介石の専制政権をくつがえし、中国の内政にたいするアメリカの武力干渉に反対することを主張する宣言を発表した。民主同盟内の動揺分子たちも、当時これらのスローガンをうけいれた。
〔3〕 一九四八年三月二十九日から五月一日にかけて、国民党反動派は南京でにせ「国民大会」をひらき、蒋介石を「総統」に、李宗仁を「副総統」に「選挙」した。
〔4〕 一九四八年五月、山西・察哈爾・河北解放区と山西・河北・山東・河南解放区が合併して、華北連合行政委員会と華北軍区が成立した。同年八月、華北適合行政委員会は華北人民政府と改称された。
〔5〕 白崇禧が大別山地区にたいして進攻を開始した時期は一九四七年十二月で、進攻してきた兵力は合計三十三コ旅団であった。
〔6〕 五年前後で国民党の全軍を消滅するというのは当時の予測であった。のちに、この期間は三年半前後に短縮された。本巻の『中国の軍事情勢の重大な変化』を参照。
(一九四八年四月一日)
同志諸君、きょうわたしは、おもに山西・綏遠解放区の活動に関係のあるいくつかの問題について話し、そのあとで全国的な活動に関係のあるいくつかの問題について話そうとおもう。
わたしは、中国共産党中央山西・綏遠分局の指導する地域におけるこの一年間の土地改革活動と整党活動は成功しているとおもう。
それは、二つの面にみられる。一つは、山西・綏遠解放区の党組織が右翼的傾向に反対し、大衆闘争をおこして、全区三百余万の人口のうち二百数十万人のなかで、土地改革活動と整党活動をなしとげたか、または現になしとげつつあるということである。もう一つは、山西・綏遠解放区の党組織が、運動のなかでうまれたいくつかの「左」翼的傾向を是正して、全活動を健全な発展の軌道にのせたということである。この二つの面からみて、山西・綏遠解放区の土地改革活動と整党活動は成功しているとおもう。
「これからはだれも、もう封建的にはふるまえなくなった、もうひどいことはやれなくなった、もう汚職はできなくなった。」これは、山西・綏遠解放区の人民のことばである。これは、山西・綏遠解放区の人民がわれわれの土地改革活動と整党活動についてくだした結論である。かれらのいっている「もう封建的にはふるまえなくなった」というのは、われわれがかれらを指導して闘争に立ちあがらせ、新解放区の封建的搾取制度と旧解放区、準旧解放区の封建的搾取制度の残存物を消滅したか、または現に消滅しつつあることをさしているのである。かれらのいっている「もうひどいことはやれなくなった、もう汚職はできなくなった」というのは、つまり、以前は、多くの悪質分子が党と政府の組織内にまぎれこんでいたり、多くのものが官僚主義の作風をつのらせ、権力をかさにきて人をいじめ、強制命令の方法で任務を遂行して大衆の不満をかったり、また汚職の罪をおかし大衆の利益をそこなうなど、そうした階級構成の不純または作風の不純という深刻な現象が、わが党と政府の組織内にある程度存在していたが、この一年間の土地改革活動と整党活動をつうじて、こうした状況はすでに根本的にあらためられた、ということをさすのである。
「以前われわれにとって致命的であったものが、いまはとりのぞかれた。以前はなかったものが、いまはある。」これは、この席にいる同志のひとりがわたしにいったことばである。この同志のいう、致命的であったものとは、党と政府の組織のなかにあった階級構成の不純と作風の不純、それによって引きおこされた大衆の不満、という深刻な現象をさすのである。こうした現象はいまでは根本的にとりのぞかれている。この同志のいう、以前はなかったがいまはあるものとは、貧農則、新しい農会、区と村の人民代表会議、それに、土地改革活動と整党活動によってうまれた農村のまったく新しい気風をさすのである。
こうした反響は、実情に合致しているとぶもう。
これは、山西・綏遠解放区における土地改革活動と整党活動の偉大な成功をしめすものである。これが成功の第一の面である。こういう基礎があったからこそ、山西・綏遠解放区の党組織はこの一年間に大がかりな軍事上の後方勤務をなしとげ、偉大な人民解放戦争を支援することができたのである。もし、成功裏にすすめられた土地改革活動と整党活動がなかったとしたら、こんなに大きな軍事的任務をなしとげることはむずかしかっただろう。
もう一つの面は、山西・綏遠解放区の党組織が、その活動のなかでうまれたいくつかの「左」翼的傾向を是正したことである。その傾向というのは主としてつぎの三つである。第一は、土地改革活動にあたって、農村戸数の九二パーセント前後、人数にして九〇パーセント前後、つまり農村のすべての勤労人民と団結し、封建制度に反対する統一戦線を結成することができるし、またそうしなければならない、というきわめて重要な戦略的方針を忘れて、多くの地方では、階級所属をきめるときに、なんら封建的搾取をしていないかほんのわずかしか搾取していない多くの勤労人民を地主または富農のわく内にいれ、打撃面を拡大するというあやまりをおかしたことである。いまでは、この傾向はすでに是正されている。こうして人心は大いに安定し、革命の統一戦線は強化された。第二は、土地改革活動にあたって地主と富農のもっている商工業を侵害したこと、経済上の反革命活動を摘発する闘争のなかで、摘発すべき範囲をこえたこと、また徴税政策のうえで商工業に打撃をあたえたことである。これらはすべて商工業をあつかううえでの「左」翼的傾向である。いまではこれらの傾向もすでに是正されて、商工業には回復と発展の可能性がうまれた。第三は、この一年間のはげしい土地改革闘争のなかで、山西・綏遠解放区の党組織は、やたらに人を殴ったり殺したりすることを厳禁しているわが党の方針をしっかり堅持できなかったということである。そのために、ある地方の土地改革では、一部の死刑にする必要のない地主と富農を死刑にしたし、農村の悪質分子に報復行動にでる機会をあたえ、何人かの勤労人民がかれらによって不法にも殺害されたのである。われわれはつぎのように考える。積極的にしかもはげしく人民民主主義革命に反対したり土地改革活動を破壊したりした重大犯罪分子、つまり重大な罪を村かした極悪の反革命分子と悪覇にたいしては、人民法廷と民主政府をつうじて、これを死刑にすることがまったく必要であり正当である。そうしなくては、民主的な秩序をうちたてることはできない。しかし、国民党の側についている一般要員のすべてと、一般の地主、富農、または罪状のわりあい軽いものは、殺すことを禁止しなければならない。同時に、人民法廷と民主政府が犯罪分子を取り調べるばあいには、拷問を禁止しなければならない。この一年のあいだに山西・綏遠解放区でこの面にうまれた傾向も、いまではすでに是正されている。
上述のすべての傾向がしんけんに是正されて、いまでは山西・綏遠中央分局の指導下にあるいっさいの活動は健全な発展の軌道にのっていると、われわれは確証をもっていうことができる。
実際の状況にもとづいて活動方針をきめること、これはすべての共産党員がしっかりと心にきざみつけておかなければならないもっとも基本的な活動方法である。われわれのおかしたあやまりは、その発生の原因をしらべてみると、すべて、われわれがその時その土地の実際の状況からはなれて主観的に自分の活動方針をきめたということからきている。この点は、すべての同志が教訓とすべきである。
党の基礎組織を整頓する活動については、諸君はすでに、中央からだされた旧解放区、準旧解放区で土地改革活動と整党活動をおこなうことについての指示〔1〕にもとづいて、山西・察哈爾・河北解放区平山県の整党の経験、つまり、党外大衆のなかの積極分子をまねいて党の細胞会議に参加してもらい、批判と自己批判をくりひろげて、党組織内の階級構成の不純、作風の不純という現象をあらため、党と人民大衆を緊密に結びつけるという経験をとりいれている。このようにしていけば、諸君は党組織整頓の全活動を正しくなしとげることができるだろう。
救いようのない連中とはちがって、あやまりをおかしはしたがまだ教育することのできる党員と幹部については、その出身のいかんをとわず、すべてこれを見すてないで教育をほどこすべきである。諸君はすでにこの方針をとったか、あるいは現にとりつつあるが、これも正しいことである。
封建制度に反対するたたかいのなかで、貧農団と農会を基礎として区と村(郷)の二つの級の人民代表会議をつくったことは、きわめて貴重な経験である。ほんとうに広範な大衆の意志にもとづいてつくられた人民代表会議だけが、真の人民代表会議である。こうした人民代表会議が、いまではすべての解放区にあらわれる可能性がある。こうした人民代表会議ができあがったら、それはその地方における人民の権力機関となるべきで、そういう機関が当然もつべきいっさいの権力は、代表会議とその選出する政府委員会に帰さなければならない。そのときになれば、貧農団と農会はそれらの機関の助手となる。われわれはかつて、各地の農村で、そこの土地改革の任務をだいたい終えてから人民代表会議をつくるつもりでいた。現在、諸君の経験と他の解放区の経験によって、土地改革闘争のなかで区と村の二つの級の人民代表会議とその選出する政府委員会をつくることが可能でありまた必要であることが証明された以上、諸君はそういうふうにすべきである。すべての解放区でもそういうふうにすべきである。区と村の二つの檄の人民代表会議が普遍的につくられたら、県級の人民代表会議をつくってもよい。県と県以下の各級人民代表会議ができていれば、県以上の各級人民代表会議は容易につくることができる。各級の人民代表会議には、できるかぎり労働者、農民、独立勤労者、自由職業者、知識人、民族商工業者、開明紳士をふくむあらゆる民主的な階層からその代表を参加させるようにしなければならない。もちろん、むりに頭数をそろえるのではなくて、町のある農村地区と町のない農村地区とを区別し、町の大小を区別し、都市と農村とを区別して、むりにではなく自然に、すべての民主的階層を連合させる任務をはたさなければならない。
土地改革と整党という偉大な大衆闘争のなかで、何万という積極分子と幹部が教育され、うまれている。かれらは大衆と結びついており、中華人民共和国のきわめてとうとい財産である。今後も、かれらが活動のなかでたえず進歩をとげるように、教育をつよめるべきである。同時に、かれらにたいして、成功したから、ほめられたからといって、けっしておごりたかぶったり自己満足におちいったりしないよう警告すべきである。
これらいっさいのこと、さきにのべた各方面での成功によって、げんざい山西・綏遠解放区はいままでのどの時期よりもいっそう強固になった、ということができる。他の解放区でも、このようにしたところは、やはりおなじように強固になっている。
山西・綏遠解放区がさきにのべたような成功をおさめた原因は、これを指導の面からいえば、主としてつぎの点にある。(1)昨年の春劉少奇同志の面接指示をうけ、また昨年春から夏にかけて康生同志が臨県[赤+”おおざと”]家坡行政村でおこなった活動に援助されて、山西・綏遠分局は昨年六月に地方委員会書記会議をひらいた。この会議では、これまでの活動にみられた右翼的傾向が批判され、党の路線からはずれた各種の深刻な現象が徹底的にあばかれ、土地改革活動と整党活動にしんけんにとりくむ方針がきめられた。この会議は基本的に成功した。もしこの会議がひらかれなかったら、土地改革活動と整党活動がこのように大きな成功をおさめることはできなかっただろう。この会議の欠点は、旧解放区、型旧解放区と新解放区のそれぞれ異なった状況におうじて異なった活動方針をうちださなかったこと、階級所属をきめる問題で極左的な方針をとったこと、どのようにして封建制度を消滅するかという問題で地主の地下隠匿財産の摘発に重点をおきすぎたこと、および、大衆の要求を処理する問題で冷静な分析を欠き、ばくぜんと「なんでも大衆のいうとおりにやる」というスローガンをうちだしたことである。あとのほうの問題は党と大衆の関係の問題であって、これについてはつぎのようにしなければならない。つまり、すべて人民大衆の正しい意見については、党は状況におうじ、大衆を指導して、これを実現させなければならないが、人民大衆のなかからでてくる正しくない意見については、大衆を教育して、それをあらためさせなければならない。地方委員会書記会議は、ただ党が大衆の意見を実行にうつすべきであるという面だけを強調して、党が大衆を教育し大衆を指導すべきであるという面をおろそかにしたので、のちに一部の地区で活動する同志に正しくない影響をあたえ、かれらの追随主義のあやまりを助長することになった。(2)山西・綏遠分局はくとしの一月、「左」翼的傾向をあらためる適切な措置をとった。この措置は、分局の同志が中央の十二月会議〔2〕に出席して帰ってきたのちとられたものである。分局は、このために五項目の指示〔3〕をだした。この傾向是正の措置はひじょうに大衆の要求にかなっていたし、またひじょうに迅速に徹底的に遂行されたので、短期間のうちに、ほとんどすべての「左」弾翼的傾向が是正された。
抗日の時期における山西・綏遠解放区の党組織の指導路線は、基本的に正しかった。それは、小作料・利子引き下げを実施したこと、農業生産と家庭紡織業、軍事工業と一部の軽工業をかなり回復・発展させたこと、党組織の基礎を確立したこと、民主政府を樹立したこと、十万にちかい人民の軍隊を組織したこと、したがってまた、これらの活動を基礎として、抗日戦争を成功実におしすすめ、さらに閻錫山など反動派の進攻を撃退したことなどにあらわれている。もちろん、この時期の党と政府には欠点もあった。それは、いまではまったくあきらかになった、党と政府のなかに存在するある程度の階級構成の不純または作風の不純と、そこからうまれた活動上の多くのよくない現象とである。しかし、全般的な状況からいって、抗日の時期の活動には成果があった。これによってわれわれは、日本が降伏したのちに蒋介石の反革命の進攻をうちやぶることのできる有利な条件をえた。抗日の時期における山西・綏遠解放区の党組織の指導面での欠点またはあやまりは、主として、党と政府のなかに存在するある程度の階級構成の不純または作風の不純と、そこからうまれた活動上のよくない現象を、もっとも広範な大衆に依拠して克服することができなかった、ということである。それは任務としてのこされていたが、諸君はいまそれを完成したのである。当時の山西・綏遠解放区の一部の指導者が、党と大衆のさまざまな実際状況にたいして理解を欠いていたことが、さきにのべた現象をうんだ原因の一つである。この点は、やはり同志諸君が教訓とすべきものである。
山西・綏遠解放区の党組織の今後の任務は、最大の努力をはらって、土地改革活動と整党活動をなしとげ、ひきつづき人民解放戦争を発展させ支援し、これ以上人民の負担を重くせず、むしろそれを適当に軽減するようにし、生産を回復・発展させるということである。諸君はいま生産会議をひらいている。ここ数年間、生産を回復・発展させる目的は、一方では人民の生活を改善し、他方では人民解放戦争を支援することである。諸君には広範な農業と手工業があるし、また機械をつかう軽工業や重工業もいくらかある。諸君がこれらの生産事業をりっぱに指導するようのぞむ。それができないようでは、りっぱなマルクス主義者とはいえない。農業の面では、これまで官僚主義分子ににぎられていて、人民大衆にとっては有害無益でしかなかった変工隊や協同組合〔4〕は、いずれもくずれさった。これはじゅうぶんに理解できるし、すこしも惜しいことはない。諸君の任務は、人民大衆に支持されている変工隊、協同組合その他必要な経済組織を注意ぶかく保存し発展させるとともに、このような組織を各地におしひろめることである。
全国の情勢は、同志諸君の関心をもっところである。昨年、党の全国土地会議で、新しい方針を採用して土地改革活動を展開し整党活動をおこなうことが決定されてからは、ほとんどすべての解放区で、整党と土地改革に関連する規模の大きな幹部会議がひろかれ、党内に存在する右翼的な思想が批判され、党内にある程度存在していた階級構成の不純または作風の不純という深刻な現象が摘発された。その後、多くの地区ではさらに、適切な措置をとって、「左」翼的傾向を是正したか、現に是正しつつある。こうして、全国におけるわが党の活動は、新しい政治情勢と政治的任務をまえにして、健全な発展の軌道にのった。人民解放軍のほとんどすべての部隊が、この数ヵ月のあいだに、戦争のあいまを利用して大規模な整備・訓練をおこなった。この整備・訓練は完全に指導のある、秩序ただしい、民主的な方法ですすめられた。これによって、広範な指摘員、戦闘員大衆は革命的情熱をもやし、戦争の目的をはっきりと認識するようになり、軍隊内にみられる若干の正しくない思想的傾向やよくない現象がとりのぞかれ、幹部と兵士が教育され、戦闘力がいちじるしく高められた。こうした民主的で大衆的な新しい型の整軍運動は、今後もひきつづきおこなわなければならない。われわれの実施している偉大な歴史的意義をもつ整党、整軍、土地改革活動は、われわれの敵国民党にとっては何ひとつ実行できないものだということを、諸君ははっきりみてとることができるだろう。われわれの側では、こんなにしんけんに自分の欠点をあらためてわが全党全軍をまるでひとりの人間のように団結させ、こうして、全党全軍は人民大衆と緊密に結びつき、わが党中央のきめたいっさいの政策と戦術を効果的に実行し、人民の解放戦争を成功裏にすすめている。ところが、われわれの敵の側は、すべてが逆である。かれらは、あのように腐りはてており、あのように、日ましにつのる、解決しようのない内輪もめにあけくれており、あのように人民に唾棄されてまったく孤立におちいっており、あのように多くの負けいくさをしている。だから、かれらが滅亡へむかうのはどうしても避けられない。これが中国における革命と反革命の対照的な情勢の全貌である。
こうした情勢のもとでは、全党の同志はしっかりと、党の総路線つまり新民主主義革命の路線をつかんでいなければならない。新民主主義革命はプロレタリア階級の指導する、人民大衆の、帝国主義、封建主義、官僚資本主義に反対する革命でしかありえないし、またそうでなければならず、それ以外のいかなる革命でもない。つまり、この革命では、他のいかなる階級、他のいかなる政党もその指導者にはなれず、プロレタリア階級と中国共産党だけがその指導者になりうるし、またならなければならない、ということである。それはまた、この革命に参加する人びとによってつくられる統一戦線がひじょうに広範なものであり、そのなかには労働者、農民、独立勤労者、自由職業者、知識人、民族ブルジョア階級、それに地主階級から分化してきた一部の開明紳士がふくまれる、ということであって、これがわれわれのいう人民大衆である。この人民大衆によってつくられる国家と政府が中華人民共和国であり、プロレタリア階級が指導し民主的諸階級が同盟した民主連合政府である。この革命で打倒する敵は帝国主義、封建主義、官僚資本主義だけであり、またそうでなければならない。これらの敵を集中的にあらわすものが、蒋介石国民党の反動支配である。
封建主義は帝国主義と官僚資本主義の同盟者であり、またその支配の基礎である。したがって、土地制度の改革は中国の新民主主義革命の主要な内容である。土地改革の総路線は、貧農に依拠し、中農と団結し、段どりをおい、区別をつけて、封建的搾取制度を消滅し、農業生産を発展させることである。土地改革にあたって依拠する基本勢力は貧農だけであり、またそうでなければならない。この貧農層は、雇農とあわせて、中国の農村人口の七〇パーセント前後をしめている。土地改革の主要な、また直接の任務は、貧・雇農大衆の要求を満たすことである。土地改革にあたっては、中農と団結しなければならず、負・雇農は農村人口の二〇パーセント前後をしめる中農と強固な統一戦線を結成しなければならない。そうしなければ、貧・雇農は孤立におちいり、土地改革は失敗するにちがいない。土地改革の任務の一つは、一部の中農の要求を満たすことである。一部の中農には、一般の貧農が手にいれる土地の平均数より多い土地の保有を許さなければならない。われわれが農民の土地平均分配の要求を支持するのは、広範な農民大衆が立ちあがって封建的地主階級の土地所有制度をすみやかに消滅するのを有利にするためであって、絶対平均主義を提唱するのではない。絶対平均主義を提唱するものがあるとすれば、それはあやまりである。いま農村でよくみられる、商工業を破壊し、土地分配の問題で絶対平均主義を主張する考え方は、その性質からいって反動的な、たちおくれた、逆行的なものである。われわれはこうした考え方を批判しなければならない。土地改革の対象は、地主階級と旧式富農の封建的搾取制度だけであり、またそうでなければならない。民族ブルジョア階級の利益を侵してはならないし、地主、富農の経営する商工業も侵害してはならず、とりわけ、搾取していないかほんのわずかしか搾取していない中農、独立勤労者、自由職業者、新式富農の利益を侵さないよう注意しなければならない。土地改革の目的は、封建的搾取制度を消滅すること、つまり階級としての封建的地主を消滅することであって、地主個人を消滅することではない。したがって、地主には農民とおなじように土地、財産をわけあたえ、また、生産労働を学ばせ、かれらを国民経済生活の隊列に参加させなければならない。広範な人民大衆からひどくうらまれており、たしかな証拠のあがっている、重大な罪をおかした極悪の反革命分子と悪覇は、処罰してよいしまた処罰すべきであるが、その他のすべてのものにたいしては寛大な政策をとり、やたらに殴ったり殺したりすることをいっさい禁止しなければならない。封建的搾取制度を消滅するには、段どりが必要である。つまり戦術が必要である。周囲の状況の許す範囲と、農民大衆の自覚の程度、組織化の程度におうじて闘争の戦術を決定しなければならず、一瞬のうちに封建的搾取制度の全部を消滅しようとしてはならない。土地改革のさいの全打撃面は、中国農村の封建的搾取制度の実情からみて、一般に農村の戸数の八パーセント前後、人数にして一〇パーセント前後をこえてはならない。旧解放区と準旧解放区では、この数字はもっと少なくなるだろう。業際の状況をはなれ、あやまって打撃面を拡大することは危険である。新解放区ではさらに、地区をわけ、段階をわけなければならない。地区をわけるというのは、しっかり保持できる地区に力を集中して、適切な、その土地の大衆の要求にあった土地改革活動をすすめなければならず、しばらくのあいだまだしっかり保持することの困難な地区では、いそいで土地改革をおこなわず、当面の状況からみて大衆に有利で、しかも可能な活動だけをやって、状況の変化をまたなければならない、ということである。段階をわけるというのは、人民解放軍が占領したばかりの地区では、富農を中立化させ、中小地主を中立化させる戦術をたて、それを実行して、打撃面を、ただ国民党の反動武装組織を消滅し劣紳、悪覇に打撃をくわえるにとどめるというところまで縮めなければならない、ということである。すべての力を集中してこの任務を達成することを、新解放区における活動の第一段階とすべきである。そのうえで、大衆の自覚の程度と組織化の程度の高まりぐあいにおうじて、封建制度全部を消滅する段階へ一歩一歩発展させていくのである。新解放区で動産と土地を分配するのは、いずれも周囲の状況が比較的安定し、圧倒的多数の大衆がじゅうぶんに立ちあがってからでなければならない。そうでないと、冒険することになって、確実性がなく、有害無益である。新解放区では、抗日の時期の経験をじゅうぶんに活用しなければならない。区別をつけて封建制度を消滅するというのは、つまり、地主と富農との区別、地主でも大、中、小の区別、地主、富農のなかでも悪覇と悪覇でないものとの区別をしなければならないということで、土地の平均分配、封建制度の消滅という大原則のもとに、一律にではなく区別をつけて、ちがった状況にある人びとにたいするちがったあつかい方をきめ、実施しなければならない、ということである。われわれがそのようにするならば、人びとは、われわれの活動をまったく情理にかなったものと感ずるにちがいない。農業生産を発展させること、これが土地改革の直接の目的である。封建制度を消滅してはじめて、農業生産を発展させる条件がえられる。どの地区でも、封建制度を消滅し土地改革の任務をなしとげたらすぐに、党と民主政府は農業生産を回復・発展させる任務を提起し、農村のあらゆる動員可能な力を農業生産を回復・発展させる面にうつしていき、協同互助組織をつくり、農業技術を改善し、種子の選別を提唱し、水利事業をおこして、増産を実現できるようにしなければならない。農村における党の精力の最大の部分は、農業生産と町の工業生産を回復・発展させることにそそがれなければならない。農業生産と町の工業生産を急速に回復・発展させるためには、封建制度を消滅する闘争にあたって、使用できる生産手段、生活物資をすべて最大限に保存するようあらゆる努力をはらうことに注意しなければならず、だれであろうと生産手段や生活物資を破壊したり浪費したりするものにはだんこ反対する措置をこうじて、ぜいたくな飲み食いに反対し、節約に注意しなければならない。農業生産を発展させるためには、自由意志の原則にもとづいて、現在の経済的条件のもとで許される、私有制を基礎とした各種の生産および消費のための協同団体を一歩一歩組織していくよう、農民にすすめなければならない。封建制度を消滅し、農業生産を発展させることは、工業生産を発展させ、農業国を工業国にかえるという任務の基礎をすえるものであって、これが新民主主義革命の最終目的である。
同志諸君が知っているように、わが党は中国革命の総路線と基本政策をきめ、またそれぞれの具体的な活動路線とそれぞれの具体的な政策をきめている。だが、多くの同志は、わが党の具体的な個々の活動路線と政策はおぼえていても、わが党の総路線と基本政策は忘れがちである。もしほんとうにわが党の総路線と基本政策を忘れてしまうなら、われわれは盲目的な、中途はんぱな、ぼんやりした革命家となり、具体的な活動路線と具体的な政策を実行するにあたって、方向を見うしない、右に左に動揺し、われわれの活動をあやまらせることになるだろう。
もう一度いおう。
プロレタリア階級の指導する、人民大衆の、帝国主義、封建主義、官僚資本主義に反対する革命、これが中国の新民主主義革命であり、これが当面の歴史的段階における中国共産党の総路線であり、基本政策である。
貧農に依拠し、中農と団結し、段どりをおい、区別をつけて、封建的搾取制度を消滅し、農業生産を発展させること、これが新民主主義革命の時期における、中国共産党の土地改革活動での総路線であり、基本政策である。
〔1〕 中国共産党中央のこの指示は、一九四八年二月二十二日にだされたものである。この指示は、各解放区の土地改革と整党活動の経験を総括し、土地改革と整党活動の一連の政策と方法をきめ、この二つの活動をすすめるうえでうまれた一部の地区の「左」翼的傾向を重点的に是正した。
〔2〕 十二月会議については、本巻の『当面の情勢とわれわれの任務』の解題を参照。
〔3〕 一九四ハ年一月十三日、中国共産党中央山西・綏遠分局のだした「階級所属の決定をあやまったばあいの是正および中農との団結についての指示」をさす。指示の内容は五項目にわかれている。その要点はつぎのとおりである。(一)階級所属をきめる基準が明確でないために、農民の自然発生的な要求のもとに、少なからぬ人があやまって没落地主または富農ときめられ、とりわけ富裕中農があやまって富農ときめられて、中農との団結に影響をおよばした。これはあやまりである。(二)上述のあやまりについては、適切な措置をとり、あくまで農民を説得して、あやまりをあらためさすべきである。すでにとりあげた財物については、適宜これを返還しなければならない。(三)階級所属をきめるにあたっては搾取関係を唯一の標準とすべきことを、農民と幹部に説明すること。階級所属をあやまってきめたものは、あらためるべきである。(四) 貧・雇農に依拠し、中農と団結する原則をしっかりつかむこと。農民代表会議や農会の指導機関のなかで、中農が三分の一前後の割合をしめるようにするとともに、租税の徴収、土地改革にあたって、かれらの利益に配慮をくわえること。(五)責任者は、農村における党の階級政策についてしんけんに研究すべきである。中農にたいする党の政策にしたがって、あやまりはすべてあらためなければならないが、同時にそれは、大衆をつうじてあらためるようにしなければならない。以上五項目の指示をだすと同時に、山西・綏遠分局はまた、「商工業の保護についての指示」をだし、土地改革における商工業侵害の傾向を是正した。
〔4〕 ここでは、購買販売協同組合をさす。
(一九四八年四月二日)
われわれの政策は、指導者に知らせ幹部に知らせるだけでなく、広範な大衆にも知らせなければならない。政策にかんする問題は、一般に、党の新聞または出版物で宣伝しなければならない。われわれはいま土地制度の改革をおこなっている。土地改革にかんする諸政策は、すべて新聞に発表し、ラジオで放送して、広範な大衆に知れわたるようにしなければならない。大衆は、真理を知り、共通の目的をもてば、心を一つにしてやるようになる。これは戦争をするのとおなじで、戦争に勝つには、幹部が心を一つにしなければならないばかりでなく、戦士も心を一つにしなければならない。陝西省北部地区の部隊は、整備・訓練と訴苦をおこなってから、戦士たちの自覚が高まり、なぜ戦うのか、どんなふうに戦うのかがはっきりとわかり、みんな手ぐすねひいて待ちかまえ、士気が大いにあがり、出陣するやたちまち勝利をおさめた。大衆の心が一つになれば、なにごともうまくいく。大衆が自己の利益を認識し、また団結して自己の利益のためにたたかうようにさせること、これがマルクス・レーニン主義の根本原則である。新聞の役割と力は、党の綱領・路線、方針・政策、活動任務および活動方法をもっとも迅速にもっとも広範に大衆のまえにしめすことができる点にある。
われわれの一部の地方の指導機関のなかには、党の政策は指導者だけが知っていればよい、大衆に知らせる必要はないと考えているものがいる。これは、われわれの一部の活動がうまくいかない根本原因の一つである。わが党は、二十数年このかた毎日大衆活動をおこない、十数年このかた毎日大衆路線を口にしてきた。われわれはこれまでずっと、革命は人民大衆にたより、みんなでやることを主張し、少数のものの号令だけにたよってやることに反対してきた。だが、一部の同志は活動のなかで、やはり大衆路線をつらぬくことができず、あいかわらず少数のものだけにたよってひっそりと活動している。その原因の一つは、かれらが、なにか一つのことをやるばあい、いつも指導される人たちにはっきり説明しようとせず、指導されるものの積極性と創造力を発揮させることを心得ていない点にある。かれらも、主観的には、みんなに手足を動かしてやってもらおうとはするのだが、いったいどういうことをやるのか、どういうふうにやるのかということについては、なにも知らせない。これでは、どうしてみんなが動きだせるだろうか。どうして事がうまくはこべるだろうか。この問題を解決するには、根本的にはもちろん思想の面から大衆路線の教育をすすめなければならないが、同時にまた、同志たちにいろいろの具体的な方法を教えなければならない。その方法の一つは、新聞をじゅうぶんに活用することである。よい新聞をつくって、魅力のあるものにし、新聞紙上で党の方針・政策を正しく宣伝し、新聞をつうじて党と大衆との結びつきをつよめることは、党の活動のなかで軽視することのできない、大きな原則的意義をもつ問題である。
同志諸君は新聞の仕事をしている。諸君の仕事は、大衆を教育すること、つまり大衆に自己の利益、自己の任務、党の方針・政策を理解させることである。新聞の仕事も、ほかの仕事とおなじで、しんけんにとりくまなければよいものはできないし、いきいきとしたものにはならない。われわれは新聞をつくるにも、みんなの力にたより、全人民大衆の力にたより、全党の力にたよるべきであって、少数のものだけが部屋に閉じこもってつくってはならない。われわれの新聞は毎日大衆路線を説いているが、新聞社自身の仕事では、往々にして大衆路線を実行していない。たとえば、新聞によく誤植があるが、これは、誤植をなくすことを一つの仕事としてしんけんにとりくんでいないからである。もし大衆路線の方法をとるとすれば、新聞に誤植があったら、新聞社の全員をあつめて、ほかのことはとりあげず、このことだけをとりあげ、あやまりの状況、あやまりがうまれた原因、あやまりをなくす方法をはっきりさせて、みんなにしんけんな注意をはらわせるようにしなければならない。こうして三回、四回ととりあげていけば、あやまりはかならずなおすことができる。小さなことでもそうであるし、大きなことでもそうである。
党の政策を大衆の行動に変えることに習熟し、われわれの一つ一つの運動、一つ一つの闘争を、指導的幹部に理解させるだけでなく、広範な大衆にも理解させ、把握させることに習熟すること、これがマルクス・レーニン主義の指導の芸術である。われわれが活動のなかであやまりをおかすかおかさないかの境目もここにある。大衆がまだ自覚していないときにわれわれが進撃するなら、それは冒険主義である。大衆がやりたがらないことを無理にやらせるよう指導するなら、その結果はかならず失敗する。大衆が前進をもとめているときにわれわれが前進しないなら、それは右翼日和見主義である。睫独秀の日和見主義のあやまりは、大衆の自覚の度合いから立ちおくれ、大衆を前進させるよう指導することができず、しかも大衆の前進に反対したことにある。これらの問題については、多くの同志がまだよくわかっていない。われわれの新聞はこれらの観点をよく宣伝して、みんなにわからせるようにしなければならない。
新聞関係者は、大衆を教育するためにはまず大衆に学ばなければならない。同志諸君はみな知識人である。知識人はとかく物事にうとく、実際の物事についてはとかく経験がないか、あるいは経験がすくない。諸君は、一九三三年にさだめられた『農村の階級をいかに分析するか』についてのパンフレットを見ても、よくはわからないだろう。この点では、農民のほうが諸君よりまさっており、ちょっと話して聞かせればすぐわかる。[山+享]県の二つの区の百八十人あまりの農民は、五日間の会議で、土地分配のなかでの多くの問題を解決した。もし諸君の編集部がこれらの問題を討議するとしたら、おそらく二週間かかっても解決できまい。理由はごく簡単で、それらの問題が諸君にわかっていないからである。わからないことをわかるようにするには、やったり見たりしなければならない。それが学習である。新聞社の同志は交替で外にでかけ、ある期間、大衆活動に参加し、ある期間、土地改革の活動に参加すべきである。これは、ぜひ必要なことである。外へ大衆活動にでかけないときでも、大衆運動についてなるべく多くのことを聞いたり読んだりし、またこれらの材料をじっくり研究すべきである。われわれの軍事訓練のスローガンは、「将校が兵士に教え、兵士が将校に教え、兵士が兵士に教える」というものである。兵士たちは戦争の実際経験がひじょうに豊富である。将校は兵士に学ぶべきで、ほかの人の経験を自分のものにすれば、その能力はたかまる。新聞社の同志もつねに下からあがってくる材料について学び、実際についての知識をしだいに豊富にし、経験のゆたかな人間になっていかなければならない。そうすれば、諸君の仕事はうまくいくようになるし、諸君は大衆を教育するという任務をになっていけるようになる。
晉綏日報は、昨年六月の地方委員会書記会議以後、大きな進歩をとげた。豊富な内容をもち、鋭くてはきはきしていて、生気にあふれ、偉大な大衆闘争を反映し、大衆のために発言していた。わたしはこの新聞を読むのが好きだった。ところが、ことしの一月に「左」翼的傾向の是正がはじまってからこのかた、諸君の新聞はいくぶん気がぬけたようで、明確さに欠け、はきはきしたところがたらず、材料もすくなくなって、あまり読む気がしなくなった。諸君はいま仕事を点検し、経験をしめくくっているが、これはたいへんよいことである。右に反対し、「左」に反対した経験をしめくくって、頭をすっきりさせれば、諸君の仕事は改善されていくにちがいない。
晉綏日報が昨年の六月以降おこなった右翼的偏向に反対する闘争は完全に正しいものであった。右翼的偏向に反対する闘争にあたって、諸君はそれにしんけんにとりくみ、大衆運動の実際状況をじゅうぶんに反映させた。諸君があやまっていると考えた観点や材料にたいしては、編集者のことばという形式で評語をつけた。あとになると諸君の評語にも欠陥がうまれたが、しんけんにとりくむという精神はりっぱである。諸君の欠陥は主として、弓を強く引きしぼりすぎたことにある。あまり強く引きしぼると、弓のつるは切れてしまう。古人も、「文武の道は一張一弛」〔1〕といっている。ここで少し「弛」めてみたら、同志諸君も頭がすっきりするにちがいない。いままでの仕事には成果があったが、欠陥もあった。それは主として「左」翼的傾向であった。こんど全面的なしめくくりをおこなって、「左」翼的傾向を是正すれば、いっそう大きな成果をあげることができるにちがいない。
われわれがまちがった傾向を是正していたとき、ある人たちは、いままでの活動は少しも成果がなく、完全にあやまっていたと考えた。これは正しくない。こういう人たちには、党の指導のもとにあのように多くの農民が土地を獲得し封建主義をうちたおしたこと、党の組織を整頓し、幹部の作風をあらためたこと、こんどまた「左」翼的傾向を是正し、幹部と大衆を教育したことが見えないのである。これは大きな成果ではないだろうか。われわれの活動については、また大衆の事業については、分析の態度をとるべきであって、なにもかも否定すべきではない。まえに「左」翼的傾向がうまれたのは、みんなに経験がなかったからである。経験がなければ、あやまりはまぬかれない。経験のないものが経験をもつようになるには、一つの過程が必要である。昨年六月からこんにらまでのごく短いあいだに、右に反対し「左」に反対する闘争をへて、右に反対し「左」に反対するというのはどういうことであるかがみんなにわかってきた。こうした過程がなければ、みんなもわからなかったにちがいない。
仕事の点検と経験のしめくくりをつうじて、諸君の新聞がいっそうりっぱになるものとわたしは信じている。諸君の新聞はかっての長所を保持すべきで、鋭くて、はきはきしていて、鮮明でなければならないし、しんけんに仕事にとりくまなければならない。われわれは真理を堅持しなければならず、真理は旗幟鮮明でなければならない。われわれ共産党員はいつも、自分の観点をかくすのは恥すべきことだと考えている。わが党のだす新聞、わが党のおこなうすべての宣伝活動は、少しのあいまいさもなく、いきいきとして、鮮明で、鋭くなければならない。これが、われわれ革命的プロレタリア階級のそなえなければならない戦闘的風格である。われわれが人民に真理を認識させるよう数育し、人民を自己の解放のためのたたかいに立ちあがらせるには、このような戦闘的風格が必要である。なまくら刀では、いくら切っても血はでない。
〔1〕 『礼記』の「雑記下」にみられる。原文は、「張って弛めざるは文武も能わざるなり。弛めて張らざるは文武も為さざるなり。一張一弛は文武の道なり」とある。「文武」とは、周の文王、武王をさす。
(一九四八年四月八日)
これは、毛沢東同志か中国共産党中央のために起草した話報である。この電報は、その内容が洛陽にあてはまるだけでなく、新しく解放されたすべての都市にも基本的にあてはまるので、他の前線や他の地区の指導者あてにも同時に発せられた。
こんど洛陽を再攻略〔1〕したが、確保できるであろう。都市政策については、つぎの諸点に注意すべきである。
一、国民党支配機構はきわめて慎重に処理し、そのなかの主な反動分子だけを逮捕するにとどめ、あまり範囲をひろげてはならない。
二、官僚資本については限界をはっきりさせるべきで、国民党員の経営する商工業をすべて官僚資本と称して没収するようなことをしてはならない。調査の結果、たしかに国民党の中央政府、省政府、県・市政府の経営するもの、すなわち完全な官営であることがあきらかになった商工業企業については、民主政府がこれを接収し経常するという原則をさだめるべきである。しかし、民主政府が当分のあいだ接収に手がまわらないか、接収するだけの力がないばあいは、民主政府の派遣する要員がそれを接収するまで、しばらくのあいだ、もとの管理者に、責任をもって管理し従来どおり経営をつづけるよう委託すべきである。これらの商工業については、労働者と技師を組織して管理に参加させ、その管理能力を信頼すべきである。国民党の人員がすでに逃亡して企業が閉鎖状態にあるばあいには、労働者と技師によって選出される代表が管理委員会を組織して管理にあたり、そのあとで、民主政府によって任命される支配人と工場長が労働者といっしょに管理にあたるようにすべきである。著名な国民党大官僚の経営する企業は、前述の原則と方法にしたがって処理すべきである。小官億と地主の経営する商工業は、没収の範囲にいれない。民族ブルジョア階級の経営するすべての企業については、侵害することを厳禁する。
三、農民団体が都市にはいって、地主をつかまえたり、闘争にかけたりすることを禁止する。農村に土地をもっていて都市に住んでいる地主は、市の民主政府が法規にもとづいて処理する。重大な罪をおかした極悪人は、農村の農民団体の要求にもとづいて、農村におくって処理してよい。
四、都市にはいった当初は、賃金引き上げ、労働時間短縮のスローガンをかるがるしく出すべきではない。戦争のあいだは、生産をつづけ、労働時間を短縮せず、いままでの賃金水準を維持することができれば、結構なことである。将来、適度に労働時間を短縮し賃金をふやすかどうかは、経済状況、すなわち企業が発展するかどうかによってきめるべきである。
五、都市の人民の民主改革と生活改善の闘争をいそいで組織すべきではない。市政の管理が一応軌道にのり、人心が安定し、綿密な調査をへて、状況があきらかになり、適切な解決策が準備されたうえで、状況におうじて適宜に処理するようにする。
六、大都市の当面の中心問題は食糧と燃料の問題で、これは計画的に処理しなければならない。都市がわれわれの管理下におかれたらすぐに、貧民の生活問題を計画的に一歩一歩解決していかなければならない。「倉庫をあげて貧民を救済する」といったスローガンを出すべきではない。政府の救済にたよるような気持ちをかれらにうえつけてはならない。
七、国民党員と三民主義青年団員は適切なやり方で審査し、登録させなければならない。
八、なにごとも、遠い先を考えてやること。公私のいかなる生産手段を破壊することも生活資料を浪費することも厳禁し、ぜいたくな飲み食いを禁止し、節約に心がけること。
九、市委員会書記と市長には、政策をわきまえた、能力のある人物を任命しなければならない。市委員会書記と市長は、すべての所属勤務員に訓練をほどこし、都市にたいする諸政策と戦術をはっきり説明しなければならない。都市はすでに人民のものとなっているので、なにごとについても、都市は人民自身が責任をもって管理するという精神を出発点とすべきである。国民党の管理する都市に対処する政策と戦術をもって人民自身の管理する都市に対処するなら、それはまったくのあやまりである。
〔1〕 洛陽は当時、河南省西部における国民党軍の重要な拠点であった。人民解放軍は、一九四八年三月十四日に洛陽をはじめて攻略したが、のちに敵の兵員の殲滅を容易にするため主動的に撤退した。同年四月五日、わが軍はふたたび洛陽を攻略した。
(一九四八年五月二十四日)
これは、毛沢東同志が鄧小平同志にあてた電報である。
新解放区における農村活動の戦術問題については、全般的な考慮をくわえる必要がある。新解放区では、抗日の時期の経験を十分にいかして、解放後かなりの期間は、小作料と利子を引き下げ種子と食糧を適度に調整する社会政策や負担を合理的にわりあてる財政政策を実施しなければならず、かつて抗日の時期に民族裏切り者だけを逮捕しその財産を没収したのとおなじように、主要な打撃の対象を、政治的に国民党の側に立ち、わが党、わが軍にあくまで反対する重要な反革命分子にかぎるべきであって、動産と土地を分配する社会改革の政策をすぐさま実施してはならない。なぜなら、動産の分配を早くやりすぎると、少数の勇敢なものが歓迎するだけで、基本的な大衆は分配にあずからないため、不満をしめすようになるからである。さらにまた、社会の財貨が急速に分散することは、軍隊にとっても不利である。土地の分配が早すぎると、軍需上の負担がそれだけ早くみな農民の肩にかかって、地主、富農の肩にはかからないことになる。むしろ動産と土地を分配せず、社会改革のうえでは、小作料・利子引き下げを普遍的に実行して、農民に実益をえさせ、財政政策のうえでは、負担を合理的にわりあてて、地主、富農に多く金をださせるようにしたほうがよい。そうすれば、社会の財貨は分散せず、社会の秩序もわりあい安定するので、すべての力を集中して国民党反動派を消滅するのに有利である。一、二年、さらには三年ののちに、広大な根拠地で国民党反動派が消滅され、周囲の状況が安定し、大衆が自覚をもち組織され、戦争がずっと遠いところまでおし進めるれていったなら、そのときには、華北地方でおこなったように、動産と土地を分配する土地改革の段階にはいってもよい。小作料・利子引き下げという段階は、新しく解放された地区では、どこでも欠くことのできないもので、この段階を欠けば、われわれはあやまりをおかすことになる。華北、東北、西北の各大解放区の、敵に近接する地区でも、以上のべたような戦術をとらなければならない。
(一九四八年五月二十五日)
これは、毛沢東同志が中国共産党中央のために起草した党内指示である。
季節に注意をはらわなければならない。ことしの秋と冬の全期間、すなわちことしの九月から来年の三月までの七ヵ月間を利用して、各中央局と分局のきだめる地区で、順次つぎの諸活動をやりとげなければならない。(1)農村の状況を調査すること。(2)正しい政策にもとづいて初歩的な離党をおこなうこと。上級から農村に派遣される工作団または工作班は、まず地元の党細胞組織内のすべての積極的な人や比較的よい人と団結して、その地区の土地改革活動をいっしょに指導しなければならない。(3)貧農団と農会を組織するか、改組または充実させて、土地改革の闘争をおこすこと。(4)正しい規準にもとづいて階級所属をきめること。(5)正しい政策にもとづいて封建的な土地と封建的な財産の分配をおこなうこと。分配は最終的には、すべての主要な階層から公平で情理にかなったものと感じられ、地主階級のものからも、自分たちには生きる道があり、その保障があるのだと感じられる、という結果がえられなければならない。(6)郷(村)、区、県の三つの級の人民代表会議を確立し、三つの檄の政府委員会を選出すること。(7)土地証を交付し、土地所有権を確定すること。(8)農業税(税として納める穀物)の負担の規準を調整または改定すること。こうした規準は、公私の双方に配慮をくわえるという原則にそくしたものでなければならない。つまり、一方では、戦争を支援するのに役立ち、他方では、農民に生産の回復と発展への意欲をもつようにさせ、農民の生活を改善するのに役立つことである。(9)正しい政策にしたがって党の細胞組織の整頓をやりとげること。(10)活動の方向を、土地改革の面から、農村におけるすべての勤労人民を結集し、また地主、富農の労働力を組織して、ともに農業生産の回復と発展のために奮闘させるようにするという面にうつすこと。自由意志と等価交換という二つの原則のもとに、小規模な労働力交換組織その他の協同組織をつくりはじめること、種子、肥料、燃料を用意しておくこと、生産計画をたてること、必要な、また可能な農業資金を貸しだすこと(生産手段資金の貸しつけを主とし、貸付金はかならず返済させるようにし、救済の性質をおびた救援金とは厳格に区別する)、可能なところでは、水利計画をたてること。以上が土地改革から生産にいたる活動の全過程であるが、土地改革活動に直接たずさわるすべての同志にこうした活動の過程を理解させて、活動が一面的になるのを防ぐとともに、時機を逸せず秋と冬の二つの季節のうちに、上述の活動を全部やりとげるようにしなければならない。
上述の目的をたっするため、ことしの六月から八月までの三ヵ月のあいだに、つぎの活動をやりとげなければならない。(1)土地改革をおこなう地域をきめること。その地域は、つぎの三つの条件をもとにしてきめなければならない。第一に、不安定な遊撃地区ではなく、その地区の敵のあらゆる武装力が全部消滅されていて、周囲の状況がすでに安定していること。第二に、その地区の基本的大衆(雇農、貧農、中農)のうち少数のものだけが土地分配の要求をもっているのではなく、圧倒的多数がすでにそうした要求をもっていること。第三に、その地区の土地改革活動を大衆の自然発生的な動きにまかせるのではなく、それを確実に掌握できるだけの党の幹部が量的にも質的にも保証されていること。これら三つの条件のうちどれか一つの条件でも欠けている地区は、一九四八年に土地改革をおこなう地域にくみいれてはならない。たとえば、華北、華東、東北、西北地方の各解放区で敵に近接している地域と中原局所属の長江・淮河・黄河・漢水地域のほとんど大部分の地区は、まだ第一の条件がそなわっていないので、ことしの土地改革計画にくみいれるべきではない。来年くみいれるかどうかは、さらに状況を見たうえでないと決定できない。こうした地区では、抗日の時期の経験を十分にいかして、小作料と利子の引き下げをおこない、また種子・食糧を適度に調整する社会政策と負担を合理的にわりあてる財政政策を実施すべきである。これによって連合するか中立化させることのできるすべての社会勢力と連合し、あるいはこれを中立化させ、人民解放軍が国民党のあらゆる武装力を消滅するのをたすけ、政治的にもっとも反動的な悪覇に打撃をくわえるようにする。こうした地区では、土地を分配すべきではないし、動産も分配すべきではない。なぜなら、新解放区あるいは敵に近接している地区という条件のもとでは、そうすることはすべて、連合するか中立化させることのできるすべての社会勢力と連合し、あるいはこれを中立化させて、国民党反動勢力を消滅するという根本任務を達成するのに不利だからである。(2)成果のある幹部会議をひらくこと。土地改革と整党活動のためにひらく幹部会議では、この二つの活動についての正しい政策をのこらず十分に説明し、やってよいこととやってはならないことのけじめをはっきりさせなければならない。党中央のだした重要文書は、土地改革活動と整党活動にたずさわるすべての幹部にしんけんに学習させ、完全に理解させるようにするとともに、それを全部まもるようにさせなければならず、勝手に修正することは許されない。もし地元の実情にあわないところがあれば、修正意見をだしてもよいし、まただすべきであるが、修正はかならず党中央の同意をえたうえでするようにしなければならない。ことしの各級幹部会議をひらくまえに、各地の高級指導機関は十分な、しかも適切な用意をしておかなければならない。すなわち、事前に少数のもので相談(ひとりがおもな責任をもつ)して、問題を提起し、これを分析し、要綱を成文化し、その要綱の内容と字句を念入りに吟味(簡潔にまとめるよう注意すること、要をえない長文に反対する)しなければならない。そのうえで、幹部会議に報告し、討議をおこない、討議のなかでだされた意見をとりいれて、補足、修正をくわえたのち決定とし、同時にこの文書を全党に知らせ、できるだけ新聞紙上に公表するようにする。経験主義的なやり方、つまり、事前になんらの準備もなく、問題の提起も分析もせず、幹部会議にたいして、念入りに準備された、内容、字句ともによくねられた報告をせず、しかも、会議に出席した人びとが的はずれな、まとまりのない議論をするのにまかせて、会議の時間を長びかせ、はっきりした、ゆきとどいた結論がえられないようなやり方に反対しなければならない。各中央局、中央分局、区党委員会、省委員会、地方委員会の指導に、もしこうした有害な経験主義的なやり方があれば、かならず克服するよう心がけなければならない。政策を討議する会議は、人数があまり多くならないようにすべきであり、また前もってよく準備しさえすれば会議の時間も短縮できる。状況におうじて、だいたい十数人、または二、三十人か、四、五十人で、一週間前後の会議をひらくのが適当である。政策を伝達する会議は、人数がすこし多くてもかまわないが、時間はやはり長くならないようにすべきである。整党の性質をもつ高級、中級の幹部会議だけは、人数がすこし多く、時間がすこし長くてもかまわない。(3)九月の前半、おそくとも九月の後半までには、土地改革活動に直接たずさわる幹部が全員農村に到着し、活動をはじめなければならない。そうでないと、秋と冬の全期間を利用して土地改革、整党、政権の建設、春耕の準備を全部完成することはできない。
幹部会議においても、活動においても、幹部が具体的な状況を分析し、地区のちがい歴史的条件のちがいという具体的状況から出発して、その地区の、その時の活動任務と活動方法をきめることに習熟するように教育しなければならない。都市と農村とのちがいをはっきりさせ、旧解放区、準旧解放区、敵に近接している地域、新解放区のちがいをはっきりさせなければならない。そうでないとあやまりをおかすことになる。
封建制度が根本的に消滅され、貧農・雇農がだいたいにおいて平均数に相当する土地を手にいれ、たとえかれらと中農の所有する土地のあいだに差があっても(こうした差は許される)、その差が大きくないばあいは、土地問題がすでに解決したとみるべきで、もう土地改革の問題をとりあげる必要はない。こうした地区での中心任務は、生産の回復と発展をはかり、整党、政権の建設、前線支援の活動をなしとげることである。こうした地区の一部の農村で、もし分配または調整すべき土地がまだのこっていたり、階級所属をきめなおす必要があったり、土地証の交付がまだ終わっていなかったりすれば、もちろん実際の状況にもとづいてこれらの活動をなしとげなければならない。
土地改革を終わった地区とまだ土地改革を終わっていない地区とをとわず、すべての解放区で、ことしの秋、農民が麦をまきつけ、一部の土地の田おこしをするように指導しなければならない。冬季には、農民に肥料づくりをよびかけなければならない。こうしたことはすべて、解放区の一九四九年の農業の生産と収穫にとってきわめて重要であり、行政の力を大衆活動に呼応させて、実現をはからなければならない。
多くの地方に存在するある種の無規律状態または無政府状態、すなわち、党中央または上級党委員会の政策や戦術を勝手に修正し、ひとりよがりな、統一的意志と統一的規律にそむくきわめて有害な政策や戦術を実行したり、自分の管理するところをあたかも独立国のように考えて、活動が忙しいという口実のもとに、事前に指示もあおがなければ事後に報告もしないというあやまった態度をとったりするようなことは、断固として克服しなければならない。こうした状態が革品の利益にもたらす損害はきわめて大きい。各級党委員会はこの点についてくりかえし討議をおこない、こうした無規律状態または無政府状態をしんけんに克服して、集中することの可能な、また集中すべきいっさいの推力を党中央とその代表機関〔1〕に集中しなければならない。
中央、中央局(分局)、区党委員会(省委員会)、地方委員会、県委員会、区委員会から細胞にいたるまで、無線電信、有線電信、電話、郵便、または専門の係による送達などの通信の方法、小規模の会議(たとえば四、五人の)、区域会議(たとえばいくつかの県の)、個別的話し合いなどによる討議の方法、小巡視団(たとえば三人から五人の)や信望のあつい委員による巡視の方法などを十分活用するとともに、通信社と新聞を十分活用し、たがいに緊密な連係をとらなければならない。これによって運動の動態をつかみ、随時に情報を知らせ合い、経験を交流し、あやまりをいちはやく是正し、成果をのばすようにする。数ヵ月または半年、はては、もっと長い時間がたってからやっと、下から上へ総括的な報告をし、また上から下へ一般的な指示をだすようであってはならない。こうした報告や指示は、とかく時期おくれとなり、役にたたないか、または大して役にたたなくなる。すでにあやまりを為かしてしまって、是正しようにも間にあわないので、その損失はあまりにも大きい。全党が切実に必要としているのは、時機を逸しない、いきいきとした具体的な報告と指示である。
都市活動と農村活動、工業生産の任務と農業生産の任務を、各中央局、分局、区党委員会、省委員会、地方委員会、市委員会の指導のなかで適切に位置づけなければならない。すなわち、土地改革や農業生産にかんする指導を理由に、都市活動や工業生産にかんする指導をおろそかにしたり、ゆるめたりしてはならない。われわれはいまでは多くの大、中、小の都市とおびただしい工業、鉱業、交通関係の企業をもっているので、もし関係指導機関がこの面の活動をおろそかにしたり、ゆるめたりすれば、われわれはあやまりをおかすことになる。
〔1〕 ここにいう覚中央の代表機関とは、中央局と中央分局のことである。
(一九四八年九月、十月)
これは、毛沢東同志が中国共産党中央革命軍事委員会のために書いた、林彪、羅栄桓らの同志あての電報である。毛沢東同志がこくで提起している遼瀋戦役についての作戦方針は、のちに完全に実現された。遼瀋戦役の結果はつぎのとおりであった。(一)敵四十七万人を殲滅し、これにくわえて当時人民解放軍がその他の各戦場で勝利をおさめたため、人民解放軍は数のうえでも国民党軍より優勢になった。(二)東北地方全域を解放するとともに、北平、天津および全華北を解放するための条件をととのえた。(三)わが軍は大規模な殲滅戦をおこなう経験をつんだ。(四)東北地方か解放された結果、解放戦争にとって戦略上強固な、一定の工業の基礎をもった後方がえられ、党と人民は、しだいに経済復興の活動に転ずるうえで有利な条件を獲得した。遼瀋戦役は、中国人民解放戦争のなかで決定的な意義をもつ三つのもっとも大きな戦役の最初の一つであった。他の二つは淮海戦役と平津戦役であった。この三大戦役は、あわせて四ヵ月と十九日間にわたっておこなわれ、敵の正規軍百四十四コ師団(旅団)、非正規章二十九コ師団、計百五十四万余人を殲滅した。この期間に、他の戦場の人民解放軍もすべて攻撃を展開して、大量の敵を殲滅した。戦争のはじめの二年間に、人民解放軍は月平均約八コ旅団の敵を殲滅したが、この時期になると、人民解放軍の敵軍殲滅数はすでに、月平均八コ旅団ではなく、三十八コ旅団となった。この三六戦役で、国民党が反革命の内戦をひきおこすにあたって頼みとしていた精鋭部隊は基本的に消滅され、解放戦争の全国的な勝利の到来が大いにはやめられた。淮海戦役と平津戦役については、本巻の『淮海戦役の作戦方針について』と『平津戦役の作戦方針について』を見られたい。
われわれは五年前後(一九四六年七月からかそえて)〔2〕で国民党を根本的に打倒するつもりでいるが、これは可能性がある。われわれが毎年国民党の正規軍を約百コ旅団殲滅し、五年間で約五百コ旅団殲滅しさえすれば、この目的は達成することができる。この二年間に、わが軍は敵の正規車あわせて百九十一コ旅団、平均して、毎年九十五コ旅団半、毎月八コ旅団弱を殲滅した。今後三年間に、敵の正規章三百コ旅団以上を殲滅することが必要である。われわれは、ことし七月から来年六月までに、敵の正規軍約百十五コ旅団を殲滅することを期待している。この数を各野戦軍と各兵団〔3〕にわりあてる。華東野戦軍には、約四十コ旅団(七月に殲滅した七コ旅団をふくむ)を殲滅し、済南および江蘇省北部、河南省東部、安徽省北部のいくつかの大・中・小都市を攻略することを要求する。中原野戦軍には、約十四コ旅団(七月に殲滅したニコ旅団をふくむ)を殲滅し、湖北、河南、安徽三省のいくつかの都市を攻略することを要求する。西北野戦軍には、約十二コ旅団(八月に殲滅した一コ旅団半をふくむ)を殲滅することを要求する。華北の徐向前・周士第兵団には、閻錫山の約十四コ旅団(七月に殲滅した八コ旅団をふくむ)を殲滅し、太原を攻略することを要求する。諸君には、羅瑞卿、楊成武両兵団とあい呼応して、衛立煌、傳作義両軍の約三十五コ旅団(七月に楊成武が殲滅した一コ旅団をふくむ)を殲滅し、北平、天津、瀋陽の三点をのぞく北平=瀋陽鉄道、北平=包頭鉄道、北平=承徳鉄道、北平=保定鉄道沿線のすべての都市を攻略することを要求する。この目的を達成するには、戦役の部署配置と指揮が適切であること、戦闘と休養の調整が適切であることが決定的な鍵になる。諸君が九、十の二ヵ月あるいはそれよりいくらか長い期間内に、錦州から唐山にいたる線の敵を殲滅するとともに、錦州、山海関、唐山の諸点を攻略することができるならば、約十八コ旅団の敵を殲滅する目的は達成される。これらの敵を殲滅するため、諸君は、長春、瀋陽両地の敵にはかまわず、いまただちに主力をこの線にあてる準備をするとともに、錦州攻撃のさい、長春、瀋陽から錦州に増援される可能性のある敵を殲滅する準備をすべきである。それは、錦州、山海関、唐山の三点およびその付近の敵がたがいに孤立しているので、これを攻撃殲滅して勝利をおさめることは比較的確実であり、錦州攻撃のさい増援部隊をたたくことも比較的望みがあるからである。だが、もし諸君が長春、瀋陽から出てくる敵を攻撃しようとして、主力を新民およびその以北の地区に配置するなら、この敵は諸君からひじょうに大きな脅威をうけるので、あえて出てこようとはしないだろう。一方では、長春、瀋陽の敵は出てこないだろうし、他方では、錦洲、山海関、唐山の諸点およびその付近の敵(十八コ旅団)は、諸君の出す兵力が少なすぎるので、しりぞいて錦州、唐山の二点に集結してしまって攻撃しにくくなり、かといってまた攻撃しないわけにもいかず、時間と精力をついやすことになり、自身を受動的な立場においこむ可能性がある。それより長春、瀋陽面地の敵にはかまわず、もっぱら錦州、山海関、唐山のほうに力をそそぐほうが適切である。諸君はまた、ことし九月から来年六月までの十ヵ月間に、大戦役を三回おこなう準備をしなければならず、一回に約二ヵ月、計約六ヵ月をついやし、のこりの四ヵ月を休養の期間にあてるようにしなければならない。諸君が錦州・山海関・唐山戦役(第一回目の大戦役)をすすめているあいだに、長春、瀋陽の敵が全力をかたむけて錦州へ増援にむかうならば(諸君の主力が新民ではなく錦州付近に配置されているので、衛立煌もあえて増援にやってくるのである)、諸君は錦州、山海関、唐山の線をはなれずに敵の増援部隊をつづけざまに大量に殲滅し、衛立煌の全軍をその場で殲滅するようにすることができる。これがもっとも理想的な状況である。そこで、諸君はつぎの点に心がけなければならない。(一)錦州、山海関、唐山の三点を攻略し、この綿全体を制圧する決意をかためること。(二)これまでやったことのない大殲滅戦をやる決意をかためること、すなわち、衛立煌の全軍が増援にきたばあいには、果敢にこれと戦うこと。(三)上にのべた二つの決意に即応させるために、作戦計画を再検討するとともに、全軍の軍需(食糧、弾薬、新しい兵員など)と捕虜の処置について手配すること。以上の意見について、考慮のうえ返電されたい。
(一)諸君が錦州攻撃を開始する日からのちの一時期は、そちらの戦局が緊迫するときなので、二日または三日に一度、敵の状況(錦州を守備する敵の抵抗力、葫蘆島、錦西からの敵増援部隊と瀋陽からの敵増援部隊の進みぐあい、長春の敵軍の動向)とわが方の状況(都市攻撃の進みぐあい、都市攻撃ならびに増援阻止にさいしての死傷の程度)をわれわれに電報されたい。
(二)この時期の戦局は、諸君がかつてのべたように、きわめて有利な情勢へと発展する可能性、すなわち、綿州守備の敵を殲滅できるだけでなく、葫蘆島、錦西からの敵増援部隊の一部を殲滅し、さらに長春から逃げる敵の一部または大部分を殲滅できる可能性がひじょうに大きい。もし瀋陽からの敵増援部隊が大凌河以北の地区まで進んだとき、諸君がすでに錦州攻略を終え、兵力を移動させてこの敵を包囲できるようになっているならば、瀋陽からの敵増援部隊を殲滅することも可能である。これらすべての鍵は、一週間内外で錦州攻略をやりとげることである。
(三)わが軍の錦州攻撃の進みぐあいと東西両路の敵増援部隊の進みぐあいによって、増援阻止の部署配置の方法をきめる。もし瀋陽からの敵増援部隊の進みかたがわりにおそく(諸君が錦州を攻撃しているあいだに長春の敵が包囲突破をおこない、そしてわが第十二縦隊などの部隊に捕捉殲滅されるならば、瀋陽からの敵増援部隊はこれにまどわされて、進みかたがおそくなるか、進むのをやめるか、長春の敵を救援するためひき返すかする可能性がある)、葫蘆島、錦西からの敵増援部隊の進みかたがわりにはやいばあいには、諸君は総予備隊を第四縦隊、第十一縦隊の方面にくわえて、葫蘆島、錦西からの敵増援部隊の一部を殲滅し、まずこの敵の前進をおしとどめるようにしなければならない。もし葫蘆島、錦西からの敵増援部隊がわが第四縦隊、第十一縦隊などの部隊に牽制され、阻止されて、進みかたがきわめておそくなるかあるいは進むのをやめ、長春の敵が包囲突破をおこなわず、瀋陽からの敵増援部隊の進みかたがわりにはやく、しかも錦州の敵がすでに大部分殲滅され、全市の攻略がまちかにせまっているばあいには、諸君は瀋陽の敵を大凌河以北にふかくひきいれて、時をうつさず兵力を移動させてその敵を包囲し、そのうえでおもむろに殲滅すべきである。
(四)諸君は主な注意力を錦州作戦にむけ、できるかぎりすみやかに同市を攻略しなければならない。たとえ、その他のすべての目的がみな達成されなくても、錦州を攻略しさえすれば、諸君は主動権をにぎることになるのであって、これは偉大な勝利である。前にのべた諸点については、諸君に相応の注意をはらうようのぞんだにすぎない。とくに錦州作戦のはじめの数日間は、東西からの敵増援部隊が大きく動くことはありえないので、諸君は全精力を錦州方面の作戦にそそがなければならない。
〔1〕 遼瀋戦役は、一九四八年九月十二日から十一月二日にかけて、東北人民解放軍が遼寧省西部と瀋陽、長春地区でおこなった大戦役である。この戦役がはじまるまえの東北地方における国民党の総兵力は四コ兵団、計十四コ軍団―四十四コ師団で、それぞれ長春、瀋陽、錦州の三つの孤立した地区にひっこんでいた。東北人民解放軍は敵をのこらす東北地方で殲滅し、すみやかに全東北地方を解放するため、一九四八年九月に、主力十二コ縦隊と砲兵一コ縦隊および地方武装部隊あわせて五十三コ師団七十余万人を集結し、東北地方の広範な人民の支援のもとに、遼瀋戦役を開始した。北平=瀋陽鉄道の錦州は、東北地方と華北地方を結ぶ戦略上の要地であった。錦州地区の守備にあたっていた敵は、東北「匪賊討伐総司令部」副総司令范漢傑指揮下の八コ師団十万人あまりであった。錦州攻略は遼瀋戦役のかなめであった。東北人民解放軍は、毛沢東同志の指示にもとづいて、一コ縦隊と七コ独立師団をひきつづき長春の敵の包囲にあてるほか、六コ縦隊と砲兵一コ縦隊、戦車一コ大隊を錦州の包囲攻撃にあて、ほかに二コ縦隊を錦州西南の塔山・高橋地区に配置し、三コ縦隊を黒山・大虎山・彰武地区に配置して、それぞれ錦西、葫蘆島方面と瀋陽方面から錦州へ増援にむかう敵を阻止することにした。錦州地区の戦闘は九月十二日からはじまった。わが軍が義県を攻略し、錦州周辺の敵を掃討していたとき、蒋介石はあわてて東北地方に飛び、みずから指揮をとるとともに、北平=瀋陽鉄迫沿線の華北「匪賊討伐総司令部」の五コ師団と山東省の二コ師団を急速増援のためさしむけ、錦西にいた四コ師団とあわせて十一コ師団で十月十日から塔山のわが陣地に猛攻馨をくわえてきたが、ついにわが軍の陣地を突破することはできなかった。廖耀湘兵団(国民党第九兵団)の十一コ師団と騎兵三コ旅団は瀋陽から錦州救援にかけつけたが、黒山と大虎山の東北方地区でわが軍に阻止された。十月十四日、わが軍は錦州攻撃を開始し、三十一時間にわたる激戦ののち、敵を完全に殲滅し、東北「匪賊討伐総司令部」制総司令范漢傑、第六兵団司令蘆濬泉をはじめ十万余人を捕虜にした。錦州の解放によって、長春の敵は一部が蜂起し、その他は全部降伏した。東北地方の国民党軍の全軍覆滅の運命はこのとききまった。だが、蒋介石はあいかわらず、錦州の奪回、東北地方と華北地方の連絡打開を夢み、廖耀湘兵団にひきつづき錦州へ前進するよう厳命した。東北人民解放軍は錦州を攻略してのち、ただちに東北方にとってかえし、黒山と大虎山の南北両翼から廖耀湘兵団を包囲した。十月二十六日には、廖兵団を黒山・大虎山・新民地区で包囲し、二日一晩の激戦をへて完全に殲滅し、兵団司令廖耀湘、軍団長李濤、向鳳武、鄭庭笈をはじめ十万余人を捕虜にした。わが軍は勝利に乗じて猛烈な追撃をおこない、十一月二日には瀋陽、営口を解放し、さらに敵十四万九干余人を殲滅した。こうして、ついに全東北地方が解放された。この全戦役で、総計四十七万余人の敵を殲滅した。
〔2〕 本巻の『状況についての通報』注〔6〕を参照。
〔3〕 一九四八年十一月一日、中国共産党中央革命軍事委員会は、中国共産党中央政治局の九月会議の決定にもとづいて、これまでの各大戦路区の部隊を野戦部隊、地方部隊、遊撃部隊の三種類にわけた。野戦部隊は野戦軍に編成された。野戦軍は兵団を統轄し、兵団は軍団(すなわちもとの縦隊)を統轄し、軍団は師団を統轄し、師団は連隊を統轄した。各野戦軍はその所在地区によって、中国人民解放軍四北野戦軍、中原野戦軍、華東野戦軍、東北野戦軍、華北野戦軍にわけられた。各野戦軍に所属する兵団、軍団、師団の数は、各大戦略区の具体的な状況によってさだめられた。のちに、西北野戦軍は第一野戦軍とあらためられて二コ兵団を統轄し、中原野戦軍は第二野戦軍とあらためられて三コ兵団を統轄し、華東野戦軍は第三野戦軍とあらためられて四コ兵団を統轄し、東北野戦軍は第四野戦軍とあらためられて四コ兵団を統轄するようになった。華北野戦軍の三コ兵団は中国人民解放軍総司令部の直属となった。
(一九四八年九月二十日)
これは、毛沢東同志が中国共産党中央のために起草した決定である。
党委員会制度は、集団指導を保証し個人の一手うけおいをふせぐ、党の重要な制度である。最近、一部の(もちろん全部ではない)指導機関では、個人が一手にうけおい、個人で重要問題を解決する気風がはなはだ濃厚である。重要問題を解決するのに、党委員会の会議で決定するのではなく、個人で決定し、党委員会の委員は飾り物になっている。委員のあいだの意見の相違も解決のしようがなく、しかもこれらの相違は解決されないまま長いあいだ放置されている。党委員会の委員のあいだにたもたれているのは形式的な一致にすぎず、実質的な一致ではない。こうした状態はぜひあらためなければならない。今後は、中央局から地方委員会にいたるまで、前線委員会から旅団委員会および軍区(軍事委員会分会または指導グループ)、政府内の党グループ、民衆団体内の党グループ、通信社および新聞社内の党グループにいたるまで、すべて健全な党委員会の会議制度を確立し、あらゆる重要問題(もちろん、重要でない小さい問題、またはすでに会議で討議をすませて実施を待つばかりになっている問題のことではない)はすべて委員会の討議にかけ、会議に出席した委員がじゅうぶんに意見をのべ、明確な決定をおこなったのち、それぞれ手分けして実行に移さなければならない。地方委員会、旅団委員会以下の党委員会もそうすべきである。高級指導機関の部(たとえば宣伝部、組織部)、委員会(たとえば労働運動委員会、婦人運動委員会、青年運動委員会)、学校(たとえば党学校)、室(たとえば研究室)も指導的な人びとの会議をもつべきである。もちろん、どの会議も、時間が長すぎたり、回数が多すぎたり、こまかい問題の討議に夢中になったりして、活動のさまたげになることのないよう気をつけなければならない。複雑な、または意見のくいちがいのある重要な問題については、会議にさきだって個別的に相談し、委員たちにあらかじめ考えさせておき、会議の決定が形式に流れたり、決定がくだせなかったりするようなことのないようにしなければならない。委員会はまた常任委員会と総会の二つにわけるべきで、混同させてはならない。このほか、集団指導と個人責任利はどちらも欠いてはならないものだということに注意しなければならない。軍隊では、戦闘のさい、または状況が必要とするさいは、その首長が臨機の処置を講ずる権限をもつ。
(一九四八年十月十日)
これは、毛沢東同志が中国共産党中央のために起草した党内通達である。一九四八年九月の会議は河北省平山県西柏坡村でひらかれた。これは、日本の降伏以後参会者のもっとも多い中央政治局会議であった。これ以前には、中央委員のほとんどか各解放区に分散して解放戦争に忙殺されていたし、交通もきわめて不便だったので、こういう大きな会議をひらくことはできなかった。
(一)一九四八年九月に、党中央は政治局会議をひらいたが、これには政治局員七名が出席し、中央委員と中央委員候補十四名および重要幹部十名が参加した。このなかには華北、華東、中原、西北地方の党と軍隊の主な責任者の同志がふくまれている。これは、日本の降伏以後参会者のもっとも多い中央政治局会議であった。会議は、これまでの時期の活動を点検し、今後の時期の活動任務をきめた。
(二)一九四五年四月の党の第七回全国代表大会以後、中央委員会と全党の指導的骨幹は、抗日の時期にくらべていっそうりっぱな団結ぶりをしめしてきた。こうした団結によって、わが党は、日本降伏後の三年間に国の内外におこった多くの重大な事件に対処することができたし、またこれらの事件のなかで中国革命を大きく前進させることができた。つまり中国の広範な人民のあいだにおけるアメリカ帝国主義の政治的影響をうちくだき、国民党の再度の裏切り〔1〕とたたかい、その軍事的進攻を撃退し、人民解放軍を防御から進攻に転じさせたのである。
一九四六年七月から一九四八年六月までの二年間の戦いで、人民解放軍は敵二百六十四万を殲滅し、そのうち捕虜は百六十三万にのぼった。二年間の主な鹵獲品のうちわけは、小銃約九十万ちょう、重・軽機関銃六万四千余ちょう、軽砲八千余門、歩兵砲五千余門、山砲、野砲、重砲千百余門である。二年間に人民解放軍は百二十余万から二百八十万に増加した。そのうち、正規軍は百十八コ旅団から百七十六コ旅団に増加し、正規軍の兵力は六十一万から百四十九万に増加した。解放区の現在の面積は二百三十五万平方キロで、全国の総面積九百五十九万七千平万キロの二四・五パーセントをしめ、人口はすでに一億六千八百万にたっし、全国の総人口四億七千五百万の三五・三パーセントをしめ、県都以上の大・中・小の都市は五百八十六で、全国の都市総数二千九の二九パーセントをしめている。
わが党がだんこ農民を指導して土地制度の改革を実現したので、いまでは約一億の人口をもつ地域で土地問題が徹底的に解決され、地主階級と旧式富農の土地はほぼ均等に農村の人民、まず貧農・雇農に分配された。
わが党の党員は、一九四五年五月の百二十一万から、現在では三百万に増加している(わが党の党員は一九二七年の国民党の裏切り以前は五万で、一九二七年に国民党が裏切ってのちは約一万にへり、一九三四年には土地革命が順調に発展したため三十万にふえ、一九三七年には南方の革命が失敗した〔2〕ため約四万にへり、一九四五年には抗日戦争が順調に発展したため百二十一方に増加し、さらに現在では反蒋戦争と土地革命が順調に発展しているため三百万に増加している)。党はここ一年間、一方では、党内にある程度存在する階級構成の不純(地主・富農分子)、思想の不純(地主・富農思想)、作風の不純(官僚主義と命令主義)というよくない現象を基本的に克服するとともに、ひきつづき克服につとめている。他方では、農民大衆を大規模に立ちあがらせて土地問題を解決する闘争をすすめたことにともなってうまれた、部分的にではあるが相当多くみられる中農の利益の侵害、一部の私営商工実の破壊、および一部の地方での反革命弾圧における政策上の若干の限界からの逸脱などの「左」翼的なあやまりをすでに克服するとともに、ひきつづき克服につとめている。これまでの三年間、とりわけこの一年間の偉大なはげしい革命闘争をへて、また自己のあやまりをしんけんに是正したことによって、全党の政治的成熟の度合いは大きく前進した。
国民党地域における党の活動は大きな成果をおさめている。このことは、各大都市で広範な労働者、学生、教師、教授、文化人、市民、民族資本家をわが党の側に獲得し、すべての民主政党、人民団体をわが党の側に獲得して、国民党の圧迫をはねかえし、国民党を完全に孤立化させていることにあらわれている。南方のいくつかの大きな地域(福建・広東・江西辺区、湖南・広東・江西辺区、広東・広西辺区、広西・雲南辺区、雲南省南部地区、安徽・浙江・江西辺区、浙江省の東部地区と南部地区)では、遊撃戦争の根拠地をうちたてて、これらの地域の遊撃部隊を三万人以上に拡大した。
この二年のあいだに、とりわけこの一年のあいだに、人民解放軍のなかでは、秩序だった、指導のある、戦闘員も指揮員も全員参加する民主運動をおこない、自己批判をくりひろげ、軍隊内における官僚主義を克服するとともに、ひきつづき克服につとめており、かつて一九二七年から一九三二年まで実施されて効果をおさめたが、のちに廃止されていた軍隊内における各級党委員会制度と中隊内における兵士委員会制度を復活した。そのため、軍隊の指揮員、戦闘員の政治的積極性と自覚は大いに高まり、戦闘力と規律性は大いに強まり、国民党軍からきたおよそ八十万の捕虜を解放戦士〔3〕に改造して、その銃口を国民党にむけかえさせた。この二年間に解放区から、土地を手にいれた農民およそ百六十万人を人民解放軍に動員した。
われわれはすでにかなり多くの鉄道、鉱山、工業をもっており、わが党はいま工業の管理、商業の経営について大規模な学習をすすめている。ニ年間に、われわれの軍事工業はかなりのびてきた。しかし、まだ戦争の需要を満たすまでにはいたっていない。われわれには苦千の重要な原料と機械が欠乏しており、鋼鉄はまだほとんどつくれない。
われわれは、華北の四千四百万の人口をもつ地域に常と党外民主人士との協力による統一的な人民政府をすでに樹立し、また前線支援を有利にするために、この政府によって華北、華東(人口四千三百万)、西北(人口七百万)の三つの地域の経済、財政、商業、金融、交通、軍事工業の指導と管理の仕事を統一することを決定しており、さらにちかい将来、東北、中原両地域でのこれらの仕事も統一する予定である。
(三)中央政治局会議は、この二年間の戦いの成果と敵味方の情勢全般からみて、五百万の人民解放軍を建設し、五年前後(一九四六年七月から数えて)のあいだに、敵の正規軍五百コ旅団(師団)前後(年平均百コ旅団前後)を殲滅し、敵の正規軍、非正規軍、特種部隊あわせて七百五十万前後(年平均百五十万前後)を殲滅し、国民党の反動支配を根本からくつがえすことがじゅうぶん可能であると考える。
国民党の軍事力は、一九四六年七月には四百三十万であったが、二年間に三百九万が殲滅され、あるいは逃亡し、二百四十四万が補充されて、現在三百六十五万である。今後三年間にまだ三百万は補充できるであろうが、このあいだに殲滅されたり逃亡したりするものは四百五十万前後にたっするものと予想される。そうすると、五年間の戦いの結果として、国民党の軍事力は二百万前後のこるだけとなろう。わが軍は現在二百八十万であるが、今後三年間に捕虜のなかから百七十万(捕虜総数の六〇パーセントとして算出)をわが軍に参加させ、二百万人の農民を軍隊に動員するつもりなので、五年間の戦いの結果、わが軍は損耗分をさしひいても五百万ちかくにたっするであろう。五年間戦ってこのような結果がうまれれば、国民党の反動支配はわれわれによって根本からくつがえされたといえる。
この任務を達成するためには、毎年敵の正規軍百コ旅団(師団)前後を殲滅し、五年間にあわせて敵の正規車五百コ旅団(師団)前後を殲滅しなければならない。これがすべての問題を解決する鍵である。われわれが、第一年目に殲滅した敵の正規軍は九十七コ旅団(師団)に相当し、第二年目に殲滅した敵の正規軍は九十四コ旅団(師団)に相当しており、この状況からみると、こうした目標は達成できるばかりか、超過達成することもできる。国民党の現有軍事力三百六十五万のうち七〇パーセントは第一線(長江と巴山山脈の線以北、蘭州と賀蘭山脈の線以東、承徳と長春の線の以南)にいて、後方(長江と巴山山脈の線以南、蘭州と賀蘭山脈の線以西をふくむ)にはおよそ三〇パーセントしかいない。国民党の現有正規軍二百八十五コ旅団百九十八万人のうち、第一線にいるのは二百四十九コ旅団百七十四万二千人(北部戦線に九十九コ旅団六十九万四干人、南部戦線に百五十コ旅団百四万八千人)で、後方には三十六コ旅団二十三万八千人しかおらず、しかも大部分が新しく編成された部隊で、戦闘力に欠けている。したがって、党中央は、人民解放軍が第三年目もやはり全部長江以北と華北、東北地方で戦うことを決定した。敵殲滅の任務を遂行するためには、計画的に慎重に、解放区から人民を軍隊に動員するほか、大量の捕虜をつかわなければならない。
(四)わが党、わが軍はこれまで長いあいだ、敵に分割された、遊撃戦争の、しかも農村という環境にあったので、各地方の党と軍の指導機関に大きな自治権をもつことを認めた。こうした状況は、各地方の党組織と軍隊が自発性と積極性を発揮し、長期にわたる重大な難局をのりきるのを可能にしたが、同時にまた、ある種の無規律状態と無政府状態、地方主義と遊撃主義をうみ、革命事業に損害をあたえた。当面の情勢は、わが党がこれらの無規律状態と無政府状態を克服し、地方主義と遊撃主義を克服することに最大の努力をはらい、そして集中することの可能な、また集中すべきいっさいの権力を党中央とその代表機関の手に集中し、戦争を遊撃戦の形態から正規戦の形態へ移行させるようもとめている。この二年間に、軍隊と作戦の正規化の度合いは一歩すすんだが、まだ不十分で、第三年目にはさらに大きく前進させなければならない。そのためには、あらゆる努力をはらって鉄道、自動車道路、汽船などの近代的な交通機関を修理し、つかいこなし、都市と工業にたいする管理の仕事をつよめ、党の活動の重心をしだいに農村から都市へ移していかなければならない。
(五)全国の政治権力を奪取するという任務は、わが党に軍事、政治、経済、党務、文化・教育などの諸活動にたずさわることのできる多くの幹部を早急に計画的に養成するようもとめている。戦争の第三年目のうちに、三万人ないし四万人の下級、中級、高級の幹部を用意しておかなければならない。これによって第四年目に軍隊が前進するときに、これらの幹部が軍隊といっしょに前進し、およそ五千万ないし一億の人口をもつ、新しくひらかれる解放区を秩序ただしく管理できるようにする。中国は土地がきわめて広く、人□がきわめて多く、革命戦争の発展がきわめてはやいのに、われわれの用意している幹部だけではまだまだ足りず、これは大きな困難である。第三年目のうちに用意する幹部は、大部分を旧解放区にたよらなければならないが、同時にまた、国民党の支酷する大都市からもこれを吸収するように心がけなければならない。国民党地域の大都市には、われわれの活動に参加できる多くの労働者と知識人がおり、その文化水準は一般的に、旧解放区の労働者・農民の文化水準にくらべていくぶん高い。国民党の経済、財政、文化、教育機関で働いている人びとは、反動分子をのぞいて、大量につかうべきである。解放区の学校教育は、回復させ発展させなければならない。
(六)政治協商会議招集のスローガン〔4〕は、国民党地域のすべての民主政党、人民団体、無党派民主人士をわが党の周囲に結集させた。現在、われわれは、国民党地域のこれらの政党、団体の代表的人物が解放区にくるよう手配しており、一九四九年には中国のすべての民主政党、人民団体、無党派民主人士の代表たちの会議をひらいて、中空人民共和国臨時中央政府を樹立するつもりである。
(七)解放区の工業生産と農業生産を回復させ発展させることは、戦争を支援し、国民党反動派にうち勝つうえでの重要な環である。中央政治局会議は、一方では、人民解放軍の国民党地域への進攻を勝利のうちに進展させて、戦争に必要な人的資源と物的資源を国民党側と国民党地域から大量に入手しなければならず、他方では、あらゆる努力をかたむけて、旧解放区の工業生産と農業生産を回復させ発展させて、それを現在の水準よりいくらか増大させなければならないと考える。この二つの面の任務をともにやりとげてはじめて、国に党反動支肘の打倒は保証されるが、そうでなければ不可能である。
この二つの面の任務を遂行するにあたって、われわれには多くの困難がある。われわれの大軍が国民党地域にはいって、後方がないかまたは半ば後方のない作戦を遂行するとなると、あらゆる軍事上の需要は全部または大部分を現地でまかなわなければならない。また工業生産と農業生産を回復させ発展させるには、わりあいすぐれた組織活動が必要である。解放区内の市場をよく指導し、外部との商取り引きを統制し、一部の機械や原料の不足の問題を解決し、なによりもまず交通、運輸の問題および鉄道、自動車道路、水路の修復という問題を解決する必要がある。当面、解放区の経済と財政は大きな困難をかかえている。われわれの困難は国民党の困難にくらべればずっと小さいが、困難のあることはたしかである。それは主として、物資と兵員が戦争の需要を満たすにいたらず、通貨の膨脹がかなりの程度にたっしていることで、われわれの組織活動、とりわけ財政・経済面の組織活動の不十分なことがこうした困難をうみだす原因の一つとなっている。われわれは、これらの困難は克服できると信じているし、またこれらの困難をかならず克服しなければならない。困難を克服する闘争のなかで、かならず浪費に反対し、節約を励行しなければならない。すなわち、前線では鹵獲品を公のものとし、自己の兵員を大切にし、兵器を大切にし、弾薬を節約し、捕虜を保護するよう心がけること、後方では、政府の支出をへらし、すぐには必要としない人力、畜力の動員をへらし、会議についやす時間をへらし、農期を逸しないよう農業の季節に注意をはらい、工業生産の生産費をきりつめ、労働の生産性をたかめ、全党をあげて工業生産と農業生産の管理や商業経営を学び、できるかぎり各解放区の経済を適切に組織して市場の盲目性を克服し、また投機をはたらき市場を操縦するすべてのものにたいして必要な闘争をおこなうことである。これらすべてのことに着手していけば、われわれの当面する困難はかならず克服することができる。
(八)幹部の理論水準をたかめ、党内の民主生活を拡大することが、上述の任務を達成するうえでの重要な環である。中央政治局会議は、党内の民主生活の拡大についての特別の決議〔5〕を採択した。幹部の理論水準をたかめる問題についても討議をおこない、会議に出席した同志の注意をうながした。
(九)第六回全国労働大会がすでに成功裏に開催されて、中華全国総工会が成立した〔6〕。来年の上半期には、全国婦人代表大会をひらいて全国民主婦人連合会を成立させ〔7〕、全国青年代表大会をひらいて全国青年連合会を成立させ〔8〕、また新民主主義青年団〔9〕をつくることになっている。
〔1〕 国民党の最初の裏切りは一九二七年であった。ここにいう「再度の裏切り」とは、抗日戦争が終わったのち国民党が反革命の全面的内戦をおこしたことをさす。
〔2〕 南方の革命の失敗とは、王明に代表される党内の第三次「左」翼路線によってもたらされた、一九三四年の赤軍の五回目の反「包囲討伐」戦争の失敗と、南方の各革命根拠地からの赤軍主力の撤退をさす。
〔3〕 人民解放軍の捕虜となり、国民党反動軍隊のくびきから解放され、教育をうけて、わが軍に参加したもと国民党軍の兵士をさす。
〔4〕 政治協商会議開催のスローガンは毛沢東同志が提起したものである。一九四八年五月一日に中国共産党中央が公表した「メーデー記念スローガン」のなかに、毛沢東同志の提案にもとづいて、「人民代表大会の招集と民主連合政府の樹立について討議し、これを実現させるため、各民主政党、各人民団体、賢明達議の土はすみやかに政治協商会議を開催せよ」というスローガンがかかげられた。このスローガンはたちまち、国民党支配地域の民主政党、人民団体、無党派民主人士のあいだに熱烈な反響をよびおこした。政治協商会議は、のちに新政治協商会議とよばれ、その後さらに中国人民政治協商会議と改称された。本巻の『新政治協商会議準備会での演説』注〔1〕を参照。
〔5〕 「党の各級代表大会と代表会議開催についての中国共産党中央の決議」をさす。この決議は、党内の正常な民主生活を拡大し確立する問題について、つぎのように規定している。すなわち、各級党委員会は党規約にしたがって党の各級代表大会と代表会議を定期的にひらくこと、このような会議にたいしては党規約にさだめられている一切の権限をあたえ、これをおかさないこと、会議はじゅうぶんな準備をととのえたうえでひらくこと、党内に意見のちかいから論争がおこったはあいには、ときをうつさずにありのまま上級に報告し、そのうち重要な論争は党中央に報告すること。このほかさらに、党委員会制度を健全化するために、各級党委員会は、重要問題を個人で決定すべきではなく、党委員会の集団討議にかけて決定する制度をかならず実行すること、集団指導と個人責任制のどちらも欠いてはならないことを規定している。
〔6〕 第六回全国労働大会は、一九四八年八月に哈爾浜でひらかれた。この大会で、中国労働者階級の統一的な全国組織である中華全国総工会が再建された。そのまえの五回の全国労働大会は、一九二二年、一九二五年、一九二六年、一九二七年、一九二九年にひらかれた。
〔7〕 全国婦人代表大会第一回大会は、一九四九年三月に北平でひらかれた。この大会で、全国の婦人の大衆組織の指導機関である中華全国民主婦人連合会が成立した。この連合会はのちに中華全国婦人連合会と改称された。
〔8〕 全国青年代表大会第一回会議は、一九四九年五月に北平でひらかれた。この大会で、中華全国民主青年連合総会が成立した。この連合総会はのちに中華全国青年連合会と改称された。
〔9〕 新民主主義青年団は、一九四九年一月に中国共産党中央の決定によってつくられた。その第一回全国代表大会は、一九四九年四月に北平でひらかれた。一九五七年五月、町の第三回代表大会のさい、新民主主義青年団は共産主義青年団と改称された。
(一九四八年十月十一日)
これは、毛沢東同志が中国共産党中央革命軍事委員会のために起草した、華東野戦軍と中原野戦軍、華東局と中原局あての電報である。淮海戦役は、中国人民解放戦争のなかで決定的な意義をもつ三つのもっとも大きな戦役の一つであった。この戦役は、華東野戦軍、中原野戦軍および華東、中原の地方部隊か協同しておこなったものである。この戦役では、計五十五万五千余人の国民党軍を殲滅した。毛沢東同志がこの電報のなかで提起した戦役方針は完全な成功をおさめた。ただ、戦役の発展か予想より順調であったため、その勝利も予想よりはやく、また大きかった。この戦役以後、国民党反動政府の首都南京は人民解放軍の直接の脅威にさらされるようになった。淮海戦役は一九四九年一月十日に終わり、一月二十一日には蒋介石が「引退」を宣言し、南京の国民党反動支配集団はこのときから瓦解状態におちいった。
淮海戦役〔1〕の部署配置について、ここにいくつかの意見をのべて、諸君に考えてもらうことにする。
(一)本戦役の第一段階の重点は、兵力を集中して黄伯韜兵団を殲滅し、中間突破を遂行して、新安鎮、運河駅、曹八集、[山+尺]県、棗荘、臨城、韓荘、[シ+朮]陽、[丕+”おおざと”]県、[炎+”おおざと”]城、台児荘、臨沂などを占領することである。この目的をとげるためには、ニコ縦隊で敵の一コ師団を殲滅する方法をとり、計六ないし七コ縦隊で、敵の第二十五師団、第六十三師団、第六十四師団を分断して殲滅する。五ないし六コ縦隊で、増援部隊の阻止と攻撃にあたる。一ないしニコ縦隊で、臨城・韓荘地区の李瀰部隊の一コ旅団を殲滅するとともに、できるかぎり臨城、韓荘を占領して、北側から徐州をおびやかし、邱清泉、李瀰両兵団が全力をあげて東部へ救援にでられないようにする。一コ縦隊に地方兵団をくわえて山東省西南部に配置し、徐州、商邱区間を側面攻撃して、邱清泉兵団の一部を牽制する(孫元良の三コ師団にいま東進の動きがあるので、劉伯承、陳毅、鄧小平はただちに鄭州、徐州の線を攻撃する部署配置をおこない、孫元良兵団を牽制するようのぞむ)。一ないし二コ縦隊をもって、宿遷・[目+隹]寧・霊璧地区で活動し、李瀰兵団を牽制する。以上の部署配置はつまり、半分以上の兵力をもって邱清泉、李瀰両兵団に対処し、これを牽制し、阻止し、その一部を殲滅しなければ、黄伯韜兵団三コ師団を殲滅する目的はたっせられないということである。この部署配置は、九月の、済南攻撃のさい増援部隊をたたく〔2〕部署配置とほぼおなじであるが、こうしなければ黄伯韜兵団三コ師団を殲滅する目的はたっせられない。第一段階は、戦役開始後二週間ないし三週間で終わらせるよう努力する。
(二)第二段階では、約五コ縦隊で海州・新浦・連雲港・灌雲地区の敵を攻撃し、殲滅するとともに、これらの都市を占領する。そのさい、青島の第五十四師団、第三十二師団が海路から海州・新浦・連雲港地区におくられる可能性が大きい〔3〕と考えられる。同地区では、もとからいた一コ師団とあわせて計三コ師団になる。したがって、われわれはやはり、九月の、済南攻撃のさい増援部隊をたたく部署配置とおなじ原則をとり、五コ縦隊で攻撃にあたり、その他の兵力(主力)で邱清泉、李瀰両兵団を牽制する。この段階も二週間ないし三週間で終わらせるようにする。
(三)第三段階では、淮陰・淮安一帯での作戦が予想される。そのさい、敵は約一コ師団の兵力をふやしているだろうから(改編第八師団をいま烟台から南に輸送中である)、これもまた、約五コ縦隊の兵力で攻撃し、その他の主力で増援部隊を攻撃し、牽制する準備をする。この段階もほぼ二週間ないし三週間かかる。
三つの段階には、ほぼ一ヵ月半ないしニヵ月の期間が必要である。
(四)諸君は十一月、十二月のニヵ月で淮海戦役を完了する。明年一月には休養と整備・訓練をおこなう。三月から七月までに劉伯承・鄧小平との協同作戦によって、敵を長江沿岸の各拠点まで追撃してそこを守るようにさせる。秋には、諸君の主力はたぶん渡河作戦を決行できるだろう。
〔1〕 淮海戦役は、人民解放軍が、徐州を中心に、東は海州から西は商邱、北は臨城(いまの薛城)から南は淮河にいたる広大な地域でおこなった決定的な意義をもつ戦役であった。この地域に集結した国民党軍は、徐州「匪賊討伐総司令部」司令官劉峙、副司令官杜聿明指陣下の四コ兵団と三つの綏靖区の部隊、それに、のちに華中から増援された黄維兵団をくわえて五コ兵団と三つの綏靖区の部隊であった。この戦役に参加した人民解放軍は、華東野戦軍の十六コ縦隊、中原野戦軍の七コ縦隊、華東軍区と中原車区の地方部隊ならびに華北軍区に所属する河北・山東・河南軍区の地方部隊などあわせて六十余万人であった。戦役は、一九四八年十一月六日から一九四九年一月十日まで六十五日間にわたっておこなわれ、国民党の精鋭部隊二十二コ軍団―五十六コ師団(うち四コ師団半が蜂起した)計五十五万五干人を殲滅し、このほかさらに、南京方面から増援されてきた劉汝明、李延年両兵団を撃退して、長江以北の華東地区、中原地区を基本的に解放した。淮海戦役は、全体が三つの段階にわけられる。第一段階は、十一月六日から二十二日までで、華東野戦軍は、中原野戦軍の協力のもとに、徐州以東の新安鎮・碾荘地区で黄伯韜兵団を包囲殲滅し、黄伯韜を戦死させ、碾荘以東の天水=連雲港鉄道の両側と天津=滝口鉄道の徐(州)・蚌(埠)区間の両側、徐州以西、以北の広大な地域を解放した。国民党第三綏靖区に所属する三コ師団半、計二万三千余人が台児荘・棗荘地区で蜂起した。第二段階は十一月二十三日から十二月十五日までで、中原野戦軍は、華東野戦軍の主力の協力のもとに、宿県西南方の双堆集地区で黄維兵団を包囲殲滅し、兵団司令黄維と副司令呉紹周を捕虜にした。同兵団の一コ師団が蜂起した。同時にまた、徐州から西に逃げた孫元良兵団を殲滅し、孫元良は身一つでのがれた。第三段階は一九四九年一月六日から十日までで、華東野戦軍は、中原野戦軍の協力のもとに、永城東北の青竜集・陳官荘地区で、杜聿明の直接指揮のもとに徐州から西にのがれた邱清泉、李瀰両兵団を包囲殲滅し、李瀰だけは逃げたが、杜聿明は捕虜となり、邱清泉は戦死した。こうして、きわめて大きな規模をもつ淮海戦役は勝利をもって終わった。
〔2〕 済南攻撃のさい増援部隊をたたくというのは、一九四八年九月中旬に人民解放軍が済南戦役でとった作戦方法である。済南は山東地区における国民党の戦略上の要地であった。国民党は、第二綏靖区の十一万余人をもって済南を守備していた。同時に、徐州地区に配置した主力二十三コ旅団約十七万人をいつでも北に増援する準備をととのえていた。華東野戦軍は七コ縦隊をもって都市攻撃集団を組織し、八コ縦隊をもって増援部隊攻撃集団を組織した。一九四八年九月十六日の夜、わが軍は済南を守備する敵にたいして攻撃を開始した。八昼夜にわたる連続攻撃の結果、二十四日には守備の敵をせんぶ殲滅し(うち一コ軍団は蜂起した)、国民党第二綏靖区司令官王耀武を捕虜にした。わが軍がすみやかに済南を攻略したため、徐州の敵はあえて北への増援にむかおうとはしなかった。
〔3〕 結局、この敵は出てくることができなかった。
(一九四八年十一月)
これは、毛沢東同志がヨーロッパ共産党・労働者党情報局の機関紙『恒久平和のために、人民民主主義のために』に書いた十月革命三十一周年を記念する論文である。この論文は同紙の一九四八年第二十一号に発表された。
全世界の自覚した労働者階級とすべての真に革命的な人びとが喜びにあふれてソ連の偉大な十月社会主義革命三十一周年を記念しているこのときにあたり、わたしは、スターリンが一九一八年、十月革命一周年記念にさいして書いた有名な論文をおもいおこしている。スターリンは、この論文のなかでこういっている。「十月革命の偉大な世界的意義は、主としてつぎの諸点にある。すなわち十月革命が、(一)民族問題の範囲をひろげ、これを、ヨーロッパにおける民族的抑圧にたいする闘争という局部的な問題から、被抑圧民族と植民地、半植民地の帝国主義からの解放という全般的な問題に転化させたこと、(二)西欧と東洋の被抑圧民族を、帝国主義とのかがやかしい闘争という共通の軌道にのせて、この解放のための広範な可能性と現実的な道をひらき、それによってかれらの解放事業をいちじるしく容易にしたこと、(三)まさにこのことによって社会主義的西欧と奴隷的東洋とのあいだに橋をかけ、世界帝国主義にたいする、西欧のプロレタリアからロシア革命をへて東洋の被抑圧民族にいたる新しい革命戦線をうちたてたことである。」〔1〕
歴史はスターリンの指摘した方向にそって発展している。十月革命は、世界人民の解放事業に広範な可能性と現実的な道をひらいた。そして、十月革命は、世界帝国主義にたいする、西欧のプロレタリアからロシア革命をへて東洋の被抑圧民族にいたる新しい革命戦線をうちたてた。この革命戦線は、レーニンの、そしてレーニンの死後はスターリンのすぐれた指導のもとにうちたてられ、発展してきたものである。
革命をおこなうからには、革命政党が必要である。革命的な政党なしには、マルクス・レーニン主義の革命理論と革命的風格にもとづいてうちたてられた革命政党なしには、労働者階級と広範な人民大衆を指導して帝国主義とその手先にうち勝つことはできない。マルクス主義がうまれてからの百余年間においても、ロシアのボリシェビキが十月革命を指導し、社会主義建設を指導し、ファシストの侵略にうち勝つという手本をしめしたことによって、はじめて世界的な範囲にわたって、新しい型の革命政党がうちたてられ、発展をとげたのである。こうした革命政党がうまれてから、世界革命の様相は変わった。この変化はひじょうに大きく、ふるい世代の人びとにはまったくおもいもよらないような変革がすさまじい勢いであらわれるほどであった。中国共産党はソ連共産党を手本にしてつくられ、発展してきた党である。中国共産党が誕生していらい、中国革命の様相はまったく一新した。これはあさるかな事実ではないだろうか。
ソ連を先頭とする世界の革命的統一戦線はファシズムのドイツ、イタリア、日本にうち勝った。これは十月革命の結果である。もし十月革命がなかったとしたら、もしソ連共産党がなく、ソ連がなく、ソ連の指導する、西方と東方の、帝国主義に反対する革命的統一戦線がなかったとしたら、ファシズムのドイツ、イタリア、日本とその手先どもにうち勝つことが考えられただろうか。十月革命が全世界の労働者階級と被抑圧民族の解放事業に広範な可能性と現実的な道をきりひらいたとすれば、反ファシズム第二次世界大戦の勝利こそは、全世界の労働者階級と被抑圧民族の解放事業にいっそう広範な可能性と、いっそう現実的な道をきりひらいたのであった。第二次世界大戦の勝利の意義についての過小評価は、きわめて大きなあやまりとなるであろう。
第二次世界大戦の勝利後、アメリカ帝国主義および各国におけるその手先どもは、ファシズムのドイツ、イタリア、日本の地位にとってかわって、新たな世界戦争の準備に狂奔し、全世界をおびやかしているが、これは資本主義世界の極度の腐敗とかれらのさしせまった滅亡にたいする恐怖心を反映している。この敵はまだ力をもっている。したがって、それぞれの国におけるあらゆる革命勢力は団結しなければならず、すべての国の革命勢力は団結しなければならず、ソ連を先頭とする帝国主義反対の統一戦線を結成するとともに、正しい政策にしたがわなければならない。そうでなければ、勝利を得ることはできない。この敵は、基礎がよわく、内部は四分五裂になっており、人民から遊離し、ぬけだしようのない経済危機をかかえている。したがって、われわれはかれらにうち勝つことができる。敵の力にたいする過大評価と革命の力にたいする過小評価は、きわめて大きなあやまりとなるであろう。
中国共産党の指導のもとに、アメリカ帝国主義の中国にたいする気違いじみた侵略に反対し、内戦によって中国人民を虐殺する売国、専制の国民党反動政府に反対することを目標とする、偉大な中国の人民民主主義革命は、すでにきわめて大きな勝利をおさめている。中国共産党の指導する人民解放軍は、一九四六年七月から一九四八年六月までの二ヵ年間に、すでに、国民党反動政府の四百三十万の軍隊の進攻を撃退し、しかも防御から進攻に転じた。二年間の戦いをつうじて(一九四八年七月以後の進展はまだ計算にふくまれていない)、人民解放軍は国民党の軍隊二百六十四万を捕虜にし、または殲滅した。中国の解放区の現有面積は二百三十五万平方キロで、全国の総面積九百五十九万七千平方キロの二四・五パーセントをしめ、現有人口は一億六千八百万で、全国の総人口四億七千五百万の三五・三パーセントをしめ、現有都市は五百八十六で、全国の都市総数二千九の二九パーセントをしめている。わが党がだんこ農民を指導して土地制度の改革を実現したので、いまではほぼ一億の人口をもつ地域で土地問題が徹底的に解決されており、地主階級と旧式富農の土地はほぼ均等に農民、まず貧農と雇農に分配されている。中国共産党の党員は、一九四五年の百二十一万人から現在では三百万人に増加している。中国共産党の任務は、全国的範囲にわたって、すべての革命勢力を結集し、アメリカ帝国主義の侵略勢力を追いだし、国民党の反動支配をうちたおし、統一された、民主的な人民共和国をうちたてることである。われわれのまえにはなお幾多の困難があることを知っている。だが、われわれはこれらの困難をおそれない。困難はかならず克服しなければならないし、また克服できるとわれわれは考えている。
十月革命の光がわれわれを照らしている。苦難の中国人民は解放をかちとらなければならず、また解放をかちとり得ることをかたく信じている。かつては孤立していた中国の革命闘争は、十月革命が勝利してからはもはや孤立を感じなくなった。われわれには全世界の共産党と労働者階級の援助がある。中国革命の先駆者である孫中山先生はこの点をよく知っていて、ソ連と連合して帝国主義に反対するという政策をさだめた。かれは臨終にソ連にあてて手紙を書き、それを遺言の一つとした。孫中山の政策にそむき、帝国主義の反革命戦線の側に立ち、自国の人民に敵対しているのは国民党の蒋介石匪賊一味である。だが、人びとは、国民党のあらゆる反動支配が中国人民によって徹底的に粉砕されるのを遠からず見ることができるであろう。中国人民は勇敢であり、中国共産党も勇敢である。かれらはかならず全中国を解放する。
〔1〕 スターリンの『十月革命と民族問題』の第三節「十月革命の世界的意義」から引用。
(一九四八年十一月十四日)
これは、毛沢東同志が新華社にかわって書いた論評である。この論評のなかで、毛沢東同志は、遼瀋戦役以後の敵味方の力の変化という新しい情勢にもとづいて、人民解放戦争の勝利の時期についてあらためて評価し、一九四八年十一月から、あと一年前後の時間があれば、国民党の反動支配を打倒できると指摘した。その後の中国の軍事情勢の発展は、毛沢東同志のこの見通しを完全に立証した。
中国の軍事情勢はいまや新しい転換点にたっした。すなわち、戦争する双方の力関係に根本的な変化が生じたのである。人民解放軍は、質のうえではやくから優勢をしめていたが、いまでは数のうえでも優勢をしめるようになった。これは、中国革命の成功と中国における平和の実現がすでに間近にせまっていることをしめすものである。
国民党の軍隊は、戦争第二年目の末、つまりことしの六月末には、まだ総数約三百六十五万人を有していた。この数は、一九四六年七月に国民党が全国的な内戦をひきおこしたときの四百三十万人からみると、六十五万人少なくなっている。国民党の軍隊は二年間の戦争で、およそ三百九万人もの死傷者、捕虜、逃亡者をだした(そのうち死傷者、捕虜は二百六十四万人)が、この間にまた、約二百四十四万人を補充したので、そのために減った数はわずか六十五万人となっているのである。ところが、最近激変がおこった。戦争第三年目のはじめの四ヵ月で、つまりことしの七月一日から十一月二日の瀋陽解放までに、国民党の軍隊は百万人をうしなった。四ヵ月間の国民党の軍隊の補充状況はまだあきらかでないが、かりに三十万人補充できたとしても、減った数は七十万人となる。そうすると、国民党の軍隊は、陸海空軍、正規軍と非正規軍、作戦部隊と後方勤務機関をふくめて、全部で、いま二百九十万人前後をかぞえるにすぎない。人民解放軍のほうは、一九四六年六月の百三十万人から、一九四八年六月の二百八十万人にふえ、いまではさらに三百余万人にふえている。こうした事情から、国民党の軍隊が数のうえで長いあいだしめていた優勢は急速に劣勢へと転じた。これは、この四ヵ月間に人民解放軍が全国の各戦場で英雄的に戦った結果であり、とりわけ南部戦線の[目+隹][木+巳]戦役〔1〕、済南戦役〔2〕、北部戦線の錦州、長春、遼西、瀋陽の諸戦役〔3〕の結果である。国民党が必死になって非正規軍を正規軍に編入したため、国民党の正規軍は、ことしの六月末現在、なお二百八十五の師団名をもっていた。この四ヵ月間に、合計すると八十三コ師団に相当する大隊以上の部隊が人民解放軍に殲滅され、そのうち六十三コ師団が師団ごと殲滅された。
こうして、われわれが当初予測していた戦争の進行過程は、いちじるしく短縮されることになった。当初の予測では、一九四六年七月からおよそ五年前後の時間があれば、国民党反動政府を根本的に打倒できることになっていた。いまになってみると、これからあと一年前後の時間があれば、国民党反動政府を根本的に打倒することができる。全国のすべての地方で反動勢力を消滅し、人民の解放をなしとげるには、もうすこしながい時間が必要であろう。
敵はいま急速に崩壊しているが、共産党員、人民解放軍、全国各界の人民がなお一致団結し、いっそう努力しなければ、最後的に、完全に、反動勢力を消滅し、全国にわたって統一した、民主的な人民共和国をうちたてることはできない。
〔1〕 [目+隹][木+巳]戦役は、河南省東部戦役ともいい、人民解放軍が河南省東部の開封と[目+隹]県・[木+巳]県地区でおこなった戦役である。この戦役は一九四八年六月十七日にはじまった。六月二十二日にわか軍は開封を攻略した。蒋介石は不利な戦局を挽回するために、みずから前線におもむいて指揮をとり、邱清泉、区寿年、黄伯韜の三コ兵団を集結して、数路から開封を攻撃してきた。華東野戦軍の六コ縦隊、中原野戦軍の二コ縦隊、広東・広西縦隊は、六月二十七日から七月六日までに、敵の区寿年兵団と黄伯韜兵団を[目+隹]県・[木+巳]県地区で包囲し、九昼夜にわたる激戦ののち区寿年兵団の二コ師団―六コ旅団と黄伯韜兵団の一部、あわせて九万余人を殲滅し、兵団司令区寿年と改編第七十五師団の師団長沈澄年を捕虜にした。
〔2〕 済南戦役については、本巻の『淮海戦役の作戦方針について』注〔2〕を参照。
〔3〕 錦州、長春、遼西、瀋陽の諸戦役は、一括して遼瀋戦役という。本巻の『遼瀋戦役の作戦方針について』注〔1〕を参照。
(一九四八年十二月十一日)
これは、毛沢東同志が中国共産党中央革命軍事委員会のために起草した、林彪、羅栄桓らの同志あての電報である。平津戦役は、中国人民解放戦争のなかで決定的な意義をもつ三つのもっとも大きな戦役の最後の一つであった。この戦役では、五十二万余の国民党軍を殲滅あるいは編成がえし、北平、天津、張家口などの重要都市を解放し、華北解放の戦争を基本的に終わらせた。毛沢東同志がここで提起している戦役方針は完全に実現された。
一、張家口、新保安、懐来の敵ならびに北平、天津、塘沽、唐山全地区の敵は、いくつかの部隊、たとえば第三十五軍団、第六十二軍団、第九十四軍団のうちの若干の師団が、防御工事によって守備すればなお比較的大きな戦闘力をもっているほかは、いずれもはなはだしく攻撃精神に欠けており、弓の音におびえる鳥のようになっている。諸君が山海関以南にはいってからはとくにそうである。敵の戦闘力をけっして過大評価してはならない。わが一部の同志は、これまで敵の戦闘力を過大評価して痛い目にあったことがあったが、批判されてからは、かれらもそれがわかるようになった。現在、張家口、新保安両地の敵は確実に包囲されており、だいたいにおいて、包囲を突破して逃げることはむずかしい。第十六軍団はその約半数がたちまち殲滅された。懐来の敵第一○四軍団はあわてて南へ逃げたが、今明日中にはおそらく殲滅されるだろう。この敵が殲滅されたのち、諸君は第四縦隊を西南方〔2〕から東北方にすすめて、南口・北平間の連係を断つよう準備されたい。これを実現するのは容易ではないとおもう。というのは、第九十四軍団と第十六軍団の残りの部隊が急速に北平に撤退するか、第九十四軍団、第十六軍団、第九十二軍団が南口・昌平・沙河鎮地区に集結して、集団防御にあたるかするからである。しかし、第四縦隊がこの行動に出れば、北平の西北郊と北郊を直接おびやかすことになるので、これらの敵を牽制して動けないようにすることができる。もし、これらの敵がそれでもなお西進し、第三十五軍団の増援にむかうならば、直接その退路を断つかあるいは直接北平を攻撃することができるので、これらの敵はおそらくそれ以上西進することはあえてしないだろう。華北のわが楊得志・羅瑞卿・耿[風+”火三つ”]兵団は、九コ師団で第三十五軍団の三コ師団を包囲しているが、これは圧倒的に優勢である。かれらははやくその敵を殲滅したいといっているが、われわれは、北平、天津の敵をひきつけて、敵が海上から逃げる決意を容易に下しかねるようにさせるため、かれらにしばらくのあいだ攻撃をひかえさせようと考えている。かれらは、今度、二コ縦隊で第三十五軍団を包囲し、一コ縦隊で第一〇四軍団を阻止して、両方とも撃退した。
二、われわれは現在、諸君が第五縦隊をただちに南口付近にさしむけて、東北方から北平、南口、懐柔の敵をおびやかすことに同意する。この縦隊を同地にとどまらせて、のちに(ほぼ十日または十五日後、つまり華北の楊得志・羅瑞卿・耿[風+”火三つ”]兵団が第三十五軍団を殲滅したのち)第四縦隊を東にまわすことができるようにする。したがって、第五縦隊にたいして、本日もひきつづき西進するよう命令されたい。
三、第三縦隊はぜったいに南口にむかってはならない。同縦隊は、九日のわれわれの電報どおり、北平以東、通県以南の地区に移動し、東から北平をおびやかし、第四縦隊、第十一縦隊、第五縦隊とともに北平にたいする包囲を形成する。
四、しかし、われわれの真の目的は、まず北平を包囲することではなく、まず天津、塘沽、蘆台、唐山の諸点を包囲することである。
五、われわれの見通しでは、諸君の第十縦隊、第九縦隊、第六縦隊、第八縦隊、砲兵縦隊、第七縦隊は、ほぼ十二月十五日前後に、玉田を中心とする地区に集結することができるだろう。天津、塘沽、蘆台、唐山の諸点の敵が十二月二十日から十二月二十五日までの数日間なおだいたいにおいて現状のままであれば、諸君はこの間に迅速な行動をとり、第三縦隊(北平東郊から東へさしむける)、第六縦隊、第七縦隊、第八縦隊、第九縦隊、第十縦隊などの六コ縦隊をもってこれら諸点の敵を包囲するようわれわれは提案する。その方法は、ニコ縦隊を武清を中心とする地区、すなわち廊房、河西務、楊村の諸点に配置し、五コ縦隊を天津、塘沽、蘆台、唐山、古冶の諸点間に突入させ、これらの敵のあいだの連係を断ちきることである。各縦隊はいずれも、敵を阻止する陣地を両面に構築し、敵がのがれられないようにしておいて、部隊の休養と整備・訓練をおこない、疲労を回復し、そのうえで、いくつかの比較的小さな敵を攻撃、殲滅する。そのさい、第四縦隊は、北平の西北から北平の東に移動する。華北のわが楊得志・羅瑞卿・耿[風+”火三つ”]兵団は、第四縦隊が移動するまえに新保安の敵を殲滅する。東側では、状況におうじて、まず塘沽の敵を殲滅し、海港を制圧するようつとめる。塘沽(もっとも重要)、新保安の二点を攻略しさえすれば、それで全局が生きてくる。以上の部署配置は、事実上、張家口、新保安、南口、北平、懐柔、順義、通県、宛平([シ+”豕の中に点”]県、良郷はすでにわが軍に占領されている)、豊台、天津、塘沽、蘆台、唐山、開平の諸点の敵をぜんぶ包囲したことになるのである。
六、この方法は、諸君が義県、錦州、錦西、興城、綏中、山海関、[シ+欒]県の線での作戦で用いた方法〔3〕とだいたい同じである。
七、本日から三週間のあいだ(十ニ月十一日から十二月二十五日まで)は、包囲はしても攻撃はせず(たとえば張家口、新保安にたいしておこなっているように)、あるばあいには遮断はしても包囲はしない(すなわち、戦略的包囲をおこない、敵のあいだの連係を断ちきるだけで、戦役的包囲はおこなわない。たとえば、北平、天津、通州にたいしておこなっているように)ことを基本原則とし、部署配置の完了をまって敵を各個に殲滅する。とくに張家口、新保安、南口の敵はこれをみな殲滅してはならない。それは、南口以東の敵に、一目散に逃げだすことをいそいで決断させることになるからである。この点はぜひのみこんでおいてもらいたい。
八、蒋介石に、北平、天津の敵を海上から南へ輸送することをいそいで決断させないようにするため、われわれは劉伯承、鄧小平、陳毅、粟裕にたいし、黄維兵団を殲滅したのち、杜聿明の指揮する邱清泉、李瀰、孫元良の諸兵団(すでにその約半数を殲滅している)の残存兵力をそのままにしておき、二週間のあいだはこれを最後的に殲滅する部署配置をしないよう命令するつもりである。
九、敵を青島へ逃がさないようにするため、われわれは山東方面にたいし、若干の兵力を集中して済南付近の黄河の一区間を制圧するとともに、あらかじめ青島=済南鉄道沿線で準備をととのえておくよう命令するつもりである。
十、敵が徐州、鄭州、西安、綏遠の各方面にむかって逃げる可能性はないか、あるいはきわめてすくない。
十一、唯一の、あるいは主な懸念は、敵が海上から逃げることである。このため、ここ二週間は、一般的に、包囲はしても攻撃はしない方法、あるいは遮断はしても包囲はしない方法をとる。
十二、この計画は敵の意表にでるものであるから、諸君が部署配置を最後的に完了するまでは、敵にはなかなか察知できない。敵はいまおそらく、諸君が北平を攻撃するものと考えているだろう。
十三、敵は弓の音におびえる鳥のようになっていながらも、つねにわが軍の積極性を過小評価し、自己の力を過大評価している。北平、天津の敵は、諸君が十二月二十五日以前に上述の部署配置を完了できるとはけっして考えていないだろう。
十四、十二月二十五日以前に上述の部署配置を完了するため、諸君は、この二週間は疲労をいとわず、兵員の減少をおそれず、寒さや飢えをおそれぬよう部隊を激励し、上述の部署配置を完了してから休養と整備・訓練をおこない、そのうえでゆうゆうと攻撃にうつる。
十五、攻撃の順序はだいたい、第一に塘沽・蘆台地区、第二に新保安、第三に唐山地区、第四に天津、張家口の両地区、最後に北平地区とする。
十六、上述の計画についての諸君の見解はどうか。この計画になにか欠点はないか。これを遂行するにあたって、どんな困難があるか。すべてを考慮のうえ返電されたい。
〔1〕 平津戦役は、東北野戦軍と華北の二コ兵団が、林彪、羅栄桓、聶栄臻らの同志の指揮のもとに、共同しておこなったもので、一九四八年十二月上旬、東北の遼瀋戦役が勝利のうちに終わったのち、ただちに開始された。東北野戦軍は、東北地方全域を解放する任務を勝利のうちになしとげたのち、毛沢東同志の指示にしたがい、すみやかに行動をおこして山海関以南にすすみ、人民解放軍華北兵団と力をあわせて華北の国民党軍を包囲殲滅した。そのとき、国民党華北「匪賊討伐総司令部」総司令傳作義の指揮する六十余万の国民党軍は、人民解放軍の東北地方における勝利におどろき、あわてて兵力をひっこませ、海上から南へ逃げるか、あるいは西の綏遠にのがれようとした。わが軍は迅速な行動をもって敵を北平、天津、張家口、新保安、塘沽の五つの拠点に分断して包囲し、南と西への敵の退路を遮断した。十二月二十二日には、新保安の敵の主力第三十五軍団の本部と二コ師団を包囲殲滅した。二十四日には張家口を攻略し、ここを守備する敵第十一兵団所属の一コ軍団の本部と七コ師団、計五万四千余人を殲滅した。一九四九年一月十四日には、天津を包囲したわが軍は、敵の守備部隊の指揮官陳長捷が武装解除を拒否したのち、総攻撃を開始し、二十九時間にわたる激戦をへて、敵の守備部隊十三万余人をせんぶ殲滅し、陳長捷を捕虜にして、天津を解放した。こうして、北平守備の二十余万の敵は、わが方の厳重な包囲をうけて、まったく窮地におちいった。わが方の働きかけによって、北平守備の敵は、傳作義将軍に率いられて、平和的に編成がえすることをうけいれた。わが軍は、一月三十一日、北平に入城し、北平を平和裏に解放した。こうして、平津戦役は勝利のうちに終わった。この戦役で、塘沽守備の敵五万余人が海上から逃げたのをのぞいて、人民解放軍は計五十二万余人の国民党軍を殲滅あるいは編成がえした。綏遠の国民党軍は、一九四九年九月、蜂起して、編成がえをうけいれるむね通告電を発した。
〔2〕 ここでいう「西南方」とは、南口の西南地区をさす。
〔3〕 東北野戦軍は、一九四八年九月に北平=瀋陽鉄道沿線で戦ったさい、この線の義県、錦州、錦西、興城、綏中、山海関、[シ+欒]県、昌黎の敵がしりぞいて集結しないようにするため、まず一部の兵力をもって上述の諸点の敵をそれぞれ包囲し、遮断したうえで、一つ一つ殲滅するという方法をとった。
(一九四八年十二月十七日)
これは、毛沢東同志が中原、華東の両人民解放軍司令部のために書いた放送原稿である。
杜聿明将軍、邱清泉将軍、李瀰将軍、ならびに邱清泉、李瀰両兵団の軍団長、師団長、連隊長諸君
諸君はいまや絶体絶命の窮地にたたされている。黄維兵団は十五日夜すでに全軍覆滅し、李延年兵団は踵を返して南へ逃げてしまった。諸君がかれらに近づこうとしてももはや望みはない。諸君は包囲を突破するつもりなのか。四方八方みな解放軍なのにどうして突破できるのか。諸君はここ数日、包囲突破をこころみてきたが、どんな結果に終わったか。諸君の飛行機や戦車も役にはたたない。われわれの飛行機、戦車のほうが諸君のより多いのだ。それは大砲と爆薬のことで、人びとはこれを手製飛行機、手製戦車とよんでいるが、諸君の舶来飛行機、舶来戦車より十倍もすごいではないか。諸君の孫元良兵団はすでにやられてしまったし、のこる諸君の二コ兵団もすでに半分以上が負傷したり捕虜になったりしている。諸君は、徐州からつれてきた雑多な機関要員や若い学生をおおぜいむりやり部隊に編入したが、こういうものにどうして戦争ができるのか。この十数日らい、われわれに十重二十重に包囲され、さんざんな打撃をうけて、諸君の陣地はぐっと縮小した。諸君にはたてよこわずか十数華里の小さな場所があるだけで、しかもおおぜいのものがひしめきあっているのだから、われわれは、一発の砲弾で、諸君をたばにして斃すことができる。諸君の負傷兵や軍隊についてきた家族は、諸君のおかげでしきりに苦しみをうったえている。諸君の兵士や多くの幹部もみな、これ以上戦うのはまっぴらだとおもっている。副総司会として、兵団司令として、軍団長、師団長、連隊長として、諸君は部下や家族の気持ちをくみとり、その生命をたいせつにして、すこしでも早くかれらのために生きる道を見いだしてやるべきで、これ以上、かれらを無意味な犠牲にするのはやめたまえ。
いまでは、黄維兵団は全部殲滅され、李延年兵団は蚌埠に逃げきったので、われわれは、諸君の数倍の兵力を集中して諸君を攻撃することができる。われわれのこんどの戦いはわずか四十日間だったが、諸君の側はすでに黄伯韜の十コ師団、黄維の十一コ師団、孫元良の四コ師団、馮治安の四コ師団、孫良誠の二コ師団、劉汝明の一コ師団および宿県にあった一コ師団、霊璧にあった一コ師団、あわせて三十四コ師団を師団ごとうしなっている。そのうち、何基[シ+豊]と張克侠が三コ師団半をひきいて蜂起し、廖運周が一コ師団をひきいて蜂起し、孫良識が一コ師団をひきいて帰順し、趙壁光と黄子華がそれぞれ半コ師団をひきいて帰順した〔1〕ほかは、他の二十七コ師団半はわが軍に完全に殲滅されてしまった。黄伯韜兵団、黄維兵団、孫元良兵団の末路は、諸君がすでにその目で見たはずである。諸君は長春の鄭洞国将軍を手本として見習い〔2〕、こんどの孫良誠軍団長、趙壁光師団長、黄子華師団長を手本として見習って、ただちに全軍に武器を捨てて抵抗をやめるよう命令すべきで、そうすれば、わが軍は諸君ら高級将領と全将兵の生命の安全を保障する。そうすることだけが諸君の唯一の活路である。よく考えてみるがよい。もし諸君がそうするのがよいと思うならば、そうしたまえ。もし諸君がまだ戦いたいなら、戦うがよかろう。諸君は結局かたづけられるのである〔3〕。
中原人民解放軍司令部
華東人民解放軍司令部
〔1〕 何基[シ+豊]、張克侠はいずれも国民党第三綏靖区副司令で、一九四八年十一月八日、淮海戦役の第一段階で、一コ軍団の司令部と三コ師団、一コ連隊あわせて二万余人をひきいて、徐州東北方の賈汪地区で蜂起した。廖運周は国民党第八十五軍団第百十師団の師団長で、一九四八年十一月二十七日、淮海戦役の第二段階で、同師団の師団司令部と二コ連隊全員あわせて五千五百人をひきいて、安徽省宿県西南方の羅集で蜂起した。孫良誠は国民党第一綏靖区副司令兼第百七軍団の軍団長で、一九四八年十一月十三日、淮海戦役の第一段階で、同軍団の軍団司令部と一コ師団あわせて五千八百人をひきいて、江蘇省[目+隹]寧の西北方で帰順した。趙壁光は国民党第四十四軍団第百五十師団の師団長で、一九四八年十一月十八日、淮海戦役の第一段階で、残存部隊二千余人をひきいて、江蘇省徐州東方の碾荘地区で帰順した。黄子華は国民党第八十五軍団第二十三師団の師団長で、一九四八年十二月、淮海戦役の第二段階で、同師団の師団司令部と二コ連隊の残存部隊をひきいて、安徽省蒙城東北方の双堆集で帰順した。
〔2〕 長春は、一九四七年の冬から東北人民解放軍に包囲されていた。一九四八年十月十九日、わが軍が錦州を攻略し、東北地方の全敵軍が動揺している情勢のもとで、長春の国民党最高指国官、東北「匪賊討伐総司令部」副総司令鄭洞国は、配下の第一兵団の直属機関・部隊および新第七軍団の全将兵をひきいて、武器をすてた。
〔3〕 杜聿明(国民党徐州「匪賊討伐総司令部」副総可令)、邱清泉(国民党第二兵団司令)、李瀰(国民党第十三兵団司令)の三人は、わが軍から降伏をうながす書をうけとってからも、死にもの狂いで抵抗したが、結果は、わが軍の強力な攻撃をうけて全軍覆滅され、杜聿明は捕虜になり、邱清泉は戦死し、李瀰たけが逃がれた。
(一九四八年十二月三十日)
これは、毛沢東同志が新壁社にかわって書いた一九四九年の年明の辞である。
中国人民は偉大な解放戦争で最後の勝利をかちとろうとしている。この点については、いまわれわれの敵でさえ疑ってはいない。
戦争はまがりくねった道をたどってきた。国民党反動政府が反革命戦争をおこした当時、その軍隊の兵員数は人民解放軍のほぼ三倍半にあたり、その軍隊の装備や人的・物的資源にいたっては、人民解放軍をはるかにしのいでいた。かれらは、人民解放軍に欠けている現代工業や現代交通機関をもっていたし、アメリカ帝国主義から大量の軍事的、経済的援助をうけていたし、しかも長いあいだ準備をしていたのである。戦争の第一年目(一九四六年七月から一九四七年六月まで)が国民党の進攻と人民解放軍の防御となってあらわれたのは、こうした事情によるものである。国民党は一九四六年に、東北地方では、瀋陽、四平、長春、吉林、安東などの都市および遼寧、遼北、安東などの省〔1〕の大部分を占領し、黄河以南では、淮陰、[”くさかんむり”の下に”河”]沢などの都市および湖北・河南・安徽解放区、江蘇・安徽解放区、河南・安徽・江蘇解放区、山東省西南部解放区の大部分を占領し、長城以北では承徳、集寧、張家口などの都市および熱河、綏遠、察哈爾の諸省の大部分を占領し、その勢いあたるべからざるものがあった。人民解放軍が、地域の保持を主としないで、国民党の兵員の殲滅を主とする正しい戦略方針をとり、国民党正規軍を月平均ほぼ八コ旅団(現在の師団に相当)殲滅したので、国民党はついに、全面的進攻の計画を放棄し、一九四七年の上半期には進攻の重点を南部戦線の両翼、すなわち山東省と陝西省北部地区に局限せざるをえなくなった。戦争には、二年目(一九四七年七月から一九四八年六月まで)に根本的な変化がおきた。大量の国民党正規軍を消滅した人民解放軍は南部戦線でも北部戦線でも防御から進攻に転じ、国民党側は進攻から防御に転ぜざるをえなくなった。人民解放軍は、東北地方、山東省、陝西省北部地区でほとんどの失地を回復したばかりでなく、戦線を長江と渭水以北の国民党支配区にまでのばした。また石家荘、運城、四平、洛陽、宜川、宝鶏、[シ+維]県、臨汾、開封などの都市にたいする攻略作戦で、堅塁攻略の戦術〔2〕を身につけた。人民解放軍は自己の砲兵と工兵を編成した。忘れてならないのは、人民解放軍には飛行機や戦車はないが、人民解放軍に国民党軍をしのぐ砲兵と工兵が編成されてからは、国民党の防御体制が、その飛行機や戦車までふくめて、とるに足らないものになったことである。人民解放軍は運動戦ばかりでなく、陣地戦もおこなえるようになった。戦争の三年目のはじめの半年間(一九四八年七月から十二月まで)に、もう一つの根本的な変化がおきた。人民解放軍が兵員数でも、長期にわたる劣勢から優勢に転じたのである。人民解放軍はすでに、国民党が堅固な防備をほどこしている都市を攻略することができるばかりでなく、いちどに十万ないし数十万にものぼる国民党の強大な精鋭兵団を包囲し、殲滅することができるようになった。人民解放軍の国民党兵力殲滅の進度はひじょうにはやくなった。ここで、敵正規軍部隊のうち一コ大隊以上を殲滅された分(蜂起した敵軍をふくむ)を統計してみると、第一年目は九十七コ旅団に相当し、そのうち四十六コ旅団は旅団全員、二年目は九十四コ旅団に相当し、そのうち五十コ旅団は旅団全員、三年目のはじめの半年間は、おおまかな統計によっても百四十七コ師団に相当し、そのうち百十一コ師団は師団全員〔3〕となっている。この半年間に師団全員を殲滅された敵の師団数は、過去二年間のそれよりも十五コ師団多くなっている。敵の戦略上の戦線はすっかり瓦解している。東北地方の敵は完全に消滅されたし、華北の敵は完全に消滅されようとしており、華東と中原の敵はわずかしかのこっていない。国民党の主力が長江以北で消滅されたことは、人民解放軍がこんご長江をわたって南進し全中国を解放する戦いをすすめるのをひじょうに有利にしている。軍事戦線での勝利とともに、中国人民は政治戦線、経済戦線でも偉大な勝利をかちとった。このため、いまでは、帝国主義のあらゆる新聞をふくむ全世界の世論は、中国人民解放戦争の全国的な勝利についてまったく論争がなくなった。
敵がみずから消滅することはありえない。中国の反動派にせよ、中国におけるアメリカ帝国主義の侵略勢力にせよ、自分からすすんで歴史の舞台をひきさがることはありえない。かれらは、中国人民解放戦争の全国的な勝利がたんなる軍事闘争の方法ではもはや阻止できないことを見てとったからこそ、日一日と政治闘争の方法を重視するようになっている。中国反動派とアメリカ侵略者はいま、反動勢力を温存し革命勢力を破壊するために、一方では、現存の国民党政府を利用して「和平」の陰謀をすすめるとともに、他方では、中国反動派やアメリカ侵略者とのつながりもあれば革命陣営とのつながりもある一部の人びとをつかい、かれらをそそのかし、けしかけて、うまく立ちまわらせ、極力革命陣営にまぎれこませ、革命陣営のなかのいわゆる反対派を形成するようにさせる策謀をすすめている。確実な情報によれば、アメリカ政府はこのような陰謀計画を決定し、すでに中国でそうした活動をはじめている。アメリカ政府の政策は、たんなる国民党の反革命戦争支持から、二つの方式による闘争へと転換している。その第一は、国民党の残存軍事力といわゆる地方勢力を組織して、長江以南の地域がよび辺境の諸省で人民解放軍にたいする抵抗をつづけさせることであり、第二は、革命陣営内で反対派を組織して、革命を極力現在の線にふみとどまらせ、さらに前進するとしても、温和な巴色いをもたせ、なんとしても帝国主義とその手先の利益をあまり侵害させないようにすることである。イギリスとフランスの帝国主義者は、アメリカのこの政策の支持者である。こうした事態を、いまのところ多くの人がまだはっきり見てとっていないが、そう遠くないうちにこのことをはっきり見てとるであろう。
いま中国人民、各民主政党、各人民団体の直面している問題は、革命を最後まで遂行するか、それとも革命を中途でやめるか、ということである。革命を最後まで遂行するとすれば、それは革命的な方法をもちいて、すべての反動勢力を断固として、徹底的に、きれいに、のこらず消滅し、帝国主義の打倒、封建主義の打倒、官僚資本主義の打倒をゆるぎなく堅持し、全国的範囲で国民党の反動支配をくつがえし、全国的範囲で、プロレタリア階級の指導する、労農同盟を主体とした人民民主主義独裁の共和国を樹立することである。そうすれば、中華民族の一大解放を実現して、半植民地を真の独立国にかえることができ、中国人民の一大解放を実現して、その頭上にのしかかっている封建的抑圧と官僚資本(すなわち中国の独占資本)の抑圧をいちどにはねのけることができるし、またそれによって、統一された民主的な平和の局面をつくりだし、農業国を工業国にかえるための前提条件をつくりだし、人が人を搾取する社会から社会主義社会に発展する可能性をつくりだすことができるようになる。革命を中途でやめるとすれば、それは人民の意志にそむき、外国侵略者と中国反動派の意志をうけいれることになり、国民党が痛手をいやす機会をえたうえで、いつの日にか突然おそいかかってきて革命をしめ殺し、全国を暗黒の世界にひきもどすのを許すことになる。現在、問題は、こんなにもはっきりと、こんなにもするどく提起されている。二つの道のうち、いったいどちらを選ぶか。中国のどの民主政党、どの人民団体もすべて、この問題について考えなければならないし、自己の歩む道を選ばなければならないし、自己の態度をはっきりさせなければならない。中国の各民主政党、各人民団体が、中途で仲間割れすることなく、心から協力することができるかどうかは、かれらがこの問題について一致した見解をとるかどうか、中国人民の共同の敵を打倒するために一致した歩調をとることができるかどうかにかかっている。ここで必要なのは、一致であり、協力であって、「反対派」なるものを結成することでもなければ、「中間路線」〔4〕なるものを歩むことでもない。
一九二七年四月十二日の反革命クーデターからこんにちまでの二十余年にわたる長い年月をつうじて、蒋介石らをかしらとする中国の反動派は、満身血にまみれた、人を殺しても顔色ひとつ変えない殺人鬼の一味であるということが、まだ証明されていないとでもいうのだろうか。かれらが職業的な帝国主義の手先、売国奴の一味であることがまだ証明されていないとでもいうのだろうか。一九三六年十二月の西安事変いらい、一九四五年十月の重慶交渉と一九四六年一月の政治協商会議いらい、中国人民が、かれらとのあいだに国内平和をうちたてようとして、この匪賊一味にどれほど道義のかぎりをつくしてきたかをおもいおこしてもらいたい。しかし、すべての善良な願望はかれらの階級的本性を爪の垢ほどでもかえさせただろうか。これら匪賊どもの歴史は、なにひとつとして、アメリカ帝国主義と切りはなせるものはない。かれらはアメリカ帝国主義にたよって四億七干五百万の同胞をかつてない残酷な一大内戦に投げこんだのであり、かれらはアメリカ帝国主義から供給された爆撃機、戦闘機、大砲、戦車、バズーカ砲、自動小銃、ナパーム弾、毒ガス弾などの殺人兵器で幾百万もの老若男女を殺したのである。そしてアメリカ帝国主義はかれらにたよって、中国の領土権、領海権、領空権、内政航行権、商業上の特権、内政外交上の特権をはじめ、人をうち殺し、ひき殺し、婦女子に暴行をくわえてもなんら処罰されない特権までも奪いとったのである。中国人民は、こんなに長いあいだ血みどろの戦争をやらされても、これら凶悪無比の敵を徹底的に消滅し駆逐しないで、これらの敵にたいして温柔であり愛情をしめすべきだ、とでもいうのだろうか。中国の反動派を徹底的に消滅し、アメリカ帝国主義の侵略勢力を中国から駆逐してこそ、中国は独立をかちとることができ、民主主義をかちとることができ、平和をかちとることができるのである。この真理が、まだはっきりしないとでもいうのだろうか。
注目すべきことは、いま中国人民の敵が、急に、さも害のないような、しかもあわれっぽい格好をよそおうのにおおわらわになっていることである(今後もこうしたあわれっぽい格好をよそおうであろうことを、読者は心にとめておいていただきたい)。最近国民党の行政院長になった孫科は、昨年六月、「軍事面では、最後まで戦いさえすれば、結局は解決できる」と公言したのではなかったか。ところが、こんど登場すると、「政府は平和をもとめるために努力したが、平和が実現できなかったのでやむなく武力をもちいた。武力をもちいた究極の目的はやはり平和の回復をはかることにある」などといって、「栄えある平和」なるものをまくしたてた。十二月二十一日の上海発UP電はすぐに、孫料の声明は「アメリカの官辺筋や国民党内の自由主義的人士のあいだで、きわめてひろい称賛を博するだろう」と予測した。アメリカの官辺筋は、現在、中国の「和平」に熱心であるばかりでなく、一九四五年十二月のモスクワのソ米英三国外相会議のときからアメリカは「中国の内政への不干渉政策」をまもってきたとくりかえし表明している。こうした君子国の先生方にはどう対処したらよいのか。それには、古代ギリシアのつぎのような寓話がよい参考になる。「冬のある日、一人の農夫が、凍えきった一匹の蛇を見かけた。農夫は蛇をたいへんあわれんで、さっそく自分のふところにいれてやった。すると蛇はぬくもりで息をふきかえし、やがて本性をとりもどすと、自分の恩人にかみついて致命傷をおわせた。農夫は死ぬまぎわに、おれは悪い奴をあわれんだのだから、こんな悪い報いをうけるのも当然だ、といった。」〔5〕外国と中国の毒蛇どもは、中国人民がこの農夫とおなじように死んでいくことをねがい、中国共産党、中国のあらゆる革命的民主派がみなこの農夫とおなじように毒蛇にたいして情け深いことをねがっている。しかし、中国人民、中国共産党、中国の真の革命的民主派は、この勤労者がいいのこしたことばを聞いているし、またよくおぼえている。まして、中国の国土のあちこちにとぐろを巻いている大蛇や小蛇、黒蛇や白蛇、毒牙をむきだした蛇や美女に化けた蛇どもは、すでに冬の脅威は感じていても、まだ凍えきってはいないのだ。
中国人民は、蛇とおなじような悪人をけっしてあわれみはしないし、また、甘言を弄して、こういう悪人どもをあわれんでやりなさい、そうでないと国情にあわないし、偉大さに欠けます、などという連中は、けっして中国人民の忠実な友ではない、と卒直に考えている。蛇とおなじような悪人を、なぜあわれまなければならないのか。いったい労働者のだれが、農民のだれが、兵士のだれがこんな悪人をあわれめなどと主張しているのだろうか。中国人民にたいして、アメリカや国民党の「和平」をうけいれるべきだとすすめる「国民党内の自由主義的人士」または非国民党員の「自由主義的人士」がいることもたしかである。つまり、かれらは帝国主義、封建主義、官僚資本主義という後生大事のしろものが世界であとを絶つことのないように、その残存物を神様としてまつるべきだというのである。しかし、かれらはけっして労働者、農民、兵士でもなければ、労働者、農民、兵士の友でもないのである。
われわれは、中国人民の革命陣営は拡大されなければならないし、当面の革命事業に参加することをのぞむすべての人びとを包容しなければならない、と考えている。中国人民の革命事業には主力軍が必要であるし、また同盟軍も必要であって、同盟軍のない軍隊は敵にうち勝つことはできない。革命の高揚のなかにある中国人民は、自己の友を必要としており、自己の友をおぼえておくべきであって、かれらを忘れてはならない。人民の革命事業に忠実な友、人民の利益をまもることに努力し敵の利益をまもることに反対する友が、中国に少なからずいることは疑いのないところであり、またそれらの人びとをただの一人でも忘れたり、冷淡にあつかったりしてはならないことも疑いのないところである。われわれはまた、中国人民の革命陣営は強化されなければならず、悪質分子の侵人を許してはならず、あやまった主張が勝利するのを許してはならないと考えている。革命の高揚のなかにある中国人民は、自己の友をおぼえておくと同時に、自己の敵や敵の友をしっかりとおぼえておかなければならない。うえにのべたように、敵がいま、「和平」の手段と革命陣営にもぐりこむ手段にうったえて、自己の陣地を保持し強化しようとたくらんでいる以上、しかも人民の根本的利益が、すべての反動勢力を徹底的に消滅し、アメリカ帝国主義の侵略勢力を中国から駆逐することを要求している以上、敵をあわれみ、反動勢力を温存するよう人民にすすめる連中はみな、人民の友ではなくて敵の友である。
中国革命の窓出席は社会の各階層に自己の態度の決定をせまっている。中国の階級間の力関係には、いま新しい変化がおこりつつある。おびただしい人民がぞくぞく、国民党の影響と支配を脱して革命陣営の側に立つようになっており、中国の反動派はまったく孤立無援の窮地におちいっている。人民解放戦争が最後の勝利に近づけば近づくほど、すべての革命的な人民とすべての人民の友は、ますますしっかりと一致団結し、中国共産党の指導のもとに、全中国の範囲で人民民主共和国をうちたて統一された民主的な平和を実現するまで、徹底的に反動勢力を消滅し徹底的に革命勢力を発展させることをだんこ主張するであろう。それとは反対に、アメリカ帝国主義者、中国反動派およびかれらの友は、しっかりと一致団結することはできないにしても、また、はてしない相互のあいだの□論、悪罵、非難、背反はおこるにしても、ある一点では、つまり、さまざまの手段にうったえて革命勢力を破壊し、反動勢力を温存しようとはかる点では、やはりたがいに協力するであろう。かれらは、公然または秘密の、直接または遠まわしの、さまざまの手段にうったえるであろう。しかし、かれらの政治的陰謀がその軍事的進攻と同様の失敗をなめるであろうことは、断言してよい。すでにじゅうぶんな経験をつんでいる中国人民とその参謀本部である中国共産党はかならず、敵の軍事的進攻を粉砕したと同様に敵の政治的陰謀を粉砕し、偉大な人民解放戦争を最後まで遂行するであろう。
一九四九年には、中国人民解放軍は長江以南にむかって進軍し、一九四八年よりもさらに偉大な勝利をかちとるであろう。
一九四九年には、われわれは経済戦線で、一九四八年よりもさらに偉大な成果をおさめるであろう。われわれの農業生産と工業生産は、これまでよりもいちだんと高まり、鉄道と自動車道路の交通は全部回復するであろう。人民解放軍の主力兵団の作戦は、まだのこっているある種の遊撃性を脱して、正規化の度合いをいっそう高めるであろう。
一九四九年には、反動分子の参加しない、人民革命の任務の完遂を目標とする政治協商会議を招集し、中華人民共和国の成立を宣言するとともに、共和国の中央政府を組織することとなろう。この政府は、中国共産党の指導する、各民主政党、各人民団体の適当な代表的人物の参加する民主連合政府となるであろう。
これらが、中国人民、中国共産党、中国のすべての民主政党と人民団体が一九四九年にその実現のため努力しなければならないおもな具体的任務である。われわれはどのような困難もおそれず、一致団結してこれらの任務を達成するであろう。
数千年らいの封建的抑圧、百年らいの帝国主義的抑圧は、われわれの奮闘をつうじて徹底的にくつがえされるであろう。一九四九年はきわめて重要な年である。われわれはいちだんと努力しなければならない。
〔1〕 一九四五年に日本が降伏したのち、国民党政府はもとの東北三省(遼寧、吉林、黒竜江)を遼寧、遼北、安東、吉林、合江、松江、黒竜江、嫩江、興安の九省に区画した。一九四九年に、わが東北行政委員会は東北三省の行政区画を調整して、遼東、遼西、吉林、黒竜江、松江の五省とし、これに熱河省をくわえて、東北六省とよんだ。一九五四年に、中央人民政府委員会は遼東省、遼西省を合併して遼寧省とあらため、松江省と黒竜江省を合併して黒竜江省とし、吉林省はもとのままとすることを決定した。一九五五年には熱河省が廃止され、その管轄区域は河北、遼寧の二省と内蒙古自治区にくみいれられた。
〔2〕 石家荘は一九四七年十一月十二日に、運城は一九四七年十二月二十八日に、四平は一九四八年三月十三日にそれぞれ攻略され、洛陽は一九四八年三月十四日と四月五日の二回にわたって攻略され、宜川は一九四八年三月三日に、宝鶏は一九四八年四月二十六日に、[シ+維]県は一九四八年四月二十七日に、臨汾は一九四八年五月十七日に、開封は一九四八年六月二十二日にそれぞれ攻略された。これらの都市はすべて、大量のトーチカ群をそなえ、あるいはそのほかに高い城壁をもそなえ、さらにその外側にいく重もの外濠、鉄条網、逆茂木などの補助防御施設がほどこされていた。当時、わが軍には、飛行機も戦車もなく、砲兵もまったくないかまたはごくわずかしかなかった。上にのべた都市を攻略するなかで、わが軍は一連の堅塁攻略戦術を身につけた。その戦術とはつぎのようなものであった。(1)連続爆破――敵の各種防御施設を爆薬で連続的に爆破する。(2)坑道作業――ひそかに敵のトーチカまたは城壁の下まで坑道を掘り、爆薬で爆破すると同時に、猛烈な突撃を開始する。(3)対壕作業、つまり近接作業――敵の堅固な防御工事にたいして、壕を掘り隠蔽して敵に近接し、不意に突撃を敢行する。(4)爆薬包の投擲――擲弾筒または追撃砲を利用して爆薬包を発射し、敵の防御施設を破壊する。(5)兵力、火力を集中し、一点を突破して突入、分断する「突入戦法」をおこなう。
〔3〕 ここでいう「旅団全員」「師団全員」とは、全員が殲滅された国民党軍の旅団および師団のことである。ここでいう旅団とは、再編成後の旅団のことであり、師団とは再編域後の師団ではなくて、再編成前の国民党軍の師団のことである。両者は実際にはおなじものである。
〔4〕 「中間路線」とは、いわゆる第三の道のことである。本巻の『当面の情勢とわれわれの任務』注〔8〕を参照。
〔5〕 『イソップ物語』のなかの「農夫と蛇」にみられる。
(一九四九年一月五日)
これは、毛沢東同志が新華社にかわって書いた論評で、国民党が和平交渉を利用して反革命の力を温存しようとしていることを暴露した一連の論評のうちの最初のものである。その他の論評には、『四分五裂の反動派がなぜまた「全面的和平」の空念仏をとなえるのか』『国民党反動派は「和平のよびかけ」から戦争のよびかけに変わった』『戦争責任の問題にたいする国民党のいくつかの答案を評す』『南京政府はどこへいく』などがある。
中国の戦争犯罪人第一号である国民党匪賊一味の頭目蒋介石は、中国の反動勢力と中国におけるアメリカの侵略勢力を温存しようとして、ことしの元旦に、和平を乞いもとめる声明を発表した。戦犯蒋介石はこういっている。「和議が国家の独立・保全をそこなうことなく、人民の休養・生存に役立つかぎり、また神聖な憲法が余の故をもって犯されることなく、民主的憲政がそれによって破壊されることなく、中華民国の国体が確保され、中華民国の法的正統性が中断されず、軍隊が確実な保障をあたえられ、人民が自由な生活様式と当面の最低生活水準を維持しうるかぎり、余個人として他に求めるところはさらにない。」「平和がたしかに実現されるかぎり、個人の出処進退は、なんら拘泥するところでなく、ただ国民の総意に従うのみである。」戦犯が和平を乞いもとめるとはいささか滑稽だ、などと考えてはいけないし、こうした和平を乞いもとめる声明はまことにけしからぬ、などと考えてもいけない。戦犯第一号である国民党匪賊一味の頭目がおもてに立って和平を乞いもとめ、このような声明を発表したことは、中国人民が国民党匪賊一味とアメリカ帝国主義の腹黒い計画を知るうえで、たいへん有益であることを知らなければならない。このことから、中国人民は、いまさかんにさわがれている「和平」なるものこそ、凶悪な殺人犯蒋介石一味とその主人アメリカがさしせまって必要とするものであったことがわかるのである。
蒋介石は匪賊一味の全計画を白状した。その計画の要点はつぎのとおりである。
「国家の独立・保全をそこなわない」こと――これが何よりもたいせつなことである。「和平」も結構だが、「和平」のために四大家族と買弁・地主階級の国家の「独立・保全」がそこなわれるのでは、まっぴらごめんである。「和平」のために中米友好通商航海条約、中米空中輸送協定〔1〕、中米双務協定〔2〕などの条約がそこなわれ、中国における陸海空軍の駐屯、軍事基地の設置、鉱物資源の開発、貿易の独占などといったアメリカの特権がそこなわれ、中国をアメリカの植民地にすることがそこなわれるのでは、つまり一口にいって、「和平」のために蒋介石の反動国家の「独立・保全」をまもるこうしたすべての措置がそこなわれるのでは、いっさいごめんである。
「人民の休養・生存に役立つ」こと――「和平」は、すでにうち負かされてはいるがまだ消滅されてはいない中国反動派の休養・生存に役立たなければならない。よく休養してから勢いをもりかえし、革命を撲滅するのである。「和平」とは、そのためのものにほかならない。二年半も戦争をやってきたが、「走狗が大の用をなさない」ので、アメリカ人が腹を立てている。ほんのしばらくでも休養できたら、それでよい。
「神聖な憲法が余の故をもって犯されることなく、民主的憲政がそれによって破壊されることなく、中華民国の国体が確保され、中華民国の法的正統性が中断されない」こと 中国の反動階級と反動政府の支配的地位を確保し、この階級とこの政府の「法的正統性が中断されない」よう、これを確保するのである。この「法的正統性」は、どうあっても「中断」させてはならない。もし「中断」されたら、それこそ危険であって、買弁・地主階級全体が消滅され、国民党匪賊一味が滅亡し、大、中、小のあらゆる戦争犯罪人が逮捕、断罪されることになる。
「軍隊が確実な保障をあたえられる」こと これは買弁・地主階級の命の綱である。すでに、憎むべき人民解放軍によって何百万も殲滅されはしたが、まだ百何十万ものこっているから、是が非でも「保障」があたえられ、しかもそれが「確実」でなければならない。「保障」があたえられても、「確実」でなければ、買弁・地主階級は元手をうしなうことになり、「法的正統性」はやはり「中断」され、国民党匪賊一味はやはり滅亡し、大、中、小のあらゆる戦犯はやはり逮捕、断罪されることになる。大観園に住まう賈宝玉の命の綱は、首にかけた石ころだったが〔3〕、国民党の命の綱はその軍隊である。どうして、「保障」があたえられないでよいとか、あるいは「保障」があたえられても「確実」でなくてよいとかといえるだろうか。
「人民が自由な生活様式と当面の最低生活水準を維持しうる」こと――中国の買弁・地主階級は、全国人民を抑圧し搾取する自由と、いまのぜいたくきわまる享楽的な生活水準を維持しなければならないし、中国の勤労人民は、抑圧ざれ搾取される自由と、いまの飢えと寒さにあえぐ生活水準を維持しなければならない。これが戦犯の和平を乞いもとめる究極の目的である。もし戦犯たちとその階級が、抑圧し搾取する自由と、ぜいたくきわまる享楽的な生活水準を維持できないなら、和平が何の役にたつだろうか。そうしたものを維持するには、労働者、農民、知識人、公務員・教員のいまのような飢えと寒さにあえぐ「自由な生活様式と最低生活水準」を、当然、維持しなければならない。この条件が、ひとたびわれわれの愛すべき蒋総統から持ちだされれば、幾千万の労働者、手工業労働者、自由職業者、幾億の農民、幾百万の知識人や公務員・教員は、ただもういっせいに拍手し、地にひれ伏して、万歳をとなえるだけである。共産党がなおも和平をうけいれず、そのため、このようにすばらしい生活様式と生活水準が維持できなくなるとすれば、その罪は万死に値し、「今後のいっさいの責任は、すべて共産党が負わねばならぬ」ことになる。
以上のべたことで、一月一日の、戦犯の和平を乞いもとめる声明のなかのあらゆる逸品がみな出つくしたわけではない。まだ、もう一つ逸品がある。蒋介石が新年のあいさつのなかでのべている「南京・上海決戦」がそれである。どこにそんな「決戦」をやる力があるのだろうか。蒋介石は、「政府のこんにちの力は軍事、政治、経済のいずれの面におけるをとわず、共産党を数倍ないし数十倍しのぐことを知るべきである」といっている。いやはや、そんなにも大きな力では、どうして肝をつぶさずにおられよう。政治、経済両面の力はしばらくおくとして、「軍事力」の面だけをみても、人民解放軍はいま三百余万人いるのだから、この数を「しのぐ」とすると、二倍なら六百余万人、十倍なら三千余万人、「数十倍」では、いくらになることか。いちおう二十倍としても、六千余万人になる。蒋総統が「決戦に勝利する自信がある」というのも無理はない。それなら、なぜ和平を乞いもとめるのか。だんじて、戦えないからではない。六千余万人で押していけば、この世の中に共産党とかその他の政党とかが、万が一にも存在できるはずはなく、もちろん、ことごとくこっぱみじんになってしまう。これからもわかるように、和平を乞いもとめるのはひとえに「民のために命乞いをする」のであり、だんじてその他のためにするのではない。
では、万事が上々で、欠点はなにひとつないのだろうか。きけば、欠点もあるとのことである。どういう欠点か。蒋総統はいっている。「現在、遺憾とするところは、わが政府内の一部に、共産党の悪意ある宣伝をうけて、心理的に動揺し、ほとんど自信をうしなっているものがいることである。かれらは精神的に共産党の脅威をうけているため、敵の力しかみえず、敵に数十倍する大きな力がまだ自分にあることがみえないのである。」いつの年にもニュースはあるものだが、ことしのはとくにかわっている。六千余万の将校と兵士をもつ国民党員が、味方の六干余万は目にはいらず、あべこべに人民解放軍の三百余万が目につくとは、これこそ特別のニュースではなかろうか。
ところで、こうしたニュースはまだ市場で売れゆきがあるのだろうか。まだ目をくれる価値があるのだろうか。われわれが手にいれた北平市内からの報道によれば、「元旦の物価は午前やや下がったが、午後にはもとに復した」とのことである。外国の通信社は、「蒋介石の新年のあいさつにたいする上海の反響は冷淡である」ともつたえている。これが、戦犯蒋介石の売れゆきの問題にたいする回答である。われわれは前からいっている。蒋介石はすでに魂をうしなっており、一個の屍にすぎない、もうだれもかれを信じなくなっている、と。
〔1〕 蒋介石政府とアメリカ帝国主義の「中米空中輸送協定」は、一九四六年十二月二十日に調印された。蒋介石はこの協定のなかで、中国の全領空権の投げ売りをしている。この協定の規定によれば、アメリカの飛行機は中国のいたるところで、飛行、貨物の積みおろし、積みかえをしてもよいことになっており、中国の空輸事業は完全にその支配下におかれた。アメリカの飛行機はまた中国の領土内で、「非営業的な着陸の権利」すなわち軍事着陸権をもつことになっていた。
〔2〕 「中米双務協定」とは、いわゆる「中米間の経済援助にかんする協定」のことで、一九四八年七月三日、蒋介石政府とアメリカ帝国主義の双方の代表が南京で調印したものである。この協定には、アメリカ帝国主義は蒋介石政府の財政経済にたいして最高の監督権と決定権をもち、中国で直接監督にあたるアメリカの要員は「治外法権」のあつかいをうけること、アメリカ帝国主義はその必要とするいかなる戦略物資も中国で手にいれることができ、蒋介石政府は定期的にこれらの物資にかんする情報を提供しなければならないこと、蒋介石政府はアメリカ商品の中国へのダンピングを保証することなどが規定されている。
〔3〕 賈宝玉は一八世紀の中国の小説『紅楼夢』にでてくる人物で、大観園は賈宝玉の邸内にある庭園のことである。賈宝玉は生まれたとき、口に一つの玉をふくんでいた。その玉はかれの命の綱で、肌身はなさず首にかけていなければならず、なくしたら「魂魄を失う」というのである。
(一九四九年一月十四日)
一九四六年七月、南京国民党反動政府がアメリカ帝国主義者の援助のもとに、人民の意志にそむいて、休戦協定と政治協商会議の決議をふみにじり、全国的な反革命の国内戦争をおこしてから、すでに二年半になる。この二年半の戦争のあいだに、南京国民党反動政府は、民意にそむいて、にせ国民大会を招集し、にせ憲法を発布し、にせ総統を選挙し、「反乱鎮定のための動員」というにせ政宅を公布し、大量の国家権益をアメリカ政府に売りわたして、アメリカ政府から数十億ドルの借款を手にいれ、アメリカ政府の海軍と空軍をひきいれて中国の領土、領海、領空を占拠させ、アメリカ政府とのあいだに多くの売国条約を結んで、アメリカの軍事顧問団を中国の内戦に参加させ、アメリカ政府から大量の飛行機、戦車、重砲、軽砲、機関銃、小銃、砲弾、銃弾その他の軍用物資を手にいれて、これを中国人民虐殺の武器にしてきた。南京国民党反動政府は、上述のさまざまな反動的、売国的な内政、外交の基本政策を土台にし、その数百万の軍隊を指揮して、中国人民解放区と中国人民解放軍にたいする残酷な進攻をおこなった。華東、中原、華北、西北、東北の各人民解放区で、国民党軍に蹂躙されなかったところは一つもない。解放区の中心部市延安、張家口、淮陰、[”くさかんむり”の下に”河”]沢、大名、臨沂、烟台、承徳、四平、長春、吉林、安東などはいずれも一時、国民党匪賊軍に占領された。匪賊軍はいく先ざきで人民を殺害し、婦人に暴行をくわえ、村落を焼きはらい、財物を略奪するなど、暴虐のかぎりをつくした。南京国民党反動政府の支配地域では、いわゆる「反乱鎮定・匪賊討伐」に供するため、労働者、農民、兵士、知識層、商工業者など各界の広範な人民大衆を抑圧して食糧を出させ、税金を出させ、人力を出させるなど、最後の血の一滴までしぼりあげている。南京国民党反動政府は、人民のあらゆる自由と権利をうばっており、あらゆる民主政党や人民団体を抑圧してその合法的地位をうばっており、青年学生の、内戦に反対し飢餓に反対し迫害に反対し、アメリカの中国内政干渉・日本侵略勢力育成に反対する正義の運動を抑圧しており、法幣や金円券を濫発して、人民の経済生活を破壊し、広範な人民を破産の状態につきおとしており、また、さまざまな収奪の方法によって、国家最大の富を、蒋、宋、孔、陳の四大家族をはじめとする官僚資本の系列に集中している。要するに、南京国民党反動政府がその反動的、売国的な内政、外交の基本政策を土台としておくなってきた国内戦争は、すでに全国人民を生き地獄につきおとしており、南京国民党反動政府はその当然おうべき全責任からけっして逃がれることはできない。国民党とは反対に、中国共産党は、日本の降伏後、あらゆる努力をはらって、国民党政府にたいし、国内戦争を防止し停止して国内平和を実現するよう要求してきた。中国共産党はこの方針にもとづいて、あくまで奮闘をつづけ、全国人民の支持のもとに、まず一九四五年十月の国共両党会談記録要綱の調印をかちとった。一九四六年一月には、さらに国共両党の休戦協定に調印するとともに、各民主政党と協力して、政治協商会議で国民党に共同決議をうけいれさせた。それ以後、中国共産党は、各民主政党、各人民団体とともに、これらの協定や決議をまもるために奮闘してきた。だが、残念なことには、国内の平和をまもり、人民の民主的権利をまもるこれらすべての行動は、いずれも国民党反動政府から尊重されなかった。逆に、それは、目をくれる価値もない弱さのあらわれとしてうけとられた。国民党反動政府は、人民はあなどりうるものと考え、休戦協定や政治協商会議の決議は勝手にふみにじりうるものと考え、人民解放軍は一撃にもあたいしないものと考え、かれらの数百万の軍隊は全国を横行しうるものと考え、かれらにたいするアメリカ政府の援助は無限につづくものと考えた。こうした考えから、国民党反動政府は、あえて全国人民の意志にそむいて、反革命戦争をひきおこしたのである。こうした状況のもとに、中国共産党は、だんこ立ちあがって国民党政府の反動政策に反対し、国家の独立と人民の民主的権利をまもるために奮闘せざるをえなくなった。一九四六年七月いらい、中国共産党は英雄的な人民解放軍を指導して、国民党反動政府の軍隊四百三十万の攻撃に抵抗し、のちには、反攻に転じて、解放区のすべての失地を回復し、石家荘、洛陽、済南、鄭州、開封、瀋陽、徐州、唐山などの大都市を解放した。中国人民解放軍はこのうえない困難を克服して、自己を強大にし、アメリカ政府が国民党政府にあたえた大量の兵器によって自己を装備した。そして、二年半のあいだに、国民党反動政府の主要な軍事力とすべての精鋭師団を殲滅した。現在、人民解放軍は、数のうえでも、士気のうえでも、また装備のうえでも、国民党反動政府の残存軍事力をしのいでいる。ここにいたって、中国人民ははじめて気を吐いたのである。現在、状況はひじょうにはっきりしている。人民解放軍が国民党軍の残存部隊にさらに何回か大きな攻撃をくわえさえすれば、国民党の反動支配機構はすべて崩壊し、消滅するであろう。いまや、国民党反動政府はその内戦政策によって自業自得の結果をまねき、みなにそむかれ身内に見はなされて、もはやもちこたえられなくなっている。このような情勢のもとに、国民党政府の残存勢力を温存し、息つぎの時間をかせいだうえで、勢いをもりかえし、革命勢力を撲滅しようとの目的から、中国戦争犯罪人の第一号、国民党匪賊一味の頭目にせ南京政府総統である蒋介石は、ことしの一月一日、中国共産党と和平交渉をおこないたいとの提案を持ちだしてきたのである。中国共産党は、この提案はいつわりのものであると考える。なぜなら、蒋介石はその提案のなかで、にせ憲法、にせの法的正統性、反動軍隊を温存するなどといった全国人民の同意できない条件を和平交渉の基礎として持ちだしているからである。これは戦争継続の条件であって、和平の条件ではない。この十日ばかりのあいだに、全国人民はすでに自己の意志をはっきり表示している。人民は一日もはやく平和のかちとられることを渇望しているが、戦争犯罪人どものいう平和には賛成しておらず、かれらの反動的な条件には賛成していない。このような人民の意志にもとづいて、中国共産党はつぎのように声明する。中国人民解放軍は、そう遠くないうちに国民党反動政府の残存軍事力を全部消滅できるだけのじゅうぶんな力とじゅうぶんな根拠をもっており、また確固とした自信をもっている。しかし、はやく戦争を終わらせ、真の平和を実現し、人民の苦痛を減らすため、中国共産党は、南京国民党反動政府および国民党のいかなる地方政府や軍事集団とも、つぎの条件を基礎にして和平交渉をおこなう用意がある。その条件とは、(一)戦争犯罪人を処罰すること、(二)にせ憲法を廃止すること、(三)にせの法的正統性を廃絶すること、(四)民主主義の原則にもとづいてすべての反動軍隊を編成がえすること、(五)官僚資本を没収すること、(六)土地制度を改革すること、(七)売国条約を廃案すること、(八)反動分子の参加しない政治協商会議をひらき、民主連合政府を樹立して、南京国民党反動政府およびそれに所属する各級政府のいっさいの権力を接収することである〔1〕。中国共産党は、上述の諸条件は全国人民の総意を反映するものであり、上述の諸条件のもとにうちたてられる平和こそが真の民主的な平和であると考える。もし、南京国民党反動政府の人びとがいつわりの反動的な平和でなく、真の民主的な平和の実現をねがうなら、その反動的な条件をすてて、中国共産党の提出した八つの条件を承認し、それを双方の和平交渉の基礎にすべきである。そうしなければ、かれらのいう和平はペテンにすぎないことを立証することになる。われわれは、全国人民、各民主政党、各人民団体がこぞって真の民主的な平和のためにたたかい、いつわりの反動的な平和に反対することを希望する。南京国民党政府関係の愛国者もまた、このような和平提案を支持しなければならない。中国人民解放軍の全指揮員、戦闘員の同志諸君、南京国民党反動政府が真の民主的な平和をうけいれ、実現するまでは、戦闘の努力をいささかもゆるめてはならない。あえて反抗する反動派にたいしては、これを断固として、徹底的に、きれいに、のこらず殲滅しなければならない。
〔1〕 毛沢東同志がこの声明のなかで提出した八項目の和平条件は、一九四九年四月、中国共産党代表団と張治中をはじめとする国民党政府代表団がおこなった和平交渉の基礎となった。この交渉の過程で起草された国内平和協定は、八項目の和平条件について具体的に規定している。くわしくは本巻の『全国への進軍命令』注〔1〕にみられる。
(一九四九年一月二十一日)
南京国民党反動政府筋の通信社である中央社の十九日発の電報によると、十九日午前九時にひらかれた行政院の会議では、ひろく時局について討議し、つぎのような決議をおこなった。「政府は、全国人民の願望にしたがって、平和の早期実現をはかるため、中共とともに双方でただちにまず無条件休戦をおこない、さらにそれぞれ代表を指定して和平の話し合いをおこなう用意があるむね、おごそかに表明するものである。」中国共産党のスポークスマンはつぎのように言明する。南京行政院のこの決議は、南京のにせ総統蒋介石が和平交渉を提案した一月一日の声明にもふれていないし、また中国共産党毛沢東主席が和平交渉を提案した一月十四日の声明にもふれておらず、この二つの提案のうち、いったいどちらを支持し、どちらに反対するかをあきらかにしていない。そして、一月一日と一月十四日に国共双方がどのような提案もおこなわなかったかのように、別個に自分の提案を出しているが、これはまったく理解できないところである。事実、南京行政院は、中国共産党の一月十四日の提案を完全に無視しているばかりか、にせ総統蒋介石の一月一日の提案をも直接くつがえしている。蒋介石は一月一日の提案のなかで、「共産党が和平への誠意をもち、確実な意志表示をしさえすれば、政府はかならずや胸襟をひらいて相会し、戦闘停止と平和回復の具体的方法をともに討議する用意がある」といっていた。ところが、それから十九日たつと、おなじ政府の一機構である南京政府の「行政院」がその政府の「総統」の声明をくつがえし、「かならずや胸襟をひらいて相会し、戦闘停止と平和回復の具体的方法をともに討議する用意がある」のではなく、「ただちにまず無条件休戦をおこない、さらにそれぞれ代表を指定して和平の話し合いをおこなう」ということになった。われわれは南京「行政院」の諸先生にうかがいたい。いったい諸君の提案が有効なのか、それとも諸君の「総統」の提案が有効なのか。諸君の「総統」は「戦闘停止と平和回復」を一つのこととして考え、かならずや胸襟をひらいて相会し、中国共産党とこのことを実現する具体的方法について討議する用意がある、と声明しているのに、諸君の方では戦争と和平を別々のこととしてきりはなし、代表を派遣してわれわれと戦争停止の具体的方法を討議しようとはしないで、奇想天外にも、「ただちにまず無条件休戦をおこない」、そのあとで代表を派遣して「和平の話し合いをおこなう」ことを提案している。いったい諸君の提案が正しいのか、それとも諸君の「総統」の提案が正しいのか。われわれは、南京のにせ行政院は自己の権限をのりこえていると考える。かれらには、にせ総統の提案をくつがえして、勝手に自己の新たな提案を出す資格はない。われわれは、南京行政院のこの新たな提案はいわれのないものだと考える。これほど長い、これほど大がかりな、これほど残酷な戦争をやってきた以上、戦争を停止させるには、当然、双方が人を派遣して和平の基本条件について討議するとともに、双方の同意する休戦協定をむすばなければならないのである。こうした希望をもっているのは人民だけではない。国民党側でも、少なからぬ人がこうした希望を表明している。もし南京行政院のなんのいわれもない「決議」のとおり、まず休戦しなければ和平交渉はやりたくないというのであれば、国民党の和平への誠意はどこにあるというのか。南京行政院の「決議」はすでに出された。まず休戦しなければ、和平交渉の可能性はなく、和平の門はこれですっかり閉ざされることになる。もし、交渉するというのなら、このなんのいわれもない「決議」をとり消すほかはない。二つに一つ、そのどちらかである。もし、南京行政院がその「決議」をとり消したくないというのなら、南京国民党反動政府が相手方と和平交渉をおこなう誠意などもっていないことをしめすことになる。人びとはたずねるであろう。南京側にはたして誠意があるなら、なぜ和平の具体的条件について討議しようとしないのか、南京の和平提案がいつわりのものだという断定は、もはや実証されたようなものではないか、と。中国共産党のスポークスマンはこういいたい。南京はいまや無政府状態におちいっており、にせ総統が一つの提案をすれば、にせ行政院がまた別の提案をする、これでは、いったいだれを相手にしたらよいのか、と。
(一九四九年一月二十八日)
南京国民党反動政府の中央通信社一月二十六日発の電報はこうつたえている。「政府スポークスマンはつぎのように語った。政府は、早急に戦争を終わらせて人民の苦しみを軽減するために、一月以来さまざまな段どりをつけ措置をこうじてきた。本月二十二日にはさらに正式に和平交渉の代表を任命した〔1〕。この数日間は、話し合いをおこなうために、中共側が代表を指名し場所をきめるのを待つばかりである。だが二十五日の新華社陝北放送のつたえる中共スポークスマンの談話〔2〕は、一方では、政府と平和的解決について話し合いたいと声明しながら、他方では、ほしいままに侮辱的言辞を弄し、理不尽なことばかりいっている。しかも交渉の場所は、北平がすっかり解放されてからでなければ確定できないという。では聞くが、中共側がもし即時代表を指名し場所をきめることをせず、また、軍事行動を停止せずに、北平の完全解放後まで待つということを口実にするなら、それは時間をひきのばし、戦禍を長びかせるものではないか。戦禍を終わらせたいという全国人民の希望にはすでに猶予できないものがあることを知らねばならない。政府は絶大の誠意を披瀝するために、中共がつぎのこと、つまり、こんにちの問題は、人民を救うことを前提として、すみやかに代表を指名し、話し合いをすすめて、平和をはやく実現するにあるということをはっきり認識するよう、いまなお期待するものである。」また南京中央社一月二十六日上海発の電報はこうつたえている。「日本人戦犯、元中国派遣軍総司令官岡村寧次大将は、二十六日、国防部戦犯裁判軍事法廷で再審ののち、十六時、石美瑜裁判長から無罪の判決を言いわたされた。そのとき、法廷は緊張した空気につつまれた。岡村は不動の姿勢で判決の言いわたしを聞き、かすかに顔をほころばせた」うんぬんと。以上にもとづいて、中国共産党スポークスマンはつぎの諸点を表明する。
(一)日本人戦犯、元中国派遣軍総司令官岡村寧次大将は、日本の中国侵略派遣軍のあらゆる戦争犯罪人のなかでも主要な戦争犯罪人であるが〔3〕、このたび南京国民党反動政府の戦犯軍事法廷で無罪の判決をうけた。中国共産党と中国人民解放軍総司令部は、これは許すべからざることである、と声明する。中国人民は、八年の抗日戦争のあいだに、数知れぬ生命、財産をうしなったが、さいわいにして勝利をおさめ、この戦犯を捕えたのであり、南京国民党反動政府が勝手に無罪の判決を下すことは断じて許せない。全国の人民、すべての民主政党、人民団体および南京国民党反動政府関係の愛国者は、このような、民族の利益を売りわたし日本のファシスト軍閥と結託する、南京反動政府側の犯罪行為にたいし、ただちに立ちあがって反対しなければならない。われわれはここで、南京反動政府の先生がたに厳重に警告する。諸君はただちに岡村寧次をあらためて逮捕監禁しなければならない、これにそむくことは許されない、と。このことは、諸君が現在われわれとの交渉をもとめていることと密接な関係がある。われわれの見るところでは、諸君の現在のさまざまな行為は、いつわりの和平交渉によってふたたび戦備をととのえるのをおおいかくすためのものであって、その戦備のなかには、諸君が日本の反動派を中国につれこみ、いっしょになって中国人民を殺すという陰謀がふくまれている。諸君が岡村寧次を釈放した目的は、そこにあったのである。したがって、われわれは、諸君がそんなことをするのを断じて許さない。われわれは諸君にたいし、つぎのように命令する権利がある。諸君はあらためて岡村寧次を逮捕するとともに、われわれがのちほど通知する期日と地点にしたがって、責任をもってかれを人民解放軍のもとに護送しなければならない。その他の日本人戦犯は、しばらく諸君が拘禁しておき、われわれの処理をまつこと、これを一人でも勝手に釈放したりわざと逃がしたりしてはならない。違反者は容赦なく厳罰に処する。
(二)南京国民党反動政府スポークスマンの一月二十六日の声明からわかったことは、南京の先生がたの和平交渉にたいする要求があれほど懸命、熱烈、慇懃、切実であるのは、すべて「戦争の期間を短縮し」「人民の苦しみを軽減し」「人民を救うことを前提とする」ためだそうだ、ということであり、また、中国共産党側が諸君のねがいをうけいれることにそれほど懸命でも熱烈でも熊熱でも切実でもなく、「軍事行動も停止しない」というのは、まったく「時間をひきのばし、戦禍を長びかせる」ものだというふうにうけとられている、ということである。われわれは、南京の先生がたに卒直に申しあげたい。諸君は戦争犯罪人であり、裁きをうける人間である。諸君が口にする「平和」とか「民意」といったものを、われわれは信じない。諸君はアメリカの勢力をたのみにし、人民の意志にそむき、休戦協定と政治協商会議の決議をふみにじって、この残酷きわまる反人民、反民主、反革命の国内戦争をおこした。そのとき諸君はあんなにも懸命、熱烈、慇懃、切実になって、だれの勧告も聞きいれなかった。諸君はにせ国民大会をひらき、にせ憲法を制定し、にせ総統を選挙し、「反乱鎮定のための動員」というにせ政令を出すのにもあんなに懸命、熱烈、慇懃、切実になって、またもやだれの勧告も聞きいれなかった。そのときは、上海、南京および各大都市の官営団体、御用団体のいわゆる参議会、商業会議所、労働組合、農民組合、婦人団体、文化団体がいっせいに「反乱鎮定のための動員の支持」「共産匪の消滅」をわめきたてたが、このばあいにもまたあんなに懸命、熱烈、慇懃、切実になって、またまただれの勧告をも聞きいれなかった。そのときから二年半たったが、諸君に殺された人民は数百万にとどまらず、諸君に焼きはらわれた村落、暴行をくわえられた婦人、略奪された財物、諸君の空軍の爆撃によってうしなわれた生命、財産は数えきれないほどである。諸君はこのうえもない大罪をおかしたのだ。この債務はどうしても清算しないわけにはいかない。聞けば、諸君は清算闘争にかなり反対だとのことである。しかし、こんどの清算闘争はいわれのあることで、どうしても清算しないわけにはいかないし、どうしても闘争にかけないわけにはいかない。諸君は戦争に負けたのだ。諸君は人民を激怒させた。人民はいっせいに立ちあがって、諸君と必死にたたかった。人民は諸君を好まず、人民は諸君を責め、人民は立ちあがった。諸君は孤立した。そのために諸君は戦争に負けたのだ。諸君は五ヵ条〔4〕をかかげ、われわれは八ヵ条〔5〕をかかげたが、人民はただちにわれわれの八ヵ条を支持し、諸君の五ヵ条は支持しなかった。諸君にはわれわれの八ヵ条を反はくするだけの勇気がなく、諸君の五ヵ条を堅持するだけの勇気がなかった。諸君はわれわれの八ヵ条を交渉の基礎にしたいと声明した。そして、これならいいだろう、なぜはやく交渉をはじめないのか、というわけで、諸君はひどく懸命、熱烈、慇懃、切実になり、「無条件に休戦する」「戦争の期間を短縮する」「人民の苦しみを軽減する」「人民を救うことを前提とする」としきりに主張するようになった。ところでわれわれのほうはどうか、というと、あきらかに、懸命でも熱烈でも慇懃でも切実でもなく、「時間をひきのばし、戦禍を長びかせ」ている。だが、南京の先生がた、ちょっと待ちたまえ。われわれもいまに懸命になり、熱烈になり、慇懃になり、切実になるし、戦争の期間はかならず短縮することができ、人民の苦しみはかならず軽減することができる。諸君がわれわれの八つの条件を双方の交渉の基礎とすることに同意した以上、諸君とわれわれはこれからいっせいに忙しくなるにちがいない。この八ヵ条を実行するとなると、諸君も、われわれも、すべての民主政党も、人民団体も、さらに全国各界の人民も、数ヵ月、半年、一年、数年は忙しくなるだろうし、おそらくは、それでもまだかたづかないだろう。南京の先生がた、よく聞いてもらいたい。八ヵ条は抽象的な条文ではなく、具体的な内容をもつものにしなければならないので、さしあたっては、やはりみんなでよく考えてみることが大切である。そのためにいくらかひまだったところで、人民も了解してくれるにちがいない。卒直にいって、こんどの交渉はじゅうぶんに準備をととのえてかかるようにというのが、人民の意見である。交渉はかならずやる。だれにしても、中途で態度をかえて交渉をこばむようなことは、ぜったいに許されない。したがって、諸君の代表もかならず、来るように準備をととのえていなければならない。だが、われわれはなおしばらく準備をしなければならないし、戦争犯罪人たちがわれわれにかわって交渉の期日をきめることは許さない。われわれと北平の人民はいま、八つの条件にもとづいて平和的に北平問題を解決するという重要な仕事にとりくんでいる。北平にいる諸君の側の人、たとえば傳作義将軍などもこの仕事にくわわっているが、諸君はすでに、諸君の通信社の公告をつうじて、この仕事の正しさを認めている〔6〕。このことは和平交渉のために場所を準備するばかりか、さらに南京、上海、武漢、西安、太原、帰綏、蘭州、迪化、成都、昆明、長沙、南昌、杭州、福州、広州、台湾、海南島などの和平問題の解決に手本をしめすものである。したがって、この仕事は称賛されるべきもので、南京の先生がたもこれにたいしてあまり慎重さを欠く態度をとるべきではない。われわれはいま、戦争犯罪人の名簿の問題について、われわれの区域と諸君の区域の両方の各民主政党、人民団体および無党派民主人士と相談し、第一の条件の具体的内容を準備している。この名簿は多分まもなく、正式に発表できるだろう。南京の先生がた、諸君も知っているとおり、われわれと各民主政党、人民団体は現在なお、そうした名簿について相談をすませて正式に発表するところまできていない。これは先生がたにご了承をねがわなければならないことである。その原因は、諸君の和平交渉についての要求がいささかおそかったことにある。もうすこしはやければ、われわれはもう準備を終えていたかもしれない。しかし、諸君もやることがないわけではない。日本人戦犯の岡村寧次を逮捕するだけでなく、諸君はただちに一群の内戦犯罪人の逮捕、何よりもまず、昨年十二月二十五日の中国共産党権威筋の声明のなかに名前をあげられた四十三人の戦犯で、南京、上海、奉化、台湾などにいるものの逮捕にとりかからなければならない。そのうちのもっともおもだったものは、蒋介石、宋子文、陳誠、何応欽、顧祝同、陳立夫、陳果夫、朱家[馬+華]、王世[”木”の下に”れっが”]、呉国楨、戴伝賢、湯恩伯、周至柔、王叔銘、桂永清などである〔7〕。とくに重要なのは蒋介石で、同犯人は現在すでに奉化に逃げており、外国に逃げだしてアメリカあるいはイギリス帝国主義に庇護をもとめる可能性が多分にある。したがって諸君は、ぜひとも、すみやかに同犯人を逮捕すべきで、逃がしてはならない。このことについては諸君が完全に責任を負うべきで、もし逃亡するようなことがおこれば、かならず匪賊放任の罪に問い、断じて容赦はしない。そのときになって、予告がなかったなどといってはならない。これらの戦争犯罪人を逮捕してはじめて、戦争の期間を短縮し、人民の苦しみを軽減するためにまじめに仕事を一つしたことになる、とわれわれは考える。戦争犯罪人どもがなお存在するかぎり、戦争の期間はひきのばされ、人民の苦しみは増すばかりである。
(三)以上の二項目について、南京反動政府の回答をもとめる。
(四)八ヵ条のうちのその他の各条について双方が準備すべきことがらは、別の機会にあらためて南京に通知する。
〔1〕 当時、国民党反動政府の任命した和平交渉の代表は、邵力子、張治中、黄紹竑、彭昭賢、鐘天心の五人であった。
〔2〕 一九四九年一月二十五日の、中国共産党スポークスマンの和平交渉にかんする談話は、つぎのように指摘した。「南京反動政府が代表を派遣してわれわれと交渉をおこなうことをわれわれが承認したのは、この政府にまた中国人民を代表する資格かあると認めているからではなく、この政府の手もとにまだ一部の反動的な残存軍事力があるからである。もしこの政府が、自分はすでにまったく人民の信任をうしなっていると感じ、その手中にある残存反動軍事力ではもはや強大な人民解放軍に抵抗すべくもないと感じて、中国共産党の八つの和平条件をうけいれることをねがうならば、交渉という方式で問題を解決して人民の苦しみを少なくすることは、もちろんより好ましく、人民の解放事業にも有利である。」また、談話は、交渉の場所については、「北平がすっかり解放されてからでなければ確定できないが、おそらく北平になろう」とのべ、交渉の代表については、「彭昭賢は、もっとも強硬な主戦派である国民党CC派の主要幹部の一人で、人びとから戦争犯罪人とみなされており、中国共産党側はこうした代表をうけいれることはできない」とのべている。
〔3〕 岡村寧次は、中国侵略の経歴のもっとも長い、罪のもっとも大きな日本人戦犯の一人である。かれは一九二五年から一九二七年まで、北洋軍閥孫伝芳の軍事顧問をつとめた。一九二八年に日本軍の歩兵連隊長となり、日本軍の済南侵略戦争に参加し、済南虐殺事件の下手人となった。一九三二年には、日本の上海派遣軍副参謀長として上海侵略戦争に参加した。一九三三年には、日本政府を代表して国民党売国政府と「塘沽協定」に調印した。一九三七年から一九四五年までの期間に、日本軍第十一軍、華北方面軍、第六方面軍の司令官、および中国派遣軍総司令官を歴任し、中国において、残虐きわまりない、焼きつくし、殺しつくし、奪いつくす「三光政策」を実行した。一九四五年八月、延安で公布された日本人戦犯名簿に、最重要戦争犯罪人としてあげられた。人民解放戦争の期間には、蒋介石の秘密軍事顧問として、蒋介石のために解放区への進攻を画策した。一九四九年一月、国民党反動政府から無罪の判決をうけ、釈放されて帰国した。一九五〇年にはまたもや、蒋介石から「革命実践研究院」の高級教官として招聘された。 一九五五年からはまた、日本陸海軍の旧軍人をあつめて「戦友団体連合会」(のちに郷友連盟と改称)をつくり、日本軍国主義復活の反動的活動に積極的に参与している。
〔4〕 国民党反動政府のかかげた「五ヵ条」とは、蒋介石が一九四九年元旦の声明のなかでかかげた、和平交渉についての五つの条件、つまり、一、「国家の独立・保全をそこなわないこと」、二、「人民の休養・生存に役立つこと」、三、「神聖な憲法が余の故をもっておかされることなく、民主的憲政がそれによって破壊されることなく、中華民国の国体が確保され、中華民国の法的正統性が中断されないこと」、四、「軍隊が確実な保障をあたえられろくと」、五、「人民が自由な生活様式と当面の最低生活水準を維持しうること」をさす。毛沢東同志は当時この五ヵ条にきびしい反ばくをくわえた。本巻の『戦犯の和を乞うを評す』にみられる。
〔5〕 中国共産党の「八ヵ条」とは、一九四九年一月十四日に毛沢東同志が時局についての声明のなかでかかげた、和平交渉についての八つの条件をさす。本巻の『中国共産党中央委員会毛沢東主席の時局にかんする声明』にみられる。
〔6〕 国民党中央通信社が一九四九年一月二十七日に発表した南京政府国防部の公告にはつぎのようにのべられていた。「華北方面では、戦争の期間を短縮し、平和を招来して、古都北平の基礎および文化財、古跡の保全をはかるため、傳作義総司令は、二十二日、公告を発表し、二十二日午前十時より停戦にはいるむね宣言した。北平市の国軍の大部分は、ただちに総司令部の指示にしたがい、前後して市区より撤退し、指定の地点にはいった。」公告にはまた「綏遠、大同の両地もまた停戦にはいることになっている」とのべられていた。
〔7〕 宋子文は国民党の財閥で、国民党政府の財政部長、行政院長、外交部長、駐米特使などを歴任した。陳誠はかつて国民党参謀総長をつとめたが、当時は国民党政府の台湾省主席であった。何応欽はかつて国民党の参謀総長、国防部長をつとめた。顧祝同は当時、国民党軍の参謀総長をつとめていた。陳立夫、陳果夫、朱家[馬+華]はいずれも国民党CC派のおもだった頭目であった。王世[”木”の下に”れっが”]はかつて国民党政府の外交部長をつとめた。呉国楨は当時、国民党政府の上海市長をつとめていた。載伝賢とは載季陶のことで、長いあいだ、蒋介石の策士としてはたらき、当時は国民党の中央常務委員であった。湯恩伯は当時、国民党の南京・上海・杭州警備総司令をつとめていた。周至柔は当時、国民党空軍総司令をつとめていた。王叔銘は当時、国民党空軍副総司令兼参謀長をつとめていた。桂氷清は当時、国民党海軍総司令をつとめていた。
(一九四九年二月五日)
和平交渉の問題にかんする先月三十八日の中国共産党スポークスマンの声明にたいして、先月三十一日に国民党反動売国政府スポークスマンから回答があった。国民党反動売国政府のスポークスマンはその回答のなかで、中国共産党スポークスマンの提出した各項の問題について言いのがれをしている。中国共産党が国民党反動売国政府にたいし、責任をもって日本の中国侵略の主犯者岡村寧次をあらためて逮捕して人民解放軍のもとに護送する準備をするとともに、責任をもってその他の日本人戦犯を監禁して逃がしたりしないことを要求した項目について、同スポークスマンは、これは「司法上の問題である。和平交渉とはまったく関係がないし、まして和平交渉の前提条件とはなりえない」といっている。そして、中国共産党が国民党反動売国政府にたいし、責任をもって蒋介石ら戦争犯罪人を逮捕せよと要求した項目については、「真の和平には前提条件などあるべきではない」といっている。そのうえ、中国共産党スポークスマンの声明は「態度のうえに慎重さを欠くきらいがある」といい、しかも「事態を複雑にする」ものだともいっている。これにたいして、中国共産党スポークスマンはつぎのように声明するものである。一月二十八日というあのような時になってもまだ、われわれは国民党反動売国政府を一つの政府とよんでいた。この点からいえば、われわれの態度にはたしかに慎重さに欠けるところがあった。このいわゆる「政府」はいったい、いまでもなお存在しているのだろうか。それは南京に存在しているのだろうか。南京には行政機関がない。広州に存在しているのだろうか。広州には行政の首脳者がいない。上海に存在しているのだろうか。上海には行政機関もなければ、行政の首脳者もいない。奉化に存在しているのだろうか。奉化には「引退」を宣言したにせ総統がいるだけで、ほかには何もない。したがって、慎重にいうならば、それはすでに一つの政府と見なすべきではなく、せいぜいのところ、仮定の、あるいは象徴的な政府にすぎない。しかし、われわれはなお、そういった一つの象徴的な「政府」があるものと仮定し、またこの「政府」なるものを代表して発言できる一人のスポークスマンがいるものと仮定する。それなら、このスポークスマンは、この仮定の、象徴的な国民党反動売国政府がいま和平交渉になんの貢献もしていないばかりか、たしかに事態をたえず複雑にしている、ということを知るべきである。たとえば、諸君があれほどあせって交渉を要求しておきながら、そのさなかに突然岡村寧次に無罪を言いわたしたということは、事態を複雑にするものでないといえるだろうか。中国共産党があらためて逮捕するよう要求したあとで、なお、かれを日本に送り、おまけにほかの二百六十名の戦犯まで日本に送ったということは、事態を複雑にするものでないといえるだろうか。日本はいま、だれが支配しているのか。まさか、日本人民が支配していて帝国主義者が支配しているのではない、とはいえまい。日本は、諸君がことのほか熱愛しているところである。それで諸君は、日本人戦犯たちが諸君の支配する地区でくらすよりも、日本でくらしたほうがより安全で、より快適で、より正当な待遇をうけられると信ずるまでになっている。これは司法上の問題だろうか。この司法上の問題はなぜおきたのだろうか。日本侵略者とわれわれがまる八年間戦ってきたということまで、諸君は忘れてしまったのか。これは、まったく和平交渉とは関係がないのだろうか。一月十四日に中国共産党が八ヵ条を提出した時には、まだ岡村寧次の釈放ということはおこっていなかった。一月二十六日にそれがおこった。それで、このことが当然もちだされることになり、和平交渉と関係をもつことになった。一月三十一日、諸君はマッカーサーの命令をうけて、さらに、日本人戦犯二百六十名を岡村寧次といっしょに日本に送った。それで、なおさら和平交渉と関係をもつことになった。なぜ諸君は和平交渉を要求するのか。それは諸君が戦争に負けたからである。諸君はなぜ戦争に負けたのか。それは諸君が反人民の国内戦争をおこしたからである。諸君は、どういう時に、この国内戦争をおこしたのか。日本が降伏したのちにである。諸君はだれをやっつけるためにこの戦争をおこしたのか。抗日戦争に大きな功績をたてた人民解放軍と人民解放区をやっつけるためである。どういう力によってやっつけようとしたのか。アメリカの援助のほかには、諸君の支配地区で人民のなかから拉致した人力、しぼりとった物力によってである。中国人民と日本侵略者との一大決戦が終わり、対外戦争が終わるとすぐ、諸君は、こんどの対内戦争をおこした。諸君は戦争に負けて交渉を要求していながら、突然また日本人の最重要戦犯岡村寧次の無罪を宣告した。われわれが諸君に抗議し、諸君にたいして、岡村寧次をふたたび監禁し、人民解放軍にひきわたす準備をするように要求するとすぐ、諸君はまたあわててかれをほかの二百六十名の日本人戦犯といっしょに日本に送ってしまった。国民党反動売国政府の先生がた、諸君のこうしたやり方はあまりにも道理にはずれており、あまりにも人民の意志にそむいている。われわれはいま諸君の肩書にとくに売国という二字を添えているが、このことは諸君も当然認めるべきである。諸君の政府はずっと前から売国政府だったが、ただ文字を節約するために、われわれは時にはこの二字を省略した。しかし、いまは省略することはできない。諸君はこれまでのたびかさなる売国罪のほかに、またもや売国罪をおかしたのである。しかも、こんどの罪は重大である。この問題は和平交渉の会議でかならずとりあげなければならない。諸君が、それは事態を複雑にするものだといおうというまいと、このことはかならずとりあげなければならない。というのは、これは一月十四日以後におこったことで、われわれがもとから出している八つの条件のうちにふくまれていないからである。したがって、われわれは、第一の条件のなかに、日本人戦犯の処罰という一項目をぜひくわえなければならないと考える。そこで、この一ヵ条はつぎの二項目になる。つまり(1)日本人戦争犯罪人の処罰、(2)国内戦争犯罪人の処罰、である。われわれがこの項目をかかげるのは理由のあることであり、全国人民の意志を反映したものである。全国人民はみな日本人戦犯の処罰を要求している。国民党の内部にさえも、岡村寧次ら日本人戦争犯罪人を処罰するのは、蒋介石ら国内戦争犯罪人を処罰するのと同様に当然のことだと考えている人がたくさんいる。諸君がわれわれをさして、和平への誠意をもっているといおうと、もっていないといおうと、この二種類の戦犯の問題はどちらもとりあげなければならないし、この二種類の戦犯はどちらも処罰しなければならない。諸君にたいし、交渉に先立って一群の内戦犯罪人を逮捕し、これらの戦犯の逃亡をふせぐよう命じた問題について、諸君は「前提条件などあるべきではない」と考えている。国民党反動売国政府の先生がた、これは前提条件ではない。これは、諸君が戦犯処罰の一ヵ条を交渉の基礎とすることを認めたために、当然うまれてきた要求である。諸君に逮捕するように命じたのは、戦犯たちが逃亡するおそれがあるからである。われわれに交渉の準備がまだできていないのに、諸君はまるで足もとに火がついたように交渉をあせり、暇で困っているようなので、それではと、諸君に、筋のとおった仕事をやってもらうことにしたわけである。これらの戦犯は、どんなことがあっても逮捕する。たとえ、かれらが地のはて海のはてまで逃げていこうとも、かならず逮捕する。諸君は「戦争の期間を短縮し」「人民の苦しみを軽減し」「人民を救うことを前提とする」ことをねがう大慈大悲、救苦救難の方がたであり、やさしい心を山ほどもっている方がたなので、幾百万の同胞を虐殺したこれらの責任者にたいしては、当然なんの愛着も感じないはずである。諸君に戦犯の処罰を交渉の基礎の一つとする用意があるという点からみても、諸君はそうしたしろものにあまり愛着を感じていないようである。しかし諸君の声明では、いますぐそうしたしろものを逮捕せよというのではいささか困るといっているようにみえるが、それもよかろう。それならば、諸君はかれらの逃亡をふせぎたまえ。ぜったいにこれらのしろものを逃がしてはならない。先生がた、考えてもみたまえ。諸君がさんざん苦労して代表団を派遣し、われわれと戦犯処罰の問題を討論しているその時に戦犯たちが逃げてしまったとしたら、いまさら何を話し合うというのか。諸君の代表団の人たちの顔がそれでも立つというのか。諸君がそれほどたくさんもっている「和平への誠意」が、何によって示されるというのか。先生がたが真に「戦争の期間を短縮し」「人民の苦しみを軽減し」「人民を救うことを前提とする」ことをねがっており、しかもそれにすこしのいつわりもないことが、どうして証明できるというのか。このほか、同スポークスマンは、まだいろいろとくだらないことをいっているが、そうしたくだらないことばでは、だれもだますことはできないし、われわれは回答する必要はないと考えている。南京、あるいは広州、あるいは奉化、あるいは上海にある、仮定の、象徴的な国民党反動売国「政府」(政府の二字が括弧つきである点に注意すること)の先生がた、もし諸君がわれわれのこの声明の態度になお慎重さを欠くものがあるとおもわれるならば、どうかご了承ぬがいたい。われわれは諸君にたいしては、こうした態度しかとれないのである。
(一九四九年二月八日)
これは、毛沢東同志が中国共産党中央革命軍事委員会のために書いた第二野戦軍と第三野戦軍への返電である。この電報は、他の野戦軍および関係ある中央局にも同時に発せられた。この電報は、遼藩、淮海、平津の三大戦役ののち、はげしい戦争の時期はすでにすぎさったという判断をくだし、そこで人民解放軍が戦闘隊であるばかりでなく工作隊でもなければならず、しかも一定の条件のもとでは、主として工作隊の任務をになわなければならないことをいちはやく提起している。この方針は、当時、新解放区の幹部問題の解決と人民革命事業の順調な発展にとってきわめて大きな役割をはたした。人民解放軍か戦闘隊でもあり工作隊でもあるという性質については、本巻の『中国共産党第七期中央委員会第二回総会での報告』の第二の部分を参照。
四日づけの電報のおもむき了承した。諸君は出動を一ヵ月くりあげる〔1〕つもりで整備・訓練にはげんでいる由、たいへん結構である。気をゆるめず、そのように事をはこばれだい。だが実際には、三月は、やはり整備・訓練をおこなわなければならないし、また大都市の接収と管理にそなえて政策の学習に重きをおかなければならない。今後は、まず農村それから都市という過去二十年間の方式を逆にして、まず都市それから農村という方式にあらためることとなろう。軍隊は戦闘隊であるばかりでなく、主としては工作隊である。軍隊の幹部はすべて、都市を接収し管理することを習得しなければならない。つまり都市において、帝国主義と国民党反動派に対処すること、ブルジョア階級に対処すること、労働者を指導し労働組合を組織すること、青年を動員し組織すること、新解放区の幹部と団結しかれらを訓練すること、工業や商業を管理すること、学校、新聞、通信社、放送局を管理すること、外交問題を処理すること、各民主政党、人民団体にかんする問題を処理すること、都市と農村の関係を調整し、食糧、石炭、その他の必需品の問題を解決すること、金融と財政の問題を処理することなどがうまくできるようにならなければならない。要するに、これまで軍隊の幹部や兵士たちがよく知らなかった、都市のいっさいの問題を、今後は全部自分でうけもたなければならない。諸君は前進して、四つか五つの省を占領することになり、都市の活動以外に広大な農村の活動もやらなければならなくなる。南方の農村はまったくの新解放区であるから、北方の旧解放区の活動とは根本的にちがう。最初の年はまだ小作料・利子引き下げの政策を実施することはできず、だいたい今までどおり小作料や利子をおさめるほかはない。こうした条件のもとで、農村の活動をおこなうことになる。したがって、農村の活動も学びなおさなければならない。だが、農村の活動は都市の活動よりも学びやすい。都市の活動は比較的むずかしく、また当面の学習のもっとも主要な面である。われわれの幹部が都市の管理をすみやかに習得することができなければ、きわめて大きな困難が生じるであろう。したがって、諸君は二月中に他のいっさいの問題をかたづけ、三月のまる一ヵ月間を都市の活動と新解放区の活動についての学習にあてなければならない。国民党には百数十万の軍隊しかなく、それが広大な地域に分散している。もちろん、まだ多くの戦闘がわこなわれるであろうが、しかし淮海戦役のような大規模な戦いのおこなわれる可能性はあまりなく、あるいはまったくないといってよく、はげしい戦争の時期はすでにすぎさった。軍隊はやはり戦闘隊であり、この点では、けっして気をゆるめてはならず、気をゆるめたら、それはあやまりである。だが、軍隊を工作隊に変えよ、というふうに任務を提起することがすでにわれわれに要求されている。われわれがいまになっても、こうした任務を提起せず、またそれを遂行することを決意しないなら、われわれはきわめて大きなあやまりをおかすこととなろう。われわれはいま、軍隊といっしょに南下させる幹部を五万三千人用意しているが、この数はひじょうにすくない。八つも九つもの省を占領し、数十の大都市を占領するのに必要な幹部は膨大な数にのぼるが、これはおもに軍隊自身で解決しなければならない。軍隊は学校であり、二百十万の野戦軍は数千の大学や中学とおなじであって、すべての幹部はおもに軍隊自身で解決すべきである。この点について、諸君ははっきりした認識をもたなければならない。はげしい戦争がすでに基本的に終わった以上、軍隊の人数と装備の補充は適当な程度にとどめるべきで、あまり多くの、あまりりっぱな、あまり完全なものを要求して、財政上の危機をまねくようなことをしてはならない。この点についても諸君はふかく考慮しなければならない。以上の方針は、第四野戦軍にも完全に適用される。林彪同志、羅栄桓同志も同様に注意されたい。われわれはすでに康生同志といろいろ話しあった。康生同志に、十二日までに諸君のところへいって、諸君とうち合わせてもらうことにした。諸君の意見はどうか、またどんな処置をとるか、うち合わせが終わったら、すぐに電報で知らせてほしい。華東局と華東軍区の機関はただちに徐州へ移って、総前線委員会〔2〕および第三野戦軍前線委員会といっしょに活動し、南進のための手配に精力を集中されたい。すべての後方活動は、山東分局にまかせるようにされたい。
〔1〕 第二野戦軍と第三野戦軍が長江渡河作戦の行動を一九四九年四月から三月にくりあげる準備をしていたことをさす。そのご、国民党反動政府と和平交渉をおこなったため、人民解放軍の長江渡河作戦の時期は、また四月下旬にのばされた。
〔2〕 淮海戦役の作戦上の必要から、中国共産党中央革命軍事委員会は、一九四八年十一月十六日、劉伯承、陳毅、鄧小平、粟裕、譚震林の五同志をもって総前線委員会を構成し、鄧小平同志を総前線委員会の書記に任命して、中原野戦軍と華東野戦軍を統一的に指導させ、淮海前線の軍事指導および作戦指導の職権を執行させることを決定した。
(一九四九年二月十五日)
国民党反動支配のくずれていく速度は、人びとの予想以上にはやい。解放軍の済南攻略からわずか四ヵ月あまり、瀋陽攻略からわずか三ヵ月あまりしかたたない現在、国民党の軍事面、政治面、経済面、文化・宣伝面のあらゆる残存勢力はもはや、救いようのない四分五裂と瓦解の状態におちいっている。国民党支配の全面的崩壊は北部戦線の遼瀋戦役、平津戦役と南部戦線の淮海戦役の期間にはじまり、この三つの戦役によって国民党は、去年の十月はじめからことしの一月末までの四ヵ月たらずのあいだに、正規軍百四十四コ師団の全員をふくむ百五十四万人あまりをうしなった。国民党支配の全面的崩壊は中国人民解放戦争と中国人民革命運動の偉大な勝利の必然の結果であるが、国民党とその主人アメリカの「和平」のわめきも、国民党の崩壊を促すうえでかなりのはたらきをした。国民党反動派がことしの一月一日から持ちあげはじめた「和平攻勢」と称する石は、もともと中国人民を打つためのものであったのに、いまではかれら自身の足を打っている。もっと正確にいえば、国民党自身を脳天から爪先まで打ちくだいたのである。傳作義将軍は人民解放軍に協力して、すでに北平問題を平和的に解決したが、このほかにも平和的解決をのぞむ人たちは各地にまだたくさんいる。アメリカ人はそばにいて業をにやし、息子たちのふがいなさをひどくうらんでいる。だが、実は、和平攻勢というこの宝珠の玉はアメリカ工場の製品で、もう半年以上もまえにアメリカ人が国民党におくったものなのである。スチュアート自身がこの秘密をもらしている。かれは、蒋介石がいわゆる元旦の声明を出したあとで、中央通信社の記者に、これは「わたし自身がこれまで一貫して追求してきたものだ」と語った。アメリカの通信社のつたえるところによれば、その記者は、この「公表すべからざる」談話を公表したため、首を切られたとのことである。蒋介石集団は長いあいだアメリカ人のこの命令をうけいれることに踏みきれなかったが、その理由は昨年十二月二十七日の国民党中央宣伝部の指示のなかにはっきりつぎのようにのべられている。「わが方にして、もし戦うことができないなら、和することもまたできない。わが方にして、もし戦うことができるなら、和議はいたずらに士気、人心を瓦解させるだけである。したがって、戦うことができるかどうかにかかわらず、和議は百害あって一利なしである。」国民党が当時この指示を出したのは、国民党内の他の派閥がすでに和議を主張していたからである。昨年十二月二十五日、白崇禧とその指導下の湖北省参議会が、蒋介石に、「平和的解決」の問題を持ちだしたので〔1〕、蒋介石はやむなくことしの一月一日、五つの条件のもとで和平交渉をおこなうという声明を出さざるをえなくなった。蒋介石は白崇禧の手から和平攻勢という新案特許をうばいとり、新しい商標のもとで、もとのままの支配をつづけたいと考えたのである。蒋介石は一月八日、張群を漢□にやって白崇禧の支持をもとめ、同日、米英仏ソ四ヵ国の政府にたいして、中国の内戦に干渉するようもとめた〔2〕。だが、これらの措置はすべて失敗に終わった。中国共産党の毛沢東主席が一月十四日の声明で蒋介石のみせかけの和平の陰謀に致命的な打撃をあたえたので、蒋介石は一週間後には舞台裏へ「引退」せざるをえなくなった。蒋介石、李宗仁およびアメリカ人は、この手をうつためにいろいろな手配をし、相当見ごたえのある猿芝居を共演しようとしたのだが、結果はかれらの期待をうらぎり、舞台の下の観衆がいよいよまばらになっていったばかりか、舞台の上の役者までもつぎつぎと行くえをくらましてしまった。蒋介石は奉化にいて、「在野の地位」から、あいかわらずその残存勢力の指揮をとりつづけているが、しかしかれはもう合法的な地位をうしなっており、かれを信ずるものはますます少なくなっている。孫料の「行政院」は「政府を広州にうつす」と勝手に宣言し、その「総統」や「総統代理」から離脱する一方、その「立法院」「監察院」からも離脱した。孫料の「行政院」は戦争をよびかけているが〔3〕、戦争をする「国防部」は、広州にもなければ、南京にもない。人びとはただ、そのスポークスマンが上海にいることを知っているだけである。こうして、李宗仁が石頭城から目にしうるものとては、ただ「天は呉楚にたれ、眼空しくして物なし」〔4〕ということになってしまった。李宗仁が先月二十一日に登場してから現在までにくだした命令で、実行されたものは一つもない。国民党にはもはや「全面的」な「政府」がなく、多くの地方にいま局部的和平の動きがあるにもかかわらず、国民党の頑迷派は局部的和平に反対し、「全面的和平」なるものを要求している。その目的は、和平を踏みつぶし、戦いをつづけることにある。かれらは局部的和平の動きがひろがって収拾がつかなくなるのをひどくおそれている。四分五裂になり瓦解している国民党が「全面的和平」なるものをもとめるという道化芝居は、上海のにせ国防部政治工作局長で戦争犯罪人である鄧文儀の今月九日の声明で頂点にたっした。鄧文儀は孫科とおなじように、中国共産党の八項目の和平条件を交渉の基礎とするという李宗仁の先月二十二日の声明をくつがえして、「対等の和平、全面的な和平」なるものを要求し、それがとおらなければ「あらゆる犠牲を惜しまず、共産党とあくまでわたりあう」といっている。だが鄧文儀は、こんにち相手方が結局だれと「対等の」「全面的な」和平について交渉すべきかにはふれていない。鄧文儀を相手にしたのでは、問題は解決できそうにないし、鄧文儀やほかのだれかれを相手にしないのでは、やはり問題は解決できそうにないので、まことに困ったものである。上海九日発中央通信社電はこういっている。「鄧局長が発表した四項目の意見〔5〕に李総統代理は同意したのかどうかとの新聞記者の質問にたいし、鄧文儀氏は、自分は国防部の立場で発言したのであって、本日発表した四項目の意見は事前に李総統代理に目をとおしてもらったものではない、と答えた。」鄧文儀はここで、にせ国民党政府の全面的立場とは異なるにせ国防部の局部的立場をつくりだしているばかりでなく、実際には、にせ国防部の大きな局部的立場とも異なるにせ国防部政治工作局の小さな局部的立場をつくりだしている。なぜなら、鄧文儀は北平の平和的解決に公然と反対し、これを中傷しているが、にせ国防部は一月二十七日に、北平の平和的解決は「戦争を短縮し、平和を招来して、古都北平の基礎および文化財、古跡の保全をはかるため」であったと称賛し、また、その他のところ、たとえば大同、綏遠など〔6〕でも、同様の方法で「停戦の実施」をみるであろうといっているからである。こうしたことからわかるように、「全面的和平」をわめきたてることにいちばん熱をあげている反動派こそ、全面的立場にいちばん欠けた反動派だったのである。国防部の一政治工作局が、国防部と矛盾しあってもかまわなければ、総統代理と矛盾しあってもかまわないのである。こうした反動派は、こんにち中国で平和を実現するうえでの最大の障害物である。かれらは、「全面的和平」のスローガンのもとで全面的戦争を鼓吹することを夢みている。つまり、「戦うなら全面的に戦い、和するなら全面的に和する」というのである。だが実際には、かれらには全面的和平をおこなう力などはないし、全面的戦争をおこなう力などもない。全面的な力は中国人民、中国人民解放軍、中国共産党およびその他の民主政党の側にあるのであって、四分五裂になり瓦解している国民党の側にあるのではない。一方は全面的な力をもっており、他方は四分五裂と瓦解の最後のどたんばにきている。この局面は、中国人民の長期の闘争と国民党の長期の悪行がもたらしたものである。まじめな人間ならだれでも、こんにちの中国の政治情勢におけるこの基本的な事実を無視することはできないのである。
〔1〕 国民党華中「匪賊討伐」総司令白崇禧は、蒋介石にきわめて不利な当時の情勢を利用して、一九四八年十二月二十五日、蒋介石にむかって「平和的解決」の主張を持ちだした。そのねらいは、蒋介石に退陣をせまり、広西派の地位を高めることにあった。白崇禧のさしずのもとに、にせ湖北省参議会は、蒋介石あての電報を可決した。この電報は「戦禍かびきつづきひろがるのに、ただちに政策転換の措置が講じられないならば、国は国たらず、民は民たらざるにいたるであろう」と蒋介石に警告し、「政治的解決の常道によって、和平交渉回復の方途をもとめる」ことを蒋介石に要求した。
〔2〕 国民党政府は一九四九年一月八日、米英仏ソ四ヵ国の政府に、中国の内戦に干渉するようもとめたが、四ヵ国の政府から拒否された。アメリカ政府は、一月十二日に国民党政府に回答した「覚え書」のなかで、アメリカが国民党政府の要求を拒否したのは、「なんちかの有益な効果をあげうるとは」「とうてい信じがたい」からだと説明している。これは当時すでにアメリカが、自分にはもうこれ以上、みずからもりたててきた蒋介石反動政権の滅亡を救う力がないと感じていたことを物語っている。
〔3〕 国民党のにせ行政院長孫料は一九四九年二月六日、七日の両日、広州で二回にわたる談話を発表して、中国共産党の提出した八項目の和平条件を交渉の基礎とするという李宗仁の声明に反対し、「現在、政府はすでに広州にうつって政務をとっている。われわれは過去のことを再検討すべきである」といい、また「共産党の提出した戦犯処罰の一項目は、ぜったいにうけいれえないところである」ともいった。
〔4〕 これは、一四世紀の元代の人、薩都刺が「念奴嬌」の韻律にあわせて作った詞「石頭城に登る」のなかのことばを借りたものである。この詞の前段はつぎのようになっている。「石頭城より望めば、天は呉楚にたれ、眼空しくして物なし。六朝の形勝の地を指点すれば、ただ青山の壁の如きあるのみ。日を蔽う旌旗、雲につらなる檣[舟+虜]、白骨みだれて雪のごとし。一江の南北、いくはくの豪傑を消磨したりし。」南京はむかし石頭城とよばれた。呉楚とはひろく長江の中流、下流の一帯をさす。
〔5〕 にせ国防部政治工作局長の鄧文儀は、一九四九年二月九日、上海で「和平と戦争の発展」という書面による談話を発表したが、それがつぎのいわゆる「四項目の意見」である。一、「政府は和平を望んでいる」、二、「中共は戦争を望んでいる」、三、「北平の局部的和平はペテンに終わった」、四、「あらゆる犠牲を惜しまず、共産党とあくまでわたりあう」。
〔6〕 天津、北平が解放されたのち、華北の国民党軍は、太原、大同、新郷、安陽、帰綏などいくつかの孤立した拠点をのこすだけとなった。このうち、太原の敵軍は一九四九年四月二十四日にわか軍によって完全に殲滅された。大同の敵軍は五月一日に平和的に編成がえすることをうけいれた。新郷の敵軍は五月五日に解放軍に投降した。安陽の敵軍は五月六日にわか軍によって殲滅された。帰綏は九月十九日に平和的に解放された。
(一九四九年二月十六日)
一月一日に匪賊蒋介石が和平攻勢にでていらい、自分たちは「戦争の期間を短縮し」「人民の苦しみを軽減し」「人民を救うことを前提とする」ことをねがっているなどと、くりかえしのべたててきた国民党反動派の英雄豪傑たちも、二月上旬になると、急に和平の調子をおとし、「共産党とあくまでわたりあう」といういつもの調子を急にまた高めだした。ここ数日らいは、とくにそうである。二月十三日、国民党中央宣伝部が「党の各級組織、党の各級機関紙」にあたえた「特別宣伝指示」はこういっている。「葉剣英はわが後方にむかって中共に和平への誠意があることを宣伝し、政府が軍事配置をすすめているのは和平をはかる誠意がないからだといって非難している。これについて各新聞は、下記の諸点にもとづいて正面と側面から極力反論すべきである」と。この「特別宣伝指示」は、「反論」すべき理由をいくつもならべたてている。「政府としては、無条件降伏するよりは、むしろ最後まで戦いぬく。」「毛沢東が一月十四日の声明であげている八項目は亡国的条件であり、政府としては本来うけいれるべきでなかった。」「中共は平和破壊の責任を負うべきである。こんにち、中共は逆に.政府の責任者の名をことごとく書きつらねた戦犯名簿なるものを持ちだし、あまつさえ、政府にまずこれらの人びとを逮捕するよう要求しているが、その横暴理不尽はあまりにもあきらかである。中共がこうした作風をあらためないならば、いきおい和平の話し合いの方途は見いだしがたいものとなろう」と。二週間まえにまるで足もとに火がついたように交渉をあせったあの様子は、もう見られなくなった。いわゆる「戦争の期間を短縮し」「人民の苦しみを軽減し」「人民を救うことを前提とする」という、広く世に知られた、人の心をうつ名文句は、もう口にされなくなった。もし中国共産党がその「作風」をあらためようとせず、どうしても戦争犯罪人を処罰しようとするなら、とても和平の話し合いはできない、というのである。いったい、人民を救うことを前提にしているのか、それとも戦争犯罪人を救うことを前提にしているのか。国民党の英雄豪傑の「特別宣伝指示」によれば、後者をえらんでいるのである。戦争犯罪人の名簿については、中国共産党側は、いま各民主政党と人民団体から意見をもとめているが、すでにいくつかのところから意見がよせられている。すでにうけとった意見では、いずれも、昨年十二月二十五日に中国共産党の権威筋が発表した名簿には賛成していない。この人たちは、あの名簿にあげられた戦犯はわずか四十三名で、あまりにも数がすくなく、反革命戦争をおこして数百万の人民を殺害した責任を負うべきものは、けっして四十三名やそこらにとどまるものではなく、百数十名でなければならない、と考えている。とりあえず戦犯を百数十名に確定しておくとしよう。そこで、国民党の英雄豪傑たちにおたずねしたい。諸君はなぜ戦犯の処罰に反対するのか。諸君は「戦争の期間を短縮し」「人民の苦しみを軽減し」たいのではないのか。もし、諸君の反対によって、戦争がまだつづくことになれば、それこそ時間をひきのばし、戦禍を長びかせるものではないのか。「時間をひきのばし、戦禍を長びかせる」という罪名は、諸君が一九四九年一月二十六日に南京政府スポークスマンの名で発表した声明で共産党におしつけたものであるが、いま諸君は、それをとりもどして掛け札に書きこみ、諸君自身の首にぶらさげるのを栄誉だとでもおもっているのだろうか。諸君は「人民を救うことを前提とする」お情け深い方がたなのに、なぜ、にわかに戦犯を救うことを前提とするようになったのか。諸君の政府の内政部の統計によれば、中国人民の数は四億五千万ではなくて、四億七千五百万であるが、これと百数十名の戦犯とは、いったいどちらが多いのか。英雄諸君は算術を学んでいるだろう。算術の教科書に書いてあるとおりに、よく計算してから結論をだしてもらいたいものである。もし、諸君が、ろくに計算もしないで、もともと結構な、われわれも同意したし全国人民も同意したあの「人民を救うことを前提とする」という言い方を、あわてて「百数十名の戦犯を救うことを前提とする」にあらためるのであれば、諸君はきっと足場をうしなってしまうから、用心しなければならない。口をひらけば「人民を救うことを前提とする」といっていたこれらの人たちは、自分が「和平のよびかけ」をした数週間後には、もう「和平のよびかけ」をしなくなり、戦争をよびかけるようになったのだ。国民党頑迷派はまったく救われない。かれらはあくまで人民に反対し、人民の頭上にのしかかって横暴のかぎりをつくしたために、自分自身を塔のてっぺんに孤立させてしまい、おまけに死ぬまで悔いあらためないのである。長江流域と南方の、労働者、農民、知識人、都市小ブルジョア階級、民族ブルジョア階級、開明紳士、良心のある国民党員をふくむ人民大衆は、みなよく聞いていただきたい。諸君の頭上にのしかかって横暴のかぎりをつくしてきた国民党頑迷派は、もはや余命いくばくもない。われわれと諸君はおなじ側に立っている。ひとにぎりの頑迷派は日ならずして塔のてっぺんから墜落し、人民の中国がまもなく出現するであろう。
(一九四九年二月十八日)
「政府は、抗戦終結ののち、平和建国の方針によって、極力、中共問題の平和的解決をはかってきた。一年半のあいだに、あらゆる取り決めが中共によってふみにじられた。それゆえ、中共は平和破壊の責任を負うべきである。こんにち、中共は逆に、政府の責任者の名をことごとく書きつらねた戦犯名簿なるものを持ちだし、あまつさえ、政府にまずこれらの人びとを逮捕するよう要求しているが、その横暴理不尽はあまりにもあきらかである。中共がこうした作風をあらためないならば、いきおい和平の話し合いの方途は見いだしがたいものとなろう。」以上は、一九四九年二月十三日、国民党中央宣伝部が出した「特別宣伝指示」のなかの戦争責任の問題にかんする論点のすべてである。
この論点は、ほかならぬ戦争犯罪人第一号蒋介石のものである。蒋介石は元旦の声明でこういっている。「三民主義の信徒として国父の遺教をうけつぐ余、中正は、もとより、対日作戦ののちに、ふたたび匪賊討伐の軍事行動をおこして、人民の苦痛を重くすることは望まなかった。それゆえ、抗日戦争が終わりを告げるや、わが政府はただちに平和建国の方針をかかげ、さらに、政治的話し合い、軍事的調停の方法によって共産党問題を解決しようとした。はからずも、一年半のあいだに、共産党は、横暴にもすべての取り決めと方策に妨害をくわえ、それが予定された段どりによって実施されるのを不可能にした。しかも、最後には、さらに全面的な武力反乱をおこして、国家の生存を危うくした。わが政府は、身をきられる思いで動員をおこない、反乱鎮定をおこなうのやむなきにいたった。」
蒋介石がこの声明を発表する七日まえの一九四八年十二月二十五日に、中国共産党の権威筋によって戦犯四十三名の名簿が発表されたが、その筆頭にれっきとして名をつらねているのが、この蒋介石である。戦犯たちは、和平も乞いたいし責任も逃がれたいので、責任を共産党におしつけるよりほかに手がない。だが、これではつじつまがあわない。共産党が戦争をひきおこした責任を負うべきである以上、当然、共産党を処罰すべきである。「匪賊」である以上、当然「匪賊討伐」をやるべきである。「全面的な武力反乱をおこし」た以上、当然「反乱鎮定」をやるべきである。「匪職討伐」「反乱鎮定」が一〇〇パーセント正しいのに、どうして討伐し鎮定しなくてもよくなったのか。一九四九年一月一日以後、国民党のいっさいの公開文書が一律に「共産匪」を「共産党」とあらためたのは、どうしたわけか。
孫科はいささか妥当でないと感じたので、蒋介石が元旦の声明を発表したその日の夜、放送演説をおこない、戦争責任の問題についてちがった論点を持ちだした。孫科はこういった。「三年前をふりかえってみると、抗戦勝利の当初、人民が休養・生存を必要としたこと、国家が積極的な建設を必要としたこと、各党派が国家と人民の必要とするものにたいしてまだ共通の認識を持っていたこと、これらのことから、われわれは各方面の代表および賢明達識の士を一堂にあつめて、政治協商会議をひらいた。われわれはまた、三週間の努力をつうじて、さらにはトルーマン大統領の特使マーシャル氏の善意ある調停のおかげで、平和建国の綱領と各種紛争解決の具体的な方策をとりきめた。当時、われわれがもし各種の方策を時をうつさず実行しえていたならば、こんにちの中国はいかに繁栄していたことか。こんにちの中国人民はいかに幸福になっていたことか。残念ながら、当時は各方面とも小さな自己の利害を完全にはすてきることができなかったし、全国人民もまた最大の努力をはらってこの平和運動の成功を促進することができなかったために、ついにふたたび戦禍にみまわれ、人民に塗炭の苦しみをなめさせるにいたったのである。」
孫料は蒋介石よりもいくらか「公正」である。みたまえ、かれは、蒋介石のように戦争の責任を十把ひとからげにして共産党におしつけるのではなく、「地権平均」のやり方を採用して、責任を「各方面」に均分している。これには国民党も、共産党も、民主同盟も、賢明達識の士もふくまれている。そればかりか、「全国人民」もふくまれていて、四億七千五百万の同胞は、だれひとりとして責任を逃がれることはできないのである。蒋介石はもっぱら共産党にむちをくらわせたが、孫科は各党各派、無党雛派、全国同胞の一人ひとりにむちをくるわすのであって、蒋介石でさえ、それにおそらくは孫科もこのむちを逃がれられないだろう。みたまえ、二人の国民党員、孫科と蒋介石がここでつかみあいをやっている。
第三の国民党員がとびだしてきていった。そうじゃない、自分の考えでは、責任はすべて国民党に帰すべきだ、と。この人の名を李宗仁という。一九四九年一月三十二日、李宗仁は「総統代理」の資格で声明を発表した。戦争責任の問題について、かれはこういった。「抗戦八年ののち三年の内戦かつづいたため、抗戦勝利ののちに国家が復興できるという一縷ののぞみがあとかたもなくついえさったばかりか、戦禍はあまねく黄河の南北にひろがり、田畑、家屋はことごとく破壊されて荒廃し、幾千幾万の罪なき人民が死傷し、一家離散して飢えと寒さに泣くものがいたるところにみられる。この凄惨きわまりない一大災禍は、まことにわが国の内戦史上かつてなかったことである。」
李宗仁がここで出しているのは名指しのない告示で、かれは、国民党が責任を負うべきだともいわなければ、また、共産党あるいはその他の方面が責任を負うべきだともいっていない。だが、かれは、この「凄惨きわまりない一大災禍」がおこったのがほかのところではなく、「黄河の南北」だという一つの事実をのべている。そもそも黄河から、南は長江、北は松花江にいたるこの地域で、だれがこの「凄惨きわまりない一大災禍」をつくりだしたのか。まさか、そこの人民や人民の軍隊が自分たちのあいだで戦争してつくりだしたわけではあるまい。李宗仁は北平行営主任をやったことがあり、また、かれの広西派の軍隊は蒋介石派の軍隊といっしょに山東省の沂蒙山区に攻めこんだことがある〔1〕ので、確実な情報を持っており、こうした「一大災禍」が生じた地点やその状況について知っているのである。李宗仁は、ほかになに一つよいところがないとしても、こうした正直なことをいったのはとにかくよいことである。しかも、かれはこの戦争をよぶのに、「反乱鎮定」とも「匪賊討伐」ともいわないで、「内戦」といっているが、これも国民党側としては、すこぶる特異なものだといえる。
李宗仁は自分の論理にもとづいて、おなじ声明のなかで、「中共側の出した八つの条件について、政府はただちに話し合いをはじめたい」といっている。李宗仁は、八つの条件の第一がほかならぬ戦犯の処罰であり、しかも、これにはかれ自身の尊名がはいっていることも知っている。戦犯が処罰されなければならないのは、「一大災禍」からでてくる論理的結論である。このことのために、国民党の頑迷派はいまなお、「毛沢東が一月十四日の声明であげている八項目は亡国的条件であり、政府としては本来うけいれるべきでなかった」などと奥歯にもののはさまったような言いかたで李宗仁にうらみごとをいっているのである。
頑迷派が奥歯にもののはさまったような言いかたでしかうらみごとをいえず、あけすけに口に出せないのにはわけがある。蒋介石がまだ「引退」していないとき、頑迷派ははじめ八つの条件を反ばくしようとしていたが、あとで蒋介石がそれではまずいと考えて、反ばくしないことにきめた。たぶん、反ばくすれば道がたたれると考えたのだろう。これは一月十九日のことである。一月十九日の朝、張君[萬+力]が、南京から上海に帰ってきて、談話を発表し、「中共のあげている八つの条件については、政府が追って別の公告を出し、回答をあたえることとなろう」といったとき、中央通信社は、すぐその晩に通報を出してこういった。「さきの上海電の張君[萬+力]氏の談話の記事については、電文の末尾に、張氏の談話にある政府が追って別の公告を出すという点について、中央社の記者がいま関係方面から知りえたところによると、政府には別の公告を出す意向はない、という注をくわえられたい。」蒋介石は一月二十一日に「引退」の声明を発表したが、八つの条件についてひと言も批判しなかったばかりか、かれ自身の五つの条件をもとり消し、「領土主権がよく保全され、歴史文化と社会秩序が破壊されず、人民の生活と自由の権利が確実に保障されることを原則として、和平のために努力する」というふうにあらためた。憲法、法的正統性、軍隊などについては、もはやなに一つとりあげようとはしなかった。そこで、李宗仁は、一月二十二日に、中国共産党の八つの条件を交渉の基礎とすることを思いきって承認したが、国民党頑迷派はあけすけに表だって反対することができず、奥歯にものがはさまったように、ひと言、「政府としては本来うけいれるべきでなかった」としかいえなかったのである。
孫科の「地権平均」の政策はかわることなく堅持されているだろうか。そういうわけでもない。孫科は、一九四九年二月五日「政府を広州にうつした」あと、二月七日に演説をおこなったが、戦争責任の問題についてこういった。「ここ半年らい、戦禍がひろがったために、大局に重大な変化が生じ、人民の苦しみには名状しがたいものがある。これらのことはすべて、これまでにおかされたあやまり、失敗および不合理な現象が原因となって、こんにちの局面の重大化という結果をまねいたのである。われわれは、中国が三民主義を必要としていることをよく知っている。三民主義の実現される日がくるまでは、中国の問題はいつまでも解決できない。おもいおこせば、わが党の総理は二十年まえ、みずから三民主義をわが党にのこし、それをしだいに実行にうつすことを希望された。もし、それが実行にうつされていたならば、こんにちのこの収拾しがたい局面にはぜったいにたちいたらなかったであろう。」みたまえ、国民党政府の行政院長は、ここでは、責任をいっさいの党派と全国の同胞に均分するのでなく、国民党自身に負わせている。孫科がむちをすべて国民党の尻にくらわせたことは、はなはだ痛快である。では、共産党のほうはどうか。孫院長はこういっている。「われわれのみるところでは、中共が人民を誘惑し、麻痺させることができたのも、ひとえに、三民主義のうちの民生主義の一部、すなわち地権平均をよびかけにしたからにほかならない。われわれは実にふかく慙愧し、強く心に戒めて、これまでのあやまりをあらためて検討すべきである。」親愛なる院長のおかげで、共産党は、まだ「人民を誘惑し、麻痺させる」という罪名こそあれ、ほかにそうひどい大罪もなく、むちをまぬかれ、命に別条なく放免してもらったしだいである。
孫院長の愛すべきところは、これだけにとどまらない。かれはおなじ演説のなかで、こうもいっている。「こんにち共産党の勢力がはびこったのは、これまたわれわれの信ずる主義がまだ実行されていないからである。わが党のこれまでの最大のあやまりは、党内の若干の人びとがあまりにも武力を妄信し、内部で権力を争って軋轢をおこし、みすみす敵に離間の機会をあたえたことにある。八年の抗戦が終わりを告げたときは、本来ならば平和的統一を実現する千載一遇の機会であった。政府においても、もともと、政治的方法によって国内紛争を解決する計画があったが、不幸にして、これは実施されなかった。人民は連年の戦乱のあとをうけて、切に休養・生存を必要としていた。だが、干戈がふたたびまじえられ、人民は生活の道をうしなって、塗炭の苦しみをなめ、これがまた影響して士気を消沈させ、そのため、軍事においてつぎつぎと利をうしなうにいたった。蒋総統は、軍事的方法によっては問題を解決しえなかったことにかんがみ、俯して民意にしたがい、元旦に告辞を出して、和平をよびかけたのである。」よろしい、孫科というこの戦争犯罪人は、逮捕されてもおらず、むちもくらっていないのに、みずから進んで白状し、しかも、まっ正直でなんらいつわるところがない。だれが武力を妄信して戦争をひきおこし、軍事的方法では問題が解決できなくなってからやっと和平を乞うようになったのか。それはほかならぬ国民党であり、蒋介石だったのである。孫院長はことばづかいもなかなか正確で、あまりにも武力を妄信したのはかれらの党内の「若干の人びと」だといっている。この点は、中国共産党が若干の国民党員を戦争犯罪人として処罰することを要求するだけで、全部はおろか、それ以上の国民党員を処罰することも要求していないこととたがいに一致している。
われわれと孫料のあいだには、この数のうえで論争はない。ちがうのは結論である。われわれは、「武力を妄信し」て、「干戈がふたたびまじえられ、人民は生活の道をうしなう」という事態にたちいたらせたこれら国民党の「若干の人びと」は、どうしても戦犯として処罰しなければならないと考えている。だが孫料はそうすることに同意しない。かれはこういっている。「いま共産党側が、遅々として代表を任命せず、ひたすら事を長びかせているのは、共産党側もまた武力を妄信しており、自分ではもう羽根もはえそろったので、武力にたよって全国を征服することができると考え、そのためにさきに休戦をおこなうことを拒否したのだということをはっきりしめすものであり、かれらの下心はあまりにもみえすいている。わたしがここで厳粛な気持ちで提案しなければならないのは、永遠の平和をもとめるために、双方は対等の資格で話し合いをおこなわなければならず、条件は公正かつ合理的で、全国民がうけいれうるものでなければならないということである。」こうなると、孫院長もいささか可愛げがなくなってくる。かれは、戦争犯罪人を処罰するという条件を公正かつ合理的なものではないと考えているようである。かれのこうしたことばは、国民党宣伝部の二月十三日の「特別宣伝指示」が戦犯問題にたいしてしめした態度とおなじように、奥歯にものがはざまったような言いかたをしていて、あけすけには反対していない。これは、李宗仁が戦犯の処罰を交渉の基礎条件の一つとして思いきって承認したのとは、大きなちがいがある。
だが、孫院長にはやはり愛すべきところがある。なぜなら、かれは、共産党も「また武力を妄信している」といっているが、これは、「遅々として代表を任命しない」ことと「さきに休戦をおこなうことを拒否した」ことの二つの点からいっているのであって、国民党のように一九四六年から武力を妄信して凄惨きわまりない戦争をひきおこしたのとはわけがちがうからである。そもそも「遅々として代表を任命しない」のは、戦犯名簿の確定が重要な仕事で、「全国民がうけいれうるもの」でなければならず、少なくしても多くしても実際にそぐわず、「全国民」(ただし戦犯とその共犯者はふくまない)からうけいれられないからである。だから、各民主党派、人民団体とたがいに相談しなければならないわけで、いささか時間を「長びかせ」、また、すみやかに代表を任命するくとができなくなって、孫料のような人間のひどい不興を買うことになった。だが、これも、一口に「また武力を妄信している」とばかり断定することはできない。多分、まもなく戦犯名簿を公表し、代表を任命し、交渉をはじめることができるようになり、孫院長も、われわれが「武力を妄信している」とはいえなくなるだろう。
「さきに休戦をおこなうことを拒否した」ことについていえば、これは蒋総統の元旦の皆辞にしたがってとられた正しい態度である。蒋総統の元旦の告辞はこうのべている。「共産党が和平への誠意をもち、確実な意思表示をしさえすれば、政府はかならずや胸襟をひらいて相会し、戦闘停止と平和回復の具体的方法をともに討議する用意がある。」孫科の行政院は、一月十九日・蒋介石のこの告辞にそむく決議をおこない、「ただちにまず無条件休戦をおこない、さらにそれぞれ代表を指定して和平の話し合いをおこなう」などといった。中国共産党のスポークスマンは、一月二十一日、この筋のとおらぬ決議に厳正な批判をくわえた〔2〕。ところが、意外にも、この院長は耳をふさいで聞こうとはせず、二月七日にはまた、中国共産党が「さきに休戦をおこなうことを拒否した」ことこそ、中国共産党も「また武力を妄信している」ことをしめすものだなどと出まかせをいった。蒋介石のような戦争犯罪人でさえ、戦争の停止、平和の回復は話し合いなしには不可能だということを知っている。孫科は、この点では、蒋介石よりはるかにおとっている。
周知のように、孫科が戦犯となったのは、蒋介石が戦争をひきおこすのを一貫してたすけるとともに、戦争に固執してきたためである。一九四七年の六月二十二日になっても、かれはまだこういっていた。「軍事面では、最後まで戦いさえすれば、結局は解決できる。」「いまはもう和平交渉など話にならない。政府は共産党をたたきつぶさなければならない。でなければ、共産党が国民政府をくつがえすことになる。」〔3〕かれこそ国民党内の武力を妄信した「若干の人びと」のひとりである。いま、かれは、まるで武力を妄信したことはなく、三民主義が実行されなかったことにも責任はないかのように、はたでいいかげんなことをいっている。これは不誠実というものである。国法にてらしてみても、国民党内で党規にてらしてみても、孫料はむちをまぬかれることができないだろう。
〔1〕 沂蒙山区とは、山東省の沂山・蒙山一帯の地区をさす。当時、蒋介石派の軍隊とともにこの地区を攻撃した広西派の軍隊は第四十六軍団であった。この軍団は一九四六年十月、海南島から海路青島に送られ、そこで上陸したが、一九四七年二月に山東省の莱蕪地区で全部殲滅された。
〔2〕 本巻の『南京行政院の決議についての中国共産党スポークスマンの論評』を参照。
〔3〕 これは、一九四七年六月二十二日に孫料が南京でAP通信社、南京の国民党中央日報および新民報の記者と会見したさい発表した談話である。当時、孫料は国民党政府の副主席であった。
(一九四九年三月五日)
中国共産党第七期中央委員会第二回総会は、一九四九年三月五日から十三日まで、河北省平山県西柏坡村でひらかれた。出席者は中央委員三十四人、中央委員候補十九人であった。この会議は、中国の人民革命が全国的勝利をおさめる前夜にひらかれたもので、きわめて重要な会議であった。毛沢東同志はこの会議でおこなった報告のなかで、革命の急速な全国的勝利を促進し組織するための諸方針を提起し、全国的勝利の局面のもとで党の活動の重心を農村から都市に移さなければならないことを説明し、党が全国的勝利ののち政治、経済、外交の面でとるべき基本政策、ならびに、中国を農業国から工業国に転化させ、新民主主義社会から社会主義社会に転化させる全般的任務と主要な道すじを規定した。毛沢東同志はこの報告のなかで、当時の中国経済の各種構成要素の状態と、党がとらなければならない正しい政策にとくに重点をおいて分析をくわえ、中国か社会主義的改造を実現するうえでかならず通らなければならない道を指摘し、この問題における「左」右のさまざまな偏向を批判するとともに、中国の経済が比較的はやい速度で発展することを確認した。毛沢東同志は、中国の人民民主主義革命が勝利したのちの内外の階級闘争における新しい情勢を見通し、ブルジョア階級の「糖衣弾」がプロレタリア階級の主要な危険となることをいちはやく警告した。これらすべての点から、この文献はひじょうに長い歴史的時期にわたって偉大な意義をもつものとなった。毛沢東同志のこの報告は、同年六月に書かれた『人民民主主義独裁について』という論文とともに、中国人民政治協商会議第一期総会で採択され新中国成立後かつて臨時憲法の役割をはたした「共同綱領」の政策上の基礎となった。党の第七期中央委員会第二回総会は、毛沢東同志の報告にもとづいて、これにおうじた決議を採択した。この会議ののち、中国共産党中央は河北省平山県西柏坡村から北平に移った。
遼瀋、淮海、平津の三つの戦役によって、国民党軍の主力はすでに消滅された。国民党の戦闘部隊はわずかに百余万人をのこすだけとなり、新疆から台湾にいたる広大な地域ときわめて長い戦線に散らばっている。今後、この百余万の国民党軍をかたづけるには、天津方式、北平方式、綏遠方式〔1〕の三とおりしかない。天津でやったように戦闘によって敵をかたづけるのが、やはり、まず第一に意をそそぎ、準備しなければならない方式である。人民解放軍の全指揮員、戦闘員は、自己の戦意をすこしでるゆるめるようなことを絶対にしてはならない。戦意をゆるめたり敵をみくびったりする考えは、すべてあやまりである。北平方式で問題を解決する可能性は増大している。これは、敵軍にせまって、平和的な方法で迅速かつ徹底的に、人民解放軍の制度にもとづいて、人民解放軍に編成がえさせる方式である。こうした方法で問題を解決するのは、反革命の遺物をすみやかにとりのぞき反革命の政治的影響をすみやかに一掃するという点では、戦争の方法で問題を解決するよりもいくぶん劣っている。しかし、こうした方法は、敵軍の主力が消滅されたのちには必然的にあらわれてくるもので、さけることのできないものである。同時に、それは死傷と破壊をさげることができ、わが軍にとっても人民にとっても有利なものである。したがって、各野戦軍の指導者はすべてこうした闘争方式に注目し、これを習得すべきである。これは一種の闘争方式であり、血を流さない闘争方式であって、闘争をしなくても問題が解決できるというわけではない。綏遠方式では、一部の国民党軍をわざとのこして、これをそっくりそのままにしておくか、または大体そのままにしておく、つまり、この部分の軍隊にしばらく譲歩して、これを政治的にわが方につかせるか、またはこれに中立をたもたせるようにする。そうすることによって、力を集中して、まず国民党残存勢力の主要な部分をかたづけ、かなりの時間をおいたのち(たとえば、数ヵ月、半年または一年ののち)、あらためて人民解放軍の制度にしたがって、この部分の軍隊を人民解放軍に編成がえするのである。これは、もう一つの闘争方式である。こうした闘争方式では、反革命の遺物や反革命の政治的影響が北平方式よりもいっそう多くのこるであろうし、のこる時間もいっそう長くなるであろう。だが、こうした反革命の遺物や反革命の政治的影響は結局は一掃されてしまうのであり、この点にはまったく疑問の余地がない。反革命勢力がわれわれに従うようになったからといって、かれらはもう革命党になったとか、かれらの反革命の思想や反革命の企図はもう存在しなくなったとか、けっして考えてはならない。だんじてそんなものではない。かれらのうちの多くのものは改造され、一部のものは淘汰され、若干の徹底した反革命分子は弾圧されるであろう。
人民解放軍はいつまでも戦闘隊である。全国的勝利ののちも、国内でまだ階級が消滅されず、世界にまだ帝国主義制度が存在する歴史的時期には、われわれの軍隊はやはり戦闘隊である。この点については、どのような誤解も動揺もあってはならない。人民解放軍はまた工作隊でもある。南方の各地で、北平方式または綏遠方式によって問題が解決されるばあいには、とくにそうである。戦闘がしだいに少なくなるにつれて、工作隊としての役割は大きくなってくる。そう遠くない時期に人民解放軍を全部工作隊にしなければならなくなるという可能性があり、われわれはこうした状況を見通しておかなければならない。いま軍隊について南下しようとしている五万三干人の幹部では、遠からずわれわれに占領されるきわめて広大な新しい地域からいって、とても足りるものではなく、われわれは二百十万の野戦軍全部を工作隊にする用意がなければならない。そのようにすれば、幹部も足りることになり、広大な地域にわたる活動も展開できるようになる。われわれは二百十万の野戦軍をひとつの大きな幹部学校とみなさなければならない。
一九二七年からこんにちまで、われわれの活動の重点は農村におかれた。われわれは農村で力を結集し、農村によって都市を包囲し、そのあとで都市を手に入れたのである。こうした活動方式をとる時期はもう終わった。これからは、都市から農村への時期、しかも都市が農村を指導する時期がはじまるのである。党の活動の重心は農村から都市にうつされる。南方の各地では、人民解放軍は、さきに都市を占領し、そのあとで農村を占領することになる。都市と農村のどちらにも心をくばらなければならず、都市の活動と農村の活動、労働者と農民、工業と農業をしっかりと結びつけなければならない。農村をほうっておいて、都市にだけ心をくばるようなことは、けっしてしてはならない。もしそのようなことを考えるなら、それは完全なあやまりである。だが、党と軍隊の活動の重心は都市にわかなければならず、ひじょうな努力をはらって都市の管理、都市の建設を習得しなければならない。都市で、帝国主義者、国民党、ブルジョア階級にたいして政治闘争、経済闘争、文化闘争をおこない、また帝国主義者にたいして外交闘争をおこなうことを習得しなければならない。かれらと公然たる闘争をおこなうことも習得すべきであるし、かれらと非公然の闘争をおこなうことも習得すべきである。もしこれらの問題に注意をはらわず、これらの連中とこうした闘争をおこなうことを習得せず、闘争に勝利をおさめないなら、われわれは権力を維持することができなくなり、もちこたえられなくなり、失敗するであろう。銃をもった敵が消滅されてからも、銃をもたない敵は依然として存在する。かれらはかならずわれわれに死にもの狂いのたたかいをいどんでくる。われわれはけっしてこれらの敵をみくびってはならない。現在、このように問題を提起し認識しないなら、われわれはきわめて大きなあやまりをおかすことになる。
都市の闘争で、われわれはだれに依拠するのか。考えのあいまいな一部の同志は、労働者階級に依拠するのではなく、貧民大衆に依拠するのだと考えている。もっと考えのあいまいな一部の同志は、ブルジョア階級に依拠するのだと考えている。工業を発展させる方向については、考えのあいまいな一部の同志は、国営企業の発展をたすけるのではなく、主として私営企業の発展をたすけるのだと考えている。あるいは、その反対に、ただ国営企業に意をそそげば十分で、私営企業などはとるにたりないものだと考えている。われわれは、こういうあいまいな考えに批判をくわえなければならない。われわれは、ひたすら労働者階級に依拠し、その他の勤労大衆と団結し、知識人を獲得し、われわれと協力しうる民族資本家やその代表的人物をできるだけ多く獲得してわれわれの側に立たせるか、中立をたもたせるようにしなければならない。そうすることによって、帝国主義者、国民党、官僚ブルジョア階級とだんこ闘争し、一歩一歩これらの敵にうち勝っていくのである。同時に、われわれは建設事業に着手して、一歩一歩、都市の管理を習得し、都市の生産事業を回復し発展させていかなければならない。生産を回復し発展させる問題については、第一が国営工業の生産であり、第二が私営工業の生産であり、第三が手工業の生産であることを明確にしなければならない。われわれは、都市を接収したその日から、その都市の生産事業の回復と発展に目をむけなければならない。盲目的にゆきあたりばったりに事をはこんで、中心任務を忘れてしまい、そのため、一つの都市を占領してから数ヵ月もたつのに、生産と建設がまだ軌道にのらず、ひどいばあいには、多くの工業が停頓状態におちいって、労働者が失業し、労働者の生活が低下し、共産党への不満がうまれるというようなことになってはならない。そういう状態はまったく許されないことである。そのため、われわれの同志は、ひじょうな努力をはらって生産の技術と生産管理の方法を学ばなければならないし、生産と密接なつながりのある商業、銀行、その他の方面の活動を学ばなければならない。都市の生産を回復し発展させ、消費的な都市を生産的な都市にかえたとき、人民の権力ははじめて強固なものになる。都市のその他の活動、たとえば、党の組織活動、権力機関の活動、労働組合の活動、その他各種大衆組織の活動、文化・教育方面の活動、反革命分子粛清の活動、通信社、新聞、放送局の活動はすべて、生産、建設というこの中心の活動をめぐっておこなわれるのであり、またこの中心の活動に奉仕するのである。もし、われわれが生産活動についてなにも知らす、生産活動を急速に習得することができず、また生産事業をできるだけはやく回復し発展させ、確実な成果をあげて、まず第一に労働者の生活を改善し、さらに一般人民の生活をも改善することができないなら、われわれは権力を維持することができなくなり、もちこたえられなくなり、失敗するであろう。
南方と北方とでは事情がちがうので、党の任務にもちがいがなければならない。南方はいまなお国民党の支配する地域である。そこでの党と人民解放軍の任務は、都市と農村で、国民党の反動武装力を消滅し、党の組織をつくり、政権をうちたて、民衆を立ちあがらせ、労働組合、農会その他の大衆組織をつくり、人民の武装力をつくって、国民党の残存勢力を一掃し、生産事業を回復し発展させることである。農村では、まず段どりをおって、土匪を掃討する闘争と、悪覇すなわち地主階級の実権派に反対する闘争とをくりひろげ、小作料・利子引き下げのための準備を完了することであり、これによって、人民解放軍がその地区にはいってからおよそ一年か三年ののちに、小作料・利子引き下げの任務を達成して、土地分配の前提条件をつくりだせるようにすることである。同時に、農業生産のいまの水準をできるだけ維持し低下させないよう、注意しなければならない。北方は、少数の新解放区をのぞいて、まったく異なった状態にある。ここでは、すでに国民党の支配がくつがえされ、人民の支配がうちたてられており、しかも、土地問題が根本的に解決されている。ここでの党の中心任務は、あらゆる力を動員して生産事業を回復し発展させることであり、ここにすべての活動の重点がある。同時に、文化・教育事業を回復し発展させ、残存する反動勢力を一掃して、北方全体を強固にし、人民解放軍を支援しなければならない。
われわれは広範な経済建設をすすめている。すでに党の経済政策は実際活動のなかで実施され、いちじるしい成果をおさめている。だが、なぜこのような経済政策をとるべきで、他の経済政策をとるべきではないのかという理論的、原則的問題について、党内には多くのあいまいな考えがある。この問題にどう答えるべきか。われわれは、つぎのように答えるべきだと考える。中国の工業と農業が国民経済のなかでしめる比重は、全国的にみて、抗日戦争前はだいたいのところ、近代的な工業が一〇パーセント前後をしめ、農業と手工業が九〇パーセント前後をしめていた。これは、帝国主義制度と封建制度が中国を抑圧した結果であり、旧中国社会の半植民地的・半封建的性質の経済面におけるあらわれであり、そしてまた、中国の革命の時期と革命勝利後のかなり長い時期におけるすべての問題の基本的な出発点でもある。この点から、わが党の戦略上、戦術上、政策上の一連の問題が出てくる。これらの問題をいっそう明確に認識し解決することは、わが党の当面する重要な任務である。それはつぎのような意味である。
第一に、中国にはすでに一○パーセント前後の近代的な工業経済があるが、これは進歩的な点で、古い時代とちがうところである。こうした点から、中国にはすでに新しい階級と新しい政党、つまりプロレタリア階級とブルジョア階級、プロレタリア政党とブルジョア政党がうまれている。プロレタリア階級とその政党は、いく重もの敵の抑圧をうけて鍛えられているので、中国の人民革命を指導する資格をそなえている。この点を無視したり軽視したりするものは、右翼日和見主義のあやまりをおかすくとになる。
第二に、中国にはまだ九〇パーセント前後の分散した小私有経営の農業経済と手工業経済があるが、これはたちおくれた点で、古い時代と大してちがわないところであり、わが国の経済生活の九〇パーセント前後はまだ古い時代のままに停滞しているのである。古い時代には封建的な土地所有制があったが、これは現在われわれによってすでに廃止されたか、あるいは廃止されようとしている。この点では、すでに古い時代とちがっているか、あるいはちがったものになろうとしており、われわれは農業と手工業をしだいに近代化の方向へ発展させる可能性をすでに獲得しているか、あるいは獲得しようとしている。だが、われわれの農業と手工業は、その基本形態からいえば、こんにちでもやはり、分散した小私有経営のもの、すなわち古い時代に似かよったものであるし、また今後かなり長い期間にわたってもそうしたものであるだろう。この点を無視したり軽視したりするものは、「左」翼日和見主義のあやまりをおかすことになる。
第三に、中国の近代的な工業の生産額は、まだ国民経済の総生産額の一〇パーセント前後をしめるにすぎないが、この工業はひじょうに集中しており、もっとも大きな、もっとも主要な資本は、帝国主義者とその手先である中国官僚ブルジョア階級の手に集中している。これらの資本を没収して、プロレタリア階級の指導する人民共和国の所有にうつせば、人民共和国が国の経済動脈をにぎることになり、国営経済は全国民経済の指導的要素となる。この部分の経済は社会主義的性質の経済であって、資本主義的性質の経済ではない。この点を無視したり軽視したりするものは、右翼日和見主義のあやまりをおかすくとになる。
第四に、中国の私的資本主義工業は、近代的な工業のなかで第二位をしめており、無視することのできない力である。中国の民族ブルジョア階級とその代表的人物は、帝国主義、封建主義、官僚資本主義から抑圧または制限をくわえられていたので、人民民主主義革命の闘争のなかで、しばしば、これに参加するか、あるいは中立をたもつ立場をとってきた。こうしたことから、また、中国経済がいまなおたちおくれた状態にあることから、革命勝利後もかなり長い期間、国民経済の発展に役立たせるため、都市と農村の私的資本主義の積極性をできるだけ利用する必要がある。この期間には、国民経済に有利で害のない、都市と農村のすべての資本主義的要素は、その存在と発展を許すべきである。これはさけるれないほかりでなく、経済的に必要なことである。だが、中国における資本主義の存在と発展は、資本主義国のように制限をくわえないで、これをはびこるにまかせるのではない。それはいくつかの面――活動範囲の面、徴税政策の面、市場価格の面、労働条件の面から制限される。われわれは資本主義にたいし、各地、各業種、各時期の具体的な状況におうじて、各方面から、適切な、伸縮性のある制限政策をとらなければならない。孫中山の資本節制というスローガンを、われわれはやはりもちいなければならないし、またもちいることができるのである。だが、国民経済全体の利益のため、労働者階級と勤労人民の現在と将来の利益のためには、私的資本主義経済にたいし、けっして、あまりにも大きな、あまりにも窮屈な制限をくわえてはならず、人民共和国の経済政策と経済計画のわく内で存在し発展する余地をあたえなければならない。私的資本主義にたいして制限政策をとれば、どうしても、ブルジョア階級、とくに私的企業のうちの大企業主、つまり大資本家から、さまざまな程度、さまざまな形での反抗をうけることになる。制限と反制限は、新民主主義国家における階級闘争の主要な形態となるであろう。もしわれわれが、いまは資本主義を制限する必要はないと考えたり、「資本節制」というスローガンをすててもよいと考えたりするなら、それは完全なあやまりであり、それこそ右翼日和見主義の観点である。だが、逆に、あまりにも大きな、あまりにも窮屈な制限を私的資本にくわえるべきだと考えたり、急速に私的資本を消滅してしまってもいっこうさしつかえないと考えたりするなら、これも完全なあやまりであり、これこそ「左」翼日和見主義または冒険主義の観点である。
第五に、国民経済の総生産額の九〇パーセントをしめる分散した小私有経営の農業経済と手工業経済は、近代化と集団化の方向へ発展するよう、慎重に、一歩一歩、しかも積極的にみちびくことができるし、また、みちびかなければならない。自由に放任しておく観点はまちがっている。生産、消費、信用の各協同組合と、中央、省、市、県、区における協同組合の指導機関をつくらなければならない。こうした協同組合は、私有制を基礎とした、プロレタリア階級の指導する国家権力の管理のもとにおかれた、勤労人民大衆の集団経済組織である。中国人民は文化的におくれており、協同組合の伝統がないので、われわれは困難にぶつかるだろうが、しかし、協同組合はつくることができるし、また、つくらなければならず、これを普及させ発展させなければならない。国営経済があるだけで協同組合経済がなければ、勤労人民の小私有経済を一歩一歩集団化の方向にむかうよう指導することはできず、新民主主義社会を将来の社会主義社会に発展させることはできず、国家権力におけるプロレタリア階級の指導権をうちかためることはできない。この点を無視したり軽視したりするものは、きわめて大きなあやまりをおかすことになる。国営経済は社会主義的性質のものであり、協同組合経済は半社会主義的性質のものであって、これに私的資本主義経済をくわえ、小私有経済をくわえ、国家と私的資本の協力する国家資本主義経済をくわえたものが、人民共和国のいくつかの主要な経済的要素であり、これらが新民主主義の経済形態を構成するのである。
第六に、人民共和国の国民経済の回復と発展は、対外貿易の統制政策なしには不可能である。中国の領土から帝国主義、封建主義、官僚資本主義と国民党の支配(これは帝国主義、封建主義、官僚資本主義の三者の集中的な表現である)が一掃されても、独立した、完全な工業体系をうちたてる問題は解決されたことにはならない。経済面で大きな発展をとげ、おくれた農業国からすすんだ工業国になったとき、この問題ははじめて最終的に解決されたことになるのである。この目的の達成は、対外貿易の統制なしには不可能である。中国革命が全国的勝利をおさめ、土地問題が解決されたのちも、中国にはまだ二つの基本的な矛盾が存在する。ひとつは国内的な矛盾、すなわち労働者階級とブルジョア階級との矛盾である。もうひとつは対外的な矛盾、すなわち中国と帝国主義国との矛盾である。したがって、労働者階級の指導する人民共和国の国家権力は、人民民主主義革命の勝利ののちも、これを弱めるのではなく、強めなければならない。対内的な資本の節制と対外的な貿易の統制は、経済闘争におけるこの国家の二つの基本政策である。この点を無視したり軽視したりするものは、きわめて大きなあやまりをおかすことになる。
第七に、中国の経済的遺産はおくれたものではあるが、しかし、中国人民は勇敢で勤勉であり、中国の人民革命の勝利と人民共和国の樹立、中国共産党の指導があり、さらには世界各国の労働者階級の援助、主としてソ連の援助があるのだから、中国の経済建設の速度はそう遅いものではなく、おそらくかなり遠いものとなるであろう。中国の興隆は期して待つべきものがある。中国の経済復興にたいする悲観的な見方には、なんの根拠もない。
旧中国は、帝国主義の支配する半植民地国であった。中国の人民民主主義革命が徹底した反帝国主義の性質をもっているため、帝国主義者はこの革命を極度に敵視し、全力をあげて国民党をたすけてきた。このことによって、中国人民は帝国主義者にたいするはげしい怒りをいやがうえにも燃えあがらせ、帝国主義者は中国人民のあいだでその威信を最後のひとかけらまで失ってしまった。また、帝国主義体制全体が第二次世界大戦ののち大いに弱まり、ソ連を先頭とする世界の反帝国主義戦線の力はかってないほど増大した。これらすべての情勢から、われわれは、中国における帝国主義の支配権を、段どりをおって徹底的に粉砕していく方針をとることができるし、またとるべきである。帝国主義者のこうした支配権は政治、経済、文化の各方面にあらわれている。国民党の軍隊が消滅され、国民党の政府が打倒された都市や地方では、どこでも、帝国主義者の政治面における支配権がそれにつれてうち倒され、その経済面、文化面における支配権もうち倒された。だが、帝国主義者の直接経営する経済事業や文化事業はまだのこっているし、国民党の承認した外交要員や新聞記者もまだのこっている。これらにたいしては、前後緩急の区別をつけて、適切な解決をしていかなければならない。国民党時代のいかなる外国の外交機関や外交要員の合法的地位も認めないこと、国民党時代のあらゆる売国条約の存続を認めないこと、帝国主義が中国に設けた宣伝機関をすべて廃止すること、ただちに対外貿易を統制し税関制度を改革すること、これらはすべて、われわれが大都市にはいったとき、まず第一にとらなければならない措置である。これらのことをやりとげたち、中国人民は、帝国主義にむかって立ちあがったことになるのである。あとにのこった帝国主義の経済事業、文化事業は、しばらく存続させておいてもよいが、われわれがこれを監督し統制し、全国的勝利をおさめてから、あらためて解決するようにする。一般の外国居留民にたいしては、その合法的な利益を保護し、これを侵害しない。帝国主義のわが国にたいする承認の問題については、いま解決をいそぐべきではないし、全国的勝利をおさめたのちもなお、かなり長いあいだ解決をいそぐ必要はない。われわれは、平等の原則にしたがってすべての国と外交関係をうちたてることをのぞんでいる。しかし、一貫して中国人民を敵視している帝国主義が、すぐに平等の態度でわれわれにのぞむようなことはけっしてありえない。かれらが敵視の態度をあらためないかぎり、われわれは帝国主義国にたいし、中国における合法的地位をあたえない。外国人と商売をするのは、なにも問題ではない。商売があるならやるべきだし、現に商売はもうはじまっており、いくつかの資本主義国の商人がいまたがいに競争している。われわれは、できるかぎりまず社会主義国や人民民主主義国と商売をしなければならないが、同時に、資本主義国とも商売をするのである。
政治協商会議を招集し、民主連合政府を樹立するいっさいの条件はすでに熟している。すべての民主政党、人民団体、無党派民主人士はみな、われわれの側に立っている。上海や長江流域のブルジョア階級は、いまわれわれに関係をつけようとしている。南と北のあいだの航行・郵便業務はすでにはじまっている。四分五裂になった国民党は、もはやすべての大衆からはなれてしまっている。われわれはいま、南京反動政府と交渉をすすめる準備をしている〔2〕。南京反動政府の側でこの交渉の推進力となっているのは、広西派の軍閥、国民党の和平派、上海のブルジョア階級である。かれらの目的は、連合政府に一枚くわわり、できるだけ多くの軍隊を温存し、上海や南方のブルジョア階級の利益を保持し、極力、革命に温和な色彩をもたせることにある。この連中はわれわれの八ヵ条を交渉の基礎とすることを認めてはいるが、かれらの損失があまり大きくならないように、かけひきをしようと考えている。この交渉をぶちこわそうとしているのは、蒋介石とその度しがたい徒党である。蒋介石はまだ六十コ師団を江南一帯に配置しており、これらの部隊はいまなお戦う準備をしている。われわれの方針は、交渉をこばまず、相手方に八ヵ条の完全な承認を要求し、かけひきを許さないことである。そのかわり、われわれとしては、広西派およびその他の国民党和平派をたたかず、一年前後はかれらの軍隊の編成がえをおこなわず、南京政府の一部の要員には政治協商会議と連合政府への参加を許し、上海や南方のブルジョア階級にはその一部の利益の保護を承諾するのである。この交渉は全面的なもので、もし成功すれば、われわれが南方に進軍し南方の各大都市を占領するうえでの多くの障害がとりのぞかれることになり、ひじょうに有利である。もし成功しなければ、進軍してから、個々に地方的な交渉をすすめることになる。交渉の時期は三月下旬の予定である。われわれは、四月か五月に南京を占領し、そののち北平で政治協商会議をひらき、連合政府をうちたて、首都を北平に定めたいとおもっている。われわれは、交渉を許す以上、交渉が成功したのちに幾多のわずらわしい事態がおこることを覚悟していなければならないし、また、孫情空が鉄扇公主の腹のなかにもぐりこんであばれまわった〔3〕ような政策を相手方がとったばあい、冷静な頭脳で対処するだけの用意がなければならない。十分な心がまえさえあれば、どんな妖術をつかう孫悟空にもうち勝つことができる。全面的な和平交渉であろうと、局地的な和平交渉であろうと、われわれはこうした心がまえをしておくべきである。われわれは、わずらわしさをいとい、ことなきをもとめて、これらの交渉をうけいれないというのであってはならないし、また、わけもわからずにこうした交渉をうけいれるのであってもならない。われわれは確固とした原則性をもたなくてはならないし、原則性をつらぬくために許され必要とされるあらゆる弾力性をももたなくてはならない。
プロレタリア階級の指導する、労農同盟を基礎とした人民民主主義独裁は、わが党が全労働者階級、全農民階級、広範な革命的知識層としんけんに団結することを要求している。かれらはこの独裁の指導勢力であり、基本勢力である。こうした団結がなければ、この独裁は強固なものになりえない。同時に、この独裁はまた、わが党が、できるだけ多くの、われわれと協力しうる都市小ブルジョア階級と民族ブルジョア階級のなかの代表的人物や知識人、政治グループと団結することを要求している。それは、革命の時期には、反革命勢力を孤立におとしいれ、国内の反革命勢力と帝国主義勢力を徹底的に打倒するためであり、革命の勝利したのちには、急速に生産を回復し発展させ、国外の帝国主義にたちむかい、中国を着実に農業国から工業国に変えていき、中国を偉大な社会主義国にきすきあげるためである。したがって、わが党が党外の民主人士と長期にわたって協力するという政策は、思想のうえでも活動のうえでも、全党的に確立しなければならない。われわれは、党外の大多数の民主人士をわれわれ自身の幹部とおなじようにみなし、相談し解決すべき問題については、誠意をこめて、かれらと卒直に相談して解決しなければならず、かれらに仕事をあたえて、かれらがその持ち場で職務におうじた権限をもち、仕事のうえで成果をあげられるようにしなければならない。かれらと団結するということから出発して、かれらのあやまりや欠点にたいし、しんけんで、適切な批判または闘争をおこない、かれらと団結する目的をたっしなければならない。かれらのあやまりや欠点にたいして妥協的な態度をとるのはまちがっている。かれらにたいして閉鎖的な態度やおざなりな態度をとるのもまちがっている。どの大都市やどの中都市でも、どの戦略的地域やどの省でも、われわれと協力できる、信望のある党外の民主人士を相当数そだてるべきである。わが党内では、土地革命戦争の時期の閉鎖主義の作風からうまれた、党外の民主人士にたいする正しくない態度が、抗日の時期にも完全には克服されないで、一九四七年の各根拠地における土地改革の高揚の時期にふたたびあらわれたことがある。こうした態度は、わが党を孤立におとしいれ、人民民主主義独裁の強化を不可能にし、敵に同盟者をえさせるだけである。いまや、わが党の指導のもとでの中国最初の政治協商会議がひらかれようとしており、民主連合政府が成立しようとしており、革命が全国的勝利をおさめようとしている。全党はこの問題についてしんけんに検討し、正しい認識をもたなければならず、右翼的な妥協主義と「左」翼的な閉鎖主義またはおざなり主義という二つの偏向に反対して、完全に正しい態度をとらなければならない。
われわれはもうすぐ全国的勝利をおさめようとしている。この勝利は帝国主義の東方の戦線をつきやぶり、偉大な国際的意義をもつことになるであろう。この勝利をかちとるには、もうそれほど長い時間を必要としないし、それほど大きな力をついやす必要もない。だが、この勝利をうちかためるのは、長い時間をかけ、大きな力をついやさなければならないことがらである。ブルジョア階級はわれわれの建設能力にうたがいをもっている。帝国主義者は、われわれが結局はかれらにめぐみを乞わなければやっていけなくなるだろうと考えている。勝利をおさめると、党内にはおごりたかぶった気持ち、功労者を自任する気持ち、立ちとまって進歩をもとめようとしない気持ち、享楽をむさぼって二度と苦しい生活をしたがらない気持ちがうまれてくるであろう。勝利をおさめると、人民はわれわれに感謝し、ブルジョア階級もわれわれをもちあげるようになる。敵の武力がわれわれを征服できないこと、この点はすでに立証されている。だが、ブルジョア階級にもちあげられると、われわれの隊伍のなかの意志薄弱なものは征服されるかもしれない。銃をもった敵には征服されたことがなく、こうした敵のまえでは英雄の名に恥じなかったが、糖衣でくるんだ砲弾の攻撃にはたえきれず、梶衣弾のまえには敗北をなめる、というような共産党員がいるかもしれない。われわれはこうした事態を未然にふせがなければならない。全国的勝利をかちとること、これは万里の長征の第一歩をふみだしたにすぎない。たとえこの一歩が誇るべきものだとしても、それはむしろとるにたりないもので、もっと誇るべきものはこれからさきにある。何十年もたってから、中国の人民民主主義革命の勝利をふりかえってみれば、それはちょうど長い芝居の小さな序幕にすぎないような感じがするにちがいない。芝居は序幕からはじめなければならないが、序幕はまだやま場ではない。中国の革命は偉大であるが、革命後の道のりはもっと長く、その仕事はもっと偉大であり、もっと困難なものである。この点は、いまから党内にはっきりといっておかなければならない。そして、同志たちに謙虚で、慎重な、おごらず、あせらない作風をひきつづき保持させなければならないし、同志たちに刻苦奮闘の作風をひきつづき保持させなければならない。われわれには、批判と自己批判というマルクス・レーニン主義の武器がある。われわれはよくない作風をすてて、すぐれた作風を保持することができる。われわれは、以前知らなかったものを学びとることができる。われわれは古い世界を破壊することができるだけでなく、新しい世界を建設することもできる。中国人民は、帝国主義者にめぐみを乞わなくてもやっていけるだけでなく、帝国主義国よりももっとりっぱにやっていけるようになる。
〔1〕 一九四九年九月十九日、国民党綏遠省政府主席菫其武、兵団司令官孫蘭峯らは、四万余人をひきいて蜂起した。蜂起した部隊は、一九五〇年二月三十一日から人民解放軍綏遠軍区の指導のもとで再編成され、四月十日に人民解放軍に編成がえされた。
〔2〕 南京国民党反動政府と和平交渉をおこなうことについて、中国共産党中央は、一九四九年三月二十六日、つぎのことを決定した。「(一)交渉開始の期日――四月一日。(二)交渉の場所――北平。(三)周恩来、林伯渠、林彪、葉剣英、李維漢を代表に(四月一日、中国共産党中央は聶栄臻を代表に追加することを決定)、周恩来を首席代表に任命し、南京側の代表団と交渉をおこなわせる。毛沢東主席が一月十四日におこなった時局についての声明とそこにあげられた八項目の条件を双方の交渉の基礎とする。(四)交渉の順調な進行をはかるため、前記の各事項を、即日、放送局をつうじ南京国民党反動政府に通告して、上述の期日と場所をたがえず代表団を派遣させ、八項目の条件に必要な資料を携行させる。」
〔3〕 孫悟空が小さな虫に化け、鉄扇公王の腹のなかにもぐりこんで、鉄扇公王をうち負かした物語は、中国の伝奇小説『西遊記』の第五十九回にある。
(一九四九年三月十三日)
これは、毛沢東同志が党の第七期中央委員会第二回総会でのべた結論の一部である。
一、党委員会の書記は、りっぱに「班長」の役がつとまらなければならない。党の委員会は十名ないし二十名で、軍隊の一つの班に似ており、書記は「班長」のようなものである。この班をうまくひきいていくのは、たしかに容易なことではない。いま各中央局、分局はすべて大きな地域を指導し、ひじょうに重い任務をになっている。指導をするには、方針、政策をきめるだけでなく、正しい活動方法もさめなければならない。正しい方針、政策があっても、活動方法をなおざりにすれば、やはり問題がおこる。党委員会がその指導の任務をはたすには、党委員会という「全班員」にたより、かれらの役割をじゅうぶんに発揮させなければならない。書記がうまく「班長」をつとめるには、よく学び、よく研究しなければならない。書記、副書記が、自分の「全班員」にたいして宣伝活動と組織活動をすることに心をくばらす、自分と委員との関係をうまく処理することができず、会議をどのようにして成果のあるものにするかを研究しないなら、この「全班員」をうまく指揮することはむずかしい。この「全班員」の足並みがそろわないようでは、いく百万いく千万の人びとをひきいて戦争や建設をするなど思いもよらないことである。もちろん、書記と委員とのあいだは、少数が多数にしたがうという関係であって、班長と兵士の関係とはちがう。ここでのべたのは、一つのたとえにすぎない。
二、問題を会議の席にもちださなければならない。「班長」がそうしなければならないばかりでなく、委員もそうしなければならない。陰でとやかくいってはいけない。問題があれば会議をひらき、その席にもちだして討議し、いくつかのことをきめれは、それで問題は解決する。問題があっても会議の席にもちださなければ、長いあいだ解決されず、何年ももちこされることさえある。「班長」と委員はまた了解しあわなければならない。書記と委員、中央と各中央局、各中央局と区党委員会のあいだの了解、援助、友情はなによりも大切である。これは以前みんなが注意しなかった点であるが、第七回代表大会いらい、この面で大きな進歩がみられ、友愛、団結の関係がひじょうに強まった。今後とも、この点はたえず注意すべきである。
三、「情報を知らせ合う」。つまり、党委員会の各委員は知っている状況を知らせ合い、交流し合わなければならない。これは、共通のことばをもつうえでひじょうに大切なことである。一部の人はそうしないで、老子のいうように「鶏大の声あい聞くゆれども、老いて死にいたるまであい往来せず」〔1〕、その結果、ぶたがいのあいだに共通のことばが欠けている。われわれの一部の高級幹部は、マルクス・レーニン主義の基本理論の問題においてさえ共通のことばをもたなかったが、それは学習がたりなかったためである。いま、党内のことばはわりあい一致しているが、問題はまだ完全には解決されていない。たとえば、土地改革においても、「中農」とはなにか、「富農」とはなにかについて、まだ異なった理解がある。
四、わからないことや知らないことは、下級のものに聞くようにし、かるがるしく賛成または反対の態度をしめしてはならない。一部の文書は起草されてからも、しばらくのあいだおさえておいて出さないのは、そのなかに、まだはっきりしていない問題があり、まず、下級のものの意見をもとめる必要があるからである。われわれはけっして知らないのに知ったようなふりをしてはならず、「下問を恥じない」〔2〕ようにしなければならず、下級の幹部の意見によく耳をかたむけるようにしなければならない。まず生徒になり、そのあとで先生になる、まず下級の幹部に教えを請い、そのあとで指令を出すようにする。各中央局、各前線委員会は、問題を処理するにあたって、軍事情勢が急をつげているばあいや、事態がすでにはっきりしているばあいをのぞいては、すべてこのようにすべきである。こうしたからといって、自分の威信にひびくようなことはなく、むしろ威信が高まるだけである。われわれのおこなう決定に、下級の幹部の出した正しい意見がふくまれていれば、かれらは当然これを支持する。下級の幹部のいうことには正しいものもあれば、正しくないものもあるから、聞いたうえで分析をくわえなければならない。正しい意見にはかならず耳をかたむけ、またそのとおりにしなければならない。中央の指導が正しいのは、主として、各地からおくられてくる資料、報告、正しい意見を総合するからである。各地から資料がこす、意見が出されなければ、中央は正しい指令を出すことがむずかしくなる。下からくるまちがった意見にも耳をかたむけるべきで、頭から聞こうとしないのはまちがっている。ただ、聞いても、そのとおりにするのではなく、これに批判をくわえるべきである。
五、「ピアノを弾く」ことを学びとる。ピアノを弾くには、十本の指をみな動かさなければならない。ある情は動かすが、ある情は動かさないというわけにはいかない。だが、十本の指でいちどにたたいても、旋律にはならない。よい音楽をかなでるには、十本の指が律動的に動き、たがいに調和をたもっていなければならない。党委員会は中心の活動をしっかりとつかまなければならないが、同時に、中心の活動をめぐって、他の方面の活動もくりひろげなければならない。いま、われわれの管轄している方面はひじょうに多く、各地、各軍、各部門の活動にすべて心をくばらなければならず、一部の問題だけに注意をむけて他をほうっておくようであってはならない。問題のあるところはすべておきえるべきであって、こういう方法をかならず学びとらなければならない。ピアノを弾くのにもじょうずな人とへたな人とがいて、両者のかなでる旋律には格段の差がある。党委員会の同志は、「ピアノを弾く」ことをよく学びとらなければならない。
六、「しっかりとつかむ」必要がある。つまり、党委員会はおもな活動をかならず「つかむ」必要があるばかりでなく、かならず「しっかりとつかむ」必要がある。どんなものでも、しっかりとつかんで、すこしもゆるめないようにしなければ、つかんではいられない。つかんでも、しっかりとつかまなければ、つかまないにひとしい。手のひらをひろげていたのでは、もちろん、なにもつかめるものではない。たとえ手を握っても、しっかりと握りしめなければ、つかんだようには見えても、やはり物をつかめないのである。われわれの一部の同志は、主要な活動をつかむにはつかむが、しっかりとつかまないために、やはり活動かうまくやれないでいる。つかまなければだめだが、つかんでも、しっかりつかまなければ、やはりだめである。
七、頭に「数字」をいれておく。つまり、状況または問題について、かならずその量の面に注意し、基本的な量の分析をしておかなければならない。どのような質も一定の量としてあらわれるもので、量がなければ質もない。われわれの多くの同志は、いまだに事物の量の面に注意することを知らす、基本的な統計、おもな百分比に注意することを知らす、事物の質を決定する量的限界に注意することを知らす、なにごとについても頭に「数宇」をいれていないため、どうしても誤りをおかすことになる。たとえば、土地改革をおこなうにも、地主、富農、中農、貧農がそれぞれ人口のどのくらいをしめているか、それぞれどのくらいの土地をもっているかという、そうした数字を知っていなければ、それをもとにして正しい政策をうちだすことはできない。富農とはなにか、富裕中農とはなにか、搾取による所得がどのくらいあれば富農で、そうでなければ富裕中豊かについても、やはり量的限界を見いださなければならない。どんな大衆運動のなかでも、大衆のなかで積極的に支持するものはどのくらいか、反対するものはどのくらいか、中間状態にあるものはどのくらいかということについて、基本的な調査と基本的な分析をしておかなければならない。根拠もなく、主観的に問題をきめてはならない。
八、「安民告示」。会議をひらくには、あらかじめ通知しなければならない。それはちょうど民心安定の告示を出すのとおなじことで、どんな問題を討議するのか、どんな問題を解決するのかをみんなに知らせ、早めに準備をさせるのである。一部のところでは、幹部の会議をひらくのに、あらかじめ報告や決議案を準備しておかないで、参会者が集まってからその場でまにあわせをやっている。ちょうど「兵馬すでにいたるも、糧秣いまだととのわず」というようなもので、これではよくない。もし準備ができていなければ、会議をひらくのをいそいではならない。
九、「精兵簡政」①。談話や演説をするにも、文章や決議又を書くにも、すべて簡潔で要をえたものにすべきである。会議もあまり長い時間をついやしてはならない。
十、自分と意見のちがう同志と団結し、いっしょに仕事をしていくよう注意する。軍隊でも、軍隊以外のところでも、この点に注意すべきである。党外の人びとにたいしてもおなじである。われわれはみな全国の津々浦々から集まってきたのであるから、自分とおなじ意見の同志とよく団結するだけでなく、自分と意見のちがう同志ともよく団結していっしょに仕事がやれるようでなければならない。われわれのなかにはまた、かつて大きな誤りをおかしたものもいるが、こうした人びとをいやがらずに、いっしょに仕事をしていく心がまえがなければならない。
十一、おごりたかぶることをいましめる。これは指導者にとって原則的な問題であり、また団結を保持する重要な条件でもある。大きな誤りをおかしたことがないはかりか、仕事の面で大きな成果をあげた人でも、おごりたかぶってはならない。党の指導者の誕生日を祝うことを禁止し、党の指導者の名まえを土地の名、街路の名、企業の名にすることを禁止し、刻苦奮闘の作風を保持し、功績をうたいあげるようなことをやめさせる。
十二、二つの境界線をはっきりひく。まず第一には、革命か反革命か、延安か西安か〔3〕、である。この境界線をはっきりひかなければならないことが一部の人にはわかっていない。たとえば、官僚主義に反対するとなると、延安を「なにひとつ取りえがない」かのようにいいたて、延安の官僚主義を西安の官僚主義と比較し区別することをしない。これでは根本的に誤っている。第二には、革命の隊伍のなかで、正しいことと誤っていること、成果と欠陥の境界線をはっきりひかなければならないし、さらに、そのうちどちらが主要なもので、どちらが第二義的なものであるかをはっきりさせなければならない。たとえば、成果はいったい三分なのか、それとも七分なのか。少なくいってもいけないし、多くいってもいけない。ひとりの人の仕事でも、いったい成果が三分で誤りが七分なのか、それとも成果が七分で誤りが三分なのか、根本的な評価がなければならない。もしも成果が七分なら、その人の仕事を基本的に肯定すべきである。成果が主であるのを誤りが主だというなら、それは完全なまちがいである。われわれは、問題をみるばあいに、二つの境界線、すなわち、革命と反革命の境界線、成果と欠陥の境界線をはっきりひくことをけっして忘れてはならない。この二つの境界線を頭に入れておけば、物事はうまくいくが、そうでなければ、問題の性質を混同することになる。もちろん、境界線をはっきりひくには、綿密な研究と分析をおこなわなければならない。われわれは、それぞれの人についても、それぞれのことがらについても、分析し研究する態度をとらなければならない。
わたしも政治局の同志も、党委員会の活動をうまくやるには以上のような方法をとらなければならない、とおもっている。代表大会をりっぱにひらくことのほかに、党の各級委員会が自分の指導の仕事をりっぱにやっていくことはきわめて重要である。われわれはかならず活動方法に工夫をこらし、党委員会の指導の仕事をいちだんとたかめなければならない。
〔1〕 『老子』の第八十章にみられる。原文には、「隣国あい望み、鶏大の声あい聞こゆれとも、民は老いて死にいたるまであい往来せず」とある。
〔2〕 『論語』の「公治長第五」にみられる。原文には、「敏にして学をこのみ、下問を恥じず」とある。
〔3〕 延安は、一九三七年一月から一九四七年三月まで、中国共産党中央の所在地であった。西安は、国民党反動派の西北地方における支配の中心であった。毛沢東同志はこれを革命と反革命にたとえたのである。
① 「精兵簡政」とは軍隊の精鋭化、行政の簡素化のことで、ここでは比喩的につかわれている。
(一九四九年四月四日)
南京国民党政府とその軍事・行政要員のまえには二つの道が横たわっている。一つは、蒋介石ら戦犯集団とその主人アメリカ帝国主義の側にくっつくこと、つまり、ひきつづき人民に敵対し、人民解放戦争のなかで蒋介石ら戦犯集団といっしょに滅亡することである。もう一つは、人民の側につくこと、つまり、蒋介石ら戦犯集団およびアメリカ帝国主義とたもとをわかち、人民解放戦争のなかで手柄をたてて罪をつぐなうことによって、人民から寛大にあつかってもらい、許してもらうことである。第三の道はない。
南京の李宗仁・何応欽政府〔1〕には、三つの部類の人びとがいる。一つの部類の人びとは、どこまでも第一の道をすすんでいる。かれらはいくら口先でうまいことをいっても、行動のうえでは、ひきつづき戦争を準備し、ひきつづき国を売り、真の平和をもとめる人民をひきつづき抑圧し虐殺している。かれらは蒋介石の血盟の徒である。もう一つの部類の人びとは第二の道をあゆもうとおもっているが、まだ決定的な行動にでることができないでいる。第三の部類は、岐路をさまよっている、方向のはっきりしない人びとである。かれらは、蒋介石とアメリカ政府の機嫌もそこねたくはないし、また人民民主主義陣営からも了解してもらい、包容してもらおうとおもっている。だが、これは幻想であり、不可能なことである。
南京の李宗仁・何応欽政府は、基本的には、第一の部類の人びとと第三の部類の人びととの混合物であり、第二の部類の人びとはきわめて数がすくない。この政府は、こんにちまでのところ、依然として蒋介石とアメリカ政府の道具である。
四月一日に南京でおこった虐殺事件〔2〕は、なにも偶発的なできごとではない。これは、李宗仁・何応欽政府が蒋介石をかばい、蒋介石の血盟の徒をかばい、アメリカの侵略勢力をかばってきた必然の結果である。これは李宗仁・何応欽政府が、蒋介石の血盟の徒といっしょに、でたらめにも「対等の、栄えある和平」なるものを鼓吹することによって、中国共産党の八項目の和平条件、とりわけ戦争犯罪人の処罰に抵抗してきた結果である。李宗仁・何応欽政府がすでに和平交渉の代表団を北平に派遣して中国共産党と和平交渉をおこなわせ、しかも中国共産党の八項目の条件を交渉の基礎としてうけいれる意向を表明している以上、もし、この政府に最低限度の誠意があるならば、南京虐殺事件の処理を手はじめに、元凶の蒋介石、湯恩伯、張耀明を逮捕して厳重に処罰し、南京、上海の特務・暴徒を逮捕して厳重に処罰し、また、どこまでも和平に反対し積極的に和平交渉をぶちこわし長江以南への人民解放軍の進撃に抵抗しようと積極的に準備している反革命のおもだったものどもを逮捕して厳重に処罰すべきである。慶父死せざれは、魯の難はやまず〔3〕、戦犯をのぞかざれば、同に寧日なし、である。この真理がいまになってもまだわからないのだろうか。
われわれは南京政府にはっきり告げたい。諸君にもしこの問題を処理する能力がないなら、まもなく長江を渡って南進する人民解放軍がそれを処理するのを手伝うべきである。いまとなっては、空言はいっさい無用で、それよりも、手柄をたてて自分の罪をつぐなうために実質的な仕事をしたほうがよい。そうすれば、逃げださなくてすみ、もう蒋介石の血盟の徒からいじめられなくてすみ、人民から永久に唾棄されるようなことがなくてすむ。これが最後の機会であって、この機会を逃がしてはならない。人民解放軍はもうすぐ長江以南へ進軍する。これは、空言によって諸君をおどかしているのではない。諸君が八項目の条件をうけいれる協定を結ぼうが、結ぶまいが、人民解放軍はかならず前進する。協定を結んでから前進すれば各方面に有利である――人民にとって有利であり、人民解放軍にとって有利であり、国民党政府関係の、手柄をたてて罪をつぐないたいと考えているすべての人びとにとって有利であり、国民党軍の広範な将兵にとって有利である。ただ蒋介石にとって、蒋介石の血盟の徒にとって、帝国主義者にとって不利なだけである。この協定が結ばれなくても、事態にはやはりたいしてちがいはなく、局地的な交渉の方法で解決することができる。これからもまだいくらか戦闘はあろうが、そんなにたくさんの戦闘はもうあるまい。新疆から台湾にいたる広い地域と長い戦線に、国民党の戦闘部隊は百十万前後しかおらず、もうそんなにたくさんのいくさはない。全面的な協定を結ぶにせよ、そうした協定は結ばないで多くの局地的な協定を結ぶにせよ、蒋介石にとって、蒋介石の血盟の徒にとって、アメリカ帝国主義にとって、一言でいえば、死ぬまで本性の変わらないいっさいの反動派にとっては、事態はどのみちおなじで、かれらは滅亡するにきまっている。全面的な協定を結ぶことは、南京側にとっても、わが方にとっても、それを結ばないよりはいくぶん有利であるかもしれない。だから、われわれはやはりこの協定を結ぼうと努力している。しかし、この全面的な協定を結ぶとなると、われわれは、いろいろつきまとってくる厄介なことに対処する心がまえをしておかなければならない。この協定を結ばないで多くの局地的な協定を結んだほうが、われわれにとってずっとすっきりする。それにもかかわらず、われわれはやはりこの協定を結ぶつもりでいる。南京政府とその代表団も、そうすることを望むなら、この数日中に決心をし、いっさいの幻想といっさいの空言をすてるべきである。われわれは諸君にそう決心するよう強制しはしない。南京政府とその代表団がそう決心するかどうかは、諸君自身の自由である。つまり、諸君が蒋介石やスチュアートのいうことをきいて、しかも永久にかれらの側に立つか、それともわれわれのいうことをきいてわれわれの側に立つか、この二つのうちのどちらを選ぶかは諸君自身の自由である。しかし、選択しているひまはそんなにはない。人民解放軍はすぐにも進軍しようとしており、ぐずぐずしている余地はすこしもない。
〔1〕 孫科か辞職したのち、李宗仁は一九四九年三月十二日に何応欽を後任のにせ行政院長に任命した。
〔2〕 一九四九年四月一日、南京の専門学校以上の十一校の学生六千余人がデモ行進をおこない、中国共産党の八項目の和平条件をうけいれるよう国民党皮勤政府に要求した。国民党の南京衛戍総司令張耀明は、蒋介石の指示で、軍隊、警察、特務をさしずしてデモの学生に残虐な暴行をくわえ、学生に死者二名、負傷者百余名をださせた。
〔3〕 『左伝』にみられる。慶父は春秋時代の魯の国の公子で、たびたび魯の国の内乱をひきおこし、国王を二人殺害した。当時、世間で「慶父をのぞかざれば、魯の難はやまず」といわれ、後代の人は、内乱をおこすものをよく慶父にたとえた。
(一九四九年四月二十一日)
この命令は、毛沢東同志が起草したものである。国民党反動政府が国内和平協定の調印を拒否したのち、人民解放軍は毛沢東主席と朱徳総司令のこの命令にしたがい、まだ解放されていない広大な地域にむかって、空前の規模をもつ全面的な大進軍をおこなった。劉伯承、鄧小平らの同志のひきいる第二野戦軍と陳毅、粟裕、譚震林らの同志のひきいる第三野戦軍は、一九四九年四月二十一日の朝、西は九江東北の糊口から東は江陰にいたる長さ五百余キロの戦線で長江を強行渡河し、敵か三ヵ月半にわたり営々としてつくりあげた長江の防御線を徹底的に粉砕した。四月二十三日には、国民党の二十二年にわたる反革命の支配の中心であった南京を解放し、国民党反動支配が覆滅をつげた。つづいて、さらに数路にわかれ、南にむかって挺進し、五月三日には杭州、五月二十二日には南昌を解放し、五月二十七日には中国最大の都市である上海を攻略した。六月には福建省への進軍をはじめた。八月十七日には福州を、十月十七日には廈門を解放した。林彪、羅栄桓らの同志のひきいる第四野戦軍は、五月十四日、武漢以東の団風から武穴にいたる百余キロの区間で長江を強行渡河した。五月十六、十七の両日には華中の要衝武昌、漢陽、漢□を解放し、つづいてさらに湖南省に南下した。国民党の湖南省主席程潜、第一兵団司令陳明仁は八月四日に蜂起を宣言し、湖南省は平和的に解放された。第四野戦軍は九月、十月に衡(陽)宝(慶)戦役をおこなって、国民党の白崇禧軍の主力を殲滅したのち、さらに広東、広西両省に進軍した。十月十四日には広州を、十一月三十二日には桂林を、十二月四日には南寧を解放した。第二、第三野戦軍の長江渡河作戦と時をおなじくして、聶栄臻、徐向前らの同志のひきいる華北の各兵団は四月二十四日に太原を攻略した。彭徳懐、賀竜らの同志のひきいる第一野戦軍は、五月二十日に西安を解放したのち、華北の二コ兵団とともにひきつづき西北地方の国民党支配区にむかって進軍し、八月二十六日には蘭州を攻略し、九月五日には西寧を、九月二十三日には銀川を解放して、国民党の馬歩芳、馬鴻逵の軍隊を全部殲滅した。九月下旬には、国民党の新疆省警備総司令陶峙岳、省主席ブルハンが蜂起を宣言し、新疆省は平和的に解放された。劉伯承、鄧小平らの同志のひきいる第二野戦軍は、賀竜、李井泉らの同志のひきいる華北野戦軍第十八兵団および第一野戦軍の一部とともに、十一月のはじめに西南地方にむかって進軍をはじめた。十一月十五日には貴陽を、十一月三十日には重慶を解放した。十二月九日には、国民党の雲南省主席盧漢、西康省主席劉文輝、西南軍政長官公署副長官鄧錫侯、瀋文華らが蜂起を宣言し、雲南、西康の両省が平和的に解放された。十二月下旬、西南地方にはいった人民解放軍は、成都戦役をおこなって、国民党の胡宗南軍を全部殲滅し、二十七日には成都を解放した。一九四九年十二月末になって、人民解放軍は中国大陸における国民党の軍隊を全部殲滅し、チベットをのぞく全中国大陸を解放した。
各野戦軍の指揮員、戦闘員の全同志諸君、南方各遊撃区の人民解放軍の同志諸君
中国共産党の代表団と南京国民党政府の代表団が長いあいだの交渉をへて作成した国内和平協定は、すでに南京国民党政府によって拒否された〔1〕。南京国民党政府の責任者がこの国内和平協定を拒否したのは、かれらがいまなおアメリカ帝国主義と国民党匪賊の頭目蒋介石の命令にしたがって、中国の人民解放事業の前進をはばみ、平和的な方法による国内問題の解決をはばもうとたくらんでいるからである。双方の代表団の交渉をつうじて作成された国内和平協定八ヵ条二十四款は、戦犯問題についての寛大な処理、国民党軍隊の将兵と国民党政府の勤務人員にたいする寛大な処理をあきらかにしており、その他の諸問題についても、例外なく、民族の利益と人民の利益の見地から適切な解決をあたえている。この協定を拒否したことは、国民党反動派が、かれらのおこした反革命戦争をどこまでもやりぬく決意でいることをしめしている。この協定を拒否したことは、ことし一月一日の国民党反動派の和平交渉提案は、反動派が息つぎの時間をかせいで勢いをもりかえし革命勢力をおしつぶすために、人民解放軍の前進をはばもうとするたくらみから出たものにすぎなかったことをしめしている。この協定を拒否したことは、南京の李宗仁政府が中国共産党の八項目の和平条件を交渉の基礎として認めるといったのはまったくの偽りであったことをしめしている。なぜなら、戦争犯罪人の処罰、民主主義の原則にもとづくすべての国民党反動軍隊の改編、南京政府とこれに所属する各級政府のいっさいの権力の接収およびその他の基礎条件を認めたからには、これらの基礎条件にもとづいて作成された、しかもきわめて寛大な具体的措置を拒否する理由はないからである。こうした状況のもとで、われわれは諸君に命令する。
(一)勇躍前進し、中国領土内の、あえて抵抗するいっさいの国民党反動派を断固として、徹底的に、きれいに、のこらす殲滅して、全国人民を解放し、中国の領土の保全と、主権の独立をまもれ。
(二)勇躍前進し、あくまで悪事を悔いあらためないいっさいの戦争犯罪人を逮捕せよ。どこへ逃がれようとも、かれらをことごとく逮捕し、法によって処罰すべきである。とくに、匪賊の頭目蒋介石を逮捕するように注意せよ。
(三)国民党のあらゆる地方政府、地方軍事集団に国内和平協定の最終修正案を発表せよ。戦争の停止と平和的方法による問題の解決を望むものにたいしてはすべて、諸君はこの最終修正案の主旨にのっとり、かれらと局地的協定を結んでよい。
(四)人民解放軍が南京を包囲したのち、もし南京の李宗仁政府がまだ逃亡四散しておらず、しかも国内和平協定に調印することを望むならば、われわれは、いま一度、同政府に調印の機会をあたえる用意がある。
中国人民革命軍事委員会主席 毛沢東
中国人民解放軍総司令 朱徳
〔1〕 一九四九年四月一日、張治中をかしらとする国民党政府和平交渉代表団が北平にきて、中国共産党代表団と交渉をはじめた。半ヵ月の交渉をへて、国内和平協定が作成された。四月十五日に、中国共産党代表団は国内和平協定(最終修正案)を南京政府代表団に手渡したが、四月二十日、南京政府によって拒否された。国内和平協定(最終修正案)の全文はつぎのとおりである。
中華民国三十五年、南京国民政府はアメリカ政府の援助のもとに、人民の意志にそむき、休戦協定と政治協商会議の決議をふみにじって、中国共産党に反対するという名目で中国人民と中国人民解放軍にたいする全国的規模の国内戦争をおこした。この戦争はこんにちまで、すでに二年九ヵ月半の久しきにおよんでいる。全国人民はこれがため、きわめて大きな災厄をこうむった。国の財力物力はきわめて大きな損失をこうむり、国家主権もまた新たな損害をうけた。全国人民は、南京国民政府が孫中山先生の革命的三民主義の立場にそむき、孫中山先生の連ソ、連共、農労援助などの正しい政策にそむき、また孫中山先生の臨終の革命的遺言にそむいたことにたいし、一貫して不満を表明している。全国人民は、南京国民政府がこんどの空前の規模をもった国内戦争をおこしたこと、ならびに、これがためにとった政治、軍事、財政、経済、文化、外交などの面でのあやまった政策および措置にたいして、とりわけ反対を表明している。南京国民政府はもはや、全国人民のあいだでまったく信頼をうしなっている。しかも、南京国民政府の軍隊は、こんどの国内戦争で、中国共産党が指導し、中国人民革命軍事委員会が指揮する人民解放軍によってすでにうちやぶられた。以上の状況にもとづき、南京国民政府は、中華民国三十八年一月一日、中国共産党にたいして、国内戦争の停止と平和状態の回復についての交渉をおこなうよう提案した。中国共産党は同年一月十四日、声明を発表して、南京国民政府のこの提案に同意するとともに、戦争犯罪人の処罰、にせ燈法の廃止、偽りの法的正統性の廃絶、民主主義の原則にもとづくすべての反動軍隊の改編、官僚資本の没収、土地改革の実施、売国条約の廃棄、反動分子の参加しない新政治協商会議の招集による民主連合政府の樹立ならびに南京国民党反動政府とこれに所属する各級政府のいっさいの権力の接収など八項目の条件を、双方が和平交渉をおこなう基礎とするよう提案したが、この八項目の基礎条件は、南京国民政府の同意するところとなった。よって、中国共産党側と南京国民政府側はそれぞれ、交渉をすすめ協定に調印する全権をもった代表団を派遣した。双方の代表は北平で会合し、南京国民政府がこんどの困内戦争およびその各種のあやまった政策について全音任を負うべきことをまず確認するとともに、本協定の締結に合意した。
第一款 是非をはっきりさせ、責任をあきらかにするため、中国共産党代表団と南京国民政府代表団の双方(以下双方と略称する)は、こんどの国内戦争をおこし、これを遂行したことに責任を負うべき南京国民政府側の戦争犯罪人にたいしては、原則として、かならずこれを処罰すべきことを確認する。ただし、下記の状況におうじ区別して処理することができる。
第一項 すべての戦犯は、なんびとたるを問わず、是非をわきまえて、翻然と悔いあらため、そして、それが真心から出たものであり、たしかに実際の行動かみられ、それによって中国の人民解放事業の前進に役立ち、平和的方法による国内問題の解決に役立ったものは、戦犯の罪名をとり消し、寛大にとりあつかう。
第二項 すべての戦犯は、なんびとたるを問わず、あくまで悪事を悔いあらためず、人民解放事業の前進をはばみ、平和的方法による国内問題の解決をさまたげ、あるいは反乱さえも策動するものは、厳重にこれを処罰する。部隊をひきいて反乱をおこすものは、中国人民革命軍事委員会がこれを鎮定する。
第二款 双方は、南京国民政府が中華民国三十八年一月二十六日に日本の中国侵略戦争の戦争犯罪人岡村寧次大将の無罪釈放を宣告したこと、また同年一月三十一日にその他の日本人戦犯二百六十名の日本送還を許したことなどの処置はまちかいであることを確認する。これら日本人戦犯は、中国の民主連合政府、すなわち全中国人民を代表する新しい中央政府の成立をまって、あらためて処理する。
第三款 双方は、南京国民党政府か中華民国三十五年十一月にひらいた「国民代表大会」で採択された「中華民国憲法」は廃止さるべきことを確認する。
第四款 「中華民国憲法」の廃止ののち、中国の国家と人民がまもるべき基本法については、新政治協商会議と民主連合政府の決議によってこれを処理する。
第五款 双方は、南京国民政府のいっさいの法的正統性を廃絶させるべきことを確認する。
第六款 人民解放軍がはいり接収した地区においては、民主連合政府が成立したのち、ただちに人民の民主的な法的正統性を確立するとともに、いっさいの反動的法令を廃止する。
第七款 双方は、南京国民政府に所属するいっさいの武装力(いっさいの陸軍、海軍、空軍、憲兵部隊、交通警察部隊、地方部隊、いっさいの軍事機関、学校、工場、後方勤務機関など)が民主主義の原則にもとづいて人民解放軍に改編さるべきことを確認する。国内和平協定の調印後には、ただちに全国的な再編成委員会が設けられ、その改編の任にあたる。再編成委員会委員は七人ないし九人とし、人民革命車掌委員会から四人ないし五人を派遣し、南京国民政府から三人ないし四人を派遣し、人民革命軍事委員会の派遣する委員の一人を主任とし、南京国民政府の派遣する委員の一人を副主任とする。人民解放軍がはいり接収した地区では、必要におうじて地域的な再編成委員会分会を設けることができる。この分会の双方の人数の割合と主任、副主任の分担は全国的な再編成委員会のばあいとおなじとする。海軍および空軍の改編には、それぞれに再編成委員会を設ける。人民解放軍が南京国民政府のいまの所轄地域にはいり接収するいっさいの事項は、中国人民革命軍事委員会が命令をもってこれを規定する。人民解放軍がはいるさいには、南京国民政府に所属する武装部隊は抵抗してはならない。
第八款 双方は、どの区域における改編計画も、これを二つの段階にわけて実施することに同意する。
第一項 第一段階は集結と整理の段階とする。
第一目――南京国民政府に所属するいっさいの武装部隊(陸軍、海軍、空軍、憲兵、交通警察総隊、地方部隊など)はすべて集結させ整理をおこなう。整理の原則としては、再編成委員会が、各地城の実状にもとづき、人民解放軍がはいり接収した地区の武装部隊にたいして、もとの部隊名、編制、人数におうじ地区別に何回かにわけて指定の地点に移動するよう命じ、集結させて整理をおこなうものとする。
第二目――南京国民政府に所属するいっさいの武装部隊は、人民解放軍がはいり接収するまでのあいだ、その駐屯する大小の都市、主要交通線、河川・海港、農村において、いかなる破壊事件も発生しないよつに責任をもって現地の秩序維持にあたるべきものとする。
第三目――上述の地域で、人民解放軍がはいり接収するさいには、南京国民政府に所属する武装部隊は再編成委員会とその分会の命令にもとづいて平和的にひき渡しをおこなったうえ、指定された地点に移動するものとする。指定地点へ移動するための行進中にも到達後にも、南京国民政府に所属する武装部隊は厳格に規律をまもるべきものとし、地方の秩序を破壊してはならない。
第四目――南京国民政府に所属する武装部隊が再編成委員会とその分会の命令にしたがって駐屯地をはなれるばあい、もとからその土地に駐屯し守備していた地方警察または保安部隊は撤退してはならず、かつ責任をもって地方の治安を維持し、人民解放軍の指揮、命令をうけるものとする。
第五目――南京国民政府に所属するいっさいの武装部隊が移動し集結する期間、その糧秣、被服、その他の軍需品の補給は、すべて再編成委員会とその分会および地方政府が責任をもって解決にあたる。
第六目――南京国民政府に所属するいっさいの軍事機関(国防部から連合後方勤務総司令部所属の機関、学校、工場、倉庫等にいたるまで)、いっさいの軍事施設(軍港、要塞、空軍基地など)およびいっさいの軍用物資については、各地城の実状にもとづき、地区別に何回かにわけて人民解放軍と各地にあるその軍事管制委員会にひき渡すよう、再編成委員会とその分会が命令するものとする。
第二項 第二段階は地区別に改編をおこなう段階とする。
第一目――南京国民政府に所属する陸軍部隊(歩兵部隊、騎兵部隊、特種兵部隊、憲兵部隊、交通警察部隊、地方部隊)で、地区別に何回かにわけて指定の地点に移動し、集結と整理を終えたものについては、再編成委員会が各地城の実状にもとづいて、地区別の改編計画を作成し、期日をさだめてこれを実施するものとする。改編の原則としては、人民解放軍の民主主義制度と正規の編制にもとづき、集結と整理を終えたこれらの全陸軍部隊を人民解放軍の正規部隊に編成するものとする。その兵士のうちの老齢者、病弱者、不具者、廃疾者で、検査の結果、事実であることが証明され、たしかに除隊させる必要かあり、みずからも除隊を望むもの、および将校のうちみずかち退役または転業を望むものについては、すべて再編成委員会とその分会が、責任をもって処理にあたり、これに帰郷の便と、生活の道をあたえるものとし、それぞれにその所をえさせ、生活の手だてがないために好ましくない行為をおこなうことのないようにさせる。
第二目――南京国民政府に所属する海軍と空軍で、地区別に何回かにわけて指定の地点に移動し、集結と整理を終えたものは、もとの部隊名、編制、人数におうじて、海軍空軍再編成委員会が人民解放軍の民主主義制度にしたがってこれを改編する。
第三目――南京国民政府に所属するいっさいの武装部隊は、人民解放軍に改編されたのちには、人民解放軍の三大規律・八項注意を厳守し、人民解放軍の軍事・政治制度を忠実に実行すべきものとし、これに違反してはならない。
第四目――改編後、退役将兵はその地の人民政府を尊重し、人民政府の法令を守るものとする。地方人民政府とその地の人民は退役将兵に配慮をくわえ、これを差別扱いしてはならない。
第九款 南京国民政府に所属するいっさいの武装力は、国内和平協定調印ののちには、兵員を徴募してはならない。そのいっさいの兵器、弾薬およびすべての装備、すべての軍事機関・施設およびすべての軍用物資については、責任をもってその保護にあたり、いかなる破壊、隠匿、移動または売却などの行為もあってはならない。
第十款 国内和平協定調印ののち、南京国民政府に所属するいずれかの武装力が、改編計画にさからってその執行を拒むばあいには、改編計画の徹底的な実施を保証するため、南京国民政府が人民解放軍に協力して強制的にこれを執行するものとする。
第十一款 双方は、南京国民政府の支配期間中に政治的特権や権門の力にたよって入手または略奪した官僚資本の企業(銀行、工場、鉱山、船舶、会社、商店などをふくむ)および財産は、これを没収して国家の所有に移すことに同意する。
第十二款 人民解放軍がまだはいらず接収していない地区では、南京国民政府が責任をもって第十一款にのべられている官僚資本の企業および財産の監督にあたるものとし、これについて逃避・隠匿、破壊、名義の書きかえ、秘密売却をおこなうことは許されない。すでに移動したものについては、現地での凍結を命ずるものとし、ひきつづき他に移動したり、国外に逃避させたり、破壊したりすることは許されない。官僚資本の企業および財産で国外にあるものについては、これを国有とすることを宣言する。
第十三款 人民解放軍がすでにはいり接収した地区では、第十一款にのべた官僚資本の企業および財産は、その地の軍事管制委員会または民主連合政府の委任した機関が没収にあたるものとする。そのうち、私人の持ち株があればこれを調べ、たしかに私人の持ち株であり官僚資本かびそかに移動したものでないことが立証されたばあいには、これを認めるとともに、その株の保有または払いもどしの自由をもつことを許す。
第十四款 官僚資本の企業で、南京国民政府の支配期間以前からのもの、また南京国民政府の支配期間からのものでも、大きくなく、しかも国家の経済と人民の生活に害のないものについては、すべてこれを没収しない。ただし、そのうちの一部の者、たとえば重大な罪をおかした極悪の反動分子で、犯罪行為によって人民から告発され、審査の結果、その事実が判明した者は、やはりその企業と財産を没収する。
第十五款 人民解放軍がまだはいらず接収していない都市では、南京国民政府に所属する省、市、県の政府が責任をもってその地の人民の民主勢力とその活動の保護にあたり、これを抑圧または破壊してはならない。
第十六款 双方は、全中国の農村における封建的土地所有制度については、段どりをおって改革をおこなうべきことを確認する。人民解放軍がはいったのちは、一般に、まず小作料と利子の引き下げをおこない、のちに土地の分配をおこなう。
第十七款 人民解放軍がまだはいらず接収していない地区では、南京国民政府に所属する地方政府が責任をもって農民大衆の組織とその活動の保護にあたり、これを抑圧または破壊してはならない。
第十八款 双方は、南京国民政府の支配期間中に結ばれたいっさいの外交条約、協定およびその他公開または秘密の外交文書と保存書類はすべて南京国民政府がこれを民主連合政府にひき渡し、民主連合政府がこれを審査すべきことに同意する。そのうち、およそ中国の人民と国家にとって不利なもの、とりわけ国家の権利を売りわたす性質のものについては、それぞれの状況におうじてこれを廃棄、改定、または再締結する。
第十九款 双方は、国内和平協定が調印されてから民主連合政府が成立するまでは、南京国民政府とその院、部、会などの機関がしばらく職権を行使すべきこと、ただし、中国人民革命軍事委員会と協議して処理にあたるとともに、人民解放軍の各地における接収とびき渡し事項の処理に協力すべきことに同意する。民主連合政府が成立したのち、南京国民政府はただちに民主述合政府にひき渡しをおこない、自己の終末を宣言する。
第二十款 南京国民政府ならびにその各級地方政府およびこれに所属するいっさいの機関がひき渡しをおこなうばあい、その勤務人員のうちのすべての愛国的な人びとと有為の人材については、人民解放軍、各地の人民政府、中国民主連合政府がこれをうけいれ、民主的教育をほどこし、かれらを路頭にまよわせないように適切な職をあたえることに留意しなければならない。
第二十一款 南京国民政府とこれに所属する各省、市、県の地方政府は、人民解放軍かはいり接収するまで、責任をもってその地の治安の維持にあたり、すべての政府機関、国有企業(銀行、工場、鉱山、鉄道、郵便・電信・電話、航空、船舶、会社、倉庫、すべての交通施設などをふくむ)、国家に所属する各種の動産、不動産の保管と保護にあたるものとし、いかなる破壊、毀損、移動、隠匿または売却も許されない。すでに移動または隠匿された図書・保存書類、古物・珍宝、金銀・外貨およびすべての財産・資産は、いずれもただちにこれを凍結し、接収を待つものとする。すでに国外に持ちだしたり、あるいはもとから国外にあるものについては、南京国民政府が責任をもってその回収または保管にあたり、それをひき渡せるようにしておく。
第二十二款 人民解放軍がすでにはいり接収した地区では、その地の軍事管制委員会と地方人民政府または連合政府の委任した機関が、地方のいっさいの権力と国家財産・財貨の接収をおこなう。
第二十三款 南京国民政府代表団が国内和平協定に調印し、かつ南京国民政府がこれを実施したのち、中国共産党代表団は新政治協商会議の準備委員会にたいして、南京国民政府が愛国的な人びと若干名を新政治協商会議に出席する代表として派遣しうるよう、また新政治協商会議の準備委員会の承認をえたうえで南京国民政府の代表が新政治協商会議に出席しうるよう、責任をもって提案する用意がある。
第二十四款 南京国民政府の派遣する代表が新政治協商会議に出席したのち、中国共産党側は新政治協商会議にたいして、協力を有利にするために南京国民政府側の若干の愛国的な人びとを民主連合政府に参加させるよう責任をもって提案する用意がある。
双方の代表団は声明する。中国人民の解放と中華民族の独立自由のため、またすみやかに戦争を終結させ、平和を回復して、全国的な範囲で生産と建設の偉大な事業に着手し、国家と人民を着実に富強と幸福の境涯にすすませるため、われわれは、ここに責任をもって本協定に調印するものであり、全国人民が一致団結して、本協定の完全な実現のために奮闘するよう希望するものである。本協定は、調印後ただちに効力を生ずる。
(一九四九年四月二十五日)
国民党反動派はすでに和平条件をうけいれることを拒否し、反民族的、反人民的な犯罪的な戦争の立場を固執している。全国人民は、人民解放軍がすみやかに国民党反動派を消滅することを望んでいる。われわれはすでに人民解放軍にたいして、勇躍前進し、あえて抵抗するいっさいの国民党反動軍隊を消滅し、あくまで悪事を悔いあらためないいっさいの戦争犯罪人を逮捕し、全国人民を解放し、中国の領土の保全と主権の独立をまもり、全国人民の渇望する真の統一を実現するよう命令した。人民解放軍のいくところ、どこでも、各界の人民がこれに協力されるよう切望する。ここに、八ヵ条の公約を発表し、わが全人民とともにこれを守ることを約束するものである。
(一)全人民の生命財産を保護する。各界の人民は、階級、信仰、職業のいかんにかかわりなく、すべて秩序をたもち、人民解放軍に協力する態度をとるよう希望する。人民解放軍は、各界人民と協力する態度をとる。機に乗じて攪乱、略奪または破壊をおこなう反革命分子またはその他の破壊分子は、かならず厳重に処罰する。
(二)民族資本の工業、商業、農業、牧畜業を保護する。私営の工場、商店、銀行、倉庫、船舶、埠頭、農場、牧場などはすべて、侵害されないよう、一律にこれを保護する。各業種の従業員が従来どおり生産に従事し、各種の商店が従来どおり営業することを望む。
(三)官僚資本を没収する。国民党反動政府と大宮隙分子の経営する工場、商店、銀行、倉庫、船舶、埠頭、鉄道、郵便、電信、電力、電話、上水道、農場、牧場などはすべて、人民政府がこれを接収する。そのなかに、もし工業、商業、農業、牧畜業を経営する民族資本家の持ち株がはいっていて、調査の結果それが確かめられれば、その株の所有権は認められる。官僚資本の企業に勤務するものはすべて、人民政府が接収するまで、もとどおり勤務をつづけ、責任をもって資産、機械、図表、帳簿、保存書類などの保護にあたり、点検と接収を持たなければならない。それらを保護するうえで功績のあったものは表彰し、それを怠り、破壊したものは処罰する。ひきつづき勤務することを望むものはすべて、人民政府が接収したのち、路頭にまよわないように、能力におうじた仕事につかせる。
(四)すべての公立私立の学校、病院、文化・教育機関、体育施設、その他いっさいの公益事業を保護する。これらの機関に勤務するものはすべて、従来どおり勤務するよう望む。人民解放軍はこれらのものが侵害されないよう、一律にこれを保護する。
(五)あくまで悪事を悔いあらためない戦争犯罪人と重大な罪をおかした極悪の反革命分子をのぞき、国民党の中央、省、市、県の各級政府の大小の官吏、「国民大会」の代表、立法委員、監察委員、参議員、警察要員、区・鎮・郷・保・甲の要員は、武器をもって抵抗したり破壊の陰謀をたくらんだりしないかぎり、人民解放軍と人民政府はこれを捕虜にしたり逮捕したり侮辱したりしない。上記の人びとはそれぞれ安んじて職務にたずさわり、人民解放軍と人民政府の命令にしたがい、責任をもって各機関の資産、保存書類などの保護にあたり、接収・処理を待つようにしなければならない。これらの人びとのうち、なにかの技能があり、重大な反動行為や重大な悪質行為のないものは、人民政府が個々にこれを採用する。機に乗じて破壊、窃盗、不正をはたらいたり、公金、公物、保存書類をもって逃亡するかひき渡しを拒んだりするものは、これを処罰する。
(六)都市と農村の治安を確保し、社会の秩序を安定させる目的のために、浮浪兵はすべてその土地の人民解放軍または人民政府に出頭して投降すべきである。みずから出頭して投降し、しかも所有する武器を差しだしたものは、すべてこれを追究しない。出頭しないもの、武器を隠匿したものは、これを逮捕し、取り調べる。これらの者をかくまって届け出ないものは、しかるべき処分をうける。
(七)農村における封建的土地折有制度は不合理であり、廃止すべきである。ただし、その制度の廃止は、準備をととのえ、段どりをおっておくなわなければならない。一般的にいって、まず小作料と利子の引き下げをおこない、そのあとで土地の分配をおこなうべきであり、本腰をいれた土地問題の解決は、人民解放軍がはいり、かなり長いあいだ活動したのちでなければ日程にのぼすことはできない。農民大衆は組織化され、人民解放軍に協力して各種の初歩的な改革の仕事をすすめなければならない。それと同時に、耕作にはげんで、農業生産のいまの水準を低下させないようにし、その後、しだいにこれを高めていって、農民の生活を改善し、都市の人民に商品食糧を供給するようにする。都市の土地と家屋は、農村の土地問題と同様に処理してはならない。
(八)外国人居留民の生命財産の安全を保護する。すべての外国人居留民は、安心して生業にはげみ、秩序をたもつよう希望する。すべての外国人居留民は、諜報活動をおこなったり、中国の民族独立の事業と人民解放の事業に反対する行為にでたり、中国の戦争犯罪人、反革命分子およびその他の犯罪人をかばったりしてはならず、人民解放軍と人民政府の法令を守るべきである。さもなければ、人民解放軍と人民政府から法的制裁をうける。
人民解放軍は、規律は厳正、売り買いは公正であり、民間のものは針一本、糸一すじもみだりに取ることは許されない。わが全人民はすべて安心して生活し、生業にはげむよう、また、けっして、かるがるしく流言を信じてさわぎたてることのないよう希望する。以上、布告する。
中国人民革命軍事委員会主席 毛沢東
中国人民解放軍総司令 朱徳
(一九四九年四月三十日)
これは、毛沢東同志が中国人民解放軍総司令部スポークスマンのために起草した声明である。この声明では、どのような威嚇をもおそれず、帝国主義の侵略に断固として反対する中国人民の厳正な立場が表明され、また、まもなく成立する新中国の対外政策があきらかにされた。
われわれは戦争屋チャーチルの狂気じみた声明〔2〕を糾弾する。四月二十六日、チャーチルはイギリスの下院で、航空母艦二隻を極東に派遣して「武力による報復をおこなう」ようイギリス政府に要求した。チャーチル先生、貴下はなにに「報復」されるのか。イギリスの軍艦は国民党の軍艦といっしょに中国人民解放軍の防備地区に押し入り、しかも、人民解放軍にむかって発砲し、人民解放軍の忠勇な兵士を二百五十二人も殺傷した。イギリス人が中国領内に踏みこんできて、このように大きな犯罪行為をおかした以上、中国人民解放軍は、イギリス政府に、そのあやまりを認めて謝罪と賠償をおこなうよう要求する理由をもっている。諸君がこれからやるべきことは、そうしたことではなく、逆に、軍隊を中国にさしむけ、中国人民解放軍に「報復」することだとでもいうのだろうか。アトリー首相のいうこともまちがっている〔3〕。かれは、イギリスには軍艦を中国の長江に乗り入れる権利がある、といっている。長江は中国の河川であるのに、君たちイギリス人はどのような権利があって軍艦を乗り入れるのか。そのような権利はない。中国の領土と主権は、中国人民がかならずこれを守らなければならず、外国政府の侵犯をぜったいに許さない。アトリーはこういった。人民解放軍は「英艦アミシスト号の南京への航行を許す用意があるが、それには一つの条件がいる。それは同艦が人民解放軍の長江渡河に協力することである」と。アトリーはうそをついている。人民解放軍はアミシスト号の南京への航行を許してはいない。人民解放軍は、いかなる外国の武装力にも、長江渡河を助けてもらったり、あるいはまた、他のどのようなことをもやってもらったりすることを望まない。それどころか、人民解放軍は、長江、黄蒲江、そのほか中国の各地にあるイギリス、アメリカ、フランスの軍艦、軍用機、陸戦隊などの武装力が、中国の領水、領海、領土、領空からすみやかに撤退し、中国人民の敵が内戦をおこなうのを助けないよう要求するものである。中国人民革命軍事委員会と人民政府は、こんにちまで、まだどの外国政府とも外交関係をうちたててはいない。中国人民革命軍事委員会と人民政府は、正常な業務に従事する中国在住の外国居留民を保護する用意がある。中国人民革命軍事委員会と人民政府は、諸外国とのあいだに外交関係をうちたてることを考慮する用意があるが、こうした関係は平等、互恵ならびに主権と領土の保全の相互尊重を基礎としてうちたてるれなければならず、なによりもまず、国民党反動派を助けるものであってはならない。中国人民革命軍事委員会と人民政府は、いかなる外国政府のいかなる威嚇的な行動をも容認するつもりはない。もし外国政府に、われわれとのあいだの外交関係樹立について考慮する意思があるなら、国民党の残存勢力との関係を絶つとともに、中国にある自己の武装力を撤退させなければならない。アトリーは、中国共産党は外国とのあいだに外交関係をうちたてていないので、外国政府のこれまでの外交要員(国民党が承認した領事)と接触したがらないのだ、と不平をならべているが、こうした不平は理由のないものである。この数年間、アメリカ、イギリス、カナダなどの政府は国民党を助けてわれわれに反対してきたが、アトリー先生はそれをも忘れたというのだろうか。さきごろ撃沈された重巡洋艦重慶号〔4〕は、どこの国が国民党に贈ったのか、アトリー先生はそれをも知らないというのだろうか。
〔1〕 一九四九年四月二十日から二十一日にかけて、人民解放軍が長江渡河作戦をおこなっていたさい、わが国の河川である長江に侵入したアミシスト号など四隻のイギリス軍艦は、国民党の軍艦とともにわが軍にむかって発砲し、わが軍二百五十二人を殺傷した。わが軍はこれに反撃をくわえ、アミシスト号は損傷をこうむって、鎮江付近の河中に立ち往生したが、その他の英鑑三隻は遁走した。イギリス当局は、極東艦隊司令官ブラインドに、アミシスト号の艦長をつうじて、わが軍の代表といく度も交渉をおこなわせ、アミシスト号の放免を要求した。交渉にあたり、イギリス側は終始言いのがれの態度をとり、侵略の犯罪行為をあくまで認めようとしなかった。そして、まだ交渉続行中の七月三十日の夜、アミシスト号は、客船江陵解放号が鎮江をへてくだるのに乗じて、強引に同船に近づき、これと並行して航行し、その陰にかくれて遁走をはじめた。わか軍が停止を警告すると、アミシスト号は発砲し、そのうえ、多数の木造船につきあたってこれを沈め、長江外に逃げさった。
〔2〕 一九四九年四月二十六日、イギリス保守党の頭目チャーチルは下院で発言し、わが軍を不法攻撃した英艦にたいする中国人民解放軍の反撃を「暴虐行為」と中傷するとともに、「航空母艦一、二隻を中国海域に派遣し……武力による報復をおこなう」ようイギリス政府に要求した。
〔3〕 一九四九年四月二十六日、イギリスの首相アトリーは議会で、「イギリスの軍艦は長江を航行し、平和な使命を遂行する合法的な権利をもっている。なぜなら、これらの軍艦は国民党政府の許可をえているからである」と公言した。それと同時に、かれはイギリス側代表と中国人民解放軍代表との交渉の状況について言及したさい、またデマをとはし、中国人民解放軍は「英艦アミシスト号の南京への航行を許す用意があるが、それには一つの条件がいる。それは同艦が人民解放軍の長江渡河に協力することである」といった。
〔4〕 重巡洋艦重慶号は、イギリス政府が一九四八年二月に国民党に贈ったもので、国民党最大の巡洋艦であった。一九四九年二月二十五日、この軍艦の将兵は蜂起して、国民党反動政府から離脱し、中国人民海軍にくわわった。同年三月十九日、アメリカ帝国主義と国民党匪賊一味は多数の重爆撃機を出動させ、中国東北地方の遼東湾にある葫蘆島付近でこれを撃沈した。
(一九四九年六月十五日)
代表のみなさん
われわれの新政治協商会議の準備会〔1〕は、きょうここにひらかれることになった。この準備会の任務は、全国人民を指導して、最大の速度で国民党反動派の残存勢力を一掃し、全中国を統一し、系統的に、段どりをおって、全国にわたり、政治、経済、文化、国防の建設をすすめるために、あらゆる必要な準備をなしとげて、すみやかに新政治協商会議を開催し、民主連合政府を樹立することである。全国の人民はわれわれがそうすることを望んでおり、したがって、われわれはそうしなければならない。
新政治協商会議の開催は、中国共産党が、一九四八年五月一日に全国人民に提案したものである〔2〕。この提案はたちまち、全国の各民主政党、各人民団体、各界民主人士、国内少数民族、海外華僑の共鳴をえた。中国共産党、各民主政党、各人民団体、各界民主人士、国内少数民族、海外華僑はいずれも、帝国主義、封建主義、官僚資本主義、国民党反動派の支配を打倒してはじめて、また各民主政党、各人民団体、各界民主人士、国内少数民族、海外華僑などの代表的な人びとからなる政治協商会議を開催し、中華人民共和国の成立を宣言するとともに、この共和国を代表する民主連合政府を選出してはじめて、われわれの偉大な祖国は、半植民地・半封建の運命から抜けだし、独立、自由、平和、統一、富強の道をあゆむことができる、と考えている。これは共通の政治的基盤である。これは、中国共産党、各民主政党、各人民団体、各界民主人士、国内少数民族、海外華僑が団結してたたかう共通の政治的基盤であり、また、全国人民が団結してたたかう共通の政治的基盤でもある。この政治的基盤はひじょうに強固なものであって、誠実な民主政党、人民団体、民主人士のなかにだれひとり異なった意見をだすものもなく、みなこの道だけが中国のすべての問題を解決する正しい方向であると考えているのである。
全国の人民は自分たちの人民解放軍を支持して、戦争の勝利をかちとった。この偉大な人民解放戦争は、一九四六年七月からはじまって現在まで、すでに三年になる。この戦争は、国民党反動派が外国帝国主義の援助をえてひきおこしたものである。国民党反動派は信義にそむき、一九四六年一月の休戦協定と政治協商会議の決議をふみにじって、この反人民的な国内戦争をひきおこした。だが、わずか三年のうちに、英雄的な人民解放軍によってうち破られた。さきごろ、国民党反動派の和平の陰謀があばきだされるや、人民解放軍は勇躍前進して長江をわたった。国民党反動派の首都南京はすでに奪取された。上海、杭州、南昌、武漢、西安はすでに解放された。現在、人民解放軍の各路の野戦軍は、南方と西北の各省にむかって、中国の歴史はじまって以来かつてなかった大進軍をおこなっている。三年間に、人民解放軍は反動的な国民党軍をあわせて五百五十九万人消滅した。現在のところ、残存する国民党軍は、正規部隊、非正規部隊、後方の軍事機関、軍事学校などをふくめて、わずか百五十万人前後にすぎない。残存するこれらの敵軍を一掃するにはまだ多少の時間がかかるが、その時期はもう遠くはない。
これは全中国人民の勝利であり、また全世界人民の勝利である。帝国主義者と各国反動派をのぞけば、全世界で、中国人民のこの偉大な勝利を心から喜び、これにふるいたたないものはない。中国人民の、自分たちの敵にたいする闘争も、世界人民の、自分たちの敵にたいする闘争も、そのもつ意義はおなじである。全中国人民と全世界人民はともに、帝国主義者が中国の反動派を指揮して反革命戦争によって中国人民に残酷な攻撃をくわえ、中国人民が革命戦争によって勝利のうちに反動派を打倒したという事実を見てとっている。
ここで、わたしはつぎのことに人びとの注意を喚起する必要があると考える。それは、帝国主義者とその手先である中国の反動派は、この中国という大地での失敗にあまんじるものではない、ということである。かれらは今後もたがいに結託し、いろいろと可能な手段をこうじて、中国人民にたちむかってくるにちがいない。たとえば、かれらの手先を送って中国の内部にもぐりこませ、分裂活動や攪乱活動をおこなうことである。これはかならずおこることで、かれらはこの活動をぜったいに忘れはしない。また、たとえば、中国の反動派をそそのかし、さらにはかれら自身の力までくわえて、中国の海港を封鎖することであるり可能性さえあれば、かれらはそうするだろう。さらにまた、かれらが冒険をやろうとすれば、一部の兵力を派遣して中国の辺境に侵入し、攪乱することもありえないことではない。これらのすべてを、われわれはじゅうぶんに考えにいれておかなければならない。われわれは、勝利したからといって、けっして帝国主義者とその手先どもの狂気じみた報復の陰謀にたいして警戒をゆるめてはならない。警戒をゆるめるものは、政治的に武装を解いて自己を受け身の立場にたたせることになる。こうした状況のもとでは、全国人民は団結して、帝国主義者とその手先である中国の反動派の、中国人民に敵対するどのような陰謀計画をも断固として、徹底的に、きれいに、のこらず粉砕しなければならない。中国は独立しなければならない。中国は解放されなければならない。中国のことは中国人民自身がきめ、自身で処理しなければならない。これからは、どのような帝国主義国のどのように小さな干渉であっても、けっしてこれを許さない。
中国の革命は全民族の人民大衆の革命である。帝国主義者、封建主義者、官僚ブルジョア分子、国民党反動派とその共犯者をのぞけば、すべての人びとがわれわれの友であり、われわれには、広範な、そして強固な革命的統一戦線がある。この統一戦線はひじょうに広範なもので、労働者階級、農民階級、都市小ブルジョア階級、民族ブルジョア階級からなっている。この統一戦線はひじょうに強固なもので、どのような敵にもうち勝ち、どのような困難をも克服する強固な意志とくみつくすことのできない力をもっている。われわれがいまおかれている時代は、帝国主義制度が全面的な崩壊にむかう時代で、帝国主義者はすでに抜けだすことのできない危機におちいっている。かれらが今後どのように中国人民に反対しつづけようとも、中国人民はかならず最後の勝利をかちとることができるのである。
同時に、われわれは全世界に声明する。われわれが反対するのは帝国主義制度と中国人民に敵対するその陰謀計画だけである。どのような外国政府であろうと、中国の反動派との関係を絶つことをのぞみ、二度と中国の反動派と結託したりこれを援助したりせず、また人民の中国にたいして、いつわりでない真の友好的態度をとるかぎり、われわれは、平等、互恵、ならびに領土主権の相互尊重という原則を基礎にして、それらの政府と外交関係樹立の問題について話し合う用意がある。中国人民は、生産を発展させ経済を繁栄させるために、世界各国の人民と友好的に協力して、国際間の通商事業を回復、発展させることを望んでいる。
代表のみなさん、われわれが新政治協商会議を招集して民主連合政府を樹立するすべての条件はすでに熟している。全中国の人民は、われわれが会議をひらき、政府を樹立することを心から待ちのぞんでいる。われわれがいまはじめている仕事は、この希望を満たすことができ、しかも、それほど長い時間をかけなくてもこの希望を満たすことができると、わたしは信じている。
中国の民主連合政府が成立すれば、その仕事の重点は、(一)反動派の残存勢力を一掃し、反動派の攪乱を鎮圧すること、(二)可能のかぎりをつくし、最大の力をそそいで、人民の経済事業の復興と発展をはかり、同時にまた人民の文化・教育事業の復興と発展をはかることにわかれるだろう。
中国人民は、中国の運命がひとたび人民自身の手ににぎられたときには、中国が、東の空にさしのぼる太陽のように、自己の輝く光であまねく大地を照らし、反動政府ののこした汚れをたちまち洗いながし、戦争の傷痕をいやして、新しい、富強の、名実ともにそなわった人民共和国をきすきあげていくのをみるだろう。
中華人民共和国万歳!
民主連合政府万歳!
全国人民の大団結万歳!
〔1〕 新政治協商会議準備会は、一九四九年六月十五日から十九日まで、北平でひらかれた。この会議に参加したのは、中国共産党と各民主政党、各人民団体、各界民主人士、国内少数民族、海外華僑などをふくむ二十三単位の百三十四人であった。会議は、「新政治協商会議準備会組織条例」と「新政治協商会議への参加単位ならびにその代表者数についての規定」を採択し、毛沢東主席をはじめとする常務委員会を選出した。当時、新政治協商会議とよんだのは、一九四六年一月十日に重慶でおこなわれた政治協商会議と区別するためであった。その後、一九四九年九月二十一日に、政治協商会議第一期全体会議がひらかれたさい、中国人民政治協商会議とあらためられた。
〔2〕 本巻の『九月会議にかんしての中国共産党中央の通達』注〔4〕を参照。
(一九四九年六月三十日)
一九四九年の七月一日という日は、中国共産党がすでに二十八年の年月をあゆんできたことをしめしている。人間とおなじように、党にも幼年期、青年期、壮年期、老年期がある。中国共産党はもはや子供ではなく、また十何歳の若者でもなく、おとなである。人間は年寄りになればやがて死ぬが、党もこれとおなじことである。階級が消滅すれば、階級闘争の道具であるすべてのもの、政党や国家機構は、その機能をうしない、必要がなくなるので、しだいにおとろえ、自己の歴史的使命を終える。そして、より高級な人類社会へとすすんでいく。われわれはブルジョア政党とは逆である。かれらは階級の消滅、国家権力の消滅、党の消滅を口にすることをおそれる。ところが、われわれは、まさにこれらのものの消滅をうながすために、条件をつくりだし、奮闘努力するものであることを公然と声明する。共産党の指導と人民独裁の国家権力こそが、そうした条件である。この真理をみとめないものは、共産主義者ではない。マルクス・レーニン主義を勉強したことのない、入党したばかりの若い同志たちは、まだこの真理を理解していないかもしれない。かれらはこの真理を理解しなければならず、そうしてこそ正しい世界観をもつことができるのである。全人類はみな、階級を消滅させ、国家権力を消滅させ、党を消滅させるという道をあゆむのであって、それはただ時間と条件の問題だということを、かれらは理解しなければならない。全世界の共産主義者はブルジョア階級よりも聡明で、事物の存在と発展についての法則を理解し、弁証法を理解しており、遠い先ざきまで見通すことができる。ブルジョア階級がこの真理を歓迎しないのは、かれらがくつがえされることを望まないからである。くつがえされるということ、たとえば、いま国民党反動派がわれわれによってくつがえされ、かつて日本帝国主義がわれわれと各国人民によってくつがえされたようなこと、これはくつがえされるものにとっては、苦痛であり、考えるだけでもたまらないことである。ところが、労働者階級、勤労人民、共産党にとっては、くつがえされるなどという問題ではなくて、階級や国家権力や政党がきわめて自然に死滅し、人類が大同の世界にはいれるように、活動にはげみ、条件をつくりだすということである。これからのべようとする問題をはっきり説明するため、ついでにここで、この人類進歩の未来図の問題にふれたわけである。
われわれの党は二十八年の年月をあゆんできたが、周知のように、平穏な道をあゆんできたのではなくて、困難な環境のなかをあゆんできたのであり、われわれは、国の内外、党の内外の敵とたたかわなければならなかったのである。ありがたいことに、マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンがわれわれに武器をあたえてくれた。その武器は機関銃ではなくて、マルクス・レーニン主義である。
レーニンは、一九二〇年に『共産主義内の「左翼主義」小児病』のなかで、ロシア人が革命理論をさがしもとめたいきざつについてのべている〔1〕。ロシア人は数十年にわたって困難辛苦をなめつくし、やっとマルクス主義をさがしあてた。中国には、十月革命前のロシアとおなじか、または似かよったことがらがたくさんある。封建主義の抑圧、これは対なじである。経済と文化のたちおくれ、これは似かよっている。両国ともたちおくれていたが、中国はいっそうたちおくれている。先進的な人びとが、国を復興させるために、困難にめげず奮闘し、革命の真理をさがしもとめたこと、これはおなじである。
一八四〇年のアヘン戦争に敗れたときから、中国の先進的な人びとは、ひじょうな苦労をかさねて、西方諸国に真理をもとめた。洪秀全、康有為〔2〕、厳復〔3〕、孫中山は、中国共産党がうまれるまえに西方に真理をもとめた人びとを代表している。そのころ、進歩をもとめる中国人は、西方の新しい学問にかんするものならどんな書物でも読んだ。日本、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツに派遣された留学生の多いことは驚くばかりであった。国内では、科挙を廃止し、雨後のたけのこのように学校をおこして〔4〕、西方に学ぶことに力をそそいだ。わたし自身が青年時代に学んだのも、やはりこうしたものであった。それは西方のブルジョア民主主義の文化つまりいわゆる新学で、それにはそのころの社会学説と自然科学がふくまれており、中国の封建的文化、つまりいわゆる旧学と対立するものであった。そうした新学を学んだ人たちは、長い年月のあいだに、それらのものでけっこう中国は救われるという信念をもつようになった。旧学派は別として、新学派のなかでそれに疑いをもつものは少なかった。国を救うには維新をおこなうほかなく、維新をおこなうには外国に学ぶほかない、というわけである。そのころの外国では西方資本主義諸国だけが進歩的だった。それらの国はブルジョア近代国家の建設に成功していたのである。日本人は西方から学んで効果をおさめていたので、中国人も日本人から学ぼうと考えた。そのころの中国人から見れば、ロシアはおくれた国であり、ロシアに学ぼうと考えるものはいたって少なかった。これが、一九世紀の四十年代から二〇世紀の初期にかけて、中国人が外国に学んだ状況である。
帝国主義の侵略は、西方に学ぼうとする中国人の迷夢をうちやぶった。ふしぎなことだ、なぜ先生はいつも生徒を侵略するのか。中国人は西方からたくさんのものを学んだが、それは通用しなかったし、理想はいつも実現できなかった。辛亥革命のような全国的な規模の運動もふくめて、たびかさなる奮闘は、ことごとく矢敗に終わった。国の状態は日に日に悪化し、人びとは生きでいけない環境におかれた。疑問がうまれ、増大し、発展していった。第一次世界大戦が全世界を震憾させた。ロシア人が十月革命をやって、世界最初の社会主義の国家をうちたてた。それまでは地下にうずもれていて外国人の目につかなかった偉大なロシアのプロレタリア階級と勤労人民の革命的エネルギーが、レーニン、スターリンの指導のもとに、突然、火山のように爆発し、中国人が、そして全人類が、ロシア人を見なおすようになった。このとき、ほかならぬこのとき、中国人には、思想から生活にいたるまで、まったく新しい時代がはじめてあらわれた。中国人はマルクス・レーニン主義という世界のどこにも適用できる普遍的な真理をさがしあて、それによって中国の姿は変わりはじめたのである。
中国人がマルクス主義をさがしあてたのは、ロシア人を介してであった。十月革命前には、中国人はレーニン、スターリンを知らなかったばかりでなく、マルクス、エンゲルスも知らなかった。十月革命の砲声がとどろいて、われわれにマルクス・レーニン主義がおくりとどけられた。十月革命のおかげで、全世界の、そしてまた中国の先進的な人びとは、プロレタリア階級の世界観を国家の運命を観察する手段として、あらためて自分の問題を考えなおすようになった。ロシア人の道をあゆむこと――これが結論であった。一九一九年には、中国に五・四運動がおこった。一九二一年には、中国共産党が成立した。孫中山は絶望のなかで、十月革命と中国共産党にめぐりあった。孫中山は十月革命を歓迎し、中国人にたいするロシア人の援助を歓迎し、中国共産党の協力を歓迎した。孫中山が死んで、蒋介石がでてきた。二十二年という長い年月のあいだに、蒋介石は中国を絶望的な状態におとしいれた。この時期に、ソ連を主力軍とする反ファシズム第二次世界大戦によって三つの帝国主義大国がうちたおされ、二つの帝国主義大国が戦争のなかで弱まって、世界で損害をうけずにすんだ帝国主義大国はただ一つ、アメリカだけであった。しかし、アメリカ国内の危機はきわめて深刻である。アメリカは全世界を奴隷化しようとしており、蒋介石に兵器をあたえて、何百万もの中国人を殺害させた。中国人民は、中国共産党の指導のもとに、日本帝国主義を追いはらったのち、三年間の人民解放戦争をたたかって、基本的な勝利をおさめた。
このようにして、西方のブルジョア文明、ブルジョア民主主義、ブルジョア共和国構想は、中国人民の心のなかでいっせいに破産してしまった。ブルジョア民主主義が労働者階級の指導する人民民主主義に席をゆずり、ブルジョア共和国が人民共和国に席をゆずった。このようにして、人民共和国をへて社会主義と共産主義に到達し、階級の消滅と世界の大同に到達する可能性がうまれた。康有為は『大同書』を書いたが、大同にたっする道はみつけだせなかったし、またみつけだせるはずもなかった。ブルジョア共和国は外国にはあったが、中国にはありえない。というのは、中国は帝国主義の抑圧をうけている国だからである。唯一の道は、労働者階級の指導する人民共和国をとおることである。
その他のすべてのことが試みられたが、いずれも失敗に終わった。その他のことに未練をもっていた人びとのうち、あるものはただれ、あるものはめざめ、あるものはいま頭をきりかえつつある。事態の発展があまりにもはやいので、多くの人びとが唐突な感じをうけており、あらためて勉強しなおさなければならないという気になっている。人びとのこうした気持ちはよくわかる。われわれは、あらためて勉強しなおそうという善良な態度を歓迎するものである。
中国プロレタリア階級の前衛は、十月革命ののち、マルクス・レーニン主義を学んで、中国共産党をつくった。そしてすぐ政治闘争にはいり、まがりくねった道をたどり二十八年の年月をあゆんで、ようやく基本的な勝利をおさめた。孫中山が臨終の遺言のなかで「四十年の経験を積んで」といったのとおなじように、われわれも、二十八年の経験を積んで、おなじ結論にたっした。つまり、勝利に到達しようとのぞむなら、「民衆をよびさまし、そして、世界でわれらを平等に遇する民族と連合し、ともに奮闘しなければならぬ」ということをふかく知ったのである。孫中山とわれわれは、それぞれ異なった世界観をもち、異なった階級的立場から出発して問題を観察し処理してきた。しかしかれは、二〇世紀の二十年代にあって、どのように帝国主義とたたかうかという問題では、このようにわれわれと基本的に一致した結論にたっしたのであった。
孫中山が世を去ってから二十四年になるが、中国革命の理論と実践はいずれも、中国共産党の指導をうけて大きな発展をとげ、中国の姿を根本から変えてしまった。現在までのところ、中国人民がおさめた主要なそして基本的な経験は、つぎの二つである。(一)国内では、民衆をよびさますこと。つまり、労働者階級、農民階級、都市小ブルジョア階級、民族ブルジョア階級を結集し、労働者階級の指導のもとに、国内の統一戦線を結成し、そこから、労働者階級の指導する、労農同盟を基礎とした人民民主主義独裁の国家の樹立にまで発展させることである。(二)対外的には、世界でわれらを平等に遇する民族および諸国人民と連合し、ともに奮闘すること。つまり、ソ連と連合し、人民民主主義諸国と連合し、その他の諸国のプロレタリア階級および広範な人民と連合して、国際的な統一戦線を結成することである。
「きみたちは一辺倒だ」。まったくそのとおりである。一辺倒、これは孫中山の四十年の経験と共産党の二十八年の経験がわれわれに教えるところであり、勝利に到達し勝利をかためようとすれば、どうしても一辺倒でなければならないことをふかく知ったのである。四十年間と二十八年間の経験からして、中国人は、帝国主義一辺倒か社会主義一辺倒かのどちらかであり、ぜったいに例外はないのである。二股膏薬は通用せず、第三の道はない。われわれは帝国主義一辺倒の蒋介石反動派に反対するし、第三の道についての幻想にも反対する。
「きみたちは刺激しすぎる」。われわれが問題にしているのは、ほかのだれに対処することでもなく、国の内外の反動派、すなわち帝国主義者とその手先どもにどう対処するかということである。こうした連中にたいしては、刺激する、しないの問題はおこらない。刺激しても刺激しなくてもおなじである。なぜなら、かれらは反動派だからである。反動派と革命派のけじめをはっきりつけ、反動派の陰謀、計略をあはき、革命派の内部の警戒心と注意をよびおこし、味方の士気をたかめ、敵の威勢をくじいてこそ、反動派を孤立させ、これにうち勝ち、あるいはこれにとって代わることができるのである。野獣のまえでは、ほんのわずかなひるみも見せてはならない。われわれは景陽岡の武松〔5〕に学ばなければならない。武松からみれば、景陽岡の虎は、刺激しても刺激しなくてもおなじで、要するに人間をとって食おうとすることに変わりはない。虎をうち殺すか、虎に食われるか、二つに一つである。
「われわれは商売をしたい」。まったくそのとおりで、商売はどのみちやらなければならない。われわれは、商売するのを妨害している内外の反動派に反対するだけで、それ以外には、どんな人にも反対しない。われわれが外国と商売するのを妨害したり、さらにはわれわれが外国と外交関係をうちたてるのを妨害したりしているのは、ほかでもなく、帝国主義者とその手先蒋介石反動派であることを知るべきである。国の内外のあらゆる勢力を結集して内外の反動派をうちやぶれば、われわれは商売ができるようになり、平等、互恵、領土・主権の相互尊重を基礎にすべての国と外交関係をうちたてることができるようになる。
「国際的な援助がなくても勝利することができる」。これはあやまった考えである。帝国主義の存在する時代には、どんな国でも、真の人民革命は、国際的な革命勢力のさまざまな形での援助がなければ、勝利をかちとることはできない。勝利したとしても、それをうちかためることはできない。偉大な十月革命が勝利し、うちかためられたのも、やはりそうであって、レーニンとスターリンがはやくからこのことをわれわれに教えている。第二次世界大戦で、三つの帝国主義国がうちたおされ、また人民民主主義諸国がうちたてるれたのもそうであった。人民中国の現在と将来もまた同様である。考えてもみたまえ。もしもソ連の存在がなかったとすれば、もしも反ファシズム第二次世界大戦の勝利がなかったとすれば、もしも日本帝国主義を打倒していなかったとすれば、もしも人民民主主義諸国が出現していなかったとすれば、もしも東方の被抑圧諸民族が現に闘争に立ちあがっていなかったとすれば、もしもアメリカ、イギリス、フランス・ドイツ、イタリア、日本などの資本主義国内の、人民大衆とかれらを支配している反動派とのあいだの闘争がなかったとすれば、もしもこれらすべてを総合したものがなかったとすれば、われわれの頭の上にのしかかっている国際反動勢力は、いまより同情も大きくなっていたにちがいない。そのようなばあいにも、われわれは勝利することができるだろうか。できないことはあきらかである。勝利したとしても、それをうちかためることはできない。それについては、中国人民はありあまるほどの経験をもっている。国際革命勢力と連合しなければならないという孫中山の臨終のことばは、とっくにこうした経験を反映しているのである。
「われわれには英米政府の援助が必要である」。こんにちでは、これも幼稚な考えである。いまの英米の支配者はやはり帝国主義者である。そのかれらが人民の国家に援助をあたえるようなことがあるだろうか。われわれとこれらの国が商売をし、そしてかりに将来これらの国が互恵の条件のもとでわれわれに金を貸してくれたとしても、それはなんのためか。それは、これらの国の資本家が金をもうけ、銀行家が利息をもうけて、かれら自身の危機を救うためで、けっして中国人民にたいする援助などというものではない。これらの国の共産党や進歩的な各党派は、自国の政府に、われわれと商売をさせ、さらには外交関係を結ばせるようはたらきかけているが、これは善意のものであり、これが援助というものであって、これとこれらの国のブルジョア階級の行為とを同日に論ずることはできない。孫中山は、一生のうちに数えきれないほどたびたび資本主義諸国に援助をよびかけたが、ついに何もえられず、かえって無慈悲な打撃をうけた。孫中山は一生のうちに一度だけ国際的な援助をうけたことがあるが、それはソ連の援助であった。読者諸君、孫中山先生の遺言を見ていただきたい。先生がそこでじゅんじゅんとさとしているのは、帝国主義諸国の援助に目をむけよということではなくて、「世界でわれらを平等に遇する民族と連合」せよということである。孫先生は、ひどい目にあったり、ペテンにかかったりして経験をえていたのである。われわれは先生のことばを心にとめ、二度とペテンにかかってはならない。われわれは、国際的にはソ連を先頭とする反帝国主義戦線の側に属しており、真の、友好的な援助は、この側にもとめることができるだけであって、帝国主義戦線の側にもとめることはできないのである。
「きみたちは独裁だ」。愛すべき先生がたよ、おことばどおりで、われわれはまったくそのとおりである。中国人民が数十年のあいだに積んだいっさいの経験が、われわれに人民民主主義独裁を実行させるのである。それは人民民主主義専制ともいうが、要するにおなじことで、つまり、反動派の発言権をうばい、人民にだけ発言権をあたえるのである。
人民とはなにか。中国では、そして現段階では、労働者階級、農民階級、都市小ブルジョア階級および民族ブルジョア階級である。これらの階級が労働者階級と共産党の指導のもとに、団結し、自分たちの国家をつくり、自分たちの政府をえらび、帝国主義の手先すなわち地主階級と官僚ブルジョア階級およびこれらの階級を代表する国民党反動派とその共犯者たちにたいして独裁をおこない、専制をおこない、これらの連中を抑圧して、かれらには神妙にすることだけを許し、勝手な言動にでることを許さないのである。勝手な言動にでれば、ただちにとりしまり、制裁をくわえる。しかし、人民の内部では、民主制度を実施し、人民は言論、集会、結社などの自由の権利をもつ。選挙権は人民にだけあたえ、反動派にはあたえない。この二つの面、すなわち、人民内部における民主主義の面と反動派にたいする独裁の面の結びついたものが人民民主主義独裁である。
どんな理由でそうするのか。それは、だれでもはっきり知っている。そうしなければ、革命は失敗し、人民は災いをこうむり、国家はほろびるからである。
「きみたちは国家権力を消滅させるというのではないのか」。そのとおりだ。 しかし、いまはまだそうしない。またそうするわけにはいかない。なぜか。帝国主義がまだ存在し、国内の反動派がまだ存在し、国内の階級がまだ存在しているからである。われわれの現在の任務は、人民の国家機構を強化することである。それは主として人民の軍隊、人民の警察、人民の法廷を強化することであるが、それによって国防をかため、人民の利益をまもるのである。これを条件として、中国は、労働者階級と共産党の指導のもとに、着実に農業国から工業国へすすみ、新民主主義社会から社会主義社会へ共産主義社会へとすすみ、階級を消滅させ、大同を実現することができるようになる。軍隊、警察、法廷などの国家機構は、階級が階級を抑圧する道具である。敵対階級にたいしては、それは抑圧の道具であり、暴力であって、けっして「いつくしみ」などというものではない。「きみたちにはいつくしみがない」。まったくそのとおりである。反動派、反動階級の反動的な行為にたいしては、われわれはけっして仁政をほどこしはしない。われわれは人民の内部に仁政をしくだけで、人民の外部の反動派、反動階級の反動的な行為にたいして仁政をほどこすものではない。
人民の国家は、人民を保護するものである。人民の国家があってはじめて、人民は、全国的な範囲で、また全体的な規模で、民主的な方法によって、自己を教育し自己を改造することができる。それによって、内外反動派の影響(この影響は現在まだひじょうに大きいし、また、これからも長期にわたって存在し、早急にとりのぞくことはできない)からぬけだし、旧社会で身につけた自己のわるい習慣やわるい思想をあらためて、反動派の誘いいれるあやまった道にふみこまずに、ひきつづき前進し、社会主義社会、共産主義社会にむかって前進することができるのである。
われわれがこの面でもちいる方法は、民主的な方法つまり説得の方法であって、強制の方法ではない。人民が法をおかせは、やはり処罰され、牢屋にいれられるし、死刑になることもあるが、これは個々のばあいであって、一つの階級としての反動階級にたいしておこなう独裁とは、原則的に異なっている。
反動階級や反動派のものにたいしては、かれらの政権がくつがえされたのち、かれらが謀反をおこしたり、破壊行為にでたり、攪乱行為にでたりしないかぎり、やはり土地をあたえ、仕事をあたえて、生きていけるようにし、労働のなかで自己を改造させ、新しい人間にうまれ変わらせる。かれらが労働したがらなければ、人民の国家は強制的に労働させる。それとともに、かれらにたいし、われわれが捕虜の将校にたいしてやったのとおなじように、宣伝教育をおこない、しかも、念をいれて、じゅうぶんにやっていく。これも、「仁政をほどこす」ものといえるかもしれないが、しかし、これは、もともと敵対階級だったものにたいしてわれわれが強制的におこなうものであって、革命的人民の内部にたいしてわれわれのおこなう自己教育とは同日に論ずることはできない。
反動階級にたいするこのような改造の仕事は、共産党の指導する人民民主主義独裁の国家だけがやれることである。この仕事をやりとげたなら、中国のおもな搾取階級――地主階級と官僚ブルジョア階級つまり独占ブルジョア階級は最終的に消滅されることになる。のこるのは民族ブルジョア階級だが、かれらのうちの多くの人たちにたいしては、いまの段階からでも、いろいろと適切な教育をほどくすことができる。将来、社会主義を実行するばあい、すなわち、私営企業の国有化を実行するばあいには、かれらにたいし、さらにすすんだ教育と改造の仕事をやっていく。人民の手には強大な国家機構があるので、民族ブルジョア階級の謀反をおそれることはない。
重大な問題は農民を教育することである。農民の経済は分散しており、ソ連の経験によっても、農業の社会化にはひじょうに長い時間と細心の活動が必要である。農業の社会化なしには、全面的な強固な社会主義はありえない。農業の社会化の段どりは、国有企業を主体とする強大な工業の発展に対応させなければならない〔6〕。人民民主主義独裁の国家は、段どりをおって国の工業化の問題を解決しなければならない。この論文では、経済問題はあまりとりあげないつもりなので、ここではくわしくのべないことにする。
一九二四年、孫中山がみずから指導し、共産党員も参加した国民党第一回全国代表大会で、有名な宣言が採択された。その宣言にはこうのべられている。「近世各国のいわゆる民権制度は、往々にしてブルジョア階級に専有され、まさしく平民を抑圧する道具になっている。国民党の民権主義についていえば、一般平民の共有するものであって、少数のものが私しうるものではない。」だれがだれを指導するかという問題をのぞいて、一般的な政治綱領としては、ここにいわれている民権主義は、われわれのいう人民民主主義または新民主主義に合致するものである。一般平民の共有することだけを許し、ブルジョア階級の私有することを許さない国家制度、これに労働者階級の指導がくわわれば、それが人民民主主義独裁の国家制度である。
蒋介石は、孫中山をうらぎり、官僚ブルジョア階級と地主階級の独裁をうちたてて、中国の人民を抑圧するための道具とした。この反革命的独裁は、二十二年間にわたって実行され、こんにちようやく、われわれの指導する中国の平民によってくつがえされた。
「独裁」または「全体主義」を実行しているといって、われわれをののしる外国の反動派こそ、独裁または全体主義を実行している連中である。かれらは、プロレタリア階級とその他の人民にたいする、ブルジョア階級という一つの階級の独裁制度、一つの階級の全体主義を実行しているのである。孫中山のいう、平民を抑圧する近世各国のブルジョア階級とは、ほかでもなく、こうした連中のことである。蒋介石の反革命的独裁こそ、これらの反動どもから学んだものである 。
宋代の哲学者朱熹はいろいろな書物を書き、いろいろなことを説いたが、みんなから忘れられている。しかし、まだ忘れられていないかれのことばに、「すなわちその人の道をもって、かえってその人の身を治む」〔7〕というのがある。われわれがやっているのは、まさにこれである。すなわち帝国主義とその手先蒋介石反動派の道をもって、かえって帝国主義とその手先蒋介石反動派の身を治めるのである。それだけのことで、それ以外のことではない。
革命的独裁と反革命的独裁とは、性質は正反対だが、前者は後者から学んだものである。この学習はひじょうにたいせつである。革命的な人民が、反革命階級にたいするこうした支配のしかたを学びとらなかったならば、かれらは政権を維持することができず、その政権は内外の反動派によってくつがえされ、内外の反動派が中国でふたたび支配者の座につき、革命的な人民は災いをこうむることになる。
人民民主主義独裁の基礎は、労働者階級、農民階級および都市小ブルジョア階級の同盟であり、主として労働者と農民の同盟である。なぜなら、この二つの階級は中国の人口の八〇パーセントから九〇パーセントをしめているからである。帝国主義と国民党反動派をくつがえすのは、主としてこの二つの階級の力である。新民主主義から社会主義へ移行するにも、主としてこの二つの階級の同盟に依拠しなければならない。
人民民主主義独裁には、労働者階級の指導が必要である。なぜなら、労働者階級だけがもっとも遠くを見通すことができ、大公無私であり、もっとも革命の徹底性をもっているからである。革命の全歴史が証明しているように、労働者階級の指導がなければ革命は失敗し、労働者階級の指導があれば革命は勝利する。帝国主義の時代にあっては、どの国においても、ほかのどの階級も、いかなる真の革命を指導してそれを勝利にみちびくことはできない。中国の小ブルジョア階級と民族ブルジョア階級は何度も革命を指導したが、いつも失敗した。これがそのあきらかな証拠である。
民族ブルジョア階級は、現段階では、大きな重要性をもっている。われわれのそばにはまだ帝国主義が立っており、この敵はひじょうに凶悪である。中国の近代工業が国民経済全体のなかでしめる比重は、まだひじょうに小さい。いまはまだ確実な数字はないが、ある種の資料から推して、抗日戦争まえ、近代工業の生産額は国民経済の総生産額のわずか一〇パーセント前後をしめるにすぎなかった。帝国主義の抑圧に対処するため、おくれた経済的地位を一歩たかめるために、中国は、国の経済と人民の生活に害がなくて有利な、すべての都市、農村の資本主義的要素を利用しなければならないし、民族ブルジョア階級と団結してともにたたかわなければならない。われわれの現在の方針は、資本主義を制限することであって、資本主義を消滅することではない。だが、民族ブルジョア階級は、革命の指導者にはなれないし、国家権力のなかで主要な地位をしめるべきでもない。民族ブルジョア階級が革命の指導者になることができず、また、国家権力のなかで主要な地位をしめるべきでないというのは、民族ブルジョア階級の社会的経済的地位がかれらの軟弱性を決定づけており、かれらは遠い見通しに欠け、じゅうぶんな勇気をもたず、そのうえ、民衆をおそれるものが少なくないからである。
孫中山は、「民衆をよびざます」こと、あるいはまた「農民、労働者を援助する」ことを主張した。だれが「よびさまし」、また「援助する」のか。孫中山の考えでは、それは小ブルジョア階級と民族ブルジョア階級であった。しかし、これは実際にはできないことである。孫中山の四十年にわたる革命は失敗したが、それはどんな原因によるのだろうか。帝国主義の時代にあっては、小ブルジョア階級や民族ブルジョア階級は、いかなる真の革命を指導してそれを勝利にみちびくことはできない。原因はここにあったのである。
われわれの二十八年は、これと大いに異なっている。われわれはたくさんのとうとい経験を積んでいる。規律のある、マルクス・レーニン主義の理論で武装した、自己批判の方法をとる、人民大衆と結びついた党。このような党に指導される軍隊。このような党に指導される革命的諸階級、革命的諸党派の統一戦線。この三つは、われわれが敵にうち勝つ主要な武器である。これらはいずれも、われわれが前人と異なる点である。この三つに依拠して、われわれは基本的な勝利をおさめたのである。われわれはまがりくねった道をたどってきた。われわれは、かつて、党内の日和見主義的偏向、右と「左」の日和見主義的偏向とたたかった。この三つのことで重大なあやまりをおかしたときには、いつも革命は挫折した。あやまりや挫折から教訓をくみとって、われわれはまえより賢くなり、仕草もすこしはうまくやれるようになった。どんな政党にとっても、どんな個人にとっても、あやまりは避けがたいもので、われわれに必要なことは、あやまりを少なくすることである。あやまりをおかしたならば、あらためる必要があり、あらためるのは、はやければはやいほどよいし、徹底的であればあるほどよい。
われわれの経験をしめくくって一つにまとめると、労働者階級の(共産党をつうじて)指導する、労農同盟を基礎とした人民民主主義独裁ということになる。この独裁は、国際革命勢力と一致団結しなければならない。これがわれわれの公式であり、これがわれわれの主要な経験であり、これがわれわれの主要な綱領である。
党の二十八年は長い期間ではあったが、われわれとしては、革命戦争の基本的勝利をかちとるという、ただ一つのことをしただけである。これはよるこほしいことである。というのは、これは人民の勝利だからであり、中国のような大きな国での勝利だからである。しかし、われわれのやるべきことはまだたくさんあって、旅路にたとえていえば、これまでの仕事は、万里の長征の第一歩をふみだしたにすぎない。のこっている敵を、われわれはこれから掃討しなければならない。経済建設という重大な任務がわれわれの目のまえに横たわっている。われわれが習熟していることの一部はまもなくいらなくなるし、われわれが習熟していないことをやらなければならなくなってきている。これが困難というものである。帝国主義者は、われわれが経済をうまく処理できないものときめこんでいる。かれらはそばに立って見物しながら、われわれが失敗するのを待っている。
われわれは困難を克服しなければならないし、自分にわからないことを学びとらなければならない。われわれは、すべてのその道の人(どんな人であろうと)から経済の仕事を学ばなければならない。かれらを先生として、うやうやしく学び、まじめに学ばなければならない。わからないことはわからないのであって、わかったふりをしてはならない。役人風を吹かしてはならない。深くうちこんでやっていけば、数ヵ月、一年二年、四年五年とたつうちには、きっと身につけることができる。ソ連共産党員にも、はじめのうちは、やはり経済の仕事が得意でないものがいたし、帝国主義者はやはりかれらが失敗するのを待ちうけていた。しかし、ソ連共産党は勝利した。レーニンとスターリンの指導のもとに、かれらは革命をやれるだけでなく、建設もやれるようになった。かれらはすでに偉大な輝かしい社会主義国家をうちたてている。ソ連共産党こそわれわれのもっともりっぱな先生で、われわれはソ連共産党に学ばなければならない。国際情勢も国内情勢もすべてわれわれに有利であり、われわれは、人民民主主義独裁という武器にたより、反動派をのぞく全国のすべての人びとと団結して、たしかな足どりで目的地にたっすることが完全にできるのである。
〔1〕 『共産主義内の「左翼主義」小児病』第二章にみられる。レーニンはここでつぎのようにのべている。「前世紀の四十年代かち九十年代までの約半世紀のあいだ、ロシアの先進的な思想は、かつてなかったほど野蛮で反動的なツァー制度の抑圧のもとで、正しい革命理論をむさぼるようにさがしもとめ、この分野での欧米のありとあらゆる『最新の成果』を、おどろくほど熱心に注意ぶかく見まもった。ロシアは、未酉有の苦難と犠牲、比類ない革命的英雄主義、信じられないほどの精力とひたむきな探求、学習、実践による試練、失望、点検、ヨーロッパの経験との比較というこの半世紀の歴史をへて、唯一の正しい革命理論であるマルクス主義を、真に苦しみぬいてたたかいとったのである。」
〔2〕 康有為(一八五八~一九二七年)、広東省南海県の人。一八九四年、中国は日本帝国主義にうちやぶられた。康有為は一八九五年、北京で科挙の試験をうけた千三百人の拳人を指導し、連名で「万言書」を光緒皇帝にさしだし、「変法維新」を要求し、専制君主制を立憲君主制にあらためることを要求した。一八九八年、光緒皇帝は康有為、譚嗣同、梁啓超らを登用して政務にあずからせ、変法をはかった。だが、のちに頑迷派の代表西太后がふたたび政権をにぎるにおよんで、ついに維新運動は失敗に帰した。康有為、梁啓超は海外にのがれ、保皇党をつくって、孫中山の代表するブルジョア階級、小ブルジョア階級の革命派と対立し、反動政治家の一派となった。康有為の著作には、『新学偽経考』『孔子改制考』『大同書』などがある。
〔3〕 厳復(一八五三~一九二一年)、福建省[”もんがまえ”の中に”虫”]侯県の人。かつてイギリスの海軍学校に留学した。一八九四年の中日戦争ののち、立憲君主制、変法維新を主張した。ハックスリの『進化と倫理』、アダム・スミスの『国富論』、ミルの『論理学体系』、 モンテスキューの『法の精神』などを訳して、ヨーロッパのブルジョア思想をびろめた。
〔4〕 本選集第二巻の『新民主主義論』注〔17〕を参照。
〔5〕 武松は中国の有名な小説『水滸伝』のなかの英雄で、景陽岡の虎退治の物語は、ひろく民間につたえられている。
〔6〕 農業の社会化と国の工業化との関係については、一九五五年七月三十一日に、毛沢東同志が中国共産党の省委員会、市委員会、自治区委員会の書記の会議でおこなった報告『農業協同化の問題について』の第七の部分と第八の部分を参照。この報告のなかで、毛沢東同志は、ソ連の経験とわが国の実践にもとづいて、農業の社会化の段どりは社会主義工業化の段どりに対応させなければならないという命題を大きく発展させた。
〔7〕 これは朱熹が『中庸』第十三章の注でのべていることばである。
(一九四九年八月十四日)
本文と、つぎの『さらば、スチュアート』『なぜ白書を討論する必要があるのか』『「友情」か侵略か』『観念論的歴史観の破産』の四編は、毛沢東同志が新華社にかわって書いた、アメリカ国務省の白書とアチソンの書簡にたいする論評である。これらの論評は、アメリカの対中国政策の帝国主義的本質を暴露し、アメリカ帝国主義にたいする国内の一部ブルジョア知識人の幻想に批判をくわえるとともに、中国革命の発生と勝利の原因について理論的に解明したものである。
アメリカ国務省の中米関係についての白書とアチソン国務長官のトルーマン大統領あての書簡〔1〕が、いまのこの時点に発表されたのは偶然ではない。これらの文書が発表されたことは、中国人民の勝利と帝国主義の敗北を反映し、世界帝国主義体制ぜんたいの没落を反映している。帝国主義体制の内部には克服しようのない多くの矛盾が重なりあっていて、帝国主義者を極度の苦悩におとしいれている。
帝国主義は自分自身のために滅亡の条件をととのえてきた。植民地、半植民地の人民大衆と帝国主義の本国における人民大衆の自覚が、そうした条件である。帝国主義は、全世界の人民大衆を、帝国主義の絶滅という偉大な闘争の歴史的時代にかりたてている。
帝国主義は、これらの人民大衆のために、物質的条件もととのえてきたし、精神的条件もととのえてきた。
工場、鉄道、兵器など、こうしたものが物質的条件である。中国人民解放軍の強大な物的装備は、その大部分がアメリカ帝国主義から手に入れたもので、一部は日本帝国主義から手に入れたもの、他の一部は自分で製造したものである。
一八四〇年にイギリス人が中国を侵略してからというものは、英仏連合軍が中国を攻撃した戦争、フランスが中国を攻撃した戦争、日本が中国を攻撃した戦争、イギリス、フランス、日本、帝制ロシア、ドイツ、アメリカ、イタリア、オーストリアの八ヵ国連合軍が中国を攻撃した戦争、日本と帝制ロシアが中国の領土でおこなった戦争〔2〕、一九三一年いらい日本が中国の東北地方を攻撃した戦争、一九三七年いらい八年にわたって日本が中国の全領土を攻撃した戦争とつづき、最後に、ここ三年らい、表面では蒋介石、実際にはアメリカが中国人民を攻撃した戦争となっている。この最後の戦争について、アチソンの書簡は、国民党政府にたいするアメリカの物的援助が国民党政府の「貨幣支出の五〇パーセント以上」をしめ、「アメリカは中国の軍隊(国民党軍をさす)に軍需品を提供した」といっている。それは、アメリカが金と鉄砲を出し、蒋介石が人間を出して、アメリカのためにたたかい中国人を殺す戦争である。これらすべての侵略戦争、それに政治上、経済上、文化上の侵略と抑圧がくわわって、中国人の帝国主義にたいする憎しみをうみだし、中国人にこれはいったいどうしたことかと考えさせ、いやおうなしに、その革命精神をふるいたたせ、闘争のなかで団結させるようになった。中国人は、闘争、失敗、ふたたび闘争、ふたたび失敗、ふたたび闘争というようにして、百九年におよぶ経験をつみ、何百回にわたる大小の闘争の経験をつみ、軍事と政治、経済と文化、流血と非流血の経験をつんで、やっと、こんにちのこのような基本的な成功をかちとったのである。これが精神的条件であって、この精神的条件がなければ、革命は勝利をおさめることができない。
侵略の必要から、帝国主義は中国に買弁制度をうみだし、官僚資本をうみだした。帝国主義の侵略は中国の社会経済を刺激して、これに変化をおこさせ、帝国主義の対立物をうみだした。つまり、中国の民族工業をうみだし、中国の民族ブルジョア階級をうみだし、またとくに、帝国主義の直接経営する企業、官僚資本の企業、民族ブルジョア階級の企業ではたらく中国のプロレタリア階級をうみだした。侵略の必要から、帝国主義は不等価交換の方法で中国の農民を搾取して、農民を破産においやり、中国に数億にのぼる広範な貧農大衆をうみだし、貧農が農村人口の七〇パーセントをしめるようになった。侵略の必要から、帝国主義は、中国に、ふるい型の文人や士大夫とはちがった、数百万にのぼる新しい型のさまざまな水準の知識人をうみだした。帝国主義とその手先である中国の反動政府は、これらの人びとのうちの一部分のものを支配できるだけであったが、のちになると、そのうちの胡適、傳斯年、銭穆といったごく少数のものを支配するのがせいぜいで、そのほかのものは反対の側にまわり、支配することができなくなった。学生、教員、教授、技手、技師、医者、科学者、文学者、芸術家、公務員などは、いずれも謀反をおこすか、あるいは、もう二度と国民党についていこうとしなくなった。共産党は貧乏党である。そのうえ、国民党からは、殺人・放火や強姦・略奪をはたらく、歴史もいらぬ、文化もいらぬ、祖国もいらぬ、親には不孝で、師を敬わず、道理をわきまえない、共産共妻で、人海戦術をとる、要するに、鬼のようなおそろしい面相をした一群の許しがたい極悪人として、ひろく、すみずみにまで宣伝されている。ところが、まことに不思議なもので、ほかならぬこうした一群のものが、数億の人民大衆から支持されており、しかも知識人の大多数、とりわけ青年学生から支持されているのである。
一部の知識人は、もうすこし様子を見ようとしている。かれらは、国民党はよくないが、共産党もよいとはかぎるないから、様子を見てからにしよう、と考えている。そのうち一部のものは口先では支持するといいながら、腹のなかでは様子を見ている。アメリカに幻想をいだいているのは、ほかならぬこうした人たちである。かれらは、権力をにぎっているアメリカ帝国主義者と、権力をもたないアメリカ人民とを区別しようとしない。かれらは、ともすればアメリカ帝国主義者のある種の甘いことばにだまされ、たとえきびしい長期の闘争をやらなくても、これらの帝国主義者が人民の中国にたいし平等、互恵のあつかいをするかのように考えている。かれらの頭のなかには反動的な、すなわち反人民的な思想がまだたくさんのこっているが、しかし、かれらは国民党反動派ではなく、人民中国の中間派あるいは右派である。かれらこそ、アチソンのいう「民主的個人主義」の支持者である。アチソンらの欺瞞的な手口は、まだ中国で、うすいながらも社会的基盤がある。
アチソンの白書は、アメリカ帝国主義者が中国のいまの局面にたいして、どうにもうつ手がなくなったことをしめしている。国民党はいかにもふがいがなく、いくら助けてやっても、もうおしまいだ、もう自分たちの思いどおりにはならず、手のほどこしようがない、というのである。アチソンは、その書簡のなかでつぎのようにいっている。「中国の内戦の不吉な結末がアメリカ政府の手にあまるものだったことは、不幸ではあるが避けられないことでもあった。わが国がその力のおよぶ合理的な限度内でどのようなことをおこなったとしても、またおこなうことができたとしても、こうした結末を変えることはできなかったであろう。こうした結末がついに生じたのは、けっしてわれわれがなにかをやらなかったためではなかった。それは中国内部のさまざまな力、わが国がかつて左右しようとこころみて効果のなかったそうした力の所産である。」
論理からすれば、アチソンの結論は、中国の一部のあいまいな考えをもつ知識人が考えたり、いったりしているように、「刀を捨てて、たちどころに仏となり」「強盗が改心して善人となる「つまり、人民の中国に平等、互恵の待遇をあたえ、二度と攪乱工作はやらない、ということになるはずである。ところが、そらではなく、アチソンは、これからも攪乱する、しかもかならず攪乱する、といっている。効果はどうだろうか。聞けば、あるとのことである。どんな連中にたよるのか。「民主的個人主義」の支持者にたよるのである。アチソンはいっている。「……中国の悠久の文明とその民主的個人主義はいつかはまた本領をあらわすであろうし、中国はいつかはまた外国のくびきからぬけだすであろう。中国の現在と将来のこの目標をめざすあらゆる発展をわれわれはすべて激励すべきである、と考える。」
帝国主義者の論理と人民の論理はこんなにもちがっている。攪乱、失敗、ふたたび攪乱、ふたたび失敗、最後に滅亡――これが人民の事業に対処する、帝国主義と世界のすべての反動派の論理であって、かれらはけっしてこの論理に反することはない。これはマルクス主義の法則である。われわれが「帝国主義はきわめて凶悪だ」というのは、その本性はあらためることのできないもので、帝国主義者は、その滅亡の日まで、けっして刀を捨てようとするものではなく、また、けっして仏となれるものでもない、という意味である。
闘争、失敗、ふたたび闘争、ふたたび失敗、ふたたび闘争、最後に勝利 これが人民の論理であって、人民もまたけっしてこの論理に反することはない。これはマルクス主義のもう一つの法則である。ロシア人民の革命はこの法則にしたがったし、中国人民の革命もまたこの法則にしたがっている。
階級闘争、一部の階級が勝利し、一部の階級が消滅する。これが歴史であり、これが数千年にわたる文明史である。この観点から歴史を解釈するのが史的唯物論とよばれるもので、この観点の反対の側にたつのが史的観念論である。
自己批判の方法は、人民の内部でしか用いることができない。帝国主義者や中国の反動派に勧めて、善心をおこさせ、正道に立ちかえるせようとしても、それは不可能である。唯一の手段は、力を組織してかれらと闘争することであり、われわれの人民解放戦争や土地革命のように、帝国主義を暴露し、かれらを「刺激」し、かれらを打倒し、かれらの違法行為に制裁をくわえ、「かれらには神妙にすることだけを許し、勝手な言動にでることを許さない」ことである。こうしてはじめて、平等と互恵の条件のもとで帝国主義の諸外国を相手にする望みがうまれるのである。こうしてはじめて、すでに武器をさしだし降伏した地主階級や官僚ブルジョア階級の連中と国民党反動集団の一味、およびその共犯者どもにたいし、悪人を善人にかえる教育をほどこし、可能なかぎりかれらを善人にうまれ変わらせる望みがうまれるのである。中国の多くの自由主義者、それは旧民主主義者のことであり、トルーマン、マーシャル、アチソン、スチュアートらが望みをかけて、いつも抱きこもうとしているいわゆる「民主的個人主義」の支持者たちのことであるが、かれらがともすれば、受け身の立場においこまれ、問題にたいする観察をあやまるのは――アメリカの支配者にたいする観察、国民党にたいする観察、ソ連にたいする観察をあやまり、また中国共産党にたいする観察をもあやまるのは、かれらが史的唯物論の観点で物事を見ることをしないか、あるいはそうすることに賛成しないからである。
先進的な人びと、つまり共産党員、各民主政党、自覚した労働者、青年学生、進歩的な知識人は、人民中国内部の中間階層、中間派、各階層のなかのおくれた人びとや、なお動揺し、ためらっているすべての人びと(これらの人は今後も長いあいだ動揺し、立場がしっかりしたかとおもうとまた動揺し、困難にあえばすぐに動揺する)と団結し、善意をもってかれらを援助し、かれらの動揺性を批判し、かれらを教育し、人民大衆の側に獲得して、帝国主義にひっばっていかれないようにし、かれらが幻想をすてて闘争を準備するようにさせる責務がある。勝利したからもう働きかけなくてもよい、と考えてはならない。やはり働きかけなければならないし、もっと多くの辛砲づよい働きかけをしなければならない。そうしてくそ、ほんとうにこれらの人を獲得することができるのである。かれらを獲得すれば、帝国主義は完全に孤立してしまい、アチソンもその腕をふるう余地がなくなってしまう。
「闘争を準備せよ」というスローガンは、中国と帝国主義国との関係、とりわけ中国とアメリカとの関係について、まだいくらか幻想をいだいている人びとにたいして出されたものである。かれらはまだアメリカに幻想をいだいているから、この問題では、まだ受け身で、まだ決意をしておらず、まだアメリカ帝国主義(およびイギリス帝国主義)と長期にわたってたたかう決意をもっていない。この問題では、かれらとわれわれのあいだに、まだひじょうに大きな、あるいはかなり大きなひらきがある。
アメリカの白書とアチソンの書簡が発表されたことは、慶賀に値することである。なぜなら、それは、旧民主主義の思想、つまり民主的個人主義の思想をもっていて、人民民主主義、または民主的集団主義、または民主集中主義、または集団的英雄主義、または国際主義的愛国主義には賛成しないか、あるいはあまり賛成せず、これに不満をもつか、あるいはいくらかの不満をもち、さらには反感さえいだいているが、しかし、愛国心はまだもっていて、国民党反動派ではないというそうした人びとにたいして、水をかけ、かれらの面目をつぶしたからである。とりわけ、アメリカのものはなんでもよいと信じ、中国がアメリカに学ぶことを望んでいる人びとに水をかけたからである。
アチソンはおおっぴらに、中国の民主的個人主義者が「外国のくびき」なるものからぬけだすよう、これを「激励」するといっている。つまり、マルクス・レーニン主義をくつがえし、中国共産党の指導する人民民主主義独裁の制度をくつがえす、というのである。それというのも、この主義とこの制度は中国に根をもたない「外国のもの」で、ドイツのマルクス(この人は死んで六十六年になる)、ロシアのレーニン(この人は死んで二十五年になる)とスターリン(この人はまだ生きている)が中国人におしつけたものであり、しかも、階級闘争とか帝国主義打倒とかを提唱するふらちきわまるものであるから、これはどうしてもくつがえさなければならないのだそうである。これについては、トルーマン大統領、マーシャル黒幕総司令官、アチソン国務長官(白書の発表にあたった愛すべき外国の大旦那)、スチュアートずらかり大使らが「激励」をあたえさえすれば、中国の「民主的個人主義がいつかはまた本領をあらわすようになるだろう」とのことである。アチソンらは、これで「激励」工作をやっているつもりである。だが、アメリカを信じていても、まだ愛国心をもっている中国の民主的個人主義者からは、水をかけられたようなものだ、面目まるつぶれだ、中国の人民民主主義独裁の当局とよく接触もしないで、こんなろくでもないことをしでかし、おまけにおおっぴらに発表するとは、なんともはや面目まるつぶれた、とおもわれているらしい。愛国心のある人びとにとって、アチソンのことばは「激励」ではなく、侮辱である。
中国は大草命のさなかにあり、全中国がわきたっている。そこには、人民の革命事業にたいしてあやまった考えをもってはいるが、ふかい恨みも憎しみもいだいていないすべての人を獲得し、これと団結するためのよい条件がある。先進的な人びとは、白書を利用して、こうしたすべての人を説得すべきである。
〔1〕 こににいうアメリカの白書とは、アメリカ国務省が一九四九年八月五日に発表した「アメリカと中国との関係」と題する白書のことである。アチソンのトルーマンあて書簡というのは、アチソンがアメリカ国務省で白書をつくってのち、一九四九年七月三十日にトルーマンにあてて書いた手紙のことである。白書の本文は八章にわかれ、一八四四年にアメリカが中国に追って「望廈条約」を結んだときから、一九四九年に中国の人民革命が全国にわたって基本的な勝利をおさめたときまでの中米関係についてのべている。白書は、抗日戦争末期から一九四九年までの五年間に、アメリカが援蒋反共政策を実施し、あらゆる手をうって中国人民に反対し、最後に失敗をなめるにいたったいきさつをとくにくわしくのべている。白書とアチソンのトルーマンあて書簡は、是非の転倒、事実の隠蔽と捏造、中国人民にたいする悪どい中傷と根ぶかい憎悪にみちたものである。当時、アメリカの反動陣営内部に対中国政策をめぐる争いがあったため、トルーマン、アチソンらの帝国主義者は、相手側を説きふせようとして、やむなく、白書の形で反革命の若干の真相をあかちさまにさらけだしたのである。こうして白書は、客観的には、中国を侵略したアメリカ帝国主義の犯罪供述書となっている。
〔2〕 一九〇四年から一九〇五年にかけて、日本と帝制ロシアとのあいだに、中国東北地方および朝鮮の争奪をめぐっておきた帝国主義戦争のことである。この戦争は主として、中国東北地方の奉天(いまの瀋陽)、遼陽地区および旅順一帯でおこなわれ、中国人民に莫大な損失をあたえた。日露戦争の結果は、帝制ロシアの敗北に終わり、日本帝国主義が帝制ロシアにとってかわって、中国東北地方における支配的地位を手にいれた。朝鮮にたいする日本の独占的地位も、この戦争の講和条約(ポーツマス条約)で、帝制ロシアから認められた。
(一九四九年八月十八日)
スチュアート〔1〕がすでに南京をはなれて、まもなくワシントンに着こうとしているが、まだ着いていないその八月五日という日をえらんで、アメリカの白書が発表されたことは、理解できることである。なぜなら、かれは、アメリカの侵略政策が徹底的に失敗したことの象徴だからである。スチュアートは中国生まれのアメリカ人で、中国に相当ひろい社会的つながりをもち、中国で長年、ミッション・スクールの経営にあたり、抗日の時期には日本人の監獄に入れられたこともあり、平素からアメリカも愛しまた中国も愛しているようなふりをして、一部の中国人を相当まどわすことができた。それで、かれはマーシャルに見込まれて駐華大使になり、マーシャル一派の風雲児の一人となった。マーシャル一派から見ると、かれには一つだけまずい点があった。それは、かれがマーシャル一派の政策を代表して中国で大使をやっていた時期全体が、ちょうど、中国人民によってこの政策が徹底的にうちやぶられた時期であったということで、その責任は小さくはない。責任のがれを目あてとする白書は、当然、スチュアートがもうすぐ着こうとしていてまだ着いていないというときに発表するのが適切であった。
アメリカが金と鉄砲を出し、蒋介石が人間を出し、アメリカのためにたたかって中国人を殺し、それによって、中国をアメリカの植民地にする戦争は、第二次世界大戦後におけるアメリカ帝国主義の世界侵略政策の重要な部分をなしている。アメリカの侵略政策の対象には、いくつもの部分がある。ヨーロッパの部分、アジアの部分、アメリカ州の部分、この三つがおもな部分である。中国はアジアの重心であり、四億七千五百万の人口をもつ大国なので、中国をうばいとれば、アジア全体が自分のものになる。アメリカ帝国主義のアジア戦線が強固になれば、ヨーロッパの攻撃に力を集中することができる。アメリカ帝国主義は、アメリカ州における自己の戦線はわりに強固なものと考えている。以上がアメリカ侵略者の皮算用の全部である。
だが、第一に、アメリカの人民も全世界の人民も戦争を望んでいない。第二に、ヨーロッパの人民の自覚、東ヨーロッパの人民民主主義諸国の勃興、とくにヨーロッパ、アジア両大陸にまたがってそびえ立つソ連というかつてないほど強大な平和のとりでがアメリカの侵略政策に頑強に抵抗していること、これらのことがアメリカの注意力の大部分をひきつけている。第三に、これが主要なものであるが、中国人民の自覚、中国共産党の指導する武装力と民衆の組織された力がすでに、かつてないほど強大なものになっている。こうして、アメリカ帝国主義の政権担当者集団は、中国にたいして直接、大規模に武力攻撃をおこなう政策がとれず、蒋介石を助けて内戦をやらせる政策をとらざるをえなくなった。
アメリカの陸海空軍はすでに中国で戦争に参加している。青島、上海、台湾にはアメリカの海軍基地があった。北平、天津、唐山、秦皇島、青島、上海、南京にはすべてアメリカ軍が駐屯していた。アメリカの空軍は全中国を支配し、空中から全中国の戦略要地を軍用地図に撮影した。アメリカの軍隊あるいは軍事要員は北平の近くの安平鎮で、長春の近くの九台で、唐山で、膠東半島で、人民解放軍と交戦し、なんども人民解放軍の捕虜になった〔2〕。シェンノート航空隊はひろい範囲にわたって参戦した〔3〕。アメリカの空軍は蒋介石のために軍隊の輸送にあたったほか、蜂起した巡洋艦重慶号を撃沈した〔4〕。これらはすべて直接の参戦行為である。ただ、公然と戦争を宣言しておらず、規模もそれほど大きくなく、金や鉄砲や顧問を出し大規模に蒋介石を助けて内戦をやらせることをおもな侵略方式としているというだけのことである。
アメリカがこうした方式をとったのは、中国と全世界の客観情勢によるもので、なにもアメリカ帝国主義の政権担当者――トルーマン、マーシャルの一派が中国を直接侵略することを考えなかったというのではない。蒋介石を助けて戦争をやらせた当初には、アメリカは自分がおもてに立って国共両党の紛争を調停するというハイカラ芝居を演じて、中国共産党を軟化させ、中国人民を欺瞞し、戦わずして全中国を支配しようとたくらんだこともあった。和平交渉は失敗し、欺瞞は成功せず、戦争の幕がきっておときれた。
アメリカに幻想をいだいている健忘症の自由主義者またはいわゆる「民主的個人主義」者の諸君、ひとつアチソンのいっていることを聞いてみたまえ。「平和がおとずれたとき、中国でアメリカが選択できる道はつぎの三つであった。(一)なにもかもすっかり撤退する。(二)大規模な軍事干渉をおこない、国民党を助けて共産党を撲滅する。(三)国民党を助けて、その権力を中国のできるかぎりひろい地域にうちたて、同時に、双方の妥協をうながすことによって内戦の回避につとめる。」
なぜ第一の政策をとらなかったのか。アチソンはいっている。「第一の方法をとることは、われわれがまず助力をあたえることにあくまで努力しようともしないで、われわれの国際的責任、われわれの伝統的な対華友好政策をそっくり放棄してしまうものだと、当時のアメリカの世論は考えていたと、わたしは信じている。」なるほど、アメリカのいわゆる「国際的責任」とか「伝統的な対華友好政策」とかいうものは、中国に干渉することだったのである。干渉することが国際的責任を負うことであり、干渉することが対華友好であってみれば、干渉しないわけにはいかなくなる。アチソンはここでアメリカの世論を辱しめているのだ。それはウォール街の「世論」ではあっても、アメリカの世論ではない。
なぜ第二の政策をとらなかったのか。アチソンはいっている。「選択できる第二の政策は、理論的にみても、また、いまふりかえってみても、魅力あるもののようであるが、まったく実行できないものであった。戦前の十年間でさえ、国民党は共産党を撲滅できなかった。現在は戦後であり、国民党は弱まり、意気消沈し、民心をうしなっている。これについては、さきに説明したとおりである。日本の手からとりもどした地域における国民党の文武官吏の行為は、国民党にたいする人民の支持をいっぺんにうしなわせ、その威信を失墜させた。ところが、共産党はこれまでのどの時期よりも強大になり、全華北はほとんどかれらの支配するところとなった。国民党軍がのちにしめしたみじめな無能ぶりからみれば、共産党を追いはらうには、おそらくアメリカの武力にたよるほかなかったであろう。だが、このような大きな責任は、われわれの軍隊が一九四五年に負ったとしても、あるいはもっとあとで負ったとしても、アメリカの人民がこれを承認しなかったであろうことはあきらかである。したがって、われわれは、選択できる第三の政策をとった……」
アメリカが金と鉄砲を出し、蒋介石が人間を出し、アメリカのためにたたかって中国人を殺し、「共産党を撲滅し」、中国をアメリカの植民地にかえ、アメリカの「国際的責任」をはたし、「伝統的な対華友好政策」を実現するとは、すばらしいやり方である。
国民党は腐敗し無能であり、「意気消沈し、民心をうしなっている」が、それでも、金を出し鉄砲を出してかれらに戦争をやらせたのである。直接出兵して干渉することも、「理論的」には妥当であった。アメリカの支配者だけからいえば、「いまふりかえってみても」やはり妥当である。というのは、こうすることは、じつに興味のあることで、「魅力あるもののようである」からである。だが実際には実行できないことであり、「アメリカの人民がこれを承認しなかったであろうことはあきらかである」。われわれ――トルーマン、マーシャル、アチソンら帝国主義者一派――はやりたくないのではなく、やりたいのはやまやまだが、ただ中国の情勢、アメリカの情勢、それからまた国際情勢全体(この点にはアチソンはふれていない)が許さないので、やむをえず次善の策として第三の道をとった、というわけである。
「国際的な援助がなくても勝利できる」と考えている中国人は、よく聞くがよい。アチソンは諸君に授業をしてくれているのだ。アチソンは、給料ももらわずに奉仕的に授業してくれるありがたい教師で、こんなに熱心に、少しもつつみかくさず、ありったけの真理を語ってくれる。アメリカが大がかりに出兵して中国を攻撃しなかったのは、アメリカ政府が望まなかったからではなく、アメリカ政府に懸念があったからである。第一の懸念は中国人民がかれらに反対することで、かれらは泥沼にはまりこんで抜けだせなくなるのを恐れたのである。第二の懸念はアメリカの人民がかれらに反対することで、そのために、思いきって動員令が下せなかったのである。第三の懸念はソ連とヨーロッパの人民、各国の人民がかれらに反対することで、かれらは天下のそしりをうけるのを恐れたのである。アチソンの愛すべき卒直さにも限度があって、この第三の懸念は口にしたがらない。それは、かれがソ連のまえで恥をかくのを恐れているからであり、すでに失敗しているのにまだ失敗していないようなふりをしなければならないヨーロッパのマーシャル・プラン〔5〕が、全面的崩壊というみじめな状態におちいるのを恐れているからである。
近視眼的で、考えのあいまいな中国の自由主義者あるいは民主的個人主義者はよく聞くがよい。アチソンは諸君に授業をしてくれているのだ。アチソンは諸君のありがたい教師である。諸君が想像しているアメリカの仁義道徳は、もはやアチソンによってきれいに掃きすてられている。そうではないか。諸君は白書やアチソンの書簡のなかから仁義道徳のひとかけらでもさがしだすことができるだろうか。
アメリカにはたしかに科学があり、技術があるが、惜しいことに、人民の手にはなく、資本家の手ににぎられているので、それは、内にたいする搾取と抑圧、外にたいする侵略と殺人のために使われている。アメリカにも「民主政治」はあるが、惜しいことに、それはブルジョア階級という一階級の専制支配の別名でしかない。アメリカにはたくさん金があるが、惜しいことには腐りきった蒋介石反動派にしかやる気がない。聞くところによると、現在も将来も、中国にいるかれらの第五列にはやる気が大いにあるそうだが、そこいらの、学究くさい、人さまの好意も知らぬ自由主義者あるいは民主的個人主義者にはやる気はなく、もちろん、共産党にはなおさらやる気はないということである。くれてやってもよいが、それには条件がある。どんな条件か。おれについてこい、である。アメリカ人は北平で、天津で、上海で、すこしばかり救済用の小麦粉をばらまき、どんな連中が腰をかがめて拾うかをためしてみた。太公望の魚釣りでは、釣られたい者が針にかかる。嗟来の食は、食えばおなかが痛くなる〔6〕。
われわれ中国人には気骨がある。かつては自由主義者あるいは民主的個人主義者だった多くの人びとが、アメリカ帝国主義者とその手先国民党反動派をまえにして立ちあがった。聞一多は卓をたたいて立ち、まなじりを決して国民党の拳銃に立ちむかい、倒れても屈しようとはしなかった〔7〕。朱自清は重病の身でありながら、餓死しても、アメリカの「救済食糧」はうけなかった〔8〕。唐代の韓愈は「伯夷頌」を書いたが〔9〕、たたえているのは、自国の人民には責任を負わず、こっそり逃げだし、しかも武王の指導する当時の人民解放戦争にも反対した、かなり「民主的個人主義」の思想をもっていた伯夷であって、こういうものをたたえるのはまちがいであった。われわれは聞一多頌を書き、朱自清頌を書くべきである。かれらはわれわれの民族の英雄的気魄をしめしている。
多少の困難を、なんで恐れることがあろう。封鎖するがよい。五年十年と封鎖しているうちには、中国の問題はすべて解決される。中国人は、死をも恐れないのに、なんで困難を恐れよう。老子もいっているように「民、死を畏れずんば、何ぞ死をもって之を懼れしめん」〔10〕である。アメリカ帝国主義とその手先蒋介石反動派は、われわれにたいして、「死をもって之を懼れしめ」ただけでなく、実際に、われわれを死においやっている。かれらは、聞一多らの人びとのほかにも、この三年のあいだに、アメリカのカービン銃、機関銃、追撃砲、バズーカ砲、榴弾砲、戦車、飛行機、爆弾で数百万の中国人を殺した。いまは、こうした状況も大詰めに近づいている。かれらは戦いに負けた。かれらが攻めてくるのでなくて、われわれが攻めていくようになった。かれらはもうすぐおしまいである。かれらはわれわれに多少の困難をのこした。封鎖、失業、飢饉、通貨膨脹、物価騰貴といったようなものは、たしかに困難ではあるが、しかし、この三年間にくらべれは、ひと息つけるようになっている。この三年間の難関でさえ突破したのに、どうして、いまのこれくらいの困難が克服できないことがあろうか。アメリカなしに生きていけないことがあろうか。
人民解放軍が長江を渡ると、南京のアメリカ植民政府はくもの子を散らすように逃げさった。ところがスチュアート大使さまだけは、新しい店でもひらいてひともうけしようとじっと腰をおちつけ、目を大きくして様子をうかがっていた。だが、スチュアートはなにを見たか。人民解放軍が一隊また一隊と通りすぎ、労働者、農民、学生がつぎつぎと群れをなして立ちあがるのを見たほかに、さらに、もうひとつの現象、つまり中国の自由主義者あるいは民主的個人主義者までが大挙して労働者、農民、兵士、学生たちといっしょにスローガンを叫び、革命を論じているのを見たのである。要するに、だれも、かれをかまってくれるものがいなかった。そこで「煢々として孑立し、形影相弔う」①ことになり、なにもすることがないので、カバンを小脇に出ていくよりしかたがなくなった。
中国にはまだ、あいまいな考えをもち、アメリカに幻想をいだいている一部の知識人やその他のものがいる。したがって、かれらにたいしては、説得、獲得、教育、団結の活動をすすめ、かれらを人民の側に立たせて、帝国主義のわなにかからせないようにしなければならない。しかし、中国人民のあいだでは、アメリカ帝国主義の威信はすっかり地におちてしまった。アメリカの白書こそ破産の記録である。先進的な人びとは、白書をじゅうぶんに利用して、中国人民にたいする教育活動をおこなわなければならない。
スチュアートが去り、白書が来た。たいへん結構。この二つのことは、どちらもよろこばしいことである。
〔1〕 スチュアートは、一八七六年に中国に生まれた。かれは一貫して、アメリカの対華文化侵略の忠実な執行者だった。かれは一九〇五年から中国で布教をはじめ、一九一九年からはアメリカが中国の北京に設けていた燕京大学の学長になった。一九四六年七月十一日、スチュアートは中国国民党政府駐在のアメリカ大使となり、積極的に国民党反動派の反人民的内戦のあと押しをするとともに、中国人民に敵対する各種の政治的陰謀活動をおこなった。一九四九年八月二日、中国人民革命の勝利をさまたげようとするアメリカ帝国主義のすべての努力が徹底的な失敗に終わったために、スチュアートはすごすごと中国から立ち去らざるをえなくなった。
〔2〕 一九四五年に日本が降伏したのち、アメリカ軍は、中国の領土・主権にたいする侵害と中国の内政にたいする干渉を目的として中国に上陸し、北平、上海、南京、天津、唐山、開平、秦皇島、静海、青島などの地区に駐屯するとともに、たえず解放区を侵攻した。本文にでている安平鎮事件とは、一九四六年七月二十九日に天津のアメリカ軍か蒋介石匪賊軍に呼応して河北省香河県安平鎮を攻撃した事件のことである。九台事件とは、一九四七年三月一日、アメリカ軍が長春と九台とのあいだの河渓堡の解放軍陣地にたいして軍事偵察をおこなった事件のことである。唐山事件とは、一九四六年六月十六日に唐山のアメリカ軍が宋家営などの地に侵入し、同年七月、唐山付近の[シ+欒]県三河荘子と昌黎県西河南村に侵入した事件のことである。膠東半島にたいするアメリカ軍の侵攻はたびたびおこなわれたが、有名なものが三国ある。一回は、一九四七年八月二十八日にアメリカの飛行機と軍艦が牟平県の浪暖口と小里島を侵攻した事件、一回は、同年十二月二十五日にアメリカ軍が蒋介石匪賊軍に呼応して即墨県の北の王麟陶を攻撃した事件である。上述の、解放区を侵攻したアメリカ軍の侵略行為にたいしては、中国人民解放軍も地方の人民武装部隊も厳正な自衛行動をとった。
〔3〕 シェンノートはアメリカ人で、かつて国民党政府の空軍顧問をつとめた。日本が降伏したのち、かれはアメリカ第十四航空隊の一部の要員をひきい、空輸隊をつくって、国民党を助けて内戦をやらせ、また解放医の偵察、爆撃などの犯罪行為に直接参加した。
〔4〕 本巻の『中国人民解放軍総可令部スポークスマンがイギリス軍艦の暴虐行為について発表した声明』注〔4〕を参照。
〔5〕 一九四七年六月五日、アメリカ国務長官マーシャルはハーバード大学で、いわゆるヨーロッパの復興にたいするアメリカの「援助」なるものについて演説した。のちにアメリカ政府がこれにもとづいてつくった「ヨーロッパ復興計画」は、「マーシャル・プラン」とよばれた。
〔6〕 「太公望の魚釣りでは、釣られたい者が針にかかる」というのは民間伝説である。その伝説によれば、周代の姜太公は渭水のほとりで、餌をつけない、まっすぐな針を水面上三尺のところにたらして魚釣りをし、「捕えられる運命にあるものは針にかかれ」といったといわれているか、この話は『武王伐紂平話』の中巻にみられる。「嗟来の食」とは侮辱的にあたえる施しのことである。斉国の一人の飢えた男が嗟来の食を食わなかったために餓死した話が、『礼記』の「檀弓下」にでている。
〔7〕 聞一多(一八九九~一九四六年)は中国の有名な詩人、学者、教授であった。一九四三年以後、蒋介石政府の反動性と腐敗ぶりにはげしい憤りをもやして、民主主義のための闘争に積極的に参加した。抗日戦争終結後は、国民党がアメリカ帝国主義と結託して反人民的内戦をおこすことに積極的に反対した。一九四六年七月十五日、国民党匪賊一味の手にかかって昆明で暗殺された。
〔8〕 朱自清(一八九八~一九四八年)は中国の現代の文学者であり、教授であった。抗日戦争終結後、かれは蒋介石の支配に反対する学生運動を積極的に支持した。一九四八年六月、アメリカが日本軍国主義をもりたてることに抗議し「アメリカの援助物資」の小麦粉をうけとることを拒否する宣言に署名した。当時、朱自清はひじょうな生活難におちいっており、同年八月十二日ついに貧乏と病気のため北平で逝去した。死に臨んでもなお、かれは国民党政府の配給するアメリカの小麦粉を買わないよう家人にいいつけた。
〔9〕 韓愈(七六八~八二四年)、唐代の有名な作家。「伯夷頒」は韓愈の書いた散文である。伯夷は殷末の人で、周の武王が兵を挙げて殷王朝を討伐することに反対した。武王が殷を滅ぼしてのち、かれは首陽山にかくれ、周の禄を食むことなく世を去った。
〔10〕 『老子』の第七十四章にみられる。
① 李密の「陳情表」にみられる。「寂しくひとりぼっちで立ち、自分と自分の影がたがいに慰めあっている」という意味で、孤独で同情者のないありさま。
(一九四九年八月二十八日)
アメリカの白書とアチソンの書簡については、すでに三つの論文(『いかんともしがたいという供述書』〔1〕、『幻想をすてて、闘争を準備せよ』、『さらば、スチュアート』)で批判をくわえてきた。これらの批判は、すでに全国の各民主政党、各人民団体、各新聞社、各学校および各界の民主人士のあいだで、ひろく注目され討論されており、正しい有益な声明、談話あるいは論評がたくさん発表されている。いま白書を討論するさまざまな座談会がひらかれており、討論は全体としてなお発展しつつある。討論の範囲は中米関係、中ソ関係、百年らいの中国と外国との関係、中国革命と世界の革命勢力との相互関係、国民党反動派と中国人民との関係、各民主政党、各人民団体および各界の民主人士が反帝国主義闘争のなかでとるべき態度、自由主義者あるいはいわゆる民主的個人主義者が対内・対外関係全体のなかでとるべき態度、帝国主義の新たな陰謀にいかに対処するかという問題などにおよんでいる。これはまことに結構なことで、教育的な役割もひじょうに大きい。
いま、全世界が中国革命とアメリカの白書について討論している。これは偶然なことではなく、世界史全体における中国革命の偉大な意義をしめすものである。中国人からいえば、われわれの革命が基本的に勝利しているにもかかわらず、この革命と内外各方面との相互関係についてつぶさに討論する機会は、長いあいだ一度もえられなかった。こうした討論はぜひとも必要なもので、いまその機会がみつかった。アメリカの日書について討論することがそれである。これまでこうした討論の機会がえられなかったのは、革命がまだ基本的な勝利をおさめておらず、内外の反動派が大都市を人民解放区からきりはなしていたこと、さらには、革命の発展がまだいくつかの矛盾の側面をじゅうぶんに暴露するにいたっていなかったことによるのである。いまはちがう。中国の大半がすでに解放され、内外のあらゆる矛盾の側面もじゅうぶんに暴露されている。ちょうどそのときアメリカが白書を発表したので、この討論の機会がみつかったのである。
白書は反革命の文書であり、アメリカ帝国主義の中国にたいする干渉をあからさまにしめしている。この点からいうと、それは帝国主義がすでにその常軌を逸したことを物語っている。勝利にかがやく偉大な中国革命によって、アメリカ帝国主義集団内部の一方の側、一方の派は、他方の側、他の一派の攻撃にこたえるため、自分たちが中国人民に敵対していることについての若干の真実の資料を公表し、反動的な結論を出さざるをえなくなった。そうしなければ、かれらはごまかしていけなくなったのである。あからさまな暴露が隠しだてにとって代わったこと、これこそ帝国主義がその常軌を逸したことのあらわれである。帝国主義政府は反革命活動を毎日おこなっているにもかかわらず、何週間かまえ、白書が発表されるまでは、口先でも政府筋の文書のうえでも、つねに仁義道徳をふりまわすか、さもなければ多少とも仁義道徳をにおわせ、真実は一度も語ったことがなかった。老獪なイギリス帝国主義や他のいくつかの小さな帝国主義国はいまでもそうである。新参もので、にわか成金で、神経衰弱で、一方では人民から反対され、他方ではおなじ仲間の一派から反対されている、アメリカのトルーマン、マーシャル、アチソン、スチュアートといった帝国主義者一派は、若干の(すべてではない)反革命の真相をあからさまにさらけだすやり方によって、いったいどちらの反革命的方法がより賢明であるかという問題を、おなじ仲間の相手側と論じあうことが、必要でもあり、実際的でもあると考えた。かれらは、より賢明だと自認する反革命的方法をつづけていくため、こうして相手を説きふせようとしたのである。反革命の両派がはりあって、一派は自分の方法がいちばんよいといい、他の一派も自分の方法がいちばんよいという。争いがにっちもさっちもいかなくなったとき、とつぜん、一方の派が手の内をみせ、自分たちのつかった数かずの奥の手を出してきた、それが白書である。
こうして、白書は中国人民の教材になった。長年のあいだ、多くの問題、主として帝国主義の本質や社会主義の本質の問題について、われわれ共産党員のいうことは、若干の(ある時期にはひじょうに多かった)中国人から、とかく、「そうとも限るまい」という半信半疑の目でみられていた。こうした状況には、一九四九年八月五日いご変化がうまれた。アチソンが授業をはじめたのである。アチソンがアメリカ国務長官の資格で話をしたのである。かれのいうところと、われわれ共産党員、あるいは他の先進的な人たちのいうところとは、若干の資料と若干の結論については、軌を一にしている。こうなると、もはや信じないわけにいかなくなり、なるほど、そうだったのかと、多くの人の視野がひらけてきたのである。
アチソンはトルーマンあての書簡の冒頭で、かれが白書をまとめたいきざつをのべている。かれは、この白書はふつうのものとはわけがちがい、きわめて客観的に、きわめて卒直にまとめてある、と語っている。「これは、アメリカとはやくからきわめて親密で友好的なつながりをもつ偉大な国の生涯におけるもっとも複雑で、もっとも不幸な時期についての卒直な記録である。入手しえたかぎりの資料は、たとえその一部のことばがわれわれの政策を批判したものであっても、また、たとえ一部の資料が将来批判の根拠になりうるものであっても、すべて省きはしなかった。われわれの政府が見識のある批判的な世論に敏感だということは、われわれの制度のもつ固有の力である。こうした見識のある批判的な世論は、右翼であれ共産党であれ全体主義の政府にとってはがまんのならないものであり、すべて許しがたいものである。」
中米両国人民のあいだのある種のつながりは存在している。こうしたつながりは、両国人民の努力によって、将来は「きわめて親密で友好的な」程度にまで発展するであろう。しかし、中米両国の反動派のもうけた壁によって、こうしたつながりは、過去においても現在においても、きわめて大きな妨害をうけている。そのうえ、両国反動派が両国人民にむかってうそ八百をならべ、いろいろとでたらめをやったため、つまり、いろんな悪質な宣伝をおこない悪事をはたらいたため、両国人民のつながりはきわめて疎遠なものになっている。アチソンのいう「きわめて親密で友好的なつながり」とは、両国人民のことではなく、両国反動派のことをさしているのである。この点で、アチソンは、客観的でもなければ卒直でもなく、両国人民相互の関係と両国反動派相互の関係とを混同している。両国人民にとって、中国革命の勝利と中米両国反動派の敗北は、生涯においてかつてなかった愉快なできことであり、いまのこの時期は、生涯においてかつてなかった愉快な時期である。それにひきかえ、トルーマン、マーシャル、アチソン、スチュアートその他のアメリカ反動派と蒋介石、孔祥煕、宋子文、陳立夫、李宗仁、白崇禧その他の中国反動派にとっては、たしかに「生涯におけるもっとも複雑で、もっとも不幸な時期」である。
アチソンらの世論にたいする見方は、反動派の世論と人民の世論とを混同している。人民の世論にたいしては、アチソンらはすこしも「敏感」ではありえず、みなめくらであり、つんぼである。数年らい、アメリカ、中国、全世界の人民がアメリカ政府の反動的な対外政策に反対してきたが、かれらは耳をふさいで、聞こうともしなかった。アチソンのいう「見識のある批判的な世論」とは何か。それはアメリカの共和党、民主党という二つの反動政党にあやつられている数かずの新聞、通信社、出版物、放送局など、もっぱらうそ八百をならべ、もっぱら人民をおどしつけている宣伝機関のことである。アチソンのいうとおり、これらのしろものは共産党にとって(いや、人民にとっても)、たしかに「がまんのならないものであり、許しがたいものである」。そこで、帝国主義の広報機関はわれわれによって閉鎖され、帝国主義の通信社の、中国の新聞にたいするニュースの提供はわれわれによって禁じられた。われわれは、それらのものが二度と中国の領土で勝手気ままに中国人民の魂をむしばむことを許さないのである。
共産党の指導する政府が「全体主義の政府」だというのは、半分はあたっている。この政府は、内外の反動派にたいして独裁または専制をおこなう政府であり、どのような内外の反動派にも、反革命の活動をおこなう自由はいっさいあたえない。反動派は腹をたてて、「全体主義の政府」だとののしっている。事実、反動派を弾圧する人民政府の権力についていえば、まちがいなくそのとおりである。この権力は、現在われわれの綱領に書きこまれており、将来はさらにわれわれの憲法に書きこまれるであろう。勝利した人民にとって、これは衣類や食料とおなじように、片時もなくてはならないものである。これはすばらしいものであり、身をまもる宝であり、伝家の秘宝であり、国外の帝国主義と国内の階級がのこらずきれいさっぱり消滅されるときまで、けっして、この秘宝を使わないでほうっておくようなことをしてはならない。反動派が「全体主義の政府」とののしればののしるほど、それが大事なものであることはますますはっきりしてくる。だが、アチソンのいうことの半分はまちがっている。共産党の指導する人民民主主義独裁の政府は、人民の内部にたいしては、独裁でも専制でもなく、民主である。この政府は人民自身の政府である。この政府の要員は、人民にたいしては、そのいうことをうやうやしく聞かなければならない。同時に、かれらはまた人民の先生であり、自己教育あるいは自己批判の方法で人民を教育する。
アチソンのいう「右翼の全体主義政府」ということになると、ドイツ、イタリア、日本の三つのファッショ政府が倒れていらい、この世界で、アメリカ政府こそそうした政府の筆頭である。すべてのブルジョア政府は、帝国主義の庇護をうけているドイツ、イタリア、日本三国の反動派の政府をもふくめて、いずれもそうした政府である。ユーゴスラビアのチトー政府も、いまはこの一味の手伝いをしている。アメリカ、イギリス型の政府は、ブルジョア階級というひとつの階級が人民にたいして独裁をおこなう政府である。この政府はすべてにわたって人民政府とは逆で、ブルジョア階級の内部にたいしてはいわゆる民主であるが、人民にたいしては専制である。ヒトラー、ムッソリーニ、東条、フランコ、蒋介石といった連中の政府が、ブルジョア階級内部の民主というベールをとりはらったか、あるいははじめから使わないことにしたのは、国内の階級闘争が極度にはげしくなってきたため、人民もベールを利用してさわぎたてることがないよう、それをとりはらうか、あるいは、はじめから使わないほうがいっそう有利だったからである。アメリカ政府は、いまなお一片の民主のベールをつけているが、すでに、アメリカの反動派のために裁ちきられて小さくなり、そのうえ色もひどくあせてしまい、ワシントン、ジェファーソン、リンカーン〔2〕の時代のそれにくらべると、ずっと見おとりがする。これは階級闘争がいちだんと緊迫の度をつよめたからである。さらに緊迫の度がつよまれば、アメリカの民主のベールもはるかかなたに投げすてられるにちがいない。
ごらんのとおり、アチソンはちょっと口をひらいただけで、もうこんなにたくさんの間違いをしでかしている。かれは反動派なので、これは避けがたいことである。かれの白書がいかに「卒直な記録」であるかという点になると、卒直なところがあるともいえるし、ないともいえるとおもう。アチソンらが主観的にかれらの一党一派にとって有利と考えるものについては、かれらは卒直なところがある。そうでないものについては、卒直なところがない。卒直なふりをするのは、作戦上のねらいからである。
〔1〕 これは、新華社編集部が書いた論評で、一九四九年八月十二日に発表された。
〔2〕 ワシントン(一七三二~一七九九年)、ジェファーソン(一七四三~一八二六年)、リンカーン(一八〇九~一八六五年)は、いずれもアメリカの初期における有名なブルジョァ政治家である。ワシントンは、アメリカ独立戦争の時期(一七七五~一七八三年)の植民地蜂起軍の総司令官で、アメリカの初代大統領になった。ジェファーソンは、アメリカの「独立宣言」の起草者で、アメリカの大統領になった。リンカーンは、アメリカの黒人奴隷制度の廃止を主張して、大統領在任中、アメリカ南部各州の奴隷主にたいする戦争(一八六一~一八六五年)を指導し、一八六二年に「黒人奴隷解放宣言」を公布した。
(一九四九年八月三十日)
侵略の根拠をもとめるために、アチソンはくりかえし山ほどの「友情」をならべたて、そのうえ、山ほどの「原則」をつけたした。
アチソンはいう。「われわれの歴史のきわめてはやい時期から、アメリカの人民と政府は中国に関心をよせてきた。大きな距離と大きな背景の相違が中米両国をへだててはいるが、中国にたいするアメリカの友情は、中米両国人民をむすぶ宗教、慈善事業および文化方面の紐帯によってたえず深められてきた。長年にわたるさまざまな好意的な措置、たとえば、庚子賠償金①を中国学生の教育につかったこと、第二次世界大戦の期間に治外法権を撤廃したこと、戦時および戦後に中国にたいして大規模な援助をおこなったことなどがそれを立証している。アメリカは、門戸開放主義、中国の行政と領土の保全にたいする尊重、中国にたいするいかなる外国の支配にも反対等々をふくむ対車外交政策の各基本原則を終始維持し、現在も依然として維持しているが、これは保存文書のしめすとおりである。」
アチソンはぬけぬけとうそをついて、侵略を「友情」と書きかえている。
一八四〇年にイギリス人を助けてアヘン戦争をやらせたときから、中国人民によって中国からたたき出されるまでのアメリカ帝国主義の中国侵略の歴史を、簡明に要約した一冊の教科書にまとめて、中国の青年を教育すべきである。アメリカはもっともはやく中国に治外法権〔1〕を強要した国の一つで、これがすなわら白書にとりあげられている中米両国が有史いらい最初に調印した一八四四年の望廈条約〔2〕である。そして、ほかならぬこの条約のなかで、アメリカは中国に五港通商その他の受諾を強要したほか、さらにアメリカ人の布教活動の受諾をも強要したのであった。アメリカ帝国主義は、ひじょうに長いあいだ、他の帝国主義国にくらべて、いっそう精神的侵略の面での活動に重きをおき、宗教事業から「慈善」事業や文化事業にまで手をのばしていった。ある人の統計によれば、アメリカの教会、「慈善」団体の中国における投資は総額四千百九十万ドルにたっしており、教会の資産項目のうちでは、医薬関係が一四・七パーセント、教育関係が三八・二パーセント、宗教活動関係が四七・一パーセントをしめている〔3〕。わが国の多くの有名な学校、たとえば燕京、協和、匯文、セント・ジョーンズ、金陵、東呉、之江、湘雅、華西、嶺南などの学校はいずれもアメリカ人が設立したものである〔4〕。スチュアートはこれらの事業で名を売り、それによって駐華大使になった。アチソンたちはちゃんと心得ているのであって、「中国にたいするアメリカの友情は、中米両国人民をむすぶ宗教、慈善事業および文化方面の紐帯によってたえず深められてきた」ということにはいわれがあるのである。一八四四年の条約調印のときからかぞえて百五年ものあいだ、アメリカは、ずっと下心をもってこれらの事業を経営してきたのであるが、これもすべて「友情を深める」ためだったということである。
八ヵ国連合軍にくわわって中国をうちやぶり、庚子賠償金を出させて、これを「中国学生の教育」につかい、精神的侵略をおこなったのも、これまた「友情」のあらわれの一つなのである。
治外法権は「撤廃」されたが、沈崇強姦事件の犯人がアメリカに帰り、アメリカ海軍省から無罪釈放をいい渡された〔5〕のも、これまた「友情」のあらわれの一つなのである。
「戦時および戦後の対華援助」は、白書によれば四十五億余ドル、われわれの統計によれば五十九億一千四百余万ドルであるが、これで蒋介石を助けて幾百万の中国人を殺したのも、これまた「友情」のあらわれの一つなのである。
百九年にわたって(一八四〇年の英米の協力によるアヘン戦争からかぞえて)アメリカ帝国主義が中国にしめしたすべての「友情」、とりわけここ数年らい蒋介石を助けて幾百万の中国人を殺したこの偉大な「友情」は、いずれも一つの目的、すなわち「門戸開放主義、中国の行政と領土の保全にたいする尊重、中国にたいするいかなる外国の支配にも反対等々をふくむ対華外交政策の各基本原則を終始維持し、現在も依然として維持する」ことにあった。
幾百万の中国人を殺したのは、ほかでもなく、第一には門戸を開放するためであり、第二には中国の行政と領土の保全を尊重するためであり、第三には中国にたいするいかなる外国の支配にも反対するためであった。
いまは広州、台湾などといったごく一部の地域の門戸だけがまだアチソンたちに開放されており、そこでは第一の神聖な原則が「依然として維持」されている。その他の地域、たとえば上海では、解放いらいもともと開放されていたのに、いまでは、だれかがアメリカの軍艦や軍艦にすえつけられた大砲をつかって、門戸封鎖というきわめて神聖でない原則を実行している。
いまは広州、台湾などといったごく一部の地域の行政と領土だけが、アチソンの第二の神聖な原則のおかげで、その「保全」を「依然として維持」している。その他の地域はすべて不運な目にあい、行政も領土もめちゃめちゃになっている。
いまは広州、台湾などといった地域だけが、第三の神聖な原則のおかげで、アメリカの支配をもふくめて「いかなる外国の支配しもすべて、アチソンたちの「反対」によってとりのぞかれ、そのために、いまなお中国人によって支配されている。のこりの国土は、語るも涙で、なにもかもおしまいになり、すべて外国人に支配され、中国人はことごとく奴隷にされている。ところで、どんな外国かということになると、アチソンさまも、ここまで書いておいて、それを指摘するゆとりがなかったようだが、しかし、あとはいわずと知れたことなので、問うまでもあるまい。
中国の内政に干渉しないということも、一つの原則になるのかどうか。アチソンはなにもいっていないが、おそらくならないのだろう。アメリカの旦那方の論理とは、こうしたものである。アチソン書簡の全文を読めば、この卓越した論理を立証することができるだろう。
〔1〕 ここでいう「治外法権」とは、領事裁判権のことである。これは、帝国主義侵略勢力が中国で奪した侵略的特権の一つである。いわゆる領事裁判権とは、中国に在住する帝国主義国の居留民が中国の法律による支配をうけないですむ権利のことで、かれらは中国で罪をおかし、あるいは民事訴訟の被告になっても、中国にある自国の領事裁判所の裁判をうけるだけで、中国政府は口出しができないことになっている。
〔2〕 「望廈条約」とは、アメリカによる中国侵略の最初の不平等条約である。アメリカは、アヘン戦争に敗れたのち中国がおかれていた状況を利用して、一八四四年七月、中国の清朝政府にせまって、澳門付近の望廈村で、「中米間五港通商章程」すなわち「望廈条約」を結ばせた。この条約は三十四ヵ条からなっているが、そのなかで、イギリスが南京条約とその付属文書のなかで手にいれたすべての特権をアメリカも享受することをさだめており、それには、アメリカが中国で領事裁判権をもつこともふくまれている。
〔3〕 この資料は、アメリカ人レマーの著書『中国における外国投資』第十五章からとったものである。
〔4〕 北平の燕京大学、協和医学院、北平と南京の匯文中学、上海のセント・ジョーンズ大学、南京の金陵大学、杭州の之江大学、蘇州の東呉大学、長沙の湘雅医学院、成都の華西協合大学、広州の嶺南大学のことである。
〔5〕 一九四六年十二月二十四日、アメリカ海兵隊の兵士ピアソンらは北平で北京大学の女子学生沈崇を強姦した。この事件は、アメリカ軍の暴行にたいする全国人民の大きな憤激をよびおこした。一九四七年一月、国民党政府は、人民の抗議をかえりみず、主犯ピアソンをアメリカ側にひき渡してその単独処理にまかせた。同年八月、アメリ力海軍省は、ピアソンの無罪釈放をいい渡した。
① 一九〇〇年、イギリス、フランス、日本、ロシア、ドイツ、アメリカ、イタリア、オーストリアなど八つの帝国主義国は、侵略に抗して立ちあがった中国人民の義和団運動を弾圧するため、連合して出兵し、中国を攻撃した。これにたいして、中国人民は英雄的な抵抗をおこなった。八ヵ国連合軍は大沽を攻略し、天津、北京を占領した。一九〇一年、清朝政府は、これら八つの帝国主義国と「辛丑条約」を結んだが、この条約は、中国が銀四億五千万両の賠償金を出すこと、利息は四厘とし、元利あわせて九億八千余万両を三十九ヵ年にわけて全部支払うことをさだめた。賠償金は、一九〇〇年すなわち清の光緒二十年、庚子の年から支払われたので、庚子賠償金とよばれた。
(一九四九年九月十六日)
中国人がアメリカブルジョア階級のスポークスマンであるアチソンに感謝しなければならないのは、アメリカが金と鉄砲を出し、蒋介石が人間を出して、アメリカのためにたたかい中国人を殺したという事実をアチソンがはっきり白状したため、中国の先進的な人びとが確証をもっておくれた人びとを説得できるようになったからだけではない。みたまえ、幾百万の中国人の命をうばったこの数年らいの大血戦は、アメリカ帝国主義が計画的にしくんだものだということを、アチソン自身が白状しているではないか。中国人がアチソンに感謝しなければならないのは、また、アメリカが中国のいわゆる「民主的個人主義」者をつのってアメリカの第五列をつくり、中国共産党の指導する人民政府をくつがえそうとしていることをアチソンが公然と言明したため、中国人、とりわけ、自由主義的色彩をおびた中国人が用心するようになり、みんながアメリカ人のわなにかからないようにと注意しあい、アメリカ帝国主義のひそかにすすめている陰謀活動をいたるところで警戒するようになったからだけではない。中国人がアチソンに感謝しなければならないのは、さらに、アチソンが中国の近代史についてでたらめをならべたてているからであり、しかもそのアチソンの歴史観が中国の一部の知識人とおなじ観点、すなわちブルジョア的な観念論的歴史観にほかならないからである。アチソンを反ばくすれば、広範な中国人に、視野をひろげるという利益をえさせることができる。アチソンとおなじ観点、あるいはいくつかの点でおなじ観点をもっている人びとにとっては、いっそう有益であろう。
アチソンがでたらめをならべたてた中国の近代史とは、どのようなものか。かれは、まず、中国の経済状況と思想状況から中国革命の発生を説明しようとこころみた。ここで、かれは数かずの神話を語っている。
アチソンはいう。「中国の人口は一八、一九の二世紀で二倍にふえ、そのため、土地にたえがたい圧力をあたえた。人民の食の問題は、どの中国政府もかならずつきあたる第一の問題である。こんにちにいたるまで、この問題を解決した政府はひとつもない。国民党は、その法典のなかに数かずの土地改革法令を書きこむことによって、この問題を解決しようとした。それらの法令は、あるものは失敗に終わり、あるものは無視された。国民政府がこんにちの苦境に立つにいたった大きな原因は、中国にじゅうぶんな食べ物を提供しえなかったことにある。中共の宣伝の大半は、土地問題を解決するという公約である。」
物事の道理にうとい一部の中国人には、いかにももっともらしく聞こえる。人口が多すぎる、食うものが足りない、そこで革命がおきる。国民党はこの問題を解決できなかったし、共産党とてもこの問題を解決できるとはかぎらない、「こんにちにいたるまで、この問題を解決した政府はひとつもない」というわけである。
革命がおきるのは、人口が多すぎるからだろうか。古今東西に革命はたくさんおきたが、それはすべて人口が多すぎたからだろうか。中国の数千年らいのたびかさなる革命も、人口が多すぎたからだろうか。アメリカの百七十四年前の反英革命〔1〕も、人口が多すぎたからだろうか。アチソンの歴史の知識はゼロも同然で、かれはアメリカの独立宣言すら読んでいない。ワシントン、ジェファーソンらが反英革命をおこしたのは、イギリス人がアメリカ人を抑圧し搾取したからであって、なにもアメリカの人口が過剰だったからではない。中国人民がこれまでいくども自国の封建王朝をくつがえしたのは、これらの封建王朝が人民を抑圧し搾取したからであって、なにも人口が過剰だったからではない。ロシア人が二月革命と十月革命をおこしたのは、ツァーとロシアブルジョア階級の抑圧、搾取によるのであって、なにも人口が過剰だったからではない。ロシアはいまなお人口にくらべて土地がはるかに多い。モンゴルはあんなに土地が広く、あんなに人口がすくないのだから、アチソンの理屈でいけば、革命がおきるとは到底考えられないのに、それがとっくの昔におきている〔2〕。
アチソンの論法でいけば、中国にはなんらの活路もない。人口が四億七千五百万もあるというのは、一種の「たえがたい圧力」であって、革命をやろうとやるまいと、とにかく大変なくとである。ここに、アチソンは大きな期待をよせている。その期待をかれは口に出していないが、いつもアメリカの多くの新聞記者がこれを漏らしている。つまり、中国共産党は自己の経済問題を解決することができない、中国はいつまでも大動乱がつづく、中国はアメリカの小麦粉にたよる以外には、すなわち、アメリカの植民地になる以外には活路がない、というのがそれである。
辛亥革命はなぜ成功しなかったのか、なぜ食の問題を解決できなかったのか。それは、辛亥革命が清朝政府をくつがえしただけで、帝国主義と封建主義の抑圧、搾取をくつがえさなかったからである。
北伐戦争はなぜ成功しなかったのか、なぜ食の問題を解決できなかったのか。それは、蒋介石が革命を裏切り、帝国主義に投降して、中国人を抑圧し搾取する反革命の頭目になったからである。
「こんにちにいたるまで、この問題を解決した政府はひとつもないしのだろうか。西北、華北、東北、華東など、すでに土地問題を解決した旧解放区にも、まだアチソンのいうような「食の問題」が存在しているだろうか。中国にいるアメリカのスパイやいわゆる観察家はすくなくないのに、どうしてこのようなことさえ探りだせないのだろうか。上海などの失業問題すなわち食の問題は、すべて帝国主義、封建主義、官僚資本主義および国民党反動政府の情け容赦のない残酷な抑圧と搾取がもたらしたものである。人民政府のもとでは、わずか数年の歳月をかけるだけで、華北、東北などの地方とおなじように、失業すなわち食の問題を完全に解決することができるのである。
中国の人口が多いのは、きわめて結構なことである。このうえ人口が同情にふえようとも、対策は完全にある。その対策とは生産にほかならない。西方のブルジョア経済学者たとえばマルサス〔3〕のたぐいのとなえる、食物の増加は人口の増加においつけないというようなでたらめな説は、はやくからマルクス主義者によって理論的にすっかり反ばくしつくされているばかりでなく、革命後のソ連や中国解放区の事実によっても完全に粉砕されている。革命プラス生産によって食の問題が解決できるという真理にもとづいて、中国共産党中央は、すでに、国民党のもとの要員のうち、なんらかの能力をもっていて、しかも反動の確証あるいはひどい行状のないものは、みな、整理しないでのこすよう、全国各地の共産党組織と人民解放軍に命じている。ひどく困難なときには、飯は分けあって食べ、家はつめあって住むようにする。すでに整理されて生活の道をうしなっているものについては、その決定をとり消して、食っていけるようにする。国民党軍のうち蜂起したもの、または捕虜になったものは、この原則にもとづいて、一律にうけいれる。主要な反動分子でないかぎり、罪を悔いあらためさえすれば、やはり生活の道をあたえなければならない。
世の中のあらゆるもののなかで、人間がいちばん大切なものである。共産党の指導のもとでは、人間さえいれば、この世のどんな奇跡でもつくりだすことができる。われわれはアチソンの反革命理論を反ばくするものであって、革命がすべてをあらためうること、人口の多い、物産のゆたかな、生活にゆとりのある、文化のさかえた新中国が遠からずやってくることを信じている。悲観的な論調はすべて、なんの根拠もない。
「西方の影響」、これがアチソンの説明する中国革命発生の第二の原因である。アチソンはいう。「中国自身の高い文化と文明は、三千余年にわたって発展してきたが、大体において外部からの影響をうけたことがなかった。中国人はたとえ武力で征服されても、最後にはいつも侵入者を手なづけ、同化してしまう。そこで、かれらはおのずと自己を世界の中心と考え、文明的人類の最高の体現者と考えるようになった。一九世紀の中頃になって、西方は、中国の孤立というそれまでは越えることのできなかった壁をつきやぶった。これらの外来者は、進取の精神をもたらし、比類ない発達をとげた西方の技術をもたらし、これまでの侵入者が一度も中国にもちこんだことのない高い文化をもたらした。ひとつにはこれらのことにより、ひとつには清朝の支配の衰退によって、西方人はたんに中国に同化きれなかったばかりか、動乱と不安をひきおこすうえに重要なはたらきをした数かずの新しい思想を紹介したのである。」
物事の道理にうとい一部の中国人には、アチソンのいうことがいかにももっともらしく聞こえる。西方の新しい観念が中国に輸入されて、革命をひきおこしたというわけである。
だれにたいする革命なのか。「清朝の支配が衰退」していたから、その弱点をついて、清朝にたいする革命をおこしたというのである。アチソンはここで、的はずれなことをいっている。辛亥革命は帝国主義にたいする革命であった。中国人が清朝にたいする革命をおこしたのは、清朝が帝国主義の手先だったからである。イギリスのアヘン侵略に反対する戦争、英仏連合軍の侵略に反対する戦争、帝国主義の手先清朝に反対する太平天国の戦争、フランスの侵略に反対する戦争、日本の侵略に反対する戦争、八ヵ国連合軍の侵略に反対する戦争、これらがすべて失敗に終わったので、またもや、帝国主義の手先清朝に反対する辛亥革命がおきた。これが辛亥の年にいたるまでの中国近代史である。アチソンのいう「西方の影響」とはなにか。マルクス、エンゲルスが『共産党宣言』(一八四八年)でのべているように、西方のブルジョア階級がテロの手段をもちい、自己の姿に似せて世界を改造したことである〔4〕。この影響または改造の過程で、西方のブルジョア階級は、買弁や西方の慣習につうじた下僕を必要としたため、やむなく中国のような国にも、学校の経営と留学生の派遣をゆるし、中国に「数かずの新しい思想を紹介する」ことになった。また、これにともなって、中国のような国の民族ブルジョア階級とプロレタリア階級もうまれてきた。それと同時に、農民が破産においこまれ、おびただしい半プロレタリア階級がうみだされた。このようにして、西方のブルジョア階級は、東方で二種類の人間をつくりだしたのである。そのひとつは少数者で、帝国主義につかえる下僕である。いまひとつは多数者で、帝国主義に抵抗する労働者階級、農民階級、都市小ブルジョア階級、民族ブルジョア階級およびこれらの階級出身の知識人である。これらはみな、帝国主義が自分のためにつくりだした墓堀人で、革命はこれらの人びとによっておこされた。なにも西方の思想の輸入が「動乱と不安」をひきおこしたのではなく、帝国主義の侵略が抵抗をひきおこしたのである。
この抵抗運動のなかでひじょうに長いあいだ、すなわち一八四〇年のアヘン戦争から一九一九年の五・四運動の前夜にいたる七十余年ものあいだ、中国人は、帝国主義にたちむかうことのできる思想的武器をなにひとつ持っていなかった。ふるくさい、かたくなな封建主義の思想的武器は戦いに敗れ、もちこたえることができず、破産を宣告された。そこで、中国人はやむをえず帝国主義の本家本元である西方ブルジョア階級の革命時代の兵器庫から、進化論、天賦人権説、ブルジョア共和国などの思想的武器や政治的構想を学びとって、政党をつくり、革命をおこし、これによって外には列強をふせぎ、内には共和国をうちたてることができると考えた。だが、これらのものも封建主義の思想的武器とおなじく、まことにひ弱いもので、これもまた、もちこたえることができず、敗北をなめ、破産を宣告された。
一九一七年のロシア革命は中国人をよびさまし、中国人はひとつの新しいものを学びとった。これがマルクス・レーニン主義である。中国に共産党がうまれた。これは歴史はじまっていらいの大きなできごとである。孫中山も、「ロシアを師とする」ことを提唱し、「連ソ、連共」を主張した。要するに、このときいらい、中国は方向を変えたのである。
アチソンは帝国主義政府のスポークスマンだから、もちろん、帝国主義については一言もふれたがらない。かれは帝国主義の侵略のことを、「外来者が進取の精神をもたらした」というふうにいっている。「進取の精神」――なんと美しいことばではないか。中国人は、こうした「進取の精神」を学んだが、イギリスあるいはアメリカにまで進取していったわけではなく、ただ、中国の国内で「動乱と不安」、つまり、帝国主義とその手先にたいする革命をひきおこしただけである。残念ながら、それはいちども成功せず、すべて「進取の精神」の発明者である帝国主義者にうち負かされてしまった。そこで、向きをかえてほかのものを学んだ。ところが、ふしぎにも、学ぶとてきめんに効果があらわれた。
「中国共産党は、二十年代のはじめ、ロシア革命の思想に推進されてうちたてられた」。アチソンのいうとおりである。この思想とは、ほかならぬマルクス・レーニン主義のことである。この思想は、アチソンのいう、西方ブルジョア階級の「これまでの侵入者がいちども中国にもちこんだことのない高い文化」にくらべて何倍高いかわからない。その効果のてきめんなことといったら、アチソンらが中国のふるくさい封建主義の文化にくらべて「高い文化」と自慢できたあの西方のブルジョア文化でさえ、中国人民が身につけたマルクス・し,ニン主義の新しい文化、すなわち科学的世界観と社会革命の理論にであうと、たちまちうちやぶられるほどである。中国人民が身につけた科学的、革命的な新しい文化は、その第一戦では帝国主義の手先北洋軍閥をうちやぶり、第二戦では帝国主義のもうひとりの手先蒋介石が二万五千華里の長征途上にある中国赤軍にくわえた阻止攻撃をうちやぶり、第三戦では日本帝国主義とその手先汪精衛をうちやぶり、第四戦ではアメリカおよびすべての帝国主義の中国における支配と、その手先蒋介石などあらゆる反動派の支配に最後のとどめをさしたのである。
マルクス・レーニン主義が中国にきてこれほど大きな役割をはたしたのは、中国の社会的条件がそれを必要としたからであり、それが中国の人民革命の実践と結びついたからであり、また中国人民によって把握されたからである。どのような思想でも、もし客観的、実際的な事物と結びつかず、客観的な存在によって必要とされず、人民大衆によって把握されないとしたら、たとえ、最良のものであり、マルクス・レーニン主義であっても、その役割をはたすことはできない。われわれは、史的観念論に反対する史的唯物論者である。
まことにふしぎなことには、「ソビエトの学説と実践は、孫中山先生の思想と原則にたいし、とりわけ経済の面と党組織の面でかなりの影響をあたえている」。では、アチソンらが自慢している西方の「高い文化」は孫先生にどのような影響をあたえたか。アチソンはなにもいっていない。孫先生は生涯の大半をかけて、西方のブルジョア文化のなかに救国の真理をさがしもとめたが、けっきょく失望し、一転して「ロシアを師とする」ようになった。これは偶然のできごとだっただろうか。あきらかにそうではない。孫先生と、先生に代表される苦難のなかの中国人民が、いっせいに「西方の影響」に憤激して、「連ソ、連共」を決意し、帝国主義やその手先との必死のたたかいを決意したのは、もちろん偶然のことではない。ここでは、アチソンも、ソ連人は帝国主義的侵略者であり、孫中山は侵略者から学んだ、とまではいいきれなかった。よろしい、それならば、孫中山はソ連人に学んでもよく、ソ連人は帝国主義的侵略者でもないのに、なぜ、孫中山の継承者である孫中山没後の中国人はソ連人から学んではいけないのか。孫中山以外の中国人がマルクス・レーニン主義から科学的世界観と社会革命の理論を学び、これを中国の特徴と結びつけ、中国の人民解放戦争と人民大草命をおこし、人民民主主義独裁の共和国をうちたてたら、なぜ、これが「ソ連の支配をうける」とか、「コミンテルンの第五列」とか、「赤色帝国主義の手先」とかいうことになるのか。世の中に、これほどりっぱな論理がまたとあるだろうか。
マルクス・レーニン主義を身につけていらい、中国人は、精神的に受動の立場から主動の立場に転じた。このときをさかいに、近代の世界史上で、中国人をみくだし、中国文化をみくだしていた時代は終わりをつげたはずである。勝利にかがやく偉大な中国の人民解放戦争と人民大革命は、中国人民の偉大な文化をすでに復興させたし、げんに復興させつつある。この中国人民の文化は、その精神的な面からいえば、すでに資本主義世界全体をしのいでいる。たとえば、アメリカの国務長官アチソンのたぐいにしても、現代の中国と現代の世界にたいする認識の程度は、中国人民解放軍の普通の兵士の水準以下である。
このあたりまで、アチソンは、ブルジョア大学の教授がくだらない教科書の講義をするような格好で、かれが中国におきたできごとの因果関係を追求していることをしめしてきた。中国に革命がおきた原因は、一つには人口が多すぎたこと、二つには西方の思想による刺激があったことだという。みたまえ、まるで因果読者のようである。だが、すぐつぎには、かれのこのくだらない、まがいものの因果論さえ姿をけし、わけのわからぬできごとがどっさりと持ちだされるのである。中国人というものは、あのとおり、なんの理由もなく権力や利益を争い、たがいに疑い憎みあう。たたかっている国民党と共産党の双方の精神的な力関係にわけのわからぬ変化が生じ、一方は極端にさがって零度以下になり、一方は極端にあがって熱狂の程度にまでたっした。原因はなにか。だれにもわからない。――これが、アチソンに代表されるアメリカの「高い文化」に固有の論理なのである。
〔1〕 一七七五年から一七八三年まで、北アメリカの人民がイギリスの植民地支配に反対しておこなったブルジョア革命、すなわち独立戦争のことである。
〔2〕 一九二一年から一九二四年にいたるモンゴル人民の解放闘争のことである。この闘争で、モンゴル人民革命党は、モンゴル人民を指導して、日本帝国主義をうしろだてとする白系ロシア匪賊軍と中国の北洋軍閥をおいはらい、モンゴルの封建支配をくつがえして、モンゴル人民共和国をうちたてた。
〔3〕 トーマス・ロバート・マルサスは、一八世紀末から一九世紀のはじめのころのイギリス国教教会派の牧師で、反動的経済学者である。マルサスの『人口論』は、一七九八年にはじめて発表された。かれは、「人口は、抑制されないかざり、幾何級数的に増加する。だが、生活物資は算術級数的にしか増加しない」という独断から出発して、人類社会のあらゆる貧困と罪悪を永久的な自然現象とみなした。かれの見解によれば、勤労者を貧困からまぬかれさせるには、かれらの生命をちぢめるか、人口を減らすか、あるいはその増大をおさえるかするほかはない。かれの考えでは、飢饉、疫病、戦争はみな、人口を減らす手段である。
〔4〕 『共産党宣言』第一章「ブルジョアとプロレタリア」にみられる。すなわち、ブルジョア階級は、「すべての民族に、滅亡したくなければ、ブルジョア階級の生産様式を採用するように強制する。かれらは、すべての民族に、いわゆる文明を自国にとりいれること、すなわちブルジョプになることを強制する。一言でいえば、ブルジョア階級は、自己の姿に似せて一つの世界をつくりだすのである」とのべられている。