毛沢東
外文出版社 北京(1968年初版を電子化)
一 本訳書は北京人民出版社一九六四年九月出版の『毛沢東選集』第一巻から第四巻までの完訳である。各論文の解題と注釈もこの版から訳出したものである。一 注釈は底注と訳注にわかれ、原注は漢数字を〔 〕でかこみ(電子版は漢数字ではなく、半角数字を〔 〕で囲んでいる)、各論文の末尾においた。訳注は訳者がくわえたもので、算用数字を○(電子版では機種依存文字である①などで表現)でかこみ、原注のあとにおいた。一 度量衡、通貨、行政区画については、一部をのぞいてすべて原文のままの単位を用い、訳注を付した。一 読み仮名は、《 》で囲まれた範囲で示される。一 第二水準で表現できない漢字は、基本的に[片+旁]で表現した。それ以外の表現も、適宜[ ]内で記した。一 本電子版はMS IMEを用いて作成された。一 傍点のある部分は” #“と”# “で囲み、電子版では太字の部分は” ##“と”## “で囲んだ。一 原文では旧字体などで表現されていても、電子版で表現できないなどの理由により新字体で表現しているところがある。例えば、蒋介石は原文では旧字体だが、電子版では新字体である。
(一九三七年七月二十三日)
一九三七年七月七日、日本帝国主義は、全中国を武力で{併呑|へいどん}しようとくわだてて、蘆溝橋事変をひきおこした。全国の人民は、日本と戦うことを一致して要求した。蒋介石は事変発生後十日もしてやっと廬山で談話を発表し、対日抗戦を宣言した。これは全国人民の圧力によると同時に、日本侵略者の行動が中国におけるイギリス、アメリカ帝国主義の利益と、蒋介石の直接代表する大地主・大ブルジョア階級の利益に重大な打撃をあたえたことにもよるのである。だが、この時でも、蒋介石政府は、依然として日本侵略者と交渉をつづけ、日本侵略者と地方当局とのあいだでとりきめたいわゆる平和的解決の方案さえうけいれた。そして、八月十三日、日本侵略者が大挙上海に進攻し、中国東南部における蒋介石の支配的地位がどうにも維持できなくなったとき、はじめて、やむなく抗戦を実行した。だが、その後、一九四四年にいたるまで、蒋介石は日本侵略者との秘密裏の和平交渉を、終始やめたことがなかった。抗日戦争の全期間、蒋介石は「ひとたび戦端がひらかれれば、土地に南北の別なく、人に老若の別なく、なにびともみな国土をまもるために抗戦する責務がある」というかれの廬山談話のなかの言明を完全に裏切って、人民総動員の全面的な人民戦争に反対し、抗日には消極的、反共、反人民には積極的、という反動政策をとった。毛沢東同志がこの論文でのべている二つの方針、二つの方法、二つの前途こそ、抗日戦争における共産党の路線と、もう一つの蒋介石の路線との闘争をあきらかにしたものである。
中国共産党中央委員会は、蘆溝橋事変〔1〕の翌日、七月八日、全国に抗戦をよびかける宣言を発表した。宣言ではつぎのようにのべている。
「全国の同胞諸君。北平、天津があぶない。華北があぶない。中華民族があぷない。われわれの活路は全民族による抗戦の実行以外にはない。われわれは、進攻してきた日本軍にただちに断固抵抗するとともに、あらたな大事変にただちに対処する準備をするよう要求する。全国のすべてのものが、上下の別なく、日本侵略者と和睦して一時の安泰をもとめるいかなる考えをもただちに捨てさるべきである。全中国の同胞諸君。われわれは、馮治安部隊の勇敢な抗戦を称賛し支持すべきである。われわれは、国土と存亡をともにするという華北当局の宣言を称賛し支持すべきである。われわれは、宋哲元将軍に、ただちに第二十九軍〔2〕の全部隊を動員し、前線におもむいて応戦するよう要求する。われわれは南京の中央政府につぎのことを要求する。第二十九軍を確実に援助すること、また、ただちに全国民衆の愛国運動の禁止を解除し、民衆の抗戦意欲をたかめること、応戦準備のため、ただちに全国の陸海空軍を動員すること、後方をかためるため、ただちに中国国内にびそんでいる民族裏切り者、売国奴および日本侵略者のすべてのスパイを一掃することである。われわれは、全国人民に、全力をあげて神聖な抗日自衛戦争を援助するよう要求する。われわれのスローガンはつぎのとおりである。北平、天津と華北を武力で防衛しよう。国土防衛のため最後の血の一滴までささげよう。全中国の人民、政府、軍隊は団結して、民族統一戦線の強固な長城をきずき、日本侵略者の侵略に抵抗しよう。国共両党は親密に協力し、日本侵略者のあらたな進攻に抵抗しよう。日本侵略者を中国から駆逐しよう。」
これが方針の問題である。
七月十七日、蒋介石氏は廬山で談話を発表した。この談話は、抗戦するという方針を確定したもので、国民党が多年らい対外問題でおこなってきたもののうち最初の正しい宣言であり、したがって、われわれと全国同胞から歓迎されている。この談話は蘆溝橋事件を解決する四つの条件をあげている。
「(一)中国の王権および領土の保全を侵害するどのような解決策もゆるさない。(二)河北省、察哈爾省の行政機構には、どのような不法な変更をくわえることもゆるさない。(三)中央が派遣した地方官吏は他から要求されるままに免職させてはならない。(四)第二十九軍の現駐屯地区についてはどのような制限もくわえてはならない。」この談話は、その結語でつぎのようにのべている。
「政府は、蘆溝橋事件について、すでに一貫した方針と立場を確定した。全国が応戦してからの情勢はあきらかである。けっして万一をたのみにてきるはずはなく、最後まで犠牲をはらうのみである。ひとたび戦端がひらかれれば、土地に南北の別なく、人に老若の別なく、なにびともみな国土をまもるために抗戦する責務がある。」
これが方針の問題である。
以上は、国共両党の蘆溝橋事変にたいする歴史的意義をもつ二つの政治宣言である。この二つの宣言の共通点は、妥協、譲歩に反対し、断固抗戦を主張していることである。
これは、日本の進攻に対処する第一の方針であり、正しい方針である。
ところが、第二の方針がとられる可能性もある。最近数ヵ月らい、北平、天津一帯の民族裏切り者および親日派分子は、日本の要求にこたえて、断固抗戦の方針をぐらつかせ、妥協と譲歩を主張して、北平、天津当局に圧力をくわえようとさかんに策動している。これは非常に危険な現象である。
このような妥協、譲歩の方針は、断固抗戦の方針と根本的に矛盾する。このような妥協、譲歩の方針が早急にあらためられないなら、北平、天津および華北はことごとく敵の手中におちいり、全民族は絶大な脅威をうけるであろう。これは、すべての人びとが十分に注意しなければならないことである。
第二十九重の愛国的な全将兵は団結して、妥協、譲歩に反対し、断固抗戦を実行せよ。
北平、天津および華北の愛国的な全同胞は団結して、妥協、譲歩に反対し、断固抗戦を支持せよ。
全国の愛国的な同胞は団結して、妥協、譲歩に反対し、断固抗戦を支持せよ。
蒋介石氏およびすべての愛国的な国民党員諸君。諸君が自己の方針を堅持し、自己の公約を実行し、妥協、譲歩に反対し、断固抗戦を実行し、事実をもって敵の侮辱にこたえるよう希望する。
赤軍をふくめた全国の軍隊は、蒋介石氏の宣言を支持し、妥協、譲歩に反対し、断固抗戦を実行せよ。
共産党員は、心を一つにして、自己の宣言を忠実に実行すると同時に、蒋介石氏の宣言を断固として支持するものであり、国民党員および全国の同胞とともに、国土防衛のために最後の血の一滴までもささげ、あらゆるためらい、動揺、妥協、譲歩に反対し、断固抗戦を実行するものである。
断固抗戦という方針のもとに、その目的をたっするには、ぜひとも一連の方法が必要である。どのような方法か。主要なものとしては、つぎのとおりである。
(一)全国の軍隊の総動員。陸海空軍をふくみ、中央軍、地方軍、赤軍をふくむわれわれの二百数十万の常備軍を動員し、一部を治安維持のため後方にのこして、主力をただちに国防の前線に出動させる。民族の利益に忠実な将領を各方面の指揮員に委嘱する。戦略方針を決定し、戦闘の意志を統一するため、国防会議を招集する。将兵の一致、軍民の一致をはかるため、軍隊の政治工作を改革する。遊撃戦争が戦略的任務の一方面をうけもつことを確認して、遊撃戦争を正規の戦争に呼応させる。軍隊内の民族裏切り分子を粛清する。一定数の予備軍を動員して、訓練をほどこし、前線におくる準備をする。軍隊の装備と給養を合理的に補給する。断固抗戦という総方針にもとづいて、以上各項の軍事計画をたてなければならない。中国の軍隊はすくなくないが、上述の計画を実行しなければ、敵にうち勝つことはできない。政治的条件を物質的条件とむすびつけるなら、われわれの軍事力は東亜において無敵となるであろう。
(二)全国人民の総動員。愛国運動の禁止をとき、政治犯を釈放し、「民国破壊活動緊急処罰法」〔3〕および「新聞検閲条例」〔4〕を廃止し、現存する愛国団体の合法的地位をみとめ、愛国団体の組織を労働者、農民、商工業者、知識層などの各界にひろげ、民衆を武装化して、自衛させるとともに、軍隊の作戦に呼応させる。一言でいえば、人民に愛国の自由をあたえることである。人民の力が軍事力とむすびつけば、日本帝国主義に致命的な打撃をあたえるであろう。民族戦争であっても人民大衆に依拠しなければ、勝利をかちとれないことは、なんら疑う余地がない。エチオピアの失敗〔5〕が、よいいましめである。心底から断固抗戦するのであるなら、この点をゆるがせにしてはならない。
(三)政治機構の改革。各党各派と人民の指導者を政府にいれて、いっしょに国事をつかさどり、政府のなかにひそんでいる親日派や民族裏切り分子を一掃して、政府と人民とを結合させる。抗日は大仕事で、少数のものではけっしてやりおおせるものではない。しいてやればことをしそんじるだけである。政府がほんとうの国防政府であれば、かならず民衆に依拠し、民主集中制を実行するものでなければならない。それは民主的でもあれば、また集中的でもあり、このような政府こそもっとも強力な政府である。国民大会は、ほんとうに人民を代表すべきものであり、最高の権力機関であるべきで、国家の根本的な政策と方針をつかさどり、抗日救国の政策と計画を決定しなければならない。
(四)抗日の外交。日本帝国主義者にはいかなる利益も便宜もあたえてはならず、反対に、その財産を没収し、その債権を無効にし、その手先を一掃し、そのスパイを駆逐しなければならない。ただちに、ソ連と軍事的、政治的同盟をむすんで、中国の抗日をもっともよくたすけてくれる、もっとも信頼のおける、もっとも有力なこの国と緊密に連合する。われわれの抗日にたいするイギリス、アメリカ、フランスの支持をかちとり、領土・主権をうしなわないことを前提として、その援助をかちとる。日本侵略者にうち勝つには、主として自己の力によるべきであるが、外国からの援助も欠くことができない。孤立政策は敵を有利にするものである.
(五)人民生活改善の綱領を公布し、ただちにその実行にとりかかること。苛酷で雑多な税金の廃止、小作料の引き下げ、高利貸しの制限、労働者の待遇改善、兵士と下級将校の生活改善、下級職員の生活改善、災害や飢きんの救済など、こうした最低限度のことからやりはじめる。これらの新政策は、人民の購買力をたかめ、市場を繁栄させ、金融を活発にするものであって、けっして、一部の人のいうように、国家の財政を逼迫させるものではない。これらの新政策は、抗日の力を無限にたかめ、政府の基礎をかためるであろう。
(六)国防教育。これまでの教育方針と教育制度を根本的に改革する。不急の事業や不合理な施策は、すべて廃止する。新聞、出版、映画、演劇、文学・芸術などは、すべて国防上の利益に合致させる。民族裏切り者のおこなう宣伝を禁止する。
(七)抗日の財政経済政策。金のあるものは金を出し、日本帝国主義者と民族裏切り者の財産は没収するという原則のうえに財政政策をうちたて、日本商品を排斥し国産品を奨励するという原則のうえに経済政策をうちたて、すべてのことは抗日のためにおこなう。貧困は、あやまった施策からうまれたもので、人民の利益に合致した新しい政策がとられれば、貧困などはけっしてありえない。このように土地が広く、人口の多い国で、財政経済上どうにもならないというのは、まったく理屈にあわない話である。
(八)全中国の人民、政府、軍隊が団結して、民族統一戦線という強固な長城をきずくこと。抗戦の方針と上述の各項の政策を実行するにあたっては、この連合戦線に依拠する。中心の鍵は国共両党の親密な協力にある。政府、軍隊、全国の各政党、全国人民は、この両党の協力を基礎として団結する。「まごころをもって団結し、ともに国難にあたれ」というスローガンを、耳ざわりよくしゃべりたてるだけでなく、りっぱにやってのけなければならない。団結は、ほんとうの団結でなければならず、うそをいったり、だましたりするのはいけない。仕事をするにはすこしおおらかな方がよく、風格はすこし高い方がよい。細かいそろばんはじきや小細工、官僚主義や阿Q主義①は、実際にはなんの役にもたたない。こうしたものは、敵にあたる場合にもつかえないのに、同胞にたいしてつかうのは、まったくおかしいことである。物事には大きな道理と小さな道理があるが、小さな道理はすべて大きな道理に支配される。国民は大きな道理にもとづいて物事をよく考えなければ、自分の考え方ややり方を、しかるべきところに位置づけることはできない。こんにち、団結という二字にたいしてすこしでも誠意をしめすことのできないものは、たとえほかからののしられなくても深夜しずかに胸に手をあてて考えれば、いささか恥じるところがあるはずである。
断固抗戦を実現するためのこの一連の方法は、八大綱領といってもよい。
断固抗戦という方針には、この一連の方法がともなわなければならない。そうでなければ、抗戦は勝利することはできず、日本はいつまでも中国を侵略するし、中国はいつまでも日本をどうすることもできなくなり、エチオピアの二の舞いもさけるれないであろう。
断固抗戦という方針に誠意をもつものは、かならずこの一連の方法を実行しなければならない。断固抗戦に誠意をもっているかどうかをたしかめるには、その人がこの一連の方法をとり、実行する気があるかどうかを見ることである。
このほかにもなお一連の方法があるが、それは、いまのべた一連の方法とはことごとに反対のものである。
軍隊を総動員するのではなく、軍隊を動員しないか、または後方へ撤退させるのである。
人民に自由をあたえるのではなく、人民に圧迫をくわえるのである。
民主集中制の国防的性質をもった政府ではなく、官僚、買弁、豪紳、地主の専制政府である。
抗日の外交ではなく、日本にこびる外交である。
人民の生活を改善するのではなく、いままでどおりに人民を抑圧搾取し、人民を苦痛にあえがせ、抗日する力を失わせるのである。
国防の教育ではなく、亡国の民の教育である。
抗日のための財政経済政策ではなく、いままでどおりか、いままでよりいっそうひどくさえある、自国にとっては無益で敵にとっては有益な財政経済政策である。
抗日民族統一戦線という長城をきずくのではなく、この長城をうちこわすか、または面従腹背し、やる気がないのに「団結」についてひとしきりしゃべりたてるだけである。
方法は方針からでてくるものである。方針が無抵抗主義であれば、方法もすべて無抵抗主義を反映する。このことについては、すでに六年間の教訓がある。方針が断固抗戦であるなら、その方針に合致した一連の方法を実行しなければならず、この八大綱領を実行しなければならない。
前途はどうなるか。これは、みんなが心配していることである。
第一の方針を実行し、第一の方法をとるなら、かならず、日本帝国主義を駆逐し、中国の自由と解放を実現する前途がえられる。この点について、まだ疑問があるだろうか。わたしは疑問はないとおもう。
第二の方針を実行し、第二の方法をとるなら、かならず、日本帝国主義が中国を占領し、中国人民がみな牛馬や奴隷になるという前途がえられる。この点について、まだ疑問があるだろうか。わたしはこれも疑問はないとおもう。
かならず第一の方針を実行し、第一の方法をとり、第一の前途をたたかいとらなければならない。
かならず第二の方針に反対し、第二の方法に反対し、第二の前途をさけなければならない。
すべての愛国的な国民党員と共産党員は団結して、断固第一の方針を実行し、第一の方法をとり、第一の前途をたたかいとり、断固第二の方針に反対し、第二の方法に反対し、第二の前途をさけなければならない。
全国の愛国的な同胞、愛国的な軍隊、愛国的な政党は、一致団結して、断固第一の方針を実行し、第一の方法をとり、第一の前途をたたかいとり、断固第二の方針に反対し、第二の方法に反対し、第二の前途をさけなければならない。
民族革命戦争万歳!
中華民族解放万歳!
〔1〕 蘆溝橋は北京市街区から西南十余キロのところにある。一九三七年七月七日、日本侵略軍がここで中国の駐屯軍を攻撃した。中国の駐屯軍は全国人民の激しい抗日の波におされて、抵抗に立ちあがった。中国人民の八年間にわたる英雄的な抗戦はここからはじまった。
〔2〕 第二十九軍は、もと馮玉洋統率下の国民党西北軍の一部で、当時河北省と察哈爾省一帯に駐屯していた。宋哲元はこの軍の軍長、馮治安はこの車の師団長のひとりであった。
〔3〕 一九三一年一月三十一日、自民党政府は、「民国にたいする破壊活動」という罪名を愛国的人民や革命家にたいする迫害と殺戮の口実とするため、いわゆる「民国破壊活動緊急処罰法」を公布した。この法律による迫害はきわめて残酷なものであった。
〔4〕 「新聞検閲条例」とは、国民党政府が人民の言論を抑圧するため一九三四年八月に制定した「新聞検閲辧法六綱」をさす。それには「新聞原稿はかならず検閲をうけなければならない」と規定されている。国民党支配区の新聞に発表される記事は、すべて発行前に原稿を国民党の検閲官におくって、検閲をうけなければならない。検閲官は勝手に削除、差し止めをすることができるというものである。
〔5〕 本題集第一巻の『抗日の時期における中国共産党の任務』(八)にみられる。
① 本選集第一巻の『抗日の時期における中国共産党の任務』注〔14〕を参照。
(一九三七年八月二十五日)
これは、毛沢東同志が一九三七年八月、中国共産党中央委員会の宣伝部門のために書いた宣伝扇動要綱である。この要綱は、当時、陝西省北部の洛川でひらかれた中国共産党中央委員会政治局の拡大会議で採択された。
(イ)七月七日の蘆溝橋事変は、日本帝国主義の中国中心部にたいする大がかりな進攻の始まりである。蘆溝橋の中国軍の抗戦は、中国の全国的な抗戦の始まりである。日本侵略者のとどまることのない進攻、全国人民の断固たる闘争、民族ブルジョア階級の抗日への傾斜、また中国共産党の抗日民族統一戦線政策についての熱心な提唱と断固たる実行およびその政策が全国の支持をえたことによって、「九・一八」①いらいの中国支配当局の対日不抵抗政策は、蘆溝橋事変ののち抗戦を実行する政策に転換しはじめ、一二・九運動②いらいの中国革命の発展の情勢は、内戦を停止し抗戦を準備する段階から、抗戦を実行する段階に移行した。西安事変③と国民党中央執行委員会第三回全体会議を起点として、国民党が政策上の転換をはじめ、さらに蒋介石氏が七月十七日廬山で抗日についての談話を発表し、またかれが国防の面で多くの措置をとったことは称賛にあたいする。陸軍、空軍、地方部隊をとわず、前線のすべての軍隊は勇敢に抗戦をすすめ、中華民族の英雄的気概をしめしている。中国共産党は最高の熱意をこめて、全国のあらゆる愛国的軍隊、愛国的同胞に民族革命のあいさつをおくるものである。
(ロ)しかし他方では、七月七日の蘆溝橋事変以後も、国民党当局はあいかわらず「九・一八」いらいのあやまった政策をとりつづけ、妥協と譲歩をおこない〔1〕、愛国的軍隊の積極性をおさえつけ、愛国的人民の救国運動をおさえつけている。日本帝国主義は、北平、天津を奪いとったのち、その野蛮な武力をたのみにし、ドイツ、イタリア両帝国主義の声援に力をかり、イギリス帝国主義の動揺を利用し、中国国民党の広範な勤労大衆からの遊離を利用して、全華北地方とその他の各地に猛烈な進攻をおこなう第二歩、第三歩の予定作戦計画を実行するというように、これからも大規模な進攻の方針をとりつづけることは、すこしも疑う余地がない。察哈爾、上海などにはすでに戦いの炎がもえあがっている。祖国を滅亡の危機から救い、強力な侵略者の進攻に抵抗し、華北地方と沿海地方を防衛し、北平、天津と東北地方を奪回するためには、全国人民と国民党当局は、東北地方と北平、天津をうしなった教訓、エチオピア滅亡の前例、ソ連がかつて外敵に勝利した歴史〔2〕、スペインがいま成功裏にマドリードを防衛している〔3〕経験を深く認識し、かたく団結して祖国防衛のために最後までたたかわなければならない。今後の任務は、「すべての力を動員して抗戦の勝利をかちとる」ことであり、その鍵は国民党が政策を全面的、徹底的に転換することである。抗戦問題での国民党の進歩は称賛にあたいするもので、これは中国共産党と全国人民が多年望んでいたことであり、われわれはこのような進歩を歓迎する。しかし国民党の政策は、民衆を動員すること、政治を改革することなどの問題では、依然としてすこしも転換していない。人民の抗日運動にたいしては、依然として基本的にその禁を解こうとせず、政府機構にたいしては、依然として原則的な改造をくわえようとせず、人民の生活にたいしては、依然として改善の方針をとらず、共産党にたいする関係でも、誠意をもって協力するところまでいっていない。このような国家民族の存亡の瀬戸ぎわにたって、もし国民党がまだこうした政策を固執し、早急に転換しようとしないなら、抗日戦争をきわめて不利にするであろう。一部の国民党員は、抗戦に勝利してから政治改革をおこなうといっている。かれらは、政府だけの抗戦で日本侵略者にうち勝つことができるとおもっているが、これはあやまりである。政府だけの抗戦では、個々の勝利がいくらか得られるだけで、徹底的に日本侵略者にうち勝つことは不可能である。徹底的に日本侵略者にうち勝つには、全面的な民族抗戦をするほかはない。しかし、全面的な民族抗戦を実現するには、国民党がその政策を全面的、徹底的に転換しなければならず、全国が上から下まで共同して徹底的抗日の綱領を実行しなければならない。その抗日綱領が、第一次国共合作のさい孫中山先生のみずから制定した革命的三民主義と三六政策④の精神にもとづいて提起された救国綱領である。
(ハ)中国共産党は、あふれるばかりの熱意をもって中国国民党、全国人民、全国の各党、各派、各界、各軍にたいし、徹底的に日本侵略者にうち勝つための十大救国綱領を提起する。中国共産党は、祖国を防衛し日本侵略者にうち勝つ目的をたっするには、この綱領を完全に、誠意をもって、断固遂行する以外にないものと確信している。そうではなく、旧套を固執して時機を失するならば、その責任を問われることになる。全国が滅びさってからでは、いかに悔いようともとりかえしはつかない。十大救国綱領はつぎのとおりである。
日本と国交を断絶し、日本の官吏を駆逐し、日本のスパイを逮捕し、中国にある日本の財産を没収し、日本にたいする債務を否認し、日本と締結した諸条約を破棄し、すべての日本租界を回収する。
華北地方と沿海各地を防衛するため、最後まで血戦をおこなう。
北平、天滓と東北地方を奪回するため、最後まで血戦をおこなう。
日本帝国主義を中国から駆逐する。
いかなる動揺、妥協にも反対する。
全国の陸海空軍を動員し、全国的抗戦をおこなう。
単純防御の消極的な作戦方針に反対し、独立自主の積極的な作戦方針をとる。
常設の国防会議をもうけ、国防計画と作戦方針を討議、決定する。
人民を武装化し、抗日遊撃戦争を発展させて、主力軍の作戦に呼応させる。
軍隊の政治工作を改革し、指揮員と戦闘員を一致団結させる。
軍隊と人民を一致団結させ、軍隊の積極性を発揮させる。
東北抗日連合軍を援助し、敵の後方を破壊する。
抗戦の軍隊にはすべて、平等な待遇をする。
全国各地に車管区をもうけ、全民族を動員して戦争に参加させる。こうして、しだいにやとい兵制度を義務兵役制度にきりかえていく。
民族裏切り者をのぞく全国の人民はすべて、抗日救国のための言論、出版、集会、結社および武力抵抗の自由をもつ。
人民の愛国運動をしばるすべてのふるい法令を撤廃し、革命的な新しい法令を公布する。
すべての愛国的、革命的な政治犯を釈放し、政党禁止を解除する。
力のあるものは力をだし、金のあるものは金をだし、武器のあるものは武器をだし、知識のあるものは知識をだすというように、全中国の人民を動員し、武装化し、抗戦に参加させる。
民族自決と自治の原則のもとに、共同して抗日をおこなうよう、蒙古族、回族、その他の少数民族を動員する。
真に人民を代表する国民大会を招集して、真の民主的憲法を採択し、抗日救国の方針をきめ、国防政府を選挙する。
国防政府は、各党各派および人民団体のなかの革命的な人びとを吸収し、親日分子を追放すべきである。
国防政府は、民主的でもあり集中的でもあるという民主集中制をとる。
国防政府は、抗日救国の革命的政策を実施する。
地方自治を実行し、汚職官吏を一掃し、廉潔な政府を樹立する。
日本の侵略主義に反対するすべての国ぐにと、領土・主権をうしなわない範囲で、反侵略同盟および抗日軍事相互援助協定をむすぶ。
国際平和戦線を支持し、ドイツ、日本、イタリアの侵略戦線に反対する。
朝鮮および日本国内の労農人民と連合して日本帝国主義に反対する。
財政政策は、金のあるものは金をだす、民族裏切り者の財産を没収して抗日の費用にあてる、ということを原則とする。経済政策は、国防生産を整備拡大し、農村経済を発展させ、戦時生産品の自給を保証する。国産品の使用を提唱し、地方物産を改良する。日本商品を禁絶し、不正商人をとりしまり、投機や市場操縦に反対する。
労働者、職員、教員、抗日軍人の待遇を改善する。
抗日軍人の家族を優遇する。
苛酷で雑多な税金を廃止する。
小作料と利子を引き下げる。
失業者を救済する。
食糧の供給を調整する。
災害と飢きんの救済をする。
教育におけるふるい制度、ふるい課程をあらため、抗日救国を目標とする新しい制度、新しい課程を実施する。
国民党と共産党の協力を基礎に、全国の各党、各派、各界、各軍の抗日民族統一戦線を樹立して抗日戦争を指導し、誠心誠意団結をはかってともに国難にあたる。
(ニ)政府だけの抗戦という方針をすてて、全面的な民族抗戦の方針を実現しなければならない。政府は、人民と団結し、孫中山先生のすべての革命精神を復活させ、上述の十大綱領を実行し、抗日戦争の徹底的な勝利をたたかいとらなければならない。中国共産党とその指導する民衆および武装力は、上述の綱領にもとづいて抗日の最前線に立ち、祖国の防衛のために最後の血の一滴まで流してたたかうことを決意している。中国共産党は、自己の一貫した方針のもとに、中国国民党および全国の他の諸政党とおなじ戦線に立ち、手をたずさえて団結し、民族統一戦線のかたい長城をきずき、極悪な日本侵略者にうち勝ち、独立、自由、幸福の新中国のためにたたかうことをねがうものである。この目的をとげるためには、民族裏切り者の投降・妥協の理論に断固反対すると同時に、日本侵略者に勝てないと考える民族敗北主義にも断固反対しなければならない。中国共産党は、上述の十大綱領が実現されれば、日本侵略者にうち勝つ目的はかならず達成できるものと確信している。四億五千万の同胞が一致して努力しさえすれば、最後の勝利は中華民族のものである。
日本帝国主義をうちたおせ!
民族革命戦争万歳!
独立、自由、幸福の新中国万歳!
〔1〕 本巻の『日本の進攻とたたかう方針、方法および前途』の解題を参照。
〔2〕 『ソ連共産党(ボリシェビキ)歴史小教程』第八章を参照。
〔3〕 一九三六年、ドイツ、イタリアのファシストは、スペインのファシスト軍閥フランコを利用して、スペイン侵略戦争をおこした。スベィン人民は、人民戦線政府の指導のもとに、民主主義をまもり侵略に反対する英雄的な抵抗戦争をおこなった。この戦争で、もっとも激烈な戦いがおこなわれたのは首都マドリードの防衛戦である。マドリード防衛の戦争は、一九三六年十月から、前後二年五ヵ月にわたって堅持された。イギリス、フランスなどの帝国主義諸国がいつわりの「不干渉」政策なるものによって侵略者をたすけたこと、それに人民戦線の内部に分裂が生じたことによって、マドリードは一九三九年三月に陥落した。
① 本選集第一巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』注〔4〕を参照。
② 本選集第一巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』注〔8〕を参照。
③ 本選集第一巻の『蒋介石の声明についての声明』注〔1〕を参照。
④ 本選集第一巻の『湖南省農民運動の視察報告』注〔8〕を参照。
(一九三七年九月七日)
われわれは積極的な思想闘争を主張する。なぜなら、それは、党内および革命団体内の団結を実現してたたかいを有利にする武器だからである。共産党員と革命家は一人ひとりがこの武器を手にしなければならない。
ところが、自由主義は、思想闘争を解消し、無原則的な平和を主張する。その結果、腐敗した卑俗な作風がうまれ、党と革命団体内の一部の組織、一部の人を政治的に堕落させる。
自由主義はいろいろな形であらわれる。
知人、同郷、同窓、親友、親近者、旧来の同僚、旧来の部下であることから、おだやかさとむつまじさを保とうとして、まちがっていることがはっきりわかっていても、かれらと原則上の論争をおこなわず、なすがままにまかせる。あるいは、なごやかな空気を保とうとして、うわべのことをいうだけで、徹底的な解決をはからない。その結果、団体にも害をあたえ、個人にも害をあたえる。これが第一の型である。
組織に積極的に提案するのではなく、かげで無責任な批判をする。面とむかってはいわずに、かげであれこれいい、会議の席ではいわずに、会議がすんだあとであれこれいう。集団生活の原則などは念頭になく、ただ自由放任があるだけである。これが第二の型である。
自分にかかわりのないことはほうっておき、まちがっていることがはっきりわかっていても、口にださない方が得だと考え、りこうに保身をはかり、あやまちのないことだけをねがう。これが第三の型である。
命令には服従せず、個人の意見を第一にする。組織に世話はしてもらいたいが、規律はごめんだという。これが第四の型である。
団結のため、進歩のため、ことをうまくはこぶために、正しくない意見と闘争し、論争するのではなくて、個人攻撃をし、意地をはり、私憤をはらし、報復をはかる。これが第五の型である。
正しくない議論をきいても論ばくせず、反革命分子の話をきいてさえ報告せず、なにごともなかったかのように平然としている。これが第六の型である。
大衆に接して、宣伝もせず、扇動もせず、演説もせず、調査もせず、事情も聞かず、大衆の苦楽に関心もよせずに知らぬ顔をし、自分が共産党員であることをわすれて、共産党員を普通の民衆と混同する。これが第七の型である。
大衆の利益をそこなう行為を見て憤慨もせず、忠告もせず、制止もせず、説得もせず、そのままほうっておく。これが第八の型である。
なにごとをやるにもふまじめで、一定の計画をもたず、一定の方向をもたず、いいかげにすませ、その日暮らしをし、坊主になればなっているあいだだけ鐘をつく。これが第九の型である。
自分では革命にたいして功労があると思いこみ、先輩かぜをふかせ、大きな事はやれないくせに小さな事はやらず、仕事はだらしがなく、学習はずぼらである。これが第十の型である。
自分がまちがっており、しかもそれを知っていながら、あらためようとせず、自分にたいして自由主義をとる。これが第十一の型である。
このほか、まだいくつかあげることができるが、おもなものはこの十一の型である。
これらはすべて自由主義のあらわれである。
革命的な組織のなかでの自由主義は、きわめて有害なものである。それは団結をよわめ、結びつきをゆるめ、活動を消極的にし、意見の不一致をもたらす腐食剤である。それは革命の隊列に厳密な組織と規律をうしなわせ、政策の徹底的遂行を不可能にし、党の組織を党の指導する大衆から遊離させる。これはゆゆしい悪質な偏向である。
自由主義の根源は、個人の利益を第一におき、革命の利益を第二におく小ブルジョア階級の利己心にあり、そこから思想上、政治上、組織上の自由主義がうまれる。
自由主義者は、マルクス主義の原則を抽象的な教条としてみている。かれらは、マルクス主義には賛成するが、それを実行しようとしないか、あるいは完全には実行しようとせず、マルクス主義をもって自分の自由主義ととりかえようとしない。これらの人びとは、マルクス主義ももっているが、自由主義ももっている。言うことはマルクス主義だが、行なうことは自由主義であり、人にたいしてはマルクス主義だが、自分にたいしては自由主義である。二種類の品物をとりそろえていて、それをつかいわける。これが一部の人びとの思想方法である。
自由主義は日和見主義の一つのあらわれであり、マルクス主義と根本的に衝突するものである。それは消極的なものであり、客観的には敵をたすける役割をするので、敵はわれわれの内部に自由主義が保存されることをよろこぶ。自由主義はこういう性質のものであるから、革命の隊列内にその存在の余地をのこしてはならない。
われわれは、マルクス主義の積極的な精神によって、消極的な自由主義を克服しなければならない。共産党員は、気持ちが卒直で、忠実で、積極的で、革命の利益を第一の生命とし、個人の利益を革命の利益にしたがわせなければならず、党の集団生活をつよめ、党と大衆との結びつきをつよめるように、いつ、どこででも、正しい原則を堅持し、すべての正しくない思想や行動とうむことなく闘争しなければならず、個人よりも党と大衆に、自分よりも他人に、いっそう関心をよせなければならない。それでこそ共産党員といえるのである。
忠実な、卒直な、積極的な、厳正なすべての共産党員は団結して、一部の人びとの自由主義的な偏向に反対し、かれらを正しい方向にむかわせよう。これは思想戦線における任務の一つである。
(一九三七年九月二十九月)
はやくも一九三三年に中国共産党は、赤軍への進攻を停止すること、民衆に日中をあたえること、民衆を武装化すること、この三つを条件として国民党のいかなる部隊とも抗日協定をむすぶ用意がある、という宣言を発表した。それは一九三一年、九・一八事変がおこったときから、中国人民の第一に重要な任務が日本帝国主義の中国進攻にたいしてたたかうことにあったからである。だが、われわれの目的はたっせられなかった。
一九三五年八月、中国共産党と中国赤軍は、各党各派および全国の同胞に、抗日連合軍と国防政府を組織してともに日本帝国主義とたたかうことをよびかけた〔1〕。同年十二月、中国共産党は、民族ブルジョア階級と抗日民族統一戦線を結成することについての決議を採択した〔2〕。一九三六年五月、赤軍はまた、南京政府に内戦の停止と一致抗日を要求する通告電を発表した〔3〕。同年八月、中国共産党中央委員会ははまた、国民党が内戦を停止すること、両党の統一戦線を結成してともに日本帝国主義とたたかうことを要求する書簡を国民党中央委員会におくった〔4〕。同年九月、共産党はまた、中国に統一的な民主共和国を樹立することについての決議をおこなった〔5〕。共産党側はこれらの宣言、通告電、書簡、決議をだしたばかりでなく、代表をおくって何回も国民党側と交渉をおこなったが、やはりなんの結果もえられなかった。一九三六年の末、西安事変がおこるにいたって、中国共産党の全権代表は、ようやく国民党のおもな責任者とのあいだに、両党の内戦停止という当時の政治上の一つの重要な共通点に到達し、同時に西安事変の平和的解決を実現した。これは中国史上の大きなできごとで、このときから、両党のあらたな協力にとって必要な一つの前提がつくられたのである。
ことしの二月十日、国民党中央執行委員会第三回全体会議のひらかれる前夜、中国共産党中央は、両党の協力を具体的に実現するため、この会議にたいして系統だった提案を電報で通知した〔6〕。この電報では、内戦の停止、民主と自由の実施、国民大会の招集、抗日のための早急な準備、人民の生活改善などの五項目を共産党に保証するよう国民党に要求するとともに、共産党もまた、二つの政権の敵対関係の解消、赤軍の名称の変更、革命根拠地での新しい民主制度の実施、地主の土地没収の停止の四項目の保証を国民党にあたえた。これもまた一つの重要な政治上の段どりであった。なぜなら、もしこのような段どりがなければ、両党の協力の実現はどうしてもひきのばされ、抗日のための早急な準備にとってまったく不利になるからである。
その後、両党の交渉は一歩あゆみよった。両党の共同の政治綱領の問題、民衆運動禁止の解除と政治犯釈放を要求する問題、赤軍の名称変更の問題などについて、共産党側はいっそう具体的な提案をした。共同綱領の公布、民衆運動禁止の解除、革命根拠地の新制度の承認などは、こんにちもまだ実現してはいないが、赤軍を国民革命軍第八路軍(抗日戦線の戦闘序列では第十八集団軍ともいう)と改称する命令は、北平、天津が敵に占領されてから約一ヵ月後に公布されている。はやくも七月十五日に国民党に手渡された、両党協力の成立を公表する中国共産党中央の宣言と、当時それにつづいて発表する約束になっていた、中国共産党の合法的地位を認める蒋介石氏の談話は、発表がひどくおくれて残念であるが、これも九月二十二日と二十三日、ちょうど前線が緊迫してきたときに、国民党の中央通信社をつうじてあい前後して発表された。共産党のこの宣言と蒋介石氏のこの談話は、両党協力の成立を公表したもので、両党の共同救国という偉大な事業のために、必要な基礎をすえたものである。共産党の宣言は、両党の団結の方針となるだけでなく、全国人民の大団結の根本方針ともなるであろう。蒋氏の談話では、共産党の全国における合法的地位を認め、団結救国の必要を指摘しているが、これはけっこうである。しかし、国民党の思いあがった考えをまだすてていないことと、必要な自己批判もまだしていないことは、われわれとして満足できないものである。しかし、ともかくも、両党の統一戦線は成立をつげた。これは、中国革命史上に一つの新紀元をひらいた。これは、中国革命に広範な、深刻な影響をあたえ、日本帝国主義の打倒に決定的な役割をはたすであろう。
中国の革命で、一九二四年から決定的な役割をはたしてきたのは、国共両党の関係である。両党が一定の綱領にもとづいて協力したことによって、一九二四年から一九二七年までの革命がおこされた。孫中山先生が四十年も国民革命に力をつくしながらなお完成できなかった革命事業は、わずか二、三年のあいだに一、広東省の革命根拠地の創設と北伐戦争の勝利という大きな成果をおさめた。これは両党が統一戦線を結成した結果である。ところが、一部のものが革命主義を堅持できなかったため、革命が完成されようとした矢先に、両党の統一戦線が割れて、革命の失敗をまねき、それに乗じて外国の侵略の手がのびてきた。これは両党の統一戦線が割れた結果である。いま、両党がふたたび結成した統一戦線によって、中国革命に新しい時期が形成されたいまなおある人たちが、この統一戦線の歴史的任務とその偉大な前途を理解せず、この統一戦線の結成をやむをえないその場しのぎの方法にすぎないと考えていても、歴史の車輪は、この統一戦線をつうじて、中国革命をまったく新しい段階へみちびいていくであろう。中国がこれほど深刻な民族的危機と社会的危機から解放されるかどうかは、この統一戦線の発展状況によってきまる。その有利な新しい証拠はすでにあらわれている。第一の証拠は、中国共産党がはじめて統一戦線政策を提起したとき、いちはやく全国人民の賛同をえたことである。人心の向こうところは、これを見てもあきらかである。第二の証拠は、西安事変が平和的に解決されて両党が停戦すると、国内の各党、各派、各界、各軍がただちにかつてないほどの団結ぶりをしめしたことである。この団結は、抗日の必要からいうと、まだ非常に不十分で、とくに、政府と人民のあいだの団結の問題は、いまなお基本的に解決されてはいないが。第三の証拠、これはもっとも顕著なもので、全国的な抗日戦争がおこされたことである。この抗戦は、現在の状況についていえば、全国的なものではあるが、まだ政府と軍隊にかぎられているので、われわれには満足できない。このような抗戦では日本帝国主義にうち勝つことができないということを、われわれははやくから指摘していた。そうではあるが、百年らいかつてなかった全国的範囲での対外抗戦が、たしかにもうおこされており、これは、国内の平和と両党の協力がなければできないことである。両党の統一戦線が割れていたときには、日本侵略者は一発の弾丸もつかわないで東北地方四省を手にいれることができたとしても、両党の統一戦線がふたたび樹立されたこんにちでは、血戦の代価なしには中国の土地を手にいれることはできない。第四の証拠は、国際的な影響である。全世界の労農民衆と共産党は、中国共産党のかかげた抗日統一戦線の主張を支持している。国共合作の成立後、各国人民、とくにソ連は、いっそう積極的に中国を援助するであろう。中ソは、すでに相互不可侵条約を締結しており〔7〕、こんご両国の関係はさらに一歩ふかまるものと期待される。以上のべたような証拠から、統一戦線の発展は、日本帝国主義の打倒と中国の統一的な民主共和国の樹立という明るい偉大な前途へ中国をすすませるものと、われわれは断定することができる。
しかしながら、このような偉大な任務は、現在の状態にとどまっている統一戦線では達成できるものではない。両党の統一戦線はもっと発展させる必要がある。それはいま成立している統一戦線が、まだ充実した強固な統一戦線ではないからである。
抗日民族統一戦線は、国民党と共産党という二つの政党にかぎられるものであろうか。そうではなく、それは全民族の統一戦線であって、二つの党はこの統一戦線の一部にすぎない。抗日民族統一戦線は、各党、各派、各界、各軍の統一戦線であり、労働者、農民、兵士、知識層、商工業者などすべての愛国的同胞の統一戦線である。現在の統一戦線は、事実上まだ二つの党の範囲にとどまっていて、広範な労働者、農民、兵士、都市小ブルジョア階級およびその他の多くの愛国的同胞はまだ、よびさまされていず、動員されていず、組織され武装化されていない。これが当面のもっとも重大な事態である。それが重大だというのは、前線での勝利を不可能にしているからである。華北地方および江蘇省、淅江省の前線での重大な危機は、現在もはやおおいかくすくともできなければ、また、おおいかくす必要もなく、問題は、この危機をどうして救うかということにある。危機を救う唯一の道は、孫中山先生の遺言、つまり「民衆をよびさます」ということばを実行することである。孫中山先生は臨終のこの遺言のなかで、四十年の経験を積んで、革命の目的を達成するにはそうしなければならないことを深く知った、といっている。いったいどのような理由から、どうしてもこの遺言を実行しようとしないのか。いったいどのような理由から、こうした危急存亡の瀬戸ぎわにあってなおこの遺言の実行を決意しないのか。統制や弾圧が「民衆をよびさます」という原則にそむくものであることは、だれの目にもあきらかである。政府と軍隊だけの抗戦では、けっして日本帝国主義にうち勝つことはできない。われわれは、ことしの五月には、この問題について、民衆が抗戦に立ちあがらなければ、エチオピアの二の舞いを演じるだろうと指摘して、政権をにぎっている国民党に、声を大にして警告していた。たんに中国共産党員だけでなく、各地の多くの先進的な同胞と国民党のなかの多くの賢明な党員も、この点を指摘していた。だが、統制政策は依然としてあらためられていない。その結果、政府は人民から遊離し、軍隊は人民から遊離し、軍隊内では指揮員が戦闘員から遊離している。統一戦線が民衆によって充実されないと、前線の危機は、どうしても大きくなる一方で、小さくなることはない。
こんにちの抗日統一戦線は、国民党の統制政策にとってかわるものとしての、両党が共同で承認し、正式に公布した政治綱領をまだもっていない。国民党が民衆にたいしてとっているやり方は、いまでも十年らいのやり方そのままである。政府機構、軍隊制度、民衆政策から、財政、経済、教育などの政策にいたるまで、だいたいみな十年らいのやり方そのままで変化していない。変化したもの、しかも大きく変化したものもある。それが内戦の停止と一致抗日である。両党の内戦が停止し、全国的な抗日戦争がはじまったということは、西安事変以来の中国の政局のきわめて大きな変化である。だが、さきにのべたあのやり方は、いまもなお変化していない。これを、変化していないものが変化したものに適応しないというのである。これまでのやり方は対外的に妥協することと、対内的に革命を弾圧することにしか適用されないものであるのに、いまなおこのやり方で日本帝国主義の進攻に対処しているのであるから、どこもかしこもぴったりゆかず、さまざまな弱点がさらけだされるのである。抗日戦争をやらないのならともかく、それをやろうとするのに、しかもすでにやりはじめており、そのうえすでに重大な危機があらわれているのに、それでも新しいやり方にきりかえないのでは、前途の危険は想像にあまるものがある。抗日には充実した統一戦線が必要で、そのためには、全国人民を立ちあがらせて、統一戦線に参加させなければならない。抗日には強固な統一戦線が必要で、そのためには共同綱領が必要である。共同綱領は、この統一戦線の行動方針であり、また、この統一戦線にとっての一種の制約でもあって、それは一本のつなでしばるように、各党、各派、各界、各軍など、統一戦線に参加したすべての団体と個人をかたく制約する。それでこそ強固な団結といえるのである。われわれは、あのふるいやり方による制約が民族革命戦争に適応しないので、それに反対する。われわれは、ふるいものにかわる新しい制約をもうけること、つまり共同綱領を公布して、革命的秩序をうちたてることを歓迎するものである。そうしないかぎり、抗日戦争に適応することはできない。
共同綱領とはなにか。それは、孫中山先生の三民主義と、共産党が八月二十五日に提起した抗日救国十大綱領〔8〕である。
中国共産党は、国共合作を公表した宣言のなかで、「孫中山先生の三民主義は、中国がこんにち必要とするものであり、わが党はその徹底的な実現のために奮闘するものである」とのべた。共産党が国民党の三民主義を実行したいといっていることにたいして、不思議におもっているものが若干いる。たとえば上海の諸青来〔9〕は、上海の刊行物でこうした疑問をだしたひとりである。かれらは、共産主義と三民主義は両立できないものだとおもっている。これは一種の形式主義的な見方である。共産主義は、革命が発展していく将来の段階で実行されるものであり、共産主義者は、現在の段階で共産主義を実行しようなどと夢みてはいず、歴史が規定する民族革命主義と民主革命主義を実行するものであって、共産党が抗日民族統一戦線と統一的な民主共和国を提起した根本的な理由はここにある。三民主義についていえば、十年まえの両党の第一次統一戦線のときに、共産党と国民党がすでに国民党第一回全国代表大会で、その実行をともに決定しており、しかも、一九二四年から一九二七年まで、すべての忠実な共産党員と忠実な国民党員をつうじて、全国の広大な地域で実行されたのである。不幸にも、一九二七年に統一戦線が割れ、そのときから国民党側が十年間にわたって三民主義の実行に反対するという局面があらわれた。だが、共産党側がこの十年間に実行してきたすべての政策は、根本的にはやはり孫中山先生の三民主義と三大政策の革命的精神にかなったものである。共産党は、ただの一日も帝国主義に反対しない日はなく、これが徹底的な民族主義である。また、労農民主主義独裁の制度は、ほかでもなく徹底的な民権主義である。土地革命は徹底的な民生主義である。その共産党がなぜこんどは労農民主主義独裁を廃止し、地主の土地没収を停止すると言明しているのか。この理由も、われわれがはやくから説明してきたように、こうした制度や施策がまったくだめだというのではなく、日本帝国主義の武力侵略が国内の階級関係の変化をひきおこしたので、日本帝国主義とたたかうために全民族の各階層を連合させることが必要になり、また可能になったからである。中国だけではなく、世界的範囲においても、共同してファシズムに反対するために、反ファシズム統一戦線を結成することが必要になったし、また可能になった。したがって、われわれは、中国に民族・民主統一戦線をつくることを主張するのである。労農民主主義独裁のかわりに、各階層連合の民主共和国を樹立するというわれわれの主張は、こうした点を基礎として提起されたものである。「耕すものに土地を」ということを実行する土地革命は、とりもなおさず孫中山先生がかつて提起した政策であり、われわれが、こんにち、この政策の実行をとりやめるのは、もっと多くの人びとを結集して日本帝国主義とたたかうためであって、中国が土地問題の解決を必要としないというのではない。このような政策変更の客観的原因と時期については、われわれは、かつてすこしのあいまいさもなく自分の観点を説明した。中国共産党は、マルクス主義の原則に立って、第一次国共統一戦線の共同綱領、つまり革命的三民主義を一貫して堅持し発展させてきたからこそ、強大な侵略者がおしよせてきた民族の危急にさいして、時をうつさず、危機を救うことのできる唯一の政策として、この民族・民主統一戦線を提起し、しかも、それをうまずに実行することができるのである。現在の問題は、共産党が革命的三民主義を信ずるかどうか、実行するかどうかにあるのではなくて、むしろ国民党が革命的三民主義を信ずるかどうか、実行するかどうかにある。現在の任務は、孫中山先生の三民主義の革命的精神を全国的範囲で復活し、それによって一定の政治綱領と政策を制定するとともに、二心なくほんとうに、おざなりでなく着実に、ひきのばすのでなく早急にそれを実行することである。中国共産党側では、ほんとうに日夜それを祈っているのである。そのため、共産党は蘆溝橋事変ののち、抗日救国十大綱領を提起したのである。この十大綱領は、マルクス主義に合致しているし、真の革命的三民主義にも合致している。これは、現段階の中国革命、つまり抗日民族革命戦争における初歩的な綱領であり、それを実行しなければ、中国を救うことはできないのである。この綱領と抵触するすべてのものをつづけていくならば、かならず歴史の懲罰をうけることになる。
国民党は、いまのところ、まだ中国で支配権をにぎっている最大の政党なので、この綱領を全国的範囲で実行するには、自民党の賛成がなければ不可能である。国民党員で賢明なものは、いつかはこの綱領に賛成するものとわれわれは信じている。なぜなら、もし賛成しなければ、三民主義はいつまでたってもから談義に終わり、孫中山先生の革命的精神は復活できず、日本帝国主義にうち勝つことはできず、中国人民が亡国奴の境遇におちいることはきけちれないからである。国民党員でほんとうに賢明なものは、けっしてこうなることをのぞまないし、全国人民も、けっしてみすみす亡国奴になるようなことはない。しかも、蒋介石氏は、九月二十三日の談話のなかで、「われわれ革命の信奉者は、個人の意地や私見のためでなく、三民主義の実現のためにあると、わたしはおもう。この危急存亡のさいには、なおさら過去の一切にこだわるべきでなく、国家の生命と生存をたもつために、全国の国民とともに徹底的に再出発し、団結につとめるべきである」と指摘している。そのとおりである。現在の急務は、三民主義の実現をはかるために、個人や小集団の私見をすて、これまでのふるいやり方をあらためて、三民主義に合致した革命の綱領をただちに実行し、徹底的に人民とともに再出発することである。これが、こんにちの唯一の道である。これ以上ひきのばすと、後悔してもおよばないことになるであろう。
しかし、三民主義と十大綱頭を実行するには、実行する手段が必要である。そこで、政府の改造と軍隊の改造という問題が提起されるのである。現在の政府は、民族・民主統一戦線の政府ではなく、まだ国民党の一党独裁の政府である。三民主義と十六綱領の実行には、民族・民主統一戦線の政府がなければ不可能である。現在の自民党軍の制度はまだふるい制度であって、このような制度の軍隊で日本帝国主義にうち勝つことは不可能である。現在の軍隊はみな抗戦の任務を遂行しており、われわれは、すべてのこうした軍隊、とくに前線で抗戦している軍隊には敬意をはらっている。だが、この三ヵ月らいの抗戦の教訓がすでに証明しているように、国民党軍の制度は、日本侵略者を徹底的にうちやぶる任務を遂行するのに適していないし、三民主義と革命綱領を順調に遂行するのにも適していないので、どうしても改革しなければならない。改革の原則は、将兵の一致、軍民の一致を実行することである。現在の国民党軍の制度は、基本的にこの二つの原則にそむいている。広範な将兵は忠勇の心をもってはいるが、ふるい制度にしばられて、その積極性を発揮することができない。したがって、ふるい制度の改革を早急にはじめなければならない。戦争を中止し、制度を改革してから戦争をやるのではなく、戦いながらも制度を改革することができる。中心的任務は、軍隊の政治精神と政治工作をあらためることである。模範的な前例は、北伐戦争時代の国民革命軍で、それはだいたいにおいて、将兵一致、軍民一致の軍隊であった。当時の精神を復活させることがぜひとも必要である。中国はスペイン戦争の教訓にまなぶべきである。スペイン共和国の軍隊はきわめて困難な環境のなかでつくられてきた。中国の条件はスペインよりもまさっているが、充実した強固な統一戦線がなく、革命の全綱領を実行できる統一戦線の政府がなく、新しい制度にもとづく大量の軍隊がない。中国はこれらの欠陥をおぎなわなければならない。中国共産党の指導する赤軍は、こんにち、抗日戦争全体にたいしては、前衛の役割をはたすだけで、まだ全国的範囲で決定的な役割をはたすことはできないが、その政治上、軍事上、組織上の長所は全国の友軍が十分とりいれてよいものである。この軍隊も、はじめから今のような状態であったのではなく、主として軍隊内部の封建主義を一掃し、将兵一致と軍民一致の原則を実行するなど、やはり多くの改造をへてきている。この経験は全国の友軍のかがみとなりうるものである。
政権をにぎっている国民党の抗日の同志諸君、われわれと諸君は、こんにち、ともに国を滅亡から救う責務をになっている。諸君はすでにわれわれと抗日統一戦線を結成したが、これはけっこうなことである。諸君は対日抗戦を実行しているが、これもまたけっこうなことである。だが、われわれは諸君が他のふるい政策をとりつづけることには賛成しない。われわれは、民衆を統一戦線に参加させ、それを発展、充実させなければならない。共同綱領を実行して統一戦線を強化しなければならない。政治制度と軍隊制度の改革を決意しなければならない。一つの新しい政府があらわれることはぜひとも必要で、そのような政府があってはじめて、革命の綱領を遂行でき、また全国的範囲で軍隊の改造にとりかかることもできる。われわれのこの提案は時代の要求である。この要求については、諸君の党内でも多くの人がいまこそその実行の時だと気づいている。孫中山先生は、かつて政治制度と軍事制度の改造を決意したので、一九二四年から一九二七年までの革命の基礎がすえられたのである。おなじような改造を実行する責務が、こんにちでは諸君の肩にかかっている。国民党の誠実な愛国的な党員は、すべてわれわれのこの提案を不必要のものだとはもちろん考えないだろう。この提案は客観的な必要に合致したものだと、われわれはかたく信じている。
わが民族はすでに存亡の瀬戸ぎわに立っている。国共両党は、親密に団結しよう! 亡国奴となることをのぞまない全国のすべての同胞は、国共両党の団結を基礎として親密に団結しよう! 必要なすべての改革を実行して、あらゆる困難にうちかつこと、これがこんにちの中国革命のさしせまった任務である。この任務が達成されれば、かならず日本帝国主義をうちたおすことができる。われわれが努力しさえすれば、われわれの前途は明るいのである。
〔1〕 本選集第一巻の『抗日の時期における中国共産党の任務』注〔2〕を参照。
〔2〕 本選集第一巻の『抗日の時期における中国共産党の任務』注〔3〕を参照。
〔3〕 本選集第一巻の『抗日の時期における中国共産党の任務』注〔4〕を参照。
〔4〕 本選集第一巻の『蒋介石の声明についての声明』注〔7〕を参照。
〔5〕 本選集第一巻の『抗日の時期における中国共産党の任務』注〔6〕を参照。
〔6〕 本選集第一巻の『抗日の時期における中国共産党の任務』注〔7〕を参照。
〔7〕 「中ソ相互不可侵条約」は、一九三七年八月二十一日に締結された。
〔8〕 本巻の『すべての力を動員して抗戦の勝利をかちとるためにたたかおう』にみられる。
〔9〕 諸青来は、「国家社会党」(反動的な地主、官僚、大ブルジョア階級によって組織された小集団)の首領のひとりである。のちに、かれは汪精衛の民族裏切り政府の一員となった。
(一九三七年十月二十五日)
バートラムの問い 中国共産党は中日戦争のおこる前後に、どんな具体的な意思表示をしたでしょうか。
毛沢東の答え 中国共産党は、こんどの戦争がおこるまえ、対日戦争はさけることのできないものであり、日本帝国主義者の「平和的解決」といった言論や日本の外交家の耳ざわりのよいことばは、すべてその戦争準備をおおいかくす煙幕にすぎないことを、再三全国にむかって警告してきました。われわれは、民族解放戦争を勝利のうちにおしすすめるには、統一戦線をつよめ、革命的な政策を実行しなければならないことをくりかえし指摘してきました。革命的政策のなかでとくに重要なのは、全民衆を抗日戦線に動員するため、中国政府が民主的改革を実現しなければならないということです。日本の「平和の保証」を信じて、戦争はさけちれるかもしれないと考えている人びとや、民衆を動員しなくても日本侵略者に抵抗できると信じている人びとにたいして、われわれはくりかえしかれらのあやまりを指摘してきました。戦争の勃発とその経過は、われわれのこうした意見の正しさを証明しています。蘆溝橋事変がおこった翌日、共産党はただちに全国に宣言をだして、各党、各派、各階層が日本侵略者の侵略に一致して抵抗し、民族統一戦線を強化するようよびかけました。それからまもなくわれわれはまた、『抗日救国十大綱額』を発表して、抗日戦争において中国政府がとるべき政策を提起しました。国共合作が成立したときにもまた、重要な宣言を発表しました。これらのことはすべて、統一戦線の強化と革命的政策の実行によって抗日戦争をすすめるという方針を、われわれがたゆまず堅持していることを証明しています。この時期におけるわれわれの基本的スローガンは、「全面的、全民族的な抗戦」でした。
問 あなたのみるところでは、戦争はいままでにどんな結果をもたらしているでしょうか。
答 主として二つの面があります。一つの面は、日本帝国主義の都市攻略、国土占領、強姦、略奪、放火、虐殺によって、中国人には、亡国の危険が最後のところまできていることです。もう一つの面は、中国の大多数の人びとがこのことから危機を救うにはいっそう団結し、全民族の抗戦を実現しなければならないという深い認識をえたことです。同時に世界の平和諸国にも、日本の脅威に抵抗する必要性を悟らせはじめたことです。以上がすでにもたらされた結果です。
問 日本のねらいはなんであるとお考えになりますか。そのねらいはどのくらい実現しているでしょうか。
答 日本の計画は、第一歩が華北地方と上海を占領すること、第二歩が中国のそのほかの地域を占領することです。日本侵略者がどの程度その計画を実現したかという点についていえば、中国の抗戦がいまのところまだ政府と軍隊だけによる抗戦にとどまっているため、日本侵略者は短期間にすでに、河北、察哈爾、綏遠の三省を手にいれたし、山西省もまた危険な状態にあります。この危険な局面を救うには、民衆と政府が一致して抗戦するよりほかにありません。
問 あなたのご意見によれば、中国の抗戦には成果もあるのではないでしょうか。もし教訓があるとすれば、それはどういうものでしょうか。
答 この問題については少しくわしくお話しいたしましょう。まずなによりも、成果はあがっており、しかもそれが偉大だということです。それはつぎのことにあらわれています。(一)現在の抗日戦争は、帝国主義の中国にたいする侵略がはじまっていらい、かつて見られなかったものだということです。それは地域的にいってほんとうに全国的な戦争です。この戦争の性質は革命的なものです。(二)戦争は、全国のばらばらに分裂していた局面をわりあいに団結した局面に変えたことです。この団結の基礎になっているのが国共合作です。(三)国際世論の共鳴をよびおこしたことです。国際間では、これまで中国の無抵抗をけいべつしていたのが、いまでは中国の抵抗に敬意をはらうようになっています。(四)日本侵略者に大きな消耗をあたえたことです。日本侵略者の物的消耗は日に二千万円といわれています。人的消耗についてはまだ統計がありませんが、それもきっと大きなものでしょう。日本侵略者は、まえにはほとんど骨もおらずにやすやすと東北四省を手にいれることができたが、いまでは血戦なしに中国の土地を占領することはできません。日本侵略者はもともと中国でその野望をみたそうとしていたのですが、中国の長期にわたる抵抗によって、日本帝国主義そのものが崩壊の道に追いやられるでしょう。この面からいえば、中国の抗戦は、自分を救うためばかりでなく、全世界の反ファシズム戦線のなかでも偉大な責務をはたしているのです。抗日戦争の革命性はこの面にもあらわれています。
(五)戦争から教訓をえたことです。この教訓は土地と血によってあがなわれたものです。
教訓についていえば、これも大きなものです。数ヵ月の抗戦で、中国の多くの弱点が暴露されました。それはまず政治の面にあらわれていまも。この戦争にくわわっているのは、地域的には全国的ですが、くわわっている層は全国的ではありません。広範な人民大衆はやはり以前とおなじように、戦争へ参加することを政府から制限されているので、現在の戦争はまだ大衆性をもった戦争とはなっていません。日本帝国主義の侵略に反対する戦争であっても、大衆性をおびていなければ、けっして勝利できるものではありません。一部の人は、「いまの戦争はすでに全面的な戦争だ」といっています。これは戦争にくわわっている地域が普遍的であることをいいあらわしているにすぎません。抗戦はまだ政府と軍隊だけの抗戦で、人民の抗戦とはなっていないので、戦争にくわわっている層からいえば一面的です。この数ヵ月のあいだに、多くの土地がうしなわれ、多くの軍隊が敗北をなめていますが、おもな原因はここにあります。したがって現在の抗戦は、革命的なものではあるが、その革命性が不完全なのは、まだ大衆的な戦争となっていないからです。これは同時に団結の問題でもあります。中国の各政党は、まえよりは団結していますが、必要としている程度までにはまだほど遠いものがあります。政治犯の大多数はまだ釈放されていず、政党禁止もまだ完全には解除されていません。政府と人民のあいだ、軍隊と人民のあいだ、将校と兵士のあいだの関係は、依然として非常にわるく、そこにあるものは団結ではなくて離隔です。これはもっとも基本的な問題です。この問題が解決されなければ、戦争の勝利など話にもなりません。そのほか軍事上のあやまりも、軍隊と土地をうしなった大きな原因の一つです。これまでの戦いの大半は受動的な戦いで、軍事用語で「単純防御」とよばれるものです。このような戦いかたでは勝利する可能性はありません。勝利するには、政治上、軍事上で、いまとは大いにちがった政策をとらなければなりません。これがわれわれのえた教訓です。
問 では、政治上、軍事上の必要な条件とはなんでしょうか。
答 政治上からいうと、第一には、現政府を、人民の代表が参加する統一戦線の政府に改造しなければならないことです。この政府は民主的であり、また集中的でもあります。この政府は必要な革命的政策を実行します。第二には、戦争に大衆性をもたせるために、人民に言論、出版、集会、結社、武装抗戦の自由をゆるすことです。第三には、人民の生活の改善が必要で、その改善の方法としては、苛酷で雑多な税金の廃止、小作料・利子の引き下げ、労働者と下級将兵の待遇改善、抗日軍人家族の優遇、被災者や避難民の救済などがふくまれます。政府の財政は合理的な負担、つまり金のあるものが金をだすという原則のうえにたてるれるべきです。第四には、外交政策の積極化をはかることです。第五には、文化教育政策を改革することです。第六には、民族裏切り者をきびしく弾圧することです。この問題は現在すでにきわめて重大なものになっています。民族裏切り者はだれはばかるところなく横行しています。つまり戦区では敵をたすけ、後方ではほしいままに攪乱し、うわべは抗日の格好をよそおって、愛国的人民を逆に民族裏切り者よばわりして逮捕するものさえいます。だが、民族裏切り者をほんとうに弾圧するには、人民が立ちあがって政府に協力しないかぎり不可能です。軍事上からいうと、これも全面的な改革を実行しなければなりません。それは主として、戦略上戦術上の単純防御の方針を敵にたいする積極的攻撃の方針にあらためること、ふるい制度の軍隊を新しい制度の軍隊にあらためること、強制動員の方法を、人民が前線におもむくよう激励する方法にあらためること、不統一な指揮を統一的な指揮にあらためること、人民から遊離した無規律な状態を、自覚の原則のうえにうちたてられた少しも人民の利益をそこなわない規律にあらためること、正規軍だけで戦う局面を、広範な人民遊撃戦争を発展させて正規軍の戦いに呼応させる局面にあらためることなどです。以上にのべた政治的、軍事的条件は、すべてわれわれの発表した十大綱領のなかで提起されているものです。これらの政策は、孫中山先生の三民主義、三大政策およびその遺言の精神に合致するものです。こうしたことを実行しなければ、戦争に勝利することはできません。
問 共産党はどのようにしてこの綱領を実行しますか。
答 われわれの活動は、抗日民族統一戦線を拡大強化し、すべての力を動員して、抗戦の勝利をかちとるためにたたかうよう、うむことのない努力をはらって現在の情勢を説明し、国民党およびその他すべての愛国的諸政党と連合することです。いまの抗日民族統一戦線は範囲がまだ非常に狭いので、これを拡大しなければなりません。つまり孫中山先生の「民衆をよびさます」という遺言を実行し、社会の下層民衆をこの統一戦線に参加させるよう動員することです。統一戦線の強化についていえば、共同綱領を実行することであり、この綱領によって各党各派の行動を制約するのです。われわれは、孫中山先生の革命的三民主義、三大政策およびその遺言を各政党、各階層の統一戦線の共同綱領とすることに同意します。しかし、この綱領は、いまでもまだ各政党から認められていず、なによりもまず国民党がまだこうした全面的な綱領を発表することを認めていません。国民党は現在すでに孫中山先生の民族主義を部分的には実行しており、それは対日抗戦の実行にあらわれています。しかし、民権主義は実行されていず、民生主義も実行されていず、こうしたところから現在の抗戦に重大な危機がうまれています。戦争がこのように緊迫している現在こそ、国民党が全面的に三民主義を実行すべきときであって、これ以上実行しないでいるならば、後悔してもおよばないでしょう。共産党の責務は、抗日民族統一戦線の拡大と強化のために、真の革命的三民主義、三大政策および孫氏の遺言がかならず全国的範囲で全面的、徹底的に実行されるよう、声を大にして、国民党と全国人民にうむことなく説明し説得することにあります。
問 八路軍の状況、たとえばその戦略戦術の面、政治工作の面などについてお聞かせください。これには多くの人が関心をよせています。
答 赤軍が八路軍に編成がえされて前線におもむいてのち、その行動にはたしかに多くの人が関心をもっています。ではそのおおよそを説明しましょう。
まず、戦闘の状況についてお話ししましょう。戦略的には、八路軍は山西省を中心に戦争をしています。ご存知のように、八路軍はこれまでに多くの勝利をえました。たとえば平型関の戦闘、井坪、平魯、寧武の奪回、[シ+來]源、広霊の奪還、紫荊関の占領、大同と雁門関、蔚県と平型関、朔県と寧武のあいだの日本軍の三つの主要な輸送道路の切断、雁門関以南の日本軍後方にたいする攻撃、平型関、雁門関の二回にわたる奪回、そしてさきごろの曲陽、唐県の奪還などがそれです。山西省にはいった日本の軍隊は、いま戦略的には、八路軍やその他の中国の軍隊に四方から包囲されています。日本軍は今後華北でもっとも頑強な抵抗にであうものと、われわれは断言できます。日本軍が山西省でのさばろうとするなら、きっといままでにない困難にみまわれるでしょう。
つぎは、戦略戦術の問題です。われわれは中国の他の軍隊がとったことのないような行動をとっており、それは主として敵軍の側翼および後方で戦うことです。この戦法は単純な正面防御にくらべて大きなちがいがあります。一部の兵力を正面に使用するのは必要なことで、われわれはそれに反対するものではありません。だが自分の力を保存し敵の力を消滅するには、主力をかならず側面に使用して包囲迂回の戦法をとり、独立自主的に敵を攻撃しなければなりません。そのうえ若干の兵力を敵の後方に使用すれば、敵の輸送線や根拠地を攪乱するので、その威力はとくに強大です。正面作戦の軍隊にしても、主として「逆襲」の戦法をとるべきで、単純防御の戦法をとってはなりません。この数ヵ月のあいだの軍事上の敗北は、作戦方法のまずさがその重要な原因の一つです。われわれは、いま八路軍がとっている戦法を、独立自主による遊撃戦および運動戦と名づけています。これは、われわれがまえに国内戦争のさいにとった戦法と、基本原則はおなじですが、多少のちがいもあります。いまのこの段階の状況からいうと、兵力を集中して使用するばあいは比較的すくなく、兵力を分散して使用するばあいが比較的多いのですが、これは広大な地域で敵の側翼や後方を襲撃するのに都合よくするためです。全国の軍隊のばあいは、その数が非常に多いので、一部で正面をまもり、他の一部で分散的に遊撃戦をおこなうべきで、その主力もつねに敵の側翼で集中的に使用すべきです。軍事上第一に重要なことは、自己を保存し敵を消滅することであって、この目的をとげるには、すべての受動的な、型にはまった戦法をさけて、独立自主による遊撃戦と運動戦をとるべきです。もし大量の軍隊が運動戦をとり、八路軍が遊撃戦でこれをたすけるなら、勝利の切り札はかならずわれわれの手ににぎられるでしょう。
つぎは、政治工作の問題です。八路軍にはさらに、きわめて重要な、きわめて顕著なものがあります。それは政治工作です。八路軍の政治工作の基本原則は三つあります。すなわち第一は将兵一致の原則であり、これは軍隊のなかで、封建主義を一掃し、なぐったりどなりつけたりする制度を廃止し、自覚的規律をうちたて、苦楽をともにする生活をしていることで、これによって全軍は一致団結しています。第二は軍民一致の原則であり、これは民衆の利益を少しもそこなわない規律、民衆への宣伝、民衆の組織化、武装化、民衆の経済的負担の軽減、軍隊と人民に危害をくわえる民族裏切り者、売国奴への打撃で、これによって軍隊と人民が一致団結していて、いたるところで人民の歓迎をうけています。第三は敵軍を瓦解させ、捕虜を寛大にとりあつかう原則です。われわれの勝利は、たんにわが軍の戦闘によるばかりでなく、敵軍の瓦解にもよるものです。敵軍を瓦解させ捕虜を寛大にとりあつかう措置は、いまのところまだ顕著な効果をあげていませんが、将来は成果があがるにちがいありません。このほか、第二の原則から出発して、八路軍の補充には人民を強制する方法をとらず、前線におもむくよう人民を激励する方法をとっていますが、この方法は強制する方法にくらべて、ずっと大きな効果があります。
現在、河北、察哈爾、綏遠の諸省と山西省の一部はすでにうしなわれていますが、われわれはけっして落胆せず、すべての友軍と呼応して、山西省の防衛と失地の回復のために最後まで血戦をするよう、全軍に断固としてよびかけています。八路軍は中国の他の部隊と一致した行動をとり、山西省の抗戦の局面を堅持するでしょう。これは戦争全体、とくに華北地方の戦争にとって大きな意義をもつものです。
問 あなたのみるところでは、八路軍のこれらの長所は、中国の他の軍隊にも適用できるでしょうか。
答 完全に適用できます。もともと国民党の軍隊は、一九二四年から一九二七年までの時期には、こんにちの八路軍とほぼおなじような精神をもっていました。当時、中国共産党は国民党と協力して新しい制度の軍隊をつくり、はじめのころは二コ連隊しかなかったのに、多くの軍隊をそのまわりに結集して、陳炯明をうちやぶるという最初の勝利をえました。その後拡大して一コ軍団となり、より多くの軍隊に影響をおよぼし、そこではじめて北伐戦争がおこなわれたのです。当時の軍隊は、将兵のあいだでも、軍民のあいだでも、だいたい団結していて、勇往邁進の革命精神が軍隊にあふれるという新しい気風がありました。当時の軍隊には党代表と政治部がもうけられたが、このような制度は中国の歴史にはなかったもので、軍隊はこれによって面目を一新しました。一九二七年以後の赤軍、さらにこんにちのハ路軍は、このような制度をうけつぎ、発展させています。一九二四年から一九二七年までの革命の時期には新しい精神の軍隊があったので、その作戦の方法もおのずからその政治精神に即応するものとなり、受動的な、型にはまった作戦をするのではなくて、主動的な、はつらつとした、攻撃精神にとんだ作戦をやり、これによって北伐の勝利がえられたのです。現在の抗日戦場は、まさにこのような軍隊を必要としています。このような軍隊は、かならずしも何百万も必要なわけではなく、中核として数十万あれば、日本帝国主義にうち勝つことができるのです。抗戦がはじまってから、全国の軍隊が勇敢に身を犠牲にして戦ったことには、われわれは十分敬服していますが、血戦のなかからなんらかの教訓をひきだすことが必要です。
問 捕虜を寛大にとりあつかう政策は、日本軍隊の軍律のもとでは、かならずしも効果があるとはいえないでしょう。たとえば釈放して帰らせても日本側が殺してしまうなら、日本軍全部はあなたがたの政策の意義がわからないでしょう。
答 それは不可能なことです。かれらが殺せば殺すほど、日本軍兵士の中国軍にたいする共感をますますひきおこすでしょう。こうしたことは、兵士大衆の目をごまかせるものではありません。われわれはこの政策をかたくまもっていきます。たとえば、現在日本軍は八路軍にたいして毒ガスを使用すると公言していますが、たとえかれらがそれを実行しても、捕虜を寛大にとりあつかうわれわれの政策は変わりません。われわれはやはり、捕虜になった日本の兵士や戦うことを強要された下級幹部たちを寛大にとりあつかい、はずかしめたりどなりつけたりせず、かれらに両国人民の利益が一致していることを説明して、かれらを釈放してやります。帰りたくないものがあれば、八路軍のなかで勤務してもいいのです。将来、抗日戦場に「国際部隊」があらわれれば、この軍隊に参加して武器をとって日本帝国主義とたたかうこともできるでしょう。
問 わたしの知っているところでは、日本は戦争をしながら、同時に上海では和平の空気をふりまいています。いったい日本のねらいはどこにあるのでしょうか。
答 日本帝国主義は、ある段どりを達成すると、三つのねらいからもういちど和平の煙幕をはるでしょう。その三つのねらいとは、(一)すでに手にいれた陣地を、つぎの進攻の戦略的出発点とするために強化すること、(二)中国の抗日戦線を分裂させること、(三)世界各国の中国援助の戦線をきりくずすことです。現在の和平の空気は、和平の煙幕をはる手はじめにすぎません。危険なのは、こともあろうに中国で一部の動揺分子が敵の仕かけたわなにとびつこうとしており、そこで民族裏切り者、売国奴が中国を日本侵略者に投降させようと、その間をぬっているいるのデマをふりまいていることです。
問 このような危険について、あなたの見通しはどうでしょうか。
答 見通しは二つしかありません。一つは中国人民が投降主義を克服していくことです。もう一つは投降主義が優勢になって、中国が混乱におちいり、抗日戦線が分裂していくことです。
問 この二つの状況のうち、どちらの可能性が多いでしょうか。
答 中国人民はすべて最後まで抗戦することを要求しています。たとえ中国の支配者集団の一部が行動のうえで投降への道をすすんでも、他のしっかりしたものはかならず立ちあがってこれに反対し、人民とともに抗戦をつづけるでしょう。このような事態は、もちろん中国の抗日戦線にとって、不幸なことです。しかし、投降主義者は大衆から相手にされず、大衆は投降主義を克服して、戦争をやりぬき、戦争の勝利をかちとるものとわたしは信じます。
問 投降主義をどのように克服されますか。
答 言論のうえでは投降主義の危険を指摘し、行動のうえでは投降運動をくいとめるよう人民大衆を組織することです。投降主義は、民族敗北主義、すなわち民族悲観主義に根ざすもので、この悲観主義は、敗北をなめた中国にはもう日本に抵抗する力がないと考えています。失敗こそ成功のもとであり、失敗の経験のなかから教訓をひきだすことが将来の勝利の基礎であることを知らないのです。悲観主義は、抗戦中の失敗を見るだけで、抗戦中の成果を見ず、ことに失敗のなかに勝利の要素がふくまれており、敵側の勝利のなかには失敗の要素がふくまれていることを見ないのです。われわれは、失敗と困難は一時的なものであり、どんな失敗にもくじけすにたたかいさえすれば、最後の勝利はかならずわれわれのものだということを人民大衆に理解させるよう、戦争の勝利の前途をさししめさなければなりません。大衆的な基礎をうしなえば、投降主義者も細工を弄する余地がなくなり、抗日戦線は強化されてくるのです。
問 共産党が綱領のなかにかかげている「民主」とはどういう意味でしょうか。それは「戦時政府」と撞着しないでしょうか。
答 少しも撞着しません。共産党は早くも一九三六年八月に「民主共和国」というスローガンをかかげました。このスローガンにふくまれている政治的、組織的な意味はつぎの三点です。(一)ある一つの階級の国家と政府ではなくて、民族裏切り者、売国奴を排除したすべての抗日階級の同盟による国家と政府であり、そのなかには労働者、農民、その他の小ブルジョア階級がふくまれていなければならないということです。(二)政府の組織形態は民主集中制で、それは民主的であるとともに集中的でもあり、民主と集中というこの二つの撞着しあうかのように見えるものを一定の形態に統一したものです。(三)政府は人民に必要なすべての政治的自由、とくに組織、訓練、武装自衛の自由をあたえるということです。この三つの面からみると、それはいわゆる「戦時政府」となんら撞着するものではなく、これこそ抗日戦争に有利な国家の制度、政府の制度です。
問 しかし、「民主集中」はことばのうえでは矛盾したものではないでしょうか。
答 ことばを見るだけでなく、実際を見なければなりません。民主と集中のあいだには、こえることのできない深いみぞはなく、中国にとっては、二つとも必要なものです。一面では、われわれの要求する政府は、真に民意を代表できる政府でなければならず、この政府はかならず全中国の広範な人民大衆から支持され擁護されなければなりませんし、人民もまたかならず自由に政府を支持することができ、政府の政策に影響をあたえる機会を十分にもたなければなりません。これが民主制の意味です。他面では、行政権力の集中化が必要です。人民の要求する政策がいったん民意機関で採択されて自分たちの選出した政府の手にわたったときには、政府がそれを執行するのですが、執行のさい、民意によって採択された方針にそむきさえしなければ、それはかならず順調に、支障なく執行できます。これが集中制の意味です。民主集中制をとらなければ、政府の力をとくに強大にすることはできず、抗日戦争中、国防的性質をもった政府は、かならずこのような民主集中制をとらなければなりません。
問 それは戦時内閣の制度とは合致しないでしょう。
答 それは歴史上のあるいくつかの戦時内閣制度とは合致しません。
問 合致するものもあったでしょうか。
答 合致するものもありました。戦時の政治制度は、だいたい二つの種類にわけることができます。一つは民主集中的なもの、もう一つは絶対集中的なもので、それは戦争の性質によってきまります。歴史上のすべての戦事は、その性質から、一つは正義の戦争、一つは不正義の戦争の二つの種類にわけることができます。たとえば二十数年まえの欧州大戦は、帝国主義的性質の不正義の戦争でした。当時、帝国主義諸国の政府は、帝国工義の利益のために戦うことを人民に強制し、人民の利益にそむきました。こうした状況のもとで必要とされるのは、イギリスのロイド・ジョージのような政府です。ロイド・ジョージは、イギリス人民に、帝国主義戦争反対というようなことばを口にすることをゆるさず、そうした民意を表明するいかなる機関や集会の存在もゆるさないといった抑圧をくわえました。たとえ国会が存続していたとしても、それはやはり命令どおり戦争予算を通過させるためのものであり、帝国主義者一味の機関であったのです。戦争のなかでの政府と人民の不一致が、民主のない集中だけの絶対集中主義の政府をうみだしたのです。しかし歴史上には、またフランスの革命戦争、ロシアの革命戦争、現在のスペインの革命戦争などのような革命的な戦争もあります。このような戦争では、人民がそうした戦争をつよくのぞんでいるので、政府は人民が戦争に賛成しないようなことを心配する必要はありません。また政府の基礎は人民の自発的意志による支持のうえにきずかれているのですから、政府は人民をおそれないばかりでなく、積極的に戦争に参加させるため、人民を立ちあがらせ、人民に意見を発表させるようみちびかなくてはなりません。中国の民族解放戦争は人民が完全に賛同しており、また戦事の遂行には人民の参加がなければ勝つこともできませんから、民主集中制が必要になるのです。中国の一九二六年から一九二七年までの北伐戦争も、民主集中制に依拠して勝利をえました。これを見てもわかるように、もし戦争の目的が直接人民の利益を代表するときには、政府が民主的であればあるほど、戦事は順調にすすめられます。こうした政府は、人民が戦争に反対しはしないかと危惧すべきではなくて、反対にこの政府は、人民が立ちあがらないことと、戦争に冷淡であることを心配しなければなりません。戦争の性質が政府と人民の関係を決定するということ、これは歴史の法則です。
問 ではあなたがたは、どんな段どりで新しい政治制度を実現しようとしておられるのですか。
答 その鍵は国共両党の協力にあります。
問 なぜですか。
答 十五年らいの中国の政局では、国共両党の関係が決定的な要因となっています。一九二四年から一九二七年までの両党の協力は、第一次革命の勝利をもたらしました。一九二七年の両党の分裂は、十年らいの不幸な局面をつくりだしました。しかし、分裂の責任はわれわれの側にあったのではなく、われわれはやむをえず国民党の抑圧に抵抗する方向に転じたのであり、われわれは中国解放の光栄ある旗じるしをまもりつづけてきたのです。いまは第三の段階にはいっており、抗日救国のために、両党は一定の綱領にもとづいて徹底的な協力をおこなわなければなりません。われわれのたえまない努力をつうじて、この協力はどうやら成立しましたが、問題は、双方が共同綱領を認め、その綱領にもとづいて行動することであります。新しい政治制度の確立がこの綱領の重要な部分です。
問 両党の協力をつうじて新しい制度を確立するにはどのようにしますか。
答 われわれはいま、政府機構と軍隊制度の改革を提案しています。われわれは当面の緊急事態に対処するため、臨時国民大会を招集するよう提案しています。この大会の代表は、だいたい孫中山先生の一九二四年の主張をとりいれて、各抗日政党、抗日軍隊、抗日民衆団体、抗日実業団体から一定の比率で推選されなければなりません。この大会は国家の最高権力機関としての権限をもつもので、これによって救国方針を決定し、憲法大綱を採択するとともに、政府を選出します。抗戦がすでに緊迫した転換点にたっしているので、政治を一新させ、時局の危機を救うには、権力をもち、また民意を代表できるこのような国民大会を早急に招集する以外にはないものと、われわれは考えています。この提案については、われわれは国民党と意見を交換中であり、かれらの賛同がえられることを期待しています。
問 国民政府は、国民大会の招集停止を公表したではありませんか。
答 その停止は正しいのです。停止したのは、国民党がまえに招集を準備していた国民大会であって、国民党の規定によると、あの大会は少しも権力をもたず、その選挙はなおさらのこと民意に全然かなっていないものです。われわれおよび各界は、あのような国民大会には賛同しません。われわれがいま提案している臨時国民大会は、さきに停止されたものとは根本的にちがったものです。臨時国民大会がひらかれれば、それによって全国はかならず面目を一新し、政府機構の改革、軍隊の改革、人民の動員にとっての必要な前提がえられます。抗戦の局面の転機は、じつにこのことにかかっているのです。
(一九三七年十一月十二日)
これは、毛沢東同志が一九三七年十一月、延安でひらかれた党の活動者会議でおこなった報告要綱である。党内の右翼日和見主義分子はそのときからこの要綱に反対してきたが、一九三八年十月、党の第六期中央委員会第六回総会になって、この右翼的傾向は基本的に克服された。
(一)われわれは、たとえ一面的抗戦であっても、日本帝国主義の進攻とたたかう抗戦であるならば、すべて支持する。なぜなら、それは無抵抗主義よりは一歩すすんでおり、革命性をもっており、また祖国防衛のためにたたかうものだからである。
(二)だが、われわれは早くから(今年四月、延安でひらかれた党の活動者会議、五月にひらかれた党の全国代表会議、八月におこなわれた中央委員会政治局の決議〔1〕において)つぎのことを指摘してきた。人民大衆を参加させない、政府だけの一面的抗戦は、かならず失敗する。なぜなら、それは完全な民族革命戦争ではないからであり、大衆による戦争ではないからである。
(三)われわれは、全国の人民を総動員した完全な民族革命戦争、つまり全面的抗戦とよばれるものを主張する。なぜなら、そのような抗戦だけが大衆による戦争であり、祖国防衛の目的をとげることができるからである。
(四)国民党の主張する一面的抗戦も、民族戦争であり、革命性をもってはいるが、その革命性はきわめて不十分である。一面的抗戦は、かならず戦争を敗北にみちびくものであって、けっして祖国を防衛することはできない。
(五)これが、共産党の抗戦の主張と現在の国民党の抗戦の主張との原則的な相違である。共産党員がこの原則性をわすれるなら、抗日戦争を正しく指導することはできず、国民党の一面性を克服する力をもたなくなり、共産主義者を無原則的な立場にひきおろし、共産党を国民党の水準までひきさげることになる。そうすることは、神聖な民族革命戦争と祖国防衛の任務にたいして罪をおかすものである。
(六)完全な民族革命戦争、つまり全面的抗戦では、共産党の提起した抗日救国十大綱領を実行しなければならす、またこの綱領を完全に実行する政府と軍隊がなければならない。
(七)上海、太原陥落後の情勢はつぎのとおりである。
1 華北では、国民党を主体とする正規の戦争は終わりをつげ、共産党を主体とする遊撃戦争が主要な地位をしめるようになった。江蘇、淅江両省では、国民党の戦線がすでに撃破され、日本侵略者は南京および長江流域にむかって進攻しつつある。国民党の一面的抗戦はもはやもちこたえられないことをしめしている。
2 イギリス、アメリカ、フランスなどの政府は、かれら自身の帝国主義的な利益のために、小国援助を表明しているが、まだ口先だけの同情にすぎず、なにも実力援助はしていない。
3 ドイツ、イタリアのファシストは、日本帝国主義を極力援助している。
4 国民党は、一面的抗戦をすすめるための一党独裁と民衆にたいする統制政策とを、まだ原則的にはあらためようとしていない。
これらが一方の状況である。
他方では、つぎの点がみられる。
1 共産党と八路軍の政治的影響は、きわめて大きく早くひろがり、「民族の救い主」という声が全国につたわっている。共産党と八路軍は、全国を防衛し、日本侵略者の中原地方と西北地方への進攻を牽制するために、華北の遊撃戦争を堅持する決意をかためている。
2 民衆運動が一歩前進した。
3 民族ブルジョア階級が左傾している。
4 国民党のなかに、現状の故事を主張する勢力が大きくなりつつある。
5 日本に反対し中国を援助する世界人民の運動が発展しつつある。
6 ソ連が中国に実力援助をあたえる準備をしている。
これらがもう一方の状況である。
(八)したがって、いまは一面的抗戦から全面的抗戦への過渡期にある。一面的抗戦はもうもちこたえる力がなくなり、全面的抗戦はまだ実現していない。これは端境期のような、重大な危機をはらんだ過渡期である。
(九)この期間には、中国の一面的抗戦は三つの方向に発展する可能性がある。
第一の方向は、一面的抗戦をやめて、全面的抗戦をおこなうことである。これは国内の大多数の人びとの要求であるが、国民党はまだその決意をしていない。
第二の方向は、抗戦をやめて、投降することである。これは日本侵略者、民族裏切り者および親日派の要求であるが、中国の大多数の人びとから反対されている。
第三の方向は、抗戦と投降が中国に並存することである。これは、日本侵略者、民族裏切り者および親日派が、第二の方向を実現できないため、中国の抗日戦線を分裂させようとする陰謀術策の結果である。かれらはいまそれを策動している。この危険は深刻に存在している。
(一〇)当面の情勢からみると、国内的にも国際的にも、投降主義をのさばらせない要因が優勢である。それらの要因とは、あくまで中国を滅ぼそうとする日本の方針によって、中国が戦わざるをえない立場におかれていること、共産党と八路軍が存在していること、中国人民の要求があること、自民党内の多数の党員の要求があること、イギリス、アメリカ、フランスが国民党の投降は自分たちの利益をそこなうものだと心配していること、ソ連が存在していることと中国援助の方針をとっていること、中国人民がソ連にたいして大きな期待(それはむなしい期待ではない)をよせていることなどである。これらの要因がうまく組織されれば、投降と分裂の要因が克服されるばかりでなく、一面的抗戦にとどまろうとする要因も克服される。
(一一)したがって、一面的抗戦から全面的抗戦への転換という前途がある。この前途の実現をかちとることは、すべての中国共産党員、すべての中国国民党内の進歩的な人びと、すべての中国人民にとって共通のさしせまった任務である。
(一二)中国の抗日民族革命戦争は、いま重大な危機に立っている。この危機は、長びくかもしれないし、比較的早くのりこえられるかもしれない。決定的な要因は、中国の国内では、国民党と共産党の協力およびこの協力を基礎とする国民党の政策の転換であり、労農大衆の力であり、国外では、ソ連の援助である。
(一三)国民党は、政治の面、組織の面で改造する必要があるし、その可能性もある〔2〕。それは主として、日本の圧迫、中国共産党の統一戦線政策、中国人民の要求、国民党内部の新しい勢力の増大によるのである。われわれの任務は、政府の改造、軍隊の改造の基礎として、国民党にこのような改造を実現させることである。この改造は、もちろん国民党中央の賛同をえなければならず、われわれは提案者の立場にある。
(一四)政府を改造すること。われわれは臨時国民大会を招集する方針を提起したが、これも必要な、また可能なことである。この改造も、もちろん国民党の賛同をえなければならない。
(一五)軍隊改造の任務は、新しい軍隊を創設し、ふるい軍隊を改造することである。もし半年ないし一年のあいだに、新しい政治意識をもった二十五万から三十万の軍隊を創設することができるなら、抗日の戦場には一転機が見えはじめるにちがいない。このような新しい軍隊は、すべてのふるい軍隊に影響をあたえ、それらを結集するだろう。これは、抗日戦争が戦略的反攻にうつる軍事的基礎である。この改造も、同様に国民党の賛同をえなければならない。八路軍はこの改造の過程で模範的な役割をはたさなければならない。八路軍自身は拡大されなければならない。
(一六)一九二七年、陳独秀の投降主義は、当時の革命を失敗にみちびいた。共産党員の一人ひとりは、この歴史上の血の教訓をわすれてはならない。
(一七)党の抗日民族統一戦線の路線についていうと、蘆溝橋事変までの党内のおもな危険な偏向は「左」翼日和見主義、つまり閉鎖主義であった。これは、主として国民党がまだ抗日していなかったことによる。
(一八)蘆溝橋事変のあと、党内のおもな危険な偏向は、もはや「左」翼閉鎖主義ではなく、右翼日和見主義、つまり投降主義の側に転じた。これは、主として国民党が抗日するようになったことによる。
(一九)四月に延安でひらかれた党の活動者会議のとき、五月にひらかれた党の全国代表会議のとき、とくに八月におこなわれた中央委員会政治局会議(洛川会議)のとき、われわれはすでにつぎの問題を提起した。統一戦線では、プロレタリア階級がブルジョア階級を指導するのか、それともブルジョア階級がプロレタリア階級を指導するのか。国民党が共産党をひきつけるのか、それとも共産党が国民党をひきつけるのか。当面の具体的な政治的任務のなかでは、この問題は、つまり自民党を共産党の主張する抗日救国十大綱領と全面的抗戦にまでひきあげるのか、それとも共産党を国民党の地主・ブルジョア階級の独裁と一面的抗戦にまでひきさげるのか、ということである。
(二○)どうしてこんなにするどく問題を提起するのか。それはこういうわけである。
一方では、中国のブルジョア階級が妥協性をもっていること、国民党が実力の面で優勢であること、国民党中央執行委員会第三回全体会議がその宣言と決議のなかで、共産党を中傷し侮辱し、「階級闘争をやめよ」とわめきたてていること、国民党が「共産党の投降」を心からのぞみ、それをひろく宣伝していること、蒋介石が共産党を統制しようとたくらんでいること、国民党が赤軍を制限し弱化する政策をとっていること、国民党が抗日民主根拠地を制限し弱化する政策をとっていること、国民党が七月の廬山訓練班〔3〕で「抗日戦争中に共産党の力を五分の三によわめる」陰謀計画をもちだしたこと、国民党が官位、金銭、酒色、享楽で共産党の幹部を誘惑していること、一部の小ブルジョア急進分子に政治的投降の動きがある(その代表は章乃器〔4〕)こと、などの状況がみられる。
他方では、共産党内の理論水準にでこぼこがあること、多くの党員が北伐戦争時期の国共両党合作の経験に欠けていること、党内に小ブルジョア階級出身者がたくさんいること、一部の党員にこれまでの苦しい闘争生活をつづけたがらない気分があること、統一戦線のなかに国民党に迎合する無原則的な傾向があること、八路軍のなかに新しい軍閥主義の偏向がうまれていること、共産党が国民党の政権に参加する問題がうまれていること、抗日民主根拠地のなかに迎合的傾向がうまれていること、などの状況がみられる。
こうした両方のきびしい状況からして、だれがだれを指導するかという問題をするどく提起しなければならず、投降主義に断固反対しなければならない。
(二一)ここ数ヵ月、主として抗戦いらい、共産党の中央および各級の組織では、すでにうまれている、またうまれる可能性のあるこうした投降主義の偏向にたいして、はっきりした断固たる闘争をおこない、必要な予防策をとり、しかも成果をあげてきた。
政権に参加する問題については、党中央から決議案草案がだされた〔5〕。
八路軍のなかでは、新しい軍閥主義の偏向にたいする闘争をはじめている。この偏向は、赤軍の編成がえがおこなわれたのち、少数の個々のものが、厳格に共産党の指導をうけることをいやがり、個人英雄主義をつのらせ、国民党から任命されることを光栄におもう(任官することを光栄におもう)などの現象としてあらわれている。この新しい軍閥主義の偏向は、人をなぐったり、どなりつけたり、規律をやぶったりするなどの現象としてあらわれる、ふるい軍閥主義の偏向とおなじ根(共産党を国民党の水準までひきさげること)をもち、おなじ結果(大衆から遊離すること)をもたらすものであるが、それは国共両党の統一戦線の時期にうまれたもので、とくに大きな危険性をもっている。したがって、とくに注意をはらい、断固として反対する必要がある。国民党の干渉によって廃止された政治委員制度や、国民党の干渉によって政訓処と改められた政治部の名称は、現在すでに復活している。「独立自主の山岳地帯遊撃戦」という新しい戦略原則を提起し、断固実行しているので、八路軍の作戦上、活動上の勝利が基本的に保障されている。国民党がその派遣する党員を八路軍の幹部にしてほしいという要求を拒否し、八路軍にたいする共産党の絶対的指導という原則を堅持している。それぞれの革命的な抗日根拠地では、おなじように「統一戦線における独立自主」という原則を提起している。「議会主義」的偏向(もちろん第二インターナショナルの議会主義ではない。そういう議会主義は中国の党内にはない)〔6〕を是正し、匪賊、スパイ、破壊分子にたいする闘争を断固すすめている。
西安では、両党関係における無原則的な傾向(迎合的傾向)を是正し、ふたたび大衆闘争をくりひろげている。
甘粛省東部では、西安とほぼおなじ状況である。
上海では、「よびかけを少なくし、献策を多くする」という章乃器主義を批判し、救国活動における迎合的傾向を是正しはじめている。
南方の各遊撃区――これは、われわれが国民党との十年にわたる血戦でたたかいとった成果の一部であり、抗日民族革命戦争の南方各省における戦略的支点であり、国民党が西安事変後もなお「包囲討伐」政策で滅ぼそうとし、蘆溝橋事変後はさらにおびきだし政策にあらためてよわめようとしている勢力である――では、われわれの注意力はつぎの点に集中される。(1)無条件の集結(それらの支点をとりのぞこうとする国民党の要求にかなっている)を防止すること、(2)国民党の人員派遣を拒否すること、(3)何鳴のばあいのような危険(国民党に包囲されて武装解除される危険)〔7〕を警戒すること。
『解放週刊』〔8〕では、厳正な批判の態度を堅持している。
(二二)抗戦を堅持し、最後の勝利をたたかいとるためには、また一面的抗戦を全面的抗戦に変えていくためには、抗日民族統一戦線の路線を堅持し、統一戦線を拡大し強化しなければならない。国共両党の統一戦線を分裂させるどんな主張もゆるされない。「左」翼閉鎖主義はひきつづき防止しなければならない。だが同時に、統一戦線のすべての活動は、独立自主の原則とかたく結びついたものでなければならない。われわれが国民党およびその他のいかなる政党とむすぶ統一戦線も、一定の綱領を実行することを基礎とした統一戦線である。この基礎をはなれてはどんな統一戦線もありえず、そういう協力は無原則的な行動となるのであって、投降主義のあらわれである。したがって、「統一戦線における独立自主」の原則を説明し、実践し、堅持することは、抗日民族革命戦争を勝利の道にみちびく中心的な環である。(二三)われわれがそうする目的はどこにあるのか。一つは、自分がすでにたたかいとった陣地を保持することにある。これは、われわれの戦略的出発点であり、この陣地をうしなえば、なにもかもおしまいである。だが、主要な目的は、もう一つの方にある。つまり、陣地を発展させるためであり、「何百何干方の大衆を抗日民族統一戦線に参加させて、日本帝国主義をうちたおす」というこの積極的な目的を実現するためである。陣地を保持することと陣地を発展させることとは切りはなせない。ここ数ヵ月らい、いっそう広範な小ブルジョア階級の左翼大衆がわれわれの影響下に結集しており、国民党陣営内の新しい勢力も大きくなりつつあり、山西省の大衆闘争も発展したし、多くの地方では党の組織も発展した。
(二四)だが、はっきり知っておかなければならないのは、全国では、党組織の力が一般的にいってまだ弱いということである。全国の大衆の力もまだ非常に弱く、全国の労農基本大衆はまだ組織されていない。これらのことはすべて、一方では、国民党の統制と抑圧の政策によるものであるが、他方では、われわれ自身が働きかけなかったか、あるいは働きかけが不十分だったためである。これは、現在の抗日民族革命戦争におけるわが党のもっとも基本的な弱点である。この弱点を克服しなければ、日本帝国主義にうち勝つことはできない。この目的を達成するには、かならず「統一戦線における独立自主」の原則を実行し、投降主義または迎合主義を克服しなければならない。
(二五)以上にのべたのは、他階級にたいする階級的投降主義である。それは、プロレタリア階級をブルジョア階級の改良主義と不徹底性に適応するようにみちびくものである。この偏向を克服しなければ、抗日民族革命戦争を勝利のうちにすすめることもできず、一面的抗戦を全面的抗戦に変えることもできず、祖国を防衛することもできない。
だが、もう一つの投降主義がある。それは、他民族にたいする民族的投降主義であって、中国を日本帝国主義の利益にかなうようにみちびき、中国を日本帝国主義の植民地に変え、すべての中国人を亡国の民に変えるものである。この偏向は、現在、抗日民族統一戦線の右派集団のなかにうまれている。
(二六)抗日民族統一戦線の左派集団は共産党にひきいられた大衆であり、それにはプロレタリア階級、農民、都市小ブルジョア階級の大衆がふくまれている。われわれの任務は、あらゆる努力をはらって、この集団を拡大し強化することである。この任務を達成することが、国民党を改造し、政府を改造し、軍隊を改造する基本的条件であり、統一的な民主共和国をうちたてる基本的条件であり、一面的抗戦を全面的抗戦に変える基本的条件であり、日本帝国主義をうちたおす基本的条件である。
(二七)抗日民族統一戦線の中間集団は民族ブルジョア階級と小ブルジョア階級上層である。上海の各大新聞が代表する階層は左傾しており〔9〕、復興社では一部のものが動揺しはじめ、CC団でも一部のものが動揺している〔10〕。抗戦している軍隊は深刻な教訓をえており、そのうちの一部のものは改造にとりかかったか、あるいはとりかかろうとしている。われわれの任務は、中間集団の進歩と転換をかちとることである。
(二八)抗日民族統一戦線の右派集団は大地主と大ブルジョア階級であって、それは民族的投降主義の大本営である。かれらは、一方では戦争で自分の財産が損害をうけるのをおそれ、他方では民衆が立ちあがるのをおそれており、かれらの投降への傾斜は必然的である。かれらのうちで、しっかりしているのは、個々の特殊な状況にあるものだけで、多くのものは、すでに民族裏切り者になったか、すでに親日派になったか、親日派になろうとしているか、いま動揺しているかである。かれらのなかの一部のものが一時的に民族統一戦線にはいったのは、仕方なしに、しぶしぶはいったのである。一般的にいって、かれらが抗日民族統一戦線から分裂して出ていく日は遠くない。いま、大地主と大ブルジョア階級のなかの多くのもっとも悪質な分子は、抗日民族統一戦線を分裂させる策動をしている。かれらはデマの製造元であり、「共産党の暴動」とか「八路軍の退却」とかいうデマは、今後も日ましにふえるだろう。われわれの任務は、民族的投降主義に断固反対し、しかもこの闘争のなかで、左派集団を拡大し強化し、中間集団の進歩と転換をかちとることである。
(二九)抗日民族革命戦争では」階級的投降主義は、事実上民族的投降主義の予備軍であり、右派陣営をたすけて戦争を失敗させるもっとも悪質な偏向である。中華民族と勤労大衆の解放をたたかいとるには、また民族的投降主義との闘争を断固として強力におしすすめるには、共産党の内部とプロレタリア階級の内部にある階級的投降の偏向とたたかい、この闘争を各分野の活動のなかでくりひろげなければならない。
〔1〕 一九三七年八月二十五日、中国共産党中央委員会政治局が陝西省北部でひらいた洛川会議において採択した「当面の情勢と党の任務についての決定」をさす。全文はつぎのとおり。「(一)蘆溝橋における戦争挑発と北平、天津の占領は、日本侵略者が中国中心部に大挙進攻する手始めにすぎない。日本侵略者は、すでに全国の戦時動員をはじめた。かれらが口にする「不拡大」の宣伝は、その進攻をおおいかくす煙幕でしかない。(二)南京政府は日本侵略者の進攻と人民の憤激におされて、抗戦の決意をかためはじめた。全体的な国防の配置と各地における実際の抗戦もすでにはじまっている。中国と日本との大戦はさけられない。七月七日の蘆溝橋の抗戦は中国の全国的な抗戦の出発点となった。(三)中国の政治情勢は、このときから新しい段階、つまり抗戦を実行する段階にはいった。抗戦の準備段階はすでにすぎた。この段階でのもっとも中心的な任務は、あらゆる力を動員して抗戦の勝利をかちとることである。これまでの段階では、民主主義をかちとる任務は、国民党がそれをのぞまず、民衆の動員がたりなかったので達成されなかったが、これは今後、抗戦の勝利をかちとる過程で達成しなければならないものである。(四)この新しい段階では、われわれと国民党およびその他の抗日諸派との区別および論争は、いかに抗戦の勝利をかちとるかの問題であって、もはや抗戦すべきかどうかの問題ではない。(五)こんにち、抗戦の勝利をかちとる中心の鍵は、すでに口火のきられた抗戦を全面的な全民族の抗戦に発展させることである。このような全面的な全民族の抗戦でなければ、抗戦は最後の勝利をおさめることはできない。こんにち、わが党の提起している抗日救国の十大綱領こそ、抗戦の最後の勝利をかちとる具体的な道である。(六)こんにちの抗戦には、きわめて大きな危険性がふくまれている。それは主として、国民党がまだ全国人民を抗戦に立ちあがちせることをのぞんでいないためである。逆に、かれらは、抗戦を政府だけの仕事と考え、人民の参戦運動をことごとに恐れ、制限し、政府や軍隊が民衆とむすびつくのをさまたげ、人民に抗日救国の民主主義的権利をあたえず、政府を全民族的な国防政府にするための徹底的な政治機構の改革をおこなおうとしない。このような抗戦では、局部的な勝利をかちとることはできても、けっして最後的な勝利をかちとることはできない。逆に、このような抗戦には重大な失敗をまねく恐れがある。(七)当面の抗戦にはまだ重大な弱点があるので、今後の抗戦の過程では、挫折、返却、内部分化、裏切り、一時的局部的な妥協など、多くの不利な状況かうまれる可能性がある。したがって、この抗戦は、苦難にみちた持久戦になることを見てとるべきである。だが、われわれは、すでに口火のきられた抗戦が、かならずわが党と全国人民の努力によって、あらゆる障害をつきやぶってひきつづき前進、発展することを確信する。われわれは、あらゆる困難を克服し、わが党が抗戦の勝利をかちとるために提起した十大綱領の実現をめざして断固たたかうべきである。この綱領にそむくすべてのあやまった方針に断固反対すると同時に、悲観的、失望的な民族敗北主義にも反対する。(八)共産党員およびその指導下にある民衆と武装力はもっとも積極的に闘争の最前線に立ち、みずから全国抗戦の中核となり、全力をあげて抗日の大衆運動を発展させるべきである。大衆に宣伝し、大衆を組織し、大衆を武装化するのに、わずかな時間もちょっとした機会ものがしてはならない。何百回千万の大衆をほんとうに民族統一戦線に組織できさえすれば、抗日戦争の勝利は疑いない。」
〔2〕 抗日戦争の初期、国民党と蒋介石は、人民の力におされて改革についてのさまざまな約束をしたが、その後、それを一つ一つ破棄していった。当時、全国の人民が希望していた国民党の改革の「可能性」は、実現されなかった。それは、のちに毛沢東同志が『連合政府について』のなかでつぎのように説明しているとおりであった。「当時、全国人民、われわれ共産党員、その他の民主政党は、みな国民党政府にきわめて大きな期待をよせていた。つまり、国民党政府がこの民族の危機と人心奮起の時機にあたって、民主改革を断行し、孫中山先生の革命的三民主義を実行にうつすことを期待していたのである。だが、この期待ははずれてしまった。」
〔3〕 廬山訓練班とは、蒋介石がその反動支配の骨幹を養成するため江西省の廬山でひらいた、国民党の党・政府関係の高級・中級幹部の訓練班をいう。
〔4〕 当時、章乃器は「よびかけを少なくし、献策を多くする」ことを主張した。事実、国民党が人民を抑圧している状況のもとでは、たんに国民党に「献策する」だけでは役にたたない。国民党と闘争するよう、直接民衆に「よびかけ」なければならない。そうしないかぎり、抗日を堅持することも、国民党の反動に抵抗することもできない。だから、章乃器のこの主張はまちがっていた。のちには、かれはしだいにその誤りを知るようになった。
〔5〕 一九三七年九月二十五日にだされた「共産党が政府に参加する問題についての中国共産党中央の決定草案」をさす。全文はつぎのとおり。「(一)こんにちの抗戦の情勢からすれば、有利に抗日民族革命戦争を指導し、日本帝国主義にうち勝つには全民族的な抗日民族統一戦線政府がさしせまって必要である。共産党はこのような政府に参加する用意があり、つまり直接に公然と政府の行政責任をおい、そのなかで積極的な役割をはたす用意がある。しかし、こんにち、まだこのような政府はない。こんにちあるのは、やはり国民党一党独裁の政府だけである。(二)国民党一党独裁の政府を全民族的な統一戦線の政府に変えたとき、つまりこんにちの国民党政府が、(イ)わが党の提起した抗日救国十大綱領の基本内容をうけいれ、この内容にもとづいて施政綱領を公表したとき、(ロ)実際の行動のうえでこの綱領を実現する誠意と努力をしめしはじめ、この面で相当の成績をあげたとき、(ハ)共産党の組織の合法的存在をゆるし、共産党に大衆を動員し、大衆を組織し、大衆を教育するという自由を保障したとき、そのときはじめて、中国共産党はこれに参加する。(三)党中央が中央政府に参加することを決定するまでは、共産党員は、一般に、地方政府に参加してはならず、政府行政機関に付属する、中央および地方のすべての行政会議および委員会に参加してはならない。なぜなら、そうしたものに参加することは、いたずらに共産党員としての姿をあいまいにし、国民党の独裁支配を長びかせ、統一的な民主政府の樹立をうながすのに有害無益だからである。(四)しかし、特殊な地区の地方政府、たとえば戦区の地方政府で、従来の支配者が、いままでどおり支配をおこなうことができず、基本的に共産党の主張を実行しようとしており、共産党もすでに公然たる活動の自由をえているばあい、しかも、当面の緊迫した情勢から、共産党の参加が人民と政府のいずれからも必要とされるにいたったばあいには、共産党はこれに参加してもよい。日本侵略者が占領している地域では、共産党は、なおさら公然と抗日統一戦線政権の組織者になるべきである。(五)共産党が公然と政府に参加する以前でも、全国国民大会のような、民主憲法や救国の方針を討議する代議機関に参加することは、原則的にゆるされる。したがって、共産党は、できるかぎり自己の党員を国民大会に当選させ、その演壇を利用して、共産党の主張を宣伝すべきであり、そうすることによって、人民を動員し、人民を共産党のまわりに組織し、統一的な民主政府の樹立を促進するのである。(六)共産党の中央および地方の組織は、国民党の中央および地方の党部とともに、一定の共同綱領にもとづき、完全な平等の原則にしたがって、各種連合委員会(たとえば国民革命同盟会、大衆運動委員会、戦地動員委員会など)のような統一戦線の組織をつくってもよい。共産党は、国民党とのこのような共同行動をつうじて、国共両党の協力を実現すべきである。(七)赤軍が国民革命軍と改称され、赤色政権機関が特別地区政府にあらためられたのちには、その代表者は、すでに獲得した合法的な地位によって、抗日救国に有利なすべての軍事的な機関や大衆的な機関に参加してもよい。(八)もとの赤軍およびすべての遊撃隊のなかでは、共産党が絶対的な独立した指導権を保持することは、完全に必要である。共産党員はこの問題でいかなる原則上の動揺もゆるされない。」
〔6〕 当時、党内の一部の同志が主張した、革命根拠地内の人民代表会議の政権制度をブルジョア国家の議会制度に変えようとする意見をさす。
〔7〕 一九三四年十月、中央赤軍が北上したのち、南方の江西、福建、広東、湖南、湖北、河南、淅江、安徽の八省の十四の地区にのこっていた赤軍遊撃隊は、極度に困難な状況のもとで遊撃戦争を堅持していた。抗日戦争が勃発すると、かれらは、中国共産党中央の指示にもとづいて、内戦を停止し一つの軍団に編成して(これがのちに長江南北で抗日を堅持した新四軍である)抗日のため前線へ出動するということについて、国民党と交渉した。ところが、蒋介石は、交渉を利用してこれらの遊撃隊を消滅しようとたくらんだ。福建・広東省境地区は当時の十四の遊撃区の一つであり、何鳴はこの地区の遊撃隊の責任者の一人であった。何鳴は、蒋介石の陰謀にたいして警戒を怠ったため、そのひきいていた一千余名の遊撃隊員が集結したのちに、国民党に包囲され、武装解除された。
〔8〕 『解放週刊』は中国共産党中央の機関誌であった。一九三七年、延安で創刊されたが、一九四一年、『解放日報』が発行されたので、停刊になった。
〔9〕 当時の『申報』などの新聞によって代表された一部の民族ブルジョア階級をさす。
〔10〕 復興社とCC団は、蒋介石と陳立夫をかしちとする、国民党内の二つのファシスト組織であり、大地主、大ブルジョア階級の寡頭支配の利益を代表していた。しかし、そのなかにいた小ブルジョア分子の多くは、強制されるか、だまされるかしてはいったものであった。ここでいう復興社の一部のものとは、おもに、当時の国民党軍隊の一部の中級・下級将校をさす。CC団の一部のものとは、おもに、その当時実権をにぎっていなかったものをさす。
(一九三八年五月十五日)
この布告は、毛沢東同志が陝西・甘粛・寧夏辺区政府と八路軍留守本部にかわって書いたもので、その目的は、蒋介石集団の破壊活動に対処することにあった。当時は国共合作が成立してまもないころであったが、蒋介石集団はもう共産党の指導する革命勢力を破壊しようとたくらんでいた。陝西・甘粛・寧夏辺区にたいする破壊活動は、こうした陰謀の一部であった。毛沢東同志は、革命の利益をまもるためには、決然とした立場をとらなければならないと考えた。この布告は、当時、党内の一部の同志が抗日統一戦線のなかで、蒋介石集団の陰謀活動にたいしてとっていた日和見主義の立場に打撃をあたえた。
布告事項。蘆溝橋事変いらい、わが全国の愛国的同胞は断固として抗戦をすすめている。前線の将兵は血をながし命を犠牲にしている。各党各派はまごころをもって団結している。各界の人民は救国のために協力している。これは中華民族の光明にみちた大道であり、抗日の勝利の確固たる保障である。わが国のすべての人びとは、この道を前進しなければならない。わが陝西・甘粛・寧夏辺区〔1〕の軍民は、政府の指導にしたがって、救国の事業に力をつくしている。実行していることはすべて公明正大である。みな苦難にめげず奮闘し、あえて労を口にしない。全国の人民は、異口同音にこれを称賛している。本政府および本留守本部は、その貫徹のために、全区の民衆にひきつづき努力するようひたすらはげましている。一人でも職責をはたきないものがあってはならず、一つでも救国に不利なことがあってはならない。しかるに、最近の調査によれば、辺区のなかには、大局をかえりみない輩が、さまざまな方法を利用して、すでに分配された土地や家屋の返還を農民に強要したり、すでに廃棄された債務〔2〕の返還を債務者に強要したり、すでに確立された民主主義制度の変更を人民に強要したり、すでに成立した軍事、経済、文化および民衆団体の組織を破壊したりしている。はなはだしさは、密偵になり、匪賊に通じ、部隊の反乱を扇動し、地図を作成し、ひそかに状況を調査し、辺区政府に反対する宣伝を公然とおこなっている。以上のさまざまな行為は、あきらかに、団結抗日の基本原則と、辺区人民の総意にそむくもので、内部の紛争をひきおこし、統一戦線を破壊し、人民の利益をそこない、辺区政府の威信を傷つけ、抗日への動員をいっそう困難にすることを企図するものである。その原因はほかでもなく、少数の頑迷分子が民族と国家の利益をかえりみず、悪事をほしいままにしていることにある。なかには、日本侵略者に利用され、さまざまな名目をつかってその陰謀活動をおおいかくす道具にしているものさえある。ここ数ヵ月、各県の人民はこれらのことについてしきりに報告し、その抑止を要求するもの、日に数件におよんで、応接にいとまがない。本政府および本留守本部は、抗日の力をつよめ、抗日の後方をかため、人民の利益をまもるために、さきにあげた行為を取り締まらざるをえない。よって、とりいそぎ、つぎのとおりはっきりと布告する。
(一)国内の平和がはじまったとき、辺区政府の管轄区域ですでに分配されていたすべての土地や家屋、廃棄されていたすべての債務については、本政府および本留守本部は、人民の既得の利益を保護し、勝手な変更をゆるさない。
(二)国内の平和がはじまったときすでに樹立されていて、その後抗日民族統一戦線の原則にもとづいて改善と発展をみた軍事、政治、経済、文化などの諸組織およびその他の民衆団体については、本政府および本留守本部は、その活動を保護し、その発展を促進し、破壊をたくらむすべての行為を禁止する。
(三)抗日救国に有利な事業であるかぎり、本政府および本留守本部は、『抗戦建国綱領』①を断固として実行するという原則のもとに、よろこんでこれをおしすすめるものである。好意的に協力する各界の人びとにたいしては、これを一律に歓迎する。だが、本政府または本留守本部の許可ならびに本政府または本留守本部の証明書なしに、外部から辺区にはいって滞在し活動するものにたいしては、詐称者を防ぎ、破壊分子を一掃するために、その活動の内容のいかんを問わず、一律に禁止する。
(四)抗戦の緊張しているこのとき、辺区で破壊活動をたくらんだり、ほしいままに攪乱したり、誘惑や扇動をおこなったり、軍事状況を内偵したりするものにたいしては、人民にその摘発をゆるす。証拠の確実なものは、その場で逮捕することをゆるす。取り調べの結果、それが事実であれば、一律に仮借なく厳罰に処する。
全辺区の軍隊と人民は、一律に右の四ヵ条をまもり、これにそむいてはならない。あえて攪乱をたくらむ不逞の徒があれば、本政府および本留守本部はかならず本布告にしたがって法的処分をおこなう。知らなかったということは抗弁の理由にはならない。以上のとおり布告する。
〔1〕 陝西・甘粛・寧夏辺区は、一九三一年以後、陝西皆北部の革命遊撃戦争のなかでしだいに発展してきた革命根拠地であった。中央赤軍が長征をへて陝西省北部に到達したのちは、革命の中心根拠地となり、同時に、中共中央の所在地となった。一九三七年、抗日民族統一戦線が成立してから陝西・甘粛・寧夏辺区と改称され、二十余県を管轄していたが、それは陝西・甘粛・寧夏三省がたがいに接している一部の地方からなっていた。
〔2〕 陝西・甘粛・寧夏辺区の大部分の地方では、地主の土地を没収して農民に分配し、農民が以前負っていた債務を廃棄するという政策を、すでに実施していた。一九三六年以後、中国共産党は広範な抗日民族統一戦線を結成するため、全国的に、地主の土地没収の政策のかわりに、小作料、利子引き下げの政策をとったが、農民が土地改革でえた成果にたいしては断固としてこれを保障した。
① 一九三八年三月、国民党は、武漢で臨時全国代表大会をひらき、『抗戦建国綱領』なるものを採択したが、そのなかには、総則、外交、軍事、政治、経済、民衆運動、教育など七項三十二ヵ条がふくまれていた。この綱領には、国民党の一党独裁、一面的抗戦のあやまった主張か依然としてつらぬかれていた。しかし当時、中国共産党と中国人民の強い圧力があったので、国民党はこの綱領のなかで、いくつかの臨機の措置を講じないわけにはいかなかった。たとえば、「国民参政機関を組織する」という決定や、「言論、出版、集会、結社について合法的な十分な保障をあたえる」とか「人民の生活改善に留意する」といった公約がそれである。これらの規定はたんなる空手形にすぎないとはいえ、中国人民は国民党にたいする闘争の道具として、これを利用することができた。
(一九三八年五月)
抗日戦争の初期には、遊撃戦争の重大な戦略的役割を軽視し、正規戦争、とくに国民党軍隊の戦いにだけ希望をかけているものが、党内にも党外にもたくさんいた。毛沢東同志はこのような観点を論駁すると同時に、この論文を書いて、抗日遊撃戦争の発展の正しい道をさししめした。その結果、抗日の期間中、一九三七年にはわずか四万余人しかなかった八路軍と新四軍は、一九四五年の日本降伏のときまでに百万の大軍に発展し、たくさんの革命根拠地を創設して、抗日戦争のなかで偉大な役割をはたした。そのため、抗日の期間中、蒋介石は日本に投降することも全国的規模の内戦を引きおこすこともできなくなり、一九四六年蒋介石が全国的規模の内戦を引きおこしたときには、八路軍と新四軍によって編成された人民解放軍は、その進攻にたちむかう力をもつまでになっていた。
抗日戦争では、正規戦争が主要なもので、遊撃戦争は補助的なものである。この点については、われわれはすでに正しく解決している。それならば、遊撃戦争には戦術問題しかないのに、どうして戦略問題を提起するのか。
もしわが国が小国であって、遊撃戦争が正規軍の戦役的作戦で近距離の直接的な呼応の役割をいくらかはたすだけであるなら、もちろん戦術問題があるだけで戦略問題などはない。また、もし中国がソ連のように強大で、敵が侵入してきてもすぐにそれを追いだすことができるか、あるいはかなり時間がかかっても占領されている地区がひろくはなく、遊撃戦争がやはり戦役的呼応の役割しかはたさないなら、もちろん戦術問題があるだけで戦略問題などはない。
遊撃戦争の戦略問題はつぎのような状況のもとでうまれるのである。すなわち中国は小国でもなければソ連のような国でもなく、大きくて弱い国である。この大きくて弱い国が、他の小さくて強い国から攻撃をうけているが、しかし、この大きくて弱い国の方は進歩の時代にある。ここからすべての問題がうまれるのである。このような状況のもとでは、敵の占領地域は非常にひろいという現象がうまれ、戦争の長期性がうまれる。敵はわれわれのこの大国において非常にひろい地域を占領しているが、かれらの国は小国で、兵力が不足し、占領区に多くの空白地帯を残している。したがって、抗日遊撃戦争は主として、内線で正規軍の戦役的作戦に呼応するのではなく、外線で単独作戦をするのである。そのうえ中国が進歩していること、つまり共産党の指導する強固な軍隊と広範な人民大衆とが存在することによって、抗日遊撃戦争は小規模なものではなくて、大規模なものとなる。そこで、戦略的防御、戦略的進攻などという一連のものが発生する。戦争の長期性とそれにともなう残酷性によって、遊撃戦争では普通とちがったことをたくさんしなくてはならないことが規定されている。そこで根拠地の問題、運動戦へ発展する問題などもおきてくる。そこで、中国の抗日遊撃戦争は、戦術の範囲からとびだし、戦略の門をたたいて、遊撃戦争の問題を戦略的観点から考察することを要求する。とくに注意しなければならないのは、このような大規模な、また持久的な遊撃戦争は、全人類の戦争史においても、たいへん目あたらしいことがらだということである。このことは、時代が二〇世紀の三、四十年代にまですすんできているということと切りはなせないし、共産党および赤軍の存在と切りはなせないのであって、ここに問題の焦点がある。われわれの敵は、おそらくまだ元朝が宋朝を滅ぼし、清朝が明朝を滅ぼし、イギリスが北アメリカとインドを占領し、ラテン系の諸国が中南米を占領したときのような甘い夢をみているのであろう。そんな夢は、こんにちの中国ではもはや現実的な価値はない。なぜなら、こんにちの中国には、上述のような歴史にくらべていくつかのものがふえているからであり、遊撃戦争というたいへん目あたらしいものがその一つである。もしわれわれの敵がこの点をみおとすなら、ひどい目にあうにちがいない。
これが、抗日遊撃戦争は抗日戦争全体のなかで依然として補助的な地位にあるにもかかわらず、それを戦略的観点から考察しなければならない理由である。
では、なぜ抗日戦争の一般的戦略問題のなかのものを遊撃戦争に適用しないのか。
抗日遊撃戦争の戦略問題は、もともと抗日戦争全体の戦略問題と緊密につながっており、多くの点で両者は一致している。だが、遊撃戦争はまた正規戦争とはちがって、それ自身の特殊性をもっているので、遊撃戦争の戦略問題は、かなり多くの特殊なものをもっており、抗日戦争の一般的戦略問題のなかのものを、けっして特殊な状況のもとにある遊撃戦争にそのまま適用してはならない。
遊撃戦争の戦略問題を具体的にのべるまえに、戦争の基本問題についてのべなければならない。
あらゆる軍事行動の指導原則は、できるかぎり自己の力を保存し、敵の力を消滅するという基本原則にもとづいている。この原則は、革命戦争においては基本的な政治原則と直接につながっている。たとえば、中国の抗日戦争の基本的政治原則すなわち政治目的は、日本帝国主義を駆逐し、独立、自由、幸福の新中国を樹立することである。それを軍事の面で実行すれば、軍事力で祖国を防衛し、日本侵略者を駆逐するということになる。この目的をたっするため、軍隊自身としては、一万では自己の力をできるかぎり保存し、他方では敵の力をできるかぎり消滅するという行動をとる。戦争のなかで勇敢な犠牲を提唱することを、どう解釈したらよいか。どの戦争でも代価を、ときには非常に大きな代価を支払わなければならないが、これは「自己保存」と矛盾しないだろうか。じつは少しも矛盾しない。もう少し正確にいうならば、それはたがいに反しあいながら、たがいに成りたたせあっているのである。なぜなら、このような犠牲は、敵の消滅に必要であるばかりでなく、自己の保存にも必要である――部分的、一時的に「保存しない」 (犠牲になるか代価を支払う)ことは、全体的、永久的に保存するために必要だからである。この基本的な原則から、軍事行動全体を指導する一連のいわゆる原則がうまれてくる。射撃の原則(身体を隠蔽すること、火力を発揮すること、前者は自己を保存するためのもの、後者は敵を消滅するためのもの)から、戦略原則にいたるまでのすべてが、この基本原則の精神によってつらぬかれている。すべての技術的、戦術的、戦役的、戦略的な原則は、この基本原則を実行するときの条件である。自己を保存し、敵を消滅するという原則は、あらゆる軍事原則の根拠である。
ここで、自己を保存し、敵を消滅するという目的をたっするには、抗日遊撃戦争の軍事行動で、どんな方針あるいは原則をとらなければならないかをみることにしよう。抗日戦争の(ひいては、あらゆる革命戦争の)遊撃隊は、一般に無から有に、小から大に発展するものであるから、自己を保存することのほかに、もう一つ自己を発展させるということがつけくわえられなければならない。したがって問題は、自己を保存または発展させ、敵を消滅するという目的をたっするには、どんな方針あるいは原則をとらなければならないかということである。
まとめていえば、主要な方針としてつぎの各項目がある。(一)防御戦中の進攻戦、持久戦中の速決戦、内線作戦中の外線作戦の主動的、弾力的、計画的実行。(二)正規戦争との呼応。(三)根拠地の樹立。(四)戦略的防御と戦略的進攻。(五)運動戦への発展。(六)正しい指揮関係。この六項目は、抗日遊撃戦争の全般的な戦略綱領であり、自己を保存し発展させ、敵を消滅し駆逐し、正規戦争と呼応して、最後の勝利をたたかいとるための必要な道である。
ここで、またつぎの四点にわけてのべることができる。(一)防御と進攻、持久と速決、内線と外線の関係。(二)すべての行動で主動的地位にたつこと。(三)兵力の弾力的な使用。(四)すべての行動の計画性。
まず、第一の点についてのべよう。
抗日戦争全体は、日本侵略者が強国で進攻しており、われわれが弱国で防御していることによって、われわれの方が戦略的には防御戦と持久戦をとるということが規定されている。作戦線についていうならば、敵は外線作戦であり、われわれは内線作戦である。これが状況の一面である。だが、他の一面はまったく逆になっている。敵軍は強い(兵器、兵員のもっているいくつかの素質、その他のいくつかの条件で)が、その数は多くなく、わが軍は弱い(おなじく、たんに兵器、兵員のもっているいくつかの素質、その他のいくつかの条件で)が、その数は非常に多い。そのうえ、敵はわが国に侵入してきた異民族であり、われわれは自国で異民族の侵入に抵抗しているという条件がくわわることによって、つぎのような戦略方針が規定される。すなわち戦略上の防御戦のなかで戦役上戦闘上の進攻戦をとることができるし、またとらなければならないこと、戦略上の持久戦のなかで戦役上戦闘上の速決戦をとることができるし、またとらなければならないこと、戦略上の内線作戦のなかで戦役上戦闘上の外線作戦をとることができるし、またとらなければならないことである。これは、抗日戦争全体がとらなければならない戦略的方針である。正規戦争もそうであり、遊撃戦争もそうである。遊撃戦争のちがうところは、その程度または形態の問題だけである。遊撃戦争は、一般に襲撃の形態で進攻をおこなうのである。正規戦争でも襲撃戦をとるべきであるし、またとることができるが、敵の意表にでる程度は比較的小さい。遊撃戦では、速決性がつよく要求されるが、戦役と戦闘で敵を包囲する外線圏は小さい。これらが正規戦とちがう点である。
このことからもわかるように、遊撃隊の作戦では、できるだけ多くの兵力を集中し、秘密で神速な行動をとり、敵の意表に出て襲撃し、すみやかに戦闘をかたづけることが要求され、消極的防御を極力いましめ、時間の長びくのを極力いましめ、戦いにのぞんで兵力を分散させることを極力いましめなければならない。もちろん遊撃戦争では、戦略上に防御があるだけでなく、戦術上にも防御がある。戦闘にさいしての牽制と警戒の面、敵を消耗、疲労させるための、隘路、要害、河川、村落などにおける抵抗の配置、退却時の掩護部隊などはすべて、遊撃戦争における戦術上の防御の部分である。だが、遊撃戦争の基本方針は進攻的なものでなければならず、正規戦争とくらべて、その進攻性はいっそう大きい。しかも、その進攻はかならず奇襲でなければならず、これみよがしに、鳴り物入りで自己を暴露することは、正規戦以上にゆるされない。遊撃戦争でも、ある孤立無援の小部隊の敵を攻撃するときのように、数日にわたって戦闘を堅持するばあいがあるが、一般の作戦では、正規戦以上に戦闘をすみやかにかたづけることが要求される。これは敵が強くて味方が弱いという状況によって規定されているのである。遊撃戦争はもともと分散的なものであるから、いたるところにひろがる遊撃戦になるのである。しかも、攪乱、牽制、破壊および大衆活動などの多くの任務においては、みな兵力の分散を原則とする。しかし、一つの遊撃部隊あるいは遊撃兵団についてみれば、敵を消滅する任務を遂行するばあい、とくに敵の進攻をうちやぶるために努力するばあいには、やはりその主要な兵力を集中しなければならない。「大きな力を集中して、敵の小部分をうつ」ことは、やはり遊撃戦争の戦場での作戦原則の一つである。
このことからもわかるように、抗日戦争全体からみると、正規戦と遊撃戦における戦役上戦闘上の進攻戦を数多くつみかさねたばあい、つまり進攻戦において数多くの勝ちいくさをしたばあいにはじめて、戦略的防御の目的をたっして、最後に日本帝国主義にうち勝つことができる。戦役上戦闘上の速決戦を数多くつみかさねたばあい、つまり戦役上戦闘上の数多くの進攻戦で戦闘をすみやかにかたづけることによって勝利をおさめたばあいにはじめて、抗戦の力を強める時間をかせぐ一方、国際情勢の変化と敵の内部崩壊をうながし、それをまつという戦略的持久の目的をたっして、戦略的反攻をおこない、日本侵略者を中国から駆逐することができるのである。また、戦略的防御の時期であろうと戦略的反攻の時期であろうと、毎回の戦いで優勢な兵力を集中し、一律に戦役上戦闘上の外線作戦をとり、敵を包囲して消滅し、全部は包囲できないまでもその一部を包囲し、包囲した敵の全部は消滅できないまでもその一部を消滅し、包囲した敵を大量にいけどることはできないまでもそれを大量に殺傷する。このような殲滅戦をたくさんつみかさねたばあいにはじめて、敵と味方の形勢を逆転させ、敵の戦略的包囲すなわち敵の外線作戦の方針を根本からうちやぶり、最後に、国際的な力および日本人民の革命闘争と呼応して、共同で日本帝国主義を包囲攻撃し一挙にそれを消滅することができるのである。こうした結果は、主として正規戦によってえられるものであり、遊撃戦ではそれにつぐ成果しかあげられない。だが、たくさんの小さな勝利をつみかさねて大きな勝利にしていくことは、正規戦と遊撃戦に共通したものである。遊撃戦争が抗日の過程ではたす偉大な戦略的役割とは、この点をいうのである。
つぎに、遊撃戦争の主動性、弾力性、計画性の問題についてのべよう。
遊撃戦争の主動性とはなにか。
すべての戦争では、敵味方の双方が戦場、戦地、戦区、さらに戦争全体の主動権を懸命にうばいあうが、この主動権とは、軍隊の自由権のことである。軍隊が主動権をうしない、受動的地位においこまれると、その軍隊は自由でなくなり、消滅されるかうちやぶられるかの危険におちいる。もともと、戦略的な防御戦と内線作戦では主動権をかちとることはわりあいに困難であり、進攻的な外線作戦では主動権をかちとることはわりあいに容易である。だが、日本帝国主義には、兵力が不足しており、外国で戦っているという二つの基本的な弱点がある。そのうえ、中国の力にたいする評価の不足と日本軍閥の内部矛盾によって、多くの指揮上のあやまり、たとえば兵力を逐次投入していること、戦略的な協同が欠けていること、ある時期には主攻方向がないこと、一部の作戦では時機を逸すること、包囲しても殲滅できないことなどがうまれており、これが三番目の弱点だといえる。このように、兵力が不足している(国が小さいこと、人口がすくないこと、資源が不足していること、封建的な帝国主義であることなどがふくまれる)、外国で戦争している(戦争の帝国主義的性質と野蛮性などがふくまれる)、指揮がまずい、ということによって、日本軍閥は進攻戦と外線作戦という有利な地位にありながら、その主動権は日に日に弱まっている。日本は、いまのところ、まだ戦争を終わらせようとのぞんでもいなければ、終わらせることもできず、その戦略的進攻もまだ停止してはいないが、大勢のおもむくところ、その進攻には一定の限度があり、これは三つの弱点がうんだ必然の結果である。全中国を際限なく併呑することは不可能である。日本が完全に受動的地位にたつ日はいつかやってくるのであって、そのような状況が、現在すでにみえはじめている。中国の側は、戦争がはじまったころ、かなり受動的であったが、現在では、すでに経験をつみ、新しい運動戦の方針、すなわち戦役上戦闘上の進攻戦、速決戦および外線作戦の方針をとりつつあり、そのうえ、遊撃戦をいたろところでくりひろげる方針をとっているので、主動的な地位は日一日と確立されつつある。
遊撃戦争における主動権の問題は、いっそう重大な問題である。なぜなら、遊撃隊の多くは、無後方作戦の状態、敵が強く味方が弱い状態、経験に欠けている状態(これはあたらしくできた遊撃隊についていうのである)、不統一の状態など、きびしい環境におかれているからである。だが、遊撃戦争は主動権を確立することができるのであって、そのための主要な条件は、さきにのべた敵の三つの弱点をとらえることである。敵の兵力の不足(戦争全体からいって)につけいれば、遊撃隊は広大な活動地区をおもうぞんぶんたたかいとることができる。かれらが異民族で、極度に野蛮な政策を実行しているということにつけいれば、遊撃隊は何百何千万という人民の支持をおもうぞんぶんたたかいとることができる。かれらの指揮のまずさにつけいれば、遊撃隊は自分たちの聡明さをおもうぞんぶん発揮することができる。敵のもっているこれらすべての弱点は、正規軍もそれをとらえて敵にうち勝つ元手にしなければなるないが、遊撃隊は、とくにそれをとらえるよう心がけるべきである。遊撃隊自身の弱点は、闘争のなかでだんだんすくなくしていくことができる。そのうえ、その弱点が、ときにはかえって主動的地位をかちとるための条件となる。たとえば遊撃隊は弱小だからこそ、敵の後方で神出鬼没の活動をするのに有利であり、敵はそれをどうすることもできないのである。このような大きな自由は、膨大な正規軍ではえられるものではない。
敵が数路にわかれて包囲攻撃をかけてきたばあいには、遊撃隊の主動権は掌握しにくく、喪失しやすい。このようなばあい、判断と処置が不正確だと受動的になりやすく、したがって、敵の包囲攻撃をうちやぶることができなくなる。敵が守勢をとり、わが方が攻勢をとっているときにも、このような事情がおこる。だかち、主動権は正確な状況(敵味方双方の状況)の判断と正しい軍事的政治的処置からうまれてくるのである。客観状況に合致しない悲観的な判断や、それにともなう消極的な処置をするなら、疑いもなく主動権をうしない、自己を受動的地位におとしいれてしまう。だが同様に、客観状況に合致しないあまりにも楽観的な判断や、それにともなう冒険(不必要な冒険)的な処置をしたばあいも、主動権をうしない、ついには、悲観論者とおなじ道をあゆむことになる。主動権は、なにも天才がうまれつきもっているものではなく、聡明な指導者が客観状況を謙虚に研究し、正確に判断し、軍事的政治的行動を正しく処理することによってのみうまれるものである。したがって、それは既成のものではなく、意識的にたたかいとらなければならないものである。
判断と処置のあやまり、あるいは不可抗力の圧力によって、受動的地位においこまれてしまったばあい、このときの任務は、受動からぬけでるように努力することである。どのようにぬけでるかは、状況によってきめなければならない。多くのばあいは「立ち去る」ことが必要である。立ち去るということを上手にやるのが、遊撃隊の特徴である。立ち去るということは、受動をぬけでて主動をとりもどす主要な方法である。だが、方法はこれだけに限らない。往々にして、敵がもっとも得意になり味方がもっとも困難なときこそ、敵が不利になりはじめ味方が有利になりはじめるときである。往々にして、有利な状況と主動性の回復は「もうひとふんばり」の努力のなかからうまれるものである。
つぎに、弾力性についてのべよう。
弾力性とは、主動性の具体的なあらわれである。弾力的に兵力を使用することは、正規戦争よりも遊撃戦争の方がいっそう必要である。
弾力的な兵力の使用は、敵と味方の形勢を変え、主動的地位をたたかいとるもっとも重要な手段であるということを、遊撃戦争の指導者に理解させなければならない。遊撃戦争の特質から、兵力の使用は任務および敵情、地形、住民などの条件に応じて弾力的に変えていかなければならない。その主要な方法は兵力の分散的使用、集中的使用および転移である。遊撃戦争の指導者が遊撃隊を使用するばあいには、ちょうど漁師が投網をうつように、ひろげるともできれば、たぐりよせることもできなければならない。漁師が投網をうつときには、水の深さ、流れの速さ、障害物の有無をみなければならないが、遊撃隊を分散的に使用するばあいにも、状況がわからず、行動をあやまったために損失をうけることのないよう注意しなければならない。漁師が投網をたぐりよせるには、手綱をにぎっていなければなるないが、部隊を使用するにも、通信、連絡をたもつとともに、相当の主力を自己の手もとに保持していなければならない。漁をするにはつねに場所を変えなければならないが、遊撃隊のばあいもつねにその位置を変えなければならない。分散、集中および移動は、遊撃戦争において弾力的に兵力を使用する三つの方法である。
一般的にいって、遊撃隊の分散的使用、すなわち「一つにまとまっているものを細かくする」ことは、おおよそつぎのようないくつかの状況のもとに実行される。(一)敵が守勢をとっているので、当分のあいだ集中して戦う可能性がなく、敵にたいし正面からひろい範囲にわたって脅威をあたえるばあい、(二)敵の兵力の薄弱な地区で、いたるところ攪乱と破壊をおこなうばあい、(三)敵の包囲攻撃をうちやぶることができず、目標を小さくして敵から脱しようとするばあい、(四)地形あるいは給養の制約をうけるばあい、(五)広大な地区で民衆運動をおこなうばあい。だが、どんな状況にあろうとも、分散行動をとるばあいには、つぎのことに注意しなければならない。(一)適当な機動地区にやや大きな部分の兵力を保持しておき、絶対的な平均分散をしないこと。それは、一つには、おこりうる事変に対処しやすくし、二つには、分散して任務を遂行するさいの重心をもうけるためである。(二)分散した各部隊に明確な任務、行動の地区、行動の時期、集合の地点、連絡の方法などをしめすこと。
兵力の集中的使用、すなわち「細かくしたものを一つにまとめる」という方法は、その多くが、敵が進攻してきたさいこれを消滅するためにとられるが、敵が守勢をとっているさいに一部の駐止している敵を消滅するためにとられることもある。兵力の集中といっても、絶対的な集中ではなく、ある重要な方面に主力を集中してつかい、その他の方面には、牽制、攪乱、破壊などのため、あるいは民衆運動をおこなうために、一部の兵力をのこすかあるいは派遣するのである。
状況に応じて弾力的に兵力を分散させたり兵力を集中したりすることは遊撃戦争の主要な方法ではあるが、なお弾力的に兵力を転移(移動)させることも知っていなければならない。敵は自分にとって遊撃隊が大きな危険であると感じたときには、軍隊を派遣して弾圧するか、あるいは進攻をおこなう。したがって、遊撃隊は状況を考えなければならす、戦ってもよいときにはその地で戦うが、戦ってはならないときには時機を逸せず迅速に他の方向に転移すべきである。ときには、敵を各個撃破するため、たったいまここで敵を消滅したばかりでも、ただちに他の方向に転移して敵を消滅する。また、ここでは戦闘に不利だとみれば、ただちにその敵からはなれて他の方向に転移して、そちらで戦闘することもある。もし敵からの脅威がとくにきびしければ、遊撃部隊は一つのところに長くとどまるべきではなく、急流疾風のように迅速にその位置を移すべきである。兵力の転移は、一般に秘密に迅速におこなわなければならない。敵をあざむき、おびきよせ、まどわせるために、つねに巧妙な方法をとらなければならない。たとえば、東を撃つとみせて西を撃つとか、南にいくかとおもえは北にいくとか、攻撃をくわえるやいなやざっと引くとか、夜間に行動するとか、などがそれである。
分散、集中および転移の弾力性は、遊撃戦争における主動性の具体的なあらわれであり、しゃくし定規で、動きがにぶければ、かならず受動的地位におちいり、不必要な損失をこうむることになる。だが、指導者の聡明さは、弾力的な兵力の使用の重要さを理解することにあるのではなく、具体的な状況に応じてときを移さず兵力の分散、集中および転移を上手におこなうことにある。たくみに情勢を判断し、時機を選択するという、このような聡明さをもつことは、容易なことではなく、謙虚に研究し、考察と思索につとめる人でなければ、それを身につけることはできない。弾力性をもつことが盲動におちいらないためには、状況を慎重に考える必要がある。
最後に、計画性の問題についてのべよう。
遊撃戦争で勝利をおさめるには、計画性がなければならない。がむしゃらにやろうとする考え方は、遊撃戦争をもてあそぶにすぎないか、遊撃戦争の門外漢のすることである。遊撃区全体の行動にしても、単独の遊撃部隊または遊撃兵団の行動にしても、まえもって、できるかぎり厳密な計画をたてておかなくてはならない。これがあらゆる行動のための準備活動である。状況の掌握、任務の確定、兵力の配置、軍事教育と政治教育の実施、給養物資の調達、装備の整理および民衆の呼応などは、いずれも、指導者たちの綿密な考慮、着実な実行、実行の程度の点検活動などにふくまれなければならない。この条件がなかったなら、主動とか弾力とか進攻とかいうものは、なに一つ実現できない。もちろん、計画性は正規戦争の方が高度であって、遊撃戦争の条件のもとでは、それほど高度なものはゆるされず、もし遊撃戦争のなかで高度の厳密な計画をたてようとするなら、それはあやまりである。だが、客観条件のゆるす範囲で、できるかぎり厳密な計画をたてることは必要である。敵との闘争は遊びごとではないことを知っておかなければならない。
以上のべた点は、遊撃戦争の戦略原則の第一の問題――防御のなかの進攻戦、持久のなかの速決戦、内線作戦のなかの外線作戦を主動的、弾力的、計画的に遂行するということを説明したものである。これは遊撃戦争の戦略原則のもっとも中心的な問題である。この問題が解決されれば、遊撃戦争の勝利は軍事指導のうえで重要な保障をえたことになる。
ここではたくさんのことをのべたが、それらはすべて戦役上戦闘上の進攻をめぐる問題である。主動的地位は、進攻が勝利したのちでなければ、最後的にかちとることはできない。すべての進攻戦はまた、主動的に組織すべきであって、せまられておこなうようであってはならない。弾力的な兵力の使用も、進攻戦のためにという中心をめぐっておこなわれるし、計画性が必要なのも、主として進攻の勝利のためである。戦術上の防御手段は、進攻を直接または間接にたすけることをはなれては、少しも意義がない。速決とは進攻の時間についていい、外線とは進攻の範囲についていうのである。進攻は敵を消滅する唯一の手段であるとともに、自己を保存する主要な手段でもある。単純な防御と退却は、自己を保存するのに一時的、部分的な役割をはたすだけで、敵を消滅するにはまったく役にたたない。
この原則は、正規戦争も遊撃戦争も、基本的にはおなじで、ただ形態に程度のちがいがあるだけである。だが、遊撃戦争では、このちがいに注意することが重要であり、また必要である。この形態がちがっているからこそ、遊撃戦争の作戦方法は正規戦争の作戦方法と区別されるのであって、この形態のちがいを混同すれば、遊撃戦争は勝利をおさめることができない。
遊撃戦争の戦略問題の第二の問題は、正規戦争との呼応の問題である。つまり、遊撃戦争の具体的行動の性質にもとづいて、遊撃戦争と正規戦争との作戦上の関係をあきらかにすることである。この関係を認識することは、敵を効果的にうちやぶるうえで重要な意義がある。
遊撃戦争の正規戦争との呼応には、戦略上、戦役上、戦闘上の三種類がある。
遊撃戦争全体が、敵の後方で敵を弱め、敵を牽制し、敵の輸送を妨害する役割をはたすこと、全国の正規軍と全国の人民に精神的激励をあたえることなどは、いずれも戦略上で正規戦争に呼応するものである。たとえば東北三省の遊撃戦争のばあい、全国的抗日戦争がはじまるまでは、もちろん呼応の問題はおこらなかったが、抗日戦争がはじまってからは、呼応の意義がはっきりあらわれてきた。そこの遊撃隊が敵兵をひとりでも多くうち殺し、敵の弾丸を一発でも多く消耗させ、敵兵をひとりでも多く牽制して万里の長城以南に侵入させないようにすることは、抗日戦争全体にたいしてそれだけ力を増大させたことになる。また、敵軍と敵国の全体に精神上不利な影響をあたえ、わが軍とわが人民の全体に精神上よい影響をあたえるということは、だれの目にもあきらかである。北平=婦綏、北平=漢□、天津=浦口、大同=風陵渡、正定=太原、上海=杭州などの鉄道沿線で、遊撃戦争がはたしている戦略上の呼応の役割にいたっては、いっそうあきらかである。遊撃隊は、現在のように敵が戦略的進攻をおこなっているとき、正規軍と呼応して戦略的防御の役割をはたしているばかりでなく、また、敵が戦略的進攻を終わって占領地の保持に転じたとき、正規軍と呼応して敵の保持を妨害するばかりでなく、さらに、正規車が戦略的反攻をおこなうとき、正規軍と呼応して敵軍を撃退し、すべての失地を回復するであろう。遊撃戦争が戦略上ではたす偉大な呼応の役割は、けっして軽視してはならない。遊撃隊と正規軍の指導者たちは、その役割をはっきり認識しなければならない。
そればかりでなく、遊撃戦争にはまだ、戦役上の呼応の役割がある。たとえば、太原北方の忻口鎮の戦役のとき、雁門関南北の遊撃戦争が、大同==風陵渡鉄道、平型関の自動車道路、楊万口の自動車道路などを破壊して戦役上はたした呼応の役割は大きいものであった。また、敵が風陵渡を占領したのち、山西省のいたるところでおこなわれていた遊撃戦争(主として正規軍によっておこなわれた)が、陝西省の黄河西岸、河南省の黄河南岸の防御戦と呼応して戦役上はたした呼応の役割は、いっそう大きいものであった。さらに、敵が山東省南部を攻撃したとき、華北五省全体の遊撃戦争も、山東省南部のわが軍の戦役的作戦と呼応するうえで、相当な力を発揮した。こうした任務では、敵の後方にある遊撃根拠地の指導者や臨時に派遣された遊撃兵団の指導者はすべて、自己の兵力をうまく配置し、おのおのがその時その地の状況に応じた方法をとって、敵のもっとも危険を感じている点やその弱い点にたいして積極的に行動をおこし、これによって敵を弱め、敵を牽制し、敵の輸送を妨害し、また内線で戦役的作戦をしている各部隊の士気を鼓舞するという目的をたっするようにし、戦役的呼応の責任をはたさなければならない。各遊撃区あるいは各遊撃隊が、戦役作戦上の呼応を考えず、めいめいのことしかやらないなら、戦略作戦全体としては依然として呼応の役割をうしなっていないとしても、戦役作戦上の呼応がないため、戦略的呼応の意義はよわめられてしまう。この点は、すべての遊撃戦争の指導者のよく注意しなければならないことである。この目的をたっするには、比較的大きな遊撃部隊や遊撃兵団のすべてに無線電信を設置しておくことが、どうしても必要である。
最後に、戦闘上の呼応、すなわち戦場作戦での呼応は、内線戦場の近くにいるすべての遊撃隊の任務である。もちろん、これは、正規軍の近くにいる遊撃隊または臨時に正規軍から派遣された遊撃隊にかぎる。このようなばあい、遊撃隊は正規軍の指導者の指示にしたがって、通常、一部の敵の牽制、敵の輸送の妨害、敵情の偵察、道案内など、指定された任務を担当しなければならない。正規軍の指導者からの指示がないときでも、遊撃隊はすすんでこれらのことをしなければならない。見ていてもなにもしない、遊動もしなければ攻撃もしない、遊動はしても攻撃はしないというような態度があってはならない。
抗日遊撃戦争の戦略問題の第三の問題は、根拠地樹立の問題である。この問題の必要性と重要性は、戦争の長期性と残酷性からくるものである。なぜなら、失地の回復は全国的な戦略的反攻のときを待たなければできないが、それまでは、敵の前線がわが国の中部にふかくくいこみ、それを縦断し、国土の半分ちかく、ひいては半分以上が敵におさえられて敵の後方になるからである。われわれは、そのように広大な被占領地区で遊撃戦争を広範に展開し、敵の後方も敵の前線に変えて、敵がその全占領地で戦争を停止できないようにしなければならない。われわれが戦略的反攻をおこない、失地を回復する日がくるまでは、敵の後方における遊撃戦争を堅持しなければならない。その時間ははっきり断定できないが、相当長いことは疑いない。これが戦争の長期性である。同時に、敵は占領地での利益を確保するため、かならず日ましにやっきになって遊撃戦争に対処し、とくに戦略的進攻を停止したのちは、遊撃隊に残酷な弾圧をくわえるにちがいない。このように、長期性のうえに残酷性がくわわるので、敵の後方における遊撃戦争は、根拠地なしにはもちこたえることができない。
遊撃戦争の根拠地とはなにか。それは、遊撃戦争が自己の戦略的任務を遂行し、自己の保存と拡大、敵の消滅と駆逐という目的をたっするための戦略的基地である。このような戦略的基地がなければ、あらゆる戦略的任務の遂行と戦争目的の達成はよりどころをうしなってしまう。敵の後方における遊撃戦争は、国の大後方からはなれているので、もともと無後方作戦がその特徴である。だが、遊撃戦争は、根拠地なしには長期間存続し、発展することができない。このような根拠地が、つまり遊撃戦争の後方である。
歴史上には、流賊主義的な農民戦争がたくさんあった①が、いずれも成功しなかった。交通および技術の進歩したこんにち、流賊主義で勝利をえようとすることは、なおさらなんの根拠もない幻想である。だが、流賊主義はこんにちの破産した農民のあいだになお存在しており、かれらの意識が遊撃戦争の指導者たちの頭に反映すると、根拠地を必要としない思想、あるいはそれを重視しない思想となる。したがって、遊撃戦争の指導者たちの頭から流賊主義をとりのぞくことが、根拠地樹立の方針を確立する前提である。根拠地を必要とするかどうか、根拠地を重視するかどうかの問題、いいかえると、根拠地思想と流賊主義思想との闘争の問題は、どんな遊撃戦争においてもうまれるものであり、抗日遊撃戦争においてもある程度まぬかれない。したがって、流賊主義との思想闘争は、欠くことのできない過程である。流賊主義を徹底的に克服し、根拠地樹立の方針を提起し、それを実行してこそ、長期間遊撃戦争をもちこたえるのに有利なのである。
根拠地の必要性と重要性をあきらかにしたが、つぎに、根拠地を樹立するさい、ぜひとも認識し、解決しなければならない問題がある。それらの問題とは、いくつかの種類の根拠地、遊撃区と根拠地、根拠地樹立の条件、根拠地の強化と発展、敵と味方のあいだのいくつかの種類の包囲である。
抗日遊撃戦争の根拠地は、だいたい、山岳地帯、平原地帯および河川・湖沼・港湾・川股地帯の三つの種類をでない。
山岳地帯での根拠地の樹立が有利なことは、だれにもあきらかであり、長白山〔1〕、五台山〔2〕、太行山〔3〕、泰山〔4〕、燕山〔5〕、茅山〔6〕などで、すでにつくられているか、いまつくられつつあるか、これからつくられようとしている根拠地が、それである。これらの根拠地は、抗日遊撃戦争をもっとも長期間もちこたえていける場所であり、抗日戦争の重要なとりでである。われわれは、敵の後方にあるすべての山岳地帯にいって遊撃戦争をくりひろげるとともに、根拠地をうちたてなければならない。
平原地帯が山岳地帯よりいくらかおとることはもちろんだが、けっして、遊撃戦争をくりひろげることができないわけではないし、またどんな根拠地もつくれないというのでもない。河北省の平原、山東省の北部と西北部の平原では、すでに広い地域にわたって遊撃戦争をくりひろげており、これは平原地帯で遊撃戦争をくりひろげることができる証拠である。平原地帯でも、長期間もちこたえられる根拠地を樹立することができるかどうかは、現在のところ、まだ証明されていない。だが、臨時的な根拠地の樹立、小部隊の根拠地または季節的な根拠地の樹立については、前者は現在すでに証明されているが、後者も可能だというべきである。なぜなら、一方では、敵は配置する兵力に不足し、また、かつてない野蛮な政策を実行しているということ、他方では、中国には広大な土地があり、また抗日の人民がたくさんいるということ、これらのことが平原地帯に遊撃戦争をくりひろげ、また臨時の根拠地をうちたてることのできる客観的な条件をあたえている。もしそのうえに、指揮の適切という条件がくわわれば、小部隊の、固定しない、長期の根拠地をうちたてることも当然可能だというべきである〔7〕。だいたい、敵がその戦略的進攻を終わり、占領地の保持の段階にうつってくると、遊撃戦争のすべての根拠地にたいする残酷な進攻がはじまるのは疑いのないことで、平原の遊撃根拠地は、おのずから、まっさきにその矢面にたたされる。そうしたとき、平原地帯で活動している大きな遊撃兵団は、もとのところで長期間作戦をもちこたえることができなくなり、状況に応じて、だんだん山岳地帯に転移していかなければならない。たとえば、河北平原から五台山と大行山に転移し、山東平原から泰山と膠東半島に転移するというようにする。だが、多くの小さな遊撃部隊を保持し、それらを広大な平原の各県に分散させて、流動作戦の方法、つまりときにはこちら、ときにはあちらという根拠地引っ越しの方法をとることは、民族戦争という条件のもとでは、可能性がないといえない。夏には見渡すかぎりのこうりゃん畑、冬には河川の結氷を利用する季節的な遊撃戦争となると、疑いもなく可能である。敵は現在手がまわりかねており、将来手がまわるにしても十分にゆきとどかないという条件のもとで、われわれが、現在は、平原の遊撃戦争を広範に展開し、臨時の根拠地を樹立するという方針、将来は、小部隊の遊撃戦争、すくなくとも季節的な遊撃戦争を堅持し、固定しない根拠地を樹立するという方針を確定することは、ぜひとも必要である。
河川・湖沼・港湾・川股をよりどころにして遊撃戦争をくりひろげ、また根拠地を樹立する可能性は、客観的にいうと、山岳地帯よりやや小さいが、平原地帯よりは大きい。歴史上のいわゆる「海賊」や「水賊」は無数の武勇劇を演じており、赤軍時代の洪湖の遊撃戦争は数年もの長いあいだもちこたえられたが、これらは河川・湖沼・港湾・川股地帯で遊撃戦争をくりひろげ、また根拠地を樹立することのできる証拠である。だが、抗日の各政党や抗日の人民は、いまになってもこの方面にあまり注目していない。まだ主体的条件がそなわっていないとはいえ、それに注目すべきであり、またそれを実行にうつすべきであるということは疑いがない。長江北部の洪沢湖地帯、長江南部の太湖地帯、大きな川や海岸にそった敵の占領地区にあるすべての港湾・川股地帯では、遊撃戦争を十分に組織し、河川・湖沼・港湾・川股およびその付近に恒久的な根拠地を樹立して、遊撃戦争を全国にくりひろげていく一つの方面とすべきである。この方面が欠けていることは、敵に水上交通の便をあたえるのと同じで、抗日戦争の戦略計画の一つの欠陥であり、すみやかにおぎなうべきである。
敵の後方で作戦する遊撃戦争にとって、遊撃区と根拠地にはちがいがある。周囲はすでに敵に占領され、なかはまだ占領されていないかあるいは占領されたがまた奪回したという地区――五台山地区(山西・察哈爾・河北辺区)のいくつかの県がそれであり、大行山地区と泰山地区にもそのような状況がある――こうした地区はいずれも既成の根拠地であって、遊撃隊がそこをよりどころにして遊撃戦争をくりひろげるのにたいへん都合がよい。だが、これらの地区のその他のところ、たとえば五台山地区の東部と北部すなわち河北省西部と察哈爾省南部のある部分、および保定以東・滄州以西一帯の多くの地方は、そうではない。そこでは、遊撃戦争のはじめの時期には、まだその地方を完全には占領することができず、たびたび遊撃しにいくだけで、遊撃隊がいくと遊撃隊のものになるが、遊撃隊が去ってしまうとまたかいらい政権のものになる。このような地区はまだ遊撃戦争の根拠地ではなくて、いわゆる遊撃区である。このような遊撃区は、多数の敵の消滅または撃破、かいらい政権の粉砕、民衆の積極性の発揚、民衆の抗日団体の結成、民衆の武装組織の拡大、抗日政権の樹立などといった遊撃戦争の必要な過程をへて、根拠地に転化するのである。これらの根拠地をまえからある根拠地にくわえることを、根拠地を発展させるというのである。
あるところの遊撃戦争は、その活動地区全体が、はじめのうち遊撃区であった。たとえば河北省東部の遊撃戦争がそうである。そこには、すでに長期にわたってかいらい政権が存在しており、その地方で蜂起した民衆武装組織と五台山から派遣された遊撃支隊は、その活動地区全体が、はじめのうち遊撃区であった。かれらが活動をはじめたときには、この地区内によい地点をえらんで臨時の後方とするほかなかった。これが臨時の根拠地ともよばれるものである。敵を消滅し、民衆を立ちあがらせる活動を展開したのちでなければ、遊撃区の状態をなくして、比較的安定した根拠地にすることはできない。
このことからもわかるように、遊撃区から根拠地になるのは、困難な創造の過程であり、遊撃区がすでに根拠地の段階にうつったかどうかは、敵を消滅し、民衆を立ちあがらせた程度いかんによってきまる。
多くの地区は、長期にわたって遊撃区の状態がつづくだろう。そこでは、敵は懸命にその支配につとめてはいるが、安定したかいらい政権を樹立することができず、われわれも懸命に遊撃戦争の発展につとめてはいるが、抗日政権樹立の目的をたっすることができない。たとえば、敵の占領している鉄道沿線、大都市の近郊地区、一部の平原地区がそうである。
敵が強大な力でおさえている大都市、鉄道駅および一部の平原地帯になると、遊撃戦争は、その付近にまで近づくことができるだけで、そのなかに侵入することはできず、そこには比較的安定したかいらい政権がつくられている。これがもう一つの状況である。
われわれの指導のあやまりかあるいは敵の強大な圧力によって、さきにのべたような状況に反対の変化がおこる、つまり根拠地が遊撃区となり、遊撃区が敵の比較的安定した占領地になることがある。このような状況のうまれる可能性があるから、遊撃戦争の指導者たちはとくに警戒する必要がある。
したがって、敵の占領している全地区は、遊撃戦争および敵味方双方の闘争の結果、つぎの三種類の地区に変わる。第一はわが方の遊撃部隊とわが方の政権に掌握されている抗日根拠地、第二は日本帝国主義とかいらい政権に掌握されている被占領地、第三は双方で争奪しあう中間地帯、すなわち遊撃区といわれるもの。遊撃戦争の指導者の責務は、第一と第三の地区を極力拡大し、第二の地区を極力縮小することである。これが遊撃戦争の戦略的任務である。
根拠地樹立の基本的条件は、抗日の武装部隊をもっとともに、この部隊をつかって敵にうち勝ち、民衆を立ちあがらせることである。だから、根拠地を樹立する問題は、なによりもまず武装部隊の問題である。遊撃戦争に従事している指導者たちは、全精力をそそいで一つないしたくさんの遊撃部隊を創設し、闘争のなかでそれをしだいに遊撃兵団に発展させ、さらに正規の部隊および正規の兵団に発展させなければならない。武装部隊を創設することは、根拠地を樹立するもっとも基本的な環であり、これがないか、あっても無力であるなら、なに一つできるものではない。これが第一の条件である。
根拠地の樹立と切りはなすことのできない第二の条件は、武装部隊をつかい、民衆と呼応して敵にうち勝つことである。敵におさえられているところはすべて、敵の根拠地であって、遊撃戦争の根拠地ではない。敵の根拠地を遊撃戦争の根拠地に変えることは、敵にうち勝たないかぎり実現できるものではなく、これは自明の理である。遊撃戦争でおきえているところでも、敵の進攻を粉砕せず、敵にうち勝たなかったら、それが敵のおさえるところに変わり、根拠地を樹立することもできない。
根拠地の樹立と切りはなすことのできない第三の条件は、武装部隊の力をふくむあらゆる力をあげて、民衆を抗日闘争に立ちあがらせることである。このような闘争をつうじて人民を武装化しなければならない。すなわち自衛軍や遊撃隊を組織しなければならない。このような闘争をつうじて民衆団体を組織しなければならない。労働者、農民、青年、婦人、児童、商人、自由職業者などのすべてを、かれらの政治的自覚と闘争意欲のもりあがりの程度に応じて、必要な抗日諸団体のなかに組織するとともに、それらの団体をしだいに拡大しなければならない。民衆は、組織されなければ抗日の力を発揮することはできない。このような闘争をつうじて、公然たる、あるいは潜伏している民族裏切り者を一掃しなければならない。そのことをなしとげるにも、民衆の力にたよる以外にない。とくに重要なことは、このような闘争のなかで、民衆を動員して、その地方の抗日政権を樹立し、または強化することである。もとからの中国の政権がまだ敵に破壊されていないところでは、広範な民衆の支持を基礎としてそれを改造し強化する。もとからの中国の政権がすでに敵に破壊されたところでは、広範な民衆の努力を基礎としてそれを回復する。この政権は、抗日民族統一戦線政策を実行するものであり、すべての人民の力を結集して、唯一の敵日本帝国主義とその手先民族裏切り者、反動派と闘争しなければならない。
すべての遊撃戦争の根拠地は、抗日の武装部隊をつくり、敵にうち勝ち、民衆を立ちあがらせるという三つの基本的な条件がしだいにととのってきたのちにはじめて、ほんとうに樹立されるのである。
このほかに、なお指摘しなければならないのは、地理的、経済的条件である。地理的条件の問題は「いくつかの種類の根拠地」について説明したとき、二つのちがった状況を指摘しておいたので、ここではただ主要な要求、つまり地区の広大さということだけをのべよう。四方あるいは三方を敵に包囲されているなかで、長期間もちこたえる根拠地を樹立するには、もちろん、山岳地帯がもっとも条件にめぐまれているが、主要なことは遊撃隊の機動する余地、つまり広大な地区がなければならないということである。広大な地区という条件があれば、平原地帯でも遊撃戦争をくりひろげ、もちこたえることができる。河川・湖沼・港湾・川股地帯なら、なおさらいうまでもない。中国は領土が広く、敵は兵力が不足しているので、中国の遊撃戦争には、一般にこの条件がそなわっている。遊撃戦争の可能性からいうなら、それは一つの重要な条件であり、いちばん重要な条件でさえある。小国、たとえばベルギーなどの国には、こういう条件がないので、遊撃戦争の可能性はきわめてすくなく、皆無でさえある。ところが中国では、この条件は、これからたたかいとる条件でもなければこれから解決する問題でもなく、自然にそなわっていて利用しさえすればよいのである。
経済的条件は、自然の面からみれば、地理的条件と同じような性質をもっている。いま論議しているのは、敵の後方に根拠地を樹立することであって、砂漠のなかに根拠地を樹立することではない。砂漠には敵などいない。敵がやってくることのできるところなら、もちろん、もとから中国人がいて、もともと食っていける経済的基礎があるから、根拠地樹立の面では、経済的条件を選択する問題はおこらない。中国人がいて敵もいるというところなら、その経済的条件のいかんをとわず、できるかぎり遊撃戦争をくりひろげるとともに、永久的な、あるいは臨時的な根拠地を樹立しなければならない。しかし、政治の面からみるとそうではなくて、問題が存在している。それは経済政策の問題であって、根拠地を樹立するうえで重大性をおびている。遊撃戦争の根拠地での経済政策としては、合理的な負担と商業の保護という抗日民族統一戦線の原則を実施しなければならない。地元の政権と遊撃隊はけっしてこの原則をやぶってはならず、さもないと根拠地の樹立および遊撃戦争の堅持に影響してくる。合理的な負担とは「金のあるものは金をだす」ことを実行することであるが、農民もまた一定量の食糧を遊撃隊に提供しなければならない。商業の保護では、遊撃隊の厳格な規律をつらぬくべきで、確実な証拠のあがった民族裏切り者のほかは、商店一軒でも勝手に没収してはならない。これは困難なことであるが、実行しなければならない確固とした政策である。
中国に侵入してきた敵を少数の拠点、つまり大都市と交通幹線のなかにとりかこんでおくため、各根拠地の遊撃戦争を極力その根拠地の周辺にむけて発展させ、敵のあらゆる拠点に肉薄して、その生存に脅威をあたえ、士気を阻喪させなければならない。それは、とりもなおさす遊撃戦争の根拠地を発展させることになり、きわめて必要なことである。ここでは、遊撃戦争における保守主義に反対しなければならない。保守主義は、それが安逸をむさぼることからうまれたものであろうと、敵の力を過大に評価することからうまれたものであろうと、いずれも抗日戦争に損失をもたらし、また、遊撃戦争とその根拠地自身にとっても不利である。他方、根拠地の強化をわすれてはならず、そのための主要な活動は、民衆を動員し、民衆を組織し、遊撃部隊と地方武装組織を訓練することである。このような強化は、長期の戦争をもちこたえていくためにも、また発展させていくためにも必要であって、強化しなければ有力に発展させていくことはできない。発展させるばかりで強化をわすれた遊撃戦争は、敵の進攻にたえることができず、その結果、発展できないばかりか、根拠地そのものも危うくするおそれがある。正しい方針は、強化しながら発展させていくことであり、それは進んでは攻め、退いては守ることのできるよい方法である。長期の戦争である以上、根拠地の強化と発展という問題はそれぞれの遊撃隊がつねにぶつかる問題である。具体的に解決するときには、状況に応じてきめなければならない。ある時期には、その重点を発展の面におくが、それは遊撃区を拡大し、遊撃隊を増大する活動である。他の時期には、重点を強化の面におくが、それは民衆を組織し、部隊を訓練する活動である。この二つのものは性質が異なっており、その軍事上の措置と活動の段どりもそれに応じてちがってくるので、状況に応じ、時期によって、重点のおきどころをかえなければ、この問題をうまく解決することはできない。
抗日戦争全体からみると、敵が戦略的進攻と外線作戦をとり、わが方が戦略的防御と内線作戦の地位におかれていることによって、疑いもなく、わが方は敵の戦略的包囲のなかにある。これは敵のわが方にたいする第一種の包囲である。わが方が量的に優勢な兵力をもって、外線から数路にわかれて前進してくる敵にたいし、戦役上戦闘上の進攻と外線作戦の方針をとることによって、各路にわかれて進んでくる一つ一つの敵はわが方の包囲下におかれる。これはわが方の敵にたいする第一種の包囲である。つぎに、敵の後方にある遊撃戦争の根拠地についてみると、孤立した一つ一つの根拠地は、四方または三方を敵に包囲されている。前者は五台山地区、後者は山西省西北地区がその例である。これは、敵のわが方にたいする第二種の包囲である。だが、各根拠地をつないでみれば、また遊撃戦争のそれぞれの根拠地と正規軍の戦線とをつないでみれば、わが方も多くの敵を包囲している。たとえば、山西省では、わが方は大同=風陵渡鉄道を三方(鉄道の東西両側および南端)から包囲し、太原市を四方から包囲している。河北省、山東省などにも、このような包囲がたくさんみられる。これは、わが方の敵にたいする第二種の包囲である。敵もわが方も、それぞれ相手にたいして二種類の包囲をおこなっており、それはだいたい、碁〔8〕をうつようなもので、敵のわが方にたいする、またわが方の敵にたいする戦役上戦闘上の作戦は石のとりあいに似ており、敵の拠点とわが方の遊撃根拠地はちょうど目のようなものである。この「目をつくる」ということに、敵の後方にある遊撃戦争の根拠地のもつ戦略的役割の重大さがしめされている。この問題を抗日戦争にもってくると、それは、一方では全国の軍事当局が、また他方では各地の遊撃戦争の指導者たちが、敵の後方で遊撃戦争をくりひろげ、またあらゆる可能なところで根拠地を樹立するという任務を、その議事日程にのぼせ、戦略的任務として遂行しなければならない、ということである。もしわれわれが、外交上で太平洋反日戦線を結成して、中国をその一つの戦略単位とし、またソ連およびその他の参加可能な国ぐにをそれぞれ一つの戦略単位とすることができるならば、われわれは、敵よりも包囲をもう一重ふやし、太平洋での外線作戦を形成して、ファッショ日本を包囲討伐することができるのである。もちろんこの点はいまのところまだ実践的意義をもたないが、そういう前途がないわけではない。
遊撃戦争の戦略問題の第四の問題は、遊撃戦争の戦略的防御と戦略的進攻の問題である。これは、第一の問題のなかでのべた進攻戦の方針を、抗日遊撃戦争が防御態勢または進攻態勢にあるときどのように具体的に応用するかという問題である。
全国的な戦略的防御と戦略的進攻(正確にいえば、戦略的反攻)のなかでは、遊撃戦争の一つ一つの根拠地でも、またその周囲でも、やはり小規模な戦略的防御と戦略的進攻とがある。前者は敵が攻勢をとり、わが方が守勢をとっているときの戦略的情勢と戦略的方針であり、後者は敵が守勢をとり、わが方が攻勢をとっているときの戦略的情勢と戦略的方針である。
遊撃戦争がすでにおこり、そして、それが相当発展したのち、とくに敵がわが全国にたいする戦略的進攻を停止し、占領地を保持する方針をとったときには、遊撃戦争の根拠地にたいする敵の進攻は必至である。この必然性を認識することは必要であって、さもなければ、遊撃戦争の指導者たちは全然用意がなく、ひとたび敵からきびしい進攻をうける情勢に直面すると、かならずあわてふためき、敵にうちやぶられてしまう。
敵は遊撃戦争とその根拠地を消滅するという目的をたっするため、よく包囲攻撃の方法をとる。たとえば、五台山地区はすでに四、五回もいわゆる「討伐」をうけており、敵は毎回、三路、四路ないし六路、七路に兵力を配置し、同時に計画的に前進してくる。遊撃戦争の発展規模が大きくなればなるほど、その根拠地のおかれている地位が重要になればなるほど、敵の戦略基地と交通要路への脅威が大きくなればなるほど、遊撃戦争とその根拠地にたいする敵の進攻もますますはげしくなっていく。したがって、遊撃戦争にたいする敵の進攻がはげしければはげしいほど、そこの遊撃戦争はそれだけ成果をあげており、正規戦争にたいする呼応の役割もそれだけ大きいということが証明される。
敵が数路から包囲攻撃をくわえている状況のもとでは、遊撃戦争の方針は、反包囲攻撃の形態をとって、その包囲攻撃をうちやぶることである。もし、敵が数路から前進してきても、その一路一路の部隊は、大きいにせよ小さいにせよただ一つだけで、後続部隊もなく、沿道に兵力を配置したり、堡塁を構築したり、自動車道路を修築したりすることができないという状態にあるならば、このような包囲攻撃をうちやぶることはたやすい。このときには、敵は進攻と外線作戦で、わが方は防御と内線作戦である。わが方の部署は、副次的な兵力をもって敵の数路を牽制する一方、主要な兵力をもって敵の一路に対処し、戦役上戦闘上の襲撃戦法(主として伏兵戦)をとり、敬が行動しているときにそれを襲撃することである。敵は強くても、何回も襲撃をうければ弱まり、往々にして中途で撤退するが、このとき、遊撃隊はまた、敵を追撃しながら襲撃をつづけて、さらにかれらを弱めることができる。敵がまだ進攻を停止しないか、あるいは退却しないときには、かれらはいつも根拠地内の県都やその他の町を占拠するので、わが方はこれらの県都やその他の町を包囲して、その食糧供給源と交通連絡を断ちきるべきであり、敵がどうにももちこたえられなくなって後退したとき、その機に乗じてこれを追撃する。一路の敵をうちやぶってから、さらに兵力を転移して他の路の敵をうちやぶる。こうして、敵の包囲攻撃を各個撃破していく。
たとえば五台山地区のように、大きな根拠地では、一つの「軍区」が四つか五つ、あるいはそれ以上の「軍分区」にわかれ、各軍分区ごとにそれぞれ独立して作戦する武装部隊がある。そこでは、上述の作戦方法によって、しばしば、同時にあるいはあい前後して、敵の進攻をうちやぶったのである。
反包囲攻撃の作戦計画では、わが方の主力は、一般に内線におかれる。だが、兵力に十分ゆとりのある条件のもとでは、副次的な力(たとえば県や区の遊撃隊、ないしは主力から分遣された一部の部隊)を外線につかい、そこで敵の交通線を破壊し、敵の増援部隊を牽制することが必要である。もし敵が根拠地内に長くとどまって去ろうとしないなら、わが方は上述の方法を逆につかう。すなわち一部の兵力を根拠地内にのこしてその敵をとりかこむ一方、主力を用いて数がもといた地方一帯を攻撃し、そこで大いに活動させ、いままで長くとどまっていた敵がわが主力を攻撃するためそこを出ていくようにしむける。これが、「魏を囲んで、趙を救う」〔9〕というやり方である。
反包囲攻撃の戦いでは、その地の人民の抗日自衛軍とすべての民衆組織は、みな立ちあがって戦争に参加し、さまざまな方法でわが軍をたすけ、敵とたたかうべきである。敵とたたかう活動のなかでは、地方の戒厳とできる範囲の竪壁清野という二つのことが重要である。前者は民族裏切り者を弾圧し、敵に情報を入手させないためであり、後者は戦いをたすけ(竪壁)、敵に食糧を入手させない(清野)ためである。ここでいっている清野とは、穀物がみのるころ、早めに刈り入れるという意味である。
敵は退却するさい、遊撃戦争の根拠地を破壊する目的で、しばしば、それまで占拠していた県都の家屋や沿道の村に火をつけて焼きはらうが、それは同時に、敵が二回目に進攻してきたときに住む家もなければ食べる物もなく、かれら自身を苦しめることになる。これがいわゆる、一つのことがらに二つのたがいに矛盾する意義がふくまれている、ということの具体的な例証の一つである。
何回か反包囲攻撃をかさねて、そこではどうしてもきびしい包囲攻撃をうちやぶることはできないということが証明されたときでなければ、遊撃戦争の指導者は、そこをすてて他の根拠地にいくようなことをくわだててはならない。このばあい、悲観的な気持ちがうまれるのを防止するよう注意しなければならない。指導のうえで、原則的なあやまりをおかしさえしなければ、ふつう山岳地帯なら、きっと包囲攻撃をうちやぶり、根拠地を守りぬくことができる。平原地帯だけは、きびしい包囲攻撃をうけたばあい、具体的な情勢に応じて、つぎの問題を考えなければならない。すなわち多くの小さな遊撃部隊をそこにのこして分散活動をさせる一方、大きな遊撃兵団を一時山岳地帯に転移させ、敵の主力が他に移動したのちにふたたびそこにもどって活動するようにさせるのである。
中国は領土が広く、敵は兵力が不足しているというこの矛盾した状況によって、敵は一般に、中国の内戦の時期に国民党がとったような堡塁主義②をとることはできない。だが、敵の要所をとくにおびやかしている一部の遊撃根拠地では、敵がかなりの程度の堡塁主義をとる可能性のあることを見通しておかなければならず、そのような状態のもとでも、やはり、そこの遊撃戦争を堅持する用意をしておかなくてはならない。内戦のときでさえ遊撃戦争が堅持できたという経験からすれば、民族戦争においては、なおさら堅持できることは疑う余地がない。なぜなら、たとえ兵力の対比において、一部の根拠地では敵が質のうえだけでなく、量のうえでもきわめて優勢な兵力を使用できるとしても、敵とわれわれのあいだの民族的矛盾は解決できず、敵の指揮上の弱点はさけられないからである。わが方の勝利は、深く根をおろした民衆活動と弾力的な作戦方法のうえにうちたてられている。
敵の進攻をうちやぶってから、敵の新しい進攻がはじまるまでは、敵が戦略的守勢をとり、わが方が戦略的攻勢をとるときである。
このようなとき、わが方の作戦方針は、防御陣地をかたく守っていて、うちやぶることのむずかしい敵を攻撃することではなく、計画的に、一定の地区において、遊撃隊の力でかたづけられる小部隊の敵や民族裏切り者の武装組織を消滅、駆逐して、わが方の占領地区を拡大し、民衆的な抗日闘争を燃えあがらせ、部隊を補充、訓練し、新しい遊撃隊を組織することである。これらの任務完遂の面でだいたい目鼻がついたのち、敵がまだ守勢をとっておれば、わが方の新しい占領地区をさらに拡大し、敵の力の弱い町と交通線を攻撃し、そのときの状況によって長期にあるいは一時的にそれを占領する。これらはみな戦略的進攻の任務であり、その目的は、敵が守勢をとっているときに乗じて、自己の軍事力と民衆の力を効果的にのばし、敵の力を効果的に小さくするとともに、さらに敵がふたたびわが方に進攻してきたときにもそれを計画的に力強くうちやぶることができるよう準備する、ということにある。
部隊の休息と訓練は必要であり、敵が守勢をとっているときは、わが方にとって休息と訓練のもっともよい機会である。それは、なにもせず、もっぱら門を閉ざして休息と訓練をするというのではなく、占領地を拡大し、小部隊の敵を消滅し、民衆動員の活動をやりながら、時間をかせいで休息と訓練をするのである。給養、被服などの困難な問題を解決するのも、しばしば、こういうときである。
大規模に敵の交通線を破壊し、敵の輸送を妨害し、正規軍の戦役的作戦を直接援助するのも、またこのときである。
このときが、全体の遊撃根拠地、遊撃区、および遊撃部隊にとっては、喜びにわきかえるときである。敵にふみにじられた地区も、しだいに整理され、活力を回復する。敵に占領されている地区の民衆もまた大いに喜び、遊撃隊の威望がいたるところにひろがっていく。敵とその手先民族裏切り者の内部は、一方では、恐怖感と瓦解がひろがっていき、他方ではまた、遊撃隊と根拠地にたいする憎しみがつのり、遊撃戦争に対処する準備を強化する。したがって、遊撃戦争の指導者たちは戦略的進攻のなかで有頂天になって、敵を軽視し、内部の団結、根拠地の強化、部隊の強化の活動をわすれるようなことがあってはならない。このようなときには、よく敵の動静を観察し、敵がふたたび進攻してくるきざしがあるかどうかみなければならない。そうすれば、敵が進攻してきても、わが方は適当なところで戦略的進攻をうちきって戦略的防御に転じ、そして、戦略的防御のなかで敵の進攻を粉砕することができる。
抗日遊撃戦争の戦略問題の第五の問題は、運動戦への発展の問題であり、それが必要であり可能であることは、やはり、戦争の長期性と残酷性からくるものである。もし、中国が急速に日本侵略者にうち勝ち、急速に失地を奪回することができ、なにも持久戦ではなく、また残酷な戦争でもないなら、遊撃戦が運動戦へ発展する必要はない。ところが、事情はまったく反対であって、戦争は長期でしかも残酷であるため、このような戦争に適応するには、遊撃戦が運動戦に発展する以外にない。戦争が長期で残酷であることから、遊撃隊は必要な鍛練をうけ、しだいに正規の部隊に変わっていくことができ、したがって、その作戦方式もしだいに正規化して、遊撃戦が運動戦に変わるのである。遊撃戦争の指導者たちが、運動戦への発展の方針を堅持し、それを計画的に遂行するには、このような必要性と可能性をはっきり認識しなければならない。現在、多くの地方の遊撃戦争は、たとえば五台山などのそれのように、正規軍が強力な支隊を派遣しておこさせたものである。そこの作戦は、ふつう遊撃戦であるが、はじめから運動戦の要素をふくんでいた。戦争が長びくにつれて、このような要素はしだいに増加していく。これは、こんにちの抗日遊撃戦争の長所であって、遊撃戦争を急速に発展させるばかりでなく、それを急速にたかめるものであり、それは東北三省の遊撃戦争にくらべて、条件がはるかにすぐれている。
遊撃戦をおこなう遊撃部隊を運動戦をおこなう正規部隊に変えていくには、量の拡大と質の向上という二つの条件をととのえなければならない。前者については、部隊にはいるよう人民を直接動員するほかに、小部隊を集中する方法をとってもよいが、後者については、戦争のなかでの鍛練と武器の質の向上に依存する。
小部隊を集中するには、一方では、地方の利益だけを考えて集中をさまたげる地方主義を防止しなければならず、他方では、地方の利益を考えない軍事一点ばり主義をも防止しなければならない。
地方主義は地方の遊撃隊および地方政府のなかに存在している。それらの人は、とかく全局の利益をわすれて地方の利益だけを考え、あるいは集団生活になじまず分散活動に夢中になる。主力の遊撃部隊または遊撃兵団の指導者たちは、このような事情に注意して、地方にひきつづき遊撃戦争をくりひろげていく余力を保たせるように、しだいにまた部分的に集中していくという方法をとらなければならず、また、小集団を大集団に融合させるように、まず協同の行動をとらせ、そのあとで、もとの編制をこわさずその幹部もかえないで一つに編成していくという方法をとらなければならない。
軍事一点ばり主義は、地方主義とは反対で、主力部隊の人たちが、自己の拡充だけをはかり、地方武装組織にたいする援助を考えないあやまった観点である。遊撃戦の運動戦への発展は、遊撃戦を廃止するのではなく、遊撃戦を広範にくりひろげていくなかで運動戦のできる主力をしだいに形成していくのであって、この主力をめぐるものはやはり数多くの遊撃部隊であり、広範な遊撃戦争でなくてはならないということを、かれらは知らないのである。そのような数多くの遊撃部隊は、この主力の有力な手足となるもので、この主力をひきつづき拡大させるためのつきることのない源泉でもある。したがって、主力部隊の指導者は、もし自分が地方民衆と地方政府の利益を考えない軍事一点ばり主義のあやまりをおかしたならば、それを克服して、主力の拡大と地方武装組織の増大にそれぞれ適当な位置を占めさせなければならない。
質を向上させるには、政治、組織、装備、技術、戦術、規律などのそれぞれの面で改善をくわえ、しだいに、正規軍を手本にし、遊撃隊の作風をすくなくしていかなければならない。政治のうえでは、指揮員や戦士たちに遊撃隊から正規軍へと一歩たかめていく必要性を認識させ、そのために努力するようにみんなをはげますとともに、政治工作によってそれを保障しなければならない。組織のうえでは、正規の兵団に必要な軍事と政治の機関、軍事と政治の要員、軍事と政治の活動方法、および補給と医療などの恒常的な制度を、しだいにととのえていかなければならない。装備の面では、武器の質の向上と種類の増加をはかり、必要な通信器材をふやさなければならない。技術と戦術の面では、遊撃部隊の技術と戦術を、正規の兵団に必要な技術と戦術にまでたかめなければならない。規律の面では、整然とした統一的な制度が実施され、命令や禁止が厳格に守られる程度にまでたかめ、自由、放漫な現象をなくしていかなければならない。これらすべてのことをやりとげるには、長い努力の過程が必要であり、一朝一夕にやれる仕事ではないが、この方向に発展することはどうしても必要である。こうしなければ、遊撃戦争の根拠地での主力兵団をつくりあげることはできず、敵にいっそう効果的な打撃をあたえる運動戦の方式を出現させることはできない。このような目的は、正規軍が支隊または幹部を派遣したところでは、比較的順調に達成することができる。したがって、すべての正規軍には、遊撃隊の正規部隊への発展をたすける責任がある。
抗日遊撃戦争の戦略問題の最後の問題は、指揮関係の問題である。この問題を正しく解決することは、遊撃戦争を順調に発展させる条件の一つである。、
遊撃戦争の指揮方法は、遊撃部隊が低い段階の武装組織であり、分散して行動する特質をもっているというところから、正規戦争の指揮方法とおなじような高度の集中主義はゆるされない。正規戦争の指揮方法を遊撃戦争につかおうとすれば、遊撃戦争の高度の活発さをしばり、遊撃戦争を少しも生気のないものにしてしまうにちがいない。高度の集中的指揮と遊撃戦争の高度の活発さとは、まったくあい反するものである。このような高度の活発さをもった遊撃戦争には、高度の集中的な指揮制度をつかうべきでないばかりか、つかうこともできない。
だが、遊撃戦争は、いかなる集中的指揮もせずに順調に発展できるものではない。広範な正規戦争があり、同時にまた広範な遊撃戦争があるという状況のもとでは、この両者の呼応作戦を適当におこなわせることが必要である。したがって、正規戦争と遊撃戦争との呼応作戦にたいする指揮が必要となる。これが戦略的作戦にかんする国家参謀部と戦区司令官の統一的指揮である。一つの遊撃区あるいは遊撃根拠地には、多数の遊撃隊が存在し、そのなかに、しばしば主力となっている一つないしいくつかの遊撃兵団(ときには正規の兵団もある)と、補助的な力として大小多数の遊撃部隊があり、さらに、生産をはなれない広範な人民武装組織がある。そこにいる敵もしばしば一つの局面を形づくって、統一的に遊撃戦争に対処する。したがって、このような遊撃区または根拠地内では、統一的指揮つまり集中的指揮の問題がおこる。
したがって、遊撃戦争の指揮原則は、一方では絶対的な集中主義に反対し、他方では絶対的な分散主義に反対することで、戦略上では集中的指揮、戦役上戦闘上では分散的指揮でなければならない。
戦略上の集中的指揮には、国家の遊撃戦争全体にたいする計画と指導、各戦区における遊撃戦争と正規戦争との呼応作戦、各遊撃区全体あるいは各根拠地全体の抗日武装組織にたいする統一的指導がふくまれる。これらの面での不協調、不統一、不集中は有害なものであり、できるかぎり協調、統一、集中をはからなければならない。一般的なことがら、つまり戦略的性質をもつことがらについては、協同行動の効果をあげるように、下級は上級に報告するとともに、上級の指導をうけなければならない。だが、集中はこの程度にとどめるべきであり、この限度をこえて下級の具体的なことがら、たとえば戦役上戦闘上の具体的な部署配置などに干渉することは、同様に有害である。なぜなら、こうした具体的なことがらは、ときによって変わり、ところによって異なるという具体的状況にもとづいておこなわなければならず、遠くはなれた上級機関では、そうした具体的状況を知るすべもないからである。これが戦役上戦闘上の分散的指揮の原則である。この原則は一般に正規戦争の作戦にも適用されるのであり、とくに通信設備の完備していない状況のもとではそうである。一口にいえば、それは、戦略的統一のもとでの独立自主の遊撃戦争である。
遊撃根拠地が一つの軍区を構成していて、その下がいくつかの軍分区にわかれ、軍分区の下がいくつかの県にわかれ、県の下がいくつかの区にわかれる状況のもとでは、軍区司令部、軍分区司令部、県政府、区政府という系統は上下関係であって、武装部隊はその性質に応じてそれぞれに所属する。それらのあいだの指揮関係については、上述の原則にもとづいて、一般的な方針は上級に集中し、具体的行動は具体的状況に応じておこない、下級が独立自主の権限をもつ。上級が下級の一部の具体的行動について意見をもっておれば、「訓令」として出すことができるし、また出すべきであって、けっして変更することのできない「命令」として出すべきではない。地区がひろくなり、状況が複雑になり、上級と下級との距離が遠くなればなるほど、そうした具体的行動のうえでは、ますます独立自主の権限をひろげ、地方性を多くもたせ、地方の状況の要求によく合致させなければならない。そうすることによって、複雑な環境に対処し、遊撃戦争を勝利のうちに発展させることのできるというような、独立活動の能力を下級および地方要員に身につけさせるのである。もし、集中的に行動する部隊または兵団なら、状況がはっきりしているので、その内部の指揮関係には集中的指揮の原則が適用される。だが、その部隊あるいは兵団がひとたび分散的行動にはいれば、具体的な状況をはっきり知ることができないので、一般的には集中、具体的には分散という原則が適用される。
集中すべきものを集中しなかったら、上の者は職責をはたさないということになり、下の者は勝手なふるまいをするということになる。これはどんな上級下級の関係でもゆるされないことであり、とくに軍事関係ではそうである。分散すべきものを分散しなかったら、上の者は一手代行をやるということになり、下の者は主動性がないということになる。これもまた、どんな上級下級の関係でもゆるされないことであり、とくに遊撃戦争の指揮関係ではそうである。この問題を正しく解決する方針としては、さきにのべた原則以外にない。
〔1〕 長白山は中国の東北の辺境にある山脈である。九・一八事変ののち、長白山区は中国共産党指導下の抗日遊撃根拠地となった。
〔2〕 五台山は山西、察哈爾、河北三省の省境にある山脈である。一九三七年十月、中国共産党に指導される八路軍は、五台山区を中心として山西・察哈爾・河北辺区の抗日根拠地を創設しはじめた。
〔3〕 大行山は山西、河北、平原(この首は一九五二年に撤廃され、その管轄地区はそれぞれ河北、山東、河南の三省に編入された――訳者)省の省境にある山脈である。一九三七年十一月、八路軍は太行山区を中心として山西省東南抗日根拠地を創設した。
〔4〕 泰山は山東省中部にあり、泰沂山脈の主峰の一つである。一九三七年の冬、中国共産党に指導される遊撃隊は、泰沂山区を中心として山東省中部根拠地を創設しはじめた。
〔5〕 燕山は河北省と熱河省(この省は一九五五年に撤廃され、その管轄地区はそれぞれ河北省、遼寧省および内蒙古自治区に編入された――訳者)の省境にある山脈である。一九三八年の夏、八路軍が燕山山区を中心として河北省東部抗日根拠地を創設した。
〔6〕 茅山は江蘇省南部にある。一九三八年六月、中国共産党に指導される新四軍が、茅山山区を中心として江蘇省南部抗日根拠地を創設した。
〔7〕 抗日戦争発展の経験によって、平原地帯で長期の根拠地を樹立することができ、しかもそのうちの多くは固定した根拠地になりうるということが証明された。これは、地域が広いこと、人口が多いこと、共産党の政策が正しいこと、人民の動員が普遍的におこなわれていること、敵の兵力が不足していることなどの条件によるものである。毛沢東同志は、その後、具体的な指示のなかでこの点をはっきり肯定している。
〔8〕 囲碁は、中国にひじょうに古くからある棋の一種である。双方の石がたがいに包囲しあい、こちらの一石または一群の石が相手の石に囲まれると、「取られ」てしまう。だが、包囲された一群の石のなかに必要な空地(「目」)かのこされていれば、この一群の石は「取られ」ないで、なお「活き」ているのである。
〔9〕 西紀前三五三年、魏軍は趙国の首都邯鄲を包囲攻撃した。斉国の国王は田忌、孫[月+賓]に、軍をひきいて趙の救援におもむくよう命じた。孫[月+賓]は魏国の精鋭部隊が趙にあり、本国内部は手薄であるとみて、兵を率いて魏を攻めた。魏軍は自国を救うためにひきかえしてきた。斉軍は魏軍の疲れているのに乗じ、桂陵(いまの山東省[”くさかんむり”の下に”河”]沢県の東北部――訳者)で戦い、大いに魏軍をやぶったので、趙国の包囲はついに解けた。それ以後中国の軍事家は、「魏を囲んで趙を救う」ということばをつかって、これに似た戦法を説明するようになった。
① 本題集第一巻の『党内のあやまった思想の是正について』注〔2〕、注〔3〕を参照。
② 本選集第一巻の『大衆の生活に関心をよせ、活動方法に注意せよ』注〔4〕を参照。
(一九三八年五月)
これは、毛沢東同志が一九三八年五月二十六日から六月三日にかけて、延安の抗日戦争研究会でおこなった講演である。
(一)偉大な抗日戦争の一周年記念日、七月七日がまもなくやってくる。全民族が力を結集して、抗戦を堅持し、統一戦線を堅持し、敵にたいする英雄的な戦争をすすめて、やがて一年になる。この戦争は、東方の歴史において空前のものであり、世界の歴史においても偉大なものとなるであろうし、全世界の人民はみなこの戦争に関心をよせている。戦争の災いを身にうけて、自己の民族の生存のために奮闘している中国人の一人ひとりは、戦争の勝利を一日として心からのぞまない日はない。しかし、戦争は、いったいどういう過程をたどるのか。勝利できるのか、できないのか。速勝できるのか、できないのか。多くの人は持久戦を口にするが、なぜ持久戦なのか。どのようにして持久戦をすすめるのか。多くの人は最後の勝利を口にするが、なぜ最後の勝利がえられるのか。どのようにして最後の勝利をかちとるのか。これらの問題については、だれもが解決しているわけではなく、むしろ大多数の人がいまなお解決していない。そこで、敗北主義の亡国論者がとびだしてきて、中国は滅びる、最後の勝利は中国のものではないという。また一部のせっかちな友人もとびだしてきて、中国はすぐに勝てる、大して骨を折らなくてもよいという。これらの論議ははたして正しいだろうか。われわれはこれまでずっと、これらの論議はまちがっているといってきた。しかし、われわれのいっていることは、まだ大多数の人びとに理解されていない。その理由の一半は、われわれの宣伝と説明の活動がまだ不十分なことにあり、他の一半は、客観的事態の発展がまだその固有の性質をすっかりさらけだしていず、まだその姿を人びとのまえにくっきりとあらわしていないため、人びとがその全体のなりゆきや前途を見通しようがなく、したがって、自分たちの系統だった方針と方法を決定しようもなかったところにある。いまはもうよくなった。抗戦十ヵ月の経験は、なんの根拠もない亡国論をうちやぶるのに十分であり、せっかちな友人の速勝論を説得するにも十分である。このような状況のもとで、多くの人びとは総括的な説明をもとめている。とくに持久戦にたいしては、亡国論、速勝論という反対の意見があるし、また中味のないからっぽな理解もある。「蘆溝橋事変いらい、四億の人びとがひとしく努力しており、最後の勝利は中国のものである。」こうした公式が、広範な人びとのあいだにひろまっている。この公式は正しいが、それを充実させる必要がある。抗日戦争と統一戦線が堅持できるのは、つぎのような多くの要素によるのである。すなわち共産党から国民党にいたる全国の政党、労働者、農民からブルジョア階級にいたる全国の人民、主力軍から遊撃隊にいたる全国の軍隊、それに、社会主義国から正義を愛する各国人民にいたるまでの国際事情、敵国内の一部の反戦的な人民から前線の反戦兵士にいたるまでの敵国事情がそれである。要するに、これらすべての要素が、われわれの抗戦のなかでさまざまな程度で寄与しているのである。良心のある人なら、かれらに敬意を表すべきである。われわれ共産党員が他の抗戦諸政党や全国人民とともにすすむ唯一の方向は、悪逆無道の日本侵略者にうち勝つため、すべての力を結集するよう努力することである。今年の七月一日は、中国共産党の創立一七周年記念日である。共産党員の一人ひとりが抗日戦争のなかで、よりよく、より大きく努力できるようにするためにも、とくに持久戦の研究に力を入れる必要がある。したがって、わたしはこの講演で持久戦について研究してみたい。持久戦という題目に関連する問題は、みなふれるつもりであるが、一つの講演でなにもかもいいつくせるものではないから、全部話すことはできない。
(二)抗戦十ヵ月らいのすべての経験は、つぎの二つの観点がまちがっていることを立証している。一つは中国必亡論、もう一つは中国速勝論である。前者は妥協の傾向をうみ、後者は敵を軽視する傾向をうむ。かれらの問題の見方は主観的、一面的であり、一言でいえば、非科学的である。
(三)抗戦以前には、亡国論的論議がたくさんあった。たとえば、「中国は兵器がおとっているから、戦えばかならず負ける」、「もし抗戦すれば、きっとエチオピアになってしまう」というのがそれである。抗戦以後、公然とした亡国論はなくなったが、かげでは存在しており、しかもかなり多い。たとえば妥協的空気の消えたりあらわれたりするのがそれで、妥協論者の根拠は「これ以上戦えばかならず滅びる」〔1〕という点にある。ある学生が湖南省からよこした手紙ではつぎのようにいっている。「田舎では何ごとにも困難を感じます。たった一人で宣伝活動をしていますので、機会あるごとに人に話しかけるよりほかありません。相手はみな知識のない愚民というわけではなくて、多少はわかっており、わたしの話にとても興味をもっています。けれどもわたしの親戚たちときたら、きまって『中国は勝てない、滅びる』といいます。まったく困ったものです。かれらはよそにふれまわらないからまだよいものの、そうでなければとんでもないことになります。もちろん、農民はかれらの方をいっそう信頼しているのです。」このたぐいの中国必亡論者が、妥協の傾向をうむ社会的基礎である。このたぐいの人びとは中国各地におり、したがって、抗日陣営のなかにいつでもでてくる可能性のある妥協という問題は、おそらく戦争の終局までなくならないであろう。徐州をうしない、武漢が急をつげているいま、こうした亡国論に痛烈な論ばくをくわえることは、無益ではないとおもう。
(四)抗戦十ヵ月らい、せっかち病をしめすいろいろな意見もうまれた。たとえば抗戦の当初には、なんの根拠もない楽観的な傾向が多くの人にみられた。かれらは日本を過小評価し、日本は山西省に攻めこむことはできまいとさえ考えた。ある人びとは、抗日戦争における遊撃戦争の戦略的地位を軽視して、「全体的には、い運動戦が主要なもので、遊撃戦は補助的なものであるが、部分的には、遊撃戦が主要なもので、運動戦は補助的なものである」という主張に疑いをしめした。かれらは、「基本的には遊撃戦であるが、有利な条件のもとでの運動戦もゆるがせにしない」という八路軍の戦略方針を「機械的」な観点であるとしてこれに賛成しなかった〔2〕。上海戦争①のとき、ある人びとは、「三ヵ月も戦えば、国際情勢がきっと変化し、ソ連がきっと出兵し、戦争はかたがつく」といい、抗戦の前途を主として外国の援助に託した〔3〕。台児荘の勝利〔4〕ののち、ある人びとは、これまでの持久戦の方針は改めるべきだといって、徐州戦役を「準決戦」とみなすべきだと主張した。そして「この一戦こそ敵の最後のあがきである、「われわれが勝てば、日本の軍閥は精神的に足場をうしない、おとなしく最後の裁きを待つほかなくなる」〔5〕などといった。平型関の勝利は、一部の人をのぼせあがらせ、さらに台児荘の勝利は、いっそう多くの人をのぼせあがらせた。そこで、敵が武漢に進攻するかどうかが疑問になった。多くの人は「そうとはかぎらない」と考え、また他の多くの人は「断じてありえない」と考えている。このような疑問はすべての重大な問題にかかわってくる。たとえば、抗日の力が十分だろうかということについては、然りと答えるだろう。いまの力でも敵のこれ以上の進攻を不可能にしているのに、これ以上力をふやしてどうするかというわけである。たとえば、抗日民族統十戦線を拡大、強化せよというスローガンが依然として正しいだろうかということについては、否と答えるだろう。統一戦線のいまの状態でも敵を撃退できるのに、どうしてこれ以上拡大と強化の必要があるかというわけである。たとえば、国際外交と国際宣伝の活動をもっと強化すべきだろうかということについても、否と答えるだろう。たとえば、軍隊制度の改革、政治制度の改革、民衆運動の促進、国防教育の励行、民族裏切り者とトロツキストの弾圧、軍事工業の発展、人民生活の改善をしんけんにおこなうべきだろうか、また、たとえば、武漢の防衛、広州の防衛、西北地方の防衛、敵の後方での遊撃戦争の猛烈な発展というスローガンが依然として正しいだろうか、これらのことについてもすべて否と答えるだろう。それどころか、ある人びとは、戦争の形勢がいくらか好転してくると、外に向いている目を内に向けさせるために、国共両党間の摩擦をつよめようとする。このような状況は、比較的大きな勝利をおさめるたびに、あるいは敵の進攻が一時足ぶみしたときには、ほとんどいつも発生する。上述のすべてを、われわれは政治上、軍事上の近視眼とよぶ。かれらのいうことは、筋がとおっているようにみえて、実際にはなんの根拠もない、まやかしの空論である。こうした空論の一掃は、抗日戦争を勝利をもってすすめるのに、当然役立つものである。
(五)そこで問題は、中国は滅びるかということで、答えは、滅びない、最後の勝利は中国のものである。中国は速勝できるかということで、答えは、速勝できない、抗日戦争は持久戦だということである。
(六)これらの問題の主要な論点は、二年もまえにわれわれが一般的に指摘した。すでに一九三六年七月十六日、すなわち西安事変の五ヵ月まえ、蘆溝橋事変の十二ヵ月まえに、アメリカの記者スノウ氏との談話のなかで、わたしは、中日戦争の情勢に一般的な判断をくだすとともに、勝利をかちとるための各種の方針を提起した。念のために、数ヵ所を抜きがきしておこう。
問 どのような条件のもとで、中国は日本帝国主義の武力にうち勝ち、これを消滅することができるのでしょうか。
答 三つの条件が必要です。第一は中国抗日統一戦線の達成、第二は国際抗日統一戦線の達成、第三は日本国内の人民と日本の植民地の人民の革命運動のもりあがりです。中国人民の立場からいえば、三つの条件のうち、中国人民の大連合が主要なものです。
問 この戦争はどのくらい長びくでしょうか。
答 それは、中国の抗日統一戦線の力と中日両国の他の多くの決定的な要素のいかんによってきまります。すなわち、主として中国自身の力によるほかに、中国にあたえられる国際的援助と日本国内の革命による援助も大いにこれと関連があります。もし中国の抗日統一戦線が強力に発展し、横の面でも縦の面でも効果的に組織されるなら、もし日本帝国主義に自分の利益を脅かされていることを知った各国政府と各国人民が、中国に必要な援助をあたえることができるなら、またもし日本に革命がはやくおこるなら、こんどの戦争はすみやかに終わりをつげ、中国はすみやかに勝利するでしょう。もしこれらの条件がすぐに実現しなければ、戦争は長びくでしょう。だが、結果はやはりおなじで、日本はかならず敗北し、中国はかならず勝利します。ただそれだけ犠牲が大きくなり、ひじょうに苦しい時期を経過するだけのことです。
問 政治上と軍事上からみて、この戦争は将来どう発展するでしょうか。
答 日本の大陸政策はすでに確定しています。中国の領土と主権をもうすこし犠牲にして、日本と妥協すれば、日本の進攻をやめさせることができるとおもっている人びと、こういう人びとの考え方はたんなる幻想にすぎません。われわれは、長江下流地域や南方各港までがすでに日本帝国主義の大陸政策にふくまれていることを確実に知っています。そのうえ、日本はさらにフィリピン、シャム、インドシナ、マレー半島およびオランダ領東インドを占領し、外国を中国から切りはなし、西南太平洋を独占しようと考えています。これは、また日本の海洋政策であります。このような時期には、中国は疑いもなく極度に困難な状況におかれるでしょう。だが、大多数の中国人は、このような困難は克服できると信じています。ただ大商港地の金持ちだけが財産の損失をおそれて敗北論者であるにすぎません。ひとたび中国の海岸が日本に封鎖されれば、中国は戦争を継続できなくなると考えている人もかなりいますが、これはばかげたことです。かれらを論ばくするには、赤軍の戦争史をあげてみるのもよいでしょう。抗日戦争で中国かしめる優勢な地位は、内戦当時に赤軍がしめていた地位よりもはるかにすぐれています。中国は非常に大きな国であって、たとえ日本が中国の人口一億ないし二億をしめる地域を占領しえたとしても、われわれの敗北にはほど遠いものがあります。われわれには依然として日本と戦うだけの大きな力がありますが、日本は戦争の全期間をつうじて、つねにその後方で防御戦をおこなわなければなりません。中国経済の不統一、不均等は、抗日戦争にとってむしろ有利です。たとえば、上海が中国のほかの地方から切りはなされたばあいに中国のうける損失は、けっして、ニューヨークがアメリカのほかの地方から切りはなされたばあいにアメリカのうける損失ほど深刻ではありません。日本が中国の沿岸を封鎖したとしても、中国の西北、西南および西部は、日本にとって封鎖のしようもありません。したがって、問題の中心はやはり全中国人民が団結して、挙国一致の抗日陣営をつくることです。これは、われわれがはやくから提起していることです。
問 日本を完全にはうちやぶれず、戦争が長びくようなら、共産党は講和に同意し、日本の東北支配を承認することができますか。
答 できません。中国共産党は、全国の人民とおなじように、日本か中国の一寸の土地も保持することを許しません。
問 あなたのご意見では、こんどの解放戦争の主要な戦略方針はどういうものですか。
答 われわれの戦略方針は、主力を、たえず変動する長い戦線での作戦に用いるべきだということです。中国の軍隊が勝利するには、迅速な前進と迅速な後退、迅速な集中と迅速な分散というひろい戦場での高度の運動戦が必要です。これは、塹壕を深くし、堡塁を高くし、いくえにも防備して、もっぱら防御設備にたよるという陣地戦ではなく、大規模な運動戦のことです。だからといってすべての重要な軍事地点を放棄せよというのではなく、有利でさえあれば、これらの地点に陣地戦の配置をすべきです。しかし、全局面を転換させる戦略方針は、どうしても運動戦でなければなりません。陣地戦も必要ですが、これは補助的な性質をもった第二の方針です。地理的に戦場がこのようにひろいので、われわれがもっとも効果的な運動戦をおこなうのは可能なことです。わが軍の猛烈な行動にあえば、日本軍は慎重にかまえざるをえません。かれらの戦争機構は鈍重で、行動は緩慢であり、効果は知れています。もしわれわれが兵力をせまい陣地に集中して消耗戦的な抵抗をするとすれば、わが軍は地理上、経済機構上の有利な条件をうしない、エチオピアのようなあやまりをおかすことになります。戦争の前期には、われわれは大きな決戦をすべてさけ、まず運動戦によって敵軍の士気と戦闘力をしだいに破壊していくようにしなければなりません。
訓練された軍隊を配置して運動戦をおこなうほか、さらに農民のあいだに多くの遊撃隊を組織しなければなりません。東北三省の抗日義勇軍は、全国の農民のなかの動員しうる抗戦潜在力のほんの一部をしめすものにすぎないことを知らなくてはなりません。中国の農民には大きな潜在力があり、組織と指揮が適切でさえあるなら、四六時中、日本の軍隊を奔命に疲れさせることができます。この戦争は中国でおこなわれているということを心にとめておかなければなりません。つまり、日本軍かかれらに敵対する中国人にすっかり包囲されるということ、日本軍が自分たちの必要とする軍需品を運んでこなければならず、しかも自分で見張っていなければならないということ、大きな兵力をさいて交通線を防備し、つねに襲撃を警戒していなければならないということです。そのほか、かれらは大量の兵力を満州と日本内地に配置する必要があります。
戦争の過程で、中国は多くの日本兵を捕虜にし、多くの兵器、弾薬を奪いとって自分を武装することができますし、外国の援助をかちとって、中国の軍隊の装備をしだいに強化していくこともできます。したがって、中国は戦争の後期には陣地戦をおこない、日本の占領地にたいして陣地攻撃をおこなうことができます。このようにして、日本は、中国の抗戦による長期の消耗によって、経済は崩壊し、無数の戦いに疲弊して、士気はおとろえていくでしょう。中国の側では、抗戦の潜在力が日ましに大きくたかまり、大量の革命的民衆がぞくぞくと前線におもむき、自由のために戦うでしょう。これらすべての要素が他の要素と結びつくと、われわれは、日本の占領地の堡塁や根拠地にたいして最後の致命的な攻撃をくわえ、日本の侵略軍を中国から駆逐することかできます。(スノウ著『中国の赤い星』)
抗戦十ヵ月の経験は、上述の論点の正しさを立証しているし、今後もひきつづき立証するであろう。
(七)蘆溝橋事変がおこって一ヵ月あまりのちの一九三七年八月二十五日、すでに中国共産党中央は、「当面の情勢と党の任務についての決定」のなかで、つぎのようにはっきり指摘した。蘆溝橋における戦争挑発と北平、天津の占領は、日本侵略者が中国中心部に大挙進攻する手始めにすぎない。日本侵略者は、すでに全国の戦時動員をはじめた。かれらが口にする「不拡大」の宣伝は、その進攻をおおいかくす煙幕でしかない。
七月七日の蘆溝橋の抗戦は中国の全国的な抗戦の出発点となった。
中国の政治情勢は、このときから新しい段階、つまり一抗戦を実行する段階にはいった。抗戦の準備段階はすでにすぎた。この段階でのもっとも中心的な任務は、あらゆる力を動員して抗戦の勝利をかちとることである。
抗戦の勝利をかちとる中心の鍵は、すでに口火のきられた抗戦を全面的な全民族の抗戦に発展させることである。このような全面的な全民族の抗戦でなければ、抗戦は最後の勝利をおさめることはできない。
当面の抗戦にはまだ重大な弱点があるので、今後の抗戦の過程では、挫折、退却、内部分化、裏切り、一時的、局部的な妥協など、多くの不利な状況かうまれる可能性がある。したがって、この抗戦は、苦難にみちた持久戦になることを見てとるべきである。だが、われわれは、すでに口火のきられた抗戦が、かならずわが党と全国人民の努力によって、あらゆる障害をつきやぶってひきつづき前進、発展することを確信する。
抗戦十ヵ月の経験は、同様に、上述の論点の正しさを立証したし、今後もひきつづき立証するであろう。
(八)戦争の問題における観念論的、機械論的な傾向は、すべてのあやまった観点の認識論上の根源である。かれらの問題の見方は主観的、一面的である。かれらは、少しも根拠をもたずに純主観的にのべたてるか、あるいは問題の一側面、一時期のあらわれだけにもとづいて、同様に主観的にそれを誇張して、全体とみなすのである。しかし、人びとのあやまった他点は、二種類にわけることができる。一つは根本的なあやまりであって、一貫性をおびており、これは是正しにくい。もう一つは偶然的なあやまりであって、一時的性質をおびており、この方は是正しやすい。だが、ともにあやまりである以上、どちらも是正する必要がある。したがって、戦争の問題における観念論的、機械的的な傾向に反対し、客観的な観点と全面的な観点で戦争を考察することによって、はじめて戦争の問題について正しい結論がえられるのである。
(九)抗日戦争はなぜ持久戦なのか。最後の勝利はどうして中国のものなのか。その根拠はどこにあるのか。
中日戦争は他のいかなる戦争でもなく、半植民地・半封建の中国と帝国主義の日本とが二〇世紀の三十年代におこなっている生死をかけた戦争である。問題の根拠はすべてここにある。それぞれについてのべると、戦争している双方には、つぎのようなあい反した多くの特徴がある。
(一〇)日本側。第一に、日本は強い帝国主義国であって、その軍事力、経済力、政治組織力は東方第一級のものであり、世界でも五つか、六つの著者な帝国主義国のうちの一つである。これが日本の侵略戦争の基本条件であり、戦争が不可避で、中国の速勝が不可能なのは、この日本という国家の帝国主義制度とその強い軍事力、経済力、政治組織力からきている。しかし、第二に、日本の社会経済の帝国主義的性質から、日本の戦争の帝国主義的性質がうまれ、その戦争は退歩的な野蛮なものとなっている。二〇世紀の三十年代にいたって、日本帝国主義は、内外の矛盾から、空前の大規模な冒険戦争をおこなわざるをえなくなったばかりでなく、最後的崩壊の前夜においやられている。社会発展の過程からいえば、日本はもはや繁栄する国ではない。戦争は日本の支配階級が期待している繁栄をもたらすことはできず、かれらの期待とは反対のもの――日本帝国主義の死滅をもたらすであろう。これが日本の戦争の退歩性というものである。この退歩性のうえに、さらにもう一つ、日本が軍事的・封建的な帝国主義であるという特徴がくわわって、その戦争の特殊な野蛮性がうまれている。このため、その国内における階級対立、日本民族と中国民族との対立、日本と世界の大多数の国ぐにとの対立が最大限にひきおこされる。日本の戦争の退歩性と野蛮性は日本の戦争の敗北が必至である主要な根拠である。そればかりではない。第三に、日本の戦争は、強い軍事力、経済力、政治組織力を基礎としておこなわれているとはいえ、同時にまた先天的に不足しているという基礎のうえでおこなわれている。日本の軍事力、経済力、政治組織力は強いが、量の面では不足している。日本は国土が比較的小さく、人力、軍事力、財力、物力にいずれも欠乏を感じており、長期の戦争にはたえられない。日本の支配者は戦争をつうじてこれらの困難な問題を解決しようとしているが、それはやはりおなじように、かれらの期待とは反対のものをもたらすであろう。つまり、日本の支配者はこの困難な問題を解決するために戦争をおこしたが、その結果は戦争によって困難が増大し、もとからもっていたものまで消耗してしまうであろう。最後に、第四に、日本は国際ファシスト諸国の援助をうることはできるが、同時に、その国際的な援助の力をうわまわる国際的な反対の力にぶつからざるをえない。この後者の力はしだいに増大して、結局は前者の援助の力を相殺するばかりでなく、日本自身にもその圧力をくわえるであろう。これは、道にそむくものには援助が少ないという法則であり、日本の戦争の本質からうまれたものである。要するに、日本の長所はその戦力の強さにあるが、短所はその戦争の本質の退歩性、野蛮性にあり、その人力、物力の不足にあり、国際関係において援助が少ないということにある。これらが日本側の特徴である。
(一一)中国側。第一に、わが国は半植民地・半封建の国である。アヘン戦争〔6〕から太平天国②、戊戌維新〔7〕、辛亥革命③そして北伐戦争にいたるまでの、半植民地・半封建的地位からぬけだそうとするすべての革命的または改良的な運動が、いずれも重大な挫折をこうむったために、この半植民地・半封建的地位は依然としてそのままである。わが国は依然として弱国であり、軍事力、経済力、政治組織力などの面で敵におとっている。戦争が不可避で、中国の速勝が不可能である根拠は、この面にもある。しかし、第二に、中国ではこの百年らい解放運動がつみかさぬられて今日にいたっており、もはや歴史上のいかなる時期ともちがっている。内外のさまざまな反対勢力は解放運動に重大な挫折をこうむらせはしたが、同時に中国人民をきたえた。今日の中国の軍事、経済、政治、文化は、日本ほど強くはないが、中国自身について比較してみれば、歴史上のいかなる時期よりもずっと進歩した要素をもっている。中国共産党とその指導下にある軍隊はこの進歩的な要素を代表している。中国の今日の解放戦争は、まさにこのような進歩を基礎として、持久戦と最後の勝利の可能性を獲得したのである。中国はさしのぼる朝日のような国で、日本帝国主義の没落状態とはまったく対照的である。中国の戦争は進歩的であり、この進歩性から、中国の戦争の正義性がうまれている。この戦争は正義の戦争であるために、全国的な団結をよびおこし、敵国人民の共鳴をうながし、世界の多数の国ぐにの援助をかちとることができる。第三に、中国はまた大きな国で、土地が広く、物産は豊かで、人口が多く、兵力も多いので、長期の戦争をささえることができ、この点もまた日本と対照的である。最後に、第四に、中国の戦争の進歩性、正義性ということから、国際的に広範な援助がえられるのる、道にそむくものには援助が少ないという日本とはまったく逆である。要するに、中国の短所は戦力の弱さにあるが、長所はその戦争の本質の進歩性と正義性にあり、大国ということにあり、国際関係において援助が多いということにある。これらがすべて中国の特徴である。
(一二)このようにみてくると、日本は軍事力、経済力、政治組織力は強いが、その戦争は退歩的で野蛮であり、人力、物力も不十分で、国際関係でも不利な立場におかれている。反対に、中国は軍事力、経済力、政治組織力は比較的弱いが、まさに進歩の時代にあり、その戦争は進歩的で正義のものであり、そのうえ、持久戦を十分にささえうる大国という条件をもっており、世界の多数の国ぐにも中国を援助するであろう。――これらが、中日戦争でたがいに矛盾している基本的特徴である。これらの特徴は、双方の政治上の政策と軍事上の戦略戦術のすべてを規定してきたし、また規定しており、戦争の持久性と最後の勝利が日本のものではなくて、中国のものであることを規定してきたし、また規定している。戦争とはこれらの特徴の競争である。これらの特徴は、戦争の過程でそれぞれその本質にしたがって変化するのであって、ここからすべてのことが発生する。これらの特徴は、欺瞞的な捏造したものではなくて、事実上存在するものであり、不完全な断片的なものではなくて、戦争の基本的要素のすべてであり、あってもなくてもよいものではなくて、双方の大小すべての問題とすべての作戦段階をつらぬくものである。中日戦争を観察するのに、これらの特徴を忘れるなら、まちがうのは必然的である。たとえ一部の意見が一時はひとから信じられ、まちがいのないものにみえても、戦争がすすむにつれて、きっとそれがまちがいであることが立証されるであろう。では、われわれののべようとするすべての問題を、これらの特徴にもとづいて説明しよう。
(一三)亡国論者は敵とわが方の強弱の対比という要素だけをみて、以前は「抗戦すれば、かならず滅びる」といい、現在はまた「これ以上戦えば、かならず滅びる」といっている。もしわれわれが、敵は強いが小国であり、中国は弱いが大国である、というだけなら、かれらを説きふせるのに十分ではない。かれらは、小さくて強い国が大きくて弱い国を滅ぼすことができ、しかもたちおくれた国が進んだ国を滅ぼしうろことを立証するために、元朝が宋朝を滅ぼし、清朝が明朝を滅ぼした歴史上の証拠をもちだすであろう。もしわれわれが、それはふるい時代のことで、よりどころにはならないといえば、かれらは、小さくて強い資本主義国が大きくて弱いたちおくれた国を滅ぼしうることを立証するために、さらに、イギリスがインドを滅ぼした事実をもちだすであろう。したがって、すべての亡国論者を心服させて、その口を封じるには、また、宣伝活動にたずさわるすべての人びとに、まだわかっていない人びとや、まだしっかりしていない人びとを説得し、かれらの抗戦への信念をかためさせるための十分な論拠をもたせるには、もっとほかの根拠をあげなければならない。
(一四)このあげなければならない根拠とはなにか。それは時代の特徴である。この特徴は、具体的には、日本の退歩と、援助が少ないということ、中国の進歩と、援助が多いということにあらわれている。
(一五)われわれの戦争は他のいかなる戦争でもなく、中日両国が二〇世紀の三十年代におこなっている戦争である。敵の側についていえば、第一に、それはまもなく死滅しようとしている帝国主義であり、すでに退歩の時代にあり、それは、インドを滅ぼした当時のイギリスがまだ資本主義の進歩の時代にあったのとちがうばかりでなく、二十年まえの第一次世界大戦のときの日本ともちがう。こんどの戦争は、世界の帝国主義、なによりもまずファシスト諸国の大崩壊の前夜におこったものであって、まさにこのために、敵も最後のあがきの性質をおびる冒険戦争をおこなっているのである。したがって、戦争の結果、滅亡するのは中国ではなくて、日本帝国主義の支配者集団であり、これはさけられない必然性である。そのうえ、日本が戦争をおこなっているこの時期は、まさに世界各国がすでに戦争にみまわれたか、またはまもなくみまわれようとしているときであって、すべてのものが野蛮な侵略に抵抗して戦っているか、または戦う準備をしており、しかも中国というこの国は世界の多数の国ぐにおよび多数の人民と深い利害関係をもっているのである。このことこそ、日本が世界の多数の国ぐにと多数の人民の反対をすでにひきおこし、またもっと強くひきおこすであろうことの根源である。
(一六)中国の側はどうか。中国はもはや歴史上のいかなる時期とも比較できないものになっている。半植民地、半封建の社会であることが中国の特徴であり、したがって、弱国といわれている。だが、同時にまた、中国は歴史的には進歩の時代にあり、これが日本に勝利することのできる主要な根拠である。抗日戦争を進歩的だというのは、普通一般の進歩ではなく、エチオピアのイタリアにたいする抵抗戦争のような進歩でもなく、太平天国や辛亥革命のような進歩でもなくて、今日の中国の進歩をさしていうのである。今日の中国の進歩はどういう点にあるのか。それは、中国がもはや完全な封建国家ではなくて、すでに資本主義があり、ブルジョア階級とプロレタリア階級があり、すでに目ざめたか、あるいは目ざめつつある広範な人民があり、共産党があり、政治的に進歩した軍隊、すなわち共産党の指導する中国赤軍があり、数十年の伝統ある革命の経験、とりわけ中国共産党創立いらい十七年間の経験がある、という点にある。これらの経験が中国の人民を教育し、中国の政党を教育し、それがちょうど今日の団結抗日の基礎となっているのである。もしロシアに、一九〇五年の経験がなければ、一九一七年の勝利はありえなかったというなら、われわれも、この十七年らいの経験がなければ、抗日の勝利もありえないといえるであろう。これが国内的な条件である。
国際的な条件は中国を戦争のなかで孤立しないものとしており、この点も史上空前のことである。歴史上では、中国の戦争にしても、インドの戦争にしても、みな孤立していた。ただ、今日のばあいは、世界ですでにおこり、あるいはおこりつつある空前の広さと空前の深さをもった人民運動と、それの中国への援助がみられる。ロシアの一九一七年の革命にも世界の援助があり、それによってロシアの労働者と農民は勝利したが、その援助の規模はまだ今日ほど広くはなかったし、その性質も今日ほど深くはなかった。今日の世界の人民運動は、まさに空前の大きな規模と深さをもって発展している。まして、ソ連の存在は今日の国際政治における非常に重要な要素であり、ソ連はきわめて大きな熱意をもって中国を援助するにちがいない。こういう現象は二十年まえにはまったくなかったことである。これらすべてが、中国の最後の勝利にとって欠くことのできない重要な条件をつくりだしたし、またつくりだしつつある。大量の直接的援助はいまはまだなく、これからのことになるが、中国には進歩と大国という条件があるので、戦争の期間を長びかせ、国際的援助をうながすとともに、それを持つことができるのである。
(一七)そのうえに、日本は小国で、土地もせまく、物産も少なく、人口も少なく、兵力も少ないが、中国は大国で、土地もひろく、物産も豊かで、人口も多く、兵力も多いという条件があり、そこから強弱の対比のほかに、さらに小国、退歩、援助が少ないということと、大国、進歩、援助が多いということとの対比がでてくる。これが中国のけっして滅びることのない根拠である。強弱の対比によって、日本は中国で一定期間、一定程度横暴にふるまうことができ、中国はどうしても一時期苦難の道を歩まなければならないこと、抗日戦争が速決戦ではなくて、持久戦であることが規定されるが、しかし、また小国、退歩、援助が少ないということと大国、進歩、援助が多いということの対比によって、日本はいつまでも横暴にふるまうことはできず、かならず最後の失敗をなめ、中国はけっして滅びることがなく、かならず最後の勝利を得ることが規定される。
(一八)エチオピアはなぜ滅びたのか。第一には、弱国であったばかりでなく、小国でもあった。第二には、中国ほど進歩していず、奴隷制から農奴制にうつりつつあるふるい国で、資本主義もなければブルジョア政党もなく、まして共産党もなければ中国のような軍隊もなく、まして八路軍のような軍隊はなおさらなかった。第三には、国際的援助を待つだけの余裕がなく、その戦争は孤立していた。第四には、これが主要な点であるが、イタリアへの抵抗戦争の指導の面にあやまりがあった。エチオピアはこのために滅びたのである。しかし、エチオピアではまだかなり広範な遊撃戦争がおこなわれており、もしそれを堅持することができれば、それをよりどころにして将来の世界的変動のなかで祖国を回復することができる。
(一九)もし亡国論者が、「抗戦すれば、かならず滅びる」とか、「これ以上戦えば、かならず滅びる」ということを立証するために、中国の近代における解放運動の失敗の歴史をもちだすなら、われわれの答えも、時代がちがうという一言につきる。中国自身も、日本の内部も、国際環境も、みな以前とはちがっている。日本は以前よりいっそう強くなっているが、中国は半植民地、半封建的地位が依然として変わらず、その力は依然としてかなり弱い。この状態は深刻である。日本は、なおしばらくのあいだは、国内の人民を統制できるし、国際間の矛盾を対華侵略の手段に利用することもできる、これらはみな事実である。しかし、長期の戦争の過程で、かならず逆の変化がおこるであろう。この点はいまはまだ事実とはなっていないが、将来はかならず事実となる。亡国論者はこの点をすててかえりみない。中国はどうか。十余年まえと大いにちがって、いまではすでに新しい人間、新しい政党、新しい軍隊、新しい抗日政策があるばかりでなく、これらはいずれもかならず発展していくにちがいない。歴史上の解放運動がたびかさなる挫折をこうむったため、中国は、今日の抗日戦争のためにより大きな力をたくわえることができなかった――これは非常におしむべき歴史的教訓であり、今後はいかなる革命の力をも、二度と自分でふみにじってはならない――とはいえ、既存の基礎のうえでも、それに大きな努力をくわえれば、かならずしだいに前進し、抗戦の力を強めていくことができる。偉大な抗日民族統一戦線こそ、この努力の全般的方向である。国際的援助の面では、当面まだ大量かつ直接的な援助はみられないが、国際的な局面はすでにこれまでとは根本的に変わっており、大量かつ直接的な援助が醸成されつつある。中国近代の無数の解放運動の失敗には、いずれも客観的原因と主観的原因があったのであって、今日の状況にくらべることはできない。今日では、敵は強くわれわれが弱いこと、敵の困難はまだはじまったばかりで、われわれの進歩がまだ不十分であることなど、抗日戦争が苦難にみちた戦争であることを規定する多くの困難な条件はあるが、しかし、敵にうち勝つ有利な条件も多く、これに主観的努力さえくわえれば、困難を克服して勝利をかちとることができる。これらの有利な条件についていえば、歴史上で今日にくらべられるような時期はなく、これこそ、抗日戦争がけっしてこれまでの歴史上の解放運動のように失敗に終わることのない理由である。
(二〇)亡国論に根拠がないことは以上にのべたとおりである。しかし、このほかに亡国論者ではなく、愛国の士ではあるが、時局をひどく憂慮している人も多い。かれらは二つの問題をかかえている。一つは日本と妥協するのではないかという危惧、もう一つは政治の進歩が不可能ではないかという疑念である。この二つの憂慮すべき問題は、広範な人びとのあいだで論議されているが、解決のいとぐちが見いだされていない。そこで、この二つの問題について研究してみよう。
(二一)さきにのべたように、妥協の問題には社会的根源があって、その社会的根源が存在するかぎり、妥協の問題がうまれないはずはない。だが、妥協は成功するものではない。この点を立証するには、やはり日本、中国、国際の三つの面にその根拠をもとめるほかない。第一は日本の面である。抗戦の当初から、われわれはすでに、妥協の空気がつくりだされる時機のやってくること、つまり敵が華北と江蘇省、淅江省を占領すれば、投降勧告の手段に出るだろうということを見通していた。その後、はたしてその手がうたれたが、危機はすぐにすぎさった。その原因の一つは、敵がいたるところで野蛮な政策をとり、公然たる略奪をおこなったことである。中国が投降すれば、だれもが亡国の民になってしまう。敵のこの略奪政策、つまり中国を滅ぼそうとする政策は、物質的な面と精神的な面との二つにわけられるが、どちらもすべての中国人にたいしておこなわれる。それは下層の民衆ばかりでなく、上層の人びとにたいしてもおこなわれる――もちろん、後者にたいしてはいくぶんひかえ目ではあるが、それも程度のちがいだけで、べつに原則的なちがいはない。だいたいにおいて、敵は東北三省でおこなってきた例のやり方をそのまま中国中心部にもちこむ。物質的には、一般人民の衣食まで略奪して広範な人民を飢えと寒さに泣かせ、生産用具を略奪して中国の民族工業を破滅と隷属化においこむ。精神的には、中国人民の民族意識をふみにじる。日章旗のもとでは、あらゆる中国人は隷属の民となり、牛馬となるよりほかはなく、中国人としての気概をもつことはいささかもゆるされない。敵のこの野蛮な政策は、さらに奥地ふかく実施されようとしている。敵の食欲はひどく旺盛で、戦争をやめようとはしない。一九三八年一月十六日に日本の内閣が宣言した方針〔8〕は、いまなおこれをあくまで実施しているし、また実施せざるをえない。そのことが、あらゆる階層の中国人を憤激させている。これは敵の戦争の退歩性、野蛮性からくるもので、「厄運はのがれがたく」、そこで絶対的な敵対が形成された。ある時機がくれは、敵の投降勧告の手段がまたもやあらわれようし、一部の亡国論者がまたもやうごめき、そのうえ、ある種の国際勢力(イギリス、アメリカ、フランスの内部にはそうした人間がいる、とくにイギリスの上層分子がそうである)と結託して悪事をはたらくこともあろう。しかし、大勢のおもむくところ、投降などやれはしない。日本の戦争の執拗さと特殊な野蛮さとがこの問題の一つの面を規定している。
(二二)第二は中国の面である。中国が抗戦を堅持する要素は三つある。一つは共産党で、これは人民の抗日を指導する、たよりになる力である。もう一つは国民党で、かれらはイギリス、アメリカに依存しているため、イギリス、アメリカが投降させなければ、かれらも投降しないであろう。もう一つは他の政党で、その大多数は妥協に反対し、抗戦を支持している。この三者はたがいに団結していて、もし妥協するなら民族裏切り者の側に立つことになり、だれでもこれに懲罰をくわえることができる。民族裏切り者となることをのぞまないものはみな、団結して、最後まで抗戦を堅持せざるをえず、妥協は実際上成功しがたい。
(二三)第三は国際的な面である。日本の同盟国と資本主義諸国の上層分子の一部とをのぞけば、その他はすべて中国の妥協にとって不利であり、中国の抗戦にとって有利である。この要素は中国の期待に関係してくる。今日、全国の人民には、国際勢力がしだいに中国への援助を強めるにちがいないという期待がある。この期待はむなしいものではない。とくに、ソ連の存在が、中国の抗戦を力づけている。かつてないほど強大になっている社会主義のソ連は、これまで中国と苦楽をともにしてきた。ソ連は、あらゆる資本主義国の上層分子の我利我利亡者とは根本的にちがって、すべての弱小民族と革命戦争を援助することをその本分としている。中国の戦争の非孤立性は、一般的に国際的援助全体のうえになりたっているばかりでなく、とくにソ連の援助のうえになりたっている。中ソ両国は地理的に接近しており、この点が日本の危機を増大させているし、中国の抗戦を有利にしている。中日両国の地理的近接は、中国の抗戦の困難さを増大させている。ところが、中ソの地理的近接は、中国の抗戦の有利な条件となっている。
(二四)これらの点からえられる結論は、妥協の危機は存在するが、それは克服できるということである。なぜなら、敵の政策はたとえある程度改められても、根本的に改められることは不可能である。中国の内部には妥協の社会的根源はあるが、妥協に反対するものが大多数をしめている。また、国際勢力にしても、一部には妥協に賛成するものがあるが、主要な勢力は抗戦に賛成しているからである。この三つの要素が結びつけば、妥協の危機を克服して、抗戦を最後まで堅持することができる。
(二五)こんどは、第二の問題に答えよう。国内政治の改善は、抗戦の堅持ときりはなせないものである。政治が改善されればされるほど、抗戦はますます堅持できるし、抗戦が堅持されればされるほど、政治はますます改善できる。だが、根本的には抗戦の堅持にかかっている。国民党の各方面にはよくない現象が深刻に存在しており、これらの不合理な要素は歴史的につみかさねられたものであって、広範な愛国の士のあいだに大きな憂慮と苦悶をうんでいる。だが、抗戦の経験は、この十ヵ月の中国人民の進歩が過去の長年の進歩にも匹敵しており、なんら悲観すべき根拠がないことをすでに立証している。歴史的につみかさねられた腐敗の現象は、人民の抗戦力の増大の速度をひどく阻害して、戦争での勝利を少なくし、戦争での損失をまねいてはいるが、中国、日本および世界の大勢は、中国人民を進歩させずにはおかない。進歩を阻害する要素、すなわち腐敗の現象が存在するため、この進歩は緩慢である。進歩と進歩の緩慢性は当面の時局の二つの特徴であり、後者の特徴は戦争の切迫した要求とあまりにもかけはなれており、これが愛国の士を大いに心配させている点である。しかし、われわれは革命戦争のなかにおかれている。革命戦争は抗毒素であって、それはたんに敵の毒素を排除するばかりでなく、自己の汚れをも洗いきよめるであろう。革命的な正義の戦争というものは、その力がきわめて大きく、多くの事物を改造することができるか、または事物を改造する道をきりひらくのである。中日戦争は中日両国を改造するであろう。中国が抗戦を堅持し、統一戦線を堅持しさえすれば、かならず、ふるい日本を新しい日本に変え、ふるい中国を新しい中国に変え、中日両国は人も物もことごとく今度の戦争のなかで、また戦争のあとで改造されるであろう。われわれが抗戦を建国と結びつけて見るのは正しい。日本も改造されるというのは、日本の支配者の侵略戦争が失敗して、日本人民の革命がおこる可能性があるという意味である。日本人民の革命の勝利の日こそ、日本が改造されるときである。これは中国の抗戦と密接につながっており、この前途は見通しておくべきである。
(二六)われわれはすでに強弱、大小、進歩と退歩、援助の多少など、敵とわが方のあいだの矛盾するいくつかの基本的特徴を比較研究して、亡国論を論ばくし、なぜ妥協が容易でないか、なぜ政治的進歩が可能かという問題に答えた。亡国論者は強弱という矛盾だけを重くみ、それを誇張してすべての問題の論拠にし、その他の矛盾をみのがしている。強弱の対比という点にしかふれないのは、かれらの一面性であり、この一面的なものを誇張して全体とみなすのは、これまたかれらの主観性である。したがって、全体的にいって、かれらには根拠がないし、あやまっている。また、亡国論者ではなく、一貫した悲観主義者でもないが、ただ一時的、局部的な、敵とわが方の強弱の状況あるいは国内の腐敗の現象にまどわされて、一時的に悲観的な気持ちになっている人びとにたいしても、われわれは、かれらの観点がやはり一面的、主観的な傾向からきていることを指摘してやらなければならない。しかし、かれらは愛国の士であって、そのあやまりは一時的なものであるから、改めるのは比較的容易で、注意してやりさえすればすぐにわかるのである。
(二七)ところが、速勝論者もまちがっている。かれらは、強弱というこの矛盾をまったく忘れてしまって、その他の矛盾しかおぼえていないか、中国の長所を誇張して、ほんとうの状況からはなれ、別のものにしてしまうか、あるいは一時期、一地方の強弱の現象を全体における強弱の現象におきかえてしまい、あたかも一枚の葉に目をおおわれて泰山がみえなくなるのとおなじように、自分ではそれを正しいと考えている。要するに、かれらには敵が強くわが方か弱いという事実を認める勇気がないのである。かれらはしばしばこの点を抹殺し、したがって真理の一つの面を抹殺する。かれらはまた自己の長所の限界性を認める勇気がなく、したがって真理のもう一つの面を抹殺する。このことから、かれらは大なり小なりあやまりをおかすのであって、ここでもまた、主観性と一面性が災いしている。こうした友人は善意をもった人たちで、やはり愛国の士である。だが、「先生の志は大なり」④としても、先生の見方はまちがっており、そのとおりにことをはこぶと、かならず壁につきあたってしまう。判断が真実に合致していないので、その行動は目的を達成できないのである。しいて行動すれば、戦いに負け、国を滅ぼし、結果は、敗北主義者とちがわなくなる。したがって、これもだめである。
(二八)われわれは亡国の危険を否定するのか。否定しない。中国の前には解放と亡国という二つの可能な前途がよこたわっており、両者がはげしく闘争していることを、われわれは認める。われわれの任務は解放を実現して、亡国をまぬかれることである。解放を実現する条件は、基本的には、中国の進歩であり、同時に敵の困難と世界の援助とがくわわる。亡国論者とはちがって、われわれは客観的かつ全面的に、亡国と解放という二つの可能性が同時に存在することを認め、解放の可能性が優勢をしめていることと解放を達成するための条件をつよく指摘し、これらの条件をかちとるよう努力する。亡国論者は主観的、一面的に亡国という一つの可能性だけを認め、解放の可能性を否定するもので、まして解放の条件を指摘したり、これらの条件をかちとるために努力したりするはずはない。われわれは妥協の傾向と腐敗の現象も認めるが、その他の傾向とその他の現象をもみてとっており、また両者のうち、後者が前者にたいして一歩一歩優勢をしめていくこと、両者がはげしく闘争していることを指摘するとともに、後者を実現する条件をも指摘して、妥協の傾向を克服し腐敗の現象を変えるために努力する。したがって、われわれは悲観しない。悲観的な人たちは、それとは反対である。
(二九)われわれも速勝をよろこばないわけではなく、あすの朝にも「鬼ども」をおいだしてしまうことにはだれしも賛成である。だが、一定の条件がないかぎり、速勝は頭のなかに存在するだけで、客観的には存在せず、幻想とえせ理論にすぎないことを、われわれは指摘する。したがって、われわれは客観的かつ全面的に敵とわが方のあらゆる状況を判断して、戦略的な持久戦だけが最後の勝利をかちとる唯一の道であることを指摘し、なんの根拠もない速勝論をしりそげるのである。われわれは最後の勝利に必要なすべての条件をかちとるために努力するよう主張する。条件がすこしでも多くそなわり、一日でもはやくそなわれば、勝利の保障はそれだけ多くなり、勝利の時期もそれだけはやくなる。われわれは、戦争の過程をちぢめるには、こうする以外にないと考えており、安易に考え空論にふける速勝論をしりそげる。
(三〇)つぎに、われわれは持久戦の問題を研究しよう。「なぜ持久戦なのか」、この問題の正しい答えを得るには、敵とわが方の対比される基本的要素全体に立脚する以外にない。たとえば、敵は帝国主義の強国で、わが方は半植民地、半封建の弱国であるというだけでは、亡国論におちいる危険性がある。なぜなら、たんに弱者が強者に手向かうという点だけでは、理論的にも、実際的にも、持久という結果はうまれないからである。たんなる大小とか、たんなる進歩退歩とか、援助の多少とかいうようなことも、同様である。大が小を併呑したり、小が大を併呑したりすることはよくある。進歩的な国または事物でも、力が強くなければ、大きくて退歩的な国または事物に滅ぼされることはよくある。援助の多少は重要な要素ではあるが、付随的な要素であり、敵とわが方のそれ自体の基本的要素いかんによってその作用の大小がきまる。したがって、われわれが抗日戦争は持久戦だというのは、敵とわが方の要素全体の相互関係からうまれた結論である。敵が強くてわが方が弱ければ、わが方には滅亡の危険性がある。しかし、敵にはなお他の短所があり、わが方にはなお他の長所がある。敵の長所はわが方の努力によって弱めることができるし、敵の短所もわが方の努力によって拡大することができる。これとは逆に、わが方の長所はわが方の努力によって強めることができるし、短所はわが方の努力によって克服することができる。したがって、わが方は最後には勝利し、滅亡をまぬかれることができるが、敵は最後には敗北し、その帝国主義制度全体の崩壊をまぬかれることができないのである。
(三一)敵は長所が一つだけで、あとはみな短所であり、わが方は短所が一つだけで、あとはみな長所であるのに、どうして均衡のとれた結果が得られないで、反対にいまのような敵の優勢、わが方の劣勢がもたらされたのだろうか。物事をこのように形式的にみてはならないことは明らかである。事実は、いま敵とわが方の強弱の差があまりにも大きいこと、敵の短所は当分はまだその強さの要素を減殺できるほどには発展していないし、また発展することもできないこと、わが方の長所も当分はまだその弱さの要素をおぎなえるほどには発展していないし、また発展することもできないことから、均衡があらわれずに、不均衡があらわれているのである。
(三二)敵が強くてわが方が弱く、敵が優勢でわが方が劣勢であるという状態は、わが方の抗戦堅持と統一戦線堅持の努力によって変化してはいるが、まだ基本的な変化はうまれていない。したがって、戦争の一定段階では、敵は一定程度の勝利をおさめることができ、わが方は一定程度の敗北をなめるであろう。しかし、敵もわが方も、一定段階での一定程度の勝利または敗北に限定され、それをこえて完勝または完敗までにはなりえない。それはなぜか。一つには、敵が強くてわが方が弱いというもとからの状態が絶対的なものではなくて、相対的なものだからであり、二つには、わが方の抗戦堅持と統一戦線堅持の努力によって、ますますこの相対的な形勢がつくられていくからである。もとからの状態についていえば、敵は強いとはいえ、その強さはすでに他の不利な要素によって減殺されており、まだこのときには敵の優勢がやぶられるほどには減殺されていないだけである。わが方は弱いとはいえ、その弱さはすでに他の有利な要素によっておぎなわれており、まだこのときにはわが方の劣勢を改めうるほどにはおぎなわれていないだけである。そこで、敵が相対的に強くて、わが方が相対的に弱く、敵が相対的に優勢で、わが方が相対的に劣勢であるという状態が形成されている。双方の強弱、優劣は、もともと絶対的なものではなく、そのうえ戦争の過程にはわが方の抗戦堅持と統一戦線堅持の努力もあるので、これが敵とわが方のもとからの強弱、優劣の形勢をいっそう変えており、したがって、敵もわが方も一定段階での一定程度の勝利または敗北に限定され、持久戦という局面がつくりだされているのである。
(三三)しかし、状況はひきつづき変化するものである。戦争の過程で、わが方が軍事上、政治上の正しい戦術を運用し、原則的なあやまりをおかさず、最善の努力をつくしさえすれば、敵の不利な要素とわが方の有利な要素は、戦争が長びくにつれて発展し、かならず敵とわが方のもとからの強弱の程度をひきつづき変えていき、敵とわが方の優劣の形成をひきつづき変えていくことができる。そして新しい一定段階かきたとき、強弱の程度と優劣の形勢に大きな変化がおこり、敵の敗北、わが方の勝利という結果になるであろう。
(三四)当面、敵はまだ自分の強さの要素をなんとか利用することができるし、わが方の抗戦もまだ敵を基本的に弱めてはいない。敵の人力、物力の不足という要素はまだその進攻を阻止するまでにはいたっておらず、反対に、その進攻を一定程度まで維持することができる。自国での階級対立と中国の民族的抵抗を激化させうる要素、すなわち戦争の退歩性と野蛮性という要素も、まだその進攻を根本的に阻害するほどの状態にはいたっていない。敵の国際的孤立という要素も変化し発展しつつはあるが、まだ完全に孤立するまでにはいたっていない。わが方をたすけることを表明した多くの国ぐにでも、兵器や戦争資材をあつかう資本家は、なお利益の追求に専念して、日本に大量の軍需物資を供給しており〔9〕、かれらの政府〔10〕もいまのところ、ソ連といっしょに日本に制裁をくわえる実際的な方法をとろうとはしていない。これらのすべては、わが方の抗戦が速勝できず、持久戦でしかありえないことを規定している。中国の側では、弱さの要素が軍事、経済、政治、文化の各方面にあらわれており、十ヵ月の抗戦である程度の進歩はみられたが、敵の進攻を阻止し、わが方の反攻を準備するところまでには、まだまだほど遠い。そのうえ量の面では、ある程度弱まらざるをえなかった。中国の各種の有利な要素は、いずれも積極的な作用をしてはいるが、敵の進攻をくいとめ、わが方の反攻を準備するところまでいくには、なお大きな努力が必要である。国内では、腐敗の現象を克服し、進歩の速度を増大させ、国外では、日本をたすける勢力を克服し、反日勢力を増大させることも、まだ当面の現実とはなっていない。これらのすべてもまた、戦争が速勝でさす、持久戦でしかありえないことを規定している。
(三五)中日戦争が持久戦であり、また最後の勝利が中国のものである以上、この持久戦が具体的には三つの段階としてあらわれることは論理的に想定することができる。第一段階は、敵の戦略的進攻、わが方の戦略的防御の時期である。第二段階は、敵の戦略的保持、わが方の反攻準備の時期である。第三段階は、わが方の戦略的反攻、敵の戦略的退却の時期である。三つの段階の具体的状況は予測できないが、当面の条件からみて、戦争のなりゆきの若干の大すじは指摘することができる。客観的現実の進行過程は非常に内容豊富な、曲折変化にとむものとなり、だれも中日戦争の「運勢録」をあみだすことはできない。だが、戦争のなりゆきについて輪郭を描いておくことは、戦略的指導のために必要なことである。したがって、たとえ描かれたものが将来の事実に完全には合致せず、事実によって修正されようとも、確固として、目的をきめて持久戦の戦略的指導をおこなうため、その輪郭を描いてみることは、やはり必要なことである。
(三六)第一段階は現在まだ終わっていない。敵の企図は広州、武漢、蘭州の三地点を攻略し、この三地点をつなぐことである。敵はこの目的をとげるため、少なくとも五十コ師団、約百五十万の兵員を派遣し、一年半ないし二年の時間をかけ、百億円以上の費用をあてることとなろう。このように奥深くはいってくれば、敵の困難は非常に大きく、その結末は想像をこえるものがあろう。さらに広州=漢□鉄道、西安・蘭州道路の完全占領となると、非常に危険な戦争をへても、その企図が完全にたっせられるとはかぎらない。だが、われわれの作戦計画は、敵がこの三地点、さらにはこの三地点以外のある一部の地区を占領し、それらをたがいに結びつける可能性があることを前提として、持久戦の配備をおこなうべきであり、そうすれば、たとえ敵がそうした行動に出たとしても、わが方にはそれに対処できる方策がある。この段階でわが方がとる戦争形態は、運動戦が主要なもので、遊撃戦と陣地戦が補助的なものである。この段階の第一期には、国民党軍事当局の主観的なあやまりによって、陣地戦が主要な地位におかれたが、この段階全体からみれば、やはり補助的なものである。この段階では、中国はすでに広範な統一戦線を結成し、空前の団結を実現した。敵は、その速決計画の安易な実現、中国の全面的征服をくわだてて、卑劣で恥知らずな投降勧告の手段をとったし、これからもとるであろうが、それはいままでも失敗したし、今後も成功しがたい。この段階では、中国はかなり大きな損失をこうむるが、同時にかなり大きな進歩をとげ、この進歩が第三段階でひきつづき抗戦する主要な基礎となる。この段階では、ソ連はすでにわが国に大量の援助をおこなっている。敵側では、すでに士気がおとろえはじめ、敵の陸軍の進攻は、この段階の中期にはもはや初期のような鋭さはなく、末期にはますますおとろえるであろう。敵の財政経済はゆきづまりの状態をみせはじめ、人民や兵士の厭戦気分もうまれはじめており、戦争指導集団の内部では、「戦争の苦悶」があらわれはじめ、戦争の前途にたいする悲観的な考えがひろがっている。
(三七)第二段階は、戦略的対峙の段階と名づけることができる。第一段階の終わりには、敵の兵力の不足とわが方の頑強な抵抗によって、敵は一定の限界での戦略的進攻の終点を決めざるをえなくなり、この終点に到達すると、戦略的進攻を停止し、占領地保持の段階に転ずるであろう。この段階での敵の企図は、占領地を保持することであって、かいらい政府をつくるという欺瞞的なやり方でそれを確保し、中国人民からできるかぎり収奪することである。しかし、かれらのまえには頑強な遊撃戦争がまちかまえている。遊撃戦争は、第一段階で敵の後方の手薄に乗じていたろところに発展し、数多くの根拠地がうちたてられて、敵の占領地保持を基本的に脅かすようになり、したがって、第二段階でもやはり広範な戦争がおこなわれるであろう。この段階でのわが方の作戦形態は遊撃戦が主要なもので、運動戦が補助的なものである。このときには、中国はなお大量の正規軍を保有するが、一方では敵がその占領する大都市や主要な交通線で戦略的守勢をとっており、他方では中国の技術的条件がまだしばらくは完備されないために、急速に戦略的反攻をおこなうことはまだむずかしい。正面の防御部隊のほかに、わが軍は、大量の部隊を敵の後方に転入させて、比較的分散した配置をとり、敵がまだ占領していないすべての地域をよりどころとし、民衆の武装組織に呼応して、敵の占領地にむけて広範かつ激烈な遊撃戦争を展開するとともに、できるだけ敵をひきまわして、運動戦のなかでそれを消滅する。いま山西省でおこなわれているのがその手本である。この段階での戦争は残酷であり、各地は重大な破壊をこうむるであろう。しかし、遊撃戦争は勝利することができ、うまくおこなえば、敵はわずかに占領地の三分の一前後の地域を保持できるだけで、三分の二前後は依然としてわれわれのものであろう。そうなれば敵の大敗北であり、中国の大勝利である。そのときには敵の占領地全体は三種類の地区にわけられる。第一は敵の根拠地、第二は遊撃戦争の根拠地、第三は双方が争奪しあう遊撃区である。この段階の長短は敵とわが方の力の増減変化の度合いと、国際情勢の変動いかんによってきまるが、だいたいにおいて、われわれはこれに比較的長い時間をかける心がまえがなければならず、この段階の苦難の道をたえぬくことが必要である。これは中国にとってきわめて苦しい時期となり、経済面の困難と民族裏切り者の攪乱とが二つの大きな問題となるであろう。敵は中国の統一戦線の破壊に狂奔するであろうし、敵占領地のすべての民族裏切り者の組織は合流していわゆる「統一政府」を組織するであろう。われわれの内部でも、大都市の喪失と戦争の困難とのために、動揺分子が大いに妥協論をとなえ、悲観的気分が大いにつのるであろう。このときのわれわれの任務は、全国の民衆を動員し、心を一つにして、けっして動揺することなく戦争を堅持し、統一戦線を拡大強化し、すべての悲観主義や妥協論を排除し、苦難にめげぬ闘争を提唱し、新しい戦時政策を実行して、この段階の苦難の道をたえぬくことである。この段階では、統一的な政府をあくまで維持し、分裂に反対するよう全国によびかけ、作戦技術を計画的にたかめ、軍隊を改造し、全人民を動員し、反攻を準備しなければならない。この段階では、国際情勢は、日本にとってさらに不利になり、チェンバレン流のいわゆる「既成事実」に迎合する「現実主義」的論調があらわれる可能性はあるが、主要な国際勢力は中国をいっそう援助するようになるであろう。東南アジアとシベリアにたいする日本の脅威は、これまでよりいっそうきびしくなり、新しい戦争さえ勃発するであろう。敵側では、中国の泥沼におちこんだ数十コ師団をひきぬくことができない。広範な遊撃戦争と人民の抗日運動はこの大量の日本軍を疲れはてさせ、一方ではこれを大量に消耗させ、他方ではかれらの郷愁、厭戦の気分をいっそうつのらせ、反戦の気分にまで発展させて、この軍隊を精神的に瓦解させるであろう。中国における日本の略奪はぜったいに成果があがらないとはいえないが、日本は資本に欠乏しているうえに、遊撃戦争になやまされるので、にわかに大量の成果をあげることは不可能である。この第二段階は戦争全過程での過渡的段階であり、またもっとも困難な時期となるであろうが、しかし、それは転換のかなめである。中国が独立国になるか、それとも植民地になりさがるかは、第一段階で大都市を喪失するかどうかによってきまるのではなく、第二段階での全民族の努力の程度によってきまる。もし抗戦を堅持し、統一戦線を堅持し、持久戦を堅持することができれば、中国はこの段階で弱者から強者に転ずる力を獲得するであろう。中国抗戦の三幕劇では、これが第二幕である。全出演者が努力すれば、もっとも精彩ある終幕をみごとに演出できるであろう。
(三八)第三段階は、失地回復の反攻段階である。失地回復で主として依拠するのは、前段階で準備され、この段階でひきつづき成長する中国自身の力である。しかし、自己の力だけではなお不十分であり、さらに国際勢力の援助と敵国の内部的変化によるたすけに依拠しなければならず、それがなければ勝利は不可能である。したがって、中国の国際宣伝と外交活動の任務が重くなる。この段階では、戦争はもはや戦略的防御ではなくて、戦略的反攻に変わり、現象的には、戦略的進攻としてあらわれるであろう。それはもはや戦略的内線ではなくて、しだいに戦略的外線に変わっていく。鴨緑江の岸辺まで進撃していって、はじめてこの戦争が終わることになる。第三段階は持久戦の最後の段階であり、抗戦を最後まで堅持するというのは、この段階の全過程を歩み終えることである。この段階でわが方のとる主要な戦争形態はやはり運動戦であるが、陣地戦が重要な地位にひきあげられるであろう。第一段階の陣地防御が、その時の条件からして、重要なものとみなしえないとすれば、第三段階での陣地攻撃は、条件の変化と任務の必要から、かなり重要なものになるであろう。この段階での遊撃戦は、それが第二段階で主要な形態になるのとはちがって、やはり運動戦と陣地戦を補助し、戦略的呼応の役割をはたすことになろう。
(三九)このようにみてくると、戦争が長期性とそれにともなう残酷性をおびることは、明らかである。敵は中国を全部併呑することはできないが、相当長期にわたって中国の多くの地方を占領することができる。中国も急速に日本を駆逐することはできないが、大部分の土地は依然として中国のものであろう。最後には敵が敗北し、わが方が勝利するが、それには苦難の道をたどらなければならない。
(四〇)中国の人民は、こうした長期の残酷な戦争のなかで、大いに鍛えられるであろう。戦争に参加する各政党も鍛えられ、ためされるであろう。統一戦線は堅持しなければならない。戦争を堅持するには、統一戦線を堅持する以外にはなく、最後の勝利をかちとるには、統一戦線を堅持し、戦争を堅持する以外にはない。ほんとうにそうするなら、あらゆる困難を克服することができる。戦争の苦難の道を歩み通したのちには、たんたんとした勝利の道がひらける。これが戦争の必然の論理である。
(四一)三つの段階における敵とわが方の力の変化は、つぎのような道をたどるであろう。第一段階では、敵が優勢で、わが方は劣勢である。わが方のこうした劣勢については、抗戦以前からこの段階の終わりにいたるまでのあいだに、二つの異なった変化がおこることを見通しておかなければならない。第一は下向きの変化である。中国のもとからの劣勢は、第一段階での消耗をへていっそうひどくなるであろう。それは、土地、人口、経済力、軍事力、文化機関などの減少である。第一段階の終わりになると、それらは、とりわけ経済の面では、かなり大きく減少するかもしれない。この点は、亡国論と妥協論の根拠として利用されるであろう。しかし、第二の変化、すなわち上向きの変化もみなければならない。それは、戦争での経験、軍隊の進歩、政治の進歩、人民の動員、文化の新方向への発展、遊撃戦争の出現、国際的援助の増大などである。第一段階では、下向きに変化するものはふるい量と質であり、主として量の面にあらわれる。上向きに変化するものは新しい量と質であり、主として質の面にあらわれる。この第二の変化は、われわれに、持久ができ、最後の勝利がえられる根拠をあたえてくれるのである。
(四二)第一段階では、敵側にも二つの変化がおこる。第一は下向きの変化で、数十万人の死傷、武器弾薬の消耗、士気の阻喪、国内の民衆の不満、貿易の減少、百億円以上の支出、国際世論の非難などの面にあらわれる。この面でも、われわれに、持久ができ、最後の勝利がえられる根拠をあたえてくれる。しかし、敵の第二の変化、すなわち上向きの変化も見通しておかなければならない。それは領土、人口、資源の拡大である。この点からは、またわれわれの抗戦が持久戦で、遠勝できないという根拠かうまれてくるし、同時に、それはまた亡国論や妥協論の根拠として一部の人に利用されるであろう。だが、われわれは、敵のこの上向きの変化が一時的、局部的なものであることを見通さなければならない。敵は崩壊しようとしている帝国主義者であり、かれらが中国の土地を占領するのは一時的である。中国の遊撃戦争の猛烈な発展によって、かれらの占領区は、実際上、せまい地帯に局限されるであろう。そのうえ、敵が中国の土地を占領したことによって、さらに日本と他の外国との矛盾がうまれ、深まっている。さらに、東北三省の経験によると、日本にとっては、相当長い期間が、一般的には資本を投下するだけで、収益をあげる時期にはならない。これらのすべては、またわれわれが亡国論と妥協論を撃破し、持久論と最後勝利論を確立する根拠である。
(四三)第二段階では、上述の双方の変化はひきつづき発展するであろう。その具体的状況は予測できないが、だいたいにおいて日本はひきつづき下向きに変化し、中国はひきつづき上向きに変化するであろう〔11〕。たとえば、日本の軍事力、財力は中国の遊撃戦争で大量に消耗され、国内の民衆の不満はいっそうつのり、士気はますますおとろえ、国際的にはますます孤立感を深める。中国は、政治、軍事、文化および人民の動員の面でますます進歩し、遊撃戦争がますます発展し、経済の面でも、奥地の小規模工業と広大な農業に依拠してある程度の新しい発展をとげ、国際的援助もしだいに増大し、現在の状況にくらべて大いにその面目を改めるであろう。この第二段階は、相当長い期間を要するかもしれない。この期間には、敵とわが方の力の対比に大きなあい反する変化がおこり、中国はしだいに上昇していくが、日本はしだいに下降していくであろう。そのときには、中国は劣勢から脱し、日本は優勢をうしない、まず均衡の状態にたっして、さらに優劣の関係が逆になるであろう。それからは、中国はだいたいにおいて戦略的反攻の準備を終えて、反攻をすすめ、敵を国土から駆逐する段階にうつる。くりかえして指摘すべきことは、劣勢を優勢に変え、反攻の準備を終えるということのなかには、中国自身の力の増大、日本の困難の増大、および国際的援助の増大がふくまれており、これらの力を総合すれば中国の優勢が形成され、反攻の準備が完成されるということである。
(四四)中国の政治と経済の不均等状態によって、第三段階の戦略的反攻は、その前期には全国がそろった画一的な様相を呈するのではなく、地域性をおびた、地域的起伏のある様相を呈するであろう。さまざまの分裂手段をとって中国の統一戦線を破壊しようとする敵のたくらみは、この段階では弱まることはない。したがって、中国の内部の団結をかためる任務はますます重要となり、内部の不和のため、戦略的反攻が腰くだけにならないようにつとめるべきである。この時期には、国際情勢は中国にとって、ひじょうに有利になるであろう。中国の任務は、このような国際情勢を利用して、自己の徹底的解放をかちとり、独立した民主主義国家を樹立することであるが、それは同時に世界の反ファシズム運動を援助することでもある。
(四五)中国は劣勢から均衡に、それからさらに優勢にたっし、日本は優勢から均衡に、それからさらに劣勢にうつる、中国は防御から対峙に、それからさらに反攻にたっし、日本は進攻から保持に、それからさらに退却にうつる――これが中日戦争の過程であり、中日戦争の必然のなりゆきである。
(四六)そこで、問題と結論はつぎのようになる。中国は滅びるだろうか。答、滅びない、最後の勝利は中国のものである。中国は速勝できるだろうか。答、速勝することはできない、持久戦でなければならない。この結論は正しいか。わたしは正しいとおもう。
(四七)ここまでのべてくると、亡国論者と妥協論者がまたとびだしてきていうだろう。中国が劣勢から均衡にたっするには、日本と同等の軍事力と経済力をもつ必要があり、均衡から優勢にたっするには、日本をうわまわる軍事力と経済力をもつ必要がある。だが、それは不可能なことだ。したがって、上述の結論は正しくない、と。
(四八)これはいわゆる「唯武器論」〔12〕であり、戦争問題における機械論であり、問題を主観的、一面的にみる見解である。われわれの見解はこれとは反対で、武器をみるだけでなく、人間の力もみるのである。武器は戦争の重要な要素ではあるが、決定的な要素ではなく、決定的な要素は物ではなくて人間である。力の対比は軍事力および経済力の対比であるばかりでなく、人力および人心の対比でもある。軍事力と経済力は人間がにぎるものである。中国人の大多数、日本人の大多数、世界各国の人びとの大多数が抗日戦争の側に立つとすれば、日本の少数のものが力ずくでにぎっている軍事力と経済力は、それでもなお優勢だといえるだろうか。それが優勢でないとすれば、比較的劣勢な軍事力と経済力をにぎっている中国が優勢になるではないか。中国が抗戦を堅持し、統一戦線を堅持しさえすれば、軍事力と経済力がしだいに強化されることは疑いないところである。他方、われわれの敵は、長期の戦争と内外の矛盾によって弱まっていき、その軍事力や経済力もまた必然的に逆の変化をする。このような状況のもとでも、中国は優勢に転じえないのだろうか。それだけではない。われわれは他国の軍事力と経済力を大量に公然と自分の側の力とみなすことはいまはできないが、将来もできないのだろうか。もし、日本の敵が中国一国にとどまらないなら、また、将来さらに一国あるいは数ヵ国が、相当大量の軍事力と経済力をもって日本にたいし公然と防御または攻撃をおこない、公然とわれわれを援助するなら、われわれの側がいっそう優勢になるではないか。日本は小国で、その戦争は退歩的で野蛮なものであり、その国際的地位はますます孤立したものとなる。中国は大国で、その戦争は進歩的で正義のものであり、その国際的地位はますます援助の多いものとなる。これらのすべてが長期にわたって発展しても、敵とわが方の優劣の形勢が確実に変化するとはいえないだろうか。
(四九)速勝論者は、戦争が力の競争であることをわきまえず、戦争する双方の力の対比に一定の変化がおこらないうちに戦略的決戦をおこなおうとし、解放への道を短縮しようとするが、これも根拠のないことである。かれらの見解が実行されれば、かならず壁につきあたらざるをえない。かれらは、あるいはほんとうにやるつもりはなく、空論をして悦に入っているだけである。だが、最後には、事実という先生がとびだしてきて、これらの空論家に冷水をあびせかけ、かれらが安易に事をはこび、あまり骨を折らずに多くの収穫をあげようとする空論主義者にすぎないことを立証するであろう。このような空論主義は、これまでもあったし、いまもあるが、まだそんなに多くはない。戦争が対峙の段階と反攻の段階に発展していけば、空論主義は多くなるであろう。だが同時に、もし第一段階での中国の損失がかなり大きく、第二段階がかなり長びけば、亡国論と妥協論がいっそうさかんになるであろう。したがって、われわれの火力は、主として亡国論と妥協論にむけ、空論主義的速勝論には副次的な火力をもって反対すべきである。
(五〇)戦争の長期性は確定的であるが、戦争がはたしてどれだけの年月を要するかは、だれも予測できない。これは、まったく敵とわが方の力の変化の度合いによってきまるのである。戦争の期間をちぢめようと考えているすべての人びとは、自己の力の増大、敵の力の減少に努力する以外に方法はない。具体的にいえば、勝ちいくさを多くして、敵の軍隊を消耗させること、遊撃戦争を発展させて、敵の占領地を最小の範囲にくいとめること、統一戦線を拡大強化して全国の力を結集すること、新しい軍隊を建設し新しい軍事工業を発展させること、政治、経済、文化の進歩をうながすこと、労働者、農民、商工業者、知識層各界の人民を動員すること、敵軍を瓦解させ敵軍兵士を獲得すること、国際宣伝によって国際的援助を獲得すること、日本の人民およびその他の被抑圧民族の援助を獲得すること、こうしたことに努力する以外にない。これらすべての点をやりぬいてこそ、戦争の期間をちぢめることができるのであって、これ以外に、なにもうまくやれるこつなどありはしない。
(五一)持久戦としての抗日戦争は、人類の戦争史に光栄ある特殊な一ページをかざるであろうと断言できる。犬歯錯綜した戦争の形態がそのかなり特殊な点で、これは日本の野蛮さと兵力不足、中国の進歩と土地の広大さという矛盾した要素からうまれたものである。犬歯錯綜した戦争は歴史上にもあったことで、ロシア十月革命後の三年間の内戦にはこうした状況があった。だが、中国での特徴はその特殊な長期性と広大性とにあり、これは歴史の記録をやぶろものとなろう。このような犬歯錯綜した形態は、つぎのいくつかの状況にあらわれている。
(五二)内線と外線――抗日戦争は、全体としては内線作戦の地位におかれている。しかし、主力軍と遊撃隊との関係では、主力軍が内線、遊撃隊が外線にあって、敵を挾撃するという奇観を呈している。各遊撃区の関係もまたそうである。それぞれの遊撃区はみな自己を内線、その他の各区を外線として、これもまた、敵を挾撃する多くの火線を形成している。戦争の第一段階では、戦略上の内線作戦をおこなう正規軍は後退するが、戦略上の外線作戦をおこなう遊撃隊は、広く敵の後方にむかって大きく前進し、第ニ段階ではいっそう猛烈に前進して、後退と前進との特異な形態を形成するであろう。
(五三)後方の有無――国の大後方を利用して、作戦線を敵占領地の最後の限界までのばすのは主力軍である。大後方をはなれて、作戦線を敵の後方までのばすのは遊撃隊である。だが、各遊撃区にもまたそれぞれ小規模な後方があり、それによって固定しない作戦線がつくられる。これと異なるのは、各遊撃区からその区の敵の後方におくりこまれて臨時に活動する遊撃隊であり、かれらには後方がないばかりか、作戦線もない。「無後方作戦」は、領土が広く、人民が進歩的で、先進的な政党と先進的な軍隊をもっている状況のもとでの新しい時代の革命戦争の特徴である。それは、おそれるべきものではなくて、大いに利点があり、疑うべきではなくて、提唱すべきである。
(五四)包囲と反包囲――戦争全体からみれば、敵が戦略的進攻と外線作戦をとり、わが方が戦略的防御と内線作戦の地位におかれていることによって、疑いもなく、わが方は敵の戦略的包囲のなかにある。これはわが方にたいする敵の第一種の包囲である。わが方が量的に優勢な兵力をもって、戦略上の外線から数路に分かれて前進してくる敵にたいし、戦役上戦闘上の外線作戦の方針をとることによって、各路に分かれて進んでくる一路または数路の敵をわが方の包囲のなかにおくことができる。これが敵にたいするわが方の第一種の反包囲である。さらに、敵の後方にある遊撃戦争の根拠地についてみれば、孤立した一つ一つの根拠地は、四方または三方を敵に包囲されており、前者の例としては五台山地区、後者の例としては山西省西北地区がある。これがわが方にたいする敵の第二種の包囲である。だが、もし各遊撃根拠地をつないでみれば、そしてまたそれぞれの遊撃根拠地と正規軍の陣地とをつないでみれば、わが方も多くの敵を包囲している。たとえば山西省では、大同=風陵渡鉄道を三方(鉄道の東西両側および南端)から包囲し、太原市を四方から包囲している。河北省、山東省などにもこのような包囲がたくさんみられる。これはまた、敵にたいするわが方の第二種の反包囲である。このようにして、敵とわが方はそれぞれ相手方にたいして二種類の包囲をおこなっているが、それはだいたい碁をうつようなもので、敵のわが方にたいする、またわが方の敵にたいする戦役上戦闘上の作戦は、石のとりあいに似ており、敵の拠点(たとえば太原市)とわが方の遊撃根拠地(たとえば五台山)は、ちょうど「目」のようなものである。もし、世界的な囲碁をも計算にいれるなら、さらに敵とわが方の第三種の包囲があり、侵略戦線と平和戦線との関係がそれである。敵は前者によって中国、ソ連、フランス、チェコスロバキアなどを包囲しており、わが方は後者によってドイツ、日本、イタリアを反包囲している。だが、わが方の包囲は如来のたなごころのように、宇宙にまたがる五行山となって、なん人かの今様の孫悟空――ファシスト侵略主義者を最後にはその山の下敷きにし、永劫に身動きもできないようにしてしまうであろう〔13〕。もしわが方が外交的に太平洋反日戦線を結成し、中国を一つの戦略単位とし、またソ連やその他の参加可能な国ぐにをそれぞれ一つの戦略単位とし、さらに日本人民の運動をも一つの戦略単位として、ファシスト孫悟空が逃げ場のないように天地にまたがる大綱を張りめぐらすことができるなら、それは敵の死滅するときである。実際には、日本帝国主義が完全に打倒される日は、かならずこの天地にまたがる大綱がだいたいにおいて張りめぐらされたときである。これはけっして冗談ではなく、戦争の必然的ななりゆきである。
(五五)広い地域とせまい地域――敵の占領地区が中国中心部の大半をしめ、中国中心部のなかで無傷の地域は半分たらずになる可能性がある。これが一つの状況である。しかし、敵の占領する大半のところでは、東北三省などをのぞいて、じっさいに占領しうるのは大都市、主要な交通線、および一部の平地だけであり、それらは重要性からいえば第一級のものではあるが、面積や人口からみれば敵占領区の半分以下にすぎず、普遍的に発展している遊撃区のほうがかえって大半をしめる可能性がある。これもまた一つの状況である。もし中国中心部の範囲をこえて、蒙古、新疆、青海、チベットをも計算にいれれば、面積のうえでは、中国はまだ占領されていない地区がなお大半をしめ、敵の占領地区は東北三省をふくめても半分以下でしかない。これもまた一つの状況である。無傷の地域はもちろん重要であり、その経営に大きな力をそそぐべきで、それはたんに政治、軍事、経済の面にかぎらず、文化の面でもたいせつである。敵はわれわれの過去の文化の中心地を文化的におくれた地域に変えてしまったが、われわれは、これまでの文化的におくれていた地域を文化の中心地に変えなければならない。同時に、敵の後方にある広大な遊撃区の経営もまた非常にたいせつで、それらの地区の各方面も発展させるべきであり、またその文化活動も発展させるべきである。全体としてみれば、中国は、広い地域をしめろ農村が進歩した光明ある地区に変わり、せまい地域をしめる敵占領区、とくに大都市が、一時的におくれた暗黒の地区に変わるであろう。
(五六)このようにみてくると、長期でしかも大規模な抗日戦争は、軍事、政治、経済、文化の各方面での犬歯錯綜した戦争であって、これは戦争史上の奇観であり、中華民族の壮挙であり、天地をゆるがす偉業である。この戦争は、中日両国に影響し、両国の進歩を大いにうながすばかりでなく、世界にも影響をおよぼして、各国の進歩、まず第一にインドなどの被抑圧民族の進歩をうながすであろう。全中国人はみなこの犬歯錯綜した戦争に自覚をもって身を投ずべきである。これこそ中華民族がみずから自己を解放するための戦争形態であり、半植民地の大国が二○世紀の三十年代と四十年代におこなっている解放戦争の特殊な形態である。
(五七)中国の抗日戦争の持久性は、中国と世界の永遠の平和をかちとることときりはなせないものである。今日ほど戦争が永遠の平和に近づいたことは歴史上いまだかつてなかった。階級が出現して以来、数千年にわたる人類の生活は戦争にみちており、あるいは民族集団内部で戦い、あるいは民族集団相互間で戦い、どの民族もどれほど多くの戦争をしてきたかわからない。戦いは、資本主義社会の帝国主義時代になると、とくに大規模で残酷なものになった。三十年まえの第一次帝国主義大戦は、それまでの歴史では空前のものであったが、まだ絶後の戦争ではなかった。いまはじまっている戦争こそが、最後の戦争に近づいており、つまり人類の永遠の平和に近づいているのである。いま世界では、三分の一の人口が戦争にまきこまれている。見たまえ、イタリアのつぎが日本で、エチオピアのつぎがスペイン、それから中国だ。戦争に参加しているこれらの国ぐにをあわせれば、ほとんど六億の人口にたっし、世界総人口のほぼ三分の一をしめている。いまの戦争の特徴は、たえまがないという性質と、永遠の平和に近づくという性質をもっていることである。たえまがないというのはなぜか。イタリアがエチオピアと戦ったのにつづいて、イタリアがスペインと戦い、ドイツも一枚くわわり、つづいてまた日本が中国と戦っている。これにつづくのはだれか。つづいてヒトラーが諸大国と戦うことは疑いない。「ファシズムとは戦争である」〔14〕。まったくそのとおりだ。いまの戦争が世界大戦に発展するまでは、たえまがないであろうし、人類が戦争の災いをうけることはまぬかれえない。では、こんどの戦争が永遠の平和に近づいているというのはなぜか。こんどの戦争は、第一次世界大戦のときにすでにはじまった世界資本主義の全般的危機の深まりを基礎としておこったものであり、この全般的危機によって、資本主義諸国はあらたな戦争にかりたてられており、まず第一に、ファシスト諸国があらたな戦争の冒険にかりたてるれている。われわれは、こんどの戦争の結果、資本主義が救われるのではなく、崩壊にむかうことを予見できる。こんどの戦争は、二十年まえの戦争よりいっそう大規模で、残酷であり、すべての民族がこれに不可避的にまきこまれ、戦争は非常に長びき、人類は大きな苦痛をなめさせられるであろう。だが、ソ連の存在と世界人民の自覚のたかまりによって、こんどの戦争には疑いもなくすべての反革命戦争に反対する偉大な革命戦争があらわれて、こんどの戦争に永遠の平和のために戦う性質をもたせることとなろう。たとえその後になお戦争の一時期があるとしても、もはや世界の永遠の平和から遠くはない。人類がひとたび資本主義を消滅すれば、永遠の平和の時代に到達し、そのときにはもはや戦争は必要でなくなる。そのときには軍隊の必要もなければ、軍艦の必要もなく、軍用機の必要もなければ、毒ガスの必要もなくなる。それからのちは、人類は何億万年も戦争にみまわれることがなくなる。すでにはじまっている革命戦争は、この永遠の平和のためにたたかう戦争の一部分である。五億以上の人口をしめる中日両国間の戦争は、この戦争のなかで重要な地位をしめ、中華民族の解放はこの戦争をつうじてかちとられるであろう。将来の解放された新しい中国は、将来の解放された新しい世界ときりはなすことはできない。したがって、われわれの抗日戦争には、永遠の平和をかちとるために戦う性質がふくまれている。
(五八)歴史上の戦争は二つの種類にわけられる。一つは正義の戦争であり、もう一つは不正義の戦争である。進歩的な戦争はすべて正義の戦争であり、進歩をはばむ戦争はすべて不正義の戦争である。われわれ共産党員は、進歩をはばむ不正義の戦争にはすべて反対するが、進歩的な正義の戦争には反対しない。後者にたいしては、われわれ共産党員は反対するどころか、積極的に参加する。前者、たとえば第一次世界大戦では、双方とも帝国主義の利益のために戦ったので、全世界の共産党員は断固としてその戦争に反対した。反対する方法は、戦争が勃発するまでは、極力その勃発を阻止することであるが、勃発したのちには、可能であるかぎり、戦争によって戦争に反対し、正義の戦争によって不正義の戦争に反対することである。日本の戦争は進歩をはばむ不正義の戦争であって、日本人民をもふくめた全世界の人民は、これに反対すべきであり、またげんに反対している。わが中国では、人民から政府にいたるまで、共産党から国民党にいたるまで、みな正義の旗をかかげて、侵略に反対する民族革命戦争をおこなってきた。われわれの戦争は神聖で、正義のものであり、進歩的で、平和を求めるものである。一国の平和を求めるばかりでなく、世界の平和をも求め、一時的な平和を求めるばかりでなく、永遠の平和をも求めるのである。この目的をたっするには、決死の戦いをすすめるべきで、どんな犠牲をはらっても、最後まで戦いぬく用意がなければならず、目的をたっするまでけっしてやめてはならない。犠牲は大きく、時間は長びくだろうが、永遠の平和と永遠の光明の新しい世界はすでにあざやかにわれわれの前によこたわっている。戦いにたずさわるわれわれの信念は、永遠の平和と永遠の光明の新しい中国と新しい世界をかちとるということのうえにきずかれている。ファシズムと帝国主義は戦争を無期限にひきのばそうとするが、われわれは戦争をそう遠くない将来に終わらせようとする。この目的のために、人類の大多数はきわめて大きな努力をはらうべきである。四億五千万の中国人は全人類の四分の一をしめており、もしわれわれがともに努力して、日本帝国主義を打倒し、自由平等の新しい中国を創造することができたなら、全世界の永遠の平和をかちとるうえでの貢献が、非常に偉大なものとなることは疑いない。このような希望はむなしいものではない。全世界の社会経済の発展過程はすでにそれに近づいており、これに多数の人びとの努力がくわわりさえすれば、何十年かのうちにはきっと目的はたっせられるのである。
(五九)以上にのべたのは、なぜ持久戦なのか、なぜ最後の勝利は中国のものなのかを説明したもので、だいたいにおいて「何々である」、「何々ではない」ということについてのべたのである。つぎに、「どのようにする」、「どのようにはしない」という問題の研究にうつることにしよう。どのようにして持久戦をすすめ、どのようにして最後の勝利をかちとるか。これがこれから答えようとする問題である。このために、われわれは順序をおって、つぎの問題を説明していこう。すなわち戦争における能動性、戦争と政治、抗戦のための政治的動員、戦争の目的、防御のなかでの進攻、持久のなかでの速決、内線のなかでの外線、主動性、弾力性、計画性、運動戦、遊撃戦、陣地戦、殲滅戦、消耗戦、敵のすきに乗ずる可能性、抗日戦争の決戦の問題、兵士と人民は勝利のもとという問題である。では、能動性の問題からのべていこう。
(六〇)われわれが問題を主観的にみることに反対するというのは、人間の思想が客観的事実にもとづかず、それに合致しなければ、それは空想で、えせの理論であり、もしそれにもとづいておこなえば失敗する、だから反対しなければならない、ということである。だが、物事はすべて人間がおこなうもので、持久戦と最後の勝利も、人間がおこなわなければ実現しない。うまくおこなうには、まずだれかが客観的事実にもとづいて、思想、道理、見解をひきだし、ついで計画、方針、政策、戦略、戦術を提起しなければならない。思想その他は主観にぞくするものであり、おこなうこと、あるいは行動することは主観が客観にあらわれたものであって、どちらも人類の特殊な能動性である。このような能動性はわれわれが「自覚的能動性」と名づけるもので、それは人間が物と区別される特徴である。客観的事実にもとづく、またそれに合致する思想はすべて正しい思想であり、正しい思想にもとづいておこなうこと、あるいは行動することはすべて正しい行動である。われわれはこのような思想と行動を発揚し、このような自覚的能動性を発揚しなければならない。抗日戦争は帝国主義をおいだし、ふるい中国を新しい中国に変えるものであり、この目的をたっするには、全中国の人民を動員して、ひとりのこらず抗日の自覚的能動性を発揚させなければならない。じっとすわっていれば、滅亡あるのみで、持久戦もなければ、最後の勝利もない。
(六一)自覚的能動性は人類の特徴である。人類は戦争のなかでこのような特徴を強くあらわす。戦争の勝敗は、もちろん双方の軍事、政治、経済、地理、戦争の性質、国際的援助などの条件によってきまるのであるが、しかし、たんにこれらの条件だけできまるのではない。これらの条件だけでは、まだ勝敗の可能性があるというにすぎず、それ自身としては勝敗はきまってはいない。勝敗がきまるには、さらに主観的努力がくわわらなければならない。これが戦争の指導と戦争の実行であり、戦争における自覚的能動性である。
(六二)戦争を指導する人びとは、客観的条件のゆるす限度をこえて戦争の勝利を求めることはできないが、しかし、客観的条件の限度内で、戦争の勝利を能動的にかちとることはできるし、またそうしなければならない。戦争の指揮員の活躍する舞台は、客観的条件のゆるす範囲内できすかれなければならないが、しかし、かれらはその舞台一つで精彩にとむ、勇壮な多くの劇を演出することができる。あたえられた客観的物質を基礎にして、抗日戦争の指揮員はその威力を発揮し、全軍をひっさげて、民族の敵をうちたおし、侵略と抑圧をうけているわが社会と国家の状態を改めて、自由平等の新中国をつくりだすべきであるが、ここでは、われわれの主観的指導能力がつかえるし、またつかわなければならない。抗日戦争のいかなる指揮員であろうと、客観的条件からはなれて、盲滅法にぶつかっていく向こうみず屋になることには賛成しないが、しかし、われわれは抗日戦争の指揮員の一人ひとりが勇敢で聡明な将軍になるよう提唱しなければならない。かれらは敵を圧倒する勇気をもたなければならないばかりでなく、また戦争全体の変化発展を駆使できる能力をももたなければならない。指揮員は、戦争という大海を泳いでいるのであって、沈まないようにし、確実に、段どりをおって、対岸に到達するようにしなければならない。戦争指導の法則としての戦略戦術は、戦争という大海での水泳術である。
(六三)「戦争は政治の継続である」、この点からいえば、戦争とは政治であり、戦争そのものが政治的性質をもった行動であって、昔から政治性をおびない戦争はなかった。抗日戦争は全民族の革命戦争であり、その勝利は、日本帝国主義を駆逐し、自由平等の新中国を樹立するという戦争の政治目的からきりはなせないし、抗戦の堅持と統一戦線の堅持という全般的方針からも、全国人民の動員ということからも、将兵の一致、軍民の一致、敵軍の瓦解などの政治原則からも、統一戦線政策のりっぱな遂行ということからも、文化面での動員ということからも、国際勢力と敵国人民の援助をかちとる努力からもきりはなすことはできない。一言でいえば、戦争は片時も政治からきりはなせないものである。抗日軍人のなかに、もし、戦争を孤立させて、戦争絶対主義者になるような政治軽視の傾向があるなら、それはあやまりであり、是正すべきである。
(六四)だが、戦争にはその特殊性がある、この点からいえば、戦争がそのまま政治一般ではない。「戦争は別の手段による政治の継続である」〔15〕。政治が一定段階にまで発展し、もうこれまでどおりには前進できなくなると、政治の途上によこたわる障害を一掃するために戦争が勃発する。たとえば、中国の半独立の地位が、日本帝国主義の政治的発展の障害となり、日本はそれを一掃しようとして、侵略戦争をおこした。中国はどうか。帝国主義の抑圧がはやくから中国のブルジョア民主主義革命の障害となっていたので、この障害を一掃するために、いくどとなく解放戦争がおこった。いま日本が戦争による抑圧で中国革命の進路を完全に断とうとしているので、われわれはこの障害を一掃しようと決意して抗日戦争をおこなわざるをえなくなっている。障害が一掃され、政治目的が達成されると、戦争は終わる。障害がすっかり一掃されないうちは、目的をつらぬくために、戦争は依然として継続されるべきである。たとえば抗日の任務がまだ終わらないのに、妥協を求めようとしても、けっして成功しはしない。なぜなら、たとえなんらかの理由で妥協したとしても、広範な人民はけっして承服せず、かならず戦争を継続して戦争の政治目的をつらぬこうとするから、戦争はまたおこるのである。したがって、政治は血を流さない戦争であり、戦争は血を流す政治であるといえる。
(六五)戦争の特殊性から、戦争には一連の特殊な組織、特殊な方法、特殊な過程というものがある。その組織とは、軍隊およびそれに付随するいっさいのものである。その方法とは、戦争を指導する戦略戦術である。その過程とは、敵対する軍隊がたがいに自己に有利で敵に不利な戦略戦術を用いて、攻撃もしくは防御をおこなう特殊な社会活動の形態である。したがって、戦争の経験は特殊なものである。戦争に参加するすべての人びとは、ふだんの習慣から脱して戦争になれなければ、戦争の勝利をかちとることはできない。
(六六)このように偉大な民族革命戦争は、ゆきわたった、浸透した政治的動員なしには、勝利することができない。抗日以前に、抗日のための政治的動員がみられなかったことは、中国の大きな欠陥であり、すでに敵に一手をとられたのである。抗日以後も、政治的動員はまったくゆきわたっておらず、まして浸透したなどとはいえない。人民の大多数は、敵の砲火や飛行機の爆弾から戦争の消息を聞いたのである。これも一種の動員ではあるが、敵がかわりにやってくれたもので、われわれ自身がやったものではない。辺鄙な地方にいて砲声を耳にしない人びとは、いまでもなお、静かに生活している。このような状態は改めなければならない。そうしなければ、生死をかけた戦争に勝利することはできない。けっして二度と敵に一手をとられてはならず、反対に、この政治的動員の一手を大いに発揮して敵に勝ちを制する必要がある。この一手は関係するところがきわめて大きい。武器その他が敵におとっているのは二のつぎで、この一手がなによりもいちばん重要である。全国の民衆を動員すれば、敵をすっぽり沈めてしまう洋々たる大海原がつくられ、武器その他の欠陥をおぎなう補強条件がつくられ、戦争のあらゆる困難をのりきる前提がつくられる。勝利するには、抗戦を堅持し、統一戦線を堅持し、持久戦を堅持しなければならない。しかし、これらのすべては、民衆を動員することからきりはなすことはできない。勝利をのぞみながらも政治的動員を無視するのは「南へいくのに、車を北に走らせる」というものであって、その結果は、かならず勝利をすてることになる。
(六七)政治的動員とはなにか。それは、第一に、戦争の政治目的を軍隊と人民におしえることである。兵士と人民の一人ひとりに、なぜ戦わなければならないか、戦争はかれらとどんな関係があるかをぜひわからせることである。抗日戦争の政治目的は「日本帝国主義を駆逐し、自由平等の新中国を樹立する」ことである。この目的をすべての軍人や人民におしえなければ、数億の人民が心を一つにして、戦争にすべてをささげるよう、抗日の波を大きくもりあげることはできない。第二に、たんに目的を説明するだけではまだ不十分で、さらにこの目的を達成するための段どりや政策についての説明、すなわち政治綱領が必要である。いまでは、すでに『抗日救国十大綱領』⑤があり、さらに『抗戦建国綱領』⑥があるが、それらを軍隊と人民に普及し、さらにそれを実行にうつすよう、すべての軍隊と人民を動員すべきである。明確で具体的な政治綱領がなければ、抗日をやりぬくよう全軍隊、全人民を動員することはできない。第三に、どのようにして動員するのか。口頭、ビラや布告、新聞や書籍、演劇や映画、学校、民衆団体、幹部をつうじて動員するのである。いま国民党支配地区で、いくらかおこなわれているが、大海の一滴のようなもので、方法も民衆のはだにあわず、態度も民衆からかけはなれており、これは確実に改めなければならない。第四に、抗日戦争のための政治的動員は恒常的なものであって一回で十分というものではない。これは政治綱領を暗唱して民衆に聞かせることではないし、そんな暗唱はだれも聞くものではない。戦争の発展の状況に結びつけ、兵士と民衆の生活に結びつけて、戦争のための政治的動員を恒常的な運動にしなければならない。これはきわめてたいせつなことで、戦争の勝利はなによりもまずこのことにかかっている。
(六八)ここでは、戦争の政治目的のことをいうのではない。抗日戦争の政治目的が「日本帝国主義を駆逐し、自由平等の新中国を樹立する」ことである点は、すでにまえにのべた。ここでいうのは、人類の血を流す政治としての戦争、つまり、両軍がたがいに殺しあう戦争の根本的目的は何かということである。戦争の目的はほかでもなく、「自己を保存し、敵を消滅する」(敵を消滅するとは、敵のすべてを肉体的に消滅することではなくて、敵の武装を解除すること、つまり「敵の抵抗力をうばう」ことをいう)ことである。古代の戦争では矛と盾がつかわれた。矛は攻撃するもので、敵を消滅するためのものであり、盾は防御するもので、自己を保存するためのものであった。今日の兵器も、やはりこの両者の延長である。爆撃機、機関銃、長距離砲、毒ガスは矛の発展であり、防空施設、鉄かぶと、コンクリート構築陣地、防毒マスクは盾の発展である。戦車は矛と盾とを一つに結合した新しい兵器である。攻撃は敵を消滅する主要な手段であるが、防御もなくてはならない。攻撃は直接には敵を消滅するためのものであるが、敵を消滅しないと、自己が消滅されてしまうから、同時に自己を保存するためのものでもある。防御は直接には自己を保存するためのものであるが、同時に攻撃を補助するか、または攻撃に転ずる準備をする手段でもある。退却は防御の一種であり、防御の継続である。そして、追撃は攻撃の継続である。戦争の目的のうちでは、敵を消滅することが主要なもので、自己を保存することは第二義的なものだということをここで指摘しなければならない。効果的に自己を保存するには、敵を大量に消滅するほかはないからである。したがって、敵を消滅する主要な手段としての攻撃が主要なもので、敵を消滅する補助的手段、また自己を保存する一つの手段としての防御は第二義的なものである。戦争の実際においては、防御が主となることも多く、その他のばあいには攻撃が主となるが、しかし、戦争全体をつうじてみれば、攻撃がやはり主要なものである。
(六九)戦争のなかで勇敢な犠牲を提唱するのをどう解釈したらよいか。それは「自己を保存する」ことと矛盾するのではないか。矛盾しない。それはたがいに反しあいながら、たがいに成りたたせあっているのである。戦争は血を流す政治であり、それは代価を、ときにはきわめて大きな代価を支払わなければならない。部分的一時的な犠牲(保存しないこと)は、全体的永久的な保存のためである。基本的には敵を消滅するためである攻撃手段のなかにも、同時にまた自己を保存する作用がふくまれていると、われわれがいう理由はここにある。防御は同時に攻撃をともなわなければならず、単純な防御であってはならないことも、またこうした道理からである。
(七〇)自己を保存し、敵を消滅するという戦争の目的こそ戦争の本質であり、すべての戦争行動の根拠であって、技術的行動から戦略的行動にいたるまで、すべてがこの本質によってつらぬかれている。戦争の目的は戦争の基本原則であって、すべての技術的、戦術的、戦役的、戦略的な原理原則は、これから少しもはなれることはできない。射撃の原則である「身体を隠蔽し、火力を発揮する」というのはどういう意味か。前者は自己を保存するためであり、後者は敵を消滅するためである。前者のために、地形や地物を利用したり、躍進運動をおこなったり、隊形を疎開させたりするなどさまざまな方法がうまれる。後者のために、射界を清掃したり、火網を組織したりするなどさまざまな方法がうまれる。戦術上の突撃隊、牽制隊、予備隊のうち、第一のものは敵を消滅するためのものであり、第二のものは自己を保存するためのものであり、第三のものは状況に応じて二つの目的――突撃隊を増援したり、追撃隊になったりして、敵を消滅すること、または牽制隊を増援したり、掩護隊になったりして、自己を保存することに用いようとするものである。このように、すべての技術的、戦術的、戦役的、戦略的原則、すべての技術的、戦術的、戦役的、戦略的行動は、戦争の目的から少しもはなれることのできないものであり、この目的は戦争全体にゆきわたり、戦争の初めから終わりまでつらぬいている。
(七一)抗日戦争の各級の指導者は、中日両国間のたがいに対立する各種の基本的要素をはなれて戦争を指導してはならないし、またこの戦争の目的をはなれて戦争を指導してはならない。両国間のたがいに対立する各種の基本的要素は、戦争の行動のなかで展開されて、自己を保存し、敵を消滅するための相互の闘争に変わる。われわれの戦争は、戦いのたびごとに、大小を問わず勝利をかちとるようにつとめ、戦いのたびごとに、敵の一部の武装を解除し、敵の一部の人馬器物を損傷させるようつとめることにある。敵を部分的に消滅するという成果をつみかさね、これを大きな戦略的勝利にすることによって、最後には敵を国土から駆逐し、祖国を防衛し、新中国を建設するという政治目的を達成するのである。
(七二)つぎに抗日戦争での具体的な戦略方針を研究しよう。われわれは、抗日の戦略方針は持久戦であるといったが、そのとおりで、これはまったく正しい。だが、これは一般的な方針であって、まだ具体的な方針ではない。どのように具体的に持久戦をすすめるか。これがいまわれわれの論じようとする問題である。われわれの答えはこうである。第一と第二の段階、すなわち敵の進攻と保持の段階では、それは戦略的防御のなかでの戦役上戦闘上の進攻戦、戦略的持久のなかでの戦役上戦闘上の速決戦、戦略的内線のなかでの戦役上戦闘上の外線作戦でなければならない。第三段階では、それは戦略的反攻戦でなければならない。
(七三)日本が帝国主義の強国であり、われわれが半植民地・半封建の弱国であることから、日本は戦略的進攻の方針をとり、われわれは戦略的防御の地位にある。日本は戦略的速決戦をとろうとくわだてているが、われわれは意識的に戦略的持久戦をとるべきである。日本は戦闘力のかなり強い数十コ師団の陸軍(現在すでに三十コ師団にたっしていろ)および一部の海軍をもって陸海両面から中国を包囲、封鎖し、さらに空軍をもって中国を爆撃している。現在、日本の陸軍はすでに包頭から杭州までの長い戦線を占領し、海軍は福建省、広東省まできて、大きな範囲の外線作戦を形づくっている。われわれは内線作戦の地位におかれている。これらはすべて、敵が強く、わが方が弱いという特徴によってもたらされたものである。これが一つの面の状態である。
(七四)しかし、もう一つの面では、ちょうどそれと逆である。日本は強いが、兵力が足りない。中国は弱いが、土地が広く、人口も多く、兵力も多い。ここから二つの重要な結果がうまれる。第一に、敵は少ない兵力をもって大国にのぞんでいるので、一部の大都市、主要な交通線および若干の平地しか占領できない。このために、その占領地域では、占領のしようがない広大な土地を空白のまま残しており、このことが中国の遊撃戦争に広大な活動の地盤をあたえている。全国では、たとえ敵が広州、武漢、蘭州の線、およびその付近の地区を占領できても、それ以外の地区を占領するのはむずかしく、このことが中国に、持久戦をおこない、最後の勝利をかちとるための大後方と中枢根拠地をあたえている。第二に、敵は少ない兵力をもって多くの兵力にたちむかっているので、多くの兵力の包囲のなかにおかれている。敵が数路にわかれてわが方に進攻しているので、敵は戦略的外線にたち、わが方は戦略的内線にたっており、敵は戦略的進攻をおこない、わが方は戦略的防御をおこなっており、みたところ、わが方は非常に不利である。しかし、わが方は土地が広く兵力が多いという二つの長所を利用して、陣地を固守するような陣地戦をおこなわずに、弾力的な運動戦を採用し、数コ師団で敵の一コ師団にあたり、数万人で敵の一万人にあたり、数路の部隊で敵の一路の部隊にあたり、戦場の外線から、突如、敵の一路の部隊を包囲し攻撃することができる。そこで、敵の戦略上の作戦における外線と進攻は、戦役上戦闘上の作戦では、内線と防御に変わらざるをえない。わが方の戦略上の作戦における内線と防御は、戦役上戦闘上の作戦では、外線と進攻に変わる。一路の敵にたいしてもそうであるし、他の路の敵にたいしてもそうである。以上の二つの点は、いずれも敵が小さく、わが方が大きいという特徴からうまれるものである。また、敵の兵力は少ないが、強い(兵器および将兵の訓練の程度)、わが方の兵力は多いが、弱い(これも兵器および将兵の訓練の程度だけをさすのであって、士気をさすのではない)という点から、戦役上戦闘上の作戦では、わが方は、多数をもって少数をうち、外線から内線をうつだけでなく、さらに速決戦の方針をとるべきである。速決戦をおこなうには、一般には、駐止中の敵をうつべきではなくて、運動中の敵をうつべきである。わが方は、敵のかならず通る道のかたわらに大兵をあらかじめ隠蔽、集結し、敵の運動しているときに突如前進し、これを包囲攻撃し、敵が手をくだす間もないうちに、迅速に戦闘をかたづけるのである。戦いがうまくいけば、全部か、大部分か、または一部分の敵を消滅できるし、うまくいかなくても、敵に多くの死傷をあたえることができる。一つの戦いでもそうであるし、他の戦いでもすべてそうである。たとえ多くなくても、毎月一回、平型関、台児荘の戦いのような比較的大きな勝ちいくさができれば、大いに敵の気勢をくじき、わが軍の士気をふるいたたせ、国際的声援をよびおこすことができる。このようにして、わが方の戦略的持久戦は、戦場での作戦になると速決戦に変わるのである。敵の戦略的速決戦は、多くの戦役上戦闘上の負けいくさをへて、持久戦にきりかえざるをえなくなるのである。
(七五)上述のような戦役上戦闘上の作戦方針は、一言でいえば、「外線的速決的な進攻戦」である。これは、わが方の戦略方針である「内線的持久的な防御戦」とは反対のものであるが、しかし、またこのような戦略方針を実現するのにまさに必要な方針なのである。もし、戦役上戦闘上の方針も抗戦当初にとられたような「内線的持久的な防御戦」であるなら、それは敵が小さくてわが方が大きく、敵が強くてわが方が弱いというこの二つの状況にまったく適さないものであり、それではけっして戦略目的は達成されず、全般的な持久戦は達成されないで、敵にうちやぶられてしまう。したがって、われわれは、これまでも、全国でいくつかの大きな野戦兵団を編成して、それに敵の各野戦兵団の兵力の二倍、三倍または四倍の兵力をもたせ、上述の方針をとって、広大な戦場で敵とわたりあうよう主張してきた。この方針は、正規戦争につかえるだけでなく、遊撃戦争にもつかえるし、またつかわなければならない。それは戦争のある段階に適用されるだけでなく、戦争の全過程にも適用される。戦略的反攻の段階になって、わが方の技術的条件が強化され、弱をもって強にあたるような状況が全然なくなっても、わが方が依然として多くの兵力をもって外線から速決的進攻戦をおこなうなら、なおさら多くの捕虜と戦利品を獲得する効果をあげることができる。たとえば、わが方が二つ、三つまたは四つの機械化師団をもって敵の一つの機械化師団にあたれば、いっそう確実にその師団を消滅することができる。数人の大男が一人の大男にたやすく勝てるのは、常識のなかにふくまれる真理である。
(七六)もしわれわれが、戦場作戦での「外線的速決的な進攻戦」を断固として採用するなら、戦場における敵とわが方のあいだの強弱、優劣の形勢を変えるばかりでなく、しだいに全体の形勢を変えることとなろう。戦場では、わが方が進攻し、敵が防御すること、わが方が多くの兵力で外線にたち、敵が少ない兵力で内線にたつこと、わが方が速決でいくので、敵が持久によって援軍を待とうとしても、かれらのおもいどおりにならないこと、こうしたことのために、敵側は強者から弱者に変わり、優勢から劣勢に変わるが、わが車は逆に弱者から強者に変わり、劣勢から優勢に変わる。多くのこのような勝ちいくさをすると、敵とわが方の全体の形勢に変化がおこる。つまり、多くの戦場作戦の外線的速決的な進攻戦の勝利をつみかさねていくと、しだいに自己を強め、敵を弱めていくようになり、そこで全体的な強弱、優劣の形勢が、その影響をうけて変化をおこさざるをえなくなる。そのとき、われわれ自身のもつ他の条件とあいまって、さらに敵の内部の変動および国際的に有利な情勢とあいまって、敵とわが方の全体の形勢を均衡に転じ、均衡からさらにわが方の優勢、敵の劣勢に転じさせることができる。そのときこそ、反攻にでて敵をわが国土から駆逐する時機である。
(七七)戦争は力の競争であるが、力は戦争の過程でその本来の状態を変えていく。そのばあい、主観的努力、つまり勝ちいくさを多くし、あやまりを少なくすることが決定的な要素である。客観的要素には、このような変化の可能性がそなわっているが、この可能性を実現するには、正しい方針と主観的努力とが必要である。そのときには、主観の役割が決定的なものとなる。
(七八)以上にのべた戦役上戦闘上の外線的速決的な進攻戦は、進攻という点にその中心がある。外線とは進攻の範囲をさし、速決とは進攻の時間をさすところから、それを「外線的速決的な進攻戦」とよぶのである。これは持久戦をおこなう最良の方針であり、また運動戦というものの方針でもある。だがこの方針を実行するには、主動性、弾力性、計画性をはなれることはできない。そこで、つぎにこの三つの問題を研究してみよう。
(七九)さきに自覚的能動性についてのべたのに、なぜまた主動性についてのべるのか。自覚的能動性とは、自覚的な活動と努力のことであり、人間が物と区別される特徴であって、人間のこのような特徴は、戦争のなかでとりわけ強くあらわれるが、これらの点についてはさきにのべた。ここでいう主動性とは、軍隊の行動の自由権のことで、これは、不自由の状態においこまれることとは区別されるものである。行動の自由は軍隊の生命であり、この自由をうしなえば、軍隊は敗北または消滅に近づくことになる。ある兵士が武装を解除されるのは、この兵士が行動の自由をうしない、受動的地位においこまれた結果である。ある軍隊が戦いにやぶれるのも同じである。この理由から、戦争する双方はどちらも受動性をさけ、主動性をにぎろうとつとめる。われわれの提起した外線的速決的な進攻戦と、この進攻戦を実現するための弾力性、計画性は、いずれも敵を受動的地位においやり、自己を保存し敵を消滅する目的を達成できるように主動権をかちとるためだといってよいのだが、主動か受動かということは、戦力が優勢か劣勢かということと不可分である。したがって、それはまた、主観の指導が正しいかあやまっているかということとも不可分である。そのほかに、また敵の錯覚と不意に乗じて自己の主動性をかちとり、敵を受動的な地位においやるばあいもある。つぎにこれらの点を分析してみよう。
(八〇)主動は戦力の優勢ときりはなせないし、受動は戦力の劣勢ときりはなせない。戦力の優勢または劣勢は、主動または受動の客観的基礎である。戦略上の主動的地位は、もちろん戦略的進攻戦のばあい、わりあいによく掌握し発揮することができるが、しかし、始めから終わりまで、どこででも主動的地位をしめること、つまり絶対的な主動権をにぎることができるのは、絶対的優勢をもって絶対的劣勢にあたるときだけである。体の丈夫なものと重病患者との格闘では、前者が絶対的な主動権をにぎる。もし日本に克服できない多くの矛盾がないなら、たとえばかれらが一度に数百万から一千万にのぼる大兵をくりだすことができ、財源が現在の何倍もあり、民衆や外国からの敵対もなく、また野蛮な政策を実行して中国人民の必死の抵抗をまねくようなことがないとすれば、かれらは一種の絶対的な優勢を保持できるし、始めから終わりまで、どこででも一種の絶対的な主動権をにぎるであろう。だが、歴史上、このような絶対的優勢というものは、戦争と戦役の終局においては存在するが、戦争と戦役の当初にはまれである。たとえば、第一次世界大戦で、ドイツが屈服する前夜には、当時の連合国側が絶対的嬢勢に転じ、ドイツが絶対的劣勢に転じた結果、ドイツが敗北し、連合国が勝利した。これは戦争の終局に絶対的な優勢と劣勢が存在する例である。また台児荘における勝利の前夜には、当時その地に孤立していた日本車が苦戦をかきねたのちに絶対的な劣勢におちいり、わが軍が絶対的な優勢をつくりあげた結果、敵が敗北し、わが方が勝利した。これは戦役の終局に絶対的な優勢と劣勢が存在する例である。戦争でも、戦役でも、相対的な優劣または均衡状態のままで終結することがあるが、そのばあい、戦争では妥協があらわれ、戦役では対峙があらわれる。だが、一般的には、絶対的な優劣によって勝敗がきまることが多い。これらすべては、戦争または戦役の当初のことではなくて、戦争または戦役の終局のことである。中日戦争の終局については、日本が絶対的劣勢をもって敗北し、中国が絶対的優勢をもって勝利することは予断できる。しかし、いまのところ、双方の優劣はいずれも絶対的ではなくて相対的である。日本は強い軍事力、経済力、政治組織力という有利な要素をもつことによって、われわれの弱い軍事力、経済力、政治組織力にたいして優勢をしめ、それがかれらの主動権の基礎となっている。だが、かれらの軍事力その他は量的に少ないし、他に多くの不利な要素もあるので、かれらの優勢はかれら自身の矛盾によって減殺されている。そして中国にやってくると、中国の広大な土地、膨大な人口、膨大な兵力、頑強な民族的抗戦にぶつかって、その擬勢はさらに減殺された。そこで「全体としては、かれらの地位は相対的な優勢に変わり、したがって、その主動権の発揮や維持も制約され、相対的なものになってしまった。中国側は、力の強さのうえでは劣勢であり、したがって、戦略上のある種の受動的様相が形成されているが、地理、人口、兵員数のうえでは、また人民および軍隊の敵愾心と士気のうえでは優勢であり、このような優勢にさらにその他の有利な要素がくわわって、自己の軍事力、経済刀などの劣勢の程度は減殺され、戦略上の相対的な劣勢に変わっている。したがって、受動の程度も減少し、戦略上の相対的な受動的地位におかれているにすぎない。しかし、受動はなんといっても不利であり、それからぬけだすよう努めなければならない。軍事上の方法としては、断固として外線的速決的な進攻戦をおこない、また敵の後方での遊撃戦争をおこし、戦役上の運動戦と遊撃戦で、敵を圧倒する多くの局部的な優勢と主動的地位とを獲得することである。このような多くの戦役上の局部的な優勢と局部的な主動的地位をとおして、戦略上の優勢と戦略上の主動的地位とがしだいにつくられ、戦略上の劣勢と受動的地位をぬけだすことができるようになる。これが主動と受動、優勢と劣勢のあいだの相互関係である。
(八一)このことからも、主動または受動と主観の指導とのあいだの関係がわかる。上述のように、わが方の相対的な戦略上の劣勢と戦略上の受動的地位は、ぬけだすことのできるものであり、その方法は、人為的にわれわれの多くの局部的な優勢と局部的な主動的地位をつくりだして、敵の多くの局部的な優勢と局部的な主動的地位を奪いとり、敵を劣勢と受動的地位になげこむことである。これらの局部的なものをつみかさねていけば、われわれの戦略上の優勢と戦略上の主動になり、敵の戦略上の劣勢と戦略上の受動になる。このような転化は主観の正しい指導にかかっている。なぜか。わが方も優勢と主動をもとめるし、敵もまたこれをもとめるのであって、この点からみれば、戦争は両軍の指揮員が軍事力、財力などの物質的基礎を土台にして、たがいに優勢と主動を奪いあう主観の能力の競争である。競争の結果、一方が勝ち他方が負けるが、これは、客観的物質条件の対比のほかに、かならず勝者は主観の指揮の正しさにより、敗者は主観の指揮のあやまりによるものである。われわれは、戦争という現象が他のどのような社会現象よりも、いっそうとらえにくく、確実性が少ないこと、すなわち「蓋然性」というものをいっそうおびたものであることを認める。だが、戦争は神のしわざではなく、やはり世の中の一種の必然的運動であり、したがって、孫子の法則、「かれを知り、おのれを知れば、百戦するも危うからず」〔16〕は、やはり科学的真理である。あやまりは彼我についての無知から生ずるし、戦争の特質もまた、多くのばあい彼我を完全に知ることをさまたげるので、そこから戦争状況、戦争行動の不確実性がうまれ、あやまりと失敗がうまれる。しかし、どのような戦争状況、戦争行動であろうと、その大略を知り、その要点を知ることは可能である。まずはじめに各種の偵察手段により、つぎには指揮員の聡明な推論と判断とによって、あやまりを少なくし、一般的に正しい指導を実現するのは、できることである。われわれがこの「一般的に正しい指導」を武器にすれば、多くの勝ちいくさをすることができ、劣勢を優勢に変え、受動を主動に変えることができる。これは主動または受動と主観の指導が正しいかどうかということとのあいだの関係である。
(八二)主観の指導が正しいかどうかが優勢、劣勢および主動、受動の変化に影響することは、強大な軍隊が敗北し、弱小な軍隊が勝利するという歴史的事実をみれば、いっそううなずける。内外の歴史には、こうした例がたくさんある。中国では、たとえば、晉と楚の城濮の戦い〔17〕、楚と漢の成皐の戦い⑦、韓信が趙軍をやぶった戦い〔18〕、新と漢の昆陽の戦い⑧、袁紹と曹操の官渡の戦い⑨、呉と魏の赤壁の戦い⑩、呉と蜀の彝陵の戦い⑪、秦と晉の[シ+肥]水の戦い⑫など、外国では、たとえば、ナポレオンのおこなった数多くの戦役〔19〕、十月革命後のソ連の内戦などは、みな少数で多数をうち、劣勢で優勢にあたって勝利したものである。これらはみな、まず自分の局部的な優勢と主動をもって、敵の局部的な劣勢と受動にあたり、一戦に勝利して、それをさらに他におよぼし、各個撃破し、それによって全局面が優勢に転じ、主動に転じたのである。これとは逆に、もともと優勢と主動とをしめていた敵も、その主観のあやまりと内部矛盾によって、きわめて良好な、または比較的良好な優勢と主動的地位を完全にうしない、敗軍の将、亡国の君になることがある。このことからわかるように、戦力の優劣そのものは、もとより主動か受動かを決定する客観的基礎ではあるが、それはまだ現実の主動または受動ではなく、事実上の主動または受動は、闘争をつうじ、主観の能力の競争をつうじないかぎりあらわれはしない。闘争のなかでは、主観の指導が正しいかあやまっているかによって、劣勢を優勢に変え、受動を主動に変えることもできるし、優勢を劣勢に変え、主動を受動に変えることもできる。すべての支配王朝が革命軍にうち勝つことができなかったことからも、たんにある種の優勢だけでは、主動的地位がきまるものではなく、まして、最後の勝利がきまるものでないことがわかる。主動と勝利は、劣勢と受動的地位にあるものが、実際の状況にもとづき、主観の能力のはたらきをつうじ、一定の条件をかちとることによって、優勢で主動的地位にあるものの手から奪取できるものである。
(八三)錯覚と不意のために、優勢と主動をうしなうことがある。したがって、計画的に敵に錯覚をおこさせ、不意うちをかけることは、優勢をつくりあげ、主動をうばいとる方法であり、しかも重要な方法である。錯覚とはなにか。「八公山の草木みな兵なり」〔20〕というのは錯覚の一例である。「東を撃つとみせて西を撃つ」というのは、敵に錯覚をおこさせる一つの方法である。情報がもれるのを防げるようなすぐれた民衆的基盤があるばあい、敵をあざむくいろいろな方法をとれば、しばしば効果的に、判断をあやまり行動をあやまるような苦境に敵をおとしいれ、これによって敵の優勢と主動をうしなわせることができる。「兵法はいつわりをいとわず」というのは、このことをさすのである。不意とはなにか。それは準備のないことである。優勢ではあるが準備がないなら、真の優勢ではなく、また主動性もない。この点がわかっていれば、劣勢ではあるが準備のある軍隊は、しばしば、敵にたいし不意の攻勢にでて、優勢な敵をうちやぶることができる。われわれが運動中の敵は攻撃しやすいというのは、敵が不意、つまり準備のない状態にあるからである。この二つのこと――敵に錯覚をおこさせることと、不意うちをかけることは、敵には戦争の不確実性をあたえ、自分はできるだけ大きな確実性をつかみ、これによってわが方の優勢と主動をかちとり、わが方の勝利をかちとることである。これを実現するには、すぐれた民衆組織が前提条件となる。したがって、敵に反対するすべての民衆を立ちあがらせ、かれらをことごとく武装して、広範に敵を襲撃させる一方、それによって情報を封じ、わが軍を掩護させてわが軍がどこで、いつ攻撃にでるかという手がかりを敵につかませないようにし、敵が錯覚をおこし、不意をくらう客観的基礎をつくりだすこと、これは非常に重要である。かつての土地革命戦争時代の中国赤軍が、弱小な軍事力でいつも勝ちいくさをしたのは、組織され武装化した民衆の力に負うところが非常に大きかった。民族戦争は、道理からいって、土地革命戦争よりもいっそう広範な民衆の援助をかちとることができるはずである。しかし、歴史的あやまり〔21〕のために、民衆はばらばらで、すぐにはわれわれの役にたたせることがむずかしいばかりか、ときには敵から利用されることもある。戦争のすべての必要を無限にみたすには、断固として、ひろく、全民衆を立ちあがらせる以外にはない。このことは、敵に錯覚をおこさせ、敵の不意をついてこれにうち勝つというこの戦法においても、きっと大きな役割をはたすことになる。われわれは宋の襄公ではなく、かれのようなばかげた仁義道徳を必要としない〔22〕。自己の勝利をかちとるためには、われわれは、敵の目と耳とをできるだけ封じて、かれらを肓とつんぼにし、敵の指揮員の頭をできるだけ混乱させて、かれらを気狂いにしてしまわなければならない。これらのこともすべて、主動または受動と主観の指導とのあいだの相互関係である。日本に勝利するにはこうした主観の指導は欠くことのできないものである。
(八四)だいたいにおいて日本は、その進攻の段階では、その軍事力の強さや、わが方の歴史上および現在における主観のあやまりを利用することによって、一般的には主動的地位にたっている。しかし、こうした主動は、すでに、それ自身がもつ多くの不利な要素、かれらが戦争のなかでおかしたいくつかの主観のあやまり(この点はのちにくわしくのべる)、そしてまた、わが方にそなわる多くの有利な要素によって、部分的に弱まりはじめている。敵の台児荘での失敗や、山西省での苦境は、そのあきらかな証拠である。敵の後方でのわが方の遊撃戦争の広範な発展は、敵占領地の守備軍を完全に受動的地位にたたせている。敵はいまなお主動的な戦略的進攻をおこなってはいるが、その主動は、その戦略的進攻がやむにつれて終わりをつげるであろう。敵が兵力の不足から、無制限に進攻をおこなう可能性がないことは、敵が主動的地位を保ちつづけることのできない第一の根源である。わが方の戦役的進攻戦、敵の後方での遊撃戦争、およびその他の条件は、敵が一定の限度で進攻をやめなければならず、また主動的地位を保ちつづけることのできない第二の根源である。ソ連の存在とその他の国際情勢の変化は第三の根源である。このことからわかるように、敵の主動的地位には限界があり、またうちやぶることのできるものである。中国が、もし作戦方法のうえで主力軍による戦役上戦闘上の進攻戦を堅持し、敵の後方での遊撃戦争を猛烈に発展させるとともに、政治の面でも大いに民衆を立ちあがらせることができれば、わが方の戦略上の主動的地位はしだいに確立していくことができる。
(八五)つぎに弾力性についてのべよう。弾力性とはなにか。それは主動性を作戦のなかで具体的に実現していくものであり、つまり兵力を弾力的に使用することである。兵力を弾力的に使用することは、戦争指揮の中心任務であり、またそれをうまくやるのは、もっともむずかしいことである。戦争という事業は、軍隊を組織し教育し、人民を組織し教育することなどをのぞけば、軍隊を戦闘に使用することであって、これらはすべて戦闘の勝利のためである。軍隊を組織することその他は、もとより困難ではあるが、軍隊を使用することはいっそう困難であり、弱をもって強にあたっている状況のもとではとくにそうである。そうするためには、きわめて大きな主観の能力が必要であり、戦争のもつ特質のうちの混乱、暗黒および不確実性を克服して、そのなかから条理、光明および確実性をさがしだすことが必要である。そうしてはじめて、指揮のうえでの弾力性を実現することができるのである。
(八六)抗日戦争における戦場作戦の基本方針は、外線的速決的な進攻戦である。この方針を遂行するには、兵力の分散と集中、分進と合繋、攻撃と防御、突撃と牽制、包囲と迂回、前進と後退などさまざまの戦術または方法がある。これらの戦術を知るのはたやすいが、これらの戦術を弾力的につかいこなし、きりかえていくのは容易なことではない。そこには、時機、地点、部隊という三つのかなめがある。その時をえず、その所をえず、部隊の状態が当をえていないならば、いずれも勝利することはできない。たとえば、運動中のある敵を攻撃するさい、攻撃がはやすぎれば、自己を暴露し、敵に防備の条件をあたえることになるが、攻撃がおくれれば、敵は集中、駐止してしまい、手ごわい相手となる。これが時機の問題である。突撃点を左翼にえらべば、ちょうど敵の弱い部分にあたって、容易に勝利をうるが、右翼にえらべば、敵の強い部分にぶつかって、効を奏することができない。これが地点の問題である。わが方のある部隊にある任務を実行させれば、容易に勝利をうろが、他の部隊におなじ任務を実行させても効果をあげにくい。これが部隊の状態の問題である。戦術をつかいこなすだけでなく、戦術をきりかえなければならない。敵とわが方の部隊や地形の状況にもとづいて、適時、適切に、攻撃を防御に、防御を攻撃に、前進を後退に、後退を前進に、牽制隊を突撃隊に、突撃隊を牽制隊にきりかえ、また包囲迂回などを相互にきりかえること、これが弾力的な指揮の重要な任務である。戦闘の指揮もそうであるし、戦役上戦略上の指揮もまたそうである。
(八七)「運用の妙は一心に存す」という古人のことばのこの「妙」を、われわれは弾力性とよぶのであり、それは聡明な指揮員の創作である。弾力性は盲動ではなく、盲動は拒否すべきである。弾力性とは、聡明な指揮員が客観的状況にもとづいて、「時機と形勢を判断し」 (この形勢には、敵の形勢、わが方の形勢、地勢などがふくまれる)、適時、適切に処置をとる才能、つまり「運用の妙」というものである。この運用の妙にもとづくならば、外線的速決的な進攻戦は、より多くの勝利をかちとり、敵とわが方の優劣の形勢を転化させ、敵にたいするわが方の主動権を実現し、敵を圧倒してこれを撃破することができ、最後の勝利はわれわれのものとなる。
(八八)つぎに、計画性についてのべよう。戦争に特有な不確実性のために、戦争で計画性を実現することは、他の事業で計画性を実現するよりもはるかに困難が多い。しかし、「およそ事は前もって準備すれば成り、準備せざれば成らず」で、事前の計画と準備がなければ、戦争の勝利をかちとることはできない。戦争には、絶対的な確実性はないが、ある程度の相対的な確実性がないわけではない。われわれの側のことは比較的確実である。敵側のことはきわめて不確実であるが、探索すべき兆候もあれば、察知すべきいとぐちもあり、思考に供すべき前後の現象もある。これがある程度の相対的確実性というものを構成しており、そこに戦争の計画性の客観的基礎がある。近代技術(有線電信、無線電信、飛行機、自動車、鉄道、汽船など)の発達が、さらに戦争の計画性をいっそう可能にしている。しかし、戦争には、かなり程度が低くて時間の短い確実性しかないので、戦争の計画性が完全かつ固定的であることはむずかしく、それは戦争の運動(または流動、推移)につれて運動し、また戦争の範囲の大小によって程度のちがいがうまれる。戦術計画、たとえば小兵団や小部隊の攻撃計画、または防御計画は、一日のうちに数回変えなければならないことがよくある。戦役計画、すなわち大兵団の行動計画は、だいたいにおいて、戦役の終局までつづくが、その戦役のなかで、計画の部分的な変更はよくあるし、全面的な変更もときにはある。戦略計画は、戦争する双方の全般的状況にもとづいてたてられるもので、固定の程度はより大きいが、やはり一定の戦略段階に適用されるだけであり、戦争が新しい段階に移れば変更する必要がある。戦術計画、戦役計画、および戦略計画を、それぞれその範囲とその状況に応じて確定し変更することは、戦争指揮の重要なかなめであり、戦争の弾力性を具体的に実行することでもあり、また実際的な運用の妙でもある。抗日戦争の各級の指揮員は、この点に心をくばるべきである。
(八九)一部の人は、戦争の流動性を理由に、戦争の計画、または戦争の方針の相対的固定性を根本から否定し、そのような計画または方針は「機械的」なものだという。このような見解はあやまりである。前項でのべたように、戦争の状況はたんに相対的な確実性しかもたず、戦争は迅速に流動する(または運動し、推移する)ものであるから、戦争の計画または方針にも、相対的固定性しかあたえられず、状況の変化と戦争の流動にもとづいて、これを適時に変更または修正しなければならない、そうしなければ機械主義者になってしまう、このことをわれわれは完全に認めるものである。しかし、一定期間内の相対的に固定した戦争の計画または方針をけっして否定することはできない。この点を否定するならば、すべてを否定することになり、戦争そのもの、そういっている人自身までも、否定することになる。戦争の状況と行動にはいずれも相対的固定性があるので、それに応じてうまれる戦争の計画または方針にも、相対的固定性をあたえなければならない。たとえば、華北の戦争の状況と八路軍の分散作戦の行動には一定段階内での固定性があるので、この一定段階内では、「基本的には遊撃戦であるが、有利な条件のもとでの運動戦もゆるがせにしない」という八路軍の戦略的作戦方針に、相対的固定性をあたえることが、ぜひとも必要である。戦役方針は、さきにのべた戦略方針にくらべると、適用の期間がいくらか短いし、戦術方針はそれよりももっと短いが、しかし、どちらも一定期間の固定性はもっている。この点を否定したら、戦争はやりようがなく、あれでもなく、これでもないとか、あれでもよく、これでもよいという、まったく定見のない、戦争の相対主義になってしまう。たとえある一定期間内に適用される方針でも、それは流動するものであって、このような流動がなければ、その方針の廃止および他の方針の採用もありえないということは、だれも否定しない。しかし、この流動は制約のある流動、つまりこの方針を遂行する各種のことなった戦争行動の範囲内での流動であって、この方針の根本的性質の流動ではない、つまり質的な流動ではなくて、量的な流動である。このような根本的性質は、一定期間内はけっして流動するものではなく、われわれのいう一定期間内の相対的固定性とは、この点をさすのである。絶対的に流動している戦争全体の長い流れの過程には、それぞれの特定段階における相対的な固定性がある――これが戦争の計画または戦争の方針の根本的性質についてのわれわれの見解である。
(九〇)戦略上の内線的持久的な防御戦と戦役上戦闘上の外線的速決的な進攻戦についてのべ、主動性、弾力性、計画性についてものべたので、われわれは、つぎのようにしめくくることができる。抗日戦争は計画的におこなわれるべきである。戦争の計画、すなわち戦略戦術を具体的に運用するにあたっては、戦争の状況に適応するようそれに弾力性をもたせなければならない。また、敵とわが方のあいだの形勢を改めるために、劣勢を優勢に変え、受動を主動に変えることをつねに心がけなければならない。そして、これらはすべて、戦役上戦闘上の外線的速決的な進攻戦にあらわれるし、同時にまた戦略上の内線的持久的な防御戦にもあらわれる。
(九一)戦争内容としての戦略的内線、戦略的持久、戦略的防御のなかでの戦役上戦闘上の外線的速決的な進攻戦は、戦争形態のうえでは運動戦としてあらわれる。運動戦とは、正規兵団が長い戦線と広い戦区で戦役上戦闘上の外線的速決的な進攻戦をおこなう形態である。同時に、それはこの進攻戦遂行の便宜のために、ある必要な時機に遂行されるいわゆる「運動的な防御」をもふくむとともに、補助的役割をはたす陣地攻撃および陣地防御をもふくんでいる。運動戦の特徴は、正規兵団、戦役と戦闘での優勢な兵力、進攻性と流動性である。
(九二)中国は国土が広く、兵員も多いが、軍隊の技術と訓練が不足している。敵は兵力が不足しているが、技術と訓練とは比較的すぐれている。こうした状況のもとでは、疑いもなく、進攻的な運動戦を主要な作戦形態とし、他の形態を補助として、全体としての運動戦を構成すべきである。このばあい、「後退するだけで前進しない」という逃走主義に反対しなければならないし、同時に「前進するだけで後退しない」という体当たり主義にも反対しなければならない。
(九三)運動戦の特徴の一つは、その流動性であって、野戦軍の大幅の前進と後退がゆるされるばかりでなく、またそれが要求ざれる。しかし、これは韓復榘流の逃走主義〔23〕とはなんの共通点もない。戦争の基本的要求は敵の消滅であり、もう一つの要求は自己の保存である。自己を保存する目的は敵を消滅することにあり、敵を消滅するのはまた自己を保存するもっとも効果的な手段である。したがって、運動戦はけっして韓復榘のたぐいの口実にはならないし、けっして後退運動だけで前進運動がないというものではない。そのような「運動」は、運動戦の基本となる進攻性を否定するもので、それを実行すれば、いくら中国が大きくても、「運動」しつぶされてしまうであろう。
(九四)しかし、もう一つの考え、すなわち前進するだけで後退しない体当たり主義もまちがっている。われわれは戦役上戦闘上の外線的速決的な進攻戦を内容とする運動戦を主張するが、このなかには補助的役割をはたす陣地戦もふくまれるし、「運動的な防御」と退却もふくまれており、これらがなければ、運動戦は十分に遂行できない。体当たり主義は軍事上の近視眼であり、その根源は往々にして土地の喪失をおそれるところにある。体当たり主義者は運動戦の特徴の一つが流動性であって、野戦軍の大幅の前進と後退がゆるされるばかりでなく、またそれが要求されるということを知らないのである。積極面からいえば、敵を不利におとしいれ、わが方の作戦を有利にするためには、つねに、敵が運動中にあることが要求され、また、有利な地形、攻撃に通した敵情、情報を封ずることのできる住民、敵の疲労および不意など、わが方に有利な多くの条件が要求される。そのためには、敵の前進が要求されるのであり、一時的に一部の土地をうしなっても、惜しくはない。なぜなら、一時的、部分的な土地の喪失は、全面的、永久的な土地の保持と土地の回復の代価だからである。消極面からいえば、不利な地位においこまれ、軍事力の保存が根本から危うくなったばあいには、軍事力を保存して、新しい時機にふたたび敵に打撃をくわえるため大胆に退却すべきである。体当たり主義者はこの道理がわからず、決定的に不利な状況にあることがはっきりしているのに、なおも一都市、一地区の得失をあらそい、その結果は、都市も地区もうしなうだけでなく、軍事力さえも保存できなくなる。われわれがこれまで「敵を深く誘いいれる」ことを主張してきたのは、それが戦略的防御の立場にある弱軍が強軍と戦うもっとも効果的な軍事政策だからである。
(九五)抗日戦争の作戦形態のうち、主要なものは運動戦であり、そのつぎには遊撃戦があげられる。われわれが戦争全体をつうじて運動戦が主要なものであり、遊撃戦は補助的なものであるというのは、戦争の運命を決するものが主として正規戦、なかでも運動戦であって、遊撃戦は戦争の運命を決する主要な責任をになうことができないということである。しかし、このことは、抗日戦争における遊撃戦の戦略的地位が重要でないという意味ではない。遊撃戦の補助がなくては、敵にうち勝つこともできないから、抗日戦争全体における遊撃戦の戦略的地位は、運動戦につぐにすぎない。それは、遊撃戦を運動戦に発展させるという戦略的任務をふくめてこういっているのである。長期の残酷な戦争のなかで、遊撃戦はもとの地位にとどまらず、それ自身を運動戦にたかめていくであろう。このように、遊撃戦の戦略的役割にはニつの面がある。一つは正規戦を補助すること、もう一つは自らをも正規戦に変えていくことである。中国の抗日戦争における遊撃戦の空前の広大さと空前の持久性という意義からいえば、その戦略的地位はなおさら軽視できないものである。したがって、中国では、遊撃戦そのものに、戦術問題だけでなく、特殊な戦略問題もふくまれている。この問題については、すでにわたしは『抗日遊撃戦争の戦略問題』のなかでのべておいた。さきにのべたように、抗日戦争の三つの戦略段階での作戦形態としては、第一段階では、運動戦が主要なもので、遊撃戦と陣地戦が補助的なものである。第二段階では、遊撃戦が主要な地位にのぼり、運動戦と陣地戦がこれを補助する。第三段階では、運動戦がふたたび主要な形態となり、陣地戦と遊撃戦がこれをたすける。しかし、この第三段階での運動戦は、もはやもとの正規車がすべてを担当するのではなく、もとの遊撃軍が遊撃戦を運動戦にまでたかめて、その一部、おそらく相当重要な一部を担当するであろう。三つの段階からみて、中国の抗日戦争での遊撃戦は、けっして、あってもなくてもよいものではない。それは人類の戦争史に、空前の偉大な一幕を演ずるであろう。こうした理由から、全国の数百万の正規軍のうち、少なくとも数十万を指定し、かれらを敵のあらゆる占領地区に分散させて、民衆を武装化させ、これに呼応して遊撃戦争をおこなわせることが、ぜひとも必要である。それに指定された軍隊は、自覚をもってこの神聖な任務をになうべきであり、大きな戦いをあまりしないため、一時は民族英雄らしくみえないところから、格がさがるかのように考えてはならない。これはあやまった考え方である。遊撃戦争は正規戦争のような迅速な成果と派手な名声はないが、「道遠くして馬の力を知り、事久しくして人の心を知る」といわれるように、長期の残酷な戦争のなかでその大きな威力をあらわすであろう。それはじつになみたいていな事業ではないのである。そのうえ、正規軍は分散して遊撃戦をおこなうが、集結すれば運動戦をおこなうこともできるのであって、八路軍はまさにそのようにしている。八路軍の方針は、「基本的には遊撃戦であるが、有利な条件のもとでの運動戦もゆるがせにしない」というものである。この方針はまったく正しく、この方針に反対する人びとの観点は正しくない。
(九六)防御的、攻撃的な陣地戦は、中国の今日の技術的条件のもとでは、どちらも一般におこなうことのできないものであり、これはわれわれの弱さのあらわれでもある。そのうえ、敵は中国の土地が広いという点を利用して、われわれの陣地施設をよけるのである。したがって、陣地戦は重要な手段として採用できず、まして主要な手段として採用できないことはいうまでもない。しかし、戦争の第一、第二の二つの段階では、運動戦の範囲にふくまれていて、戦役作戦のうえで補助的役割をはたす局部的な陣地戦をおこなうことは、可能であり、必要でもある。一歩ごとに抵抗して敵を消耗させ時間的余裕をかちとるという目的で、半陣地戦的ないわゆる「運動的な防御」を採用するのは、なおさらのこと運動戦の必要な部分である。中国は、戦略的反攻の段階で十分に陣地攻撃の任務をはたせるよう、新式兵器の増加に努力すべきである。戦略的反攻の段階では、疑いもなく、陣地戦の地位はたかまるであろう。なぜなら、その段階では、敵は陣地を固守するであろうし、わが方としても運動戦に呼応する強力な陣地攻撃をおこなわなければ、失地回復の目的をたっすることができないからである。そうはいっても、第三段階では、われわれはやはり運動戦を戦争の主要な形態とするように努めなければならない。なぜなら、第一次世界大戦の中期以後における西ヨーロッパのような陣地戦となると、戦争の指導芸術と人間の積極性は、おおかた役にたたなくなってしまうからである。そして、広大な国土をもつ中国の領土内での戦いでは、相当長期にわたって、中国側には、依然として技術的に貧弱という事情がつづくので、「戦争を塹壕から解放する」ということがおのずからあらわれる。第三段階でも、中国の技術的条件は改善されるとはいえ、やはり敵をしのぐことができるとは限らず、したがって、どうしても、高度の運動戦に力をそそがなければ、最後の勝利の目的はたっせられない。このように、抗日戦争全体をつうじて、中国は陣地戦を主要な形態とすることはありえず、主要な、また重要な形態は運動戦と遊撃戦である。これらの戦争形態では、戦争の指導芸術と人間の積極性を十分に発揮する機会があたえられる。これはまたわれわれにとって不幸中の幸いでもある。
(九七)まえにものべたように、戦争の本質すなわち戦争の目的は、自己を保存し、敵を消滅することである。そして、この目的をたっするための戦争形態には、連動戦、陣地戦、遊撃戦の三つがあるが、これが実現されたさいの効果に程度のちがいがあることから、一般的には、いわゆる消耗戦と殲滅戦の区別がある。
(九八)まず第一に、抗日戦争は消耗戦であると同時に、殲滅戦でもあるといえる。なぜか。敵の強さの要素がまだ作用しており、敵の戦略上の優勢と主動性が依然として存在しているので、戦役上戦闘上の獺減戦をつうじなければ、効果的に迅速に敵の強さの要素を減殺し、敵の優勢と主動性をうちやぶることはできない。わが方の弱さの要素も依然として存在しており、戦略上の劣勢と受動性からまだぬけきっていないので、国内的、国際的な条件を強化し、自分の不利な状態を改める時間をかちとることも、戦役上戦闘上の殲滅戦をつうじなければ、できるものではない。したがって、戦役上の殲滅戦は、戦略上の消耗戦という目的をたっするための手段である。この点からいえば、殲滅戦はすなわち消耗戦である。中国が持久戦をおこなうことができるのは、殲滅で消耗をはかることを主要な手段とするからである。
(九九)だが、戦略的消耗の目的をたっするものとしては、このほかに戦役上の消耗戦がある。だいたいにおいて、運動戦は殲滅の任務を遂行するもの、陣地戦は消耗の任務を遂行するもの、遊撃戦は消耗の任務を遂行すると同時に殲滅の任務をも遂行するものであって、この三者のあいだにはちがいがある。この点からいえば、殲滅戦は消耗戦と異なる。戦役上の消耗戦は補助的なものではあるが、やはり持久作戦に必要なものである。
(一〇〇)理論上また必要上からいえば、中国は防御段階では、敵を大量に消耗させる戦略目的をたっするため、運動戦のもつ主要な殲滅性、遊撃戦のもつ部分的な殲滅性を利用し、それにくわえて、補助的性質の陣地戦のもつ主要な消耗性と、遊撃戦のもつ部分的な消耗性を利用すべきである。対特段階では、さらに、敵を大量に消耗させるため、遊撃戦と運動戦のもつ殲滅性と消耗性をひきつづき利用する。すべてこれらは、戦局を持久させ、しだいに敵とわが方の形勢を変化させて、反攻の条件を準備するためである。戦略的反攻のさいには、最終的に敵を駆逐するために、ひきつづき殲滅で消耗をはかるのである。
(一〇一)だが、事実上、十ヵ月の経験では、いくたの、それどころか大多数の運動戦の戦役が消耗戦になってしまい、遊撃戦のもつべき殲滅の役割も、一部の地区では、まだそれにふさわしい程度にまでたっしなかった。このような状況の長所は、なにはともあれ、われわれが敵を消耗させたことであって、それは持久作戦と最後の勝利にとって意義があり、われわれの血はむだに流されたのではないということである。しかし、欠点は、一つには、敵を消耗させることが不十分であったこと、二つには、われわれ自身、消耗が比較的多く、戦利品が比較的少なくならざるをえなかったことである。このような状況の客観的原因、つまり敵とわが方の技術および兵員の訓練の程度の相異は認めるべきであるが、しかし、理論的にも、実際的にも、あらゆる有利なばあいに、主力軍はつとめて殲滅戦をおこなうべきことを、どうしても提唱しなければならない。遊撃隊は、破壊や攪乱などの多くの具体的任務を遂行するために、単純な消耗戦をおこなわなければならないとはいえ、やはり、敵を大量に消耗させしかも自己を大量に補充する目的をたっするよう、戦役上戦闘上のあらゆる有利なばあいの殲滅的な戦いを提唱し、その実行に努力すべきである。
(一○二)外線的速決的な進攻戦のいわゆる外線、速決、進攻、そしてまた運動戦のいわゆる運動は、戦闘形態のうえでは、主として包囲と迂回の戦術をとるものであり、したがって優勢な兵力を集中しなくてはならない。だから、兵力を集中して、包囲迂回の戦術をとることは、運動戦、つまり外線的速決的な進攻戦を実行するのに必要な条件である。そして、すべてこれらは敵を殲滅するという目的のためである。
(一○三)日本軍隊の長所は、その武器にあるばかりでなく、さらにその将兵の訓練――その組織性、過去に敗戦したことがないためにうまれた自信、天皇や神にたいする迷信、傲慢不遜、中国人にたいする蔑視などにある。これらの特徴は、日本軍閥の多年の武断的教育と日本の民族的慣習によってつくられたものである。わが軍は日本軍にきわめて多くの死傷者をださせたが、捕虜にしたのはきわめて少なかったという現象のおもな原因はここにある。この点については、これまで多くの人びとの評価は不十分であった。こうしたものをうちこわすには、長い過程が必要である。なによりもまずわれわれがこの特徴を重視し、そのうえで、辛抱強く、計画的に、政治、国際宣伝、日本人民の運動など多くの面から、この点にたいしてはたらきかける必要がある。そして軍事上の殲滅戦もその方法の一つである。ここで、悲観主義者はこの点をよりどころにして亡国論にもっていくだろうし、消極的な軍事家はまたこの点をよりどころにして殲滅戦に反対するだろう。これとは反対に、われわれのみるところ、日本軍隊のこのような長所はうちこわせるものであり、しかもうちこわされはじめている。うちこわす方法は、主として政治の面からかちとることである。日本の兵士にたいしては、その自尊心をきずつけるのではなくて、かれらの自尊心を理解し、それを正しくみちびくことであり、捕虜を寛大に取り扱うやり方からはじめて、日本の支配者の反人民的な侵略主義を理解できるようにかれらをみちびくことである。もう一つの面では、かれらのまえに、中国軍隊と中国人民の不屈の精神と英雄的な頑強な戦闘力をしめすこと、すなわち殲滅戦による打撃をあたえることである。作戦上からいえほ、十ヵ月の経験は殲滅が可能なことを立証しており、平型関、台児荘などの戦役がその明らかな証拠である。日本軍の士気は動揺をみせはじめ、兵士は戦争目的がわからず、中国軍隊と中国人民の包囲のなかにおちいって、突撃の勇気は中国兵よりはるかにおとっているなど、これらはみなわが方が殲滅戦をおこなうのに有利な客観的条件であり、これらの条件は戦争の持久にともない日ましに発展していくであろう。殲滅戦によって敵軍の気勢をそぐという点からいえば、殲滅はまた戦争の過程をちぢめ、日本の兵士と日本の人民を解放する時期をはやめる条件の一つでもある。世の中には、猫と猫が仲よしになることはあっても、猫と鼠が仲よしになるようなことはない。
(一〇四)もう一つの面では、技術および兵員の訓練の程度のうえで、現在われわれが敵におよばないことを認めるべきである。したがって、最大限度の殲滅、たとえば全部または大部分を捕虜にすることは、多くのばあい、ことに平原地帯での戦闘では困難である。速勝論者のこの面での過大な要求もまちがっている。抗日戦争の正しい要求は、できるかぎりの殲滅戦をおこなうことでなければならない。有利なばあいにはすべて、一つ一つの戦いで優勢な兵力を集中して、包囲迂回の戦術をとる――その全部を包囲できなくてもその一部を包囲し、包囲した全部のものを捕虜にできなくても包囲したものの一部を捕虜にし、包囲したものの一部を捕虜にできなくても包囲したものの一部に大量の死傷者をださせる。しかし、殲滅戦をおこなうのに不利なばあいにはすべて、消耗戦をおこなう。前者のばあいには兵力集中の原則をもちい、後者のばあいには兵力分散の原則をもちいる。戦役上の指揮関係では、前者のばあいには集中的指揮の原則をもちい、後者のばあいには分散的指揮の原則をもちいる。これらが、とりもなおさず抗日戦争における戦場作戦の基本方針である。
(一〇五)敵にうち勝つことができる基礎は、敵の指揮の面にもある。むかしから、あやまりをおかさない将軍はない。ちょうどわれわれ自身も手落ちをさけがたいのと同様、利用される手落ちは敵にもあり、敵のすきに乗ずる可能性は存在する。戦略上戦役上からいえば、敵は十ヵ月の侵略戦争中に、すでに多くのあやまりをおかした。そのうち大きなものをあげると五つある。第一は、兵力を小出しにふやしたこと。これは敵の中国にたいする評価の不十分さからきたもので、またかれら自身の兵力不足という原因もある。敵は、従来われわれをみくびり、東北四省のことでうまい汁を吸ってから、さらに河北省東部、察哈爾省北部をも占領したが、これらは敵の戦略的偵察とみることができよう。かれらのえた結論は、中国人はばらばらの砂だということであった。そこから、かれらは、中国は一撃にも値しないとおもいこみ、いわゆる「速決」の計画をたてて、わずかばかりの兵力をくりだし、われわれをおどかしてつぶそうとくわだてた。十ヵ月らい、中国がしめしたこれほど大きな団結とこれほど大きな抵抗力を、かれらは予想もしなかったし、中国がすでに進歩の時代にあること、中国にはすでに先進的な政党、先進的な軍隊および先進的な人民があることを念頭においていなかった。いよいよだめだとなると、十数コ師団からつぎつぎと小出しに三十コ師団に増兵した。さらに前進するには、もっと増兵しなければならない。しかし、ソ連との対立により、またかれらの人力、財力の先天的な不足によって、日本の最大の出兵数と最後の進攻点はどちらも一定の制約をうけざるをえない。第二は、主攻方向がないこと。台児荘戦役以前は、敵は華中、華北にだいたい兵力を均分しており、両者の内部でもそれぞれ兵力を均分していた。たとえば、華北では天津=浦口鉄道、北京=漢□鉄道、大同=風陵渡鉄道の三路に兵力を均分していたが、各路とも死傷者を一部だし、占領地の駐屯守備に一部をさいたので、それ以上前進する兵力はなかった。台児荘の敗北後は、その教訓を総括して、主力を徐州方面に集中したので、このあやまりは、ひとまず一時的に改められた。第三は、戦略的協同がないこと。敵の華中、華北の両集団のうち、それぞれの集団内部にはだいたい協同があるが、両集団間には協同がきわめて少ない。天津=浦口鉄道の南部区間の部隊が小[虫+”邦の「へん」”]埠を攻撃したさいには、北部区間の部隊は動かず、北部区間の部隊が台児荘を攻撃したさいには、南部区間の部隊が動かなかった。両方面ともに苦杯をなめたのち、陸軍大臣が視察にやってきたり、参謀総長が指揮のためにやってきたりして、ひとまず一時的には協調ができた。日本の地主・ブルジョア階級および軍閥の内部にはかなり深刻な矛盾があって、この矛盾は発展しつつあり、戦争における協同の欠如がその具体的なあらわれの一つである。第四は、戦略的時機を逸したこと。この点は南京、太原両地占領後の停頓に顕著にあらわれているが、それは主として兵力が不足し、戦略的追撃隊がなかったからである。第五は、包囲は多いが殲滅が少ないこと。台児荘戦役以前には、敵は上海、南京、滄州、保定、南口、忻口、臨汾の諸戦役で、撃破は多かったが、捕虜と戦利品は少なく、ここに指揮のまずさがあらわれている。この五つの点――兵力を小出しにふやしたこと、主攻方向がないこと、戦略的協同がないこと、時機を逸したこと、包囲は多いが殲滅が少ないこと、これが台児荘戦役以前、日本の指揮のまずかった点である。台児荘戦役以後、多少は改められたが、その兵力の不足や内部矛盾の諸要素のため、あやまりをくり返すまいとしてもそれは不可能である。そのうえ、こちらで得れば、あちらでうしなうというありさまである。たとえば、華北の兵力を徐州に集中すると、華北の占領地には大きな空白が生じて、遊撃戦にぞんぶんに発展する機会をあたえることになった。以上は、敵が自分でしでかしたあやまりであって、われわれがあやまらせたのではない。わが方はなお、意識的に敵のあやまりをつくりだすこと、すなわち自己の聡明で効果的な行動によって、組織された民衆の掩護のもとに、敵に錯覚をおこさせ、敵をわれわれの土俵にひきいれることができる。たとえば、東を撃つとみせて西を撃つなどがそれであるが、こうしたことの可能性についてはまえにのべた。これらすべては、わが方の戦争の勝利が敵の指揮の面にもある種の根源を見いだせることを説明している。もちろん、われわれはこの点をわが方の戦略計画の重要な基礎とすべきではなく、反対に、わが方の計画はむしろ敵があまりあやまりをおかさないという仮定のうえに立てるべきであり、これこそたしかなやり方である。しかも、わが方が敵のすきに乗ずるとすれば、敵もわが方のすきに乗ずることができるわけで、敵に利用されるようなすきをできるだけあたえないことが、われわれの指揮の面での任務でもある。しかし、敵の指揮のあやまりは、事実上あったし、また今後もおこるであろうし、そのうえ、わが方の努力によってつくりだすこともできる。これらはいずれもわが方に利用できるもので、抗日の将軍たちは極力それをとらえるようにしなければならない。敵の戦略上戦役上の指揮にはまずいところが多いが、その戦闘の指揮、すなわち部隊の戦術や小兵団の戦術には、かなりすぐれたところがあり、この点についてはわれわれはかれらに学ぶべきである。
(一〇六)抗日戦争における決戦の問題はつぎの三つにわけることができる。すなわち勝算のあるすべての戦役と戦闘では断固として決戦をおこなうべきこと、勝算のないすべての戦役と戦闘では決戦をさけるべきこと、国の運命をかける戦略的決戦は絶対にさけるべきことである。抗日戦争が他の多くの戦争と異なる特徴は、この決戦の問題にもあらわれている。第一、第二の段階では、敵が強くてわが方が弱いので、敵はわが方が主力を集中して敵と決戦することを要求する。これとは逆に、わが方の要求は、平型関、台児荘、その他の多くの戦闘のように、有利な条件をえらび、優勢な兵力を集中して、戦役上戦闘上の勝算のある決戦をおこない、彰徳などの戦役でとられた方針のように、不利な条件のもとでの勝算のない決戦をさけることである。国の運命をかける戦略的決戦は断じておこなわない。最近の徐州撤退はその例である。こうして、敵は「速決」計画をやぶられ、われわれにひきずられて持久戦をおこなわざるをえなくなる。このような方針は、領土の狭い国ではとれないし、政治的にひどくおくれた国でもなかなかとれない。われわれは大国であり、そのうえ進歩の時代にあるので、これが実現できるのである。もし戦略的な決戦をさけたならば、「青山あるかぎり、薪に心配なく」、若干の土地をうしなっても、なお、広大な機動の余地があって、国内の進歩、国際的増援および敵の内部的崩壊をうながし、これを待つことができる。これが抗日戦争の上策である。せっかち病の速勝論者は、持久戦の苦難な道のりをたえぬくことができないで、連勝をくわだて、形勢がすこしでも好転してくると、すぐに戦略的決戦の声をはり上げるが、もしそのようにすれば、抗戦全体が大損害をこうむって、持久戦はそのために葬りさられ、まんまと敵の奸計にひっかかってしまう。これはまったく下策である。決戦しない以上、土地を放棄しなければならなくなることは疑問の余地がないが、さけることのできない状況のもとでは(またこのような状況のもとでだけ)、大胆に放棄するほかない。このような状況になったばあいには、いささかも未練をのこすべきでなく、これは土地を時間ととりかえる正しい政策である。歴史上では、ロシアは決戦をさけて、大胆に退却し、一世を風靡したナポレオンにうち勝った〔24〕。現在、中国もまたそうすべきである。
(一〇七)「無抵抗」と他人に非難されるのをおそれないのか。おそれない。全然戦わず、敵と妥協すること、これは無抵抗主義であって、非難すべきであるばかりか、まったくゆるせない。断固として抗戦するが、敵の奸計をさけ、わが軍の主力が敵の一撃のもとについえさって、抗戦の継続にひびくことがないようにするため、一言でいえば、亡国をさけるために、そうすることはぜひとも必要である。この点に疑いをさしはさむのは、戦争問題における近視眼であって、その結果はかならず亡国論者の仲間入りをすることになる。われわれが、「前進するだけで後退しない」という体当たり主義を批判したのは、このような体当たり主義が一般の風潮となれば、その結果は、抗戦の継続を不可能にし、最後には亡国にみちびく危険があるからである。
(一〇八)われわれは、戦闘であろうと、大小の戦役であろうと、有利な条件のもとではすべて決戦をおこなうことを主張し、この点では、どのような消極性もゆるさない。敵を殲滅し、敵を消耗させる目的をたっするには、このような決戦をおこなう以外になく、抗日軍人はだれでもみな、断固としてそうしなければならない。この目的のためには、部分的な、かなり大量の犠牲が必要であり、どのような犠牲をもさけようとする観点は臆病者と恐日病患者の観点であって、それには断固として反対しなければならない。李服膺、韓復榘らの逃走主義者を死刑に処したが、それは正しかった。戦争において勇敢な犠牲、英雄的な前進の精神と行動を提唱することは、正しい作戦計画のもとでは絶対に必要なことであり、持久戦および最後の勝利ときりはなすことができない。われわれが「後退するだけで前進しない」という逃走主義をきびしく非難し、厳格な規律の励行を支持したのは、こうした正しい計画のもとでの英雄的決戦をおこなわないかぎり強敵にうち勝つことができないからであり、逃走主義は亡国論の直接の支持者だからである。
(一〇九)さきに英雄的に戦っておいて、あとで土地を放棄するのは、自己矛盾ではないか。これらの英雄的な戦闘員の血は、むだに流されたことにならないか。これはまったく当をえない問題提起である。さきに飯をたべておいて、あとで便所にいくのでは、たべた飯がむだにならないか。さきに眠っておいて、あとで起きるのでは、眠ったのがむだにならないか。問題をこんなふうに提起できるであろうか。わたしはできないとおもう。飯をたべれはずっとたべつづけ、眠ればずっと眠りつづけ、英雄的に戦えばずっと鴨緑江の岸辺まで戦いつづけるというのは、主観主義と形式主義の幻想であって、実際生活には存在しない。だれでも知っているように、時間をかちとり、反攻を準備するために血を流して戦ったことによって、たとえ一部の土地の放棄はさけられなかったとしても、時間はかちとられ、敵を殲滅し、敵を消耗させる目的はたっせられ、わが方の戦闘経験はえられ、これまで立ちあがらなかった人民は立ちあがり、国際的地位はたかまった。このような血はむだに流されたのだろうか。少しもむだに流されたのではない。土地を放棄するのは軍事力を保存するためであり、またまさに土地を保存するためでもある。なぜなら、不利な条件のもとにありながら土地を部分的に放棄することをせず、勝算のまったくない決戦を盲目的にやるならば、その結果は、軍事力を喪失したのち、かならず、つづいて全部の土地を喪失し、失地回復どころの話ではなくなってしまうからである。資本家が商売をするには元手が必要で、すっかり破産してしまえば、もう資本家ではなくなる。ばくちうちにも元がいり、一か八か有り金を全部張ってしまって、運わるくあたらなければ、それ以上賭けようがなくなる。事物は思いどおりにまっすぐ進むものではなく、反復したり、曲折したりするものであり、戦争もこれとおなじであって、この道理に納得がいかないのは、形式主義者だけである。
(一一〇)わたしの考えでは、戦略的反攻の段階での決戦においてもまたおなじである。そのときには、敵が劣勢で、わが方は優勢にたつが、やはり「有利な決戦をおこない、不利な決戦をさける」という原則が適用され、鴨緑江の岸辺に進撃していくまですべてそうである。このようにすれば、わが方は終始主動にたつことができるのであり、敵の「挑戦状」や、他の人の「けしかけの手」は、すべてたな上げにし、無視すべきで、すこしでもそれに動かされてはならない。抗日の将軍たちは、このような確固としたところがなければ、勇敢で聡明な将軍とはいえない。これは「触れるとすぐ跳びあがる」ような人間には、縁のないことである。第一段階では、わが方はある程度の戦略的受動にあるが、戦役のうえではすべて、主動にたつべきであり、その後のどの段階においても主動にたつべきである。われわれは、ばくちうちのような一か八か論者ではなく、持久論者であり、最後勝利論者である。
(一一一)日本帝国主義は、革命的な中国をまえにして、けっしてその進攻と弾圧の手をゆるめるものではなく、その帝国主義的本質がこれを規定している。中国が抵抗しなければ、日本は一発の弾丸も使わずに、らくらくと中国を占領できるのであり、東北四省の喪失がその前例である。中国が抵抗すれば、日本はくの抵抗力に圧迫をくわえ、その圧力が中国の抵抗力をしのげなくなるまでは停止しない。これは必然の法則である。日本の地主・ブルジョア階級の野心はきわめて大きく、南は東南アジアを攻撃し、北はシベリアを攻撃するために、中間突破の方針をとり、まず中国を攻撃しているのである。日本は華北と江蘇、淅江一帯を占領してしまえば、適当に停止するだろうと考えている人びとは、新しい段階に発展して死線に近づいてきた日本帝国主義が、もはや過去の日本とは異なっていることを全然みていないのである。われわれが、日本の出兵数と進攻点には一定の限界があるというのは、つぎのことを意味している。すなわち、日本の側は、その力の基礎のうえでは、さらに他の方面にも進攻するとともに、別の方面の敵をも防御する必要があるため、中国を攻撃するのに一定程度の力しかさくことができず、しかもその力のおよびうる限度までしか攻撃できないということ、一方中国の側は、自己の進歩と頑強な抵抗力をしめしており、一日本が猛攻するだけで中国には必要な抵抗力がないなどとは考えられないということである。日本は全中国を占領することはできないが、その力のおよびうる地区では、全力をあげて中国の抵抗を弾圧し、その内外の条件によって日本帝国主義が墓場においこまれる直接的な危機がやってくるまでは、このような弾圧を停止することはありえない。日本の国内政治には二つの道しかない。その一つは、権力をにぎる階級全体が急速に崩壊し、政権が人民の手にわたり、それによって戦争が終わることであるが、当分その可能性はない。もう一つは、地主・ブルジョア階級が日ましにファッショ化していき、自己の崩壊の日がくるまで戦争を持続していくことであり、日本がすすんでいるのはまさにこの道である。このほかに第三の道はない。日本のブルジョア階級の穏健派がでてきて戦争をやめさせるだろうと望むのは、たんなる幻想にすぎない。日本のブルジョア階級の穏健派は、すでに地主と独占金融資本のとりこになっており、これが長年の日本の政治の実際である。日本が中国を攻撃してのち、もし中国の抗戦がまだ日本に致命的な打撃をあたえず、日本にまだ十分な力があるとすれば、日本はさらに東南アジアまたはシベリアを攻撃するにちがいないし、ひいてはその両方とも攻撃するかもしれない。ヨーロッパで戦争がおこれば、日本はこの挙にでるであろう。日本の支配者の皮算用は非常にけたが大きい。もちろん、ソ連が強大なことや、日本が中国での戦争で大いに弱まることから、日本がもとのシベリア進攻計画を中止して、シベリアにたいする根本的な守勢をとらざるをえなくなる可能性もある。しかし、このような状況があらわれたときには、日本は中国への進攻をゆるめるのではなくて、逆に中国への進攻をつよめるであろう。なぜならそのときには、日本には弱者を餌食にする道しか残っていないからである。そのときには、中国の抗戦堅持、統一戦線堅持、持久戦堅持の任務は、なおさら、重大さをまし、いささかのたるみもゆるされなくなる。
(一一二)このような状況のもとで、中国が日本に勝利する主要な条件は、全国的に団結することと、各方面でこれまでより十倍も百倍も進歩することである。中国はすでに進歩の時代にあり、すでに偉大な団結もできているが、現在の程度ではまだ非常に不十分である。日本の占領する土地がこのように広いのは、一方では日本の強さ、地方では中国の弱さによるが、この弱さはまったく百年らい、ことにこの十年らいのいろいろな歴史的あやまりがつみかさなった結果であって、これが中国の進歩的要素を今日の状態に限定しているのである。現在、このような強敵にうち勝つには、長期にわたる大きな努力なしには、不可能である。努力すべきことはたくさんあるが、わたしは、ここではただもっとも根本的な二つの面、すなわち軍隊の進歩と人民の進歩についてだけのべよう。
(一一三)軍制の革新には、その近代化、技術的条件の増強がなくてはならず、この点がなければ、敵を鴨緑江の向こう側においだすことはできない。軍隊を使用するには進歩的な、弾力的な戦略戦術が必要であり、この点がなければ、やはり勝利することはできない。しかし、軍隊の基礎は兵士であって、進歩的な政治精神を軍隊にそそぎこまなければ、それをそそぎこむための進歩的な政治工作がなければ、将校と兵士とのあいだの真の一致は達成できず、将兵の抗戦の熱情を最大限に燃えたたせることはできず、すべての技術や戦術もそれにふさわしい効力を発揮する最良の基礎はえられなくなる。日本は技術的条件はすぐれているが最後にはかならず失敗するというのは、われわれがかれらに殲滅や消耗の打撃をあたえるということのほかに、その軍隊の士気がわれわれの打撃につれて、ついにはかならず動揺して、武器と兵員との結合がしっくりいかなくなるということである。われわれはその逆で、抗日戦争の政治目的では、将兵ともに一致している。この点にすべての抗日軍隊の政治工作の基礎がある。軍隊では、一定限度の民主化を実行すべきであり、主として、なぐったりどなったりするような封建主義的な制度を廃止して、将兵が苦楽をともにするようにすべきである。こうすれば、将兵の一致という目的がたっせられ、軍隊はこのうえなく戦闘力をまし、長期の残酷な戦争がささえられない心配はなくなる。
(一一四)戦争の偉力のもっとも深い根源は民衆のなかにある。日本がわれわれをあなどるのは、主として中国の民衆が無組織の状態にあるからである。この欠点が克服されれば、日本侵略者は火の海にとびこんできた野牛のように、立ちあがったわれわれ数億の人民の面前にひきすえられ、われわれの一喝でとびあがり、かならず焼け死んでしまう。われわれの側では、軍隊はたえまなく補充しなければならないが、現在地方ででたらめにやられている「兵隊狩り」、「身代わり兵買い」〔25〕をただちに禁止して、広範な熱烈な政治的動員にきりかえるべきであり、そうすれば、数百万人を軍隊に参加させることも容易である。抗日のための財源には大きな困難があるが、民衆を動員すれば、財政も問題にならない。このように土地が広く、人口の多い国で財政窮乏を憂える理由などがどこにあろうか。軍隊は、民衆から自分の軍隊とみなされるよう、民衆と一体になるべきである。そうなれば、この軍隊は天下無敵となり、日本帝国主義ぐらいをうちやぶるのは物の数ではなくなる。
(一一五)将兵関係、軍民関係がうまくいかないのは、方法がまちがっているからだとおもっている人がたくさんいるが、わたしは、つねにかれらに、それは兵士を尊重し人民を尊重するという根本的な態度(あるいは根本的なたてまえ)の問題であるといってきた。この態度からいろいろの政策、方法、方式がうまれるのである。この態度がなければ、政策、方法、方式もかならずまちがってくるし、将兵のあいだ、軍民のあいだの関係もけっしてうまくいかない。軍隊の政治工作の三大原則は、第一が将兵一致であり、第三が軍民一致であり、第三が敵軍瓦解である。これらの原則を効果的に実行するには、兵士の尊重、人民の尊重、すでに武器を放棄した敵軍の捕虜の人格の尊重という根本的な態度から出発しなければならない。これらのことを根本的な態度の問題ではなくて、技術的な問題だと考える人びとは、まったく考えちがいをしているのであって、ぜひ改めなければならない。
(一一六)武漢地方の防衛が緊急任務となっているこのさい、全軍隊、全人民のすべての積極性をふるいたたせて戦争をささえていくことは、非常に重大な任務である。武漢地方を防衛する任務は、疑うまでもなく、しんけんにこれを提起し遂行しなければならない。しかし、はたして、確実に防衛できるかどうかは、主観的な願望によってきまるのではなくて、具体的な条件によってきまる。全軍隊、全人民が奮起するよう政治的に動員することが、もっとも重要な具体的な条件の一つである。すべての必要な条件をかちとることに努力しないなら、それどころか必要な条件の一つでも欠けるなら、いきおい、南京などをうしなった二の舞いを演じることになる。中国のマドリード⑬がどこになるかは、どこにマドリードの条件がそなわるかにかかっている。これまでは一つのマドリードもなかったが、今後はいくつかのマドリードをつくりだすよう努めるべきで、それはまったく条件いかんにかかっている。条件のうちのもっとも基本的なるのは全軍隊、全人民の広範な政治的動員である。
(一一七)すべての活動において、抗日民族統一戦線の全般的方針を堅持すべきである。なぜなら、この方針によってのみ、抗戦を堅持し、持久戦を堅持することができ、将兵関係、軍民関係を広く深く改善することができ、全軍隊、全人民のすべての積極性をふるいたたせて、まだうしなわれていないすべての地区を防衛し、すでにうしなわれたすべての地区を奪回するために戦うことができ、そして最後の勝利をたたかいとることができるからである。
(一一八)軍隊と人民を政治的に動員するという問題は、実際あまりにも重要である。われわれが重複をいとわず、この点についてのべてきたのは、実際、この点がなければ勝利がえられないからである。他の多くの必要なものがなければ、もとより勝利はえられないが、しかしこの点が勝利のもっとも基本的な条件である。抗日民族統一戦線は、けっしていくつかの政党の本部や党員たちだけの統一戦線ではなく、全軍隊、全人民の統一戦線である。全軍隊、全人民を統一戦線に参加させることこそ、抗日民族統一戦線結成の根本目的である。
(一一九)結論はなにか。結論はこうである。「どのような条件のもとで、中国は日本帝国主義の武力にうち勝ち、これを消滅することができるのでしょうか。三つの条件が必要です。第一は中国抗日統一戦線の達成、第二は国際抗日統一戦線の達成、第三は日本国内の人民と日本の植民地の人民の革命運動のもりあがりです。中国人民の立場からいえば、三つの条件のうち、中国人民の大連合が主要なものです。」「この戦争はどのくらい長びくでしょうか。それは、中国の抗日統一戦線の力と中日両国の他の多くの決定的な要素のいかんによってきまります。」「もしこれらの条件がすぐに実現しなければ、戦争は長びくでしょう。だが、結果はやはりおなじで、日本はかならず敗北し、中国はかならず勝利します。ただそれだけ犠牲が大きくなり、ひじょうに苦しい時期を経過するだけのことです。」「われわれの戦略方針は、主力を、たえず変動する長い戦線での作戦に用いるべきだということです。中国の軍隊が勝利するには、ひろい戦場での高度の運動戦が必要です。」「訓練された軍隊を配置して運動戦をおこなうほか、さらに農民のあいだに多くの遊撃隊を組織しなければなりません。」「戦争の過程で、……中国の軍隊の装備をしだいに強化していくこともできます。したがって、中国は戦争の後期には陣地戦をおこない、日本の占領地にたいして陣地攻撃をおこなうことができます。このようにして、日本は、中国の抗戦による長期の消耗によって、経済は崩壊し、無数の戦いに疲弊して、士気はおとろえていくでしょう。中国の側では、抗戦の潜在力が日ましに大きくたかまり、大量の革命的民衆がぞくぞくと前線におもむき、自由のために戦うでしょう。これらすべての要素が他の要素と結びつくと、われわれは、日本の占領地の堡塁や根拠地にたいして最後の致命的な攻撃をくわえ、日本の侵略軍を中国から駆逐することができます。」(一九三六年七月、スノウとの談話)「中国の政治情勢は、このときから新しい段階にはいった。……この段階でのもっとも中心的な任務は、あらゆる力を動員して抗戦の勝利をかちとることである。」「抗戦の勝利をかちとる中心の鍵は、すでに口火のきられた抗戦を全面的な全民族の抗戦に発展させることである。このような全面的な全民族の抗戦でなければ、抗戦は最後の勝利をおさめることはできない。」「当面の抗戦にはまだ重大な弱点があるので、今後の抗戦の過程では、挫折、退却、内部分化、裏切り、一時的、局部的な妥協など、多くの不利な状況がうまれる可能性がある。したがって、この抗戦は、苦難にみちた持久戦になることを見てとるべきである。だが、われわれは、すでに口火のきられた抗戦が、かならずわが党と全国人民の努力によって、あらゆる障害をつきやぶってひきつづき前進、発展することを確信する。」(一九三七年八月、「中国共産党中央の当面の情勢と党の任務についての決定」)これらの点が結論である。亡国論者は敵を神わざをもつもののように考え、自分をちりあくたのように考えており、速勝論者は敵をちりあくたのように考え、自分を神わざをもつもののように考えているが、これはどちらもあやまりである。われわれの意見はその反対である。すなわち抗日戦争は持久戦であり、最後の勝利は中国のものである――これがつまりわれわれの結論である。
(一二〇)わたしの講演はこれで終わる。偉大な抗日戦争がいま、まさに展開されており、その全面的な勝利をかちとるために、経験の総括されることを多くの人びとが望んでいる。わたしがのべたのは、この十ヵ月の経験のなかの一般的なものにすぎないが、これも一つの総括といえよう。この問題は広範な注意と討議をひきおこすに値するものであり、わたしがのべたのは一つの概論にすぎないので、諸君の研究、討議によって、訂正、補足されるよう希望する。
〔1〕 こうした亡国論は国民党の見解である。かれらは抗日を望まなかったのであり、のちにやむなく抗日したのである。蘆溝橋事変以後、蒋介石一派は不本意ながら抗日に参加したが、汪精衛一派は亡国論を代表して、日本への投降を準備し、はたしてのちには投降してしまった。だが、亡国論の思想は国民党内に存在していたばかりでなく、一部の中間層、ひいては一部のおくれた勤労人民にさえも影響をおよぼしていたのである。これは、腐敗無能な国民党政府が、抗日戦争のなかでつぎつぎに失敗をかさね、しかも日本軍がまっしぐらに侵入して、戦争の一年目に武漢付近にまで進撃したため、一部のおくれた人民のあいだに、深刻な悲観的気分が生じたからである。
〔2〕 ここにあげられている見解はみな共産党内のものである。抗日戦争の最初の半年間、党内には、日本は一撃にも値しないと考える、敵を軽視する傾向があった。そのわけは共産党の指導する軍隊と組織された民衆の力が、当時、まだ小さいことを知っていたかれらとして、自己の力が大きいと感じたからではない。国民党が抗日したので、かれらは、国民党が共産党と呼応して日本を効果的にたたくだけの大きな力をもっていると感じたからである。かれらは、国民党の反動的な、腐敗した面をわすれて、国民党の一時的な抗日の面だけをみていたので、あやまった評価をおこなったのである。
〔3〕 これは蒋介石らの見解である。蒋介石国民党は抗戦を余儀なくされると、ひたすら外国からのすみやかな援助にのぞみをかけた。かれらは自己の力を信じなかったし、それにもまして人民の力を信じなかった。
〔4〕 台児荘は山東省南部の町である。一九三八年三月、中国軍隊と日本侵略軍とが台児荘一帯で会戦した。中国軍隊は四十万の兵力で七、八万の日本軍に対抗し、それで勝利をおさめた。
〔5〕 これは、当時、国民党の政学系の新聞『大公報』が社説でのべた論調である。かれらは持久戦の過程で人民の力を動員することによって、自分たちの階級の安全がおびやかされることのないように、僥倖をたのむ気持ちかち、台児荘のような勝利を何回かかさねて日本をうちやぶることにのぞみをかけた。国民党全体に、当時、こうした僥倖をたのむ気持ちがあった。
〔6〕 一八世紀の末から数十年間、イギリスは中国向けのアヘン輸出を日ましにふやしていった。アヘンの輸入で、中国人民はひどい害毒をうけ、中国の銀は大量に奪いさられた。アヘン貿易は、中国の反対にあった。一八四〇年、イギリス政府は、通商の保護を口実に、派兵して中国を侵略した。中国軍隊は、林則徐の指導のもとに侵略に抵抗する戦争をおこなった。広州の人民は、自然発生的に「平英団」を組織して、イギリス侵略軍に大きな打撃をあたえた。一八四二年、腐敗した清朝政府は、イギリス侵略者と「南京条約」を結んだ。この条約は賠償金を支払い、香港を割譲するほか、上海、福州、廈門、寧波、広州を通商港として開放し、また、中国の輸入するイギリス商品にたいする税率を中英両国が共同で議定することを規定している。
〔7〕 戊戌維新とは、戊戌の年(一八九八年)におこった改良主義運動をさす。この運動は、一部の自由主義ブルジョア階級と開明地主の利益を代表し、康有為、梁啓超、譚嗣同らが中心になってすすめたもので、光緒皇帝の賛助をえたが、人民大衆のなかに基盤をもっていなかった。当時、武力をにぎっていた袁世凱が頑固派の首領西太后に維新派の機密をうりわたしたので、西太后はふたたび政権をにぎり光緒皇帝を幽閉するとともに、譚嗣同ら六人を殺した。この運動は、こうしてみじめな失敗に終わった。
〔8〕 一九三八年一月十六日、日本の内閣は、武力によって中国を滅ぼすという方針をあきらかにする声明を発表すると同時に、国民党政府が「依然として抗戦の策動をつづける」以上、日本政府としては「爾後国民政府を対手とせず」、中国に新しいかいらい政権をもりたてると公言し、国民党政府にたいして威嚇と投降勧誘をおこなった。
〔9〕 ここでは、主として、アメリカをさす。
〔10〕 イギリス、アメリカ、フランスなどの帝国主義諸国の政府をさす。
〔11〕 毛沢東同志がここで予言している、抗日戦争の対特段階における中国側の上向きの変化は、中国共産党の指導下にある解放区で完全に実現された。国民党支配区では、蒋介石をかしらとする支配集団が、抗日には消極的で、反共、反人民には積極的であったために、上向きにならなかったばかりでなく下向きになった。だが、こうした状況も広範な人民の反抗と自覚をよびおこすことになった。毛沢東同志の『連合政府について』にあるこれらのすべての事実にかんする分析を参照。
〔12〕 「唯武器論」は中国の武器は日本におとるから、戦争ではかならず中国が敗北すると考える論調である。国民党反動派の頭目たちは(蒋介石をもふくめて)みなこのような見方をしていた。
〔13〕 如来仏は仏教の創始者釈迦牟尼をさす。孫悟空は一六世紀の中国の神話小説『西遊記』のなかの英雄である。この神話小説によると、孫悟空は猿であって、もんどりを一つうてば、十万八千里もとぶことができる。しかし、如来仏のたなごころのなかでは、どんなにもんどりうっても、たなごころからとびだすことができず、逆に如来仏がたなごころをびるがえしておさえると、五本の指が五行山と化して、孫悟空を下敷きにしてしまう。
〔14〕 一九三五年八月、ディミトロフ同志はコミンテルン第七回代表大会でおこなった『反戦・反ファシスト闘争における当面の諸問題』という報告のなかで、「ファシズムとは傍若無人な排外主義であり侵略戦争である」といった。一九三七年七月、ディミトロフ同志はまた『ファシズムとは戦争である』と題する論文を発表した。
〔15〕 レーニンの『社会主義と戦争』の第一章と『第二インターナショナルの崩壊』の第三節にみられる。
〔16〕 『孫子』巻三「謀攻」編にみられる。
〔17〕 城濮は平原省濮県内(現在の河南省范県内――訳者)にある。西紀前六三二年、晉と楚の両国がここで大規模な戦争をおこなった。戦争のはじめには、楚軍が優勢をしめた。晉軍は、九十華里退却し、楚軍の力の手うすな左右両翼をえらんで手痛い打撃をあたえた。楚軍はついに大敗した。
〔18〕 西紀前二〇四年、漢の将軍韓信のひきいる軍勢は井[”こざとへん”+坙]で、趙王の歇と大規模な戦いをまじえた。趙の軍勢は二十万と号し、漢の軍勢に数倍していた。韓信は背水の陣をしき、軍勢をひきいて奮戦し、同時に超軍の防備の手薄な後方に兵をおくってこれを襲撃、占領させ、前後からはさみうちして趙軍を大いに破った。
〔19〕 一八世紀末から、一九世紀のはじめにかけて、フランスのナポレオンはイギリス、プロシア・オーストリア、ロシアおよびヨーロッパのその他の多くの国ぐにと戦った。何回もの戦争で、ナポレオンの部隊は、数のうえでは敵軍におとっていたが、いずれも勝利をおさめた。
〔20〕 西紀三八三年、まえから晉軍をみくびっていた秦王苻堅は兵をだして、晉を攻めた。晉軍は安徽省の寿陽、洛澗の地方で秦軍の先陣をうちやぶり、水陸両面から前進をつづけた。苻堅は寿陽城にのぼって、遠くからこれをながめ、晉兵の布陣が整然としているのをみ、また遠くの八公山上の草木をみて、これをみな晉兵だとおもいこみ、強敵に出会ったようにおそれを抱きはじめた。本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』注〔29〕を参照。
〔21〕 蒋介石、汪精衛らが、一九二七年、国共間の第一次民族民主統一戦線を裏切ってから、十年にわたって反人民戦争をすすめ、中国人民が広範に組織されるのを不可能にしたことをさす。この歴史的あやまりは蒋介石をかしらとする国民党反動派がその責任を負うべきである。
〔22〕 宋の襄公は西紀前七世紀の春秋時代の宋国の君主である。西紀前六三八年、宋国は強大な楚国と戦った。宋兵はすでに列を組んで陣をしき、楚兵はちょうど河を渡るところであった。宋国のある役人は、楚兵は多く、宋兵は少ないとみて、楚兵の渡河が終わらない機会をとらえて撃ってでるよう主張した。しかし、宋の襄公は、「それはいけない。君子は他人がこまっているのに乗じて人を撃つようなことはしない」といった。楚兵が河を渡って、まだ兵の布陣が終わらないとき、宋の役人が撃ってでるようふたたび願いでた。宋の襄公はまたも、「それはいけない。君子は陣容をととのえていない隊伍を攻撃するようなことはしない」といった。楚兵がすっかり準備ができたとき、はじめて、宋の襄公は出撃命令をくだした。その結果、宋国は大敗し、宋の襄公自身も負傷した。この物語は『左伝』債公二十二年にみられる。
〔23〕 一九三七年、日本侵略軍は、北平、天津を占領すると、天津=浦口鉄道にそって南下し、山東省に進攻した。多年山東省を支配していた国民党軍閥韓復榘は戦わずに山東からずっと河南にまで逃げた。
〔24〕 一八一二年、ナポレオンは五十万の大軍をもってロシアに進攻した。ロシア軍はモスクワを放棄し、それを焼きはらった。このため、ナポレオンの軍隊は、飢えと寒さにおそわれ、後方連絡線をかきみだされ、四方から包囲される羽目におちいって、撤退しなければならなくなった。ロシア軍は、機に乗じて反攻にで、ナポレオンの軍隊は逃げられたものわずかに二万余であった。
〔25〕 国民党の軍隊拡充のやり方は、軍隊や警官を四方にくりだして人民をとらえてきて兵隊にするもので、とらえた兵隊は囚人同様、なわでしばられていた。多少金のある人は、国民党の官吏に賄賂をつかい、金で人を買って身代わりにした。
① 一九三七年七月七日の蘆溝橋事変ののち、日本帝国主義は、全中国を滅ぼす方針をつらぬくため、侵略戦争をさらに拡大して、同年八月十三日、上海方面でも大規模な軍事的進攻をおこした。これが、ここでいう上海戦争である。
② 本選集第一巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』注〔33〕にみられる。
③ 本選集第一巻の『湖南省農民運動の視察報告』注〔3〕にみられる。
④ 『孟子―告子章句下』にみられる。その原文は「先生の志は大なり。先生の説は不可なり」となっている。
⑤ 『抗日救国十大綱領』とは、抗日戦争勃発後の一九三七年八月二十五日、洛川でひらかれた中国共産党中央政治局拡大会議で採択された綱領である。これは、全面的抗戦の路線を貫徹して、日本帝国主義に徹底的に勝利するための救国綱領である。この綱領の全文は、本巻の『すべての力を動員して抗戦の勝利をかちとるためにたたかおう』にみられる。
⑥ 本巻の『陝西・甘粛・寧夏辺区政府、第八路軍後方留守本部布告』訳注①にみられる。
⑦ 本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』注〔24〕にみられる。
⑧ 本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』注〔25〕にみられる。
⑨ 本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』注〔26〕にみられる。
⑩ 本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』注〔27〕にみられる。
⑪ 本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』注〔28〕にみられる。
⑫ 本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』注〔29〕にみられる。
⑬ 本巻の『すべての力を動員して抗戦の勝利をかちとるためにたたかおう』注〔13〕にみられる。
(一九三八年十月)
これは、毛沢東同志が党の第六期中央委員会第六回総会でおこなった報告である。この会議は、毛沢東同志をはじめとする党中央政治局の路線を承認した非常に重要な会議であった。毛沢東同志が報告のなかで、『民族戦争における中国共産党の地位』という問題を提起したのは、全党の同志に、抗日戦争を指導するわが党の重大な歴史的責務をはっきり理解させるとともに、しんけんにそれをになわせるためであった。総会は抗日統一戦線堅持の方針を確定すると同時に、統一戦線には団結もあるが、また闘争もあること、「すべては統一戦線を通じて」という問題の提起は中国の実情にあわないことを指摘し、こうして、統一戦線問題における迎合主義のあやまりを批判した。毛沢東同志が結論のなかでのべた『統一戦線における独立自主の問題』は、このことについての問題である。総会は、同時にまた、全党をあげて人民の抗日武装闘争を組織することがきわめて重要であることを確定し、党の主要な活動分野を戦区と敵の後方におくことを決定し、そして日本侵略者にうち勝つ希望を国民党の軍隊によせたり、人民の運命を国民党反動派の支配下の合法的運動に託したりするようなあやまった思想を批判した。毛沢東同志が結論のなかでのべた『戦争と戦略の問題』は、このことについての問題である。
同志諸君。われわれには輝かしい前途がある。われわれは、日本帝国主義に勝利しなければならず、新中国を建設しなければならないが、これらの目的はまたかならず達成できるものである。しかし、いまからその輝かしい前途にたっするまでには、苦難な道がよこたわっている。輝かしい中国のためにたたかう中国共産党と全国人民は、日本侵略者にたいし段どりを追ってたたかっていかなければならず、かれらをうちまかすには長期の戦争をする以外にない。この戦争の各方面の問題については、すでにたくさんのべてきた。われわれは、抗戦いらいの経験も総括したし、当面の情勢も評価したし、全民族の緊急任務も提起したし、長期の抗日民族統一戦線によって長期の戦争をささえる理由や方法も説明したし、国際情勢についても分析した。では、ほかにまだ、どんな問題があるだろうか。同志諸君、もう一つ問題がある。それは、中国共産党が民族戦争においてどのような地位にあるのかという問題であり、こんどの戦争を失敗させずに勝利するよう指導するには、共産党員がどのように自己を認識し、強め、団結させていかなければならないか、という問題である。
国際主義者である共産党員が、同時にまた愛国主義者でもありうるか。われわれは、ありうるばかりでなく、またそうでなければならないとおもう。愛国主義の具体的内容は、それがどのような歴史的条件のもとにあるかによってきまる。日本侵略者やヒトラーの「愛国主義」もあれば、われわれの愛国主義もある。日本侵略者やヒトラーのいわゆる「愛国主義」にたいして、共産党員は断固として反対しなければならない。日本の共産党員やドイツの共産党員は、その国家が遂行する戦争においては敗北主義者である。あらゆる方法で日本侵略者やヒトラーの戦争を敗北に終わらせることが、日本人民やドイツ人民の利益であるし、敗北は徹底的であればあるほどよい。日本の共産党員やドイツの共産党員は、そうすべきであるし、かれらは現にそうしている。これは日本侵略者やヒトラーの戦争が、世界の人民に損害をあたえているばかりでなく、自国の人民にも損害をあたえているからである。中国の状況はこれとはちがい、中国は侵略されている国である。したがって、中国共産党員は愛国主義を国際主義と結びつけなければならない。われわれは国際主義者であり、また愛国主義者でもある。祖国防衛のため侵略者と戦おう、というのがわれわれのスローガンである。われわれにとって、敗北主義は罪悪であり、抗日の勝利をたたかいとることはさけることのできない責務である。なぜなら、祖国防衛のために戦わないかぎり、侵略者をうちやぶり、民族を解放することはできず、民族が解放されないかぎり、プロレタリア階級および勤労人民の解放は可能にならないからである。中国が勝利し、中国を侵略する帝国主義者がうちたおされることは、同時に外国の人民をたすけることでもある。したがって、愛国主義とは、民族解放戦争における国際主義の実践である。こうした理由から、共産党員はだれでも、最大の積極性を発揮し、勇敢に、決然と、民族解放戦争の戦場におもむき、銃口を日本侵略者にむけなければならない。こうした理由から、わが党は、すでに九・一八事変のときから、民族自衛戦争によって日本侵略者に抵抗せよ、というよびかけをだし、のちにまた抗日民族統一戦線の主張をかかげ、赤軍にたいしては抗日の国民革命軍に改編して前線におもむいて戦うよう命令し、自己の党員にたいしては抗日戦争の最前線にたって祖国防衛のために最後の血の一滴まで流して戦うよう命令した。これらの愛国主義の行動はいずれも正しいものであり、これこそ国際主義の中国での実現であり、少しも国際主義にそむくものではない。われわれのしていることがまちがっているとか、われわれが国際主義を放棄したとか、でたらめをいうのは、政治的なぼんくらか、あるいは下心をもつものだけである。
上にのべた理由から、共産党員は民族戦争において高度の積極性をしめさなければならないし、その積極性をいろいろな面に具体的にしめさなければならない。つまりいろいろな面で前衛的な模範的な役割をはたさなければならない。われわれの戦争は、困難な環境のなかですすめられている。広範な人民大衆に民族的自覚、民族的自尊心と自信がたりないこと、大多数の民衆が組織されていないこと、軍事刀が強くないこと、経済がおくれていること、政治が民主的でないこと、腐敗現象や悲観的な気分があること、統一戦線の内部が団結していず、強固でないことなどが、こうした困難な環境を形成している。したがって、共産党員は全国人民を結集して、さまざまなよくない現象を克服する重大な責務を意識的にになわないわけにはいかない。このばあい、共産党員の前衛的役割と模範的役割が非常に重要である。共産党員は、八路軍と新四軍のなかでは、勇敢に戦う模範、命令執行の模範、規律遵守の模範、政治工作の模範、内部の団結と統一の模範となるべきである。共産党員は、友党、友軍との関係においては、団結して抗日する立場を堅持し、統一戦線の綱領を堅持し、抗戦任務を遂行する模範となるべきであり、いった以上かならずまもり、おこなう以上かならず断固としてやり、おごりたかぶらず、まごころをもって友党、友軍と相談し、協同して仕事をし、統一戦線内での各党の相互関係の模範となるべきである。共産党員は、政府の仕事のなかでは、きわめて廉潔で、縁故者を任用せず、仕事はたくさんし、報酬はすくなくもらうことで模範となるべきである。共産党員は、民衆運動では、民衆の上役ではなくて、民衆の友となるべきであり、官僚主義的な政客ではなくて、うむことなくおしえる教師となるべきである。共産党員は、いつでも、どこででも、個人の利益を第一位においてはならず、個人の利益を民族と人民大衆の利益にしたがわせるべきである。したがって、私利私欲、怠惰怠慢、汚職腐敗、売名主義などは、もっともいやしむべきことである。大公無私、積極的努力、滅私奉公、刻苦精励の精神こそ、尊敬すべきものである。共産党員は、党外のすべての先進的な人びとと一致協力して、全国人民を結集しさまざまなよくない現象を克服するために努力すべきである。共産党員は全民族のうちの小部分にすぎず、党外にはたくさんの先進的な人びとや活動家がおり、かれらと協同して仕事をしなければならないことを知るべきである。自分だけがよくて、他はみなだめだという考え方はまったくまちがっている。共産党員は、おくれた人びとにたいしては、かれらを軽く見たり、見くだしたりするのではなくて、かれらに近づき、かれらと団結し、かれらを説得し、かれらの前進を励ます態度をとるものである。共産党員は、活動のなかであやまりをおかした人びとにたいしては、救いようのないもののほかは、排斥する態度をとるのではなくて、かれらが翻然とあやまりをあらため、ふるいものをすてて新しくでなおすように忠告する態度をとるものである。共産党員は、事実にもとづいて真理を求める模範となるべきであり、また遠い見通しと、高い識見をもつことでも模範となるべきである。なぜなら、さだめられた任務を完成するには、事実にもとづいて真理を求める以外になく、前進の方向をみうしなわないためには、遠い見通しと、高い識見をもつ以外にないからである。したがって、共産党員はまた学習の模範となるべきであり、かれらにとっては、毎日が民衆の教師であるが、またその毎日が民衆の生徒でもある。民衆から学び、環境から学び、友党、友軍から学び、かれらを理解しないかぎり、事実にもとづいて真理を求める態度で活動し、前途にたいして遠い見通しと高い識見をもつことはできない。長期の戦争と困難な環境のなかでは、共産党員は友党、友軍および人民大衆のなかでのすべての先進的な人びとと協同し、その前衛的な模範的な役割を高度に発揮しないかぎり、全民族のいきいきとしたすべての力を動員して、困難を克服し、敵に勝利し、新中国を建設するために奮闘することはできない。
困難を克服し、敵に勝利し、新中国を建設するには、抗日民族統一戦線を拡大強化し、全民族内のいきいきとしたすべての力を動員する以外になく、これが唯一無二の方針である。しかし、われわれの民族統一戦線のなかには、破壊的なはたらきをしている敵のまわし者、つまり民族裏切り者、トロツキスト、親日派がいる。共産党員はつねにそれらの敵のまわし者に用心し、確実な証拠によってかれらの罪悪をあばき、かれらのわなにかからないよう人民に注意をうながすべきである。共産党員は、民族のなかの敵のまわし者にたいする政治的警戒心をたかめなければならない。共産党員は、敵のまわし者を摘発し、一掃することが民族統一戦線の拡大強化と切りはなせないものであることを知らなければならない。一方にだけ気をくばって他の一方をわすれるのは、まったくあやまりである。
困難を克服し、敵に勝利し、新中国を建設するために、共産党は、革命に忠実な、党の主義を信じ、党の政策を支持し、しかもすすんで規律に服し、仕事に努力する広範な労働者、農民と青年活動家に門戸をひらいて、自己の組織を拡大し、党を大衆性のある偉大な党にしなければならない。このばあい、閉鎖主義的偏向はゆるされない。しかし同時に、敵のまわし者の潜入にたいする警戒心もけっして欠いてはならない。日本帝国主義の特務機関は、たえずわが党を破壊しようとたくらみ、かくれた民族裏切り者、トロツキスト、親日派、腐敗分子、投機分子を利用して、かれらに積極的な姿をよそおわせ、わが党内に潜入させようと、たえずたくらんでいる。これらの分子を警戒し、厳重に防止することを片時もゆるがせにしてはならない。敵のまわし者をおそれるあまり党の門をとざすべきではなく、大胆に党を拡大することはわれわれがすでにきめている方針である。だが、同時に、大胆に拡大するからといって、敵のまわし者や投機分子が機に乗じてもぐりこむことにたいする警戒をゆるめてはならない。一方にだけ気をくばって他の一方をわすれるとあやまりをおかす。「大胆に拡大するが、悪質分子は一人ももぐりこませない」、これこそ正しい方針である。
民族統一戦線を堅持してはじめて、困難を克服し、敵に勝利し、新中国を建設できることはまったく疑う余地のないところである。しかし同時に、統一戦線に参加する政党は、それが国民党であろうと、共産党であろうと、その他の政党であろうと、いずれの政党も、思想上、政治上、組織上での独立性をたもたなければならない。三民主義のなかの民権主義とは、政党の問題でいえば、各政党のあいだの連合をゆるすことであり、また各政党の独立的存在をゆるすことである。もし統一性をうんぬんするだけで独立性を否定するならば、それは民権主義にそむくものであり、われわれ共産党が同意できないだけでなく、どの政党も同意できないものである。もちろん、統一戦線における独立性は絶対的なものではなく、相対的なものでしかない。もし、それが絶対的なものだと考えるなら、それは団結して敵にあたるという全般的方針を破壊することになる。しかし、けっしてこのような相対的独立性を抹殺してはならず、思想的にも、政治的にも、組織的にも、各政党は相対的な独立性、つまり相対的な自由の権利をもっていなければならない。もし、この相対的な自由の権利を他から抹殺されるか、あるいはみずからこれを放棄するなら、それもまた団結して敵にあたるという全般的方針を破壊することになる。これは、共産党員の一人ひとりが、同時にまた友党の党員の一人ひとりが、知っていなければならないことである。
階級闘争と民族闘争との関係もやはりそうである。抗日戦争では、すべてが抗日の利益にしたがうべきであり、これは確固とした原則である。したがって、階級闘争の利益は、抗日戦争の利益にしたがうべきであって、抗日戦争の利益にそむいてはならない。だが、階級と階級闘争の存在は事実である。一部の人びとは、この事実を否定し、階級闘争の存在を否定するが、これはあやまりである。階級闘争の存在を否定しようとする理論は完全にあやまった理論である。われわれは、それを否定するのではなくて、それを調整するのである。われわれの提唱する互助互譲の政策は、政党の関係に適用されるばかりでなく、階級関係にも適用される。団結して抗日するためには、各階級の相互関係を調整する適切な政策を実行すべきであり、勤労大衆に政治上、生活上の保障が全然ないようであってはならないし、同時にまた、金持ちの利益をも考慮してやるべきで、こうすることによって、団結して敵にあたるという要求に合致させるのである。一方にだけ気をくばって他の一方に気をくばらなければ、抗日に不利になるであろう。
共産党員は、大衆を指導して敵とたたかうさいには、全局に気をくばり、多数に気をくばり、また同盟者といっしょに仕事をするという観点をもたなければならない。共産党員は、局部の必要を全局の必要にしたがわせるという道理をわきまえていなければならない。もしある意見が、局部的な状況からみて実行すべきものであっても、全局の状況からみて実行すべきでないものであれば、局部を全局にしたがわせなければならない。その反対のばあいもおなじで、局部の状況からみて実行すべきでないものであっても、全局の状況からみて実行すべきものであれば、やはり、局部を全局にしたがわせなければならない。これが全局に気をくばるという観点である。共産党員は、けっして、大衆の多数から浮きあがり、多数の人びとの状況をかえりみずに、少数の先進部隊をひきいて、単独で暴進すべきではなく、先進的な人びとと広範な大衆とのあいだの緊密な結びつきをつくりあげるよう心がけなければならない。これが、多数に気をくばるという観点である。われわれとの協力をのぞんでいる民主的党派や民主的な人びとのいるところでは、どこでも、共産党員はかれらといっしょに相談し、いっしょに仕事をする態度をとらなければならない。同盟者をそっちのけにして、独断でことをはこぶような態度は正しくない。りっぱな共産党員は、よく、全局に気をくばり、多数に気をくばり、また同盟者といっしょに仕事ができるようでなければならない。われわれには、これまで、これらの点で大きな欠陥があったが、それをあらためるよう心がけなければならない。
中国共産党は、数億人にのぼる大民族のなかでの偉大な革命闘争を指導する党であり、数多くの才徳兼備の指導的幹部がなければ、その歴史的任務を達成することはできない。この十七年らい、わが党はすでに多くの指導的人材を養成してきており、軍事、政治、文化、党活動、民衆運動のあらゆる分野に骨幹となる人びとをわれわれはもっているが、これは党の誇りであり、また全民族の誇りでもある。だが、いまある骨幹だけでは、まだ闘争という大建築物をささえるには十分でなく、もっとひろく人材を養成しなければならない。中国人民の偉大な闘争のなかで、多くの活動家がすでに続出したし、またげんに続出しつつある。われわれの責務は、かれらを組織し、養成し、愛護することであり、またかれらを上手につかうことである。政治路線が確定されたのちには、幹部が決定的な要因になる〔1〕。したがって大量の新しい幹部を計画的に養成することがわれわれの戦闘的任務である。
党員幹部に関心をよせるだけでなく、非党員幹部にも関心をよせなければならない。党外には多くの人材がおり、共産党はかれらを度外視してはならない。他を見くだす悪習をすてさり、非党員幹部といっしょに仕事をすることに習熟し、かれらをこころから援助し、あたたかい同志的な態度でかれらに接し、かれらの積極性を抗日と建国の偉大な事業のなかに組みいれることが、共産党員一人ひとりの責務である。
幹部を識別することに習熟しなければならない。幹部のある時期、あることがらについてみるだけでなく、幹部の全経歴と全活動をみなければならない。これが幹部を識別する主要な方法である。
幹部をつかうことに習熟しなければならない。指導者の責務は、結局のところ、主として案をだすこと、幹部をつかうことの二つである。すべての計画、決議、命令、指示などはみな「案をだす」ことのうちにはいる。これらすべての案が実行されるためには、幹部を結集し、かれらにその実行をうながさなければならず、これは「幹部をつかう」ことのうちにはいる。幹部をつかうという問題では、わが民族の歴史には、従来、二つの対立した路線がみられた。その一つは「任用は賢のみによる」路線であり、もう一つは「任用は縁故のみによる」路線である。前者は正道な路線であり、後者は邪道な路線である。共産党の幹部政策は、党の路線を断固として実行し、党の規律にしたがい、大衆と緊密なつながりをもち、ひとりだちで活動できる能力をもち、積極的に仕事をし、私利私欲をはからないことを基準とすべきである。これが「任用は賢のみによる」路線である。過去における張国燾①の幹部政策は、これとは反対で、「任用は縁故のみによる」ことを実行し、とりまき連中をだきこみ、分派をつくり、あげくのはては、党を裏切って去ってしまったが、これは大きな教訓である。張国燾およびかれに似たものの残した歴史上の教訓にかんがみ、幹部政策の問題では党の統一と団結を強化するために正道で公正な作風を堅持し、邪道で不公正な作風に反対することは、中央および各級の指導者の重要な責務である。
幹部を愛護することに習熟しなければならない。愛護する方法は、第一に、かれらを指導することである。それは、かれらが大胆に責任を負えるようおもいきって活動させることであり、同時にまた、かれらが党の政治路線のもとで創意性を発揮できるように、適時に指示をあたえることである。第二に、かれらをたかめることである。それは、かれらが理論のうえで、活動能力のうえで、いっそうたかまるようにかれらに学習の機会をあたえ、かれらを教育することである。第三に、かれらの活動を点検し、かれらが経験をしめくくり、成果をのばし、あやまりをただすよう援助することである。仕事をまかせておいて点検せず、重大なあやまりをおかしたときにはじめてそれに目をむけることは、幹部を愛護するやり方ではない。第四に、あやまりをおかした幹部にたいしては、一般的には説得の方法をとって、かれらがあやまりをただすのをたすけることである。重大なあやまりをおかしながら、なお指導をうけいれない人びとにたいしてだけ、闘争という方法をとるべきである。このばあい、辛抱づよいことが必要であって、軽々しく、「日和見主義」という大きなレッテルをはったり、「闘争を展開する」方法をとることはまちがいである。第五に、かれらの困難に気をくばってやることである。病気、生活、家庭などの面で困難をかかえている幹部にたいしては、可能な範囲内でこころから世話をしてやらなければならない。以上が幹部を愛護する方法である。
張国燾の重大な規律破壊の行為にかんがみ、党の規律をもう一度のべておかなければならない。すなわち、(一)個人は組織にしたがい、(二)少数は多数にしたがい、(三)下級は上級にしたがい、(四)全党は中央にしたがう、という規律である。これらの規律をやぶるものは党の統一を破壊するものである。経験が証明しているように、規律を破壊するものには、党の規律とはなにかわからない人もいるが、また、張国燾のように、その悪だくみをとげるために、多くの党員の無知を利用し、承知のうえでわざと規律をやぶるものもいる。したがって、一般党員に規律をまもらせるだけでなく、党の指導的人物もいっしょに規律をまもるよう一般党員に監督させて、二度と張国燾事件がおこらないように、党員に党の規律についての教育をしなければならない。党内の関係を正しい軌道にのせるためには、うえにのべた四つのもっとも重要な規律のほかに、さらに、各級指導機関の行動を統一するためのもっと詳細な党内規定をつくらなければならない。
偉大な闘争に直面している中国共産党は、勝利をかちとれるように、党の全指導機関、全党の党員および幹部が積極性を高度に発揮することを要求する。積極性の発揮というのは、指導機関、幹部および党員の創造力、責任感、仕事の活発さに、問題の提起「意見の発表、欠点にたいする批判の大胆なことと上手なことに、また指導機関と指導的幹部にたいする愛護の観点からでた監督の役割のうえに、具体的にあらわれなければならない。これらがなければ、積極性というものは中味がなくなる。そして、これらの積極性の発揮は党内生活の民主化にかかっている。党内に民主生活が欠けていれば、積極性の発揮という目的はたっせられない。また民主生活のなかでしか大量の有能な人材をつくりだすことはできない。わが国は小生産的な家父長制が優位をしめている国であり、また全国的範囲では、いまもなお民主的生活がないので、このような状況がわが党内に反映して、民主生活の不足という現象をうんでいる。この現象は全党の積極性の十分な発揮をさまたげている。同時に、それは統一戦線、民衆運動での民主生活の不足という影響をもたらしている。これがために、党員に、民主生活とはどんなものか、民主制と集中制の関係とはどんなものか、また民主集中制をどのように実行するかを理解させるよう、党内で民主生活についての教育をほどこさなければならない。こうすれば、党内の民主生活を確実にひろげることができる一方、極端な民主化にはしらず、規律を破壊する自由放任主義にはしらずにすむ。
わが軍隊内の党組織もまた、党員の積極性をたかめ、軍隊の戦闘力をたかめるよう、必要な民主生活をひろげなければならない。しかし、軍隊の党組織の民主主義は地方の党組織の民主主義よりもすくなくすべきである。軍隊でも、地方でも、党内民主主義は、規律と戦闘力をよわめるためのものではなくて、規律をつよめ戦闘力をたかめるためのものでなくてはならない。
党内民主主義の拡大は、党の強化と党の発展にとって必要な段どりであり、偉大な闘争のなかで党が活気にあふれ、りっぱに任務をはたし、新しい力をのばし、戦争の難関をのりさる一つの重要な武器とみなければならない。
この十七年らい、わが党は、一般的に、マルクス・レーニン主義の思想闘争の武器をつかって、一面では、右翼日和見主義とたたかい、もう一面では「左」翼日和見主義とたたかうという、二つの面から党内のあやまった思想とたたかうことを学びとった。
党の第六期中央委員会第五回総会以前には〔2〕、わが党は陳独秀の右翼日和見主義②と李立三同志の「左」翼日和見主義③とたたかった。この二回の党内闘争の勝利によって、党は偉大な進歩をとげた。第五回総会以後にも、また歴史的な意義をもつ二回の党内闘争がおこなわれたが、遵義会議④での闘争と張国燾を党から除名する闘争がそれである。
遵義会議は、五回目の反「包囲討伐」闘争のなかでおかした「左」翼日和見主義の性質をもつ重大な原則的あやまりを是正し、党ならびに赤軍を団結させ、これによって党中央と赤軍主力が長征を成功裏になしとげ、抗日の前進基地に移動し、抗日民族統一戦線の新しい政策を実行できるようになった。巴西会議〔3〕と延安会議〔4〕(張国燾路線との闘争は巴西会議にはじまり延安会議で完了した)が張国燾の右翼日和見主義とたたかったことによって、赤軍全部が合流し、全党がいっそう団結をつよめて、英雄的な抗日闘争をすすめることができるようになった。この二つの種類の日和見主義のあやまりは、いずれも国内革命戦争中にうまれたものであり、その特徴は戦争に関連するあやまりである。
この二回の党内闘争からえた教訓はどんな点にあるのか。それはつぎの点にある。(一)中国革命戦争の特徴を理解しないことからうまれ、五回目の反「包囲討伐」闘争のなかにあらわれた重大な原則的あやまりは、主観的、客観的条件をかえりみない、「左」翼的せっかち病の偏向をふくんでおり、この偏向は、革命戦争に極度の不利をもたらし、同時にまた、どのような革命運動にも不利をもたらすものである。(二)張国燾の日和見主義は革命戦争における右翼日和見主義であり、その内容はかれの退却路線、軍閥主義と反党行為の総合である。それを克服したことによってはじめて、本質はりっぱで、しかも長期の英雄的闘争をおこなってきた赤軍第四方面軍の広範な幹部と党員を、張国燾の日和見主義の支配下から解放し、党中央の正しい路線のもとにたちかえらせたのである。(三)十年の土地革命戦争⑤の時期の偉大な組織活動は、軍事建設の面でも、政府活動の面でも、民衆活動の面でも、党建設の面でも、大きな成果をあげたが、前線の英雄的戦闘と呼応するこうした組織活動がなかったならば、蒋介石にたいする当時の苛烈な闘争をささえることはできなかったであろう。しかし、その後期には、党の幹部政策と組織政策の面で原則的な重大なあやまりがおかされ、それはセクト的偏向、懲罰主義および思想闘争におけるゆきすぎの政策となってあらわれた。これは、過去の李立三路線の残りかすがまだ一掃されていなかった結果であり、また当時の政治上の原則的あやまりの結果でもあった。これらのあやまりも遵義会議によって是正され、党を正しい幹部政策と正しい組織原則のほうにたちかえらせた。張国燾の組織路線にいたっては、共産党のあらゆる原則からまったくはなれ、党の規律をやぶり、分派活動から反党、反中央、反コミンテルンの行為にまで発展したのである。張国燾の犯罪的な路線上のあやまりと反党行為にたいして、党中央は、それを克服するのに、できるかぎりの努力をはらい、また張国燾自身をも救おうとした。だが、張国燾がそのあやまりをあくまでもあらためようとせず、二面的行動をとったばかりでなく、のちに党を裏切って国民党に身を投じたとき、党としては断固かれを除名せざるをえなかった。この処分は、全党の支持をえたばかりでなく、民族の解放事業に忠実なすべての人びとの支持をえた。コミンテルンも、この処分を承認したうえ、張国燾は逃亡兵であり裏切り者であると指摘した。
以上のような教訓と成功は、われわれに、今後全党を団結させ、思想的、政治的、組織的一致をつよめ、抗日戦争を成功裏にすすめるのに必要な前提をあたえた。わが党はすでに二つの戦線での闘争をつうじて強固になり、強大になった。
今後の抗日の情勢においては、政治上で右翼的悲観主義とたたかうことがいちばん重要なことになるであろうが、同時に、「左」翼的せっかち病とたたかうことにもやはり注意をはらわなければならない。統一戦線の問題、党の組織の問題、および民衆の組織の問題では、抗日諸党派との協力を実現し、共産党および民衆運動を発展させるために、ひきつづき「左」翼的閉鎖主義の偏向とたたかわなければならないが、同時に、無条件的な協力、無条件的な発展という右翼日和見主義の偏向とたたかうことにも注意をはらわなければならない。そうでなければ、協力をさまたげ、発展をさまたげることになり、投降主義的な協力と無原則的な発展になってしまう。
二つの戦線での思想闘争は、一具体的な対象の状態と合致していなければならず、けっして問題を主観的にみてはならず、過去のような「むやみにレッテルをはる」というわるい習慣を存続させてはならない。
偏向にたいする闘争では、二面的行動とたたかうことに、ふかく注意をはらわなければならない。なぜなら、二面的行動の最大の危険性は、それが分派行動に発展していく可能性があるからである。張国燾の経歴こそその証拠である。うわべでは服従しながら、かげでは違反すること、口と腹がちがうこと、目のまえではうまいことをいいながら、かげでは悪だくみをすること、これが二面的行動のあらわれである。党の規律を強化するには、二面的行動にたいする幹部と党員の注意力をたかめなければならない。
一股的にいって、ある程度の研究能力をもつすべての共産党員は、マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンの理論を研究し、わが民族の歴史を研究し、当面の運動の状況となりゆきを研究しなければならず、また、かれらをつうじて文化水準の比較的ひくい党員を教育する。特殊的にいうと、幹部はこれらの研究に力をいれなければならず、とりわけ中央委員と高級幹部は研究を強めなければならない。偉大な革命運動を指導する政党が、革命の理論もなく、歴史の知識もなく、実際の運動にたいする深い理解もないとすれば、勝利をかちとろうとしてもできるものではない。
マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンの理論は「世界のどこにも適用する」理論である。その理論を教条としてあつかうべきではなく、行動の指針とすべきである。マルクス・レーニン主義は語句だけを学ぶのではなくて、それを革命の科学として学ぶべきである。マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンが広範な現実の生活と革命の経験の研究によってえた一般法則についての結論を理解するだけでなく、さらに、かれらが問題を観察し、問題を解決した立場と方法を学ぶべきである。こんにち、わが党のマルクス・レーニン主義についての素養は、過去にくらべていくらか進歩しているが、しかし、まだまだいきわたっていないし、深まってもいない。われわれの任務は、数億の人口をもつ大民族を指導して、かつてない偉大な闘争をおこなうことである。したがって、マルクス・レーニン主義の理論の研究をいきわたらせ深める任務は、われわれにとって、早急に解決しなければならないものであるとともに、その解決にはとくに力をいれなければならない大きな問題である。わたしは、今回の中央委員会総会ののち、だれがほんとうになにかを学びとったか、だれがより多く学んだか、だれがよりよく学んだかをみる全党的な学習競争をおこすことを希望する。主要な指導の責務をになうという観点からいえば、もしわが党に、マルクス・レーニン主義を断片的でなく系統的に、空虚でなく真実に身につけた同志が百人ないし二百人いるならば、わが党の戦闘力は大いにたかめられ、日本帝国主義にうち勝つわれわれの活動はいっそうはやめられる。
われわれの歴史的遺産を学び、マルクス主義の方法でこれを批判的に総括することは、われわれの学習のもう一つの任務である。わが民族には数千年の歴史があり、その特徴があり、多くの貴重なものがある。これらのことについては、われわれはまだ小学生である。こんにちの中国はこれまでの中国の発展であり、われわれはマルクス主義的歴史主義者であって、われわれは歴史を切断してはならない。孔子から孫中山にいたるまでを総括して、この貴重な遺産をうけつぐべきである。これは当面の偉大な運動を指導するのに、重要なたすけとなるものである。共産党員は国際主義的マルクス主義者であるが、しかし、マルクス主義を実現するには、わが国の具体的特徴と結びつけ、しかも、一定の民族的形式をつうじなければならない。マルクス・レーニン主義の偉大な力は、それがそれぞれの国の具体的な革命の実践とつながっていることにある。中国共産党としては、マルクス・レーニン主義の理論を中国の具体的環境に応用することを学びとらなければならないのである。偉大な中華民族の一部分であり、この民族と血肉のつながりをもつ共産党員でありながら、中国の特徴をはなれてマルクス主義を論じるとすれば、それは抽象的な空虚なマルクス主義にすぎない。したがって、マルクス主義を中国で具体化し、その一つ一つの表現のなかにそれがもつべき中国の特質をもたせること、すなわち中国の特徴にもとづいてマルクス主義を応用すること、これは全党が早急に理解し、また解決しなければならない問題である。洋八股〔5〕は廃止すべきであり、空虚で抽象的な調子で歌うことはすくなくすべきであり、教条主義は休みにすべきであって、新鮮でいきいきとした、中国の民衆によるこぼれる中国的作風や中国的気風をもって、それに変えなければならない。国際主義的内容を民族的形式から切りはなすのは、国際主義を少しも理解していないもののやり方であって、われわれはこの両者をしっかりと結びつけなくてはならない。この問題について、わが隊列内に存在している一部の重大なあやまりは、しんけんに克服しなければならない。
当面の運動の特徴はなにか。それはどんな法則性をもっているのか。この運動をどう指導するのか。これらはみな実際的な問題である。こんにちになっても、われわれは、まだ日本帝国主義のことが全部わかっているわけではなく、中国のこともまだ全部わかってはいない。運動は発展しており、さらに新しいものが前にあらわれてくるし、新しいものはつぎつぎに限りなくでてくる。この連動の総体およびその発展を研究することは、われわれがつねに心がけていなければならない大きな課題である。これらの問題を、しんけんに、綿密に研究することをこばむものがあれば、それはマルクス主義者ではない。
学習の敵は自己満足である。なにかをしんけんに学ぼうとするには、自己満足しないことからはじめなければならない。自分にたいしては「学びて厭わず」、他人にたいしては「人を誨えて倦まず」、これがわれわれのとるべき態度である。
中国共産党内部の団結は、全国人民を団結させて抗日の勝利をたたかいとり、新中国を建設するもっとも基本的な条件である。十七ヵ年にわたってきたえられてきた中国共産党は、どのように自己の団結をかためるかについてすでに多くの方法を学びとり、ずっと老練になっている。こうして、われわれは、全国人民のなかに、強固な中核をつくりあげ、抗日の勝利をたたかいとり、新中国を建設することができる。同志諸君、われわれが団結できさえすれば、この目的はかならず達成できるのである。
〔1〕 一九三四年一月、スターリンはソ連共産党(ボリシェビキ)第十七回大会における報告のなかでつぎのようにのべている。「正しい政治路線があたえられたのちには、政治路線そのものの運命――その遂行、あるいは失敗――をふくめて、すべてが組織活動によって決定されるのである。」スターリンは、そこでは「人材の正しい選択」の問題にふれている。一九三五年五月「クレムリン宮における赤軍大学卒業式においておこなった演説で、スターリンは「幹部がすべてを決定する」というスローガンをかかけ、そしてこれに説明をくわえた。また、一九三九年三月のソ連共産党(ボリシェビキ)第十八回大会におけるスターリンの報告をも参照されたい。スターリンはこの報告のなかでつぎのようにのべている。「実践によってためされた正しい政治路線が作成されたのちは、党の幹部が、党ならびに国家の指導の、決定的な力となる。」
〔2〕 一九二七年八月の党の第五期中央委員会政治局緊急会議から、一九三四年一月の党の第六期中央委員会第五回総会までの時期をさす。
〔3〕 巴西会議とは、一九三五年八月、巴西でひらかれた中国共産党中央政治局会議のことである。巴西は、四川省西北部と甘粛省東南部との境にある一地方で、四川省松潘県の県都の西北部にくらいする。当時、張国燾は、赤軍の一部をひきいて党中央から分裂し、党中央の命令にしたがわず、しかも党中央に危害をあたえようとたくらんだ。党中央はこの会議で危険区域をはなれることを決定するとともに、命令にしたがう赤軍をひきいて陝西省北部にむかって前進した。張国燾は、かれにだまされた赤軍をひきいて、天全県、蘆山県、大金川、小金川および阿[”つちへん”+”雨”の下に”革+月”]地区に南下し、党にたいして反旗をひるがえし、別個に「中央」をもうけた。
〔4〕 延安会議とは、一九三七年四月、延安でひらかれた中国共産党中央政治局拡大会議のことである。このときまでには、張国燾にひきいられる赤軍のうちの広範な幹部と戦士は、すでに張国燾の欺瞞を知り、北方の陝西・甘粛辺区にむかって進軍していたが、そのうちの一部隊は、また中途で、あやまった指導のために、西方の甘州、涼州、粛州地区にむかって進軍し、その大半が敵に消滅されてしまった。残りの一小部隊は新疆にたっし、その後、やはり陝西・甘粛辺区にかえってきた。他の一部隊はずっとはやく陝西・甘粛辺区に到着し、中央赤軍に合流していた。張国燾自身も陝西省北部に到着し、この延安会議に参加した。この会議は、張国燾の日和見主義と党への裏切り行為について系統的な総括をおこなった。張国燾は表面的にはしたがうと表明したが、実際には党にたいする最後の裏切りを準備していた。
〔5〕 本選集第三巻の『党八股に反対しよう』のなかの洋八股についての説明を参照。
① 本選集第一巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』注〔22〕を参照。
② 本題集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』注〔4〕を参照。
③ 本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』注〔5〕を参照。
④ 本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』訳注⑤を参照。
⑤ 本選集第一巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』訳注⑤を参照。
(一九三八年十一月五日)
これは、毛沢東同志が、党の第六期中央委員会第六回総会でのべた結論の一部である。統一戦線における独立自主の問題は、当時毛沢東同志と陳紹禹とのあいだにあった抗日統一戦線問題についての意見の相違のうちでもきわたった問題の一つである。これは本質的には、統一戦線におけるプロレタリア階級の指導権の問題である。このような意見の相違について、毛沢東同志は一九四七年十二月の報告(『当面の情勢とわれわれの任務』)のなかで、つぎのような簡単な総括をおこなった。「抗日戦争の時期には、わが党は、こうした投降主義思想(これは第一次国内革命戦争の時期における陳独秀の投降主義思想をさす――編者)に似かよった思想、すなわち国民党の反人民政策に譲歩し、人民大衆を信頼する以上に国民党を信頼し、おもいきって大衆闘争をおこす勇気がなく、日本占領地区で解放区を拡大し、人民の軍隊を拡大する勇気がなく、抗日戦争の指導権を国民党に進呈する、といった思想に反対した。わが党は、マルクス・レーニン主義の原則にそむいたこのような軟弱無能な腐敗した思想にたいして、断固たる闘争をおこない、『進歩勢力を発展させ、中間勢力を獲得し、頑迷勢力を孤立させる』という政治路線を断固として実行し、解放区と人民解放軍を断固として拡大した。これによって、わが党は日本帝国主義の侵略の時期に、日本帝国主義にうち勝てることが保障されたばかりでなく、日本の降伏後、蒋介石が反革命戦争をおこなった時期にも、人民革命戦争によって蒋介石の反革命戦争に反対する道に、順調に損害をうけることなく転ずることができ、短期間のうちに偉大な勝利をおさめることが保障されたのである。これらの歴史の教訓を、全党の同志はしっかりと心にとめておかなければならない。」
長期の協力のために、統一戦線内の各政党が相互援助、相互譲歩を実行することは必要であるが、それは消極的でなく、積極的でなければならない。われわれは、わが党、わが軍を強化し拡大しなければならないし、同時に友党、友軍の強化と拡大にも賛助しなければならない。人民は、自分たちの政治的経済的要求をみたすよう政府にもとめるのと同時に、抗日に有利なあらゆる可能な援助を政府にあたえるのである。労働者は工場主に待遇改善を要求するのと同時に、抗日に有利になるよう積極的に働くのである。団結して外敵にあたるために、地主は小作料、利子を引き下げなければならないし、同時に農民も小作料、利子を支払わなければならない。これらが相互援助の原則と方針であり、消極的な一面的な方針ではなくて積極的な方針である。相互譲歩もまたそのとおりである。おたがいに足場のくずしあいをせず、おたがいに相手の党、政府、軍隊内に秘密細胞をつくらないことである。われわれの側からすると、国民党を安心させて、抗日に有利にするため、国民党およびその政府と軍隊のなかに秘密細胞をつくらないことである。「やらないことがあって、はじめてやろうとすることができる」〔1〕とは、まさにこのようなことをいう。赤軍の編成がえ、赤色地域の制度がえ、暴動政策の廃止がなければ、全国的な抗日戦争は実現できない。前者を譲歩することによって後者を得たのであり、消極的な段どりで積極的な目的をたっしたのである。「よりよく躍進するために後退する」〔2〕ことが、まさにレーニン主義である。譲歩を純然たる消極的なものとみなすことは、マルクス・レーニン主義にゆるされるものではない。純然たる消極的譲歩もあったが、それは階級も革命も全部譲りわたしてしまった第二インターナショナルの労資協調論〔3〕である。中国では、さきの陳独秀、のちの張国燾が投降主義者であった。われわれは投降主義にたいしておおいに反対すべきである。われわれの譲歩、後退、防御あるいは休止は、同盟者にたいしてであろうと、敵にたいしてであろうと、すべて革命政策全体の一部分とみなし、全般的な革命路線と結びつけて、その不可欠の一環とみなし、曲線運動の一断片とみなすのである。一口にいって積極的なものである。
長期にわたる協力によって長期の戦争をささえること、すなわち階級闘争をこんにちの抗日の民族闘争に従わせること、これが統一戦線の根本原則である。この原則のもとで、政党と階級の独立性をたもち、統一戦線における独立自主をたもつこと、協力と統一のために政党と階級の必要な権利を犠牲にするのではなくて、反対に、政党と階級の一定限度の権利をかたくまもること、こうしてはじめて脇刀にとって有利となり、協力というものもなりたつのである。そうでなければ、協力は混合になってしまい、必然的に統一戦線を犠牲にしてしまう。民族闘争においては、階級闘争は民族闘争の形態をとってあるわれるのであり、こうした形態が両者の一致性をしめしている。一方では、階級の政治的経済的要求は、一定の歴史の時期において協力をこわさないことを条件とし、他方では、階級闘争のあらゆる要求はみな、民族闘争の必要(抗日のため)をその出発点としなければならない。このようにして、統一戦線における統一性と独立性、民族闘争と階級闘争は一致してくるのである。
国民党は政権をにぎっている党であるが、いまなお統一戦線の組織形態の存在をゆるしていない。敵の後方では、「すべては……を通じて」などできるものでなく、国民党がすでにゆるしたもの(たとえば「抗戦建国綱領」)にもとづいて、独立自主でやる以外にない。あるいは、国民党がゆるすだろうと予想したものは、さきに処置してあとで報告するのである。たとえば行政専員の設置、山東への部隊の派遣などといったことは、さきに「通じ」るとすればやれなくなる。フランス共産党はかつてこのスローガンをかかげたことがあったというが、それはおそらく、フランスには各党の合同委員会があるのに、社会党側が共同でさだめた綱領のとおりに実行しようとせず、依然としてかれらなりにやっているので、共産党としては社会党を制約するためにこのスローガンをかかげる必要があったからで、なにも自分をしばるためにこのスローガンをかかげたのではない。中国のばあいは、国民党が各政党の平等の権利を剥奪しており、各党を国民党一党の命令に従わせようとしている。われわれが、このスローガンをかかげることが、もし国民党にたいし、「すべて」はわれわれの同意を「通じ」なければなるないと要求するものであるとすれば、それはできない相談だし、こっけいなことである。またそれが、われわれのやろうとする「すべて」について、事前に国民党の同意をえようというのであるならば、国民党が同意しなかったばあいはどうするのか。国民党の方針はわれわれの発展を制限するものであり、われわれがこのスローガンをかかげることは、ただ自分で自分の手足をしばることになるだけで、けっしてそうすべきではない。いまのところ、さきに国民党の同意をえなければならないこと、つまりさきに報告してあとで処置することもあり、たとえば三つの師団を三つの軍に拡大編成することがそれである。既成事実をつくったうえで、それを国民党に知らせること、つまりさきに処置してあとで報告することもあり、たとえば二十余万の軍隊を拡充したことがそれである。国民党がいまは同意しないだろうと予想されるものは、しばらくのあいだ、処置しても報告しないでおくこともあり、たとえば辺区議会の招集などがそれである。しばらくのあいだ、処置も報告もしないでおくこともあり、たとえば実行したなら大局のさまたげになることがらがそれである。要するに、われわれはけっして統一戦線をやぶってはならないが、また自分で自分の手足をしばることもけっしてしてはならない。したがって「すべては統一戦線を通じて」のスローガンをかかげるべきではない。「すべては統一戦線に従う」ということばを、もし蒋介石や閻錫山に「すべて従う」と解釈するなら、それもあやまりである。われわれの方針は、統一戦線における独立自主であって、統一もしているし、独立もしているのである。
〔1〕 このことばは『孟子』にみられる。原文は「人為さざることありて、而る後に以て為すあるべし」となっている。
〔2〕 レーニンの『哲学ノート』――『へーゲルの著書「哲学史講義」の摘要』から引用。
〔3〕 労資協調論とは第二インターナショナルの反動理論で、資本主義国におけるプロレタリア階級とブルジョア階級との協調を主張し、革命的手段によるブルジョア階級の支配の転覆とプロレタリア独裁の樹立に反対するものであった。
(一九三八年十一月六日)
これは、毛沢東同志が党の第六期中央委員会第六回総会でのべた結論の一部である。毛沢東同志は『抗日遊撃戦争の戦略問題』と『持久戦について』の二つの著作のなかで、すでに、抗日戦争における党の指導の問題を解決した。右翼日和見主義のあやまりをおかした同志は、統一戦線における独立自主を否定したことから、戦争と戦略の問題についての党の方針にたいしても、やはり、懐疑的な、反対の態度をとった。党内のこの種の右翼日和見主義を克服して、中国革命の問題で戦争と戦略の問題が第一に重要な地位をしめていることを全党にいっそう明確に理解させ、また、しんけんにこの仕事にとりくむよう全党を動員するために、毛沢東同志は、第六期中央委員会第六回総会において、さらに中国の政治闘争の歴史の面からこの問題をとくに力をいれて説明すると同時に、われわれの軍事活動の発展と戦略方針の具体的な変化の過程を説明し、それによって、指導思想と活動のうえでの全党の統一をかちとった。
革命の中心任務と最高形態は、武力で政権を奪取することであり、戦争で問題を解決することである。このマルクス・レーニン主義の革命原則は普遍的に正しく、中国においても外国においてもすべて正しい。
だが、おなじ原則であっても、プロレタリア政党がさまざまな条件のもとでこの原則を実行する表現形態についていえば、それは条件の相違によってちがってくる。資本主義諸国では、ファシズムも戦争もない時期においては、そこでの条件は、国内的には封建制度がなくなり、ブルジョア階級の民主制度があるということ、外部的には民族的抑圧をうけておらず、自分の民族が他の民族を抑圧しているということである。これらの特徴にもとづいて、資本主義諸国のプロレタリア政党の任務は、長期の合法闘争をつうじて労働者を教育し、力をのばし、資本主義を最後的にくつがえす準備をすることである。そこでは、長期の合法闘争であり、議会の演壇の利用であり、経済的、政治的なストライキであり、労働組合の組織と労働者の教育である。そこでの組織形態は合法的なものであり、闘争形態は血を流さない(戦争でない)ものである。戦争の問題では、そこの共産党は自国の帝国主義戦争に反対することであり、このような戦争がおこったばあい、党の政策としては、自国の反動政府を敗北させることである。自分の必要とする戦争は、準備中の国内戦争だけである〔1〕。だが、このような蜂起や戦争は、ブルジョア階級がほんとうに無能力な状態になったときでなければ、またプロレタリア階級の大多数が武装蜂起と戦争遂行の決意をしたときでなければ、そしてまた農民大衆が自発的にプロレタリア階級を援助するようになったときでなければ、おこなうべきではない。蜂起や戦争をおこなうときがきたら、まず最初に都市を占領し、そのあとで農村に進攻するのであって、その反対ではない。これらすべては資本主義諸国の共産党がかつてやってきたことであって、ロシアの十月革命で実証されたことである。
中国はそれとはちがっている。中国の特徴は、独立した民主主義国ではなく、半植民地的・半封建的な国である。内部的には民主制度がなく、封建制度の抑圧をうけており、外部的には民族の独立がなく、帝国主義の抑圧をうけている。したがって、利用する議会もなければ、労働者を組織してストライキをおこなう合法的権利もない。ここでは、共産党の任務は、基本的には、長期の合法闘争をつうじて蜂起や戦争にすすむことでなく、また、まず都市を占領してから農村を奪取することでもなく、それとは反対の道をあゆむことである。
中国共産党についていえば、帝国主義が武力による進攻をおこなわないときには、一九二四年から一九二七年までの広東戦争〔2〕や北伐戦争のように、ブルジョア階級といっしょに軍閥(帝国主義の手先)に反対する国内戦争をおこなうか、あるいは一九二七年から一九三六年までの土地革命戦争のように、農民、都市小ブルジョア階級と連合して地主階級と買弁ブルジョア階級(おなじように帝国主義の手先である)に反対する国内戦争をおこなうかである。帝国主義が武力による進攻をおこなうときには、現在の抗日戦争のように、外国侵略者に反対する国内のあらゆる階級や階層と連合して対外的な民族戦争をおこなうのである。
これらすべては、中国と資本主義国とのちがいをしめしている。中国では、主要な闘争形態は戦争であって、主要な組織形態は軍隊である。他のすべて、たとえば民衆の組織や民衆の闘争なども非常に重要であり、どうしても欠くことのできない、無視することのできないものではあるが、いずれも戦争のためのものである。戦争が勃発するまえのすべての組織と闘争は、戦争準備のためのもので、たとえば五・四運動(一九一九年)①から五・三〇運動(一九二五年)②までの時期がそうであった。戦争が勃発したのちのすべての組織と闘争は、直接または間接に戦争に呼応するものである。たとえば、北伐戦争の時期には、革命軍の後方のすべての組織と闘争は、直接に戦争に呼応していたし、北洋軍閥の支配地域内のすべての組織と闘争は、間接に戦争に呼応していた。また、土地革命戦争の時期には、赤色地域内のすべての組織と闘争は、直接に戦争に呼応していたし、赤色地域外のすべての組織と闘争は、間接に戦争に呼応していた。さらに、現在の抗日戦争の時期には、抗日軍の後方および敵軍占領地のすべての組織と闘争も、同様に直接または間接に戦争に呼応しているのである。
「中国では、武装した革命が武装した反革命とたたかっている。これは、中国革命の特徴の一つであり、その長所の一つでもある。」〔3〕スターリン同志のこの断定はまったく正しい。それは北伐戦争についていっても、土地革命戦争についていっても、こんにちの抗日戦争についていっても、すべて正しい。これらの戦争はすべて革命戦争であり、戦争の反対する対象はすべて反革命であり、戦争に参加する主要な構成要素はすべて革命的な人民である。ちがうのは、国内戦争であるか、民族戦争であるか、また、共産党が単独でおこなう戦争であるか、国共両党が連合しておこなう戦争であるかという点だけである。もちろん、これらの区別は重要である。これらの点は、戦争の主体に広いか狭いかの区別がある(労働者、農民の連合か、あるいは労働者、農民、ブルジョア階級の連合)こと、戦争の対象に円か外かの区別がある(国内の敵とのたたかいか、あるいは国外の敵とのたたかい。またおなじ国内の敵であっても北洋軍閥と国民党とにわけられる)ことをしめしており、中国革命戦争の歴史の進展過程の各時期にはそれぞれ異なった内容のあることをしめしている。しかしながら、それらはいずれも武装した革命が武装した反革命とたたかっているのであり、いずれも革命戦争であり、いずれも中国革命の特徴と長所をしめしている。革命戦争は「中国革命の特徴の一つであり、その長所の一つでもある」という断定は、中国の状況と完全に合致している。中国のプロレタリア政党の主要な、そしてほとんどその最初から直面している任務は、できるだけ多くの同盟軍と連合して、武装闘争を組織し、状況に応じて、内部あるいは外部の武装した反革命とたたかい、民族的、社会的解放をかちとるために闘争することである。中国では、武装闘争をはなれてはプロレタリア階級と共産党の地位はなく、いかなる革命の任務も達成することはできない。
この点について、わが党は、一九二一年に成立してから一九二六年の北伐戦争に参加するまでの五、六年のあいだは、認識がたりなかった。当時は、中国における武装闘争の極度の重要性を理解せず、しんけんに戦争の準備と軍隊の組織をせず、軍事的な戦略と戦術の研究を重視しなかった。北伐の過程では軍隊の獲得を無視して、一面的に民衆運動に重きをおいたが、その結果、自民党がいったん反動化すると、民衆運動はすべてくずれてしまった。一九二七年以後の長いあいだ、多くの同志は依然として、党の中心任務を都市における蜂起の準備と白色区の活動の面においていた。一部の同志がこの問題について考えを根本的に変えたのは、一九三一年、敵の三回目の「包囲討伐」にたいするたたかいに勝利してからのことである。しかし、まだ全党的に変わったのではなく、一部の同志はやはりいまのわれわれのようには考えていなかった。
経験がわれわれに教えているように、中国の問題は武力をはなれては解決することができない。この点を認識することは、今後、抗日戦争を勝利のうちにすすめていくのに有益である。抗日戦争における全人民の武装抵抗という具体的な事実は、この問題の重要性をよりふかく認識するよう全党を教育するであろう。党員の一人ひとりは、いつでも武装して前線におもむく用意をすべきである。また、われわれのこんどの会議で、党の主要な活動方面が戦区と敵の後方にあるときめたことは、さらに明確な方針をあたえた。これは、一部の党員が党の組織活動や民衆運動の活動をやりたがるが、戦争の研究や戦争への参加はのぞまないとか、一部の学校が学生を前線におもむかせるよう激励することに注意をはらわないとかいった現象にたいしては、やはり症状にあった良薬である。中国の大部分の領土では、党の組織活動と民衆運動の活動は武装闘争に直接つながっており、単独の孤立した党の活動や民衆運動はないし、またありえない。戦区からかなり遠い一部の後方(たとえば雲南省、貴州省、四川省)や敵が制圧している一部の地区(たとえば北平、天津、南京、上海)でも、党の組織活動と民衆運動はやはり戦争に呼応するものであって、前線の要求にしたがうほかなく、またしたがうべきである。一言でいえば、全党は戦争を重視し、軍事を学習し、戦う準備をすべきである。
われわれが自民党の歴史に目をむけ、国民党がどのように戦争に注意をはらったかに目をむけることは、有益である。
孫中山は、革命的な小団体を組織したときから、いくどか清朝に反対する武装蜂起をおこなった〔4〕。同盟会の時期になると、辛亥革命で清朝を武力によってくつがえすまで、いっそう多くの武装蜂起の事績〔5〕があった。中華革命党の時期には、かれは武力による東世凱反対運動をおこなった〔6〕。その後における海軍の南下〔7〕、桂林からの北伐〔8〕、黄埔軍官学校の創立〔9〕は、いずれも孫中山の戦争の事業である。
蒋介石が孫中山にとって代わると、国民党の軍事的全盛時代がつくりだされた。かれは、北伐、内戦、抗日の三つの時期をつうじて、軍隊を自分の命のように考えてきた。過去十年間の蒋介石は反革命であった。反革命のために、かれは膨大な「中央軍」をつくりあげた。軍隊があれば権力があり、戦争がすべてを解決するというこの基本点を、かれはしっかりつかんでいる。この点については、われわれはかれに学ぶべきである。この点では、孫中山と蒋介石はともにわれわれの先生である。
辛亥革命ののち、すべての軍閥は軍隊を自分の命のように大切にし、「軍隊があれば権力がある」という原則を重視した。
譚延[”もんがまえ”+”山”の下に”豆”]〔10〕はりこうな官僚で、湖南省でなんどか起伏をくりかえしたが、これまでただの省長になったことはなく、いつも督軍兼省長になった。かれは、のちに広東と武漢の国民政府の主席になったが、やはり第二軍の軍長をかねた。中国にはこのような軍閥が多くあり、かれらはこの中国の特徴を知っているのである。
中国には軍隊をもとうとしない政党もいくつかあるが、そのうちのおもなものは進歩党〔11〕である。しかし、この政党も、官職にありつくにはある軍閥にたよらなければならないことを知っていた。そこで、袁世凱、段祺瑞〔12〕、蒋介石(蒋にくっついているのは、進歩党の一部から転じた政学系〔13〕である)がそのうしろだてとなった。
青年党〔14〕などのような歴史のあさいいくつかの小さな政党は、軍隊をもっていないから、これといったことはなに一つできない。
外国のブルジョア政党は、各自が一部の軍隊を直接にぎる必要はない。だが、中国はそれとはちがい、封建的な分割のために、地主やブルジョア階級の集団または政党では、鉄砲のあるものが勢力をもち、鉄砲の多いものほど勢力が大きい。このような環境におかれているプロレタリア政党は、問題の中心を見きわめるべきである。
共産党員は、個人の兵権は争わないが(けっして争ってはならず、二度と張国燾のようなことをしてはならない)、党の兵権は争わなければならず、人民の兵権は争わなければならない。現在は民族的抗戦をしているので、さらに民族の兵権を争わなければならない。兵権の問題で小児病になれば、なに一つえられないのは必定である。勤労人民は数千年らい、反動支配階級のあの欺瞞や威嚇の手にのせられてきたので、鉄砲を自分の手に握ることの重要性は、はなはだ悟りにくかった。日本帝国主義の抑圧と全人民の抗戦によって、勤労人民が戦争の舞台におしあげられた以上、共産党員はこの戦争のもっとも自覚のある指導者となるべきである。共産党員の一人ひとりが、「鉄砲から政権がうまれる」という真理を理解すべきである。われわれの原則は党が鉄砲を指揮するのであって、鉄砲が党を指揮するのをけっしてゆるさない。しかし、鉄砲があれば党をつくりあげることができるのもたしかで、げんに八路軍は華北地方で大きな党組織をつくりあげた。さらに幹部をも、学校をも、文化をも、民衆運動をもつくりあげることができる。延安のすべては鉄砲がつくりだしたものである。鉄砲からすべてのものがうまれてくる。マルクス主義の国家学説にかんする観点からみれば、軍隊は国家権力の主要な構成要素である。国家権力を奪取し保持しようとするものは、強大な軍隊をもたなければならない。われわれを「戦争万能論」だと笑うものがあるが、そのとおり、われわれは革命戦争万能論者である。これはわるいことではなく、よいことであり、マルクス主義である。ロシア共産党の鉄砲は社会主義をつくりだした。われわれは民主共和国をつくりだすのである。帝国主義時代の階級闘争の経験がわれわれに教えているように、労働者階級と勤労大衆は鉄砲の力によらないかぎり、武装したブルジョア階級と地主にうち勝つことはできない。この意味から、世界全体を改造できるのは鉄砲だけである、といってよい。われわれは戦争消滅論者であり、戦争を不要とするものである。だが、戦争をつうじて戦争を消滅するよりほかなく、鉄砲を不要にするには、鉄砲を手にとらなければならない。
わが党は、一九二一年(中国共産党の成立)から一九ニ四年(国民党の第一回全国代表大会)までの三、四年間は、直接に戦争を準備し軍隊を組織することの重要性を理解していなかったし、一九二四年から一九二七年までの時期、ないしその後の一時期にも、これについての認識がまだ不十分であった。だが、一九二四年、黄浦軍官学校に参与してからは、新しい段階にはいり、軍事の重要性を理解するようになった。国民党の広東戦争を援助したことと北伐戦争をつうじて、党はすでに一部の軍隊を掌握した〔15〕。革命の失敗から、痛い教訓をくみとり、そこで、南昌蜂起③、秋収蜂起④、広州蜂起⑤をおこし、赤軍創設の新しい時期にはいった。この時期は、わが党が軍隊の重要性を徹底的に認識したきわめて重要な時期であった。この時期の赤軍と、赤軍が進めた戦争がなかったならば、すなわち、共産党がもし陳独秀の解消主義をとっていたとすれば、こんにちの抗日戦争とその長期にわたる堅持は、思いもよらないことである。
一九二七年八月七日の党中央の緊急会議は、.政治上の右翼日和見主義に反対し、党を大きく一歩前進させた。一九三一年一月の第六期中央委員会第四回総会は、名目のうえでは政治上の「左」翼日和見主義に反対したが、実際には、「左」翼日和見主義のあやまりをふたたびおかしたのである。この二つの会議の内容と歴史的役割は異なるが、この二つの会議はどちちも戦争と戦略の問題を重点的にとりあげはしなかった。これは、当時の党の活動の重点がまだ戦争におかれていなかったことを反映したものである。一九三三年、党中央が赤色地域にうつってから、状況は根本的に変わったが、しかし、戦争の問題(およびすべての主要な問題)では、また原則的なあやまりをおかし、革命戦争に重大な損失をあたえた〔16〕。一九三五年の遵義会議は、主として戦争における日和見主義に反対し、戦争の問題を第一位においたが、これは戦争という環境の反映である。中国共産党は十七年にわたる闘争のなかで、確固たるマルクス主義の政治路線をきたえあげたばかりでなく、確固たるマルクス主義の軍事路線をもきたえあげた、とこんにちではわれわれは自信をもっていうことができる。われわれは、マルクス主義を運用して政治問題を解決することができるばかりでなく、マルクス主義を運用して戦争問題を解決することもできるのである。また、党を指導し国家を指導できる有能な幹部を大量に養成したばかりでなく、軍隊を指導できる有能な幹部をも大量に養成したのである。これは、無数の革命烈士が熱血をそそいでつちかった革命の花であり、中国共産党と中国人民の誇りであるばかりでなく、世界の共産党と世界の人民の誇りでもある。全世界では、ソ連、中国、スペインの三ヵ国の共産党の指導する三つの軍隊だけがプロレタリア階級と勤労人民のものである。他の各国の党はいずれもまだ軍事的経験をもっていない。したがって、われわれの軍隊と軍事的経験はとりわけ貴重である。
こんにちの抗日戦争を勝利のうちにすすめていくためには、八路軍、新四軍およびわが党の指導するすべての遊撃隊を拡大し強化することが非常に重要である。この原則のもとで、党は、もっともりっぱな、そして十分な数の党員と幹部を前線へおくるべきである。すべては前線の勝利のためであり、組織的任務は政治的任務にしたがわなければならない。
わが党の軍事戦略の変化は、研究に値する問題である。それを国内戦争と民族戦争の二つの過程にわけてのべよう。
国内戦争の過程は、だいたい、前後二つの戦略的時期にわけることができる。前期では、主として遊撃戦争であり、後期では、主として正規戦争であった。しかし、正規戦争といっても中国型のもので、兵力を集中しておこなう運動戦、指揮と組織のうえでのある程度の集中性と計画性といった点にあらわれているにすぎず、その他は、依然として遊撃的な低い段階のもので、外国の軍隊と一様に論じることはできないし、国民党の軍隊とも多少ちがっている。したがって、このような正規戦は、ある意味ではたかめられた遊撃戦である。
抗日戦争の過程も、わが党の軍事的任務からいうと、だいたい、二つの戦略的時期にわけられる。前期(戦略的防御と戦略的対峙の二つの段階をふくむ)においては主として遊撃戦争であり、後期(戦略的反攻の段階)においては主として正規戦争となる。だが、抗日戦争前期の遊撃戦争は、国内戦争前期の遊撃戦争とは多くの異なった内容をもっている。それは正規性(ある程度の)をもった八路軍が分散して遊撃の任務を遂行しているからである。抗日戦争後期の正規戦争も、国内戦争後期の正規戦争とは異なったものとなるであろう。これは新式の兵器で装備されたのちは軍隊と作戦にも一大変革がおこることを想定していうのである。そのときの軍隊は高度の集中性と組織性をもつことになり、作戦は遊撃性が大いに減じて、高度の正規性をもつことになり、低い段階のものは高い段階のものに変わり、中国型のものは世界型のものに変わるであろう。これが戦略的反攻の段階でなすべき仕事である。
これからみると、国内戦争、抗日戦争という二つの過程と四つの戦略的時期のあいだには、全部で三つの戦略転換がある。第一は、国内遊撃戦争から国内正規戦争への転換である。第二は、国内正規戦争から抗日遊撃戦争への転換である。第三は、抗日遊撃戦争から抗日正規戦争への転換である。
三つの転換のうち、第一の転換は大きな困難にうちあたった。そこには、二つの面の任務があった。一つは、遊撃性におぼれて正規性に転換したがらない、地方主義と遊撃主義の右よりの偏向に反対することであって、この偏向は幹部がすでに変化した敵情と任務を十分に評価しなかったことからうまれたものである。この点、中央赤色地域についていうと、困難な教育活動をおこなったことによって、ようやくこれをしだいに転換させたのであった。もう一つは、正規化を必要以上に重視する集中主義と冒険主義の「左」よりの偏向に反対することであって、この偏向は、一部の指導幹部が敵情と任務を過大に評価し、しかも実情をみないで、機械的に外国の経験を転用したことからうまれたものである。この点、中央赤色地域では、三年もの長いあいだ(遵義会議以前)、きわめて大きな犠牲をはらったのち、血の教訓のなかからようやくそれを是正したのであった。その是正は遵義会議の成果である。
第二の転換は、二つの異なった戦争過程のあいだでおこなわれたもので、それは一九三七年の秋(蘆溝橋事変後)のことである。このときの敵は新しい敵、すなわち日本帝国主義であり、友軍はこれまでの敵、国民党(われわれにたいして依然として敵意をいだいている)であり、戦場は広大な華北地方(一時的にはわが軍の正面であるが、まもなく、長期にわたって敵の後方となる)であった。われわれの戦略転換は、こうした特殊な状況のもとでおこなわれたきわめて重大な転換であった。こうした特殊な状況のもとでは、これまでの正規軍と運動戦を、遊撃軍(組織性と規律性についていっているのではなく、分散して使用することをさしている)と遊撃戦に転換させなければ、敵情と任務に合致させることはできなかった。だが、このような転換は、現象的には後退的な転換としてあちわれるので、当然、この転換は非常に困難なものとなる。このときうまれる可能性のあるものは、一つは敵を見くびる偏向であり、もう一つは恐日病であるが、これらはいずれも国民党内ではうまれたのである。国民党は、国内戦争の戦場から民族戦争の戦場に転換するにあたって、主として敵を見くびったことから、同時に恐日病(韓復榘、劉峙〔17〕がその代表である)が存在していたことから、うけなくてもすむ多くの損失をこうむった。ところが、われわれは、かなり順調にこの転換を実行し、挫折や失敗をこうむらなかったばかりでなく、大きな勝利をおさめた。それは、党中央と一部の軍事幹部のあいだにかつて深刻な論争がおきたにもかかわらず、広範な幹部がときをうつさず党中央の正しい指導をうけいれ、機敏に状況を観察したことによってかちとられたものである。この転換が抗日戦争全体の堅持、発展、勝利、および中国共産党の前途に非常に大きなかかわりをもっていることは、中国の民族解放の運命にたいする抗日遊撃戦争の歴史的意義を考えさえすればわかることである。中国の抗日遊撃戦争は、その特殊な広大さと長期性からいえば、たんに東方で空前のものであるばかりでなく、全人類の歴史のうえでも空前のものであろう。
抗日遊撃戦争から抗日正規戦争への第三の転換は、戦争の発展する将来にぞくすることであり、そのときには、また新しい状況や新しい困難がうまれるものと予想されるので、いまはそれにふれなくてもよい。
抗日戦争の最後の運命は正規戦争でしか解決できないので、抗日戦争の全体からいえば、正規戦争が主要なものであり、遊撃戦争は補助的なものである。全国的にいえば、抗日戦争の全過程の三つの戦略的段階(防御、対峙、反攻)のうち、始めと終わりの二つの段階は、どちらも正規戦争を主とし、遊撃戦争で補う。中間の段階では、敵が占領地を保持し、わが方は反攻を準備しながらもまだ反攻をおこなうことのできない状況にあることから、遊撃戦争が主要な形態としてあらわれ、正規戦争で補うことになろう。だが、これは時間的にはもっとも長いかもしれないが、戦争全体のなかでは三つの段階のうちの一つの段階にすぎない。それで、全体からいえば、正規戦争が主要なものであり、遊撃戦争は補助的なものである。こうした状況を認識せず、正規戦争が戦争の最後の運命を決する鍵であることを理解せず、正規軍の建設や正規戦の研究と指導に注意をはらわないならば、日本侵略者にうち勝つことはできない。これが一つの側面である。
だが、遊撃戦争は戦争全体のなかで重要な戦略的地位をしめている。遊撃戦争をおこなわず、遊撃隊と遊撃軍の建設を無視し、遊撃戦の研究と指導を無視するなら、やはり日本侵略者にうち勝つことはできないであろう。なぜなら、中国の大半が敵の後方になるので、もしもっとも広範でもっとも持久的な遊撃戦争をおこなわず、敵をなんら後顧の憂いなく平穏にいすわらせておくなら、わが正面主力の損傷はかならず大きく、敵の進攻はかならずさらに狂気じみたものとなり、対峙の局面はあらわれにくくなって、抗戦の継続に動揺をきたす可能性があり、たとえそうならなくても、わが方の反攻の力を十分に準備できないとか、反攻のときに呼応するものがないとか、敵は消耗しても補充できるとかいった不利な状況もうまれてくるからである。もしもこうした状況があらわれたときに、広範で持久的な遊撃戦争をいちはやく発展させて、それを克服しないならば、日本侵略者にうち勝つことはやはり不可能である。したがって、遊撃戦争は、戦争全体のうえで補助的地位にあるとはいえ、実際には、きわめて重要な戦略的地位をしめている。抗日をしていて、遊撃戦争を無視するのは、疑いもなく非常なあやまりである。これがもう一つの側面である。
遊撃戦争は、大国という条件さえそなわっていれば可能であるから、古代にも遊撃戦争はあった。しかし、遊撃戦争の堅持は共産党の指導のもとでしかありえない。したがって、古代の遊撃戦争はほとんどが失敗した遊撃戦争であり、現代において共産党の存在する大国、たとえば国内戦争の時期のソ連や中国のような国だけに勝利の遊撃戦争が存在するのである⑥。当面の条件および一般的条件からいうと、抗日戦争における国共両党の戦争の問題での分業として、国民党が正面の正規戦をうけもち、共産党が敵後方の遊撃戦をうけもっということは、不可欠かつ適切なことであり、たがいに必要とし、たがいに呼応し、たがいに協力しあうものである。
以上のことから、わが党の軍事戦略方針が、国内戦争後期の正規戦争から抗日戦争前期の遊撃戦争に転換したことは、いかに重要であり、必要であったかを知ることができる。その利点を総合すると、つぎの十八項目となる。(一)敵軍の占領地を縮小させること、(二)わが軍の根拠地を拡大すること、(三)防御の段階では、正面の作戦に呼応して敵を牽制すること、(四)対幅の段階では、敵後方の根拠地を堅持し、正面の部隊の整備を有利にすること、(五)反攻の段階では、正面に呼応して、失地を回復すること、(六)もっとも迅速に、もっとも効果的に軍隊を拡大すること、(七)いたるところに共産党を発展させ、どの村にも細胞がつくれるようにすること、(八)いたるところに民衆運動を発展させ、敵の拠点をのぞく敵後方の人民全体が組織できるようにすること、(九)抗日の民主政権をもっとも広範に樹立すること、(十)抗日の文化教育をもっとも広範に発展させること、(十一)もっとも広範に人民の生活を改善すること、(十二)敵の軍隊を瓦解させるのにもっとも好都合であること、(十三)もっとも広範に、もっとも持続的に全国の人心に影響をあたえ、全国の士気を高揚させること、(十四)もっとも広範に友軍、友党の進歩をうながすこと、(十五)敵が強く、味方が弱いという条件にかなっており、自分の損失を少なくさせ、勝ちいくさを多くさせること、(十六)敵が小さく、味方が大きいという条件にかなっており、敵の損失を多くさせ、その勝ちいくさを少なくさせること、(十七)もっとも迅速に、もっとも効果的に大量の指導幹部をつくりだすこと、(十八)給養の問題を解決するのにもっとも好都合であること。
長期の闘争をつうじて、遊撃隊や遊撃戦争は、もとの状態にとどまらず、高い段階に発展し、しだいに正規軍と正規戦争に変わっていくべきであることは、これも疑いの余地がない。われわれは、遊撃戦争をつうじて力をたくわえ、自分自身を、日本帝国主義を粉砕する決定的な要素の一つにしていくであろう。
両軍の敵対するすべての問題は戦争によって解決されるものであり、中国の存亡は戦争の勝敗にかかっている。したがって、軍事理論の研究、戦略と戦術の研究、軍隊の政治工作の研究は、一刻もゆるがせにしてはならない。戦術の研究は不十分ではあるが、この十年来、軍事活動にたずさわっている同志たちはすでに多くの成績をあげ、中国の条件に即して多くの新しいものを提起している。欠点はまだ総括していないことにある。戦略問題と戦争理論の問題の研究活動は、いまだに、ごくわずかな人びとにかぎられている。政治工作についての研究は第一級の成績をあげており、その経験が豊富なこと、新しい創造が多いうえにすぐれているということでは、全世界でソ連をのぞけばわれわれだといえるが、その欠点は総合性と体系性の不十分さにある。全党と全国の必要を満たすため、軍事知識の大衆化はさしせまった任務となっている。これらのすべてに今後注意すべきであるが、戦争と戦略の理論がすべての根幹である。軍事理論の研究から興味をひきおこして、軍事問題の研究に全覚の注意を喚起することは、必要であるとわたしはおもう。
〔1〕 レーニンの『戦争とロシア社会民主党』『ロシア社会民主労働党在外支部会議』『帝国主義戦争における自国政府の敗北について』『ロシアの敗北と革命的危機』などの著作を参照。レーニンのこれらの著作は、当時の帝国主義戦争について、一九一四年から一九一五年にかけて書いたものである。あわせて『ソ連共産党(ボリシェビキ)歴史小教程』第六章第三節の「戦争、平和および革命問題におけるボリシェビキの理論と戦術」を参照。
〔2〕 一九二四年、孫中山は、共産党および革命的労働者・農民と連合し、当時イギリス帝国主義と結託して広州で反革命活動をすすめていた買弁・豪紳の武装組織――「商団」をうちやぶった。一九二五年の初め、国共合作の革命軍は広州から東征し、農民の援助をえて、軍閥陳炯明の軍隊をうちやぶった。つづいて広州にもどり、そこで根をはっていた雲南、広西軍閥を消滅した。同年の秋、国共合作の革命軍は二回目の東征をおこない、陳炯明の軍隊を最後的に消滅した。これらの戦役で、共産党員と共産主義青年団員は勇敢に戦闘の最前線にたった。これらの戦役は、当時の広東省に統一の情勢をつくりだし、北伐戦争の基礎をうちたてた。
〔3〕 スターリンの『中国革命の見通しについて』から引用。
〔4〕 一八九四年、孫中山はホノルルで「興中会」という革命的小団体を結成した。一八九五年、清朝政府が中日戦争で失敗した後、孫中山は広東省内で、以前の民間秘密結社「会党」に依拠して、一八九五年の広州の戦いと一九〇〇年の恵州の戦いの二回にわたる清朝に反対する武装蜂起をおこした。
〔5〕 一九〇五年、興中会は清朝に反対する他の二つの団体――華興会および光復会と連合して、同盟会(これは、当時のブルジョア階級、小ブルジョア階級と、清朝に反対する一部の有力者との連合戦線の組織であった)を結成し、「満州族の駆逐、中華の回復、民国の樹立、地権の平均」というブルジョア革命の政綱をかかげた。同盟会の時期に、孫中山は「会見」および新軍と連合して、清朝に反対する武装蜂起を何度もおこした。そのうちの比較的大きなものには、一九〇六年の萍郷、瀏陽、醴陵の戦い、一九〇七年の潮州における黄岡の戦い、欽州の戦い、鎮南関(いまの友宜関――訳者)の戦い、一九〇八年の雲南省の河口の戦い、一九一一年の広州の戦いおよび武昌蜂起がある。
〔6〕 一九一二年、同盟会は改組されて国民党となり、当時の北洋軍閥袁世凱の支配と妥協をおこなった。一九一三年、袁世凱は軍隊を南下させ、辛亥革命から形成されてきた江西、安徽、広東諸省の勢力を圧迫しようとした。孫中山は武力抵抗をおこなったが、まもなく失敗した。一九一四年、孫中山は妥協で失策したことから、当時の国民党とのちがいをしめすため、日本の東京で別に中華革命党を結成した。これは、実際上、一部の小ブルジョア階級と一部のブルジョア階級の政治的代表者の反袁同盟であった。孫中山はこの同盟に依拠して、一九一四年、上海で小規模な蜂起をおこしたことがあった。一九一五年、袁世凱が皇帝と称すると、蔡鍔らの反袁勢力は雲南省で袁世凱討伐の戦争をおこしたが、当時孫中山も武力による袁世凱打倒の積極的な鼓吹者であり活動家であった。
〔7〕 一九一七年、孫中山はその影響下にある海軍をひきいて、上海から広州にいき、広東省を根拠地とし、当時、北洋軍閥段祺瑞に反対していた西南軍閥と連合して、段祺瑞反対の軍政府を組織した。
〔8〕 一九二一年、孫中山は桂林市で北伐の準備をおこなったが、部下の陳炯明が北洋軍閥と結託して寝がえったため、成果を得なかった。
〔9〕 一九二四年、孫中山は中国共産党とソ連の援助を得て国民党を改組したのち、広州付近の黄埔で車官学校を創立した。それが、黄埔軍官学校である。一九二七年、蒋介石が革命を裏切るまでは、ここは国共合作の学校であった。共産党員である周恩来、葉剣英、憚代英、蕭楚女その他多くの同志が前後してこの学校でいろいろな責任ある活動をうけもった。多くの学生も共産党員や共産主義青年団員であった。かれらは、この学校で革命的中堅を形成した。
〔10〕 譚延[”もんがまえ”+”山”の下に”豆”]は湖南省の出身で、清朝の翰林であった。もとは立憲君主制を主張していたが、のちに投機的に一九一一年の革命(辛亥革命)に参加した。その後、かれは国民党の陣営にはいったが、これは湖南地方の地主勢力と北洋軍閥の矛盾を反映したものであった。
〔11〕 進歩党は、民国初年、梁啓超らの一派が袁世凱に依存して組織した政党である。
〔12〕 段祺瑞は袁世凱のふるくからの部下で、北洋軍閥内の安徽系の頭目であった。袁世凱の死後、かれは何度も北京政府の政権をにぎった。
〔13〕 政学系とは、一九二八年、一部の進歩党員と一部の国民党員によって組織された極右の政派で、官職をあさるために南北の軍閥のあいだで投機的な活動をおこなっていた。一九二六年から一九二七年にかけての北伐戦争の時期には、政学系の一部のもの、たとえば親日派黄郛、張群、楊永泰のやからは蒋介石と結託しはじめ、その反動的な政治経験を利用して、蒋介石の反革命政権の樹立をたすけた。
〔14〕 「青年党」とは、いわゆる「国家主義派」の「中国青年党」のことである。本選集第一巻の『中国社会各階級の分析』注〔1〕にみられる。
〔15〕 ここでは主として、北伐戦争の時期、共産党員葉挺将軍を首長とする独立連隊をさす。本選集第一巻の『井岡山の闘争』注〔14〕を参照。
〔16〕 本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』を参照。
〔17〕 韓復榘はもと山東省に駐屯していた国民党軍閥である。劉峙は蒋介石直系の軍閥で、もと河南省にいたか、抗日戦争勃発後、河北省保定の線の防御にあたった。この両軍閥は日本侵略軍が進攻してきたとき、どちらも戦わずに逃走した。
① 五・四運動とは、一九一九年五月四日におこった帝国主義、封建主義に反対する革命運動のことである。一九一九年の上半期、第一次世界大戦の戦勝国であるイギリス、フランス、アメリカ、日本、イタリアなどの帝国主義国は、パリで贓品の分配会議をひらき、中国の山東省におけるドイツのさまざまな特権を日本かひきつぐことを決定した。五月四日、北京の学生が真っ先に、集会をひらきデモ行進をおこなって、これに断固反対することを表明した。北洋軍閥政府はそれに弾圧を加え、学生三十余人を逮捕した。そこで北京の学生はストライキをおこして抗議し、各地の学生もぞくぞくとそれに呼応した。六月三日から、北洋軍閥政府はまたも北京で、よりおおがかりな逮捕をはじめ、二日間のうちに、約一千人の学生を逮捕した。この六月三日の事件は、全国人民のより大きな怒りをひきおこした。六月五日から、上海およびその他の多くの地方の労働者はあいついでストをはじめ、商人もあいついで閉店ストをはじめた。これまで、主として知識層の参加していた愛国運動は、その時からプロレタリア階級、小ブルジョア階級およびブルジョア階級の参加する全国的な愛国運動へと急速に発展していった。五・四運動以前におこされていた封建主義に反対し、科学と民主を提唱する新文化運動も、愛国運動の発展につれて、マルクス・レーニン主義の宣伝を主流とする大規模な革命文化運動へと発展していった。
② 本選集第一巻の『中国社会各階級の分析』注〔7〕を参照。
③ 本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』注〔30〕を参照。
④ 本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』注〔32〕を参照。
⑤ 本選集第一巻の『中国の赤色政権はなぜ存在することができるのか』注〔8〕を参照。
⑥ 本選集第一巻の『中国の赤色政権はなぜ存在することができるのか』注〔7〕を参照。
(一九三九年五月)
これは、毛沢東同志が延安の新聞に書いた五・四運動二〇周年記念論文である。
二十年まえの五・四運動は、中国の反帝・反封建のブルジョア民主主義革命がすでに新しい段階に発展したことをしめしている。五・四運動が文化革新運動になったことは、中国の反帝・反封建のブルジョア民主主義革命の一種の表現形態にすぎない。当時の新しい社会勢力の成長と発展によって、中国の反帝・反封建のブルジョア民主主義革命には、強大な陣営があらわれた。それが中国の労働者階級、学生大衆および新興の民族ブルジョア階級で構成された陣営である。そして、「五・四」の時期に、勇敢に運動の先頭にあらわれたのが数十万の学生であった。これは五・四運動が辛亥革命よりも一歩すすんだ点である。
中国のブルジョア民主主義革命の過程を、準備期からのべると、それはすでにアヘン戦争、太平天国戦争、一八九四年の中日戦争〔1〕、戊戌維新、義和団運動①、辛亥革命、五・四運動、北伐戦争、土地革命戦争などのいくつもの発展段階を経過している。こんにちの抗日戦争はその発展のもう一つの新しい段階であり、またもっとも偉大な、もっとも生気にみちた、もっとも活動的な段階でもある。外国の帝国主義勢力と国内の封建勢力が基本的にくつがえされ、独立した民主主義国家が樹立されるにいたってはじめて、ブルジョア民主主義革命は成功したといえる。アヘン戦争いらいの革命の各発展段階には、それぞれいくつかの特徴がある。そのなかでのもっとも重要なちがいは、共産党の出現するまえとあとである。しかし、その全体についてみれば、ブルジョア民主主義革命の性質をおびていないものは一つもなかった。このような民主主義革命は、中国の歴史にはかつてなかった社会制度、すなわち民主主義の社会制度をうちたてるためのもので、この社会の前身は封建主義の社会であり(ここ百年間は半植民地・半封建の社会となっている)、その後身は社会主義の社会である。共産主義者が、なぜ、さきにブルジョア民主主義の社会制度の実現のためにたたかい、そのあとで社会主義の社会制度を実現するのか、と聞かれたならば、歴史の必然的な道をすすむのだと答える。
中国の民主主義革命の達成は、一定の社会勢力に依拠するものである。その社会勢力とは労働者階級、農民階級、知識層、進歩的ブルジョア階級、つまり革命的な労働者、農民、兵士、知識層、商工業者であって、その根本的な革命の力は労働者、農民であり、革命の指導階級は労働者階級である。この根本的な革命の力からはなれ、労働者階級の指導からはなれるなら、反帝・反封建の民主主義革命を達成することは不可能である。こんにちでは、革命の主要な敵は日本帝国主義と民族裏切り者であり、革命の根本政策は抗日民族統一戦線である。この統一戦線の構成要素はすべての抗日の労働者、農民、兵士、知識層、商工業者である。抗日戦争が最後の勝利をうるのは、労働者、農民、兵士、知識層、商工業者の統一戦線が大いに強化し、発展したときである。
中国の民主主義革命の運動で、まずさいしょに目ざめるものは知識層である。辛亥革命と五・四運動は、どちらもこの点をはっきりとしめした。そして、五・四運動の時期の知識層は辛亥革命の時期の知識層よりもいっそう広範で、いっそう目ざめていた。しかし知識人は、もし労農民衆と結びつかなければ、なに一つなしとげられない。知識人が革命的か、非革命的か、反革命的かの最後のわかれ目は、かれらが労農民衆と結びつくことをのぞみ、しかもそれを実行するかどうかにある。かれらの最後のわかれ目はただこの点だけにあり、口先で三民主義やマルクス主義をうんぬんすることにあるのではない。ほんとうの革命家はかならず労農民衆と結びつくことをのぞみ、しかも実行するものである。
五・四運動はこんにちまでに二十年たっており、抗日戦争も、もうすぐ二周年になる。全国の青年および文化界は、民主主義革命と抗日戦争にたいして大きな責務をになっている。わたしは、かれらが中国革命の性質と原動力を認識して、自分の活動を労農民衆と結びつけ、労農民衆のなかにはいって、労農民衆の宣伝者、組織者となるよう希望する。全国民衆の決起の日が抗日戦争勝利のときである。全国の青年諸君、努力しよう!
〔1〕 この戦争は日本が朝鮮にたいして侵略をおこすとともに、中国の陸、海軍にたいして挑発行為にでたことからひきおこされたものである。戦争中、中国の軍隊は勇敢に戦ったが、清朝政府が腐敗していたため、また侵略にたいして断固たたかう準備に欠けていたため、中国側は敗北を喫した。その結果、清朝政府は日本と屈辱的な馬関条約を締結した。
① 本選集第一巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』の注〔34〕を参照。
(一九三九年五月四日)
これは、毛沢東同志が延安の青年大衆の五・四運動二〇周年記念集会でおこなった講演である。毛沢東同志はこの講演で、中国革命の問題についての思想を発展させている。
きょうは五・四運動の二〇周年記念日である。われわれ延安の全青年が、ここで記念集会をひらいているので、わたしは、中国の青年運動の方向にかんするいくつかの問題についてのべてみよう。
第一に、こんど五月四日を中国の青年の日ときめたが、これは正しい〔1〕。「五・四」からこんにちまで、すでに二十年になるが、今年になってやっと、この日が全国で青年の日ときめられた。これには重要な意義がふくまれている。すなわちそれは、帝国主義および封建主義とたたかうわが中国の人民民主主義革命がまもなく転換点にたっしようとしていることをしめしている。この数十年らい、反帝・反封建の人民民主主義革命はいくたびか失敗したが、いま、このような事態を転換させなければならない。それは、もう一度失敗をかさねるのではなくて、勝利の方向へ転換させるのである。いま、中国の革命は前進しつつあり、勝利にむかって前進しつつある。歴史上なんども失敗してきた事態はこれ以上つづけてはならないし、またけっしてつづけさせるべきではなく、それを勝利に転換させなければならない。では、いま、すでに転換しているだろうか。まだしていない。この転換はいままだはじまっていないし、われわれはいままだ勝利していない。しかし、勝利はたたかいとれるのである。この抗日戦争では、失敗から勝利へという転換点にたっするよう努力しなければならない。五・四運動が反対したのは、売国政府であり、帝国主義と結託して民族の利益を売りわたした政府であり、人民を抑圧した政府である。このような政府に反対する必要があるかどうか。もし反対する必要がないとすれば、五・四運動はまちがっていたことになる。このような政府にはどうしても反対する必要があり、売国政府は打倒すべきであるということは、非常にはっきりしている。諸君みたまえ、孫中山先生は五・四運動のずっとまえから、当時の政府にたいする反逆者であり、清朝政府に反対し、しかもそれをくつがえした。かれのしたことは正しかったかどうか。わたしは正しかったとおもう。なぜなら、かれが反対したのは、帝国主義に抵抗する政府ではなくて帝国主義と結託する政府であり、革命的な政府ではなくて革命を圧迫する政府であったからである。五・四運動は、売国政府反対の活動をおこなったからこそ、革命的な運動であった。全中国の青年は五・四運動をこのようにみるべきである。全国の人民が抗日に奮起しているこんにち、すべてのものは、過去の革命の失敗の経験にてらして、かならず日本帝国主義をうちやぶるという決意をかためており、また、これ以上売国奴が存在するのをゆるさず、ふたたび革命が失敗するのをゆるさないのである。一部のものをのぞく全国の青年はみな目ざめてきており、すべてのものがこのような必勝の決意をもっている。このことは「五・四」を青年の日ときめたことにしめされている。われわれは勝利への道を前進しつつあり、全国人民がこぞって努力しさえすれば、中国革命はかならず抗日の過程で勝利をおさめるにちがいない。
第二に、中国の革命が反対しているのはなにか、革命の対象はなにか。周知のように、一つは帝国主義であり、一つは封建主義である。現在の革命の対象はなにか。一つは日本帝国主義であり、もう一つは民族裏切り者である。革命をやるには、どうしても日本帝国主義をうちたおし、どうしても民族裏切り者をうちたおさなければならない。革命はだれがやるのか、革命の主体はなにか。それは、中国の民衆である。革命の原動力としては、プロレタリア階級があり、農民階級があり、さらにその他の階級のなかの反帝・反封建をねがうあらゆる人びとがあるが、かれらはいずれも反帝・反封建の革命勢力である。だが、この多くの人びとのなかで、どういう人が基本的な勢力であり、革命の骨幹であるのか。それは、全国人口の九〇パーセントをしめる労働者、農民である。中国革命の性質はなにか、われわれが現在やっているのはどんな革命か。われわれが現在やっているのはブルジョア的性質の民主主義革命であって、われわれのやることはすべてブルジョア民主主義革命のわくをこえることはない。現在まだブルジョア階級の私有財産制一般を破壊すべきではなく、破壊しなければならないのは帝国主義と封建主義であって、これがブルジョア的性質の民主主義革命とよばれるものである。しかし、ブルジョア階級にはもはやこの革命をなしとげる力がなく、それをなしとげるには、プロレタリア階級と広範な人民の努力にたよらなければならない。この革命が達成しようとする目的はなにか。その目的は帝国主義と封建主義をたおし、人民民主主義の共和国を樹立することである。この人民民主主義の共和国がすなわち革命的三民主義の共和国である。それは現在のような半植民地的・半封建的な状態とはちがい、将来の社会主義制度ともちがう。社会主義の社会制度では、資本家はいらなくなるが、この人民民主主義制度では、まだ資本家の存在はゆるされるべきである。中国では、資本家は永久にいるだろうか。そんなことはない、将来はきっといらなくなる。たんに、中国がそうであるばかりでなく、全世界もそうである。イギリスにしても、アメリカにしても、フランスにしても、日本にしても、ドイツにしても、イタリアにしても、将来すべて資本家はいらなくなるのであって、中国も例外ではありえない。ソ連は社会主義をうちたてた国であり、将来、全世界がみなそれにつづくことは、疑いの余地がない。中国は将来かならず社会主義に発展していくのであって、こうした法則はだれもくつがえすことはできない。だが、当面の段階では、われわれは、社会主義を実行するのではなくて、帝国主義と封建主義を破壊し、中国の現在のこの半植民地的・半封建的な地位をあらため、人民民主主義制度を樹立するのである。全国の青年はこのために努力すべきである。
第三に、これまでの中国革命の経験と教訓とは、どういうものか。これもまた青年が知っていなければならない重要な問題である。中国の反帝・反封建のブルジョア民主主義革命は、厳密にいえば、孫中山先生からはじまったのであり、すでに五十余年をへている。資本主義諸外国の中国侵略となると、ほぼ百年におよんでいる。百年このかた、中国の闘争は、イギリスの侵略に反対するアヘン戦争にはじまり、その後、太平天国の戦争があり、一八九四年の中日戦争があり、戊戌維新があり、義和団運動があり、辛亥革命があり、五・四運動があり、北伐戦争があり、赤軍の戦争があった。これらはそれぞれ事情はちがっているが、どれも外敵に抵抗するか、現状を変革するためのものであった。だが、比較的明確なブルジョア民主主義革命は孫中山先生からはじまったのである。孫先生によってはじめられた革命は、五十年のあいだに、勝利した点もあれば、失敗した点もある。みたまえ、辛亥革命が皇帝を放逐したことは勝利ではないか。失敗だというのは、辛亥革命は皇帝一人を放逐しただけであって、中国はあいかわらず帝国主義と封建主義の抑圧のもとにおかれ、反帝・反封建の革命の任務がなしとげられなかったことをさすのである。五・四運動はなにをしようとしたのか。やはり反帝・反封建のためであったが、これも失敗してしまい、中国はあいかわらず帝国主義と封建主義の支配のもとにおかれた。北伐戦争の革命も同様であって、勝利はしたが、また失敗してしまった。国民党が反共〔2〕をはじめていらい、中国はまた帝国主義と封建主義の天下になった。そこで、十年間にわたる赤軍の戦争がおこらざるをえなかった。しかし、この十年間の奮闘も局部的な革命の任務をなしとげただけで、全国的な革命の任務はまだなしとげていない。もし、われわれが過去数十年間の革命を総括するならば、それは、一時的、部分的な勝利をえただけで、永久的、全国的な勝利はえていないということになる。まさに孫中山先生が「革命なおいまだ成功せず、同志よ、さらに努力せよ」といったことばのとおりである。ここで、つぎのように問題をだしてみたい。中国革命は何十年もおこなわれてきたが、なぜ、いまになっても、まだ目的がたっせられないのか、原因はどこにあるのか。わたしは、その原因はつぎの二つの点、すなわち、第一に、敵の力があまりにも強かったこと、第二に、われわれの力があまりにも弱かったことにあると考える。一方が強く、他方が弱いから、革命は勝利しなかったのである。敵の力があまりにも強いというのは、帝国主義(これが主要なものである)と封建主義の力があまりにも強いということである。われわれの力があまりにも弱いというのは、軍事、政治、経済、文化の諸分野に弱点があるということであるが、主としては、全国人口の九〇パーセントをしめる労農大衆がまだ動員されなかったので、弱さがあらわれたのであり、反帝・反封建の任務をなしとげることができなかったのである。この数十年の革命を総括するとすれば、それは全国人民が十分に動員されず、しかも、反動派がつねにこの動員に反対し、これを破壊してきたということである。ところが、帝国主義と封建主義の打倒は、全国人口の九〇パーセントをしめる労農大衆を動員し、組織することによってはじめて可能となるのである。孫中山先生はその遺言のなかで、つぎのようにのべている。「余は国民革命に力を致すことおよそ四十年、その目的は中国の自由、平等をもとめるにあった。四十年の経験を積んで、この目的を達成するためには、民衆をよびさまし、そして、世界でわれらを平等に遇する民族と連合し、ともに奮闘しなければならぬことを深く知るにいたった。」この老先生がなくなって十余年になる。それにかれののべた四十年をくわえると五十余年になるが、この五十余年らいの革命の経験と教訓とはなにか。根本的には、「民衆をよびさます」というこの道理である。諸君はこれをよく研究すべきであり、全国の青年もこれをよく研究すべきである。青年たちは、帝国主義にうち勝ち、封建主義にうち勝つには、全国人口の九○パーセントをしめる労農大衆を動員するほかはないということをぜひ知らなければならない。こんにちわれわれが、全国の労農大衆を動員しなければ、日本にうち勝ち、新中国を樹立する目的を達成することは不可能である。
第四に、ここで話を青年運動にすすめよう。二十年まえのきょう、学生たちの参加した、歴史上五・四運動とよばれる大事件が中国でおこったが、これは重大な意義をもつ運動であった。「五・四」いらい、中国の青年たちはどんな役割をはたしてきたか。ある種の先頭部隊としての役割をはたしてきた。このことは頑迷分子をのぞいて、全国のすべての人びとがみとめている。先頭部隊としての役割とはなにか。それは率先的役割であり、革命の隊列の先頭に立つことである。中国の反帝・反封建の人民の隊列内には、中国の知識青年や学生たちからなる一部隊がある。この部隊はかなり大きく、死んだ人は別としていま数百万人いる。この数百万人の部隊は反帝・反封建の一つの方面軍であり、しかも重要な方面軍である。だが、この方面軍にたよるだけでは十分でなく、それにたよるだけでは敵にうち勝つことはできない。なぜなら、それは主力軍ではないからである。では、主力軍はだれか。それは労農大衆である。中国の知識青年や学生たちはぜひとも労農大衆のなかにはいっていって、全国人口の九〇パーセントをしめる労農大衆を動員し、組織しなければならない。たんに知識青年や学生という部隊にたよるだけで、労働者、農民という主力軍がなければ、反帝・反封建の勝利をおさめることはできない。したがって、強力な部隊を形成するには、全国の知識青年や学生はどうしても広範な労農大衆と結びつき、かれらと一体にならなければならない。これは何億人という部隊である。この大部隊があってはじめて、敵の堅固な陣地を撃破することができ、敵の最後のとりでを撃破することができるのである。この観点から、過去の青年運動をみると、ここ数十年の青年運動には、一部の青年が労農大衆との連合をのぞまず、労農運動に反対するというあやまった偏向のあったことを指摘しなければならない。これは青年運動の潮流における一つの逆流であった。かれらは、全国人口の九〇パーセントをしめる労農大衆と連合するどころか、あたまから労働者、農民に反対したが、これは、じつにばかげたことである。このような潮流はよいのだろうか。わたしはよくないとおもう。なぜなら、かれらが労働者、農民に反対するのは、とりもなおざず革命に反対することだからである。したがって、それは青年運動における一つの逆流だというのである。このような青年運動はよい結果をもたらさない。数日まえわたしは短い文章を書いた〔3〕が、そのなかで、つぎのようにのべた。「知識人が革命的か、非革命的か、反革命的かの最後のわかれ目は、かれらが労農民衆と結びつくことをのぞみ、しかもそれを実行するかどうかにある。」わたしは、ここで、一つの基準を提起したが、これが唯一の基準であると考える。ある青年が革命的かどうかをみるには、なにを基準にするか。なにによってその人をみわけるか。基準はたった一つしかない、つまり、その人が広範な労農大衆と結びつくことをのぞみ、しかもそれを実行するかどうかをみるということである。労農大衆と結びつくことをのぞみ、しかもそれを実行する人は革命的であり、そうでない人は非革命的か、あるいは反革命的である。きょう、労農大衆と結びつけば、きょうは革命的であるが、もしあす結びつかなくなるか、あるいは逆に民衆を抑圧するなら、それは非革命的か、あるいは反革命的である。一部の青年は、たんに口先で三民主義を信ずるとか、マルクス主義を信ずるとか吹きまくっているが、これはあてにはならない。みたまえ、ヒトラーも「社会主義を信ずる」といっているではないか。ムッソリーニも二十年まえはやはり「社会主義者」だったのだ。かれらの「社会主義」はいったいどういうしろものだったのか。じつはファシズムだったのだ。陳独秀もマルクス主義を「信」じていたではないか。だが、かれはのちに何をやったか。反革命の側に走ってしまった。張国燾もマルクス主義を「信」じていたではないか。かれはいまどこにいったか。脱走したとたん、どろぬまにはまりこんでしまった。一部のものはみずから「三民主義の信徒」、しかも、古株の三民主義者をもって任じているが、かれらは何をやったか。もともと、かれらの民族主義とは帝国主義と結託することであり、かれらの民権主義とは民衆を抑圧することであり、かれらの民生主義はといえば、それは民衆のからだから血を多く吸いとれば吸いとるほどよいということである。こういうのは口と腹のちがう三民主義者である。したがって、われわれが人をみるばあい、その人と広範な労農大衆との関係がどうかをみさえすれば、その人がにせの三民主義者かそれともほんものの三民主義者か、にせのマルクス主義者かそれともほんもののマルクス主義者かがはっきりわかる。みわける基準はこの一つだけで、ほかに基準はない。わたしは、全国の青年が労働者、農民を自分の友としてはっきりみとめ、輝かしい前途にむかって進軍すべきであって、あの暗黒の逆流におちいってはならないということを心にきざんでおくよう希望する。
第五に、いまの抗日戦争は中国革命の新しい段階であり、しかも、もっとも偉大な、もっとも躍動している、もっとも生気にみちた新しい段階である。この段階では、青年たちは大きな責務をになっている。わが中国の数十年らいの革命運動はかずかずの奮闘の段階をへてきたが、いまの抗日戦争ほど広範なものは一度もなかった。われわれは、現在の中国革命は過去のそれとはちがい、失敗から勝利に転換するという特徴をもっているとおもうが、それは、中国の広範な人民が進歩したことをさしているのであって、青年の進歩はそのあきらかな証拠である。したがって、こんどの抗日戦争はきっと勝利するにちがいないし、どうしても勝利をおさめなければならない。周知のように、抗日戦争の根本政策は抗日民族統一戦線であって、その目的は、日本帝国主義をうちたおし、民族裏切り者をうちたおし、ふるい中国を新しい中国に変えて、全民族を半植民地的・半封建的な地位から解放することである。現在、中国の青年運動が統一していないのは大きな欠陥である。統一こそ力であるから、諸君はひきつづき統一をはかるべきである。諸君は、全国の青年に、現在の情勢を知らせ、団結を実行して抗日をやりぬくようにさせなければならない。
さいごに、第六として、延安の青年運動についてのべよう。延安の青年運動は全国の青年運動の手本である。延安の青年運動の方向こそ全国の青年運動の方向である。なぜか。延安の青年運動の方向は正しいからである。みたまえ、統一の点で、延安の青年たちはそれを実行しているばかりでなく、しかもりっぱに実行している。延安の青年たちは団結し、統一している。延安の知識青年、学生、青年労働者、青年農民などは、みんな団結しあっている。全国各地から、遠くは海外の華僑のなかから、おおぜいの革命的青年が勉学のため延安にきている。きょうの参会者は、大多数が何千里、何万里のかなたからきている人びとであり、張君も李君も男も女も労働者も農民も、みな心を一つにしている。これでも、全国の手本といえないだろうか。延安の青年は自分たちが団結しているばかりでなく、労農大衆とも結びついており、この点はなおさら全国の手本である。延安の青年たちは何をしただろうか。かれらは革命の理論を学習し、抗日救国の道理と方法を研究している。かれらは生産運動をおこなって荒れ地を何千華畝、何万華畝も開墾した。荒れ地を開墾して耕作することは孔子さまさえやらなかった。孔子が学校をひらいたとき、その学生は多く、「賢人七十、弟子三千」、まことにさかんであった。だが、その学生は、延安にくらべるとはるかにすくなかったし、しかも生産運動などはこのまなかった。孔子は学生からどんなふうに田を耕すかときかれると、こういった。「知らない。わたしは農民にはおよばない。」また、どんなふうに野菜をつくるのかときかれると、かれはまた、こういった。「知らない。わたしは野菜をつくる人にはおよばない。」中国の古代、聖人のもとで勉強していた青年たちは、革命の理論を学んだことがなかったばかりか、労働もしなかった。いま全国の広大な地域では、学校が革命理論をほとんどやっていないし、生産運動もとりあげていない。ただ、わが延安と敵の後方の各抗日根拠地の青年たちは、まったくちがっている。かれらは政治的方向が正しく、活動方法も正しいので、ほんとうに抗日救国の先頭部隊である。したがって、わたしは延安の青年運動は全国青年運動の手本だというのである。
きょうの集会はたいへん有意義である。わたしは話したいことをみんな話した。全国の青年を全国の人民と結びつけ、革命を失敗から勝利に転換させるため、諸君がこの五十年らいの中国革命の経験を研究し、そのよい点をのばし、あやまりをとりさるよう希望する。全国の青年と全国の人民がみな動員され、組織され、団結したその日こそ、日本帝国主義のうちたおされる日である。青年の一人ひとりがこの責務をになわなければならない。青年の一人ひとりは、これまでとはちがって一大決意をかためなければならない。つまり、かならず全国の青年を団結させ、全国の人民を組織して、日本帝国主義をうちたおし、ふるい中国を新しい中国に改造することである。これが、わたしの諸君にたいする希望である。
〔1〕 五月四日を中国青年の日とすることは、もともと陝西・甘粛・寧夏辺区の青年組織がきめたものである。当時、広範な青年大衆の愛国の波の高まりにおされて、国民党もこれに同意した。その後、国民党は青年の革命化をおそれ、この決定を非常に危険であると感じ、三月二十九日(一九一一年の広州蜂起の革命烈士記念日)を青年の日とすることにあらためた。だが、共産党の指導する革命根拠地では、ひきつづき五月四日を青年の日としていた。中華人民共和国成立後、中央人民政府政務院は一九四九年十二月に、五月四日を中国青年の日とすることを正式に公布した。
〔2〕 一九二七年、蒋介石が上海、南京で、また汪精衛が武漢でおこした反革命クーデターをさす。
〔3〕 本巻の『五・四運動』という論文をさす。
(一九三九年六月三十日)
日本の侵略者をまえにして、中華民族にとってこれまで存在してきたなによりも大きな問題は、戦うか戦わないか、という問題であった。「九・一八」から蘆溝橋事変までのあいだ、この問題は非常にはげしく論争された。「戦えば存続するが、戦わなければ滅亡する」――これがすべての愛国的諸政党とすべての愛国的同胞の結論であり、「戦えば滅亡するが、戦わなければ存続する」――これがすべての投降主義者の結論であった。蘆溝橋の抗戦の砲声がこの論争を一時的には解決した。それは、第一の結論が正しく、第二の結論があやまっていたことを宣告した。だが、蘆溝橋の砲声が、この問題を一時的に解決しただけで、最終的に解決しなかったのはなぜだろうか。それは、日本帝国主義の投降へのさそいこみ政策、国際投降主義者〔1〕の妥協のたくらみ、中国の抗日陣営内の一部の人びとの動揺性によるのである。いまではまたこの問題が、少し言いまわしを変えて、いわゆる「和するか戦うかの問題」として提起されている。そのため中国の内部では、主戦派と講和派とのあらそいがまきおこっている。かれらの論点はあいかわらずおなじで、「戦えば存続するが、和すれば滅亡する」――これが主戦派の結論であり、「和すれば存続するが、戦えば滅亡する」――これが講和派の結論である。だが、主戦派には、すべての愛国的諸政党、すべての愛国的同胞、全民族の大多数がふくまれており、講和派すなわち投降派は、人数からいうと、抗日陣営内の一部の動揺分子だけである。したがって、いわゆる講和派は、欺瞞的宣伝をやらざるをえなくなっており、その第一が反共である。そこで、かれらは、事実の真相をおおいかくし、世論をつくりあげ、講和つまり投降の目的をたっするために、「共産党が攪乱している」とか、「八路軍、新四軍は遊動しているだけで攻撃せず、指揮にしたがわない」とか、「陝西・甘粛・寧夏辺区は割拠しており、区域の拡張をやっている」とか、「共産党は政府転覆の陰謀をくわだてている」とか、ないしは「ソ連が中国侵略をくわだてている」とかいったいつわりのニュース、報告、文書、決議などを降りしきる雪のようにつくりだしている。講和派すなわち投降派がこのようにするのは、共産党が抗日民族統一戦線の提唱者であり、堅持者であり、共産党に反対しなければ、国共合作を破壊することができず、抗日民族統一戦線を分裂させることができず、投降することができないからである。そのつぎは、日本帝国主義の譲歩にのぞみをかけていることである。かれらは、日本はもうだめになった、日本は根本政策をあらためて、自発的に華中、華南ばかりか、華北からさえ撤退するだろうから、中国はこれ以上戦わなくても勝利をおさめることができる、と考えている。さらにそのつぎは、国際的圧力にのぞみをかけていることである。いわゆる講和派の多くの人びとは、講和がやれるように、諸大国がのりだして、日本に譲歩させるよう圧力をかけることをのぞんでいるばかりでなく、「みろ、国際的空気はこうだから、講和するよりほかあるまい」「太平洋国際会議〔2〕は中国に有益であって、ミュンヘン〔3〕などではない。これは中国を復興させる段どりである」と主戦派にいえるように、各国が中国政府に圧力をかけてくれることをものぞんでいる。以上が中国の講和派すなわち投降派の一連の観点であり、手口であり、陰謀である〔4〕。これは汪精衛が演じているばかりでなく、もっと重大なのは、抗日陣営の内部に多くの張精衛、李精衛がかくれていて、かれらも汪精衛と内外呼応して、あるものは双簧①をやり〔5〕、あるものは赤や白の隈どりで芝居を演じている〔6〕ことである。
われわれ共産党員は、終始一貫主戦派の側に立ち、講和派には断固として反対することを公然と宣言する。われわれは、全国のすべての愛国的諸政党、愛国的同胞といっしょに、団結を強化し、抗日民族統一戦線を強化し、国共合作を強化し、三民主義を実行し、最後まで抗戦し、鴨緑江の岸辺まで戦いをすすめて、すべての失地を奪回する〔7〕ことをのぞんでいるだけであって、ほかのことは考えていない。反共の気運をもりあげ、国共間の摩擦〔8〕を挑発し、はてはもういちど国共内戦を挑発しようとしているあの公然たる汪精衛やかくれた汪精衛の一味の陰謀を、われわれは断固として糾弾する。われわれはかれらにつぎのようにいう。きみたちのこのような分裂陰謀の本質は、きみたちの投降への準備の段どりにすぎず、きみたちの投降政策と分裂政策は、民族の利益を売りわたし、少数者の私利をはかる全計画のあらわれにすぎないのであり、人民の一人ひとりは目をもっているから、きみたちの陰謀はきっと人民にあばきだされるにちがいない。われわれは、太平洋会議が東方のミュンヘンではないという根拠のない議論を、断固として糾弾する。太平洋会議なるものは、ほかでもなく東方のミュンヘンであり、中国をチェコに変えようとするものである。われわれは、日本帝国主義が理性をとりもどし、譲歩することがありうるという空論を、断固として糾弾する。日本帝国主義の中国を滅ぼす根本方針が変わることはけっしてありえない。武漢陥落後の日本の甘言、たとえばいわゆる「国民政府を対手とせず」という方針を放棄して〔9〕、国民政府を相手として認めるように変わったとか、またたとえばいわゆる華中、華南からの撤兵の条件とかは、えきで魚を釣って料理しようとする陰険な政策であり、それにひっかかるものは、料理されるのを覚悟しなければならない。国際投降主義者が中国を投降にきそいくもうとしているのも、同様に陰険な政策である。かれらは日本の中国侵略をほしいままにさせ、自分は、「山上に坐して相うつ虎の倒名るを侍っ」て、ひとたび時機がくれば、漁夫の利をしめようと、いわゆる太平洋調停会議を画策するのである。もしも、これらの陰謀家にのぞみをかけるならば、同様に、すっかりわなにかかってしまうであろう。
戦うか戦わないかの問題は、いまでは、戦うか和するかの問題に変わっているが、その性質はやはりおなじであって、これは、すべての問題のなかでも一番大きな問題、もっとも根本的な問題である。この半年来、日本の投降へのさそいこみ政策の強化、国際投降主義者の積極的な策動、主として、中国の抗日陣営内の一部の人びとのいっそうの動揺によって、いわゆる和するか戦うかの問題がやかましくさわがれ、投降の可能性は、当面の政治情勢における主要な危険となり、反共、すなわち国共合作を分裂させ、抗日のための団結を分裂させることが、あの投降派の投降準備のもっとも重要な段どりとなった。このような事情のもとで、全国のすべての愛国的諸政党、すべての愛国的同胞は、目を大きくしてあの投降派の策動を見まもり、当面の情勢では投降が主要な危険であり、反共がとりもなおさず投降の準備であるという、この主要な特徴を認識し、あらゆる努力をはらって投降と分裂に反対しなければならない。全民族の血の犠牲によって日本帝国主義とまる二年間戦ってきたこの戦争は、一部の人びとによる動揺や裏切りをけっしてゆるすものではない。全民族の努力によって結成された抗日民族統一戦線は、一部の人びとによる破壊や分裂をけっしてゆるすものではない。
戦いつづけ、団結しつづければ、――中国はかならず存続する。
和をもとめつづけ、分裂しつづければ、――中国はかならず滅亡する。
どちらをすて、どちらをとるか。国民はすみやかにいずれかを選ばなければならない。
われわれ共産党員は、かならず戦いつづけ、団結しつづけるものである。
全国のすべての愛国的諸政党、すべての愛国的同胞もかならず戦いつづけ、団結しつづけていくものである。
投降派の投降の陰謀と分裂の陰謀は、たとえ一時的には勢いをえても、最後にはかならず人民からあばかれ制裁をうけるであろう。中華民族の歴史的任務は解放をもとめるために団結し抗戦することであるのに、投降派はその反対の道をあゆもうとしており、かれらがどのように勢いをえ、どのように得意になり、世の中には「自分を危うくするものはもういない」と考えても、かれらは、最後には、かならず全国人民の制裁をうけるという運命にある。
投降と分裂に反対すること――これこそ、全国のすべての愛国的諸政党、すべての愛国的同胞の当面する緊急任務である。
全国の人民は団結し、抗戦と団結を堅持して、投降の陰謀と分裂の陰謀をおしつぶそう!
〔1〕 国際投降主義者とは、当時、中国を犠牲にして日本と妥協しようと陰謀をめぐらしていたイギリス、アメリカ帝国主義者をさす。
〔2〕 当時、イギリス、アメリカ、フランス帝国主義者は中国の講和派と、いわゆる「太平洋国際会議」をつうじて、日本侵略者と妥協し、中国を売りわたす陰謀をめぐらしていた。当時、世論はこれを極東のミュンヘンの陰謀といった。毛沢東同志はこの論文のなかで、太平洋会議は東方のミュンヘンではないという根拠のない議論を非難しているが、それは当時の蒋介石の論法をさしたのである。
〔3〕 一九三八年九月、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアの四ヵ国の政府首脳は、ドイツのミュンヘンで会議をひらいて、ミュンヘン協定を結び、イギリス、フランスは、この協定で、ドイツがソ連に進攻することを交換条件としてチェコをドイツに売りわたした。一九三八年から一九三九年にかけて、イギリス、アメリカ帝国主義は中国を犠牲にして日本帝国主義との妥協をはかることを、何度か画策した。一九三九年六月、すなわち毛沢東同志がこの論文を書いたときにも、イギリスと日本はふたたびこのような陰謀をめぐらし、交渉をすすめていた。この陰謀は、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアがミュンヘンでたくらんだ陰謀に似ていたため、「東方のミュンヘン」とよばれた。
〔4〕 毛沢東同志がここでいっている「中国の講和派すなわち投降派の一連の観点であり、手口であり、陰謀である」とは、蒋介石の観点、手口、陰謀をさす。当時、汪精衛は公然たる投降派の主要な頭目であったが、蒋介石は抗日陣営内にかくれている投降派の主要な頭目であり、毛沢東同志のいう「かくれた汪精衛」もしくは「張精衛、李精衛」であった。
〔5〕 毛沢東同志はここでは、蒋介石と汪精衛かたがいに呼応しあって策動しているのが、まるで「双簧」をやっているようだといっているのである。
〔6〕 当時、蒋介石をかしらとする国民党講和派は、一方では、まだ抗戦する態度をよそおいながら、他方では、またいろいろな形で投降の策動をおこなうという二面的なやり方をとり、それはちょうど、中国の古典劇で、顔に赤い隈どりをしたのや、白い隈どりをした俳優が出てくるようなものであった。
〔7〕 一九三九年一月、蒋介石は、国民党第五期中央執行委員会第五回全体会議で、かれのいう「最後まで抗戦する」、その「最後」とは、「蘆溝橋事変以前の状態を回復する」ことであると公言した。そこで毛沢東同志は、蒋介石の投降政策に対抗するため、とくに、最後まで抗戦するということについて定義をおこない、それは、「鴨緑江の岸辺まで戦いをすすめて、すべての失地を奪回する」ことたとのべた。
〔8〕 「摩擦」は当時の流行語の一つで、抗日民族統一戦線を破壊し、共産党と進歩勢力に反対する国民党反動派のさまざまの反動的行為をさしている。
〔9〕 一九三七年十二月十三日、日本軍は南京を占領した。一九三八年一月十六日、日本政府は「爾後国民政府を対手とせず、新政府の樹立を期待する」という声明を発表した。同年十月、日本軍は広州と武漢を占領した。日本政府は抗戦にたいする蒋介石の動揺を利用して、かれを投降にさそいこむという方針にきりかえ、十一月三日にふたたび声明を発表し、「固より国民政府と雖も従来の指導政策を一擲し、その人的構成を改善して更生の実を挙げ、新秩序の建設に来り参ずるに於ては敵て之を拒否するものにあらず」とのべた。
① 「双簧」とはふたりで演じる中国の演芸の一種である。ひとりは、観客に見えないよう、うしろにしゃがんで、歌ったり語ったりし、もうひとりは、声をださずに前に腰をかけ、うしろの人の歌やせりふにあわせていろいろなしぐさをやり、いかにも自分が歌ったり語ったりしているように見せかける。
(一九三九年八月一日)
これは、毛沢東同志が延安の人民の平江虐殺事件殉難烈士追悼会でおこなった演説である。
きょう八月一日、われわれはここで追悼大会をひらいている。なぜこのような追悼会をひらくのか。それは、反動派が革命の同志を殺し、抗日の戦士を殺したからである。いま殺さなければならないのはどういう人間か。それは民族裏切り者であり、日本帝国主義者である。中国は日本帝国主義者と二年間も戦ってきたが、まだ勝敗はきまっていない。民族裏切り者はまださかんにうごきまわっており、殺されたものも非常にすくない。ところが、革命の同志、抗日の戦士は殺されている。だれが殺したのか。軍隊が殺したのである。軍隊がなぜ抗日の戦士を殺したのか。軍隊は命令を執行したのであって、軍隊に殺せとさしずしたものがいるのである。だれが軍隊にさしずしたのか。反動派がそれをさしずしたのである〔1〕。同志諸君、道理からいって、どういう人間が抗日の戦士を殺そうとしているのか。第一には、日本帝国主義者かかれらを殺そうとしている。第二には、汪精衛などの民族裏切り者、売国奴かかれらを殺そうとしている。だが、いま人が殺されたところは、上海、北平、天津、南京など、日本侵略者、民族裏切り者の占領しているところではなく、平江という抗戦の後方であって、殺されたのは新四軍平江連絡所の責任者[シ+余]正坤、羅梓銘らの同志である。だれの目にもあきらかなように、あの中国反動派が、日本帝国主義と汪精衛の命令をうけてかれらを殺したのである。これらの反動派は、投降しようとしている。それで、日本人や汪精衛の命令をうやうやしく執行し、まずはじめに、もっとも断固とした抗日の戦士を殺したのである。この事件はただごとではない。われわれは、どうしても反対し、どうしても抗議しなければならない。
いま、全国は抗日しており、全国人民は抗日の目標のもとに大きく団結している。この大団結のなかの一部のものは反動派であり、投降派である。かれらは何をしているのか。抗日の人びとを殺し、進歩をおさえつけ、日本侵略者、民族裏切り者と結託して、投降しようとしているのである。
抗日の同志を殺すというこのような大事件であるのに、これを問題にした人がいるだろうか。六月十二日午後三時に人が殺され、きょうはもう八月一日になっているのに、これを問題にする人があらわれただろうか。あらわれなかった。だれがこの事件を問題にすべきか。中国の法律が、司法官がこれを問題にすべきである。もしも陝西・甘粛・寧夏辺区にこのようなことがおこったとすれば、われわれの高等法院はとっくに問題にしていたであろう。ところが、平江虐殺事件がおきてから、もうニヵ月になろうとしているのに、法律も司法官もこれを問題にしていない。なぜだろうか。それは中国が不統一だからである〔2〕。
中国は統一していなければならず、統一していなければ勝利することはできない。だが、統一とはなにか。統一とは、みんなが抗日し、みんなが団結し、みんなが進歩し、賞すべきものは賞し、罰すべきものは罰することである。だれを賞すべきか。抗日する人を賞し、団結する人を賞し、進歩する人を賞すべきである。だれを罰すべきか。抗日、団結、進歩を破壊する民族裏切り者と反動派を罰すべきである。現在は統一しているだろうか。していない。平江虐殺事件がその証拠である。このことからわかるように、統一すべきものが統一していないのである。われわれははやくから全国的な統一を要求してきた。その第一は、抗戦に統一していくことである。現在、[シ+余]正坤、羅梓銘らの抗日の同志は、賞されないばかりでなく、逆に虐殺された。ところが、あの悪党どもは抗戦に反対し、投降しようとし、人を殺しているのに、処罰されていない。これが不統一というものである。われわれは、こうした悪党とたたかい、こうした投降分子とたたかい、こうした殺人犯を逮捕しなければならない。第二は、団結に統一していくことである。団結に賛成するものは賞せられ、団結を破壊するものは罰せられなければならない。ところが、現在、団結に賛成している[シ+余]正坤、羅梓銘らの同志は処罰され、虐殺され、団結を破壊しているあの悪党どものほうはすこしも処罰されていない。これが不統一というものである。第三は、進歩に統一していくことである。全国を進歩させ、おくれたものを進歩したものにみならわせなければならず、けっして進歩したものをおくれたものにみならわせてはならない。平江虐殺事件の下手人どもが進歩的な人びとを殺したのである。抗戦いらい、暗殺された共産党員や愛国の志士はすでに何十人、何百人にたっしており、平江虐殺事件は最近おこった事件の一つにすぎない。このままでいくと、中国はたいへんなことになり、抗日する人はみな殺されることになる。抗日する人を殺すということは、なにを意味するのか。それは、中国の反動派が日本帝国主義と汪精衛の命令を執行し、投降しようとしているので、まず、抗日軍人を殺し、共産党員を殺し、愛国の志士を殺すのだということである。このようなことを、もし阻止しないならば、中国はこれらの反動派の手で滅ぼされてしまうことになる。したがって、この事件は全国的な大きなできごとであって、われわれは、これらの反動派を厳重に処罰するよう国民政府に要求しなければならない。
同志諸君は、さらに、つぎのくとを理解しなければならない。最近、日本帝国主義の攪乱行為はいっそうひどくなり、日本にたいする国際帝国主義の援助もいっそう積極化し〔3〕、公然たる汪精衛やかくれた汪精衛など中国内部の民族裏切り者の抗戦の破壊、団結の破壊、後退もいっそう積極化している。かれらは中国の大きな部分を敵に投降させ、内部を分裂させ、国内で戦争をおこさせようと考えている。いま国内で「異党活動制限措置法」〔4〕とかいわれる秘密の措置法がひろくおこなわれているが、その内容は、すべて反動的なものであり、日本帝国主義をたすけるものであり、抗戦にとっても、団結にとっても、進歩にとっても不利なものである。「異党」とはなにか。異党とは日本帝国主義であり、汪精衛であり、民族裏切り者である。共産党とすべての抗日の諸政党は一致団結して抗日をしている。これが「異党」であろうか。ところが、いま、投降派、反動派、頑迷派が、抗戦陣営内で摩擦をおこし、分裂をおこしている。このような行為は正しいだろうか。完全にまちがっている(満場拍手)。「制限」というが、いまどういう人間を制限しなければならないのか。制限しなければならないのは日本帝国主義者であり、汪精衛であり、反動派であり、投降分子である(満場拍手)。もっとも抗日的で、もっとも革命的で、もっとも進歩的な共産党をなぜ制限するのか。これは完全にまちがっている。われわれ延安の人民は、断固として反対し、断固として抗議することを表明する(満場拍手)。われわれは、いわゆる「異党活動制限措置法」に反対しなければならない。このような措置法が、団結を破壊するさまざまな犯罪的行為の根源である。われわれがきょうこの大会をひらいたのは、抗戦をつづけ、団結をつづけ、進歩をつづけるためである。そのためには、「異党活動制限措置法」を廃止すべきであり、投降派、反動派を制裁すべきであり、すべての革命の同志、抗日の同志、抗日の人民を保護すべきである。(熱烈な拍手。スローガンの高唱)
〔1〕 一九三九年六月十二日、蒋介石の秘密命令によって、国民党第二十七集団軍は、湖南省平江地方にあった新四軍の連絡所を包囲して、新四軍の参議[シ+余]正坤同志と八路軍の少佐副官羅梓銘同志ら六名を虐殺した。この虐殺事件は、各抗日民主根拠地の人民と国民党支配区の正義を主張する人びとの義憤をよびおこした。この虐殺事件は、蒋介石とその徒党がさしずしてひきおこしたものである。毛沢東同志がこの演説のなかで攻撃している反動派とは、蒋介石とその徒党をさす。
〔2〕 毛沢東同志がここで説いている「統一」とは、国民党反動派が「統一」という名目を利用して共産党の抗日武装組織と抗日根拠地を消滅しようとした陰謀にむけて、提起されたものである。国共両党がふたたび合作して、共同で抗日をはじめたその日から、国民党が共産党を攻撃するのに用いた主要な武器が、この「統一」というスローガンで、かれらは、共産党がことさら異説をたてて、統一を妨害し、抗日を不利にしていると中傷していた。一九三九年一月、国民党第五期中央執行委員会第五回全体会議で蒋介石の提起した「異党活動制限措置法」が採択されたのち、このような反動のわめきは、いっそうはげしくなった。毛沢東同志はここで、この「統一」というスローガンを国民党反動派の手から奪いとって、国民党の反人民的、反民族的な分裂行動に反対する革命的なスローガンに変えたのである。
〔3〕 毛沢東同志の『投降の策動に反対せよ』という論文の分析を参照。一九三八年十日、武漢陥落ののち、日本侵略者は国民党にたいして、政治面での降伏勧誘を主とする方針をとり、イギリス、アメリカなどの国際帝国主義もたえす蒋介石に講和をすすめ、イギリスのチェンバレンは、いわゆる「極東建設」に参加したいということを表示した。一九三九年、日本侵略者と国際帝国主義は陰謀活動にいっそう拍車をかけてきた。同年四月、イギリスの駐華大使カーは、蒋介石と日本とのあいだを往復し、講和させようとして策励した。七月、イギリスと日本とのあいだでは合意が得られ、イギリス政府は、日本侵略者が中国でつくりだしたいわゆる「実際の情勢」を完全に認めることになった。
〔4〕 一九三九年、国民党中央は、共産党員およびすべての進歩的な人びとの思想、言論、行動をきびしく制限する「異党活動制限措置法」を秘密裏に通達し、すべての抗日の大衆組織を破壊しようとした。かれらか「共産党の活動のもっともはげしい地域」と認めたところでは、「連保連坐法」を実行するとともに、保甲組織のなかに「通信網」を普遍的につくることをきめた。つまり、いつでも人民の活動を監視し制限できるよう、反革命的な特務組織を普遍的につくるということである。
(一九三九年九月一日)
記者の問い ソ独不可侵条約〔1〕が結ばれましたが、その意義をどうお考えになりますか。
毛沢東の答え ソ独不可侵条約が結ばれたのは、ソ連の社会主義の力が増大し、ソ連政府が平和政策を堅持した結果です。この条約は、チェンバレン、ダラディエらの国際反動ブルジョア階級によるソ独戦争の挑発の陰謀を粉砕し、ドイツ・イタリア・日本反共集団のソ連にたいする包囲を打破し、ソ連、ドイツ両国間の平和を強化し、ソ連の社会主義建設の発展を保障しました。東方においては、日本に打撃をあたえ、中国を援助し、中国の抗戦派の地位を強化し、中国の投降派に打撃をあたえました。こうしたことによって、全世界人民の自由と解放をかちとるたたかいを援助する基礎がきずかれました。これがソ独不可侵条約の政治的意義のすべてです。
問 人びとは、英仏ソ交渉が決裂した結果、ソ独不可侵条約が結ばれたということを、まだ理解しておらず、逆に、ソ独条約が結ばれた結果、英仏ソ交渉が決裂したのだと考えています。英仏ソ交渉がなぜ成功しなかったかを説明していただけないでしょうか。
答 英仏ソ三国の交渉が成功しなかったのは、ほかでもなくイギリスとフランスの政府に誠意がなかったからです。近年らい、世界の反動的ブルジョア階級、とりわけ、イギリス、フランスの反動的ブルジョア階級は、ドイツ・イタリア・日本ファシストの侵略にたいし、一貫して反動的な政策、すなわち「不干渉」政策なるものをとってきました。この政策の目的は、侵略戦争をほしいままにやらせておいて、自分はそこから漁夫の利をえようとするところにあります。したがって、イギリス、フランスは、ソ連がいままで提起してきた真の反侵略戦線結成の提案をあたまから拒絶して、「不干渉」の立場をとり、ドイツ、イタリア、日本に侵略をほしいままにやらせておいて、自分はかたわらに立ってながめていたのです。その目的は、戦争している双方をたがいに消耗させ、そのあとで自分が干渉にのりだすことにあります。かれらは、この反動政策を遂行する過程で、中国の半分を犠牲にして日本にあたえ、エチオピアの全部、スペインの全部、オーストリアの全部、チェコの全部を犠牲にしてドイツ、イタリアにあたえました〔2〕。そして、こんどはまた、ソ連を犠牲にしようと考えたのです。このような陰謀は、こんどの英仏ソ三国の交渉のなかで、はっきりと暴露されました。この交渉は四月十五日から八月二十三日まで四ヵ月余にわたっておこなわれ、ソ連側は忍耐に忍耐をかさねました。ところがイギリス、フランスは、一貫して平等互恵の原則に賛成せず、自分たちの安全保障をソ連に要求するばかりで、自分たちのほうは、ドイツの進撃に突破口をひらいてやるため、ソ連の安全保障とバルト海諸小国の安全保障を承知しませんでした。それだけでなく、ソ連の軍隊が侵略者とたたかうためにポーランドを通過するのもゆるさなかったのです。これが交渉決裂の原因です。この期間、ドイツには反ソを停止する意向があり、いわゆる「防共協定」〔3〕を放棄する意向があって、ソ連の国境の不可侵を認めたので、ソ独不可侵条約が成立したのです。国際的反動派、とりわけ、イギリス、フランスの反動派のこのような「不干渉」政策は、つまり「山上に坐して相うつ虎の倒るるを待つ」政策であり、まったく人をそこなっておのれの利をはかる帝国主義的政策です。それは、チェンバレンの登場からはじまり、昨年九月のミュンヘン協定で頂点にたっし、今回の英仏ソ交渉にいたってついに破産したのです。これからさきは、イギリス・フランスとドイツ・イタリアとの二大帝国主義集団の直接衝突の局面となちざるをえません。わたしは一九三八年十月の中国共産党第六期中央委員会第六回総会で、「自分がもちあげた石で自分の足をうつ、これがチェンバレン政策の必然の結果である」とのべたことがあります。チェンバレンは、人をそこなうという目的から始まって、自分を害するという結果に終わりました。これはすべての反動政策の発展法則となるでしょう。
問 あなたのみられるところでは、当面の情勢はどう発展していくでしょうか。
答 当面の国際情勢はすでに新しい様相をしめしています。まえまえからはじまっている第二次帝国主義戦争の一面的な状態、つまり「不干渉」政策からうまれた、一方が進攻、他方が坐視という局面は、ヨーロッパ方面についていえば、今後全面的な戦争に変わっていくにちがいありません。第二次帝国主義戦争はすでに新しい段階にはいっています。
ヨーロッパ方面では、ドイツ・イタリア帝国主義集団とイギリス・フランス帝国主義集団とのあいだの、植民地人民にたいする支配権争奪を目的とした帝国主義大戦が目のまえにせまっています。戦争中、戦争している双方は、人民をあざむき、世論を動員するために、どちらも正義は自分のほうにあって相手のほうにはないと恥知らずな宣伝をするでしょう。実際には、これは欺瞞にすぎません。なぜなら、双方の目的はともに帝国主義的なもので、どちらの側も植民地、半植民地および勢力範囲にたいする支配権の争奪を目的としており、みな略奪的な戦争だからです。いまはポーランド争奪、バルカン半島と地中海沿岸争奪が目的です。このような戦争はまったく正義の戦争ではありません。世界ではただ、非略奪的な、解放をめざす戦争だけが正義の戦争です。共産党はいかなる略奪戦争もけっして支持しません。共産党は、正義の、非略奪的な、解放をめざす戦争にたいしてはすべて、身を挺して支持し、また闘争の最前線に立つものです。第二インターナショナルに属している社会民主主義諸政党は、チェンバレン、ダラディエの脅迫と誘惑によって分化しつつあり、一部の上層反動分子は第一次大戦のときの轍を踏み、新しい帝国主義戦争を支持しようとしています。だが、他の一部は共産党とともに、反戦・反ファッショの人民戦線をつくるでしょう。現在、チェンバレン、ダラディエは、ドイツ、イタリアにみならって、一歩一歩反動化し、戦時動員を利用して国家組織をファッショ化し、経済組織を戦時体制化しつつあります。要するに、二大帝国主義集団はいま戦争準備に狂奔しており、大暈殺戮の危険が何百何千万の人民の頭上にのしかかっているのです。このような事態は、疑いもなく、広範な人民の反抗運動を燃えあがらせるでしょう。ドイツ、イタリアにおいても、イギリス、フランスにおいても、ヨーロッパや世界のその他の地域においても、人民が帝国主義の砲火の餌食になることをのぞまないなら、かれらはきっと立ちあがって、いろいろな方法で帝国主義戦争に反対するにちがいありません。
資本主義世界では、前にのべた二大集団のほかに、なお第三の集団があります。それは、アメリカをかしらとする、中南米の多くの国ぐにをふくむ集団です。この集団は自己の利益のために、しばらくはまだ戦争に転ずることはないでしょう。アメリカ帝国主義は、将来、資本主義世界の指導的地位の争奪にのりだすために、しばらくは中立に名をかりて戦争のどちら側にも参加しないでおこうと考えています。アメリカのブルジョア階級は、いまのところ、国内での民主政治と平時の経済生活をうちきろうとは考えていません。この点は世界の平和運動にとって有利です。
日本帝国主義はソ独条約によって重大な打撃をこうむっており、その前途はいっそう困難になるでしょう。外交政策の面では、いま、二つの派があらそっています。軍閥は、中国を独占し、東南アジアを侵略し、イギリス、アメリカ、フランスを東方からしめだすという目的をはたすため、ドイツ、イタリアと同盟を結ぼうと考えています。しかし、一部のブルジョア階級は、中国略奪に目標を集中するため、イギリス、アメリカ、フランスに譲歩することを主張しています。いまのところは、イギリスと妥協する傾向がひじょうに強いとおもいます。イギリスの反動派は、中国を共同で分割することと日本を財政的経済的に援助することを条件に、日本を東方におけるイギリスの利益の番犬にして、中国の民族解放運動を弾圧させ、ソ連を牽制させようとしています。したがって、いずれにしても、中国を滅ぼそうという日本の根本目的はけっして変わるものではありません。日本が中国の正面戦線にたいして大規模な軍事進攻をおこなう可能性は、それほど大きくないかもしれませんが、日本は「中国人をもって中国人を制する」〔4〕という政治攻勢と、「戦争によって戦争をまかなう」〔5〕という経済侵略とをいっそうはげしくおこなう一方、その占領地では気違いじみた軍事「掃討」〔6〕をつづけ、また、中国が投降するように、イギリスをつうじて圧力をかけることを考えています。日本は、自分につごうのよい時機に東方ミュンヘンを提唱し、ある種の比較的大きな譲歩をえさにして、城下の盟を結ぶよう中国を誘惑、強迫し、それによって中国を滅ぼすという目的をはたそうとするでしょう。日本のこの帝国主義的目的は、日本人民の革命がおこらないかぎり、日本の支配階級がどんなに内閣を変えたところで、変わることはありえません。
全資本主義世界のほかに、社会主義のソ連という光明の世界があります。ソ独条約によって、ソ連が世界の平和運動を援助する可能性、中国の抗日を援助する可能性は増大しました。
以上が国際情勢についてのわたしの見通しです。
問 このような情勢のもとで、中国の前途はどうなるでしょうか。
答 中国には二つの前途があります。一つの前途は、抗戦を堅持し、団結を堅持し、進歩を堅持することで、これは復興への道です。もう一つの前途は、妥協を実行し、分裂を実行し、後退を実行することで、これは亡国への道です。
新しい国際環境のなかで、また日本がますます困難になり中国が断じて妥協しないという条件のもとで、わが国の戦略的返却の段階は終わり、戦略的対峙の段階がやってきました。戦略的対峠の段階とは、反攻準備の段階のことです。
しかし、正面における対峙と敵の後方における対嶬とは反比例するものです。正面における対峙の局面があらわれれば、敵の後方における闘争の局面はきびしくなってきます。したがって、武漢を占領されてからはじまった、被占領地区(主として華北地方)における敵の大規模な軍事「掃討」は、今後もつづくばかりか、さらにはげしくなることでしょう。そのうえ、敵の当面の主要な政策が「中国人をもって中国人を制する」という政治攻勢と「戦争によって戦争をまかなう」という経済侵略であること、イギリスの東方政策が極東ミュンヘンであることから、中国の大きな部分の投降と内部の分裂という危険が、ひじょうに増大しています。さらに、わが国の国力は敵とくちべると、まだ大きな開きがあって、全国が一致して刻苦奮闘しないかぎり、反攻をおこなうだけの力をそなえることはできません。
したがって、わが国の抗戦堅持の任務は、やはりひじょうに重大な任務であって、いささかもゆるがせにしてはなりません。
したがって、中国は、確固とした政治的立場をとるべきであり、どんなことがあっても、いまの時機を逸してはならず、考えをあやまってはならないということは、すこしも疑う余地がありません。
それは、第一に、抗戦の立場を堅持し、いかなる妥協運動にも反対することです。公然たる汪精衛であろうと、かくれた汪精衛であろうと、これに断固として打撃をあたえなければなりません。日本の誘惑であろうと、イギリスの誘惑であろうと、断固として拒否しなければならず、中国はけっして東方ミュンヘンに参加してはなりません。
第二に、団結の立場を堅持し、どんな分裂運動にも反対することです。それが日本帝国主義の側からこようと、その他の外国の側からこようと、また国内の投降派の側からこようと、すべて十分警戒すべきです。抗戦に不利な内部摩擦は、どんなものであっても厳然たる態度で制止しなければなりません。
第三に、進歩の立場を堅持し、どんな後退運動にも反対することです。抗戦のためには、軍事、政治、財政経済、党活動、文化教育、民衆運動のいずれの面のものであろうと、抗戦に不利な思想、制度、方策はすべて、再検討し、適切に改善しなければなりません。
もしそれができれば、中国は反攻をおこなう力をじゅうぶんにそなえることができるのです。
いまから、全国が「反攻の準備」を抗戦の全般的任務とすべきです。
いまは、一方では、正面の防御を厳正な態度で支持し、敵後方の戦争を力づよく支援するとともに、他方では、政治、軍事その他各種の改革を実行し、巨大な力を蓄積して、時機がきたらいつでも全力を傾注して、大挙反攻し、失地を奪回できるようにしておかなければなりません。
〔1〕 ソ独不可侵条約は一九三九年八月二十三日に結ばれた。
〔2〕 一九三五年十月、イタリアはエチオピアへの武装侵略を開始し、一九三六年五月、エチオピアを完全に占領した。一九三六年七月、ドイツとイタリアは共同してスペインの内政に武力干渉し、スペイン人民戦線政府にたいするファシスト軍閥フランコの反乱を支持した。人民戦線政府はドイツ・イタリア干渉軍およびフランコ反乱軍と長期にわたる抗戦をおこなったが、一九三九年三月に失敗してしまった。ドイツは、一九三八年三月、出兵してオーストリアを占領し、同年十月には、また出兵してチェコスロバキアのズデーデン区を占領し、一九三九年三月にはチュコスロバキアを完全に占領した。ドイツ、イタリアのファシストのこうした気違いじみた侵略行動は、いずれも当時のイギリス、フランス政府の「不干渉」政策による放任と激励のもとですすめられ、成功したものである。
〔3〕 一九三六年十一月、日本とドイツは「防共協定」を結んだ。一九三七年十一月には、イタリアもこの協定に参加した。
〔4〕 「中国人をもって中国人を制する」というのは、中国にたいする日本帝国主義の侵略の陰険な謀略である。従来、日本帝国主義は、中国内部を分裂させてその侵略目的を達成するために、いつも自己の利用できる勢力を中国で育成してきた。抗日戦争勃発後、日本帝国主義は、国民党内の公然たる親日分子汪精衛派を利用するだけでなく、蒋介石派の力をも利用して、もっとも決然と抗戦している中国共産党を牽制した。一九三九年から、日本が蒋介石の軍隊にたいする進攻を停止し、政治的に蒋介石の反共活動をはげましたのは、まさにこの「中国人をもって中国人を制する」政策の実施である。
〔5〕 日本帝国主義は、侵略戦争の物資の需要をまかなうために、中国における占領区内で残酷な略奪をおこなった。日本の軍閥は、この政策を「戦争によって戦争をまかなう」といっていた。
〔6〕 抗日戦争中、日本侵略者はわが人民解放区に進攻し、きわめて野蛮な焼きつくし、殺しつくし、奪いつくすという「三光政策」を実行した。敵はこれを「掃討」とよんだ。
(一九三九年九月十六日)
記者の問い いくつかの問題について教えていただきたいとおもいます。きょう、『新中華報』①で、あなたの九月一日の談話を拝見しました。一部の問題についてはすでにふれられていますが、一部の問題はいますこし補足していただきたいとおもいます。書いてさしあげたとおり、問題は三つの部分にわかれていますから、一つ一つお教えください。
毛沢東の答え みなさんの質問表にしたがって、一つ一つお話ししましょう。
みなさんは、抗戦の対峙段階がきたかどうかという問題をだしています。わたしは、対峙段階が条件づきできているとおもいます。つまり、新しい国際情勢のもとでは、また日本がますます困難になり中国が断じて妥協しないという条件のもとでは、すでにきているといえます。だからといって、敵はまだ比較的大きな戦役的進攻をおこなう可能性があるということを、けっして否定するものではありません。たとえば北海、長沙を攻撃し、西安さえ攻撃するなどの可能性もあります。敵の大規模な戦略的進攻とわれわれの戦略的退却とが一定の条件のもとで基本的に停止したというのは、なにもすべての進攻の可能性と退却の可能性がなくなったというわけではありません。新しい段階の具体的内容はといえば、反攻を準備するということであって、すべてがこの概念にふくまれています。つまり、中国は将来の反攻にそなえて対峙段階ですべての力を準備しなければならないということです。反攻を準備するというのは、なにもすぐに反攻することではありません。条件がそなわらなければ反攻することはできないのです。しかも、ここでいっているのは、戦略的反攻であって、戦役的反攻ではないのです。戦役的反攻、たとえばわれわれが山西省東南部における敵の軍事的「掃討」を撃退したような戦役的反攻はありうるどころか、どうしてもなければならないものです。しかし、戦略的な大挙反攻の時期は、いまはまだきていません。いまはこのような大挙反攻を積極的に準備する時期です。この時期にはまた、予測される正面の敵の何回かの戦役的進攻を撃退しなければなりません。
新しい段階の任務を一つ一つのべると、敵の後方では、かならず、遊撃戦争を堅持し、敵の「掃討」を粉砕し、敵の経済侵略をきりくずすこと、正面の戦場では、かならず、軍事的防御をかため、予測される敵の戦役的進攻を撃退すること、大後方では、主として積極的に政治を改革することです。これらはすべて反攻準備の具体的な内容です。
国内政治の改革が非常に重要なのは、現在、敵が主として政治的攻勢にでており、われわれとしては政治的抵抗をとくにつよめなければならないからです。つまり、民主政治の問題はできるだけ早く解決しなければなりません。そうしてはじめて、政治上の抵抗力をつよめ、軍事力を準備することができます。中国の抗戦は主として自力更生によるのです。これまでも自力更生をとなえてきたのですが、新しい国際的環境のもとでは自力更生がいっそう重要になってきます。自力更生のおもな内容は民主政治です。
問 いま、あなたは抗戦の勝利を自力更生で達成するには民主政治が必要だといわれましたが、いまの環境のもとでは、どんな方法でこの制度を実現するのですか。
答 軍政、訓政、憲政という三つの時期の区分〔2〕は、もともと、孫中山先生がいわれたことです。しかし、孫先生が逝去直前に書かれた『北上宣言』〔3〕では、もう三つの時期にふれておらず、中国はすぐ国民会議をひらかなければならないとのべております。これをみても、孫先生自身が早くから情勢に応じて主張を変えていたことがわかります。いま、抗戦という重大な局面のもとで、亡国の惨禍をまぬがれ、敵をたたきだすには、一日も早く国民大会を招集し、民主政治を実行しなければなりません。この問題については、さまざまのちがった意見があります。一部には、民衆は無知だから民主政治を実行することはできない、という人がいます。これはまちがいです。抗戦中、民衆は非常に急速な進歩をとげていますし、そのうえ、指導と方針があれば、きっと民主政治を実行することができます。たとえば、華北地方ではすでに民主政治が実行されています。そこの区長、郷長、保・由長は、多くが民衆によって選ばれた人たちです。県長のなかにも民衆によって選ばれた人があり、多くの先進的な人びとや有為な青年が県長になっています。このような問題は、みんなに討議させるべきです。
あなたがたがだされた第二の部分の問題のなかには、いわゆる「異党の制限」にかんする問題、つまり各地での摩擦にかんする問題があります。あなたがたがこのことに関心をもたれるのは正しいとおもいます。このことについていうと、最近、いくらか状況がよくなっていますが、根本的にはなんの変化もありません。
問 共産党は、この問題について中央政府に態度を表明されたことがありますか。
答 われわれはすでに抗議しました。
問 どんな形でされたのですか。
答 わが党の代表周恩来同志が早くも七月に蒋委員長に書簡をおくりました。八月一日にはまた、延安の各界が蒋委員長と国民政府に電報をうち、秘密裏に流されて各地の摩擦の根源になっているいわゆる「異党活動制限措置法」をとり消すよう要求しました。
問 中央政府から回答がありましたか。
答 回答はありません。きくところによると、この措置法については、国民党のなかにも不賛成の人が一部いるそうです。ご承知のように、ともに抗日している軍隊は友軍といって、「異軍」とはいいません。それなら、ともに抗日している諸政党は友党であって、「異党」ではありません。抗戦陣営内には多くの政党があり、政党の力には大小の差がありますが、みなおなじように抗戦しているのですから、たがいに団結しあうのがまったく当然であって、けっしてたがいに「制限」しあうべきではありません。異党とはなんでしょらか。日本の手先汪精衛の民族裏切り者の党が異党です。なぜなら、それは抗日諸政党とのあいだに政治的にはすこしも共通点がないからです。このような党こそ制限すべきです。国民党と共産党は政治的には共通点をもっています。それは抗日です。したがって、いまの問題は、どのように反日防日と反汪防汪に全力を集中するかということであって、反共防共に全力を集中することではありません。スローガンはこのように提起するほかありません。いま、汪精衛には、反蒋、反共、親日という三つのスローガンがあります。汪精衛は国共両党と全国人民の共通の敵です。ところが、共産党は国民党の敵ではないし、自民党も共産党の敵ではないのですから、たがいに団結し、協力しあうべきであって、たがいに反対したり「制限」したりすべきではありません。われわれのスローガンは、かならず汪精衛のスローガンとちがったものでなければならないし、かならず汪精衛のスローガンと対立したものでなければなりません。けっしてかれのものと混同してはなりません。かれが蒋介石に反対するなら、われわれは蒋介石を支持する、かれが共産党に反対するなら、われわれは共産党と連合する、かれが親日をやるなら、われわれは抗日をやる。およそ敵の反対するものなら、われわれは支持する、およそ敵の支持するものなら、われわれは反対するのです。いま、多くの人びとの論文には、「味方を悲しませ、敵をよろこばせるようなことをしてはならない」ということばがよく出てきます。このことばは、東漢の劉秀の将軍朱浮という人が漁陽の大守彭寵におくった手紙に、「なにごとをするにも、味方や親しいものを悲しませ、仇をよろこばせるようなことをしてはならない」と書いたことから出たものです。朱浮のこのことばは一つの明確な政治原則を提起しています。われわれは、けっしてこれを忘れてはなりません。
みなさんの質問表には、もう一つ、いわゆる摩擦に対処する共産党の態度についての質問があります。卒直にいって、われわれは、たがいに力をすりへらしあうような抗日政党間の摩擦にはあたまから反対します。しかし「もしあまりにも人をあなどり、圧迫をくわえるというように、あくまで横暴な行動をとるなら、それがどの方面からのものであろうと、共産党はかならず厳然たる態度でこれに対処します。その態度とは、相手がこちらを侵してこなければこちらも侵さない、相手が侵してくればこちらもかならず侵す、というものです。しかし、われわれは厳格な自衛の立場に立つものであり、共産党員ならだれであろうと自衛の原則をこえることはゆるされません。
問 華北の摩擦の問題はどうなのでしょうか。
答 あそこの張蔭梧、秦啓栄のお二人は、摩擦の専門家です。張蔭梧は河北省、秦啓栄は山東省でまったく無法のかぎりをつくしており、民族裏切り者の行為とほとんどちがいがありません。かれらは、敵を攻撃していることが少なく、八路軍を攻撃していることが多いのです。たとえば張蔭梧がその部下にあたえた八路軍攻撃の命令など、動かせない証拠がたくさんあります。われわれはそれをすでに蒋委員長のもとにおくりました。
問 新四軍の方には摩擦はありませんか。
答 やはりあります。例の平江虐殺事件②は全国をおどろかせた大事件です。
問 一部には、統一戦線は重要だが、統一ということからすれば辺区政府を廃止すべきだという人があります。この点についてどう考えておられますか。
答 いたるところで、いろいろとでたらめなことがいわれています。辺区の廃止などというのがその一例です。陝西・甘粛・寧夏辺区は民主的な抗日根拠地で、全国でも政治的にもっともすすんだ地域です。廃止する理由など、どこにあるでしょうか。まして、辺区は蒋委員長が早くから承認しているし、国民政府行政院もすでに民国二十六年の冬、正式にそれを採択しているのです。中国はたしかに統一が必要です。しかし、抗戦に統一し、団結に統一し、進歩に統一していくべきです。もしもこれと反対の方向に統一していくなら、中国は滅びてしまいます。
問 統一についての理解がちがっていることから、国民党と共産党の分裂する可能性があるのではないでしょうか。
答 可能性だけについていうなら、団結と分裂のどちらの可能性もあります。それは、国共両党の態度いかん、とりわけ全国人民の態度いかんによってきまることです。協力の方針については、われわれ共産党側は早くから明らかにしていますが、われわれは長期の協力をのぞむばかりでなく、このような協力をたたかいとるために努力するものです。きくところによると、蒋委員長も、国民党中央執行委員会第五回全体会議で、国内問題は武力で解決してはならない、といったそうです。大敵をまえにしているし、国共両党にはこれまでの経験もあるので、おたがいに、ぜひとも長期にわたって協力し、分裂をさけなければなりません。しかし、分裂の可能性を完全になくすには、長期にわたる協力のための政治的保障がなければなりません。それは、最後まで抗戦を堅持することと民主政治を実行することです。もしそうすることができれば、団結をつづけ、分裂をさけることができます。それは両党と全国人民の共同の努力にかかっているし、また、かならずそのように努力しなければなりません。「抗戦を堅持し、投降に反対する」、「団結を堅持し、分裂に反対する」、「進歩を堅持し、後退に反対する」、これはわが党が今年の『七・七宣言』③でかかげた三大政治スローガンです。こうしてこそ、中国は亡国をまぬがれ、敵をたたきだすことができるのであって、これ以外に第二の道はないとおもいます。
〔1〕 中央通信社は国民党の通信社、『掃蕩報』は国民党政府の軍関係の新聞、『新民報』は民族ブルジョア階級を代表する新聞の一つである。
〔2〕 孫中山はその著『建国大綱』のなかで、「建国」の順序を第一「軍政」、第二「訓政」、第三「憲政」というように三つの時期にわけた。蒋介石をかしらとする国民党反動派は、反革命の独裁を実施し、人民のすべての自由を剥奪する口実に、長いあいだ、孫中山のこの「軍政」、「訓政」という説を利用した。
〔3〕 一九二四年冬、第二次直(河北省の旧名――訳者)奉(遼寧省の旧名――訳者)戦争のとき、もと直隷系の馮玉祥か前線をはなれ、軍をひきいて北京に帰り、そのため、直隷系の軍閥呉佩孚はたおれた。憑玉祥は孫中山の北京入りを電報で要請した。孫中山は、十一月十二日、これにこたえて北上した。広州をはなれる二日まえ、孫中山は『北上宣言』を発表して、帝国主義と軍閥に反対するという主張をかさねてあきらかにし、国家の方針を解決するため国民会議を招集するようよびかけた。この宣言は全国人民から歓迎された。
① 『新中華報』は、一九三七年一月二十九日、前身の『赤色中華』を改称して、陝西・甘粛・寧夏辺区政府の機関紙となり、一九三九年二月七日、中国共産党中央の機関紙に変わったが、一九四一年五月、『解放日報』の創刊によって停刊となった。
② 本巻の『反動派を制裁せよ』注〔1〕を参照。
③ 『七・七宜言』とは、中国共産党中央委員会が一九三九年七月七日に発表した『抗戦二周年を記念するための時局にたいする宣言』である。宣言は、当時の中国の内外の情勢を分析するとともに、国民党反動派が日本侵略者の投降勧誘とイギリス、アメリカ帝国主義の投降勧告のもとで投降と分裂の策動に拍車をかけ、抗戦の情勢のなかで中途での妥協と内部の分裂という重大な危険をもたらしたことを指摘している。宣言では、「最後まで抗戦を堅持し、中途での妥協に反対せよ。国内の団結を強固にし、内部の分裂に反対せよ。全国の進歩に尽力し、後退に反対せよ」とよびかけている。
(一九三九年九月二十八日)
偉大な十月社会主義革命の二二周年記念日をまぢかにひかえて、中ソ文化協会から文章を書くように求められた。わたしは、自分の観察にもとづいて、ソ連と中国のどちらにも関係のあるいくつかの問題を説明しようとおもう。というのは、これらの問題がいま中国の広範な人民のあいだで論議されており、まだはっきりした結論をえていないようにみえるからである。こうしたときに、これらの問題についていくらか意見をのべ、欧州大戦と中ソ関係に関心をもつ人びとの参考にしてもらうのも、無益ではないとおもう。
一部の人はつぎのようにいっている。ソ連は世界大戦の勃発によって有利になるので、世界平和の存続を求めていない。こんどの大戦の勃発は、ソ連がイギリス、フランスと相互援助条約を締結しないで、ドイツと相互不可侵条約を締結したことによって促されたものだ、と。わたしは、このような意見は正しくないとおもう。なぜなら、これまで長いあいだ、ソ連の対外政策は一貫して、ソ連の利益を世界人類の大多数の利益と結びつけた平和政策であったからである。これまで、ソ連は、自己の社会主義建設のために平和を必要とし、反ソ戦争のおこらないよう世界各国との平和関係を強化することを必要としたばかりでなく、世界的範囲での平和をたたかいとるため、ファシスト諸国の侵略を阻止し、いわゆる民主主義諸国の戦争挑発行為を阻止し、帝国主義世界大戦の勃発をできるだけひきのばすことをも必要としてきた。長年のあいだ、ソ連は世界の平和事業にたいして大きな努力をはらってきた。たとえば、ソ連は国際連盟に加盟したし〔1〕、フランスとも、チェコスロバキアとも相互援助協定を締結したし〔2〕、イギリスおよび平和をねがうすべての国ぐにとも、極力、安全保障の条約を締結しようとした。ドイツとイタリアが連合してスペインを侵略し、イギリス、アメリカ、フランスが名目上は「不干渉」といいながら、実際にはドイツとイタリアの侵略を放任する政策をとったとき、ソ連は、ドイツ、イタリアに反抗するスペイン政府軍を積極的に援助し、イギリス、アメリカ、フランスの「不干渉」政策に反対した。日本が中国を侵略し、イギリス、アメリカ、フランスがおなじような「不干渉」政策をとったとき、ソ連は、中国と相互不可侵条約を締結したばかりでなく、中国の抗日を積極的に援助した。イギリス、フランス両国がオーストリアとチェコスロバキアを犠牲にしてヒトラーの侵略を容認したとき、ソ連は、ミュンヘン政策の内幕を極力暴露し、イギリス、フランスにたいして、侵略のいっそうの拡大を阻止するよう提案した。ことしの春から夏にかけて、ポーランド問題が緊迫し、世界大戦がすぐにも勃発しそうになったとき、チェンバレン、ダラディエになんら誠意がなかったにもかかわらず、ソ連は大戦の勃発を阻止するため、イギリス・フランス・ソ連相互援助条約を締結しようとして、やはりイギリス、フランスと四ヵ月あまりの交渉をおこなったのである。遺憾ながら、これらすべてがイギリス、フランス政府の帝国主義政策、つまり戦争容認、戦争挑発、戦争拡大の政策によってさまたげられたため、世界の平和事業は最後的に挫折し、帝国主義の世界大戦はついに勃発した。イギリス、アメリカ、フランスの各国政府には大戦の勃発を阻止する誠意がなく、逆に、かれらが大戦の勃発を促したのである。かれらがソ連と妥協するのを拒否し、ソ連とのあいだに、平等互恵を基礎にした真に有効な相互援助条約を締結するのを拒否したことは、かれらが平和をのぞまず、戦争だけをのぞんでいることを立証している。周知のように、現在の世界で、ソ連を拒否することは、平和を拒否することである。この点は、イギリスのロイド・ジョージというブルジョア階級の代表的人物でさえ知っている〔3〕。このような状態のもとで、このようなときに、ドイツは反ソを停止し、「防共協定」を放棄し、ソ連国境の不可侵を認める意向があったので、ソ連・ドイツ相互不可侵条約が締結されたのである。イギリス、アメリカ、フランスの計画は、ドイツをうごかしてソ連を進攻させ、かれら自身は、ソ連とドイツをへとへとになるまで戦わせ、「山上に坐して相うつ虎の倒るるを待ち」、時局収拾にのりだすことであった。こうした陰謀はソ連・ドイツ相互不可侵条約によってうちやぶられた。人びとがこうした陰謀に注意せず、イギリス、フランス帝国主義の戦争容認、戦争挑発および世界大戦の勃発促進の陰謀に注意しないのは、まったく、これらの陰謀家の言葉たくみな宣伝にのったものである。これらの陰謀家は、スペイン問題でも、中国問題でも、オーストリアとチェコスロバキアの問題でも、侵略を阻止する意思がすこしもなかったばかりか、逆に、侵略を容認し、戦争を挑発し、他人をシギとハマグリにして、自分は漁夫になろうとしたのであり、それをいかにも聞こえよく「不干渉」といっているのであるが、実際には「山上に坐して相うつ虎の倒るるを待つ」ものであった。世界の多くの人は、チェンバレンやその仲間たちの甘い演説にまどわされて、かれらの笑顔のかげにかくされている剣のおそろしさを知らないでいるし、また、チェンバレン、ダラディエがソ連を拒否する決意をし、帝国主義戦争をする決意をしたときにはじめてソ連がドイツと相互不可侵条約を結んだのだということを知らないでいる。いまは、これらの人びとも目ざめるべきである。ソ連がこのように最後の一瞬まで世界平和を維持しつづけたということは、ソ連の利益が人類の大多数の利益と一致していることのあらわれである。これがわたしのいおうとする第一の問題である。
一部の人は、第二次帝国主義世界大戦が勃発した以上、ソ連は戦争の一方の側に参加するかもしれないといっている、つまりソビエト赤軍がもうすぐドイツ帝国主義側の戦線に参加するかのようにいっている。わたしは、このような意見は正しくないとおもう。いま勃発している戦争は、イギリス、フランス側からいっても、ドイツ側からいっても、不正義の、略奪的な、帝国主義の戦争である。世界各国の共産党、世界各国の人民は、みな立ちあがってこの戦争に反対すべきであり、戦争する双方の帝国主義的性質、すなわち世界の人民にとって害こそあれ利益はすこしもないというこの性質を暴露すべきであり、帝国主義戦争を支持してプロレタリア階級の利益を裏切っている社会民主主義政党の犯罪行為を暴露すべきである。ソ連は、社会主義国であり、共産党が政権をにぎっている国であるから、戦争にたいして、つぎのようなはっきりした二つの態度をとるのは当然である。(1)不正義の、略奪的な、帝国主義の戦争には断じて参加せず、戦争する双方にたいして厳正中立をまもる。したがって、ソビエト赤軍はけっして無原則的に帝国主義戦線に参加することはありえない。(2)正義の、非略奪的な、解放のための戦争を積極的に援助する。たとえば十三年まえには中国人民の北伐戦争を援助したし、一年まえにはドイツ、イタリアに抵抗するスペイン人民の戦争を援助したし、ここ二年らいは中国人民の抗日戦争を援助し、ここ数ヵ月らいはモンゴル人民の抗日戦争を援助している。さらに、将来も、その他の国家、その他の民族におこりうる人民解放の戦争および民族解放の戦争をかならず援助し、平和擁護に有利な戦争をかならず援助するにちがいない。この点については、ソ連の過去二十二年間の歴史がすでに証明しているし、今後の歴史もひきつづき証明するであろう。一部の人は、ソ連が、ソ連・ドイツ通商協定にもとづいてドイツと商取引をしているのを、ドイツ側の戦線に参加する行動だとみているが、これは通商と参戦を混同したためで、このような意見も正しくない。通商と参戦を混同してはならないばかりでなく、通商と援助も混同してはならない。たとえばスペイン戦争中、ソ連はドイツ、イタリア両国と通商していたが、人びとはソ連がドイツ、イタリアのスペイン侵略を援助したとはいわないで、ソ連がドイツ、イタリアの侵略にたいするスペインの抵抗を援助したといっている。これは、ソ連がたしかにスペインを援助したからである。また中日戦争中、ソ連はやはり日本と通商しているが、人びとはソ連が日本の中国侵略を援助しているといわないで、ソ連が日本の侵略にたいする中国の抵抗を援助しているといっている。これはソ連がたしかに中国を援助しているからである。現在、世界大戦をおこなっている双方は、みなソ連と通商関係をもっているが、こうした事実は、双方のいずれにたいしても援助とはいえないし、参戦とはなおさらいえない。戦争の性質が変化し、ある一国もしくはある数ヵ国の戦争が一定の必要な変化をへて、ソ連と世界人民に有利になったときはじめて、援助または参戦の可能性があるのであって、そうでなければこの可能性はない。交戦諸国のソ連にたいする態度が親ソ的であるか反ソ的であるかのちかいによって、ソ連のそれら諸国にたいする通商には、どうしても貿易額や取り扱いに差がつくことになるが、これは交戦諸国自身の態度の問題であって、ソ連側の問題ではない。しかし、たとえある一国またはある数ヵ国が反ソ的な態度をとったとしても、八月二十三日以前のドイツのように、かれらが、ソ連にたいして宣戦するのではなくて、外交関係を維持し、通商条約を結ぶことをのぞむかぎり、ソ連もまたかれらと通商関係を断絶するようなことはない。このような通商関係は援助ではないし、なおさら参戦ではない。これははっきり認識すべきである。これがわたしのいおうとする第二の問題である。
ソ連がポーランドに出兵した〔4〕問題で、わが国の多くの人びとはとまどっている。ポーランド問題は、ドイツの側、イギリス、フランスの側、ポーランド政府の側、ポーランド人民の側、およびソ連の側のいくつかの面にわけてみるべきである。ドイツの側についてみると、それはポーランド人民を略奪するために戦争しているのであり、イギリス、フランス帝国主義戦線の一翼をうちやぶるために戦争しているのである。この戦争の性質は、帝国主義的であり、反対すべきであって、賛同することはできない。イギリス、フランスの側についてみると、それはポーランドをイギリス、フランス金融資本の略奪の対象の一つにしており、かれらの贓品が世界的範囲でドイツ帝国主義に再分配されるのを拒否するためにポーランドを利用しているのであり、ポーランドを自己の帝国主義戦線の一翼とみなしている。したがって、イギリス、フランスのすすめている戦争は帝国主義戦争であり、イギリス、フランスのいわゆるポーランド援助とはポーランドにたいする支配権をドイツとあらそっているにすぎず、これも同様に反対すべきであって、賛同することはできない。ポーランド政府の側についてみると、それはファシスト政府であり、ポーランドの地主・ブルジョア階級の反動政府であって、労働者、農民を苛酷に搾取し、ポーランドの民主主義者を抑圧している。それはまた、ポーランド民族以外の多くの少数民族にたいし、すなわちウクライナ人、白ロシア人、ユダヤ人、ゲルマン人、リトワニア人など千余万の人口をもつ非ポーランド民族にたいして、残酷な民族的抑圧をおこなっているから、大ポーランド主義の政府である。この政府はそれ自身が帝国主義の政府である。こんどの戦争では、ポーランド反動政府は、甘んじてポーランド人民をイギリス、フランス金融資本の肉弾としてかりたて、みずからは甘んじて国際金融資本の反動戦線の一構成部分となっている。ここ二十年らい、ポーランド政府は、一貫してソ連に反対しており、イギリス、フランス、ソ連の交渉にあたっては、ソ連の軍隊の援助をかたくなに拒否した。しかも、この政府はきわめて無能な政府で、百五十万以上の大軍をもちながら、一撃にもたえきれず、わずか二週間のうちに、自国を葬ってしまい、ポーランド人民をドイツ帝国主義にふみにじらせることになった。これらすべては、ポーランド政府のこのうえなく大きな罪悪であって、われわれがこのような政府に賛同するなら、それはまちがいである。ポーランド人民の側についてみると、かれらは犠牲者であり、ドイツ・ファシストの抑圧に反対し、自国の反動的な地主・ブルジョア階級に反対して、独立、自由のポーランド民主国家を樹立するために立ちあがるべきである。われわれがポーランド人民の側に賛同すべきであることは、疑う余地がない。ソ連の側についてみると、それは完全に正義の行動をとっている。当時、ソ連が直面していたのはつぎの二つの問題であった。第一の問題は、全ポーランドをドイツ帝国主義の支配下におくか、それとも東部ポーランドの少数民族に解放をもたちすかということであった。この問題では、ソ連はあとの道をえらんだ。白ロシア民族とウクライナ民族の居住する広大な地域は、一九一八年のブレスト条約締結のとき、すでに当時のドイツ帝国主義によって、幼年のソ連の手からむりにもぎとられ、その後また、ベルサイユ条約によってむりやりにポーランド反動政府の支配下におかれた。いま、ソ連は過去にうしなった土地をとりかえし、抑圧されている白ロシア民族とウクライナ民族を解放するとともに、かれらにドイツの抑圧をうけさせないようにしたまでである。ここ数日らいの外電は、これらの少数民族がどのようによろこんで赤軍をむかえ、赤軍を自分たちの救いの星とみているかを明らかにしている。ところが、ドイツ軍の占領している西部ポーランド地方、フランス軍の占領している西部ドイツ地方には、このようなニュースはすこしもない。このことは、ソ連の戦争が正義の、非略奪的な、解放のための戦争であり、弱小民族の解放を援助し、人民の解放を援助する戦争であること、ドイツの戦争、イギリス・フランスの戦争は、みな、不正義の、略奪的な、帝国主義の戦争であり、他国の民族を抑圧し、他国の人民を抑圧する戦争であることをあらわしている。ソ連はこのほかにも、第二の問題に直面していたが、それは、チェンバレンが反ソのふるい政策を続けようとしていたことである。チェンバレンの政策は、一方では、ドイツの西側を大がかりに封鎖して、ドイツの西部を圧迫することであり、他方では、ドイツを孤立させるため、アメリカと連合し、イタリアを買収し、日本を買収し、北欧諸国を買収して、自分の側につけることであり、さらにもう一方では、ドイツを誘惑するため、ポーランドを贈り物にし、ハンガリーやルーマニアさえも贈り物にしようとしていることである。要するに、脅迫、誘惑などさまざまな方法をつかって、ソ連・ドイツ相互不可侵条約の放棄をドイツにうながし、銃口の向きをかえて、ソ連を攻撃させようとしているのである。このような陰謀は、過去と現在に存在しているばかりでなく、将来もつづけられるにちがいない。ソ連の大軍がポーランドの東部に進出したのは、自己の国土を奪回し、弱小民族を解放するためであったし、同時にまた、ドイツ侵略勢力の東への拡張を阻止して、チェンバレンの陰謀をうちやぶるための具体的な段どりでもあった。この数日らいのニュースからみると、ソ連のこの方針はきわめて大きな成功をおさめている。このことは、ソ連の利益が世界人類の大多数の利益と一致しており、ポーランド反動支配下の被抑圧人民の利益と一致していることの具体的なあらわれである。これがわたしのいおうとする第三の問題である。
ソ連・ドイツ相互不可侵条約締結後の全般的情勢は、日本に大きな打撃をあたえ、中国に援助をあたえ、中国の抗戦派の地位をつよめ、投降派に打撃をあたえた。中国人民がこの協定を歓迎していることは正しい。だが、ノモンハン停戦協定〔5〕が締結されたのち、イギリス、アメリカの通信社から、日ソ相互不可侵条約がまもなく締結されるだろうというニュースがさかんにつたわってくると、中国人民のあいだにはある種の憂慮がうまれ、一部の人は、ソ連は中国を援助しなくなるのではないかと考えるようになった。わたしは、このような観察は正しくないとおもう。ノモンハン停戦協定の性質は、過去の張高峰停戦協定〔6〕とおなじである。つまり、日本の軍閥が膝を屈して、ソ連およびモンゴルの国境の不可侵を認めたものである。このような停戦協定によって、ソ連の中国にたいする援助は、ふえる可能性はあっても、減ることはない。いわゆる日ソ相互不可侵条約についていうと、何年もまえに、ソ連は日本にその締結を要求していたが、日本は終始これを拒否してきた。いま、日本の支配階級内の一派は、ソ連にこの条約の締結を要求しているが、ソ連がそれをのぞむかどうかは、この条約がソ連の利益および世界人類の大多数の利益に合致するかどうかという基本原則によってきまる。具体的にいうと、この条約が中国の民族解放戦争の利益と衝突しないかどうかにかかっているのである。わたしのみるところでは、今年の三月十日のソ連共産党第十八回大会におけるスターリンの報告によっても、今年の五月三十日のソ連最高会議におけるモロトフの演説によっても、ソ連がこの基本原則を変更するはずはない。たとえ、日ソ相互不可侵条約が締結される可能性があっても、ソ連は、けっして条約のなかで自己の中国援助の行動を拘束するようなことはありえない。ソ連の利益と中国の民族解放の利益は、けっして衝突するものではなく、永久に一致するものである。この点、ぜったいに疑問はないとおもう。反ソ的な偏見をもっている一部の人は、ノモンハン停戦協定の締結と日ソ相互不可侵条約のうわさとを利用して、風波をたたせ、中ソ二大民族間の感情に水をさしている。こうしたことは、イギリス、アメリカ、フランスの陰謀家のあいだにも、中国の投降派のあいだにも存在しているが、これは重大な危険であり、その内幕を徹底的に暴露すべきである。きわめて明らかなように、中国の外交政策は抗日の外交政策でなければならない。この政策は、自力更生を主とするが、同時に獲得できるすべての外国の援助も放棄するものではない。外国の援助というのは、帝国主義世界大戦が勃発している状況のもとでは、主としてつぎの三方面からのものである。(1)社会主義のソ連、(2)世界の資本主義諸国の人民、(3)世界の植民地、半植民地の被抑圧民族。これらだけが信頼できる援助者である。このほかのいわゆる外国の援助は、たとえありうるとしても、部分的、一時的なものとしかみなされない。もちろん、これらの部分的、一時的な外国の援助も獲得すべきではあるが、けっして、それにたよりすぎてはならないし、信頼できる援助とみなしてはならない。帝国主義戦争の交戦諸国にたいしては、中国はいずれの一方にも参加しないで、厳正中立をまもるべきである。中国はイギリス、フランスの帝国主義側の戦線に参加すべきだとする意見は、投降派の意見であり、抗日にとっても、中華民族の独立と解放にとっても不利な意見であって、あたまから拒否すべきものである。これがわたしのいおうとする第四の問題である。
以上にのべたこれらの問題は、人びとがいまさかんに論議している問題である。人びとは、国際問題の研究に注意をはらい、帝国主義世界大戦と中国の抗日戦争との関係に注意をはらい、ソ連と中国との関係に注意をはらっているが、その目的は中国の抗日を勝利させるためであって、これはよい現象である。わたしはいま、以上にのべたそれぞれの問題についていくつかの基本的観点を提起したが、これが当をえているかどうかは、読者のご教示をあおぎたい。
〔1〕 国際連盟は第一次世界大戦後、イギリス、フランス、日本などの帝国主義者が、世界分割の協議と相互間の矛盾の一時的調節のためにもうけた組織である。日本帝国主義は一九三一年に中国の東北地方を占領したのち、侵略行動を拡大する便宜上から、一九三三年には国際連盟の脱退を宣言した。ドイツのファシスト政党は一九三三年に政権をにぎると、侵略戦争を準備する便宜上から、これも国際連盟から脱退した。ファシスト侵略戦争の脅威が日ましに大きくなったこうした時期の一九三四年に、ソ連は国際連盟に加入した。それによって国際連盟は、帝国主義間で世界分割を協議する道具から、平和にとって有利になりうる道具に変わった。一九三五年、イタリアはエチオピアを侵略し、これも国際連盟から脱退した。
〔2〕 ソ連・フランスとソ連・チェコスロバキアの二つの相互援助協定は、いずれも一九三五年に締結された。
〔3〕 ロイド・ジョージは、イギリスブルジョア階級の自由党の指導者の一人であった。イギリス、フランス、ソ連が交渉していたとき、かれは議会で、「ソ連の提案を拒否することは、平和を拒否することにひとしい」と言明したことがある。
〔4〕 一九三九年九月一日、ドイツは出兵してポーランドに侵入し、ポーランド国土の大部分を占領した。十七日、ポーランド反動政府は国外に逃亡した。ソ連は自己の領土を奪回し、抑圧されていたウクライナ民族と白ロシア民族を解放するため、またドイツ・ファシストの東への侵入を防止するため、九月十七日、ポーランド東部に出兵した。
〔5〕 日本・「満州国」(かいらい満州国)軍は、一九三九年五月から、「満州国」・モンゴル境界のノモンハン地方で、ソ連とモンゴル人民共和国の軍隊への進攻を開始した。ソ連とモンゴル軍の勇敢な自衛によって、日本・「満州国」軍は惨敗を喫し、ソ連に停戦を求めた。九月、ノモンハン停戦協定がモスクワで調印された。そのおもな内容はつぎのとおりである。一、双方はただちに停戦すること。二、日本・「満州国」とソ連・モンゴルの双方は、それぞれの代表二名からなる委員会を組織Lて、衝突のおこった地帯の「満州国」・モンゴルの境界線を調査確定すること。
〔6〕 一九三八年七月末から八月はじめにかけて、日本軍は中国、ソ連、朝鮮の国境にある張高峰地方で、ソ連軍に挑発した。ソ連軍の力づよい反撃にあって、日本は失敗し、停戦を求めた。八月十一日、モスクワで張高峰停戦協定が調印され、双方はただちに停戦すること、双方の境界線の最終的画定は、ソ連代表二名と日本・「満州国」代表二名からなる混成委員会を組織して、調査、処理することを規定した。
(一九三九年十月四日)
党中央は早くから党内刊行物の発行を計画していたが、こんどそれが実現されることになった。全国的範囲の、ひろい大衆性のある、思想的、政治的、組織的に完全に強固な、ボリシェビキ化された中国共産党を建設するためには、このような刊行物が必要である。いまの時点において、その必要性は、いっそう明らかである。いまの時点の特徴は、一方では、抗日民族統一戦線内での投降の危険、分裂の危険、後退の危険が日ましに増大していること、他方では、わが党がすでに狭いわくからぬけだして、全国的な大きな党になったことである。党の任務は、投降の危険、分裂の危険、後退の危険を克服するよう、大衆を動員するとともに、おこりうる突発事件のなかで党と革命に予期しない損害をこうむらせないように、そうした突発事件にそなえることである。このような時点に、このような党内刊行物を発行することは、ぜひとも必要である。
この党内刊行物は『共産党人』と名づけられる。その任務はなにか。どういうものが掲載されるのか。党のほかの機関紙とどうちがうのか。
その任務とは、全国的範囲の、ひろい大衆性のある、思想的、政治的、組織的に完全に強固な、ボリシェビキ化された中国共産党の建設をたすけることである。中国革命の勝利のためにはこのような党を建設することがさしせまって必要であるが、このような党を建設する主観的客観的条件も、すでにだいたいそなわっているし、この偉大な建設工事もげんに進行中である。この偉大な工事の進行をたすける任務は、一般の党機関紙がにないうるものではなく、どうしても専門の党機関紙がなければならない。これが『共産党人』発行の理由である。
わが党は、ある程度からいって、すでに全国的な党になっており、また大衆的な党になっている。しかも、指導の骨幹についてみても、一部の党員についてみても、総路線についてみても、革命の活動についてみても、すでに思想的、政治的、組織的に強固な、ボリシェビキ化された党になっている。
それでは、いま新しい任務を提起する理由はどこにあるのか。
その理由はつぎの諸点にある。すなわち、現在、われわれはたくさんの新しい党員からなる多くの新しい組織をもっているが、これらの新しい組織は、まだひろい大衆性をもったものとはいえず、まだ思想的、政治的、組織的に強固なものではなく、まだボリシェビキ化されてはいない。同時に、ふるい党員についても、その水準をたかめるという問題がうまれており、ふるい組織についても、思想的、政治的、組織的にこれをもっと強固にし、もっとボリシェビキ化するという問題がうまれている。党のおかれている環境と党のになっている任務は、現在では過去の国内革命戦争の時期と大いにちがっており、現在の環境ははるかに複雑で、現在の任務ははるかに困難なものである。
現在は民族統一戦線の時期であり、われわれはブルジョア階級と統一戦線をうちたてている。現在は抗日戦争の時期であり、わが党の武装力は、前線で友軍と呼応して、敵と苛烈な戦争をおこなっている。現在はわが党が全国的な大きな党に発展している時期であり、党はもう以前のようなものではない。これらの状況を結びつけてみるならば、われわれの提起した「全国的範囲の、ひろい大衆性のある、思想的、政治的、組織的に完全に強固な、ボリシェビキ化された中国共産党を建設する」ということが、いかに光栄な、しかも重大な任務であるかがわかるであろう。
われわれは、いまそのような党を建設しようとしているが、いったい、どのようにそれをすすめるべきであろうか。この問題の解決は、わが党の歴史、わが党の十八年にわたる闘争の歴史と切りはなすことができない。
わが党の歴史は、一九二一年の第一回全国代表大会のときから、こんにちまですでにまる十八年になる。この十八年のあいだに、党はかずかずの偉大な闘争をへてきた。党員、党の幹部、党の組織は、それらの偉大な闘争のなかで、みずからをきたえてきた。かれらは、偉大な革命の勝利をへてきたし、重大な革命の失敗もへてきた。ブルジョア階級と民族統一戦線をうちたてたこともあるし、また、この統一戦線の決裂によって、大ブルジョア階級およびその同盟者ときびしい武装闘争をおこなったこともある。最近の三年間は、またブルジョア階級との民族統一戦線結成の時期におかれている。このように、中国革命と中国共産党は、中国ブルジョア階級との複雑な関係のなかで、その発展の道をたどってきたのである。これは一つの歴史的特徴であって、いかなる資本主義国の革命の歴史にもみられない、植民地・半植民地の革命の過程における特徴である。さらに、中国は半植民地・半封建の国であり、政治、経済、文化の各方面の発展の不均等な国であり、半封建的経済が優位をしめ、しかも広大な国土をもつ国であって、このことが、中国の現段階の革命の性質はブルジョア民主主義革命であり、革命の主要な対象は帝国主義と封建主義であり、革命の基本的な原動力はプロレタリア階級、農民階級および都市小ブルジョア階級であり、そして一定の時期に、一定の程度において民族ブルジョア階級もそれに参加することを規定するばかりでなく、中国の革命闘争の主要な形態は武装闘争であることを規定している。わが党の歴史は、ほかでもなく武装闘争の歴史であるといえる。スターリン同志はいっている。「中国では、武装した革命が武装した反革命とたたかっている。これは、中国革命の特徴の一つであり、その長所の一つでもある。」〔1〕この指摘はきわめて正しい。この時徴、この半植民地の中国の特徴は、やはり、資本主義諸国の共産党が指導する革命の歴史にはみられないか、あるいはそれらの国とはちがったものである。したがって、(一)プロレタリア階級がブルジョア階級と革命の民族統一戦線をうちたてるか、あるいはそうした統一戦線の分裂をよぎなくされること、(二)革命の主要な形態が武装闘争であること――これが中国ブルジョア民主主義革命の過程における二つの基本的特徴となっている。ここではわれわれは、党と農民階級、党と都市小ブルジョア階級との関係を基本的特徴としてはいないが、それは、第一に、このような関係は世界各国の共産党にとって原則的にはおなじであり、第二に、中国では、武装闘争といえばそれは実質的には農民戦争であり、党と農民戦争との密接な関係は、とりもなおざず党と農民との関係だからである。
この二つの基本的特徴から、そしてまさにこれらの基本的特徴からして、わが党の建設過程、わが党のボリシェビキ化の過程は、特殊な状況におかれている。党の失敗と勝利、党の後退と前進、党の縮小と拡大、党の発展と強化は、いずれも党とブルジョア階級との関係ならびに党と武装闘争との関係につながらざるをえない。わが党の政治路線が、ブルジョア階級と統一戦線をうちたてるか、あるいは統一戦線の分裂をよぎなくされるという問題を正しく処理したばあいには、わが党の発展、強化およびボリシェビキ化は一歩前進するが、ブルジョア階級との関係を正しく処理しないばあいには、わが党の発展、強化およびボリシェビキ化は一歩後退する。同様に、わが党が革命の武装闘争の問題を正しく処理したばあいには、わが党の発展、強化およびボリシェビキ化は一歩前進するが、この問題を正しく処理しないばあいには、わが党の発展、強化およびボリシェビキ化は一歩後退する。十八年らいの党の建設過程、党のボリシェビキ化の過程は、このように党の政治路線と密接につながっており、党が統一戦線の問題や武装闘争の問題を正しく処理したか、正しく処理しなかったかということと密接につながっている。この断定は、すでに十八年間の党の歴史によってはっきりと証明されている。逆にいえば、党がよりいっそうボリシェピキ化したとき、またそのときにこそ、党はより正しく党の政治路線を処理し、より正しく統一戦線の問題と武装闘争の問題を処理することができるのである。この断定も、十八年らいの党の歴史によってはっきりと証明されている。
したがって、統一戦線の問題、武装闘争の問題、党建設の問題は、中国革命におけるわが党の三つの基本問題である。この三つの問題とその相互関係を正しく理解したら、中国革命の全体を正しく指導したことになる。十八年間の党の歴史を通じて、われわれの豊富な経験、つまり失敗と成功、後退と前進、縮小と発展についての深刻な、豊富な経験によって、われわれはすでに、この三つの問題について正しい結論をくだせるようになった。すなわち、われわれはすでに、統一戦線の問題を正しく処理し、また武装闘争の問題を正しく処理し、さらに党建設の問題を正しく処理することができるようになった。つまり十八年間の経験を通じて、われわれは統一戦線、武装闘争、党建設が、中国革命において中国共産党が敵にうち勝つための三つの宝――三つの主要な宝であることを知った。これは中国共産党の偉大な成果であるとともに、中国革命の偉大な成果でもある。
ここで、この三つの宝、三つの問題について、それぞれおおまかにのべてみよう。
十八年のあいだに、中国のプロレタリア階級と中国のブルジョア階級やその他の階級との統一戦線は、一九二四年から一九二七年までの第一次大革命の段階、一九二七年から一九三七年までの土地革命戦争の段階、およびこんにちの抗日戦争の段階という三つのちがった状況、三つのちがった段階をへて発展してきている。この三つの段階の歴史は、つぎのような法則を証明している。(一)中国のうけている最大の抑圧が民族的抑圧であることから、中国の民族ブルジョア階級は、一定の時期に、一定の程度において、反帝国主義および反封建軍閥の闘争に参加することができる。したがって、プロレタリア階級は、この一定の時期には民族ブルジョア階級と統一戦線をうちたて、しかもできるだけそれを維持すべきである。(二)また、中国の民族ブルジョア階級は、その経済的、政治的な軟弱性のために、他の歴史的環境のもとでは、動揺し変節する。したがって、中国革命の統一戦線の内容は終始同一のものではありえず、変化するものである。ある時期には、民族ブルジョア階級がそれに参加するが、他の時期には民族ブルジョア階級はそれに参加はしない。(三)買弁性をおびた中国の大ブルジョア階級は、直接帝国主義に奉仕するとともに、かれらに養われている階級である。したがって、買弁性をおびた中国の大ブルジョア階級は従来から革命の対象であった。ところが、買弁性をおびた中国の大ブルジョア階級の各集団は、それそれちがった帝国主義を背景にしているので、各帝国主義間の矛盾が先鋭化したばあい、革命のほこさきが主としてある一つの帝国主義にむけられたばあい、他の帝国主義の系統に属する大ブルジョア階級の集団が、一定の程度、一定の時期、ある一つの帝国主義に反対する闘争に参加する可能性もある。このような一定の時期には中国のプロレタリア階級は、敵をよわめ、自己の予備勢力を強めるために、そのような大ブルジョア階級の集団と可能な統一戦線をうちたててよいし、また革命に有利であることを条件として、できるだけそれを維持する。(四)買弁的な大ブルジョア階級は、統一戦線に参加し、プロレタリア階級といっしょに共同の敵とたたかっているときでも、やはり非常に反動的である。かれらは、プロレタリア階級とその政党の思想的、政治的、組織的発展にあくまで反対し、それに制限をくわえ、欺瞞、誘惑、「溶解」、打撃などといった破壊政策をとるとともに、それらの破壊政策によって敵に投降し、統一戦線を分裂させる用意をする。(五)プロレタリア階級のゆるぎない同盟者は農民である。(六)都市の小ブルジョア階級もまた信頼しうる同盟者である。以上の法則の正しさは、第一次大革命の時期と土地革命の時期に証明されたばかりでなく、現在の抗日戦争のなかでも証明されつつある。したがって、プロレタリア階級の党はブルジョア階級(とくに大ブルジョア階級)と統一戦線を結成する問題では、二つの戦線での断固とした、厳然たる闘争をおこなわなければならない。一方では、ブルジョア階級が一定の時期、一定の程度において、革命闘争に参加する可能性のあることを無視するというあやまりに反対しなければならない。このようなあやまりは、中国のブルジョア階級を資本主義国のブルジョア階級とおなじものとみなし、このため、ブルジョア階級と統一戦線をうちたて、この統一戦線をできるだけ維持するという政策を無視するもので、これが「左」翼閉鎖主義である。他方では、プロレタリア階級の綱領、政策、思想、実践などをブルジョア階級のそれとおなじものとみなし、そのあいだの原則的な差異を無視するというあやまりに反対しなければならない。このようなあやまりは、ブルジョア階級(とくに大ブルジョア階級)が、小ブルジョア階級および農民に影響をあたえるばかりでなく、プロレタリア階級と共産党にも影響をあたえようとつとめ、プロレタリア階級と共産党の思想的、政治的、組織的独自性をおしつぶし、プロレタリア階級と共産党をブルジョア階級とその政党の付属物にかえ、革命の成果をブルジョア階級の一党一派のものにしようとやっきになっている事実を無視すること、また、ブルジョア階級(とくに大ブルジョア階級)は革命がその一党一派の利益と衝突するようになると、革命を裏切るという事実を無視することにある。この面を無視するならば、それは右翼日和見主義である。過去の陳独秀の右翼日和見主義の特徴は、プロレタリア階級をブルジョア階級の一党一派の利益に適応させるようにみちびいたことであって、これが第一次大革命を失敗させた主体的な原因でもあった。ブルジョア民主主義革命における中国ブルジョア階級のこのような二重性が中国共産党の政治路線と党建設にあたえた影響はきわめて大きく、中国ブルジョア階級のこのような二重性を理解しなければ、中国共産党の政治路線と党建設を理解することはできない。中国共産党の政治路線の重要な部分は、つまりブルジョア階級と連合し、またこれと闘争するという政治路線である。中国共産党の党建設の重要な部分は、つまりブルジョア階級と連合し、またこれと闘争するなかで発展し、きたえあげられてきたのである。ここでいう連合とは、ブルジョア階級との統一戦線のことである。闘争とは、ブルジョア階級と連合しているときには、思想的、政治的、組織的におこなう「平和的」な「血を流さない」闘争のことであり、ブルジョア階級との分裂をよぎなくされたときには、それが武装闘争に転化する。もしわが党が、一定の時期にブルジョア階級と連合することを知らないならば、党は前進することができず、革命は発展することができない。もしわが党が、ブルジョア階級と連合しているときに、同時にブルジョア階級にたいして、断固とした、厳然たる「平和的」闘争をおこなうことを知らないならば、党は思想的、政治的、組織的にくずれさり、革命は失敗するであろう。さらに、もしわが党が、ブルジョア階級との分裂をよぎなくされたときに、ブルジョア階級にたいして、断固とした、厳然たる武装闘争をおこなわないならば、同様に、党はくずれさり、革命も失敗するであろう。これらはすべて過去十八年の歴史のなかで証明されたことである。
中国共産党の武装闘争とは、プロレタリア階級に指導された農民戦争のことである。その歴史も、三つの段階にわけることができる。第一の段階は北伐戦争への参加である。当時、わが党は、すでに武装闘争の重要性がわかりかけてはいたが、まだその重要性を徹底的には理解しておらず、まだ武装闘争が中国革命の主要な闘争形態であることを理解していなかった。第二の段階は土地革命戦争である。当時、わが党は、すでに独自の武装部隊をつくりあげ、独自の戦争の芸術を身につけ、人民政権と根拠地をうちたてた。わが党は、すでに武装闘争というこの主要な闘争形態を、他の多くの必要な闘争形態と直接あるいは間接に呼応させることができるようになった。すなわち武装闘争を、労働者の闘争、農民の闘争(これが主要なものである)、青年、婦人などすべての人民の闘争、権力のための闘争、経済戦線での闘争、奸徒粛清戦線での闘争、思想戦線での闘争などといった闘争形態と、全国的範囲で直接あるいは間接に呼応させたことである。このような武装闘争が、プロレタリア階級に指導された農民の土地革命闘争であった。第三の段階は現在の抗日戦争の段階である。この段階では、われわれは、過去の第一段階、とくに第二段階での武装闘争の経験を活用することができ、武装闘争の形態を他のさまざまな必要な闘争形態とたがいに呼応させる経験を活用することができるようになった。このような武装闘争の全般的概念が、当面においては遊撃戦争である〔2〕。遊撃戦争とはなにか。それは、おくれた国において、半植民地の大国において、人民の武装部隊が武装した敵にうち勝ち、自己の陣地をつくりあげるために、長期にわたって依拠しなければならない、したがって、またもっともよい闘争形態である。これまでわが党の政治路線と党建設は、この闘争形態と緊密なつながりをもってきた。武装闘争をはなれ、遊撃戦争をはなれては、われわれの政治路線を理解することもできないし、われわれの党建設を理解することもできない。われわれの政治路線の重要な部分は武装闘争である。十八年らい、わが党は、しだいに武装闘争を身につけてきたし、またそれを堅持してきた。中国では、武装闘争をはなれては、プロレタリア階級の地位はなく、人民の地位はなく、共産党の地位はなく、革命の勝利はないことをわれわれは理解している。十八年らい、わが党の発展、強化およびボリシェビキ化は、革命戦争のなかですすめられており、武装闘争なしには、こんにちの共産党はありえない。血をもってあがなわれたこの経験を、全党の同志はわすれてはならない。
党建設の過程、党の発展、強化およびボリシェビキ化の過程にも、同じく、三つの段階の特徴がある。第一の段階は党の幼年期である。この段階の初期と中期には、党の路線は正しく、党員大衆と党幹部の革命にたいする積極性は非常に高かったので、第一次大革命の勝利がえられた。しかし、当時の党は、なんといってもまだ幼年の党であって、統一戦線、武装闘争、党建設という三つの基本問題について経験のない党であり、中国の歴史と社会の状況、中国革命の特徴、中国革命の法則についてもあまりわかっていない党であり、マルクス・レーニン主義の理論と中国革命の実践をまだ全体的に、統一的に理解していない党であった。したがって、党の指導機関のなかで支配的地位をしめていた成員は、この段階の末期、この段階の重大な瀬戸ぎわに、革命の勝利をかためるよう全党を指導することができず、ブルジョア階級にだまされて革命を失敗させた。この段階では、党の組織は拡大したが、強固になっておらず、党員と党の幹部を思想的に政治的に確固としたものにすることができなかった。新しい党員は非常に多かったが、必要なマルクス・レーニン主義の教育がほどこされなかった。活動の経験もすくなくはなかったが、それをよく総括することができなかった。党内には大量の投機分子がもぐりこんでいたが、それを一掃していなかった。党は敵や同盟者の陰謀術策の包囲のなかにおかれていたが、警戒心をもたなかった。党内にはたくさんの活動家がうまれたが、それを党の中堅的骨幹にそだてあげる余裕がなかった。党の手中には若干の革命的武装力があったが、それをしっかりにぎることができなかった。これらの状態はすべて、経験がなかったこと、革命にたいするふかい認識に欠けていたこと、マルクス・レーニン主義の理論を中国革命の実践と結びつけるのに未熟であったこと、などによるものである。これが党建設の第一の段階である。第二の段階は、土地革命戦争の段階である。第一段階での経験があったこと、中国の歴史と社会の状況、中国革命の特徴、中国革命の法則についての理解が一歩ふかまったこと、またわれわれの幹部が、マルクス・レーニン主義の理論をいっそう多く身につけ、マルクス・レーニン主義の理論を中国革命の実践と結びつけることをより多く習得したことによって、わが党は、勝利にかがやく十年の土地革命闘争をすすめることができた。ブルジョア階級が裏切ったにもかかわらず、党は農民にしっかり依拠することができた。党の組織はふたたび拡大したばかりでなく、しかも強固になった。敵は毎日のようにわが党を内部から破壊していたが、党はその破壊分子を駆逐した。党内にはふたたびおおぜいの幹部がうまれ、しかも党の中心的骨幹となった。党は人民政権の道をきりひらき、それによって、治国安民の芸術を身につけた。党は堅固な武装部隊をつくりあげ、それによって、戦争の芸術を身につけた。これらのことは、すべて党の大きな進歩であり、大きな成功であった。だが、この偉大な闘争のなかで、一部の同志は、日和見主義のどろ沼におちこんでしまったか、あるいはかつておちこんだことがある。これはやはり、かれらが過去の経験から謙虚に学びとろうとせず、中国の歴史と社会の状況、中国革命の特徴、中国革命の法則がわからず、マルクス・レーニン主義の理論と中国革命の実践を統一的に理解していなかったことからきたものである。このために、党の指導機関の一部の人びとは、この全段階を通じて、正しい政治路線と組織路線をしっかり把握することができなかった。党と革命は、ある時期には、李立三同志の「左」翼日和見主義の危害をこうむり、また他の時期には、革命戦争のなかでの「左」翼日和見主義と白色地区での活動における「左」翼日和見主義の危害をこうむった。遵義会議(一九三五年一月、貴州省の遵義でひらかれた党中央政治局会議)ののちになって、党ははじめて徹底的にポリシェビキ化の道をあゆむようになり、その後張国燾の右翼日和見主義にうち勝ち抗日民族統一戦線をうちたてるための基礎をすえた。これが党の発展過程における第二の段階である。党の発展過程における第三の段階は、抗日民族統一戦線の段階である。この段階はすでに三ヵ年すぎており、この三年間の闘争は非常に偉大な意義をもっている。党は、過去の二つの革命段階における経験、党の組織の力と武装力、全国人民のあいだにおける党の高い政治的な威信をよりどころにし、マルクス・レーニン主義の理論と中国革命の実践をいっそうふかめ、いっそう統一させた党の理解をよりどころにして、抗日民族統一戦線をうちたてたばかりでなく、偉大な抗日戦争をすすめてきた。党の組織はすでに狭いわくからぬけでて全国的な大きな党になった。党の武装力も、日本侵略者との闘争のなかでふたたび強大になり、いっそう堅固なものになってきた。全国人民のあいだにおける党の影響はいっそうひろまった。これらはいずれも偉大な成功である。だが、たくさんの新しい党員はまだ教育をうけておらず、多くの新しい組織はまだ強固になっておらず、ふるい党員、ふるい組織とのあいだにはまだ大きな差がある。たくさんの新しい党員と新しい幹部は、まだ革命の経験が十分でない。かれらは、中国の歴史と社会の状況、中国革命の特徴、中国革命の法則がまだわかっていないか、あるいはあまりわかっていない。そしてマルクス・レーニン主義の理論と中国革命の実践を完全に、統一的に理解するまでにはまだほど遠い。これまで党組織を拡大する活動において、党中央が「大胆に拡大するが、悪質分子は一人ももぐりこませない」というスローガンをつよく提起したにもかかわらず、実際には、多くの投機分子や敵の破壊分子がもぐりこんできた。統一戦線が結成され、しかも三年間も堅持されているが、ブルジョア階級、とくに大ブルジョア階級は、四六時中わが党を破壊しようとたくらんでおり、大ブルジョア階級の投降派と頑迷派のさしずする重大な摩擦闘争①が全国的におこなわれているし、反共のわめきはたえたことがない。大ブルジョア階級の投降派と頑迷派は、またこれによって、日本帝国主義に投降し、統一戦線を分裂させ、中国を後退させる用意をしている。大ブルジョア階級は、思想的には共産主義を「溶解」し、政治的、組織的には共産党を解消し、辺区を解消し、党の武装力を解消しようとたくらんでいる。このような状況のもとで、われわれの任務は疑いもなく、このような投降、分裂、後退の危険を克服し、できるだけ民族統一戦線を維持し、国共合作を維持して抗日、団結、進歩の継続をたたかいとること、それと同時に、おこりうる突発事件のなかで党と革命におもいがけない損害をこうむらせないように、そうした突発事件にそなえることである。この目的を達成するためには、党の組織をかため、党の武装力をかためるとともに、投降、分裂、後退に反対する断固たる闘争をすすめるよう、全国の人民を動員しなければならない。この任務は、全党の努力およびすべての党員、党の幹部、各地各級の党組織の不撓不屈の、ますます力強い闘争に依拠して達成されるのである。十八年間の経験をもつ中国共産党は、経験をつんだふるい党員、ふるい幹部と新鮮な血液をもった、生気はつらつとした新しい党員、新しい幹部との相互協力によって、また荒波にきたえられてきた、ボリシェビキ化された党中央と地方組織との相互協刀によって、またその堅固な武装力と進歩的な人民大衆との相互協力によって、これらの目的を達成できるものとわれわれは信ずる。
以上が、十八年にわたるわが党の主要な歴程と主要な問題である。
十八年間の経験がわれわれに教えているように、統一戦線と武装闘争は敵にうち勝つ二つの基本的な武器である。統一戦線は、武装闘争を実行する統一戦線である。そして党の組織は、統一戦線と武装闘争というこの二つの武器をにぎって敵陣に突入する勇敢な戦士である。これが三者の相互関係である。
こんにち、われわれは、どのようにしてわが党を建設しなければならないか。どのようにすれば、「全国的範囲の、ひろい大衆性のある、思想的、政治的、組織的に完全に強固な、ボリシェビキ化された中国共産党」を建設することができるのか。この問題は、わが党の歴史を考えてみるならば、わかることであり、党建設の問題を統一戦線の問題、武装闘争の問題と結びつけてみるならば、党建設の問題を、ブルジョア階級と連合しまたこれと闘争するという問題、八路軍、新四軍が抗日遊撃戦争を堅持し抗日の根拠地を樹立するという問題と結びつけてみるならば、わかることである。
マルクス・レーニン主義の理論と中国革命の実践との統一という理解にもとづいて、十八年間の経験と当面の新しい経験を集中し、これを全党につたえ、党を鉄のように強固にして、過去におかしたあやまりをくりかえざないこと――これがわれわれの任務である。
〔1〕 スターリンの『中国革命の見通しについて』から引用。
〔2〕 毛沢東同志がここで、中国革命の武装闘争の全般的概念は遊撃戦争である、といっているのは、第二次国内革命戦争から抗日戦争の初期までの中国革命戦争の経験を総括したものである。中国共産党か指導した武装闘争は、第二次国内革命戦争の時期の長い期間、すべて遊撃戦争であった。この時期の後の段階では、赤軍の力か伸びるにつれて、遊撃戦は遊撃性をおびた運動戦(毛沢東同志はこのような運動戦を、高められた遊撃戦争と規定している)に転じた。だが、抗日戦争の期間中は、敵情の変化によって、遊撃性をおびたこの運動戦は、ふたたび遊撃戦争に転じた。抗日戦争の初期には、右翼日和見主義のあやまりをおかした党内の同志たちは、党の指導する遊撃戦争を軽視し、自分の望みを国民党軍隊の作戦に託した。毛沢東同志は、『抗日遊撃戦争の戦略問題』、『持久戦について』および『戦争と戦略の問題』などの著作のなかで、そのような観点を論ばくし、また、この論文のなかで、長期にわたって中国革命の武装闘争が遊撃戦争の形態をとった経験について、理論的に総括をした。中国共産党の指導する武装闘争は、抗日戦争の後期、とくに第三次国内革命戦争の時期になると、革命勢力のあらたな成長と敵情のあらたな変化によって、戦争の主要な形態が、遊撃戦争から正規戦争に転じた。そして第三次国内革命戦争の後期には、さらに、大量の重火器を使用し、かつ攻城戦をふくめた大兵団作戦に発展した。
① 本巻の『投降の策動に反対せよ』注〔8〕を参照。
(一九三九年十月十日)
これは、毛沢東同志が中国共産党中央のために書いた決定である。
(一)帝国主義世界大戦は、帝国主義諸国が新しい経済危機と政治危機からぬけだそうとしたことによって勃発したものである。戦争の性質は、ドイツ側にしても、イギリス、フランス側にしても、不正義の略奪的な帝国主義戦争である。全世界の共産党は断固として、このような戦争に反対すべきであり、このような戦争を支持してプロレタリア階級を裏切った社会民主主義政党の犯罪行為に反対すべきである。社会主義のソ連は依然としてその平和政策を堅持し、戦争する双方にたいして厳正中立をまもっており、ポーランドへの出兵という行動によって、ドイツ侵略勢力の東への拡張を阻止し、東ヨーロッパの平和を強固にし、ポーランドの支配者に抑圧されていた西ウクライナと白ロシアの兄弟民族を解放した。ソ連は、国際反動勢力がおこす可能性のある襲撃をまえもってふせぐために、その周囲の諸国と各種の条約を結び、また世界平和の回復のために奮闘している。
(二)新しい国際情勢のもとにおける日本帝国主義の政策は、将来、国際的な冒険行動を拡大する準備として、中国への進攻に力を集中し、中国問題を解決しようとするくとにある。日本帝国主義が中国問題解決のためにとろうとしている方針はつぎのとおりである。
一、占領地域にたいしては、全中国を滅ぼす準備として、これを確保する。この目的をたっするために、日本帝国主義は、抗日遊撃根拠地の「掃討」を必要とし、経済の開発とかいらい政権の樹立を必要とし、中国人の民族精神の消滅を必要としている。
二、わが後方にたいしては、政治的進攻を主とし、軍事的進攻を従とする。いわゆる政治的進攻とは、大規模な軍事的進攻に重点をおくのではなくて、抗日統一戦線を分化させ、国共合作を分裂させ、国民党政府を投降にさそいこむことに重点をおくのである。
いまの時期に、敵は、過去二年あまりの中国の英雄的な抗戦の打撃によって、またかれらの兵力と財力の不足によって、以前の武漢進攻のような大規模な戦略的進攻の行動をとる可能性はもはや大きくない。このような意味で、もう基本的に抗戦の戦略的対峙の段階にたっしている。このような戦略的対峙の段階が、反攻準備の段階である。だが第一に、われわれは、基本的に対峙の局面があらわれたといっても、敵になお若干の戦役的進攻の可能性のあることを否定するものではない。敵はいま長沙を進攻しており、将来は、さらにその他の若干の地区を進攻する可能性もある。第二に、正面対峙の可能性が大きくなるにつれて、敵はわが遊撃根拠地にたいする「掃討」戦争をいっそう強めるであろう。第三に、もし中国が敵の占領地を破壊することができず、敵に占領地確保と占領地経営の目的を達成させるならば、また、もし中国が敵の政治的進攻を撃退することができず、抗戦を堅持し、団結を堅持し、進歩を堅持して、反攻の力を準備することができないか、あるいは国民党政府がついに自発的に投降するならば、将来敵が大挙進攻してくる可能性はやはり存在する。つまりすでにあらわれた対峙の局面は、敵と投降派によって破壊される可能性がやはり存在するということである。
(三)抗日統一戦線内の投降の危険、分裂の危険および後退の危険は、依然として当面の時局における最大の危険であり、現在の反共の現象や後退の現象は、依然として大地主・大ブルジョア階級の投降準備の段どりである。われわれの任務は、反攻の力を準備するために、依然として全国のすべての愛国者と協力し、大衆を動員して、わが党の『七・七宣言』①にある「抗戦を堅持し、投降に反対せよ」「団結を堅持し、分裂に反対せよ」「進歩を堅持し、後退に反対せよ」という三大政治スローガンを確実に実行することである。この目的をたっするため、敵の後方では、遊撃戦争を堅持し、敵の「掃討」にうち勝ち、敵の占領地を破壊し、広範な抗日民衆に有利な急進的な政治改革と経済改革を実行しなければならない。正面の戦線では、軍事的防御をささえ、敵のおこなう可能性のあるいかなる戦役的進攻をも撃退しなければならない。わが後方では、すみやかに、しんけんに、政治改革を実行し、国民党の一党独裁を終わらせ、真に民意を代表する、権力をもつ国民大会を招集して、憲法を制定し、憲政を実施しなければならない。いかなる動揺も怠慢も、これと相反するいかなる方針も、絶対にあやまりである。同時に、わが党の各級指導機関とすべての同志は、中国革命に危害をおよぼす、おこりうる突発事件に対処するそなえをし、その突発事件のなかで党と革命におもいがけない損失をこうむらせないように、当面の時局にたいする警戒心をたかめ、全力をあげて、わが党と党の指導する軍隊および政権を思想的、政治的、組織的に強化しなければならない。
① 本巻の『中央通信社、掃蕩報、新民報の三記者との談話』訳注③を参照。
(一九三九年十二月一日)
これは、毛沢東同志が中国共産党中央のために書いた決定である。
一、長期にわたる苛烈な民族解放戦争において、新中国をうちたてる偉大な闘争において、共産党が偉大な抗戦の力を組織し、何百何千万の農民大衆を組織し、革命的文化運動を発展させ、また革命的統一戦線を発展させるには、知識人を吸収することに長じていなければならない。知識人の参加なしには、革命の勝利は不可能である。
二、三年このかた、わが党とわが軍は知識人を吸収する面で、すでに相当な努力をはらい、数多くの革命的知識人を党に、軍隊に、政府活動に、文化運動と民衆運動に参加させて、統一戦線を発展させてきたが、これは大きな成果である。しかし、軍隊のなかの多くの幹部は、まだ知識人の重要性に目がむかず、知識人をおそれ、はては排斥する気持ちさえもっている。われわれの多くの学校は、おもいきって大量の青年学生をうけいれるまでになっていない。多くの地方の党組織は、まだ知識人を入党させることをのぞんでいない。このような現象がおこるのは、革命事業における知識人の重要性を理解せず、植民地、半植民地国の知識人と資本主義国の知識人とのちがいを理解せず、地主・ブルジョア階級に奉仕する知識人と労農階級に奉仕する知識人とのちがいを理解せず、ブルジョア政党がやっきになってわれわれと知識人を争奪しており、日本帝国主義もさまざまな方法で中国の知識人を買収し、麻痺させていることの重大性を理解していないからであり、とくに、わが党とわが軍には、すでに中堅的骨幹が養成され、知識人を掌握する能力があるというこうした有利な条件を理解していないからである。
三、したがって、今後はつぎの点に注意すべきである。(1)すべての戦区の党および党のすべての軍隊は、大量の知識人をわれわれの軍隊に、われわれの学校に、政府活動に参加させるべきである。抗日をねがい、わりあいに誠実で苦労にたえられる知識人でさえあれば、これをいろいろな方法で吸収して、教育し、戦争のなかで、仕事のなかできたえあげ、軍隊のため、政府のため、大衆のために奉仕させるようにしなければならず、また具体的な状況にもとづいて入党の条件のそなわった一部の知識人を入党させるべきである。入党できないか、あるいは入党したがらない一部の知識人にたいしても、かれらとともに活動するうえでのよい関係をうちたて、かれらをみちびいていっしょに活動すべきである。(2)このような大量吸収の政策をとるにあたって、敵やブルジョア政党からおくりこまれる分子をしめだし、不誠実な分子をしめだすことに十分注意すべきであるのはいうまでもない。これらの分子をしめだすには、厳然たる態度をとるべきである。すでにわが党、わが軍隊およびわが政府にもぐりこんでいるこれらの分子にたいしては、確実な証拠にもとづき、断固として、またそれぞれ区別して追放すべきである。だからといって、わりあい誠実な知識人に疑いをかけてはならない。また、反革命分子がよい人をおとしいれるのを厳重にふせがなければならない。(3)多少とも役にたつ、わりあい誠実な知識人にたいしては、すべて、適当な仕事をあたえ、かれらをよく教育し、よくみちびいて、長期の闘争のなかでその弱点をしだいに克服させるべきである。そうすることによって、かれらを革命化させ、大衆化させ、ふるい党員やふるい幹部とうちとけさせ、労農出身の党員とうちとけさせるのである。(4)知識人を活動に参加させることに反対している一部の幹部、とくに主力部隊のなかの一部の幹部にたいしては、知識人を活動に参加させる必要性が理解できるよう、適切な説得をすべきである。同時に、労農出身の幹部が学習にはげむよう適切な激励をあたえ、その文化水準をたかめることである。こうして、労農出身の幹部の知識人化と、知識人の労農大衆化を同時に実現させていくのである。(5)国民党の支配区および日本侵略者の占領区でも、以上にのべた原則は基本的に適用されるが、党の組織をいっそう厳密なものとするため、知識人を入党させるときには、その誠実さにより多くの注意をはらうべきである。われわれに共鳴している広範な党外の知識人にたいしては、かれらと適切な結びつきをたもち、かれらを抗日と民主の偉大な闘争のなかに組織し、文化運動のなかに組織し、統一戦線の活動のなかに組織していくべきである。
四、全党の同志たちは、知識人にたいする正しい政策が、革命の勝利の重要な条件の一つであることを認識すべきである。わが党が土地革命の時期に多くの地方や多くの軍隊でとった知識人にたいする正しくない態度は、今後けっしてくりかえしてはならない。プロレタリア階級自身の知識人の養成も、社会の既存の知識人の援助を利用することとけっして切りはなすことはできない。党中央は、各級の党委員会および全党の同志がこの問題に、大きな注意をはらうよう希望する。
(一九三九年十二月)
『中国革命と中国共産党』は、一九三九年の冬、毛沢東同志と他の何人かの延安にいた同志が協力して執筆した教科書である。第一章の「中国社会」は、他の何人かの同志が起草して毛沢東同志が筆をいれたものであり、第二章の「中国革命」は、毛沢東同志がみずから書いたものである。第三章では、「党の建設」をとりあつかう予定であったが、執筆を担当した同志が原稿を書きあげなかったのでとりやめた。しかし、この二つの章、とくに第二章は、中国共産党と中国人民のあいだで、やはり大きな教育的役割をはたした。毛沢東同志は、本文第二章のなかの新民主主義にかんする観点を、一九四〇年一月に書いた『新民主主義論』で大いに発展させている。
わが中国は世界でもっとも大きな国の一つであり、その領土はヨーロッパ全体の面積にほぼ等しい。この広大な領土には、われわれに衣食のみなもとをあたえてくれるひろい肥沃な土地がある。そしてわれわれのために広大な森林をそだて豊富な鉱物資源をたくわえてくれている、全国を縦横にはしる大小の山脈がある。またわれわれに水運と灌漑の利をあたえてくれる多くの河川や湖沼があるし、われわれに海外の各民族との交通の便をあたえてくれる長い海岸線がある。はるか古代から、わが中華民族の祖先は、この広大な土地のうえで労働し、生活し、子孫をふやしてきた。
現在、中国の国境は、東北、西北および西部の一部では、ソビエト社会主義共和国連邦と接している。真北では、モンゴル人民共和国と接している。西部の一部と西南部では、アフガニスタン、インド、ブータン、ネパールと接している。南部では、ビルマおよびベトナムと接している。東部では、朝鮮と接し、日本やフィリピンにも近い。この地理的な国際環境は、中国人民の革命に、外部からの有利な条件と困難な条件をつくりだしている。有利な条件は、ソ連と境を接し、欧米の主要な帝国主義諸国からはかなり遠くはなれており、まわりの国ぐにの多くが植民地、半植民地国だということである。困難な条件は、日本帝国主義が、中国に近いという関係を利用して、たえず中国諸民族の生存をおびやかし、中国人民の革命をおびやかしていることである。
わが中国は、いま、四億五千万の人口をもち、全世界人口のほぼ四分の一を占めている。この四億五千万の人口のうち、九割以上が漢族である。このほかにも、蒙古族、回族、チベット族、ウィグル族、苗族、彝族、壮族、布依族、朝鮮族などあわせて数十の少数民族がいて、文化の発展の程度こそちがっているが、みな長い歴史をもっている。中国は、多数の民族が結合してできた、多くの人口をもつ国である。
中華民族の発展(ここでは主として漠族の発展をいう)は、世界の他の多くの民族とおなじように、かつて何万年かにわたる階級のない原始共同体の生活をへてきた。そして原始共同体がくずれて社会生活が階級生活にうつったその時代から、奴隷社会、封建社会をへて現在にいたるまで、およそ四千年もたっている。中華民族の文明史には、発達していることでよく知られている農業と手工業があり、たくさんの偉大な思想家、科学者、発明家、政治家、軍事家、文学者、芸術家があり、ゆたかな文化的典籍がある。中国では、ずっと昔に羅針盤が発明された〔1〕。千八百年前にはすでに製紙法が発明された〔2〕。千三百年前には木版印刷が発明された〔3〕。八百年前にはさらに活字印刷が発明された〔4〕。火薬の応用〔5〕もヨーロッパ人よりはやかった。したがって、中国は世界でもっともはやく文明の発達した国の一つであり、中国にはすでに四千年にちかい、文字によって考証できる歴史がある。
中華民族は、刻苦勤勉なことで世界に知られているだけでなく、同時に自由を熱愛する、革命の伝統に富んだ民族でもある。漢族の歴史を例にとってみても、中国人民は暗黒勢力の支配に甘んずるものではなく、そのつど革命的手段によって、そうした支配の打倒や変革の目的をたっしてきたことが証明できる。漢族の数千年の歴史には、地主と貴族の暗黒支配に反抗した大小何百回もの農民蜂起があった。多くの王朝の交代は、農民蜂起の力によってはじめて成功したのである。中華民族のなかの各族の人民はいずれも外来民族の抑圧とたたかい、反抗の手段によってこうした抑圧をとりのぞこうとした。かれらは、平等な連合には賛成するが、たがいに抑圧しあうことには賛成しない。中華民族の数千年の歴史には、民族の英雄と革命の指導者がたくさんうまれた。したがって、中華民族は、光栄ある革命的伝統と優秀な歴史的遺産をもつ民族でもある。
中国は偉大な民族の国であり、土地のひろい、人口の多い、歴史のふるい、また革命の伝統と優秀な遺産に富んだ国ではあるが、奴隷制度をぬけだして封建制度にはいってからは、経済、政治、文化の発展が長いあいだ緩慢な状態におちいっていた。この封建制度は、周、秦以来、ずっと三千年ばかりもつづいた。
中国の封建時代の経済制度と政治制度は、つぎのような主要な特徴からなっていた。
一、自給自足の自然経済が主要な地位をしめていた。農民は、自分に必要な農産物を生産したばかりでなく、自分に必要な大部分の手工業品をも生産した。また地主と貴族は、農民から搾取した小作料を、主として自分の消費にあて、交換にはあてなかった。当時、交換も発展していたが、経済全体のなかでは決定的な役割をはたさなかった。
二、封建的支配階級である地主、貴族、皇帝が土地の圧倒的部分をにぎり、農民は土地をほんの少ししかもたないか、あるいは全然もたなかった。農民は、自分の農具をつかって地主、貴族、皇室の土地をたがやし、その収穫物の四割、五割、六割、七割、さらには八割以上も地主、貴族、皇室の消費のために上納した。このような農民は、実際にはまだ農奴であった。
三、地主、貴族、皇室が農民から搾取する小作料でくらしていたばかりでなく、地主階級の国家もまた、膨大な数にのぼる国家の官吏と、おもに農民の弾圧につかう軍隊とをやしなうために、農民に貢物や税金の納入を強制し、無償の労役につくことを強制した。
四、このような封建的搾取制度を保護する権力機関は、地主階級の封建国家であった。秦のまえの時代は諸侯が割拠して覇をとなえた封建国家であったとすれば、秦の始皇帝が中国を統一してからは、専制主義的、中央集権的な封建国家がうちたてられ、同時に、封建的割拠の状態も、いぜんとしてある程度のこされていた。封建国家においては皇帝は最高至上の権力をもち、各地方にそれぞれ、兵、刑、銭、糧などをつかさどる役人をおくとともに、封建的支配全体の基礎として、地主と豪紳に依拠していた。
中国の歴代の農民は、このような封建的な経済的搾取と封建的な政治的抑圧のもとで、貧苦にあえぐ奴隷的な生活をおくっていたのである。農民は、封建制度にしばられて、人身の自由をもっていなかった。地主は、勝手に農民をなぐり、どなりつけ、はては殺すことさえできる権利をもっていたが、農民はなんらの政治的権利ももっていなかった。地主階級のこのように残酷な搾取と抑圧によってつくりだされた農民の極度の貧困とたちおくれこそ、中国の社会が経済のうえでも社会生活のうえでも、何干年ものあいだ、停滞していた基本的原因である。
封建社会の主要な矛盾は、農民階級と地主階級との矛盾であった。
そして、このような社会では、農民と手工業労働者だけが、富をつくりだし文化をつくりだす基本的な階級であった。
地主階級の農民にたいする残酷な経済的搾取と政治的抑圧のために、農民は地主階級の支配に反抗して、何度となく蜂起をおこなわざるをえなかった。秦代の陳勝、呉広、項羽、劉邦〔6〕から、漢代の新市、平林、赤眉、銅馬〔7〕、黄巾〔8〕、隋代の李密、竇建徳〔9〕、唐代の王仙芝、黄巣〔10〕、宋代の宋江、方臘〔11〕、元代の朱元璋〔12〕明代の李自成〔13〕をへて、清代の太平天国〔14〕にいたるまでの大小あわせて数百回の蜂起は、みな農民の反抗運動であり、農民の革命戦争であった。中国の歴史にみられる農民蜂起と農民戦争の規模の大きいことは、世界の歴史にもまれなものである。中国の封建社会では、このような農民の階級闘争、農民の蜂起、農民の戦争だけが、歴史を発展させる真の原動力であった。なぜなら、比較的大きな農民蜂起と農民戦争のたびごとに、その結果として当時の封建的支配に打撃があたえられ、これによって多かれ少なかれ社会の生産力の発展がうながされたからである。ただ、当時は、まだ新しい生産力と新しい生産関係がなく、新しい階級勢力がなく、先進的な政党がなかったので、こうした農民蜂起や農民戦争は、いまのようなプロレタリア階級と共産党の正しい指導を得ることができなかった。それで、当時の農民革命は、いつも失敗に終わり、いつも革命の最中、または革命ののちに、地主と貴族に王朝交代の道具として利用されてしまったのである。こうして、農民の大規模な革命闘争がやんだあとは、そのたびごとに、社会はいくらか進歩したが、基本的にはあいかわらず封建的な経済関係と封建的な政治制度がつづいた。
このような状態に新しい変化がうまれたのは、ここ百年来のことである。
中国の過去三千年来の社会が封建社会であったことは、さきに説明した。では、中国の現在の社会もまだ完全な封建社会であろうか。そうではない。中国はすでに変化している。一八四〇年のアヘン戦争以後、中国は一歩一歩半植民地・半封建の社会に変わった。一九三一年の九・一八事変で日本帝国主義が中国にたいする武力侵略をおこなってからは、中国はさらに植民地・半値民地・半封建の社会に変わった。つぎに、このような変化の過程について説明しよう。
第二節でのべたように、中国の封建社会はほぼ三千年もつづいた。一九世紀のなかごろになってから、外国資本主義の侵入によって、この社会の内部にはじめて大きな変化がおきた。
中国の封建社会内部における商品経済の発展は、すでに資本主義の芽をはらんでいたので、外国資本主義の影響がなかったとしても、中国はやはり緩慢ながら資本主義社会に発展していったであろう。外国資本主義の侵入はこのような発展をうながした。外国資本主義は中国の社会経済にたいして、一方では、中国の自給自足の自然経済の基礎を破壊し、都市の手工業と農民の家内手工業を破壊するとともに、他方では、中国の都市と農村における商品経済の発展をうながす、という大きな分解作用をおよぽした。
こうした状況は、中国の封建経済の基礎に解体作用をおこさせたばかりでなく、同時に、中国の資本主義的生産の発展のためにもある程度の客観的な条件と可能性をつくりだした。なぜなら、自然経済の破壊は資本主義のために商品市場をつくりだし、大量の農民と手工業者の破産は資本主義のために労働力市場をつくりだしたからである。
事実、外国資本主義の刺激と封建的経済構造のある程度の破壊によって、はやくも一九世紀の後半、つまりいまから六十年まえには、一部の商人、地主、官僚による新式工業への投資がはじまった。一九世紀の末から二〇世紀のはじめ、つまりいまから四十年まえになると、中国の民族資本主義が初歩的な発展をはじめた。二十年まえ、すなわち第一次帝国主義世界大戦の時期になると、欧米帝国主義諸国が戦争に忙殺されて、一時、中国にたいする抑圧をゆるめたために、中国の民族工業、主として紡績業と製粉業はいっそうの発展をとげた。
中国の民族資本主義の発生と発展の過程は、中国のブルジョア階級とプロレタリア階級の発生と発展の過程であった。一部の商人、地主、官僚が中国のブルジョア階級の前身であったとすれば、一部の農民と手工業労働者は中国のプロレタリア階級の前身であった。中国のブルジョア階級とプロレタリア階級は、二つの特殊な社会階級としてみれば新しくうまれたものであり、中国の歴史にはかってなかった階級である。この二つの階級は、封建社会の胎内からうまれ出て、新しい社会階級を構成した。これらは、たがいに関連もし、対立もする二つの階級であって、中国のふるい社会(封建社会)がうんだ双生児である。だが、中国のプロレタリア階級は、中国の民族ブルジョア階級の発生と発展にともなって発生し、発展しただけでなく、中国において帝国主義が企業を直接経営するのにともなって発生し、発展した。だから、中国のプロレタリア階級の大きな部分は、中国のブルジョア階級よりも、その歴史と資格がいくらかふるく、したがってその社会的な力と社会的基礎もいくらか大きい。
だが、上にのべた資本主義の発生と発展という新しい変化は、帝国主義が中国に侵入してからおこった変化の一つの側面にすぎない。このほかに、この変化と同時に存在し、しかもこの変化をさまたげているもう一つの側面がある。それは、帝国主義が中国の封建勢力と結託して中国の資本主義の発展をおさえていることである。
帝国主義列強の中国侵入の目的は、けっして封建的な中国を資本主義的な中国に変えることではない。帝国主義列強の目的は、それとは反対に、中国をかれらの半植民地または植民地に変えることである。
帝国主義列強は、この目的のために、中国にたいして、つぎにのべるような軍事的、政治的、経済的、文化的なあらゆる抑圧手段をこれまでもとってきたし、いまもとりつづけており、こうして、中国を一歩一歩半植民地または植民地に変えてきた。
一、中国にたいして、たびかさなる侵略戦争をおこなった。たとえば、一八四〇年のイギリスのアヘン戦争、一八五七年の英仏連合軍の戦争〔15〕、一八八四年の中仏戦争〔16〕、一八九四年の中日戦争①、一九〇〇年の八ヵ国連合軍の戦争〔17〕がそれである。帝国主義列強は、中国を戦争でうち負かしたのち、中国のまわりの、もと中国に保護されていた多くの国を占領しただけでなく、中国の領土の一部を強奪したり「租借」したりした。たとえば、日本は台湾と澎湖諸島を占領し、旅順を「租借」し、イギリスは香港を占領し、フランスは広州湾を「租借」した。帝国主義列強は領土を割譲させたほかに、さらに莫大な賠償金をとりたてた。こうして中国という膨大な封建帝国に大きな打撃をあたえた。
二、帝国主義列強は、中国に強制的に多くの不平等条約を結ばせ、これらの不平等条約にもとづいて、海軍と陸軍を中国に駐留させる権利を手にいれ、領事裁判権〔18〕を手にいれ、さらに全中国をいくつかの帝国主義国の勢力範囲に分割した〔19〕。
三、帝国主義列強は、不平等条約にもとづいて、中国のすべての重要な通商港をおさえるとともに、多くの通商港の土地の一部を仕切って、かれらの直接管理する租界〔20〕にした。かれらは、中国の税関と貿易をおさえ、中国の交通事業(海上、陸上、河川、航空)をおさえている。それによってかれらは、中国をその工業品の市場に変えて商品を大量に売りさばき、同時に、中国の農業生産を帝国主義の需要にしたがわせることができるようになった。
四、帝国主義列強は、さらに、中国の原料とやすい労働力を直接利用するために、中国で多くの軽工業と重工業の企業を経営し、それによって、中国の民族工業に直接の経済的圧迫をくわえ、中国の生産力の発展を直接さまたげた。
五、帝国主義列強は、中国政府に借款をあたえ、中国に銀行をもうけることによって、中国の金融と財政を独占した。それによってかれらは、商品競争のうえで中国の民族資本主義を圧倒したばかりでなく、金融、財政の面でも中国ののどくびをおきえた。
六、帝国主義列強は、広範な中国農民とその他の人民大衆を搾取するのに都合のよいように、中国の通商都市からへんぴな片田舎にいたるまで、買弁的、商業・高利貸し的な搾取網をはりめぐらし、帝国主義に奉仕する買弁階級と商業・高利貸し階級をつくりだした。
七、帝国主義列強は、買弁階級のほかに、中国の封建的地主階級をもかれらの中国支配の支柱にした。かれらは、「人民の大多数に反対して、まず、これまでの社会制度における支配階級――封建的地主、商業・高利貸しブルジョア階級と連合する。帝国主義は、いたるところで(とくに農村で)、前資本主義的なすべての搾取形態の保存とその永久化に力をつくす。これらの形態は、かれらの反動的同盟者の生存のための基礎である」〔21〕。「帝国主義とその中国における金融上、軍事上の全勢力は、封建的残存物および官僚・軍閥というその全上部構造を支持し、鼓舞し、育成し、保存する勢力である。」〔22〕
八、帝国主義列強は、中国の軍閥の混戦をつくりだし、中国人民を弾圧するために、中国の反動政府に大量の武器と多数の軍事顧問を提供している。
九、帝国主義列強は、上にのべたあらゆる手段のほかに、中国人民の精神を麻痺させる面でも手をゆるめてはいない。それは、かれらの文化侵略政策である。布教、病院や学校の開設、新聞の発行、留学生の誘致などが、この侵略政策の実施である。その目的は、かれらのいいなりになる知識人幹部をそだてあげることと、広範な中国人民を愚弄することにある。
十、一九三一年の「九・一八」以後、日本帝国主義の大がかりな進攻は、すでに半植民地になっていた中国領土の大きな部分をさらに日本の植民地におちいらせた。
上にのべた状況は、帝国主義が中国に侵入してからうまれた新しい変化のもう一つの側面であり、封建的な中国を半封建、半植民地および植民地の中国に変えた血まみれの絵図である。
これらのことからあきらかなように、帝国主義列強の中国侵略は、一方では、中国の封建社会の解体をうながし、中国における資本主義的要素の発生をうながして、封建社会を半封建社会に変えたが、他方では、かれらはまた中国を残酷に支配し、独立の中国を半植民地と植民地の中国に変えたのである。
この二つの側面の状況をまとめてみると、われわれのこの植民地・半植民地・半封建の社会は、つぎのようないくつかの特徴をもっている。
一、封建時代の自給自足の自然経済の基礎は破壊された。だが、封建的搾取制度の基盤――地主階級の農民にたいする搾取は、依然としてたもたれているばかりでなく、買弁資本や高利貸し資本の搾取と結びついて、中国の社会経済生活のなかであきらかに優位を占めている。
二、民族資本主義は、ある程度の発展をとげ、中国の政治的、文化的生活のなかでかなりの役割をはたしている。だが、それは中国の社会経済の王菱な形態とはなっておらず、その力は非常に弱く、その大部分は多かれ少なかれ外国の帝国主義および国内の封建主義とつながりをもっている。
三、皇帝と貴族の専制権力はくつがえされたが、これにとって代わったのは、まず地主階級の軍閥・官僚支配であり、ついで地主階級と大ブルジョア階級の同盟による独裁である。被占領区では、日本帝国主義とそのかいらいの支配である。
四、帝国主義は、中国の財政と経済の大動脈をにぎっているばかりでなく、中国の政治と軍事力をも牛耳っている。被占領区では、すべてが日本帝国主義に独占されている。
五、中国が多くの帝国主義国の支配、あるいは半支配下にあること、中国が事実上長いあいだ不統一な状態におかれていること、さらに、中国の土地が広大であることによって、中国の経済、政治、文化の発展には極度の不均等があらわれている。
六、帝国主義と封建主義の二重の抑圧、とくに日本帝国主義の大がかりな進攻によって、中国の広範な人民、とりわけ農民は、ますます貧困化し、さらには大量に破産しており、かれらは、飢えと寒さにさいなまれ、政治的権利のまったくない生活をおくっている。中国人民ほど貧しく、自由をもたない人民は、世界でもあまりみられない。
これらが、植民地・半植民地・半封建の中国社会の特徴である。
このような状態は、主として日本帝国主義その他の帝国主義勢力によって決定されたものであり、外国帝国主義と国内の封建主義とが結びついた結果である。
帝国主義と中華民族との矛盾、封建主義と人民大衆との矛盾、これらが近代中国社会の基本的な矛盾である。もちろん、ほかにも矛盾はある。たとえば、ブルジョア階級とプロレタリア階級との矛盾、反動的支配階級内部の矛盾などがそれである。だが、帝国主義と中華民族との矛盾は、さまざまな矛盾のなかの主要な矛盾である。これらの矛盾の闘争とその先鋭化は、日ましに発展する革命運動をもたらさないではおかない。近代および現代の偉大な中国革命は、これらの基本的矛盾を基礎にして発生し発展してきたものである。
帝国主義が中国の封建主義と結びついて、中国を半植民地および植民地に変えてきた過程は、中国人民が帝国主義とその手先に反抗してきた過程でもある。アヘン戦争、太平天国運動、中仏戦争、中日戦争、戊戌政変②、義和団運動、辛亥革命、五・四運動、五・三〇運動、北伐戦争、土地革命戦争から、現在の抗日戦争にいたるまで、そのすべてが、帝国主義とその手先におめおめとは屈服しない中国人民の頑強な反抗精神をしめしている。
この百年来、中国人民の不撓不屈のますますはげしい英雄的闘争によって、帝国主義はいまなお中国を滅ぼすことができないでいるし、また永遠に中国を滅ぼすことはできない。
現在、日本帝国主義は全力をあげて中国にたいする大がかりな進攻をおこなっており、中国の多くの地主や大ブルジョア分子、たとえば公然たる汪精衛やかくれた汪精衛のやからは、すでに敵に投降したか、あるいは敵に投降しようとしているが、しかし、英雄的な中国人民はかならずさらにたたかいつづけていくであろう。日本帝国主義を中国からおいだし、中国を完全に解放するまで、このたたかいはけっしてやむことはない。
中国人民の民族革命闘争は、一八四〇年のアヘン戦争からかぞえて、すでにまる百年の歴史をもち、一九一一年の辛亥革命からかぞえても、三十年の歴史をもっている。この革命の過程はいまなお完結していないし、革命の任務もまだいちじるしい成果をおさめていないので、全国人民、まず中国共産党が断固として奮闘する責務をになうよう要求されている。
では、この革命の対象はいったいだれか。この革命の任務はいったいなにか。この革命の原動力はなにか。この革命の性質はなにか。また、この革命の前途はどうか。これらがつぎに説明しようとする問題である。
第一章第三節の分析によって、現在の中国社会は植民地・半植民地・半封建の性質をもつ社会であることがわかった。中国革命の対象、中国革命の任務、中国革命の原動力、中国革命の性質、中国革命の前途と転化をはっきり理解するには、中国社会の性質をはっきり理解する以外にない。したがって、中国社会の性質をはっきり理解すること、つまり、中国の国情をはっきり理解することは、革命のすべての問題をはっきり理解する基本的なよりどころである。
現在の中国社会の性質が植民地・半植民地・半封建のものである以上、中国革命の現段階の主要な対象あるいは王要な敵はいったいだれであろうか。
それはほかでもなく、帝国主義と封建主義、つまり帝国主義国のブルジョア階級と自国の地主階級である。なぜなら、現段階の中国社会で中国社会の発展をおさえ、はばんでいる主要なものはほかでもなく、この二つだからである。この二つはたがいに結託して中国人民を抑圧しているが、帝国主義の民族的抑圧が最大の抑圧であり、したがって、帝国主義は中国人民の第一の、そしてもっとも凶悪な敵である。
日本が中国に武力侵入してからは、中国革命の主要な敵は、日本帝国主義および日本と結託して公然と投降したか、あるいは投降しようとしているすべての民族裏切り者と反動派である。
中国のブルジョア階級も、もともと帝国主義から抑圧されており、辛亥革命のように、革命闘争を指導して主要な指導的役割を演じたこともあれば、北伐戦争や現在の抗日戦争のように、革命闘争に参加したこともある。だが、このブルジョア階級の上層部、つまり国民党反動集団に代表される層は、かつて一九二七年から一九三七年までの長い期間、帝国主義と結託するとともに、地主階級と反動的同盟をむすんで、以前かれらを援助した友――共産党、プロレタリア階級、農民階級、その他の小ブルジョア階級を裏切り、中国革命を裏切り、革命の失敗をもたらした。したがって、当時、革命的な人民と革命的な政党(共産党)は、これらのブルジョア分子を革命の対象の一つにせざるをえなかった。抗日戦争では、汪精衛に代表される大地主・大ブルジョア階級の一部がすでに寝がえりをうち、民族裏切り者になりさがった。したがって、抗日の人民はやはり、民族の利益を裏切ったこれらの大ブルジョア分子を革命の対象の一つにせざるをえなくなった。
このことからもわかるように、中国革命の敵は異常に強大なものである。中国革命の敵には、強大な帝国主義があるばかりでなく、強大な封建勢力があり、しかも、一定の時期には、帝国主義、封建勢力と結託して人民に敵対するブルジョア階級の反動派もある。したがって、中国の革命的人民の敵の力を軽視するような観点は正しくない。
このような敵をまえにしていることから、中国革命の長期性と残酷性がうまれてくる。われわれの敵が異常に強大であるため、革命勢力は長い期間をかけなければ、最終的に敵にうち勝つだけの力をたくわえることも、きたえあげることもできない。また、中国革命にたいする敵の弾圧が異常に残酷であるため、革命勢力は、自分の頑強性をきたえ、発揮しなければ、自分の陣地を堅持することも、敵の陣地を奪取することもできない。したがって、中国の革命勢力がまたたくまに組織され、中国の革命闘争がたちまちのうちに勝利することができるというような観点は、正しくない。
このような敵をまえにしていることから、中国革命の主要な方法、中国革命の主要な形態は平和的なものではありえず、武力的なものでなければならないこともきまってくる。なぜなら、われわれの敵は中国人民に平和的に活動する可能性をあたえず、中国人民にはいかなる政治的な自由の権利もないからである。スターリンは「中国では、武装した革命が武装した反革命とたたかっている。これは、中国革命の特徴の一つであり、その長所の一つでもある」といっている〔23〕。これは、まったく正しい規定である。したがって、武装闘争を軽視し、革命戦争を軽視し、遊撃戦争を軽視し、軍隊にかんする活動を軽視するような観点は、正しくない。
このような敵をまえにしていることから、革命の根拠地の問題もうまれてくる。強大な帝国主義とその中国における反動的同盟軍は、つねに長期にわたって中国の中心都市を占領するのだから、もし革命の隊列が帝国主義およびその手先との妥協をのぞまず、あくまでもたたかいつづけようとするなら、もし革命の隊列が自分の力をたくわえ、きたえあげようとし、力のたりないうちに強大な敵と勝敗を決する戦闘をおこなうのをさけようとするならば、おくれた農村をすすんだ強固な根拠地にきずきあげ、これを軍事、政治、経済、文化のうえでの偉大な革命の陣地にきずきあげなければならない。そうすることによって、都市を利用して農村地域を攻撃してくる凶悪な敵とたたかい、また、長期の戦闘をつうじてしだいに革命の全面的勝利をたたかいとるのである。こうした状況のもとでは、中国経済の発展が不均等なこと(統一的な資本主義経済でないこと)、中国の土地が広大なこと(革命勢力に機動の余地があること)、中国の反革命陣営の内部が不統一で、さまざまな矛盾にみちていること、中国革命の主力軍である農民の闘争がプロレタリア政党である共産党の指導のもとにあること、こうしたことによって、一方では、中国革命がまず農村地域で勝利する可能性がうまれ、他方ではまた、革命の不均等状態がつくりだされて、革命の全面的勝利をたたかいとる事業に長期性と苦難性がもたらされる。このことからもわかるように、このような革命の根拠地でおこなわれる長期の革命闘争は、主として、中国共産党の指導のもとでの農民の遊撃戦争である。したがって、農村地域を革命の根拠地にすることを無視する観点、農民にたいする骨の折れる活動を無視する観点、遊撃戦争を無視する観点は、いずれも正しくない。
だが、武装闘争に重点をおくことは、他の形態の闘争を放棄してもよいということではない。反対に、武装闘争以外のさまざまな形態の闘争の呼応がなければ、武装闘争は勝利を得ることができない。また、農村根拠地での活動に重点をおくことは、都市での活動や、まだ敵の支配下にある他の広大な農村での活動を放棄してもよいということではない。反対に、都市での活動や他の農村での活動がなければ、農村の根拠地は孤立し、革命は失敗するのである。しかも、革命の最終目的は、敵の主要な根拠地となっている都市を奪取することであって、都市での十分な活動がなければ、この目的をたっすることはできない。
このことからもわかるように、革命を農村と都市でともに勝利させるには、人民にたちむかう敵の主要な道具、すなわち敵の軍隊を破壊しなければ、それはやはり不可能である。したがって、戦争で敵軍を消滅するほかに、敵軍を瓦解させる活動も重要な活動になってくる。
このことからもわかるように、敵が長いあいだ占領している反動的な暗黒な都市と反動的な暗黒な農村で共産党の宣伝活動と組織活動をおこなうには、せっかち病的、冒険主義的な方針をとってはならず、隠蔽と精鋭化をはかり③、力をたくわえ、時機を待つという方針をとらなければならない。敵にたいする人民の闘争を指導する戦術としては、法律、命令、社会慣習のゆるす範囲の、公然とした合法的な、利用できるすべてのものを利用し、道理があり、有利であり、節度があるという観点から出発して、一歩一歩着実に根をおろし着実にたたかいをすすめていかなければならず、わめきたてたり、向こうみずにぶちあたっていくようなやり方では、けっして成功するものではない。
現段階での中国革命の敵が主として帝国主義と封建的地主階級である以上、現段階での中国革命の任務はなにか。
それは、疑いもなく、主としてこの二つの敵を打撃すること、すなわち、対外的には帝国主義の抑圧をくつがえす民族革命、対内的には封建的地主の抑圧をくつがえす民主主義革命であって、そのもっとも主要な任務は帝国主義をうちたおす民族革命である。
中国革命の二大任務はたがいに関連している。帝国主義は封建的地主階級の主要な支持者であるから、もし帝国主義の支配をくつがえさなければ、封建的地主階級の支配をつぶすことはできない。反対にまた、封建的地主階級は帝国主義の中国支配の主要な社会的基礎であり、農民は中国革命の主力軍であるから、もし農民をたすけて封建的地主階級をうちたおさなければ、中国革命の強大な隊列を組織して帝国主義の支配をくつがえすことはできない。したがって、民族革命と民主主義革命という二つの基本的任務は、たがいに区別されるとともに、たがいに統一されている。
中国のこんにちの民族革命の任務は、主として国土に侵入してきた日本帝国主義とたたかうことであり、また民主主義革命の任務は、戦争の勝利をかちとるために完遂しなければならないものであるから、この二つの革命の任務はすでに一つにむすびついている。民族革命と民主主義革命とをまったく異なるニつの革命段階にわけるような観点は、正しくない。
現段階の中国社会の性質、中国革命の対象、中国革命の任務についての分析と規定によると、中国革命の原動力はなにか。
中国社会が植民地・半植民地・半封建の社会であり、中国革命の対象が主として中国における外国帝国主義の支配と国内の封建主義であり、中国革命の任務がこの二つの抑圧者をうちたおすことである以上、中国社会の各階級、各階層のなかで、どんな階級、どんな階層が帝国主義および封建主義とたたかう力になりうるのか。これが現段階における中国革命の原動力の問題である。この革命の原動力の問題をはっきり認識することによってはじめて、中国革命の基本戦術の問題を正しく解決することができる。
現段階の中国社会にはどんな階級があるか。地主階級があり、ブルジョア階級がある。地主階級とブルジョア階級の上層部は、いずれも中国社会の支配階級である。また、プロレタリア階級があり、農民階級があり、農民以外のさまざまな類型の小ブルジョア階級がある。この三つの階級は、こんにちの中国のもっとも広大な領土において、いまなお被支配階級である。
これらすべての階級の中国革命にたいする態度と立場は、もっぱらかれらが社会経済のなかでしめている地位によってきまるのである。したがって、社会経済の性質は、革命の対象と任務を規定しているばかりでなく、革命の原動力をも規定している。
つぎに、中国社会の各階級を分析してみよう。
地主階級は、帝国主義の中国支配の主要な社会的基礎であり、封建制度によって農民を搾取し抑圧する階級であり、政治的、経済的、文化的に中国社会の前進をさまたげ、すこしも進歩的役割をもたない階級である。
したがって、階級としてみれば、地主階級は革命の対象であって、革命の原動力ではない。
抗日戦争のなかで、一部の大地主は、一部の大ブルジョア階級(投降派)に追随して、すでに日本侵略者に投降し、民族裏切り者になっている。他の一部の大地主は、他の一部の大ブルジョア階級(頑迷派)に追随しており、まだ抗戦陣営の内部にとどまってはいるが、やはり非常に動揺している。しかし、多くの中小地主出身の開明紳士、すなわちいくらか資本主義的色彩をもった地主たちには、まだ抗日の積極性があるので、われわれはやはりかれらとも団結して、いっしょに抗日する必要がある。
ブルジョア階級は、買弁性をおびた大ブルジョア階級と民族ブルジョア階級に区別される。買弁性をおびた大ブルジョア階級は、直接に帝国主義国の資本家につかえるとともに、かれらにやしなわれている階級であり、農村の封建勢力とこみいった無数のつながりをもっている。したがって、中国の革命史上では、買弁性をおびた大ブルジョア階級は、これまでずっと、中国革命の原動力ではなくて、中国革命の対象であった。
しかし、買弁性をおびた中国の大ブルジョア階級はいくつかの帝国主義国にそれぞれ属しているので、いくつかの帝国主義国のあいだの矛盾がするどい対立をみせ、革命が主としてある一つの帝国主義とたたかうばあいには、他の帝国主義の系統に属する買弁階級は、やはり、一定の程度、一定の期間、当面の反帝国主義戦線に参加する可能性をもっている。だが、いったんかれらの主人が中国革命に反対するようになると、かれらもすぐ革命に反対する。
抗日戦争のなかで、親日派の大ブルジョア階級(投降派)は、すでに投降したか、あるいは投降しようとしている。欧米派の大ブルジョア階級(頑迷派)は、まだ抗日陣営の内部にとどまってはいるが、やはり非常に動揺しており、かれらこそ、一面では抗日、一面では反共の二面的人物である。大ブルジョア階級の投降派にたいするわれわれの政策は、かれらを敵としてあつかい、断固としてかれらをうちたおすことである。大ブルジョア階級の頑迷派にたいしては、革命的な二面政策をもってあたることである。すなわち、一方では、かれらと連合する。それは、かれらがまだ抗日しており、かれらと日本帝国主義との矛盾はやはり利用すべきものだからである。また、他方では、かれらと断固闘争する。それは、かれらが抗日と団結を破壊する反共、反人民の高圧政策をとっており、これと闘争しなければ、抗日と団結を危うくするからである。
民族ブルジョア階級は、二重性をおびた階級である。
一方では、民族ブルジョア階級は、帝国主義の抑圧をうけ、また封建主義の束縛をもうけているので、帝国主義および封建主義とのあいだに矛盾がある。この面からいえば、かれらは革命の力の一つである。中国の革命史上では、かれらも帝国主義反対、官僚・軍閥政府反対で一定の積極性をしめしたことがある。
だが、他方では、かれらの経済的、政治的軟弱性から、また帝国主義および封建主義との経済的なつながりをまだ完全にはたちきっていないことから、かれらは徹底した反帝、反封建の勇気ももっていない。とくに民衆の革命の力が強大になったときには、こうした状況がもっともはっきりあらわれてくる。
民族ブルジョア階級のこうした二重性はつぎのことを決定している。すなわち、かれらは一定の時期、一定の程度で帝国主義反対、官僚・軍閥政府反対の革命に参加することができ、革命の一つの力になりうる。だが、他の時期には、買弁大ブルジョア階級に追随して、反革命の助手となる危険がある。
中国における民族ブルジョア階級、それは主として中層ブルジョア階級であって、かれらは一九二七年から一九三一年(九・一八事変)まで大地主・大ブルジョア階級に追随して革命に反対したが、基本的にはまだ政権をにぎったことがなく、政権をにぎる大地主・大ブルジョア階級の反動政策にしぼられてきた。抗日の時期には、かれらは、大地主・大ブルジョア階級の投降派とちがいがあるばかりでなく、大ブルジョア階級の頑迷派ともちがいがあり、いまもやはりわれわれの比較的よい同盟者である。したがって、民族ブルジョア階級にたいして慎重な政策をとることは、ぜひとも必要なことである。
農民以外の小ブルジョア階級には、広範な知識人、小商人、手工業者、自由職業者がふくまれる。
これらすべての小ブルジョア階級は、農民階級のなかの中農の地位にいくらか似ており、帝国主義、封建主義、大ブルジョア階級の抑圧をうけて、日ましに破産と没落の羽目においやられている。
したがって、これらの小ブルジョア階級は、革命の原動力の一つであり、プロレタリア階級のたよりになる同盟者である。これらの小ブルジョア階級も、プロレタリア階級の指導のもとでのみ解放されるのである。
ここで、農民以外の、さまざまな類型の小ブルジョア階級を分析してみよう。
第一は、知識人と青年学生である。知識人と青年学生は、一階級または一階層をなしていない。しかし、かれらの出身家庭、かれらの生活条件、かれらの政治的立場からみれば、現代の中国の知識人と青年学生の大部分は小ブルジョア階級の範囲にいれることができる。数十年来、中国には大量の知識人と青年学生があらわれた。これらの人びとのなかで、帝国主義と大ブルジョア階級に接近し、かれらにつかえて民衆に反対する一部の知識人をのぞけば、一般には、帝国主義、封建主義、大ブルジョア階級の抑圧をうけ、失業と学業中断の脅威にさらされている。したがって、かれらは大きな革命性をもっている。かれらは多かれ少なかれ、資本主義の科学知識を身につけ、政治感覚に富み、現段階の中国革命のなかではしばしば先頭部隊としての、かけ橋の役割をはたしている。辛亥革命前の留学生の運動、一九一九年の五・四運動、一九二五年の五・三〇運動、一九三五年の一二・九運動は、そのあきらかな例証である。ことに広範な比較的まずしい知識人は、労働者、農民といっしょになって革命に参加し、革命を支持することができる。マルクス・レーニン主義の思想が、中国でひろくつたわり、うけいれられたのも、最初はやはり、知識人と青年学生のあいだであった。革命勢力の組織化と革命事業の建設は、革命的知識人の参加なしには成功しない。だが、知識人が、まだ大衆の革命闘争と一体にならず、まだ大衆の利益に奉仕し大衆とむすびつく決意をかためないうちは、とかく主観主義と個人主義の傾向をおび、かれらの思想はとかく空虚で行動もとかく動揺的である。したがって、中国の広範な革命的知識人は、先頭部隊としての、かけ橋の役割をもってはいるが、これらの知識人のすべてが最後まで革命をやりぬけるわけではない。そのうち一部のものは、革命の重大な瀬戸ぎわになると、革命の隊列からはなれて消極的な態度をとるようになり、そのうち少数のものは、革命の敵になってしまう。知識人のこのような欠点は、長期の大衆闘争のなかでなければ克服できない。
第二は、小商人である。かれらは、小さな店をひらいているが、一般には店員をやとわないか、少数の店員しかやとわない。帝国主義、大ブルジョア階級、高利貸しの搾取によって、かれらは破産の脅威にさらされている。
第三は、手工業者である。その数は非常に多い。かれらは、自分で生産手段をもっているが、労働者をやとわないか、一、二の徒弟または手伝いしかやとわない。かれらの地位は中農に似ている。
第四は、自由職業者である。さまざまな職をもつ自由職業者がおり、医師もその一つである。かれらは、他人を搾取しないか、ごくわずかしか搾取しない。かれらの地位は手工業者に似ている。
以上にのべた小ブルジョア階級の諸構成部分はおびただしい人口にのぼっている。かれらは、一般に、革命に参加し革命を支持することができ、革命のよい同盟者であり、したがって、かれらを獲得し保護しなければならない。かれらのうち一部のものはブルジョア階級の影響をうけやすい欠点をもっており、したがって、かれらのあいだで革命の宣伝活動と組織活動をおこなうよう心がけなければならない。
農民は、全国総人口のおよそ八〇パーセントを占め、現在の中国国民経済の主要な力である。
農民の内部ははげしい分化の過程にある。
第一は、富農である。富農は、農村人口の五パーセント前後を占めており(地主とあわせれば農村人口の一〇パーセント前後を占める)、農村のブルジョア階級とよばれる。中国の富農の大多数は、一部の土地を小作にだし、また高利貸しもやっており、雇農にたいする搾取も残酷で半封建性をおびている。しかし、富農は一般に自分も労働に参加しており、この点では農民の一部でもある。富農の生産は一定の時期にはやはり有益である。富農は、一般に農民大衆の帝国主義反対の闘争になんらかの力をだす可能性があるし、地主反対の土地革命闘争でも中立をたもつ可能性がある。したがって、われわれは、富農を地主とちがいのない階級とみてはならないし、富農消滅の政策をはやくとりすぎてはならない。
第二は、中農である。中農は中国農村人口のニ○パーセント前後を占めている。中農は、一般には、他人を搾取せず、経済的に自給自足することができる(しかし、豊作のときにはいくらかの余裕ができ、ときにはすこしばかりの雇用労働をつかったり、小金を貸したらすることもある)が、しかし、帝国主義、地主階級、ブルジョア階級の搾取をうけている。中農には政治的権利がない。一部の中農は土地がたりず、いくらか余分に土地をもっているのは一部の中農(富裕中農)だけである。中農は、反帝国主義革命と土地革命に参加できるばかりでなく、社会主義をもうけいれることができる。したがって、すべての中農は、プロレタリア階級のたよりになる同盟者となりうるし、革命の重要な原動力の一部分である。中農の態度の向背は、革命の勝敗を決定する一つの要素であり、土地革命ののち中農が農村で大多数を占めたばあいには、とくにそうである。
第三は、貧農である。中国の貧農は、雇農をふくめて、農村人口のほぼ七〇パーセントを占めている。貧農は、土地をもたないか土地のたりない、膨大な数にのぼる農民大衆であり、農村の半プロレタリア階級であり、中国革命のもっとも大きな原動力であり、プロレタリア階級の本来の、もっともたよりになる同盟者であり、中国革命の隊列のなかの主力軍である。貧農と中農は、プロレタリア階級の指導のもとでのみ解放をかちとることができ、プロレタリア階級も、貧農、中農とかたい同盟をむすんでのみ革命を勝利にみちびくことができるのであって、そうしないかぎりそれは不可能である。農民ということばにふくまれる内容は、主として貧農と中農をさしている。
中国のプロレタリア階級のうち、近代産業労働者はほぼ二百五十万から三百万、都市の小工業と手工業の雇用労働者と商店の店員はほぼ千二百万で、このほか農村のプロレタリア階級(すなわち雇農)および都市と農村のその他のプロレタリアも膨大な数にのぼっている。
中国のプロレタリア階級は、プロレタリア階級一般の基本的な長所、すなわちもっともすすんだ経済形態とつながっていること、組織性、規律性に富んでいること、生産手段を私有していないことのほかにも、多くのきわだった長所をもっている。
中国のプロレタリア階級には、どのようなきわだった長所があるだろうか。
第一に、中国のプロレタリア階級は、三重の抑圧(帝国主義の抑圧、ブルジョア階級の抑圧、封建勢力の抑圧)をうけており、しかも、その抑圧のきびしさと残酷さは世界の諸民族のうちでもまれである。したがって、かれらは、革命闘争のなかで、他のどの階級よりも断固としており、徹底している。植民地・半植民地の中国には、ヨーロッパのような社会改良主義の経済的基礎がないので、ごく少数の労働貴族をのぞいては、この階級は全体がもっとも革命的である。
第二に、中国のプロレタリア階級は、革命の舞台に登場しはじめたときから、この階級の革命政党――中国共産党の指導をうけて、中国社会でもっとも意識の高い階級となった。
第三に、中国のプロレタリア階級は、破産した農民の出身者が多数を占めているので、広範な農民とのあいだに本来的なつながりをもち、農民と親密な同盟をむすぶのに都合がよい。
したがって、中国のプロレタリア階級は、人数が比較的少ないこと(農民にくらべて)、歴史が比較的あさいこと(資本主義国のプロレタリア階級にくらべて)、文化水準が比較的ひくいこと(ブルジョア階級にくらべて)などのさけがたい弱点をもつにもかかわらず、かれらは結局のところ中国革命のもっとも基本的な原動力となっている。中国革命は、プロレタリア階級の指導がなければ、どうしても勝利することはできない。遠い例は辛亥革命で、当時はまだプロレタリア階級の意識的な参加もなく、共産党もなかったので、これは流産してしまった。近い例は一九二四年から一九二七年までの革命で、このときはプロレタリア階級の意識的な参加と指導があり、すでに共産党があったので、一時期、大きな勝利をおさめることができた。だが、のちに大ブルジョア階級がプロレタリア階級との同盟を裏切り、共同の革命綱領を裏切ったので、また、当時の中国のプロレタリア階級とその政党がまだ豊富な革命の経験をもっていなかったので、結局は失敗に終わった。抗日戦争がはじまってからは、プロレタリア階級と共産党が抗日民族統一戦線を指導しているので、全民族を団結させ、偉大な抗日戦争を発動し、堅持している。
中国のプロレタリア階級は、つぎのことを理解しなければならない。すなわち自分自身はもっとも高い意識ともっとも高い組織性をもつ階級ではあるが、自分の階級の力だけでは勝利することができない。勝利するには、さまざまな異なった状況のもとで、結集できるすべての革命的な階級と階層を結集して、革命の統一戦線を組織しなければならない。中国社会の各階級のうち、農民は労働者階級のゆるぎない同盟軍であり、都市小ブルジョア階級もたよりになる同盟軍であり、民族ブルジョア階級は一定の時期、一定の程度での同盟軍であること、これは現代の中国革命の歴史がすでに証明している根本法則の一つである。
中国の植民地・半植民地の地位は、中国の農村や都市の膨大な失業者群をつくりだしている。この失業者群のなかには、まともな生活の道をいっさいたたれ、生きていくためにいかがわしい職業をもとめざるをえない人がたくさんいる。これが、匪賊、ごろつき、こじき、娼妓、そしてまた迷信を業とする多くのもののうまれてくるみなもとである。この階層は動揺的な階層で、そのうちの一部のものは反動勢力に買収されやすいが、他の一部のものは革命に参加する可能性をもっている。だが、かれらは建設性に欠けており、建設的であるよりは破壊的であるので、革命に参加してからも、革命の隊列のなかの流賊主義や無政府主義思想のうまれてくるみなもとになる。したがって、かれらをうまく改造し、かれらの破壊性をふせぐよう注意しなければならない。
以上が、中国革命の原動力についての、われわれの分析である。
われわれは、すでに中国社会の性質、すなわち中国の特殊な国情を知ったが、これは、中国革命のすべての問題を解決するもっとも基本的なよりどころである。われわれはまた、中国革命の対象、中国革命の任務、中国革命の原動力を知ったが、これらはみな、中国社会の特殊な性質、中国の特殊な国情からうまれた、現段階の中国革命にかんする基本問題である。これらすべての点を知ったので、われわれはつぎに現段階の中国革命のもう一つの基本問題、すなわち中国革命の性質がなんであるかを知ることができる。
現段階の中国革命は、いったいどんな性質の革命であろうか。ブルジョア民主主義革命であろうか、それともプロレタリア社会主義革命であろうか。あきらかに、後者ではなくて前者である。
中国社会がまだ植民地・半植民地・半封建の社会である以上、中国革命の敵がまだ主として帝国主義と封建勢力である以上、中国革命の任務がこの二つの主要な敵をうちたおす民族革命と民主主義革命である以上、しかも、この二つの敵をうちたおす革命にはブルジョア階級が参加することもあって、たとえ大ブルジョア階級が革命を裏切って革命の敵になったとしても、革命のほこ先はやはり資本主義一般と資本主義的私有財産にむけられるのではなくて、帝国主義と封建主義にむけられる以上、現段階の中国革命の性質は、プロレタリア社会主義的なものではなくて、ブルジョア民主主義的なものである〔24〕。
だが、現在の中国のブルジョア民主主義革命は、もはや、時代おくれになったふるい型の一般的なブルジョア民主主義革命ではなくて、新しい型の特殊なブルジョア民主主義革命である。このような革命はいま中国およびすべての植民地、半植民地諸国で発展しつつあるもので、われわれはこのような革命を新民主主義革命とよんでいる。このような新民主主義革命は、世界プロレタリア社会主義革命の一部分であり、帝国主義すなわち国際資本主義と断固たたかうものである。それは、政治的には、いくつかの革命的階級が連合して帝国主義者と民族裏切り者、反動派にたいしておこなう独裁であり、中国社会をブルジョア独裁の社会とすることに反対する。それは、経済的には、帝国主義者と民族裏切り者、反動派の大資本、大企業を没収して国家の経営にうつし、地主階級の土地を分配して農民の所有にうつすが、同時に、一般の私的資本主義企業は保存し、富農経済も消滅しない。したがって、このような新しい型の民主主義革命は、一方では資本主義のために道をはききよめろが、他方では社会主義のために前提をつくりだすものである。中国の現在の革命段階は、植民地・半植民地・半封建の社会を終結させ社会主義社会を樹立するまでの一つの過渡的段階であり、新民主主義革命の過程であるいこの過程は第一次世界大戦とロシア十月革命ののちにはじめてうまれたもので、中国では一九一九年の五・四運動からはじまったものである。新民主主義革命とは、プロレタリア階級の指導のもとにおける人民大衆の反帝・反封建の革命のことである。中国の社会が、さらに一歩すすんで社会主義の社会に発展していくには、この革命を経なければならず、そうしないかぎりそれは不可能である。
このような新民主主義革命は、過去における欧米諸国の民主主義革命とは大いに異なっている。それは、ブルジョア階級の独裁をつくりあげるのではなくて、プロレタリア階級の指導のもとにおける革命的諸階級の統一戦線の独裁をつくりあげるのである。抗日戦争中、中国共産党の指導する各抗日根拠地にうちたてられる抗日民主政権は、抗日民族統一戦線の政権である。それは、ブルジョア階級一階級の独裁でもなければ、プロレタリア階級一階級の独裁でもなくて、プロレタリア階級の指導のもとにおけるいくつかの革命的階級が連合しておこなう独裁である。抗日にも賛成し、民主主義にも賛成するものでさえあれば、どの政党どの政派に属するものでも、みなこの政権に参加する資格をもっている。
このような新民主主義革命は、社会主義革命とも異なっている。それは、中国における帝国主義と民族裏切り者、反動派の支配をくつがえすだけであって、反帝・反封建にまだ参加しうる資本主義的要素はどのようなものも破壊しない。
こうした新民主主義革命は、孫中山が一九二四年に主張した三民主義の革命と基本的には一致している。孫中山は、この年に発表した『中国国民党第一回全国代表大会宣言』で、「近世各国のいわゆる民権制度は、往々にしてブルジョア階級に専有され、まさしく平民を抑圧する道具になっている。国民党の民権主義についていえば、一般平民の共有するものであって、少数のものが私しうるものではない」といい、「すべて中国人および外国人の企業で、独占的性質をもつか、もしくは規模が大きすぎて私的な力では経営できないもの、たとえば銀行、鉄道、航空事業などのたぐいは、国家がこれを経営管理し、私有資本制度が国民の経済生活を左右できないようにする。これが資本節制の主旨である」ともいっている。孫中山はまたその遺言のなかで、「民衆をよびさまし、そして、世界でわれらを平等に遇する民族と連合し、ともに奮闘しなければならない」という内政、外交の根本原則を指摘している。すべてこうした点から、ふるい国際的、国内的環境に照応した旧民主主義的な三民主義は新しい国際的、国内的環境に照応した新民主主義的な三民主義に改造されたのである。中国共産党が一九三七年九月二十二日に発表した宣言で、「三民主義は中国がこんにち必要とするものであり、わが党はその徹底的な実現のために奮闘するものである」と声明したのは、他のいかなる三民主義でもなく、このような三民主義をさすのである。このような三民主義は、孫中山の三大政策、すなわち連ソ・連共・農労援助の政策をとる三民主義である。新しい国際的、国内的条件のもとでは、三大政策をはなれた三民主義は革命の三民主義ではない(共産主義と三民主義は、民主主義革命の基本的政治綱領のうえでおなじであるだけで、ほかのすべての点では、みな異なっているが、この問題については、ここではふれない)。
こうして、中国のブルジョア民主主義革命では、その闘争の戦線(統一戦線)からいっても、その国家構成からいっても、プロレタリア階級、農民階級、その他の小ブルジョア階級の地位が無視できなくなっている。中国のプロレタリア階級、農民階級、その他の小ブルジョア階級をそっちのけにしようとするものは、中華民族の運命をけっして解決することができないし、中国のいかなる問題をもけっして解決することができない。中国の現段階の革命がうちたてようとする民主共和国は、かならず労働者、農民、その他の小ブルジョア階級がそのなかで一定の地位をしめ、一定の役割をはたす民主共和国でなければならない。いいかえれば、労働者、農民、都市小ブルジョア階級およびその他すべての反帝・反封建的な人びとの革命的同盟による民主共和国でなければならない。このような共和国の徹底的な実現は、プロレタリア階級の指導のもとでのみ可能である。
現段階での中国社会の性質、中国革命の対象、任務、原動力、性質というこれらの基本問題をはっきりさせたので、中国革命の前途の問題、つまり中国のブルジョア民主主義革命とプロレタリア社会主義革命との関係の問題、中国革命の現在の段階と将来の段階との関係の問題もたやすく理解することができる。
現段階の中国のブルジョア民主主義革命が、一般のふるい型のブルジョア民主主義革命ではなくて、特殊の新しい型の民主主義革命であり、新民主主義革命である以上、しかも中国革命が、二〇世紀の三十年代から四十年代にかけての新しい国際環境、すなわち社会主義の高揚、資本主義の低落という国際環境におかれ、第二次世界大戦と革命の時代におかれている以上、中国革命の終極の前途も、資本主義的なものではなくて、社会主義的、共産主義的なるのであることは、疑問の余地がない。
現段階の中国革命が植民地・半植民地・半封建の社会という現在の地位をあらためるために、すなわち新民主主義革命の達成のためにたたかうものである以上、革命の勝利後、資本主義の発展の途上によこたわる障害物が一掃されたことによって中国の社会で資本主義経済が一定の程度まで発展することはもちろん予想できるし、ふしぎなことでもない。資本主義が一定の程度まで発展することは、経済のおくれている中国で民主主義革命の勝利後さけられない結果である。しかし、これは中国革命の結果の全部ではなく、結果の一つの面にすぎない。中国革命の結果全体としては、一面では資本主義的要素の発展をみせ、もう一面では社会主義的要素の発展をみせる。この社会主義的要素とはなにか。それは、全国の政治勢力のなかでプロレタリア階級と共産党の比重が増大することであり、農民、知識人、都市小ブルジョア階級がプロレタリア階級と共産党の指導権をすでに認めたか、あるいはそれを認める可能性があることであり、民主共和国の国営経済と勤労人民の協同組合経済である。これらはすべて社会主義的要素である。そのうえ国際環境の有利なことがくわわれば、中国のブルジョア民主主義革命が終局において資本主義の前途をさけ、社会主義の前途を実現するというきわめて大きな可能性がどうしてもうまれるようになる。
この章の各節でのべたことをまとめてみると、中国革命全体は二重の任務をもっていることがわかる。つまり中国革命は、ブルジョア民主主義的性質の革命(新民主主義革命)とプロレタリア社会主義的性質の革命、現在の段階の革命と将来の段階の革命という二重の任務をもっている。この二重の革命の任務にたいする指導は、いずれも中国のプロレタリア政党 中国共産党の双肩にかかっているのであり、中国共産党の指導なしには、どのような革命も成功をおさめることができない。
中国のブルジョア民主主義革命(新民主主義革命)を達成するとともに、すべての必要条件がそなわったときそれを社会主義革命の段階に転化させること、これが中国共産党の光栄ある偉大な革命的任務の全部である。共産党員の一人ひとりは、このために奮闘すべきであって、絶対に中途でやめてはならない。一部の未熟な共産党員は、われわれには現在の段階の民主主義革命の任務があるだけで、将来の段階の社会主義革命の任務はないと考えたり、現在の革命や土地革命は社会主義革命であると考えたりしている。これらの観点はあやまりであることを、とくに指摘しなければならない。共産党員の一人ひとりは、中国共産党の指導する中国の革命運動全体が民主主義革命と社会主義革命という二つの段階をふくむ革命運動の全部であること、これは性質の異なる二つの革命の過程であり、まえの革命の過程を完結させないかぎり、あとの革命の過程を完結できないことを、知らなければならない。民主主義革命は社会主義革命の必要な準備であり、社会主義革命は民主主義革命の必然の趨勢である。そして、すべての共産主義者の最終目的は、社会主義社会と共産主義社会の最終的な達成をたたかいとることである。民主主義革命と社会主義革命の区別および両者の連係をはっきり認識しないかぎり、中国革命を正しく指導することはできない。
中国の民主主義革命と中国の社会主義革命という二つの偉大な革命を徹底的に達成するよう指導するのは、中国共産党をのぞいて、他のいかなる政党(ブルジョア政党であれ、小ブルジョア政党であれ)にもできないことである。中国共産党は、党創立のその日から、このような二重の任務を自分の双肩ににない、しかもそのためにまる十八年も刻苦奮闘してきた。
こうした任務は、非常に光栄なものであるが、同時に非常に骨の折れるものでもある。全国的範囲の、ひろい大衆性のある、思想的、政治的、組織的に完全に強固な、ボリシェビキ化された中国共産党がなければ、このような任務を達成することはできない。したがって、このような共産党を積極的に建設することは、共産党員一人ひとりの責務である。
〔1〕 中国で羅針盤が発明されたという話はずっと昔からつたわっている。西紀前三世紀の戦国時代の『呂氏春秋』に「磁石は鉄を召す」ということばがあるのをみても、当時、中国人はすでに、磁石が鉄を吸いつけるということを知っていたことがわかる。一世紀のはじめ、すなわち東漢の初年、王充の『論衡』に、磁勺の柄か南をさすとのべてあるのをみると、磁石が極をさす性質をもつことは、当時すでに発見されていたことがわかる。一二世紀のはじめ、すなわち宋の徽宗のころ、朱或の『萍洲可談』と徐兢の『宣和奉使高麗図経』には、航海用羅針盤のことがのべてあり、当時すでに羅針盤の使用が相当ゆきわたっていたことがわかる。
〔2〕 東漢の宦官蔡倫は、樹皮、麻くず、ぼろ布、漁網をつかって紙をつくることを発明した。西紀一〇五年、すなわち漢の和帝の未年に、蔡倫はこの発明を皇帝にひきわたした。それ以後、一般にひろく用いられるようになり、「蔡侯紙」とよばれた。
〔3〕 中国の印刷術は、隋朝、すなわち西紀六〇〇年前後にはじまった。
〔4〕 宋の仁宗の慶暦年間(西紀一○四一~一○四八年)に、畢昇が活字印刷を発明した。
〔5〕 中国では、火薬は九世紀に発明されたものといい伝えられている。一一世紀のころになると、中国ではすでに火薬をつかって火砲をつくり、戦争に用いられていた。
〔6〕 これは中国のさいしょの農民の大蜂起であった。西紀前二〇九年、すなわち秦の二世元年、陳勝、呉広は駐屯地におもむく途中、[”くさかんむり”の下に”單+斤”]県(いまの安徽省宿県)地方で、同行の守備兵九百人をひきいて、秦朝の暴政に反抗する蜂起をおこし、全国がこれに呼応した。項羽とその叔父項梁は呉(いまの江蘇省呉県)で兵をあげ、劉邦は沛(いまの江蘇省沛県)で兵をあげた。項羽の部隊は秦軍の主力を消滅したが、劉邦の部隊はさきに関中と秦の首都を占領した。その後、劉邦と項羽の双方が争い、項羽が敗死し、劉邦がついに秦にかわって皇帝となり、漠朝の創始者になった。
〔7〕 西漢の末年には、あちこちで農民騒動や小規模な農民蜂起がおこった。西紀八年、王莽は漢にかわって皇帝になり、農民の騒動をゆるめようとして、いくらかの改革策をかかげた。当時、南部に大飢饉がおこり、新市(いまの湖北省京山県)の人、王匡、王鳳は飢えた民衆から指導者におされて蜂起をおこした。その後、この農民軍は南陽に攻めいり、「新市兵」と称した。平林(いまの湖北省随県の東北部)の人、陳牧ら千余人も蜂起し、「平林兵」と称した。赤眉と銅馬もやはり王莽時代の農民蜂起軍で、銅馬の蜂起した地区は河北の中部一帯であり、赤眉の蜂起した地区は山東の中部一帯である。赤眉の指導者は樊崇であり、蜂起に参加したものはみな眉を赤くぬっていたので「赤眉軍」と称した。「赤眉軍」は当時最大の農民蜂起軍であった。
〔8〕 西紀一八四年、東漢の霊帝のとき、張角は農民を指導して蜂起をおこなった。蜂起軍はみな黄色の頭巾をかぶって目じるしにした。
〔9〕 七世紀のはじめ、すなわち隋朝の末年には、農民がしきりに蜂起した。李密、竇建徳は、当時蜂起した人物である。李密は河南、竇建徳は河北にいたが、かれらが指導する蜂起軍は、当時、非常に意気さかんな隊伍であった。
〔10〕 王仙芝は、西紀八七四年(唐の僖宗年間)に山東地方で蜂起し、翌年、黄巣が民衆をあつめて、これに呼応した。本選集第一巻の『党内のあやまった思想の是正について』注〔2〕を参照。
〔11〕 宋江と方臘は、一二世紀のはじめ、宋の徽宗の宣和年間に北部と南部でおこった農民蜂起の有名な指導者であった。宋江は平原、山東、河北、河南、江蘇の境界地帯で、方臘は新江、安徽一帯で活躍した。
〔12〕 一三五一年、元の順帝の至正十一年、各地の人民が蜂起した。安徽の鳳陽の人、朱元璋は郭子興の蜂起軍に投じ、郭が死ぬと、その蜂起軍の指導者になり、ついに蒙古王朝の支配をくつがえし、明朝の初代皇帝となった。
〔13〕 本選集第一巻の『党内のあやまった思想の是正について』注〔3〕を参照。
〔14〕 本選集第一巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』注〔33〕を参照。
〔15〕 一八五六年から一八六〇年にかけてイギリス、フランス両国は連合して、中国にたいする侵略戦争をおこし、アメリカと帝政ロシアも側面からかれらをたすけた。当時、清朝政府は、太平天国農民革命の弾圧に全力をあげていたので、外国の侵略者にたいしては消極的抵抗の政策をとった。イギリス、フランス連合軍は広州、天津、北京などの重要都市をあいついで攻略し、北京の圓明園を略奪し、焼きはらい、清朝政府にせまって「天津条約」と「北京条約」を締結させた。これらの条約は、おもに、天津、牛荘、登州、台湾、淡水、潮州、瓊州、南京、鎮江、九江、漢口などを通商港として開放すること、外国人が中国の奥地を旅行し、あるいは伝道する特権をもち、中国の河川を航行する特権をもつことを規定した。それ以後、外国の侵略勢力は、中国の沿海各省にいっそうひろがり、奥地にもふかくはいりこんだ。
〔16〕 一八八四年から一八八五年にかけてフランス侵略者はベトナムおよび広西、福建、台湾、淅江などを武力侵略した。中国の軍隊は、馮子材、劉永福らにひきいられて、敢然と抵抗し、しばしば勝利をおさめた。だが、腐敗した清朝政府は、戦争に勝利しながら、かえって屈辱的な「天津条約」を締結した。
〔17〕 一九〇〇年、イギリス、アメリカ、ドイツ、フランス、ロシア、日本、イタリア、オーストリアの八つの帝国主義国は、侵略に反抗する中国人民の義和団運動を弾圧するために、連合して出兵し、中国に進攻したが、中国人民は英雄的に抵抗した。八ヵ国連合軍は、大沽を攻めおとし、天津、北京を占領した。一九〇一年、清朝政府は、八つの帝国主義国と「辛丑条約」を締結した。この条約はおもに、中国が各国に軍費の賠償として銀四億五干方両の巨額を支払い、また、各帝国主義が北京および北京から天津、山海関にいたる一帯の地区に駐兵する不法な特権をもつことを規定した。
〔18〕 領事裁判権は、帝国主義国が旧中国政府を強迫して締結させた不平等条約のなかで規定している特権の一つで、一八四三年の中英「虎門条約」と一八四四年の中米「望廈条約」がそのはじまりである。この特権は、中国で領事裁判権をもつ国の居留民が中国で民事訴訟または刑事訴訟の被告となったばあい、中国の法廷はこれを裁判する権利がなく、当該国の領事だけが裁判できるというものである。
〔19〕 一九世紀の末以来、中国を侵略した帝国主義諸国は、それぞれの国の中国における経済的、軍事的勢力に応じて、中国のある地区を自国の勢力範囲にした。たとえば当時、長江の中流と下流の諸省はイギリスの勢力範囲、雲南省、広西省、広東省はフランスの勢力範囲、山東省はドイツの勢力範囲、また福建省は日本の勢力範囲にされていた。東北の遼寧、吉林、黒竜江三省は、もと帝政ロシアの勢力範囲にされていたが、一九○五年の日露戦争のあと、東北三省の南部が日本の勢力範囲となった。
〔20〕 帝国主義諸国は、清朝政府にせまって内河沿岸と沿海のいくつかの都市を通商港としてみとめさせたのち、かれらが適当と考える地方で一定の地区を強引に占拠して「租界」にした。このいわゆる「租界」のなかでは、中国の行政系統と法律制度から完全に独立した一連の支配制度、すなわち帝国主義の植民地制度が実行された。帝国主義は、またこうした「租界」をつうじて、政治的にも経済的にも、中国の封建・買弁階級の支配を直接または間接におさえた。一九二四年から一九二七年にかけての革命で、革命的大衆は、中国共産党の指導のもとに、租界をとりもどす運動をすすめ、一九二七年一月に漢□と九江のイギリス租界をとりもどした。だが、蒋介石が革命を裏切ってから、中国各地における帝国主義の租界は、ひきつづきのこされた。
〔21〕 コミンテルン第六回大会における『植民地、半植民地諸国の革命運動にかんするテーゼ』から引用。
〔22〕 一九二七年五月二十四日、スターリンがコミンテルン執行委員会第八回総会でおこなった演説『中国革命とコミンテルンの任務』から引用。
〔23〕 スターリンの『中国革命の見通しについて』から引用。
〔24〕 レーニンの『社会民主党の農業綱領』を参照。
① 本巻の『五・四運動』注〔1〕を参照。
② 本巻の『持久戦について』注〔7〕を参照。
③ 「隠蔽と精鋭化をはかる」とは、革命の力を敵の破壊からまもり、しかも活動を展開するために、党の各級指導機関は行動のにぶくなるような組織の膨大化をかならずさけ、小規模な精鋭化したものにすべきこと、党勢の拡大は、党員の増加だけをはかるのではなくて、質と必要を重んじること、党組織と党員は、ふかく大衆のなかへはいって、広範な大衆と大衆組織のなかに根をおろし、社会運動の各方面にはいりこみ、絶対に露見してはならない、ということである。
(一九三九年十二月二十日)
ことしの十二月二十一日は、スターリン同志の六十歳の誕生日である。この誕生日には、全世界の、このことを知っていてしかも革命的な人なら、だれでも心の底から親しみのこもったお祝いの気持ちがわいてくることと思われる。
スターリンをお祝いするのは、おざなりに祝うということではない。スターリンをお祝いするということは、かれを支持することであり、かれの事業を支持することであり、社会主義の勝利を支持することであり、かれが人類にさししめした方向を支持することであり、自分の親しい友を支持することである。なぜなら、現在全世界の人類の大多数はみな受難者であり、ただスターリンのさししめす方向、ただスターリンの援助だけが、人類を災難から救うことができるからである。
われわれ中国人民は、歴史上災難のもっともひどい時期、他人の援助をもっとも切実に必要とする時期におかれている。『詩経』には「鳥の嚶々と鳴くは友を求むる声」ということばがあるが、われわれはまさにそういう時期におかれている。
それなら、だれがわれわれの友であろうか。
一種のいわゆる友がいて、かれらはみずから中国人民の友だと称しており、中国人のなかでも一部のものは、考えもせずにかれらを友だといっている。だが、そのような友は、唐代の李林甫〔1〕のたぐいでしかない。李林甫は唐代の宰相で、「口に蜜あり、腹に剣あり」といわれた有名な人物である。いまのそうしたいわゆる「友」は、それこそ「口に蜜あり、腹に剣あり」という友である。それはだれであろうか。口先では中国に同情するといっている帝国主義者である。
もう一種の友は、それとはちがっていて、われわれにほんとうの同情をよせており、われわれを兄弟とみなしている。それはだれであろうか。ソ連の人民であり、スターリンである。
どの国も中国における特権を廃棄しなかったが、ソ連だけはそれを廃棄した。
第一次大革命の時期には、すべての帝国主義者がわれわれに反対したが、ソ連だけはわれわれを援助した。
抗日戦争いらい、どの帝国主義国の政府も、ほんとうにはわれわれを援助しなかったが、ソ連だけは空軍と物資をもってわれわれを援助した。
これでもまだはっきりしないというのだろうか。
中華民族と中国人民の解放事業をほんとうに援助してくれるのは、社会主義の国、社会主義の指導者、社会主義の人民、社会主義的な思想家、政治家、勤労者だけである。かれらの援助なしには、われわれの事業は、最後の勝利をかちとることはできないのである。
スターリンは中国人民の解放事業の誠実な友である。中国人民のスターリンにたいする敬愛、ソ連にたいする友情は、まったく誠意のこもったものであり、なにびとの挑発離間、デマ中傷も、結局はむだである。
〔1〕 李林甫は八世紀の人、唐の玄宗の宰相である。『資治通鑑』はつぎのようにのべている。「李林甫は宰相となるや、才能、人望、功労、業績の自分よりまさる者、および皇帝に重んぜられてその勢力、地位が自分に迫る者は、かならずあらゆる方法を講じてそれをのぞいた。なかでも学問のある人をねたみきらった。表向きにはよくつきあい、甘いことばであしらって、かげでこれをおとしいれた。そこで世間では、李林甫のことを、口に蜜あり腹に剣あり、といった。」
(一九三九年十二月二十一日)
ベチューン同志〔1〕はカナダ共産党員で、五十余歳であった。中国の抗日戦争をたすけるため、カナダ共産党とアメリカ共産党から派遣されて、万里を遠しとせず、中国にこられた。昨年の春延安につき、そのご五台山にいって活動していたが、不幸にして殉職された。外国人が、少しの利己的な動機もなしに中国人民の解放事業を自分自身の事業としたのは、どういう精神からであろうか。それは国際主義の精神であり、共産主義の精神であって、中国共産党員の一人ひとりがこのような精神を学ばなければならない。レーニン主義によれば、世界革命の勝利をかちとるには、資本主義国のプロレタリア階級は植民地・半植民地人民の解放闘争を支持し、植民地、半植民地のプロレタリア階級は資本主義国のプロレタリア階級の解放闘争を支持しなければならない〔2〕。ベチューン同志はこのレーニン主義の路線を実践したのである。われわれ中国共産党員もこの路線を実践しなければならない。われわれはすべての資本主義国のプロレタリア階級と団結し、日本、イギリス、アメリカ、ドイツ、イタリアなどすべての資本主義国のプロレタリア階級と団結しなければならない。そうしてこそ、帝国主義を打倒し、わが民族と人民を解放し、世界の民族と人民を解放することができるのである。これがわれわれの国際主義であり、これがせまい民族主義やせまい愛国主義に反対するわれわれの国際主義である。
ベチューン同志の少しも利己的でなく、ひたすら人につくす精神は、かれの仕事にたいする極度の責任感、同志と人民にたいする極度の熱誠にあらわれている。共産党員の一人ひとりがかれに学ばなければならない。すくなからぬ人びとは、仕事にたいする責任感がなく、苦しい仕事はさけて楽な仕事をえらび、重い荷物は人におしつけて軽い荷物を自分がかつぐ。なにをするにも、まず自分のためを考え、それから人のことを考える。少しでも仕事をすると、すっかり思いあがって、人が知らないのではないかとこのんでふいちょうする。同志と人民にたいしては、あふれるような熱誠をもって接するのではなく、冷淡そのもので、なんの関心ももたず、まったく無感覚である。このような人は、じつは共産党員ではない、すくなくとも純粋の共産党員とはいえない。前線から帰ってきたもので,話がベチューンのことになると、だれひとり敬服しないものはなく、だれひとりかれの精神に感動しないものはない。山西・察哈爾・河北辺区の軍民のあいだには、直接ベチューン医師の治療をうけたもの、またはベチューン医師の活動を目のあたりにみたもので、感動しないものはない。共産党員の一人ひとりが、ベチューン同志のこのような真の共産主義者としての精神をぜひとも学ばなければならない。
ベチューン同志は医師であった。かれは医療を職業とし、技術については、研究のうえにも研究をかさねた。かれの医術は、八路軍の全医務関係者のなかで、とくにすぐれていた。このことも、変わったものをみるとすぐに気うつりする人びとや、技術的な仕事をつまらないものと考えたり、将来性がないと考えたりして、それをみくびる人びとにとって、非常によい教訓である。
わたしは、ベチューン同志と一回あったきりである。そののち、かれはなんども手紙をくれたが、わたしはいそがしかったので、一回しか返事を出さなかった。それもかれがうけとったかどうかわからない。かれの死を、わたしは非常に悲しんでいる。いま、人びとはかれを記念しているが、これをみても、かれの精神がどんなにふかく人びとを感動させているかがわかる。われわれは、みな、かれの少しも私利私欲のない精神を学ばなければならない。この点から出発すれば、大いに人民に役だつ人となることができる。人の能力には大小のちがいがあるが、この精神さえ持っていれば、それは高尚な人であり、純粋な人であり、道徳的な人であり、低級な趣味からぬけだした人であり、人民にとって有益な人である。
〔1〕 ノーマン・ベチューンはカナダ共産党員であり、有名な医師であった。一九三六年、ドイツ、イタリアのファシスト強盗どもがスペインに侵入したとき、かれは、反ファシズムのスペイン人民に奉仕するため、みずから前線におもむいた。一九三七年、中国の抗日戦争が勃発した。かれはカナダ人とアメリカ人からなる医療隊をひきいて中国の解放区にやってきた。一九三八年四月、延安をへて山西・察哈爾・河北辺区におもむき、そこで二年間活動していた。かれの犠牲的精神、仕事にたいする熱誠、責任感などは、人びとの手本となっている。かれは、負傷者治療のさいの感染によって、一九三九年十一月十二日、河北省の唐県で逝去した。
〔2〕 スターリンの『レーニン主義の基礎について』第六の部分の「民族問題」を参照。
(一九四〇年一月)
抗戦いらい、全国の人民のあいだにはいきいきとした気運がみなぎっている。人びとは活路がひらけたとおもい、うれいをおびた顔もすっかりはれやかになった。ところが最近、妥協の空気や反共のわめき声がまたもや急に騒々しくなり、全国の人民をふたたび五里霧中においこんでいる。とくに文化人や青年学生は敏感なだけに、まっさきにそれに突きあたっている。そこで、どうしたらよいのか、中国はどこへいくのか、ということがまた問題になってきた。したがって、『中国文化』〔1〕の出版を機会に、中国の政治と中国の文化の動向の問題を説明することは、あるいは役にたつかもしれない。文化の問題については、わたしは門外漢で、ひとつ研究してみたいとおもいながらも、やっとはじめたばかりである。さいわい、延安の多くの同志には、すでにくわしい論文があるので、わたしのこの大ざっぱなものが幕あけのどらがわりにでもなれば結構である。全国の進歩的な文化活動家にとって、われわれのものは、さしずめよい意見をひきだすよび水、せめてものとりえというほどのものにすぎないが、みんなで討議して正しい結論をひきだし、わが民族の要求にこたえるようにしたいとおもう。科学的な態度とは、「事実にもとづいて法則性をもとめる」ことであって、「ひとりよがり」や、「先生ぶる」ような思いあがった態度では、けっして問題を解決することはできない。わが民族の災難はきわめて深く、わが民族を解放の道にみちびくことができるのは、科学的な態度と責任をもつ精神だけである。真理は一つしかなく、はたして、だれが真理をつかんだかは、主観的な誇張によるのではなくて、客観的な実践によるのである。何百何千万という人民の革命的実践だけが、真理を検証する尺度である。わたしは、これを『中国文化』出版の態度としてよいとおもう。
われわれ共産党員は、多年にわたって、中国の政治革命と経済革命のために奮闘してきただけでなく、中国の文化革命のためにも奮闘してきた。これらの目的は、すべて中華民族の新社会と新国家を建設することにある。この新社会と新国家には、新政治と新経済があるばかりでなく、新文化もある。つまり、われわれは、政治的に抑圧され経済的に搾取されている中国を、政治的に自由で経済的に繁栄した中国に変えるだけでなく、旧文化に支配され、そのため無知でたちおくれている中国を、新文化に支配され、そのため文明的ですすんだ中国に変えるのである。一言でいえば、われわれは新中国をうちたてるのである。中華民族の新文化をうちたてること、これが文化の分野におけるわれわれの目的である。
われわれは中華民族の新文化をうちたてるのであるが、その新文化とはいったいどのような文化であろうか。
一定の文化(イデオロギーとしての文化)は、一定の社会の政治と経済の反映であり、また一定の社会の政治と経済に大きな影響をあたえ作用をおよぼす。そして、経済が基礎であり、政治は経済の集中的表現である〔2〕。これが、文化と政治、経済との関係、および政治と経済との関係についてのわれわれの基本的観点である。そこで、一定の形態の政治と経済が、まず、その一定の形態の文化を決定するのであり、それから、その一定の形態の文化がこんどは一定の形態の政治と経済に影響をあたえ作用をおよぼすのである。マルクスは、「人間の意識がかれらの存在を規定するのではなくて、逆に、かれらの社会的存在がかれらの意識を規定する」〔3〕といっている。かれはまた、「哲学者たちは、世界をいろいろに解釈してきただけである。だが、かんじんなことは、それを変革することである」〔4〕ともいっている。これは、人類の歴史はじまっていらい、意識と存在との関係の問題をはじめて正しく解決した科学的な規定であり、のちにレーニンがほりさげて展開した能動的、革命的反映論の基本的観点である。中国の文化問題を討議するにあたって、われわれはこの基本的観点をわすれてはならない。
こうみてくると、問題は非常にはっきりしている。われわれがとりのぞこうとする中華民族の旧文化のうちのあの反動的要素は、中華民族の旧政治と旧経済からはなれることのできないものであり、われわれがうちたてようとする中華民族のこの新文化も、やはり中華民族の新政治と新経済からはなれることのできないものである。中華民族の旧政治と旧経済は中華民族の旧文化のよりどころであり、中華民族の新政治と新経済は中華民族の新文化のよりどころである。
中華民族の旧政治、旧経済とはなにか。また、中華民族の旧文化とはなにか。
周、秦いらい、中国は封建社会であって、その政治は封建的な政治であり、その経済は封建的な経済であった。そして、このような政治と経済の反映としての、支配的な地位をしめていた文化は封建的な文化であった。
外国の資本主義が中国を侵略し、中国の社会にも資本主義の要素がしだいに生長するようになってから、中国はしだいに植民地・半植民地・半封建の社会に変わってきた。いまの中国は、日本占領区では植民地社会であり、国民党支配区でも基本的にはやはり半植民地社会である。そして、日本占領区と自民党支配区とを問わず、いずれも封建・半封建制度が優位をしめている社会である。これが現在の中国社会の性質であり、これが現在の中国の国情である。支配的なものについていえば、このような社会の政治は植民地・半植民地・半封建的な政治であり、その経済は植民地・半植民地・半封建的な経済である。そしてこのような政治と経済の反映としての、支配的地位をしめる文化は、植民地・半植民地・半封建的な文化である。
これらの支配的な政治、経済および文化の形態がわれわれの革命の対象である。われわれがとりのぞこうとしているのは、このような植民地・半植民地・半封建的な旧政治、旧経済およびこのような旧政治、旧経済に奉仕する旧文化である。そして、われわれがうちたてようとしているのは、それと反対のもの、すなわち中華民族の新政治、新経済および新文化である。
では、中華民族の新政治、新経済とはなにか、また中華民族の新文化とはなにか。
中国革命の歴史的進展は、二歩にわけなければならない。その第一歩は民主主義の革命、第二歩は社会主義の革命であって、それは性質のちがう二つの革命の過程である。そして、その民主主義も、いまではもはやふるい範疇の民主主義ではなく、旧民主主義ではなくて、新しい範疇の民主主義であり、新民主主義である。
このことから、中華民族の新政治とは新民主主義の政治であり、中華民族の新経済とは新民主主義の経済であり、中華民族の新文化とは新民主主義の文化である、と断言することができる。
これが現在の中国革命の歴史的特徴である。革命にたずさわっている中国のすべての政党、すべての人びとで、この歴史的特徴がわからないものは、この革命を指導することも、この革命を勝利にみちびくこともできず、ついには人民からみすてられて、片すみで涙をながすあわれな存在になってしまうであろう。
中国革命の歴史的特徴は、民主主義と社会主義の二つの段どりにわかれ、しかも、その第一歩が、いまではもはや一般的な民主主義ではなく、中国的な、特殊な、新しい型の民主主義であり、新民主主義であるということにある。では、この歴史的特徴はどのようにして形成されたのか。それは百年もまえからあったものか、それとも、あとになってうまれたものなのか。
中国と世界の歴史の発展を少しでも研究してみれば、この歴史的特徴が、アヘン戦争のときからあったものではなく、あとになって、第一次帝国主義世界大戦とロシア十月革命ののちにはじめて形成されたものであることがわかる。つぎに、その形成の過程を検討してみよう。
きわめてあきらかなように、現在の中国社会の性質が植民地・半植民地・半封建のものである以上、中国革命はどうしても二つの段どりにわかれなければならない。その第一歩は、この植民地・半植民地・半封建の社会形態を変えて、独立した民主主義の社会にすることである。第二歩は、革命をさらに発展させて、社会主義の社会をうちたてることである。中国の現在の革命はこの第一歩をあゆんでいる。
この第一歩の準備段階は、はやくも一八四○年のアヘン戦争から、すなわち中国の社会が封建社会から半植民地・半封建社会に変わりはじめたときからはじまったものである。このかん、太平天国運動、中仏戦争、中日戦争、戊戌政変、辛亥革命、五・四運動、北伐戦争、土地革命戦争をへて、こんにちの抗日戦争にいたるまで、こうした多くの個々の段階に、ちょうど百年の年月がついやされた。ある意味からいえば、それらはすべてこの第一歩を実行したものであり、中国人民がそれぞれの時期にさまざまな程度でこの第一歩を実行し、帝国主義と封建勢力に反対して、独立した民主主義社会の樹立のためにたたかい、第一歩の革命を達成するためにたたかったものである。そして、辛亥革命は、よりいっそう完全な意味で、この革命の発端となった。この革命は、その社会的性質からいうと、プロレタリア社会主義革命ではなくて、ブルジョア民主主義革命である。この革命は、いまだに達成されておらず、なお多くの精力をそそがなければならない。それは、この革命の敵かいまでもなお非常に強大だからである。孫中山先生が、「革命なおいまだ成功せず、同志よ、さらに努力せよ」といったのは、このようなブルジョア民主主義革命のことである。
ところが、一九一四年に第一次帝国主義世界大戦がおこり、一九一七年のロシア十月革命で地球の六分の一をしめる土地に社会主義国家がうらたてちれてから、中国のプルジョア民主主義革命には変化が生じた。
それ以前は、中国のブルジョア民主主義革命は、ふるい世界ブルジョア民主主義革命の範疇にぞくし、ふるい世界ブルジョア民主主義革命の一部分であった。
それ以後は、中国のブルジョア民主主義革命は、新しいブルジョア民主主義革命の範疇にぞくするものになり、革命の陣営からいえば、世界プロレタリア社会主義革命の一部分となった。
なぜか。それは、第一次帝国主義世界大戦と最初に勝利した十月社会主義革命が、世界歴史全体の方向を変え、世界歴史全体の時代を画したからである。
世界資本主義の戦線が地球の一角(その一角は全世界の六分の一の土地をしめている)ですでに崩壊し、その他の個所でもすでにその腐朽性をすっかりさらけだしている時代、これらのまだ残っている資本主義の部分がますます植民地、半植民地にたよらなければ存続できなくなっている時代、社会主義国家がすでにうちたてられ、しかも、すべての植民地、半植民地の解放運動をたすけるためにたたかう用意があると表明している時代、資本主義諸国のプロレタリア階級が日一日と社会帝国主義の社会民主主義政党の影響から解放され、植民地、半植民地の解放運動を支持することを表明している時代、このような時代には、どの植民地、半植民地国でも、そこに帝国主義に反対する革命、すなわち国際ブルジョア階級に反対し、国際資本主義に反対する革命がおこるならば、それはもはや、ふるい世界ブルジョア民主主義革命の範疇にぞくするものではなく、新しい範疇にぞくするものである。それはもはやブルジョア的、資本主義的なふるい世界革命の一部分ではなく、新しい世界革命の一部分、すなわちプロレタリア社会主義世界革命の一部分である。このような革命的な植民地、半植民地は、もはや世界資本主義の反革命戦線の同盟軍とみなすことはできず、世界社会主義の革命戦線の同盟軍に変わっている。
このような植民地、半植民地の革命の第一段階、第一歩は、その社会的性質からいうと、基本的には依然としてブルジョア民主主義的なものであって、その客観的要求は、資本主義の発展のために道をはききよめることである。だがこのような革命は、もはや、ブルジョア階級の指導する、資本主義社会とブルジョア独裁の国家の樹立を目的としたふるい革命ではなく、プロレタリア階級の指導する、第一段階では新民主主義社会と革命的諸階級の連合独裁の国家の樹立を目的とした新しい革命である。したがって、このような革命はまた、まさしく社会主義の発展のためにいっそうひろびろとした道をはききよめるものである。このような革命は、その進行の過程で、敵の状況と同盟軍の変化によって、さらにいくつかの段階にわかれるが、その基本的性質には変わりはない。
このような革命は、帝国主義に徹底的な打撃をくわえるものであり、したがって、それは帝国主義からはいれられず、帝国主義からは反対される。だが、それは社会主義からはいれられ、社会主義国や社会主義をめざす国際プロレタリア階級からは援助される。
したがって、このような革命はプロレタリア社会主義世界革命の一部分に変わらざるをえない。
「中国革命は世界革命の一部分である」というこの正しい命題は、はやくも一九二四年から一九二七年までの中国の第一次大革命の時期に提起された。これは、中国の共産党員が提起し、当時、反帝・反封建闘争に参加したすべての人びとの賛同をえたものである。ただ、当時この理論の意義がまだ展開されておらず、そのため、この問題はまだばくぜんと認識されているにすぎなかった。
このような「世界革命」は、もはやふるい世界革命ではなく、ふるいブルジョア世界革命はとっくに終わっている。これは新しい世界革命であり、社会主義世界革命である。同様に、その「一部分」は、もはやふるいブルジョア革命の一部分ではなく、新しい社会主義革命の一部分である。これはこのうえなく大きな変化であり、世界の歴史および中国の歴史はじまっていらい、くらべようのない大きな変化である。
中国の共産党員が提起したこの正しい命題は、スターリンの理論にもとづくものである。
はやくも一九一八年、スターリンは十月革命一周年の記念論文でつぎのようにのべている。
「十月革命の偉大な世界的意義は、主としてつぎの諸点にある。すなわち十月革命が、(一)民族問題の範囲をびろげ、これを、ヨーロッパにおける民族的抑圧にたいする闘争という局部的な問題から、被抑圧民族と植民地、半植民地の帝国主義からの解放という全般的な問題に転化させたこと、(二)西欧と東洋の被抑圧民族を、帝国主義とのかがやかしい闘争という共通の軌道にのせて、この解放のための広範な可能性と現実的な道をひらき、それによってかれらの解放事業をいちじるしく容易にしたこと、(三)まさにこのことによって社会主義的西欧と奴隷的東洋とのあいだに橋をかけ、世界帝国主義にたいする、西欧のプロレタリアからロシア革命をへて東洋の被抑圧民族にいたる新しい革命戦線をうちたてたことである。」〔5〕
この論文のあと、スターリンは、植民地、半植民地の革命がふるい範疇からぬけでてプロレタリア社会主義革命の一部分になったという理論を、くりかえし展開している。なかでも、もっとも明快、的確に説明しているのは、スターリンが一九二五年六月三十日に発表した、当時のユーゴスラビアの民族主義者と論争した論文である。これは張仲実訳の『スターリンの民族問題論』に収録されており、表題は『ふたたび民族問題によせて』となっている。それにはつぎの一節がある。
「セミッチは、一九一二年末に書かれたスターリンの小冊子『マルクス主義と民族問題』の一ヵ所をひきあいにだしている。そこには、『勃興しつつある資本主義の諸条件のもとでの民族闘争は、ブルジョア階級相互の闘争である』とのべてある。かれは、これによって、現在の歴史的条件のもとでの、民族運動の社会的意義を規定する自分の定式が正しいことをほのめかそうとしているようである。だが、スターリンの小冊子は帝国主義戦争以前に書かれたものである。当時は、民族問題はマルクス主義者からみて、まだ全世界的意義をもつ問題ではなかった。また民族自決権にかんするマルクス主義者の基本的要求は、プロレタリア革命の一部分とはみなされず、ブルジョア民主主義革命の一部分とみなされていた。そのときいらい、国際情勢が根本的に変化したこと、一方では戦争が、他方ではロシアの十月革命が、民族問題を、ブルジョア民主主義革命の一部分から、プロレタリア社会主義革命の一部分に転化させたということ、この点を見ないのは、笑うべきことであろう。はやくも一九一六年の十月に、レーニンは論文『民族自決権にかんする討論の総括』のなかで、民族自決権にかんする民族問題の基本点は、全民主主義運動の一部分をなすことをやめ、すでに全プロレタリア社会主義革命の構成部分に転化したとのべている。レーニンならびにロシア共産主義者のその他の代表たちの、民族問題についてのそれ以後の著作については、のべるまでもない。こうみてくると、新しい歴史的環境のために、われわれが新しい時代、すなわちプロレタリア革命の時代にはいった現在、セミッチが、ロシアのブルジョア民主主義革命の時代に書かれたスターリンの小冊子の例の箇所を引用するということは、どんな意味をもちうるだろうか。それは、セミッチが、時間と空間をはなれて、生きた歴史的環境とは関連なしに引用し、それによって弁証法のもっとも根本的な要求にそむき、ある歴史的環境のもとでは正しいものも、異なった歴史的環境のもとでは正しくないものになりうろことを考えなかった、という意味をもちうるにすぎない。」
これによってわかるように、ふたとおりの世界革命がある。一つはブルジョア階級と資本主義の範疇にぞくする世界革命である。この世界革命の時期は、とっくにすぎさっており、はやくも一九一四年、第一次帝国主義世界大戦がおこったとき、とりわけ一九一七年のロシア十月革命のときに終わりをつげた。それ以後もう一つの世界革命、すなわちプロレタリア階級の社会主義世界革命がはじまった。この革命は、資本主義国のプロレタリア階級を主力軍とし、植民地、半植民地の被抑圧民族を同盟軍としている。被抑圧民族のなかで革命に参加している階級、政党、個人がどんな階級、政党、個人であろうと、またかれらがその点を意識しているかどうか、主観的にその点を理解しているかどうかにかかわりなく、かれらが帝国主義に反対するかぎり、その革命はプロレタリア社会主義世界革命の一部分となり、かれらはプロレタリア社会主義世界革命の同盟軍となる。
中国革命は、こんにちではその意義がいっそう大きくなっている。こんにちは、資本主義の経済的危機と政治的危機によって、世界が日一日と第二次世界大戦におしやられている時期であり、ソ連がすでに社会主義から共産主義への移行をめざしており、全世界のプロレタリア階級と彼抑圧民族を指導し援助して、帝国主義戦争に抵抗し、資本主義的反動に打撃をあたえる力をもっている時期であり、資本主義諸国のプロレタリア階級が資本主義を打倒し、社会主義を実現しようとしている時期であり、中国のプロレタリア階級、農民階級、知識層およびその他の小ブルジョア階級が、中国共産党の指導のもとで、すでに偉大な、独立した政治勢力を形成している時期である。こんにち、われわれはこのような時期におかれているのだから、中国革命の世界的意義がいっそう大きくなったとみるべきではないだろうか。わたしは、そうみるべきだとおもう。中国革命は世界革命の偉大な一部分である。
この中国革命の第一段階(それはまた多くの小段階にわかれる)は、その社会的性質からいうと、新しい型のブルジョア民主主義革命であって、まだプロレタリア社会主義革命ではないが、それは、とっくにプロレタリア社会主義世界革命の一部分となっており、いまではなおさらこの世界革命の偉大な一部分となり、この世界革命の偉大な同盟軍となっている。この革命の第一歩、第一段階は、けっして中国のブルジョア階級の独裁する資本主義社会を樹立するものではなく、また樹立できるものでもない。それは、中国のプロレタリア階級を指導階級とする中国の革命的諸階級の連合独裁の新民主主義社会を樹立するものであり、これによってこの第一段階を終えるのである。それから、さらにこれを第二の段階に発展させて、中国の社会主義社会を樹立するのである。
これが、現在の中国革命のもっとも基本的な特徴であり、二十年来(一九一九年の五・四運動からかぞえて)の新しい革命の過程であり、現在の中国革命のいきいきとした具体的な内容である。
中国革命は二つの歴史的段階にわかれ、その第一段階は新民主主義革命であること、これは中国革命の新しい歴史的特徴である。この新しい特徴は、中国内部の政治関係と経済関係には、具体的にどうあらわれているだろうか。つぎにその状況について説明しよう。
一九一九年の五・四運動まで(五・四運動は一九一四年の第一次帝国主義大戦と一九一七年のロシア十月革命ののちにおきた)、中国のブルジョア民主主義革命の政治的指導者は、中国の小ブルジョア階級とブルジョア階級(それらの知識人)であった。当時、中国のプロレタリア階級は、まだ、自覚をもった独立した階級勢力としては政治の舞台に登場しておらず、小ブルジョア階級とブルジョア階級の追随者として革命に参加していたにすぎない。たとえば辛亥革命のときのプロレタリア階級がこのような階級であった。
五・四運動以後、中国の民族ブルジョア階級はひきつづき革命に参加したが、中国のブルジョア民主主義革命の政治的指導者は、もはや中国のブルジョア階級ではなく、中国のプロレタリア階級であった。このとき、中国のプロレタリア階級は、自分自身の成長とロシア革命の影響によって、すでに自覚をもった独立した政治勢力に急速に変わっていた。帝国主義打倒のスローガンと中国のブルジョア民主主義革命全体の徹底した綱領は、中国共産党が提起したものであり、しかも土地革命は中国共産党が単独で実行したものである。
中国の民族ブルジョア階級は、植民地・半植民地国のブルジョア階級であり、帝国主義の抑圧をうけているため、帝国主義時代にあっても、やはり一定の時期、一定の程度、外国の帝国主義に反対し、また自国の官僚・軍閥政府に反対する(あとの点は、たとえば辛亥革命の時期および北伐戦争の時期がそれである)革命性をもっており、プロレタリア階級および小ブルジョア階級と連合して、かれらの反対しようとおもう敵に反対することができる。これが、中国のブルジョア階級と旧ロシア帝国のブルジョア階級のちがう点である。旧ロシア帝国は、すでに軍事的・封建的帝国主義であり、他国を侵略するものであったため、ロシアのブルジョア階級にはなんらの革命性もなかった。そこでのプロレタリア階級の任務は、ブルジョア階級に反対することであって、それと連合することではなかった。中国は植民地・半植民地で、他国から侵略をうけているため、中国の民族ブルジョア階級は、なお一定の時期、一定の程度の革命性をもっている。ここでのプロレタリア階級の任務は、民族ブルジョア階級のこのような革命性を無視しないで、かれらと帝国主義反対、官僚・軍閥政府反対の統一戦線をうちたてることである。
しかし、同時に、かれらは、植民地・半植民地のブルジョア階級であるということから、経済的にも政治的にもきわめて弱いため、さらにもう一つの性格、すなわち革命の敵にたいする妥協性をもっている。中国の民族ブルジョア階級は、革命の時期でさえも帝国主義と完全に手をきることをのぞまず、しかも農村での小作料による搾取とかたく結びついているので、帝国主義を徹底的にくつがえすことをのぞまないし、またできもしない、まして封建勢力を徹底的にくつがえすことなどはなおさらのぞまないし、またできもしない。こうしたことから、中国のブルジョア民主主義革命の二つの基本問題、二大基本任務は、中国の民族ブルジョア階級ではどちらも解決することができない。自民党に代表される中国の大ブルジョア階級にいたっては、一九二七年から一九三七年までの長いあいだ、ずっと帝国主義のふところに身を投じ、封建勢力と同盟を結んで、革命的人民に反対してきた。中国の民族ブルジョア階級も、一九二七年およびその後の一時期、反革命に同調したことがあった。抗日戦争では、汪精衛に代表される大ブルジョア階級の一部がまたも敵に投降し、大ブルジョア階級の新しい裏切りをしめした。これも、中国のブルジョア階級が歴史上の欧米諸国のブルジョア階級、とくにフランスのブルジョア階級とちがう点である。欧米諸国、とくにフランスでは、ブルジョア階級がまだ革命の時代におかれていたころは、それらの国のブルジョア革命はわりあい徹底したものであった。中国では、ブルジョア階級はその程度の徹底性さえもっていない。
一方では革命に参加する可能性、他方では革命の敵にたいする妥協性、これが中国のブルジョア階級のもつ「一人二役」的な二面性である。このような二面性は、欧米における歴史上のブルジョア階級もおなじようにもっていた。かれらは、大敵をまえにすると、労働者、農民と連合して敵に反対するが、労働者、農民が目ざめると、こんどは敵と連合して労働者、農民に反対する。これは世界各国のブルジョア階級のもつ一般的な法則であり、ただ中国のブルジョア階級にはこの特徴がいっそう目だっているだけのことである。
きわめてあきらかなように、中国では、人民を指導して帝国主義と封建勢力をくつがえすことのできるものが、人民の信頼をかちとることができるのである。なぜなら、人民の不倶戴天の敵が帝国主義と封建勢力であり、とくに帝国主義であるからである。こんにちでは、人民を指導して日本帝国主義を追い出し、民主主義の政治をおこなうことのできるものが、人民の救いの星である。歴史はすでに、中国のブルジョア階級がこの責任をはたしえないこと、この責任はプロレタリア階級の肩にかからざるをえないことを立証している。
したがって、いずれにしても、中国のプロレタリア階級、農民、知識層およびその他の小ブルジョア階級は、国家の運命を決定する基本的な勢力である。これらの階級のうち、あるものはすでに目ざめており、あるものはいま目ざめつつあるが、かれらは必然的に中華民主共和国の国家構成と政権構成の基本的部分になり、そしてその指導勢力はプロレタリア階級である。いまわれわれがうちたてよらとしている中華民主共和国は、プロレタリア階級の指導のもとでの、反帝反封建のすべての人びとの連合独裁の民主共和国でしかありえない。これこそ、新民主主義の共和国であり、また真に革命的な三大政策をもつ新三民主義の共和国でもある。
このような新民主主義共和国は、一方では、ふるい形態の、欧米型の、ブルジョア独裁の資本主義の共和国とはちがっている。それは旧民主主義の共和国で、そのような共和国はすでに時代おくれとなっている。新民主主義共和国は、他方では、ソ連型の、プロレタリア独裁の、社会主義の共和国ともちがっている。そのような社会主義の共和国は、すでにソ連で繁栄しているだけでなく、こんご資本主義諸国でも樹立されるものであり、疑いもなく、工業のすすんだすべての国の国家構成と政権構成の支配的な形態になるであろう。だがそのような共和国は、一定の歴史的時期には、まだ植民地、半植民地国の革命にはあてはまらない。したがって、すべての植民地、半植民地国の革命が一定の歴史的時期にとる国家形態は、第三の形態でしかありえない。これが、新民主主義共和国といわれるものである。これは一定の歴史的時期の形態であり、したがって過渡的な形態であるが、他のものではおきかえることのできない必要な形態である。
したがって、全世界の多種多様な国家体制はその政権の階級的性質からわけると、基本的にはつぎの三種類にほかならない。すなわち、(イ)ブルジョア独裁の共和国、(ロ)プロレタリア独裁の共和国、(ハ)いくつかの革命的階級の連合独裁の共和国である。
第一の種類は、旧民主主義の国家である。第二次帝国主義戦争勃発後のこんにち、多くの資本主義国は、すでに民主主義のおもかげさえなく、ブルジョア階級の血なまぐさい軍事独裁に変わってしまったか、あるいは変わろうとしている。地主とブルジョア階級による連合独裁の一部の国家はこの部類にいれてよい。
第二の種類は、ソ連がすでにそうであるほか、資本主義諸国でもはぐくまれつつある。将来、これは一定の時期の世界の支配的形態となるであろう。
第三の種類は、植民地、半植民地国の革命がとる過渡的な国家形態である。それぞれの植民地、半植民地国の革命には、かならずいくつかのちがった特徴がありうるが、そのちがいは、大同のなかの小異である。植民地あるいは半植民地の革命であるかぎり、その国家構成と政権構成は、基本的にはかならずおなじであり、すなわち帝国主義に反対するいくつかの階級が連合して共同で独裁する新民主主義の国家である。こんにちの中国では、このような新民主主義の国家形態が、抗日統一戦線の形態である。それは、抗日するためのもの、一帝国主義に反対するためのものであり、またいくつかの革命的階級が連合したもの、統一戦線のものである。だが、残念なことに、抗戦をはじめてすでに久しいのに、共産党の指導する抗日民主根拠地以外の大部分の地区では、国家民主化にかんする仕事はほとんどまだ着手されていない。日本帝国主義は、このもっとも根本的な弱点を利用して、おおっぴらに攻めこんできている。これ以上方針を変えないならば、民族の運命は非常な危険にさらされる。
ここでのべているのは「国体」の問題である。この国体の問題は、清朝の末期から数十年もやかましく論議されてきたが、まだはっきりしていない。じつのところ、それがさしているのは、社会の諸階級が国家のなかでしめる地位という問題にすぎない。ブルジョア階級はいつも、こうした階級の地位をひたかくしにし、「国民」という名によってその一階級独裁の実をあげるのである。このようなことは、革命的人民にとってなんの利益にもならないから、そのことをはっきり指摘すべきである。「国民」という名はつかってもよいが、その国民のなかには、反革命分子もふくまれないし、民族裏切り者もふくまれない。反革命分子や民族裏切り者どもにたいするすべての革命的階級の独裁、これがいまわれわれの必要としている国家である。
「近世各国のいわゆる民権制度は、往々にしてブルジョア階級に専有され、まさしく平民を抑圧する道具になっている。国民党の民権主義についていえば、一般平民の共有するものであって、少数のものが私しうるものではない。」これは、一九二四年、国共合作による国民党第一回全国代表大会の宣言のなかでおごそかに声明されたものである。十六年らい国民党自身がこの声明にそむいたため、こんにちのような重大な国難の局面がつくりだされたのである。これは国民党のこのうえない大きなあやまりであり、われわれは国民党が抗日の洗礼をうけて、このあやまりをあらためるよう希望する。
さらに、「政体」という問題があるが、それは政権構成の形態の問題をさし、一定の社会階級が、敵とたたかい自分をまもるための政権機関をどんな形態で組織するかということをさしている。適当な形態の政権機関がなければ、国家を代表することはできない。中国では、いまのところ、全国人民代表大会、省人民代表大会、県人民代表大会、区人民代表大会から郷人民代表大会にいたる体系をとり、その各段階の代表大会でその政府を選挙すればよい。だが、それには、男女、信仰、財産、教育などの差別のない、真に普遍・平等の選挙制を実施しなければならない。そうしてはじめて、革命的諸階級の国家のなかでしめる地位に適し、民意の表明と革命闘争の指揮に適し、新民主主義の精神に適したものとなるのである。このような制度がつまり民主集中制なのである。民主集中制の政府だけがすべての革命的人民の意志を十分に発揚できるし、また革命の敵にもっとも力づよく反対できるのである。「少数のものが私しうるものではない」という精神は、政府と軍隊の構成にもつらぬかれなければならない。真の民主主義制度がなければ、この目的を達成することはできず、政体が国体に適応しないことになる。
国体――革命的諸階級の連合独裁。政体――民主集中制。これが新民主主義の政治であり、新民主主義の共和国であり、抗日統一戦線の共和国であり、三大政策をもつ新三民主義の共和国であり、名実あいともなった中華民国である。われわれはいま中華民国という名はもっているが、まだ中華民国の実をともなっていない。その名にふさわしく実をととのえていくこと、これこそがこんにちの仕事である。
これが、革命の中国、抗日の中国がうちたてるべき、またどうしてもうちたてなければならない内部の政治関係であり、これがこんにちの「建国」の仕事の唯一の正しい方向である。
中国にこのような共和国をうちたてるには、政治的に新民主主義でなければならず、経済的にも新民主主義でなければならない。
大銀行、大工業、大商業は、この共和国の国有となる。「すべて中国人および外国人の企業で、独占的性質をもつか、もしくは規模が大きすぎて私的な力では経営できないもの、たとえば銀行、鉄道、航空事業などのたぐいは、国家がこれを経営管理し、私有資本制度が国民の経済生活を左右できないようにする。これが資本節制の主旨である。」これもまた、国共合作による国民党第一回全国代表大会の宣言のなかでおごそかに声明されたものであり、これが新民主主義共和国の経済構成の正しい方針である。プロレタリア階級の指導する新民主主義共和国の国営経済は、社会主義的性質のものであり、国民経済全体を指導する力である。だが、この共和国は、その他の資本主義的私有財産を没収するものではなく、また「国民の経済生活を左右できない」ような資本主義的生産の発展を禁止するものでもない。それは、中国の経済がまだ非常におくれているからである。
この共和国は、ある種の必要な方法をとって地主の土地を没収し、それを土地のない農民や土地のすくない農民に分配して、孫中山先生の「耕すものに土地を」のスローガンを実行し、農村における封建的な関係を一掃し、土地を農民の私有に変える。農村における富農経済もその存在はゆるされる。これが「地権平均」の方針である。この方針の正しいスローガンが「耕すものに土地を」である。この段階では、一般に、まだ社会主義の農業をうちたてるのではない。だが、「耕すものに土地を」の基礎のうえに発展してくるさまざまな協同組合経済は、社会主義的要素をももっている。
中国の経済は、かならず「資本節制」と「地権平均」の道をあゆまなければならない。それは、けっして、「少数のものが私しうる」ものであってはならず、少数の資本家、少数の地主に「国民の経済生活を左右」させるものであってはならない。けっして、欧米型の資本主義社会をうちたててはならず、またふるい半封建社会のままであってもならない。あえてこの方向にそむくなら、絶対にその目的をとげることはできず、自分自身が痛い目にあうだろう。
これが、革命の中国、抗日の中国がうちたてるべき、また必然的にうちたてなければならない内部の経済関係である。
このような経済が新民主主義の経済である。
そして、新民主主義の政治がこのような新民主主義の経済の集中的表現である。
このような新民主主義の政治と新民主主義の経済の共和国は、全国の九〇パーセント以上の人民が賛成しているものであって、これ以外にあゆむべき道はない。
ブルジョア独裁の資本主義社会をうちたてる道をあゆもうというのか。なるほど、それはかつて欧米のブルジョア階級があゆんだ道ではある。だが、残念ながら、国際、国内環境は、中国がそうするのをゆるさない。
国際環境からいえば、この道はゆきづまっている。いまの国際環境は、基本的にいって、資本主義と社会主義が闘争している環境であり、資本主義が没落にむかい社会主義が生長にむかっている環境である。中国にブルジョア独裁の資本主義社会をうちたてようとしても、まず第一に国際資本主義、すなわち帝国主義がゆるさない。帝国主義が中国を侵略し、中国の独立に反対し、中国における資本主義の発展に反対してきた歴史、それが中国の近代史である。これまで、中国革命はすべて、帝国主義にしめ殺されて失敗したのであり、革命に殉じた無数の烈士は、そのため、つきぬうらみをいだいて死んでいったのである。いまは、強大な日本帝国主義が攻めこみ、中国を植民地に変えようとしている。いまは、日本が中国で自分の資本主義を発展させているのであって、なにも中国が資本主義を発展させているわけではない。いまは、日本のブルジョア階級が中国で独裁しているのであって、なにも中国のブルジョア階級が独裁をしているわけではない。たしかに、いまは帝国主義の最後のあがきの時期であり、かれらは死にひんしている。「帝国主義とは死滅しつつある資本主義」〔6〕のことである。だが、かれらは死にひんしているからこそ、生きるためにますます植民地、半植民地にたよるのであって、いかなる植民地、半植民地にもブルジョア独裁の資本主義社会などを樹立するのをけっしてゆるしはしない。日本帝国主義は、重大な経済的危機と政治的危機の深みにおちこんでいるからこそ、つまり死にひんしているからこそ、是が非でも中国を攻め、是が非でも中国を植民地に変えようとし、中国のブルジョア独裁の樹立と民族資本主義の発展の道をたちきったのである。
つぎには、社会主義がそれをゆるさない。この世界では、すべての帝国主義がわれわれの敵であり、中国が独立するには、どうしても会主義国と国際プロレタリア階級の援助からはなれることはできない。それはつまり、ソ連の援助からはなれることはできないし、また日本やイギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリアなどの諸国のプロレタリア階級が自国ですすめている反資本主義闘争による援助からもはなれることはできない、ということである。中国革命の勝利はかならず日本やイギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリアなどの諸国、あるいはそのうちの一、二ヵ国の革命が勝利したあとになるとはいえないが、しかし、中国革命の勝利のためにはかれるの力がくわわる必要のあることは、疑いがない。とりわけ、ソ連の援助は、抗戦の最後の勝利をかちとるうえで欠くことのできない条件である。ソ連の援助を拒否するなら、革命は失敗する。それは、一九二七年以後の反ソ運動〔7〕の教訓できわめてはっきりしているではないか。いまの世界は、革命と戦争の新時代、つまり、資本主義がかならず死滅し社会主義がかならず繁栄する時代におかれている。このような状況のもとで、中国が反帝・反封建闘争に勝利したのち、ブルジョア独裁の資本主義社会をうちたてるなどということは、まったくの寝言でなくてなんだろう。
特殊な条件(ブルジョア階級がギリシアの侵略にうち勝ち、プロレタリア階級の力があまりにもよわかった)によって、第一次帝国主義大戦と十月革命ののちに、なおケマル型の、ごく小さなブルジョア独裁のトルコ〔8〕がうまれたとしても、第二次世界大戦とソ連の社会主義建設の完成ののちには、もう一つのトルコがうまれるようなことはけっしてありえないし、まして、四億五千万の人口をもつトルコがうまれるようなことは、けっしてゆるされはしない。中国では、その特殊な条件(ブルジョア階級の軟弱性と妥協性、およびプロレタリア階級の強大さと革命の徹底性)によって、これまでトルコのようなうまい話などはなかった。一九三七年、中国の第一次大革命が失敗したのち、中国のブルジョア分子が、ケマル主義とかなんとかと騒ぎたてたことがあったではないか。だが、中国のケマルはいったいどこにいるのか。中国のブルジョア独裁と資本主義社会はいったいどこにあるのか。まして、いわゆるケマルのトルコも、最後にはイギリス、フランス帝国主義のふところに身を投ぜざるをえなくなり、日一日と半植民地に変わり、帝国主義反動世界の一部分に変わってしまったのである。こんにちの国際環境にあっては、植民地、半植民地のどのような英雄豪傑たちも、帝国主義戦線の側にたって世界反革命勢力の一部分となるか、反帝国主義戦線の側にたって世界革命勢力の一部分となるかである。かならず両者のどちらかであって、それ以外に道はない。
国内環境からいえば、中国のブルジョア階級は必要な教訓をくみとったはずである。大ブルジョア階級をかしらとする中国のブルジョア階級は、一九二七年の革命がプロレタリア階級、農民およびその他の小ブルジョア階級の力によって勝利したばかりのときに、これらの人民大衆を足げにして、革命の成果をひとりじめにし、しかも、帝国主義および封建勢力と反革命の同盟を結ぶとともに、あらんかぎりの力をふりしぼって、十年にわたる「共産党討伐」の戦争をおこなった。ところが、その結果はどうであったか。いまは強大な敵がわが国土ふかく侵入し、抗日戦争がすでに二年もたたかわれたあとであるのに、それでもなお、欧米ブルジョア階級の、もはや時代おくれになったふるいきまりを踏襲しようとでも考えているのだろうか。以前の「共産党討伐十年」もブルジョア独裁の資本主義社会などは「討ち」ださなかったのに、それでもなお、もう一度ためしてみようとでも考えているのだろうか。たしかに、「共産党討伐十年」は「一党独裁」を「討ち」だしはしたが、それは半植民地的、半封建的な独裁であった。しかも、「共産党討伐」四年(一九二七年かち一九三一年の「九・一八」まで)ののちにはすでに「満州国」を「討ち」だし、さらに六年たった一九三七年には、日本帝国主義を中国中心部に「討ち」いらせてしまった。もしだれかが、いまからさらに十年にわたる「討伐」をやろうとするなら、それはふるいものとは多少のちがいがあって、すでに新しい「共産党討伐」の典型である。ところが、その新しい「共産党討伐」事業を、足はやにぬけがけして勇ましくも買ってでた人物があらわれたではないか。汪精衛がそれだ。かれはすでに名声とどろく新しい型の反共の人物である。その仲間にはいりたいというなら、それもよかろう。だが、そうなると、やれブルジョア独裁だ、やれ資本主義社会だ、やれケマル主義だ、やれ近代国家だ、やれ一党独裁だ、やれ一つの主義①だなどという節まわしは、歌うのもますます体裁がわるくなりはしないか。もし、汪精衛の仲間にはいらなくても、抗日の仲間にはいろうとしながら、抗日戦争が勝利したあかつきに、抗日人民を足げにして、自分だけで抗日の成果をひとりじめにし、「一党独裁万歳」をやろうと考えるなら、それも夢のようなものではないだろうか。抗日、抗日、それはだれの力によるのか。労働者、農民およびその他の小ブルジョア階級をはなれては、一歩も動けるものではない。それでも、あえてかれらを足げにしようものなら、こっぱみじんにされてしまう。これまた、常識とされていることではないだろうか。ところが、中国のブルジョア頑迷派(わたしのいっているのは頑迷派のことだ)は、二十年このかた、なんの教訓もくみとっていないようである。かれらは、いまだに「共産党制限」とか、「共産党溶解」とか、「共産党反対」とか、わめきたてているではないか。かれらは「異党活動制限措置法」のあと、また「異党問題処理規程」をもちだし、さらに「異党問題処理実施方案」をもちだしているではないか。大したものだ。このように「制限」し「処理」していって、かれらはいったい民族の運命をどこにおき、また、自分自身をどこにおこうとしているのか。われわれは誠心誠意これらの諸先生にご忠告申しあげる。あなたがたもよく目をあげて中国と世界をみ、国内と国外をみ、いまがどんな情勢であるかをみるべきであり、あなたがたのあやまりを、これ以上くりかえしてはいけない。これ以上あやまりをつづけるなら、民族の運命に災いがふりかかるのはもちろん、あなたがた自身のこともうまくいかないだろう。中国のブルジョア頑迷派が目ざめないなら、かれらのことはかんばしくいかず、かれらは自滅の道をもとめることになるだろう。これは、はっきりしたことであり、きまりきったことであり、たしかなことである。したがって、われわれは、中国の抗日統一戦線が堅持されるよう希望する。ひとりで独占するのではなく、みんなで協力して、抗日の事業を勝利させること、これが上策であり、それ以外はすべて下策である。これがわれわれ共産党員の心からの忠告であり、「あらかじめ言わざりしというなかれ」である。
中国のふるいことばに、「飯があれば、みんなでたべよう」というのがある。これは、まことに道理がある。敵があればみんなでたたかうのだから、飯があればみんなでたべ、仕事があればみんなでやり、本があればみんなで読むのが当然である。「ひとりじめ」とか、「指一本ささせぬ」とかいう気負った態度は、封建領主のお家芸でしかなく、二〇世紀の四十年代にはとうてい適用しないものである。
われわれ共産党員は、いかなる革命的な人びとをもけっして排斥するものではない。われわれは、あくまでも抗日をやりぬこうとするすべての階級、階層、政党、政治団体および個人とともに、統一戦線を堅持し、長期協力を実行する。だが、ひとが共産党を排斥しようとするなら、それはゆるされない。ひとが統一戦線を分裂させようとするなら、それはゆるされない。中国はどうしても抗戦し、団結し、進歩していかなければならない。投降し、分裂し、後退しようとするものがあれば、われわれはだまっているわけにはいかない。
ブルジョア独裁の資本主義の道をあゆまないとすれば、プロレタリア独裁の社会主義の道をあゆんでよいのだろうか。
それもできない。
疑いもなく、いまの革命は第一歩であって、将来は第二歩に発展し、社会主義に発展する。中国が真の幸福な時代になるには、やはり社会主義の時代にはいる以外にない。だが、いまはまだ社会主義を実行するときではない。中国のいまの革命の任務は反帝・反封建であり、この任務が達成されないうちは、社会主義など問題にならない。中国革命は二歩にわけてあゆまなくてはならず、その第一歩は新民主主義であって、社会主義は第二歩である。しかも、第一歩の期間はかなり長く、けっして一朝一夕に達成されるものではない。われわれは空想家ではなく、当面している実際の条件からはなれることはできない。
悪意をもった一部の宣伝家は、この二つのちかった革命段階をわざと混同して、「一回革命論」というものをとなえ、どんな革命も三民主義のなかにふくまれ、共産主義は存在の理由がなくなったことを証明しようとしている。また、このような「理論」によって、やっきになって共産主義と共産党に反対し、八路軍、新四軍および陝西・甘粛・寧夏辺区に反対している。その目的は、どんな革命をも根こそぎに消滅し、ブルジョア民主主義革命の徹底性に反対し、抗日の徹底性に反対して、日本侵略者に投降するための世論を準備することにある。このような状況は、日本帝国主義が計画的につくりだしたものである。日本帝国主義は、武漢を占領してのち、武力だけでは中国を屈服させることができないのを知って、政治攻勢と経済誘惑に着手したのである。政治攻勢とは、抗日陣営の内部で動揺分子を誘惑し、統一戦線を分裂させ、国共合作を破壊することである。経済誘惑とは「合弁企業」なるものである。日本侵略者は、華中と華南では日本資本を四九パーセントにして、中国の資本家に五一パーセントの投資をゆるし、華北では日本資本を五一パーセントにして、中国の資本家に四九パーセントの投資をゆるしている。日本侵略者は、また、中国の資本家のもとからもっていた企業を返還し、それを換算して資本にあてることをゆるしている。こうなると、良心のひとかけらさえない若干の資本家は、利益に目がくらんで正義をわすれ、いまにもとびつこうとしている。汪精衛に代表される一部の資本家は、すでに投降してしまった。抗日陣営のなかに身をひそめている他の一部の資本家も、とびだそうとしている。しかし、かれらは、共産党にそのゆく手をはばまれはしないか、それにもまして、民衆から民族裏切り者呼ばわりされはしないかと、うしろめたい気持ちでびくびくしている。そこで、かれらはぐるになって会議をひらき、あらかじめ文化界や言論界で下準備することを決議した。術策がきまった以上、事はいそげとばかり、何人かの玄学亡者〔9〕をやといいれ、それにトロツキーを何人かくわえ、仰々しく筆陣をはって、やたらにわめきたて、めくら滅法に攻撃をしかけてきた。こうして、「一回革命論」とか、共産主義は中国の国情にあわないとか、共産党は中国では存在の必要がないとか、八路軍や新四軍は抗日を破壊し、遊して撃せずとか、陝西・甘粛・蜜夏辺区は封建割拠だとか、共産党はいうことを聞かず、統一をこばみ、陰謀をたくらみ、攪乱をくわだてているとかならべたてて、世事にうとい人たちをだましている。これは時機がきたら、資本家たちがもっともらしく四九パーセントあるいは五一パーセントを手にいれ、全民族の利益をすっかり敵に売りわたせるようにするためである。これこそ中味のすりかえというもので、投降するまえの思想の準備、または世論の準備をしているのである。これらの諸先生は、いかにもまことしやかに「一回革命論」をとなえ、共産主義と共産党に反対しているが、それは、ほかでもなく、もっぱら四九パーセントか五一パーセントのためであって、その苦心たるや並み大抵ではない。「一回革命論」とは、これ革命不用論なりで、これこそが問題の本質である。
だが、そのほかにも、まだ一部につぎのような人たちがいる。かれらはべつに悪意はないようだが、やはりこの「一回革命論」なるものにまどわされ、「政治革命と社会革命を一挙に成功させる」といったまったく主観的な考え方にまどわされている。革命には段階があり、ある革命から他の革命にうつりうるだけで、「一挙に成功させる」といったものはないことをかれらは知らない。このような観点は、革命の段どりを混同し、当面の任務にたいする努力をよわめるもので、やはりひじょうに有害である。もし二つの革命段階のうち第一は第二のために条件を準備するものであり、二つの段階はかみあわせるべきで、そのあいだにブルジョア独裁の段階をさしはさむのをゆるさないというならば、それは正しいのであり、マルクス主義の革命発展論である。だが、もし民主主義革命にはそれ自身としての一定の任務も一定の時期もなくて、別の時期でなければ達成されない別の任務、たとえば、社会主義の任務を、この民主主義の任務といっしょにして達成できるとし、そのことを「一挙に成功させる」というならば、それこそ空想であって、真の革命家のとるところではない。
すると、ブルジョア頑迷派がとびだしてきていう。よろしい、きみたち共産党は社会主義の社会制度をあとの段階におしやったし、きみたちはまた、「三民主義は中国がこんにち必要とするものであり、わが党はその徹底的実現のために奮闘するものである」〔10〕とも宣言したのだから、共産主義をしばらくひっこめたらよかろう、と。このような議論は、いわゆる「一つの主義」という題目のもとで、身の程しらずのさわぎ方にまで変わってきている。こうしたさわぎ方は、その本質において頑迷分子たちのブルジョア専制主義である。だが、すこし遠慮して、それを常識のまったくないものだといってもよい。
共産主義はプロレタリア階級の全思想体系であると同時に、また新しい社会制度でもある。このような思想体系と社会制度は、他のいかなる思想体系、他のいかなる社会制度ともちがうもので、人類の歴史はじまっていらい、もっとも完全な、もっとも進歩した、もっとも革命的な、もっとも合理的なものである。封建主義の思想体系と社会制度は、すでに歴史博物館にはいっている。資本主義の思想体系と社会制度も、一部ではすでに博物館にはいっているが(ソ連では)、他の部分でも、すでに「日は西山にせまり、気息奄々、生命も危うく、朝に夕をはかりがたし」であって、まもなく博物館入りするであろう。ただ、共産主義の思想体系と社会制度だけがいままさに天地をくつがえす勢い、万雷のとどろく力で、全世界にひろがり、そのうるわしい青春をたもっている。中国が科学的共産主義をもつようになってから、人びとの視野がひらけ、中国革命もその面目を一新した。中国の民主主義革命は、共産主義にみちびかれなければ、けっして成功するものではないし、革命のつぎの段階についてはなおさらいうまでもない。これはブルジョア頑迷派があのようにさわぎたて、共産主義を「ひっこめろ」と要求している理由でもある。実際には、これは「ひっこめ」てはならないもので、ひっこめれば中国は滅亡する。現在の世界は共産主義を救いの星としている。現在の中国もまさにそうである。
周知のように、共産党は、社会制度についての主張で、現在の綱領と将来の綱領、あるいは最低綱領と最高綱領という二つの部分をもっている。現在では新民主主義、将来では社会主義、これは有機的構成の三つの部分であって、共産主義の全思想体系によってみちびかれるのである。共産党の最低綱領が三民主義の政治原則と基本的におなじだからといって、共産主義を「ひっこめろ」とわめきたてるのは、まったくでたらめもはなはだしいではないか。共産党員にとっては、三民主義の政治原則に自分たちの最低綱領と基本的におなじ点があるからこそ、「三民主義を抗日統一戦線の政治的基礎とする」と認めることができ、また「三民主義は中国がこんにち必要とするものであり、わが党はその徹底的実現のために奮闘するものである」と認めることができるのである。さもなければ、そのような可能性はない。これが民主主義革命の段階での共産主義と三民主義の統一戦線であり、孫中山が「共産主義は三民主義のよき友である」といった〔11〕のも、まさしくこのような統一戦線をさしているのである。共産主義を否定することは、実際には統一戦線を否定することである。頑迷派も、まさにその一党主義を実行して統一戦線を否定しようとするからこそ、共産主義を否定するでたらめな論法をもちだしたのである。
「一つの主義」もすじがとおらない。階級が存在する条件のもとでは、階級の数だけ主義があり、それどころか一つの階級のなかの各集団にさえ、それぞれの主義がある。いま、封建階級には封建主義があり、ブルジョア階級には資本主義があり、仏教徒には仏教主義があり、キリスト教徒にはキリスト主義があり、農民には多神教主義がある。近年は、ケマル主義だとか、ファシズムだとか、唯生主義〔12〕だとか、「労働に応じて分配する主義」〔13〕だとかをとなえるものがいるのに、どうしてプロレタリア階級に共産主義があってはいけないのか。このように数えきれないほどの主義があるのに、どうして共産主義とみれば大声で「ひっこめろ」とさけぶのか。卒直にいって、「ひっこめる」ことはできない。やはり競争しようではないか。競争して共産主義をうち負かすものがあれば、われわれ共産党員も、みずから不運とあきらめよう。もしそうでないならば、あの「一つの主義」という反民権主義的な作風こそ、さっさと「ひっこめ」てもらいたい。
誤解をさけ、また頑迷派の目をみひらかせるために、三民主義と共産主義のちがう点とおなじ点について、はっきり指摘する必要がある。
三民主義と共産主義のこの二つの主義を比較してみると、おなじ部分もあるが、またちがう部分もある。
第一、おなじ部分。中国のブルジョア民主主義革命の段階における二つの主義の基本的政治綱領がそれである。一九二四年に、孫中山があちたに解釈をくだした三民主義のなかの革命的な民族主義、民権主義、民生主義という三つの政治原則は、中国の民主主義革命の段階における共産主義の政治綱領と基本的におなじである。こうしたおなじ点があるため、また三民主義を実行にうつしたことによって、二つの主義、二つの党の統一戦線がうまれたのである。この面を無視するのはあやまりである。
第二、ちがう部分はつぎの点である。(一)民主主義革命の段階における一部の綱領の相違。民主主義革命における共産主義の全政治綱領のなかには、人民の権力の徹底的実現、八時間労働制および徹底した土地革命綱領があるが、三民主義にはこれらの部分がない。もし三民主義がこれらの部分を補足せず、しかもそれを実行しようとしないならば、それは民主主義の政治綱領にたいして、基本的におなじであるだけで、まったくおなじだとはいえない。(二)社会主義革命の段階があるかないかのちがい。共産主義には、民主主義革命の段階のほかに、もう一つ、社会主義革命の段階がある。したがって、最低綱領のほかにもう一つ、最高綱領、すなわち社会主義と共産主義の社会制度を実現する綱領がある。三民主義には民主主義革命の段階があるだけで、社会主義革命の段階はない。したがって、それは最低綱領があるだけで、最高綱領、すなわち社会主義と共産主義の社会制度をうちたてる綱領はない。(三)世界観のちがい。共産主義の世界観は弁証法的唯物論と史的唯物論であるが、三民主義の世界観はいわゆる民生史観で、実質的には、二元論または観念論であって、両者はあい反している。(四)革命の徹底性のちがい。共産主義者は理論と実践が一致している。すなわち革命の徹底性をもっている。三民主義者は、革命と真理にもっとも忠実な一部の人をのぞいては、理論と実践が一致していず、いうこととすることが相互に矛盾じている。すなわち革命の徹底性をもっていない。以上のべた点は、いずれも両者のちがう部分である。こうしたちがいから、共産主義者と三民主義者のあいだには差異がでてくるのである。このような差異を無視し、ただ統一の面だけをみて、矛盾の面をみないならば、疑いもなく非常なあやまりである。
これらの点がわかれば、ブルジョア頑迷派が共産主義を「ひっこめろ」と要求することがどんな意味をもつかがわかる。それはブルジョア専制主義か、さもなければ、常識のまったくないものである。
ブルジョア頑迷派は、歴史の変化をまったく知らず、その知識の貧弱なことはほとんどゼロにひとしい。かれらは、共産主義と三民主義のちがいも知らなければ、新三民主義と旧三民主義のちがいも知らない。
われわれ共産党員は、「三民主義を抗日民族統一戦線の政治的基礎とする」ことをみとめ、「三民主義は中国がこんにち必要とするものであり、わが党はその徹底的実現のために奮闘するものである」ことをみとめ、共産主義の最低綱領が三民主義の政治原則と基本的におなじであることをみとめている。ところで、その三民主義とはどのような三民主義のことなのか。その三民主義とは、孫中山先生が「中国国民党第一回全国代表大会宣言」のなかであるたに解釈をくだした三民主義のことで、それ以外のいかなる三民主義でもない。頑迷派の諸先生にも「限共」「溶共」「反共」などの活動に得意満面になっているひまに、ひとつこの宣言を読んでもらいたい。もともと、孫中山先生はこの宣言のなかで、「国民党の三民主義についての真の解釈はかくのごとくである」といっている。このことから、この三民主義だけが真の三民主義であって、その他はすべてにせの三民主義であることがわかる。「国民党第一回全国代表大会宣言」のなかの三民主義についての解釈だけが「真の解釈」であって、他のすべてはにせの解釈である。これは共産党の「デマ」ではあるまい。わたしも多くの国民党員も、この宣言の採択されたのを目のあたりにみたのである。
この宣言によって、三民主義は二つの歴史的時期にわけられた。それよりまえの三民主義は、ふるい範疇の三民主義であり、ふるい、半植民地のブルジョア民主主義革命の三民主義であり、旧民主主義の三民主義であり、旧三民主義であった。
それよりあとの三民主義は新しい範疇の三民主義であり、新しい、半植民地のブルジョア民主主義革命の三民主義であり、新民主主義の三民主義であり、新三民主義である。新しい時期の革命の三民主義は、この三民主義以外にはない。
このような新しい時期における革命の三民主義、新三民主義あるいは真三民主義は、連ソ、連共、農労援助という三大政策をもつ三民主義である。三大政策がなければ、あるいはそのうちの一つでも欠ければ、新しい時期においては、にせ三民主義か、または半三民主義である。
第一に、革命の三民主義、新三民主義、あるいは真三民主義は、連ソの三民主義でなければならない。いまの事態は非常にはっきりしていて、もし連ソ政策がなく、社会主義国と連合しないならば、必然的に連帝政策になり、必然的に帝国主義と連合することになる。すでに一九二七年以後にも、こうしたことがあったではないか。社会主義のソ連と帝国主義とのあいだの闘争がさらに先鋭化してくると、中国はこちらに立つか、さもなければあちらに立つことになり、これは必然のなりゆきである。つかずかたよらずにはいられないだろうか。それは空想である。全地球がこの二つの戦線にまきこまれていくのだから、これからの世界で、「中立」とはごまかしのことばにすぎない。まして、中国は国土ふかく侵入してきた帝国主義とたたかっているので、ソ連の援助がなければ最後の勝利など考えられない。もし連ソをすてて連帝するなら、反動的な三民主義に変わり、「革命」の二字を取り消さなければならない。帰するところ、革命の三民主義か、または反革命の三民主義があるだけで、「中立」の三民主義はない。もし、汪精衛が以前いったとおり「はさみうちのなかの奮闘」〔14〕をやり、「はさみうちのなかで奮闘」する三民主義をやるなら、なんと勇ましいことではないか。だが、惜しいことに、発明者の汪精衛さえも、そのような三民主義をすてて(あるいは「ひっこめ」て)、いまでは連帝の三民主義をとるようになった。もし帝国主義にも東帝と西帝の別があり、かれの連合するのが東帝で、自分はそれとは逆に一連の西帝と連合し、東にむけて攻撃する、というなら、これまたなんと革命的ではないか。だが、残念ながら、西帝たちは反ソ反共をやろうとしており、きみがかれらと連合すれば、北にむけて攻撃することをもとめてくるから、革命しようにもできなくなってしまうのである。こうしたすべての事情は、革命の三民主義、新三民主義あるいは真三民主義が、帝国主義と連合する反ソの三民主義であってはならず、連ソの三民主義でなければならないことを規定している。
第二に、革命の三民主義、新三民主義、あるいは真三民主義は、連共の三民主義でなければならない。連共しなければ、反共することになる。反共は日本帝国主義と汪精衛の政策である。反共するなら、それも結構だ、そうすればかれらはその反共会社に加入をもとめてくるだろう。だが、それでは、いささか民族裏切り者の疑いがかかりはしまいか。自分は日本にはつかず、他の国についていくだけだ、という。それもこっけいな話だ。だれについていこうと、反共をやるかぎり、もう抗日はできなくなるから、民族裏切り者になってしまう。自分は独立で反共する、という。それも寝言である。植民地、半植民地の英雄たちで、帝国主義の力にたよらずに、このような反革命の大事業をしでかせるものがいるだろうか。かつて全世界の帝国主義の力をほとんど動員して、十年ものあいだ反対しながら、反対しされなかった共産党に、いまいきなり「独立」で反対できるだろうか。外部では一部の人たちのあいだで、「反共は結構だが、反対しきれない」といわれているとのことである。もしこうしたうわさがうそでなければ、このことばは半分だけまちがっている。「反共」がどうして「結構」なはずがあろうか。だが、半分はあたっている。「反共」といっても、じっさいには「反対しきれない」。その原因は、共産党にあるのではなく、基本的には民衆にある。なぜなら、民衆は「共」をこのむが、「反」はこのまないからである。民衆は、けっして容赦しないもので、民族の敵が国土ふかく侵入しているときに反共などしようものなら、かれらはそれを生かしてはおかない。これはきまりきったことであって、反共するものは、だれでもこなごなにされるつもりでいなければならない。もし、こなごなになる覚悟をしていなければ、たしかに反対などしない方がよいだろう。これが、すべての反共の英雄たちにたいするわれわれの心からの忠告である。このことから、はっきりしすぎるほどはっきりしているように、こんにちの三民主義は連共の三民主義でなければならず、さもなければ三民主義は滅亡する。これは三民主義の存亡にかかわる問題である。連共すれば三民主義は存続し、反共すれば三民主義は滅亡する。そうではないと、だれが証明できようか。
第三に、革命の三民主義、新三民主義、あるいは真三民主義は、農労政策をもつ三民主義でなければならない。農労政策をとらず、農労援助に誠意をしめさず、「総理遺言」の「民衆をよびさます」ことを実行しないなら、それこそ革命を矢敗させようとするものであり、また自己を失敗させようとするものでもある。スターリンは、「民族問題とは、実質的には農民問題である」といっている〔15〕つまり、中国革命は実質的には農民革命であり、現在の抗日は実質的には農民の抗日だということである。新民主主義の政治とは、実質的には農民に権力をあたえることである。新三民主義、真三民主義とは、実質的には農民革命主義である。大衆文化とは、実質的には農民の文化をたかめることである。抗日戦争とは、実質的には農民戦争である。いまは「山のぼり主義」〔16〕のときで、会議、執務、授業.新聞発行、著述、演劇はみな山のうえでおこなわれており、実質的にはすべて農民のためである。抗日のすべて、生活のすべてが、実質的には農民からあたえられている。「実質的」というのは基本的ということであって、その他の部分を無視することではない。これはスターリン自身が説明していることである。中国では人口の八○パーセントが農民であって、このことは小学生の常識である。だから、農民問題が中国革命の基本問題となっており、農民の力は中国革命の主要な力である。農民のほかに、中国の人口で第二位をしめるのは労働者である。中国には産業労働者が数百万、手工業労働者と農業労働者が数千万いる。各種の工業労働者は工業経済の生産者であるから、かれらがなければ中国は生活していけない。近代工業の労働者階級は中国革命の指導者であり、もっとも革命性にとんでいるから、かれらがなければ革命は勝利できない。このような事情のもとで、革命の三民主義、新三民主義、あるいは真三民主義は、かならず農労政策をもつ三民主義でなければならない。農労政策をもたず、農労援助に誠意をしめさず、「民衆をよびさます」ことを実行しないような三民主義があるとすれば、それはかならず滅亡するにちがいない。
これによってわかるように、連ソ、連共、農労援助の三大政策からはなれた三民主義は、前途のないものである。すべての良心的な三民主義者は、この点をまじめに考えなければならない。
このような三大政策をもつ三民主義、革命の三民主義、新三民主義、真三民主義は新民主主義の三民主義であり、旧三民主義の発展であり、孫中山先生の大きな功績であり、中国革命が社会主義世界革命の一部分となった時代にうまれたものである。中国共産党が、「中国がこんにち必要とする」ととなえ、「その徹底的実現のために奮闘するものである」と宣言しているのは、このような三民主義だけである。中国共産党の民主主義革命の段階における政治綱領、すなわちその最低綱領と基本的におなじなのは、このような三民主義だけである。
旧三民主義についていえば、それは中国革命のふるい時期の産物である。当時のロシアは帝国主義のロシアであったから、もちろん連ソ政策はありえなかった。当時は国内に共産党もなかったから、もちろん連共政策もありえなかった。当時は労農運動も、政治面でのその重要性を十分にあらわしておらず、まだ人びとの注意もひいていなかったから、もちろん労働者、農民と連合する政策もなかった。したがって一九二四年、国民党が改組されるまでの三民主義は、ふるい範疇の三民主義であり、時代おくれの三民主義であった。それを新三民主義に発展させなければ、国民党は前進できなかった。聡明な孫中山はこの点をみてとり、ソ連と中国共産党の助力をえ、三民主義にあらたな解釈をくだして、ついに新しい歴史的特徴をもたせ、三民主義と共産主義との統一戦線をうちたて、第一次国共合作をうちたて,全国人民の共鳴をえて、一九二四年から一九二七年にかけての革命をおこなったのである。
旧三民主義は、ふるい時期には革命的であり、ふるい時期の歴史的特徴を反映していた。だが、新しい時期になって、新三民主義が確立されたのちにもまだそのふるいやり方をくりかえし、社会主義国が出現したのちにも連ソに反対し、共産党ができたのちにも連共に反対し、また、労働者、農民がすでに自覚をもち自己の政治的威力をあらわしたのちにも、農労政策に反対するなら、それこそ時勢をわきまえない反動的なものである。一九二七年以後の反動化は、時勢をわきまえなかったことの結果である。ことわざに「時勢をわきまえるものは俊傑なり」という。こんにちの三民主菱者にこのことばを銘記してもらいたいものである。
もしもふるい範疇の三民主義であれば、それはふるい時期のものであり、すでに時代おくれのものであるから、共産主義の最低綱領とはなんら基本的におなじような点がない。もしも反ソ、反共、反農労の三民主義というものがあるとすれば、それは反動的な三民主義であり、共産主義の最低綱領とはいささかもおなじ点がないばかりか、共産主義の敵であり、すべては問題にならない。この点も、三民主義者がひとつ慎重に考えるべきである。
だがいずれにしても、反帝・反封建の任務が基本的に達成されるまでは、新三民主義はすべての良心的な人びとから見すてられることはない。それを見すてるのは、あの汪精衛とか李精衛とかいったたぐいだけである。汪精衛、李精衛らがどんなにやっきになって反ソ、反共、反農労といったにせ三民主義をやろうとしても、孫中山の真三民主義をまもりつづけようとする良心的な、正義感をもった人びとが、おのずからあらわれるにちがいない。一九二七年の反動化ののちも、多くの真三民主義者は中国革命のためにたたかいつづけてきたのだから、民族の敵が国土ふかく侵入しているこんにち、そういう人は疑いもなく何千何万にものぼるだろう。われわれ共産党員は、すべての誠実な三民主義者と終始、長期協力をおこなうものであり、あの民族裏切り者や死んでも変わらない反共分子のほかは、どんな友人をもけっして見すてることはない。
以上で、新しい時期における中国政治の歴史的特徴について説明し、新民主主義共和国の問題について説明した。つぎに文化の問題にすすむことにしよう。
一定の文化は、一定の社会の政治と経済がイデオロギーに反映したものである。中国には帝国主義的文化があり、それは中国にたいする帝国主義の政治上、経済上の支配、あるいは半支配を反映したものである。こうした文化は、帝国主義が中国で直接経営している文化機関のほかに、一部の恥しらずな中国人によっても提唱されている。奴隷化思想をふくんだすべての文化は、この部類にはいる。中国にはまた半封建的文化がある。それは半封建的政治と半封建的経済を反映したものであり、孔子をたっとび四書五経を読むことを主張し、旧倫理と旧思想を提唱し、新文化、新思想に反対する人びとは、みなこの部類の文化を代表するものである。帝国主義的文化と半封建的文化は非常に親密な兄弟であり、文化の面で反動同盟を結び、中国の新文化に反対している。この部類の反動文化は、帝国主義と封建階級に奉仕するものであり、うちたおされるべきものである。こういうものをうちたおさなければ、どんな新文化もうちたてられない。破らなければ立たず、塞きとめなければ流れず、止めなければ進まない。両者の闘争は生死をかけた闘争である。
新文化についていえば、イデオロギーのうえで新政治と新経済を反映したものであり、新政治と新経済に奉仕するものである。
すでに第三節でのべたように、中国に資本主義経済がうまれてから、中国の社会はしだいにその性質を変えており、封建経済がまだ優位をしめてはいるが、それは完全な封建社会ではなく、半封建社会に変わっている。このような資本主義経済は、封建経済にとっては新経済である。このような資本主義の新経済と同時に発生し発展している新しい政治勢力が、ブルジョア階級、小ブルジョア階級およびプロレタリア階級の政治勢力である。そしてイデオロギーのうえでこのような新しい経済勢力と新しい政治勢力を反映し、それらに奉仕するものが、新文化である。資本主義経済がなければ、またブルジョア階級、小ブルジョア階級およびプロレタリア階級がなければ、そしてこれらの階級の政治勢力がなければ、いわゆる新しいイデオロギーも、いわゆる新文化も発生のしようがない。
新しい政治勢力、新しい経済勢力、新しい文化勢力は、いずれも中国の革命勢力であって、旧政治、旧経済、旧文化に反対するものである。これらのふるいものは二つの部分からなっており、一つは中国自身の半封建の政治、経済、文化、もう一つは、帝国主義の政治、経済、文化で、後者を盟主としている。これらはすべてわるいものであり、徹底的に破壊すべきものである。中国社会における新旧の闘争とは、人民大衆(革命的諸階級)という新勢力と帝国主義および封建階級という旧勢力のあいだの闘争である。このような新旧の闘争は、とりもなおさず革命と反革命の闘争である。このような闘争は、アヘン戦争からかぞえて、ちょうど百年をへており、辛亥革命からかぞえても、ほぼ三十年になる。
しかし、まえにのべたように、革命にも新旧の別があり、ある歴史的時期には新しかったものでも、別の歴史的時期にはふるくなってしまう。中国のブルジョア民主主義革命の百年は、まえの八十年とあとの二十年の二つに大きく区切られる。この二つの大きな時期には、それぞれ歴史的性質をもった基本的な特徴がある。すなわちまえの八十年間では、中国のブルジョア民主主義革命はふるい範疇にぞくし、あとの三十年間では、国際的、国内的政治情勢の変化によって新しい範疇にぞくするようになった。旧民主主義――これがまえの八十年の特徴である。新民主主義――これがあとの二十年の特徴である。このようなちがいは政治のうえでもそうであるし、文化のうえでもそうである。
では、文化の面でこのちがいはどのようにあらわれているか。これが、つぎに説明する問題である。
中国の文化戦線または思想戦線においては、「五・四」以前と「五・四」以後とが、三つの異なった歴史的時期をなしている。
「五・四」以前には、中国の文化戦線での闘争は、ブルジョア階級の新文化と封建階級の旧文化との闘争であった。「五・四」以前の学校と科挙の争い〔17〕、新学と旧学の争い、洋学と漢学の争いは、いずれもこのような性質をもっていた。当時のいわゆる学校、新学、洋学は、基本的にはいずれも、ブルジョア階級の代表者たちが必要としていた自然科学とブルジョア社会・政治学説であった(基本的にというのは、そのなかになお中国の封建的余毒がたくさんまじっていたことである)。当時、このようないわゆる新学の思想は、中国の封建思想とたたかう革命的な役割をもち、ふるい時期の中国のブルジョア民主主義革命に奉仕するものであった。ところが、中国のブルジョア階級が無力であったことと世界がすでに帝国主義の時代にはいっていたことによって、このようなブルジョア思想は、出陣して数合のうち合いをみただけで、外国帝国主義の奴隷化思想と中国封建主義の復古思想との反動同盟によって撃退されてしまい、いわゆる新学はこの思想上の反動同盟軍のちょっとした反撃に、たちまち旗をまいて、なりをしずめ、退却を宣し、魂も消しとび、わずかにその形骸を残すのみとなった。ふるいブルジョア民主主義文化は、帝国主義の時代にあっては、すでに腐敗し無力化しており、その敗北は必然的である。
「五・四」以後になると、そうではない。「五・四」以後には、中国にまったく新しい文化の新鋭軍がうまれた。それが中国共産党員の指導する共産主義の文化思想、すなわち共産主義の世界観と社会革命論である。五・四運動がおこったのは一九一九年であり、中国共産党がうまれ、労働運動がほんとうにはじまったのは一九二一年であって、いずれも第一次世界大戦と十月革命ののち、すなわち民族問題と植民地革命運動が世界的にこれまでの面目を一新したときである。ここに中国革命と世界革命の結びつきが非常にはっきりとあらわれている。中国の政治の新鋭軍、すなわち中国のプロレタリア階級と中国共産党が、中国の政治舞台に登場したことによって、この文化の新鋭軍も、新しいいでたちで新しい武器をとり、すべての可能な同盟軍と連合して、自己の陣列を張り、帝国主義的文化と封建的文化にたいして勇敢な攻撃をくりひろげた。この新鋭軍は社会科学の分野や文学芸術の分野で、哲学、経済学、政治学、軍事学、歴史学、文学、芸術(演劇、映画、音楽、彫刻、絵画の別なく)のいずれをとわずきわめて大きな発展をとげた。三十年らいこの文化の新軍のほこ先の向かうところ、思想から形式(文字など)にいたるまで、巨大な革命をおこさないものは一つとしてなかった。その気勢のすさまじさ、その威力のはげしさは、まさに向かうところ敵なしであった。その動員の広さは、中国の歴史上のいかなる時代をもこえた。そして魯迅が、この文化の新軍のもっとも偉大な、もっとも勇敢な旗手であった。魯迅は中国の文化革命の主将であり、かれは偉大な文学者であったばかりでなく、偉大な思想家、偉大な革命家であった。魯迅の背骨はもっともかたく、かれには奴隷の根性やへつらいの態度がいささかもなかった。これは植民地、半植民地人民のもっとも貴重な性格である。魯迅は文化戦線で全民族の大多数を代表して敵陣に突入した、もっとも正しい、もっとも勇敢な、もっとも断固とした、もっとも忠実な、もっとも情熱的な、空前の民族英雄であった。魯迅の方向こそ中華民族の新文化の方向である。
「五・四」以前には、中国の新文化は旧民主主義の性質をもった文化であり、世界ブルジョア階級の資本主義文化革命の一部分であった。「五・四」以後の中国の新文化は、新民主主義の性質をもつ文化であり、世界プロレタリア階級の社会主義文化革命の一部分である。
「五・四」以前には、中国の新文化運動、中国の文化革命は、ブルジョア階級が指導したもので、かれらはまだ指導的役割をはたしていた。「五・四」以後、この階級のもつ文化思想は、その政治面におけるものよりもさらにおくれ、まったく指導的役割をうしない、せいぜい革命の時期に一定の程度で、同盟者となりうるだけであり、盟主の資格はプロレタリア文化思想の肩にかかってこざるをえない。これはだれも否定できない動かしがたい事実である。
新民主主義の文化とは、人民大衆の反帝・反封建の文化であり、こんにちでは抗日統一戦線の文化である。このような文化は、他のいかなる階級の文化思想でもこれを指導することはできず、ただプロレタリア階級の文化思想、すなわち共産主義思想だけが指導できるのである。新民主主義の文化とは、一口にいって、プロレタリア階級の指導する、人民大衆の反帝・反封建の文化である。
文化革命は、イデオロギーのうえで政治革命と経済革命を反映するとともにそれらに奉仕するものである。中国では、文化革命にも政治革命と同様に統一戦線がある。
この文化革命の統一戦線は、ここ二十年らい、四つの時期にわけられる。第一の時期は一九一九年から一九二一年までの二年間、第二の時期は一九二一年から一九二七年までの六年間、第三の時期は一九三七年から一九三七年までの十年間、第四の時期は一九三七年から現在までの三年間である。
第一の時期は、一九一九年の五・四運動から一九二一年の中国共産党創立までである。この時期は五・四運動を主要な指標としている。
五・四運動は反帝国主義の運動であり、また反封建の運動でもあった。五・四運動のすぐれた歴史的意義は、辛亥革命ではまだみられなかった様相をおぴていたことにある。それは徹底的に、妥協なく帝国主義に反対し、徹底的に、妥協なく封建主義に反対することであった。五・四運動がこのような性質をもっていた理由は、当時、中国の資本主義経済がすでにいっそうの発展をみたこと、また当時の中国の革命的知識人が、すでにロシア、ドイツ、オーストリアの三大帝国主義国はくずれ、イギリス、フランスの二大帝国主義国は傷つき、ロシアのプロレタリア階級は社会主義国をうちたて、ドイツ、オーストリア(ハンガリー)、イタリア三国のプロレタリア階級は革命をおこなっているのを目のあたりにみて、中国の民族解放に新しい希望をいだいたことにある。五・四運動は、当時の世界革命のよびかけのもとで、ロシア革命のよびかけのもとで、またレーニンのよびかけのもとでおこったものである。五・四運動は当時のプロレタリア世界革命の一部分であった。五・四運動の時期には、中国共産党はまだなかったが、ロシア革命に賛成し、初歩的な共産主義思想をもつ知識人はすでにたくさんいた。五・四運動はそのはじめのうち、共産主義的知識人、革命的小ブルジョア知識人およびブルジョア知識人(当時の運動における右翼であった)の三つの部分からなる統一戦線の革命運動であった。その弱点は労働者、農民の参加がなく、知識人にかぎられたことにある。だが、それが六・三運動〔18〕にまで発展したときには、たんに知識層ばかりでなく、広範なプロレタリア階級、小ブルジョア階級およびブルジョア階級も参加し、全国的な革命運動になった。五・四運動でおこなわれた文化革命は、封建的文化に徹底的に反対する運動であり、中国の歴史はじまっていらい、これほど偉大な徹底した文化革命はかつてなかった。当時、旧道徳に反対して新道徳を提唱し、旧文学に反対して新文学を提唱することを文化革命の二つの大きな旗じるしとして、偉大な功績をうちたてた。この文化運動は、当時まだ労農大衆のなかにまで普及していく可能性はなかった。この文化運動は「平民文学」というスローガンを提起したが、当時の「平民」というのは、実際には、まだ都市の小ブルジョア階級とブルジョア階級の知識人、つまりいわゆる市民階級の知識人にかぎられていた。五・四運動は、思想の面でも、幹部の面でも、一九二一年の中国共産党の創立を準備し、また五・三〇運動と北伐戦争を準備した。当時のブルジョア知識人は、五・四運動の右翼であって、第二の時期にはいると、かれらのうちの大部分が敵と妥協して反動の側に立つようになった。
第二の時期は、中国共産党の創立と五・三〇運動、北伐戦争を指標としている。この時期には、五・四運動のころの三つの階級からなる統一戦線を継続し、発展させ、農民階級を吸収し、しかも政治的にこれら諸階級の統一戦線を形成した。それが国共両党の第一次合作であった。孫中山先生が偉大であったのは、かれが偉大な辛亥革命(ふるい時期の民主主義革命ではあったが)を指導したばかりでなく、また、「世界の潮流に適し、衆人の要求に合す」ることができ、連ソ、連共、農労援助という三大革命政策を提起し、三民主義にあらたな解釈をくだし、三大政策をもつ新三民主義を確立したからでもある。このときよりまえ、三民主義は、教育界、学術界、青年層と、それほど結びついていなかった。なぜなら、それはまだ帝国主義反対のスローガンを提起していなかったし、封建社会制度反対、封建文化思想反対のスローガンも提起していなかったからである。このときよりまえ、三民主義は旧三民主義で、そのような三民主義は、一部のものが政府の権力をうばうための、つまり官職を得るためのその場かぎりの旗じるしだとみられ、純然たる政治運動の旗じるしだとみられていた。このときよりのち、三大政策をもつ新三民主義があらわれた。国共両党の合作、両党の革命的党員の努力によって、この新三民主義は全中国におしひろめられ、一部の教育界、学術界および広範な青年学生のなかにおしひろめられた。それはほかでもなく、従来の三民主義が、反帝・反封建の、三大政策をもつ、新民主主義的な三民主義に発展したからである。この発展がなければ、三民主義思想をひろめることは不可能であった。
この時期には、このような革命の三民主義が国共両党および革命的諸階級の統一戦線の政治的基礎となり、「共産主義は三民主義のよき友」となり、二つの主義が統一戦線を結んだ。階級からいえば、それはプロレタリア階級、農民階級、都市小ブルジョア階級およびブルジョア階級の統一戦線であった。当時は、共産党の『嚮導週報』、国民党の上海『民国日報』および各地の新聞を拠点として、反帝国主義の主張をともに宣伝し、孔子をたっとび四書五経を読ませる封建教育にともに反対し、封建的なふるいよそおいの旧文学と文語文にともに反対し、反帝・反封建を内容とする新文学と口語文を提唱した。広東戦争②と北伐戦争では、中国軍隊のなかに反帝・反封建の思想をそそぎこんで、中国の軍隊を改造した。また、何百何千万という農民大衆のあいだに、汚職官吏打倒、土豪劣紳打倒のスローガンを提起し、偉大な農民革命闘争をまきおこした。これらのことによって、またソ連からの援助によって、北伐の勝利がかちとられたのである。ところが、大ブルジョア階級がひとたび政権の座にはいあがると、たちまちこの革命はうちきられ、新しい政治的局面に転じた。
第三の時期は、一九二七年から一九三七年までの新しい革命の時期である。まえの時期の終わりごろ、革命陣営に変化がおこって、中国の大ブルジョア階級が帝国主義と封建勢力の反革命陣宮にうつり、民族ブルジョア階級も大ブルジョア階級に追随し、もとから革命陣営内にあった四つの階級のうち、このとき残ったのは三つ、すなわちプロレタリア階級、農民階級、その他の小ブルジョア階級(革命的知識人もふくむ)となったので、中国革命はこのとき新しい時期にはいらざるをえなくなり、中国共産党が単独で大衆を指導して、この革命をおこなうことになったのである。この時期は、一方では反革命の「包囲討伐」がおこなわれ、他方では革命が深化した時期であった。この時期には、反革命のふたとおりの「包囲討伐」、つまり軍事的「包囲討伐」と文化的「包囲討伐」③がおこなわれた。同時に、革命のふたとおりの深化、つまり農村革命の深化と文化革命の深化がみられた。このふたとおりの「包囲討伐」には、帝国主義の策動のもとで、全中国と全世界の反革命勢力が動員され、その期間は十年の長さにおよび、その残酷さは世界のどこにも見られないもので、何十万という共産党員や青年学生が虐殺され、何百万という労農人民が蹂躙された。当事者からみると、共産主義と共産党をかならず「根こそぎ討伐し虐殺し」うるとおもえたらしい。だが結果は反対で、このふたとおりの「包囲討伐」はどちらも惨敗した。軍事的「包囲討伐」の結果は赤軍の北上抗日となり、文化的「包囲討伐」の結果は一九三五年の「一二・九」の青年革命運動の勃発となった。そして、このふたとおりの「包囲討伐」の共通の結果は全国人民の覚醒となった。この三つはいずれも積極的な結果である。なかでも、もっとも不思議なことは、国民党支配区内のすべての文化機関で、共産党がまったく抵抗する力のない立場におかれていたにもかかわらず、どうして文化的「包囲討伐」までが一敗地にまみれたかということである。それでもなお深く考えないでいられるだろうか。共産主義者の魯迅は、まさしくこの「包囲討伐」のなかにあって、中国の文化革命の偉人となったのである。
反革命の「包囲討伐」の消極的結果としては、日本帝国主義が攻めこんできたことである。これこそ、全国人民がいまなお、あの十年におよぶ反共を心からにくんでいる最大の原因である。
この時期の闘争で、革命の側は、人民大衆の反帝・反封建の新民主主義と新三民主義を堅持し、反革命の側は、帝国主義の指揮のもとに地主階級と大ブルジョア階級の同盟による専制主義をとった。この専制主義は、政治の面でも文化の面でも、孫中山の三大政策をきってすて、かれの新三民主義をきってすて、中華民族にはかりしれない災難をもたらした。第四の時期は、つまり現在の抗日戦争の時期である。中国革命の曲線運動のなかで、もういちど四つの階級による統一戦線があらわれた。しかし、その範囲はいっそうひろくなって、上層階級は多くの支配者をふくめ、中層階級は民族ブルジョア階級と小ブルジョア階級をふくめ、下層階級はすべてのプロレタリアをふくめ、全国の各階層がみな同盟者となり、日本帝国主義に断固として抵抗した。この時期の第一段階は、武漢陥落までである。このときには、全国の各方面にいきいきとした気運がみなぎって、政治のうえでは民主化の傾向があらわれ、文化のうえではかなり普遍的な動員がおこなわれた。武漢陥落以後がその第二段階で、政治状況にいくたの変化がおこり、大ブルジョア階級の一部は敵に投降し、他の一部も抗戦をはやくうちきりたいと考えるようになった。文化の面にもこの状況が反映して、葉青④、張君[萬+力]どもの反動的活動、そして言論、出版の制限があらわれた。
このような危機を克服するためには、抗戦に反対し団結に反対し進歩に反対するすべての思想と断固たたかわなければならず、これらの反動思想をうちやぶらなければ、抗戦の勝利はのぞめない。この闘争の将来はどうか。これは全国人民の胸中にある大間題である。国内的、国際的条件からいうと、たとえ抗戦の途上にどれほどの困難があろうとも、中国人民はけっきょく勝利する。中国の全歴史において、五・四運動以後の二十年間の進歩は、それ以前の八十年間にくらべてまさっているばかりか、それまでの数千年にくらべてもまさっている。さらに二十年の年月をへたなら、中国がどれほどまでに進歩するか想像がつくではないか。内外のすべての暗黒勢力が狂暴をほしいままにしていることから、民族の災難がもたらされてはいる。だが、こうした狂暴ぶりは、これらの暗黒勢力にまだ力があることをしめしてはいるが、かれらの最後のあがきをもしめしており、人民大衆がしだいに勝利に近づきつつあることをもしめしている。これは、中国においてそうであるばかりでなく、東方全体においてもそうであり、世界においてもそうである。
すべての新しいものは苦難の闘争のなかできたえあげられるものである。新文化も同様で、この二十年間に「之」の字型に、三つの曲折をあゆみ、よいものもわるいものも、すべてためされてあきるかになった。
ブルジョア頑迷派は、文化問題でも、政権問題のばあいと同様に完全にあやまっている。かれらは中国の新しい時期の歴史的特徴を知らず、人民大衆の新民主主義の文化をみとめない。かれらの出発点はブルジョア専制主義であり、文化の面ではブルジョア階級の文化専制主義である。一部のいわゆる欧米派の文化人〔19〕(わたしがいっているのは一部である)は、かつて実際に国民党政府の文化的「共産党討伐」を賛助し、いままた「限共」とか「溶共」とかいう政策を賛助しているようである。かれらは、労働者、農民が政治の面でたちあがるのをのぞまないし、また労働者、農民が文化の面でたちあがるのものぞまない。ブルジョア頑迷派のこの文化専制主義の道はゆきづまるもので、これには、権力問題と同様に、国内的、国際的な条件がない。したがって、このような文化専制主義は、やはり「ひっこめる」ほうがよい。
国民文化の方針としては、指導的地位にあるのは共産主義思想であり、しかも、われわれは労働者階級のなかで社会主義と共産主義の宣伝につとめるとともに、適切に、段どりをふみ、社会主義によって農民およびその他の大衆を教育するようつとめるべきである。だが国民文化全体としては、いまのところまだ社会主義的なものではない。
新民主主義の政治、経済、文化は、すべてプロレタリア階級に指導されているため、いずれも社会主義的要素をもっており、それも、ふつうの要素ではなく、決定的な役割をはたす要素である。しかし、政治状況全体、経済状況全体および文化状況全体についていえば、まだ社会主義的なものではなく、新民主主義的なものである。なぜなら、現段階の革命の基本任務は、まだ資本主義をくつがえすことを目標とする社会主義革命ではなく、主として外国の帝国主義と自国の封建主義に反対することであり、ブルジョア民主主義革命であるからである。国民文化の分野についていうと、現在の国民文化全体が社会主義の国民文化であるとか、あるいはそうあるべきだとか考えるのはまちがっている。それは、共産主義の思想体系の宣伝を当面の行動綱領の実践とみなすものであり、共産主義の立場と方法で問題を観察し、学問を研究し、仕事を処理し、幹部を訓練することを、中国の民主主義革命の段階における国民教育、国民文化全体の方針とみなすものである。社会主義を内容とする国民文化は、社会主義の政治と経済を反映するものでなければならない。われわれは政治面、経済面で、社会主義的要素をもっており、それが反映して、われわれの国民文化も社会主義的要素をもっている。だが社会全体からいえば、われわれは、現在、まだこうした全体としての社会主義の政治と経済を形成してはいないので、まだこうした全体としての社会主義の国民文化をもつことはできない。現在の中国革命は世界プロレタリア社会主義革命の一部分であるから、現在の中国の新文化もまた、世界プロレタリア社会主義の新文化の一部分であり、その偉大な同盟軍である。この一部分は社会主義文化の重要な要素をふくんではいるが、国民文化全体からいうと、まだ完全に社会主義文化の資格で参加しているのではなく、人民大衆の反帝・反封建の新民主主義文化の資格で参加しているのである。現在の中国革命は中国プロレタリア階級の指導からはなれることができないのだから、現在の中国の新文化も中国プロレタリア階級の文化思想の指導、すなわち共産主義思想の指導からはなれることはできない。だがこのような指導は、現段階では人民大衆の反帝・反封建の政治革命と文化革命を指導することであり、したがって、いまの新しい国民文化全体の内容は、社会主義的なものではなく、やはり新民主主義的なものである。
現在では、疑いもなく、共産主義思想の宣伝を拡大し、マルクス・レーニン主義の学習を強化すべきであり、こうした宣伝と学習がなければ、中国革命を将来の社会主義の段階にみちびくことができないばかりか、現在の民主主義革命を勝利にみちびくこともできない。だが、われわれは、共産主義の思想体系と社会制度についての宣伝を、新民主主義の行動綱領についての実践から区別すべきであり、また、問題を観察し、学問を研究し、仕事を処理し、幹部を訓練するものとしての共産主義の理論と方法を、国民文化全体としての新民主主義の方針から区別すべきである。この両者を混同することは、疑いもなく適切でない。
これによってわかるように、現段階の中国の新しい国民文化の内容は、ブルジョア階級の文化専制主義でもなければ、またたんなるプロレタリア階級の社会主義でもなく、プロレタリア階級の社会主義文化思想によって指導される、人民大衆の反帝・反封建の新民主主義である。
このような新民主主義の文化は民族的である。それは、帝国主義の抑圧に反対し、中華民族の尊厳と独立を主張するものである。それはわれわれの民族のものであり、われわれの民族の特性をそなえている。それはすべての他の民族の社会主義文化および新民主主義文化と連合し、たがいに吸収し発展しあう関係を樹立し、ともに世界の新文化を形成するものである。だが、われわれの文化は革命的な民族文化であるから、他のいかなる民族のものでも帝国主義反動文化とはけっして連合できない。中国は外国の進歩的な文化を自己の文化の糧の原料として大いに吸収すべきであるが、その仕事はこれまで非常に不十分であった。それには、当面の社会主義文化と新民主主義文化ばかりでなく、たとえば資本主義諸国の啓蒙時代の文化のような外国のふるい時代の文化でも、およそこんにちわれわれに役だつものはすべて吸収すべきである。だが、すべて外国のものは、われわれが食物にたいするのと同様に、それをからだに有益なものとするためには、ぜひとも自分の口で咀嚼し、胃腸の運動をつうじて、それに唾液、胃液、腸液をおくり、それを粋と滓の二つに分解したうえで、滓を排泄し粋を吸収しなければならず、けっしてなまのままうのみにして無批判に吸収してはならない。いわゆる「全面的西洋化」〔20〕という主張は、まちがった観点である。外国のものを形式主義的に吸収したために、これまで中国は大きな損をした。中国の共産主義者がマルクス主義を中国に適用するばあいも同様で、マルクス主義の普遍的真理と中国革命の具体的実践を完全に適切に統一しなければならない。つまり民族的特徴と結びつけ、一定の民族的形式をつうじてこそ、役にたつのであって、けっして主観的、公式的にそれを適用してはならないのである。公式的なマルクス主義者は、マルクス主義と中国革命を茶化しているだけで、中国革命の隊列内にはかれらの席はない。中国文化は自己の形式、つまり、民族的形式をもつべきである。民族的な形式、新民主主義的な内容――これがわれわれのこんにちの新文化である。
このような新民主主義の文化は科学的である。それは、すべての封建的思想や迷信的思想に反対し、事実にもとづいて法則性をもとめることを主張し、客観的真理を主張し、理論と実践の一致を主張する。この点で、中国プロレタリア階級の科学的思想は、中国のまだ進歩性をもっているブルジョア階級の唯物論者や自然科学者と反帝・反封建・反迷信の統一戦線をうちたてることができる。だが、いかなる反動的観念論とも統一戦線をうちたててはならない。共産党員は、政治行動のうえでは一部の観念論者、ひいては宗教徒とも、反帝・反封建の統一戦線をうちたててもよいが、かれらの観念論や宗教的教義にはけっして賛成してはならない。中国の長期にわたる封建社会では、かがやかしい古代文化が創造された。古代文化の発展の過程を整理して、封建的な滓を除去し、民主主義的な粋を吸収することは、民族の新文化をのばし、民族の自信をたかめるうえでの必要な条件である。だが、けっして無批判に、なにもかも受けいれてはならない。古代の封建的支配階級のすべての腐敗したものと、古代のすぐれた人民文化、すなわち多少とも民主主義的性質と革命的性質をもったものとを区別しなければならない。中国の現在の新政治、新経済は、古代の旧政治、旧経済から発展してきたものであり、中国の現在の新文化も古代の旧文化から発展してきたものである。したがって、われわれは、けっして歴史をたちきってはならず、自己の歴史を尊重すべきである。しかし、こうした尊重とは、昔をたたえ、今をけなすことではなく、いかなる封建的毒素をほめることでもなくて、歴史に一定の科学的地位をあたえることであり、歴史の弁証法的発展を尊重することである。人民大衆と青年学生にたいして、主要なことはかれらをうしろ向きにみちびくことではなく、まえ向きにみちびくことである。
このような新民主主義の文化は大衆的であり、したがってそれは民主主義的である。それは全民族の九〇パーセント以上をしめる労農勤労大衆に奉仕し、またしだいにかれらの文化となるべきものである。革命的幹部にあたえる知識と、革命的大衆にあたえる知識とを、程度のうえでたがいに区別しながらたがいに結びつけ、向上と普及とをたがいに区別しながらたがいに結びつけなければならない。革命文化は、人民大衆にとっては革命の有力な武器である。革命文化は、革命のまえには革命の思想的準備であり、革命のさなかには革命の全戦線での必要な、また重要な戦線である。そして革命的な文化活動家は、この文化戦線における各級での指揮者である。「革命の理論がなければ革命の運動もありえない」〔21〕ことから、革命の文化運動が革命の実践運動にとっていかに重要性をもつかがわかる。しかも、このような文化運動と実践運動はすべて大衆的なものである。したがって、すべての進歩的な文化活動家は、抗日戦争のなかで自己の文化軍隊をもつべきであり、その軍隊とは人民大衆である。革命的な文化人でありながら、民衆に近づかなければ、それは「無兵司令官」であって、その火力では敵をうちたおすことができない。この目的を達成するには、文字は一定の条件のもとで改革しなければならず、ことばは民衆に近づけなげればならず、民衆こそ革命文化のかぎりなくゆたかな源であることを知らなければならない。
民族的、科学的、大衆的な文化こそが、人民大衆の反帝・反封建の文化であり、新民主主義の文化であり、中華民族の新文化である。
新民主主義の政治、新民主主義の経済が新民主主義の文化と結合したもの、これが新民主主義共和国であり、名実あいともなう中華民国であり、われわれのきずこうとする新中国である。
新中国は人民の一人ひとりのまえに立っている。われわれはそれを迎えるべきである。
新中国丸のマストはすでに水平線のかなたにあらわれた。われわれは拍手をもってこれを迎えるべきである。
双手をあげよう。新中国はわれわれのものである。
〔1〕 『中国文化』は、一九四〇年一月、延安で創刊された雑誌である。『新民主主義論』は、まず、この雑誌の創刊号に発表された。
〔2〕 「政治は経済の集中的表現である」ということばは、レーニンの『労働組合、時局およびトロツキーの誤謬について』にみられる。
〔3〕 マルクスの『経済学批判』序文から引用。
〔4〕 エンゲルスの『フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結』の付録、マルクスの『フォイエルバッハにかんするテーゼ』第十一条にみられる。
〔5〕 スターリンの『十月革命と民族問題』から引用。
〔6〕 レーニンの『資本主義の最高の段階としての帝国主義』にみられる。
〔7〕 蒋介石が革命を売りわたしてのち国民党政府のおこなった一連の反ソ連動をさす。すなわち、一九二七年十二月十三日、国民党は広州駐在のソ連の副領事を射殺した。同月十四日、南京の国民党政府は、「対ソ国交断絶舎」をだして、中国各省におかれていたソ連領事を承認せず、中国各省にあったソ連通商機構の業務停止を命じた。一九二九年八月、蒋介石は、またも、帝国主義にそそのかされて、東北でソ連にたいする挑発をおこない、軍事衝突をひきおこした。
〔8〕 ケマルは第一次世界大戦後のトルコの商業ブルジョア階級の代表者である。第一次大戦後、イギリス帝国主義者は、その従属国ギリシアを指図して、トルコにたいする武力侵略をおこなわせた。トルコ人民は、ソ連の援助をえて、一九二二年、ギリシアの軍隊にうち勝った。一九二三年、ケマルは、トルコの大統領にえらばれた。スターリンは、「ケマル式革命は民族商業ブルジョア階級の上層革命で、外国帝国主義者との闘争のなかからうまれたが、その後の発展においては、本質上、農民と労働者に反対し、土地革命の発生を阻止するものである」といっている。スターリンの『中山大学の学生にたいする談話』を参照。
〔9〕 毛沢東同志はここで張君[萬+力]とその一味のことをいっている。五・四運動ののち、張君[萬+力]は、「精神文化」という「玄学」を鼓吹して、公然と科学に反対し、当時、「玄学亡者」といわれた。一九三八年十二月、張君[萬+力]は蒋介石の意をうけて、「毛沢東氏への公開状」を発表し、八路軍、新四軍の解消、陝西、・甘粛・寧夏辺区の解消をわめきたて、日本帝国主義と蒋介石のお先棒をかついだ。
〔10〕 一九三七年九月、中国共産党中央の発表した、国共両党の合作成立の宣言にみられる。
〔11〕 一九二四年、孫中山がおこなった「民生主義講演」第二講にみられる。
〔12〕 蒋介石集団の特務の頭目のひとりである陳立夫は、何人かの反動的なごろつきをやとって、『唯生論』というものを書かせ、悪名高い陳立夫の名で発表した。この本のなかで、かれらは、でたらめな論議をならべたてて、国民党のファシズムを鼓吹した。
〔13〕 山西地方の大地主・大買弁の代表である軍閥の闇錫山は、恥しらずにもこうしたスローガンをかかげた。
〔14〕 汪精衛は、一九二七年、革命を売りわたしたのち、「はさみうちのなかの奮闘」と題する論文を書いた。
〔15〕 一九二五年三月三十日、スターリンはコミンテルン執行委員会のユーゴスラビア委員会の会議で「ユーゴスラビアにおける民族問題について」という演説をおこなったが、そのなかでつぎのようにのべている。「……農民は民族運動の主力であり、農民軍がなければ強力な民族運動もないし、またありえない。……民族問題とは、実質的には農民問題である。」
〔16〕 共産党内で、かつて一部の教条主義者は、毛沢東同志が農村の革命根拠地を重要視したことを「山のぼり主義」とあざけった。毛沢東同志は、ここで教条主義者のこのような風刺をかりて、農村の革命根拠地の偉大な役割を説明している。
〔17〕 「学校」とは、当時、欧米の資本主義国にみならった教育制度をさす。「科挙」とは、もと中国にあった封建的試験制度をいう。一九世紀の末ごろ、中国の革新派の知識人は、科挙を廃止し、学校を創設することを主張した。
〔18〕 一九一九年の五・四愛国運動は、六月の初めになって、新しい段階にはいった。六月三日、北京の学生が警察の弾圧に抵抗して、集会をひらき、講演をおこなったのをきっかけに、学生の授業放棄から、上海、南京、天津、杭州、武漢、九江および山東省、安徽省など各地の労働者のストライキ、商人の閉店ストに発展した。こうして、五・四運動は、ついにプロレタリア階級、都市小ブルジョア階級、民族ブルジョア階級の参加する広範な大衆運動となった。
〔19〕 欧米派の文化人とは、胡適らを代表とする一部のものをさす。
〔20〕 いわゆる「全面的西洋化」は、一部のブルジョア学者の主張である。かれらは、すでに時代おくれのものとなった、個人主義を中心とする西洋のブルジョア文化を無条件に称賛し、中国はなにごとも欧米資本主義国を完全に模倣しなければならないと主張し、それを「西洋文化の全面的な受けいれ」といった。
〔21〕 レーニンの『なにをなすべきか』第一章第四節から引用。
① 「一つの主義」とは、国民党が一回目の反共の高まりのときにもちだした反動的スローガンの一つである。一九三八年十月、武漢陥落ののち、国民党の反共活動はしだいにひどくなり、軍事上、政治上の反共活動と呼応して、「一つの党」、「一つの主義」、「一人の指導者」という反動的スローガンをもちだした。いわゆる「一つの主義」とは、中国で蒋介石のにせ三民主義、すなわちファシズムの存在だけをゆるし、その他の主義はすべて清算せよというものである。
② 本巻の『戦争と戦略の問題』〔2〕にみられる。
③ 第二次国内革命戦争の時期、国民党反動政権は、中国共産党に指導された労働者、農民の武装勢力にたいしては軍事的「包囲討伐」をおこなう一方、国民党支配地区内の革命的文化界にたいしては文化的「包囲討伐」をおこなった。国民党反動当局は政治的高圧手段とテロ政策をもちいて、進歩的な出版物を禁止し、進歩的な書店を閉鎖し、進歩的な文化団体を破壊し、進歩的な作家を迫害、殺害し、反動的な文化人をそそのかして、革命的文化運動を妨害し、破壊させた。中国共産党の指導のもとで、文化的「包囲討伐」反対闘争が、断固として展開された。それは、プロレタリア階級の指導する反帝・反封建・反独裁を前提として、すべての進歩的文化界を革命的文化戦線に結集させ、さまざまな反動的文化思想をあいついで暴露し、批判して、文化的「包囲討伐」反対闘争の勝利をかちとった。
④ 葉青は、共産党の裏切り者であり、トロツキストであった。その後、国民党特務機関の御用文化人になりさがった。
(一九四○年一月二十八日)
これは、毛沢東同志が中国共産党中央のために書いた党内指示である。
当面の時局の発展状況は、党中央のたびたびおこなってきた評価が正しかったことを立証している。大地主・大ブルジョア階級の投降の方向と、プロレタリア階級、農民、都市小ブルジョア階級、中層ブルジョア階級の抗戦の方向とは対立しており、たがいに闘争している。いまは、二つの方向が同時に存在しており、二つの前途がどちらも可能である。ここで、全党の同志に認識させなければならないのは、各地でおこっている投降、反共、後退などの重大な現象を孤立したものとして見てはならないということである。これらの現象にたいしては、その重大性を認識し、断固これに反抗すべきで、これらの現象の威力に圧倒されてはならない。もしこのような精神がなく、これらの現象に断固反抗する正しい方針がなく、国民党頑迷派の「軍事面での共産党制限」と「政治面での共産党制限」が強まるのをそのままにさせ、統一戦線が割れはしないかとおそれるだけならば、抗戦の前途は危ういものとなり、投降と反共は全国化し、統一戦線は割れるおそれがある。現在、国内的にも国際的にも、われわれが抗戦をつづけ、団結をつづけ、進歩をつづけていくのに有利な客観条件がまだたくさん存在していることを、はっきり見てとらなければならない。たとえば、日本の中国にたいする方針が依然として非常に強硬であること、イギリス、アメリカ、フランスと日本とのあいだは、部分的には矛盾が縮小しているが、まだほんとうには協調しておらず、しかも東方におけるイギリス、フランスの地位もヨーロッパ戦争によって弱められているために、いわゆる極東ミュンヘン会議①の招集がなかなかできないこと、ソ連が積極的に中国を援助していること、これらが国民党に投降と妥協を困難にさせ、全国的な反共戦争を困難にさせている国際的条件である。またたとえば、共産党、八路軍、新四軍が投降に断固反対し、抗戦と団結の方針を堅持していること、中間階級も投降に反対していること、国民党内の投降派や頑迷派は権力をにぎってはいるが、数のうえでは少数にすぎないこと、これらが国民党に投降と妥協を困難にさせ、全国的な反共戦争を困難にさせている国内的条件である。以上のべた状況から、党の任務は、一方では、投降派や頑迷派の軍事攻勢と政治攻勢に断固反抗することであり、また他方では、政党、政府、軍隊、民衆、知識層など各方面の全国的な統一戦線を積極的に発展させて、極力、国民党内の大多数をたたかいとり、中間層をたたかいとり、抗戦部隊内の共鳴者をたたかいとり、民衆運動の深化をたたかいとり、知識人をたたかいとり、抗日根拠地の強化と抗日武装組織、抗日政権の発展をたたかいとり、党の強化と進歩をたたかいとることである。このように両方の任務を同時にすすめていくならば、大地主・大ブルジョア階級の投降の危険を克服し、時局の好転の前途をかちとることが可能となる。したがって、時局の好転をたたかいとると同時に、おこりうる突発事件(当面は局部的、地方的な突発事件)にたいして警戒心をつよめること、これが党の当面の政策の全般的方針である。
汪精衛売国協定〔1〕を公表し、蒋介石が国民に告げる書を発表したのち、一方では、和平の空気が打撃をうけ、抗戦勢力が発展をみせるにちがいないが、他方では、「軍事面での共産党制限」と「政治面での共産党制限」がやはりつづき、地方的な事件がやはりおこり、国民党が「統一して外敵にあたる」ということを強調して、われわれに攻撃をくわえてくる可能性がある。これは抗戦と進歩の勢力が、当分のあいだは、投降と後退の勢力を完全に圧倒するところまで発展できないからである。われわれの方針は、全国にわたって共産党の組織のあるところではすべて、汪精衛の売国協定に反対する宣伝を極力ひろめることである。蒋介石の宣言は、かれがひきつづき抗戦することを表明しているが、全国が団結をつよめなければならないことは強調していないし、抗戦と進歩を堅持するどのような方針にもふれていない。だが、このような方針がなければ、抗戦を堅持することはできないのである。したがって、われわれは汪精衛反対運動のなかでつぎのことを強調しなければならない。(一)最後まで抗戦するという国策を支持し、汪精衛の売国協定に反対すること。(二)全国人民が団結して、民族裏切り者汪精衛を打倒し、汪精衛のかいらい中央政府を打倒すること。(三)国共合作を支持し、汪精衛の反共政策を打倒すること。(四)反共は抗日統一戦線を分裂させる汪精衛の陰謀であるから、潜伏している汪精衛一派の民族裏切り者を打倒すること。(五)全国的団結をつよめ、内部の摩擦②をなくすこと。(六)内政を革新し、憲政運動をくりひろげ、民主政治をうちたてること。(七)政党禁止を解除し、抗日諸政党の合法的存在をゆるすこと。(八)日本侵略者に抵抗し、民族裏切り者に反対する言論、集会の自由の権利を人民に保証すること。(九)抗日根拠地をかため、汪精衛一派の民族裏切り者による破壊の陰謀に反対すること。(一〇)抗日に功労のある軍隊を支持し、前線に十分な補給をすること。(一一)抗戦の文化を発展させ、進歩的青年を保護し、民族裏切り者の言論を取り締まること。以上のスローガンは公表すべきである。各地では論文、宣言、ビラ・演説、パンフレットを大量に発表し、また、その地方の状況に適したスローガンをつけくわえるべきである。
延安ではニ月一日に、汪精衛の売国協定に反対する民衆大会がひらかれる。各地では二月上旬あるいは中旬に、各界および国民党の抗日派と連合して、みな民衆大会をひらき、投降に反対し、民族裏切り者に反対し、摩擦に反対する高まりを全国にもりあげていかなければならない。
〔1〕 一九三九年末、汪精衛が日本侵略者と調印した売国的秘密条約「日支新関係調整要綱」をさす。そのおもな内容はつぎのとおりである。一、東北地方は日本に割譲し、蒙疆地方(当時の綏遠、察哈爾両省と山西省北部をさす)、華北地方、長江下流および華南地方の島嶼は「日支強度結合地帯」として日本軍が長期にわたって占領する。二、かいらい政権は、中央政府から地方政府にいたるまで、すべて日本の顧問または職員が監督する。三、かいらい軍とかいらい警察は、日本人教官が訓練し、武器も日本が提供する。四、かいらい政府の財政経済政策、工業、農業、交通事業はみな日本が統制し、すべての資源は日本が自由に開発する。五、すべての抗日活動を禁止する。
① 本巻の『投降の策動に反対せよ』注〔2〕、〔3〕を参照。
② 本巻の『投降の策動に反対せよ』注〔8〕を参照。
(一九四〇年二月一日)
これは、毛沢東同志が延安の汪精衛糾弾民衆大会でおこなった講演である。
きょうわれわれ延安各界の人民がここで集会をひらいているのは、なんのためだろうか。売国奴汪精衛を糾弾するためであり、すべての抗日勢力を結集して、反共頑迷派に反対するためである。
われわれ共産党員がしばしば指摘してきたように、日本帝国主義の中国を滅亡させる方針はゆるがないものである。日本が内閣をどのようなものにとりかえようと、中国を滅亡させ、中国を植民地化するその基本方針は変わるものではない。中国の親日派大ブルジョア階級の政治的代表者である汪精衛は、このありさまをみて、気もくるわんばかりに仰天し、日本のまえにひざまずいて、日本・汪精衛売国条約を結び、中国を日本帝国主義に売りわたした。かれはまた、かいらい政府をつくって、抗日政府に対立させようとし、かいらい軍隊をつくって、抗日軍隊に対立させようとしている。かれは、最近、反蒋をあまり口にしなくなっており、すでに「連蒋」にきりかえたとのことである。日本と汪精衛のおもな目的は反共である。かれらは、共産党の抗日がもっとも徹底しており、国民党と共産党が協力すれば、抗日の力がいっそう大きくなるのを知っているので、全力をあげて国共合作を分裂させ、両党をそれぞれ孤立させ、あわよくば、両党を戦わせようとしているのである。こうして、かれらは国民党内部の頑迷派を利用して、いたろところに火をつけている。湖南省では平江虐殺事件〔1〕をおこさせ、河南省では確山虐殺事件〔2〕をおこさせ、山西省では旧軍に新軍を攻撃させ〔3〕、河北省では張蔭梧に八路軍を攻撃させ〔4〕、山東省では秦啓栄に遊撃隊を攻撃させ〔5〕、湖北省東部では程汝懐に共産党員五、六百人を殺害させ〔6〕、陝西・甘粛・寧夏辺区にたいしては、内部での「点線工作」〔7〕、外部からの「封鎖工作」をおこない、さらに軍事的進攻をも準備している〔8〕。このほかにも、多数の進歩的青年を逮捕して、強制収容所におくったり〔9〕、玄学亡者張君[萬+力]をやといいれて、共産党の解消、陝西・甘粛・寧夏辺区の解消、八路軍、新四軍の解消という反動的主張をもちださせたり、トロツキスト葉青らをやといいれて、共産党を罵倒する文章を書かせたりしている。これらはすべて、抗日の局面を破壊して、全国人民を亡国の民にしようとするものにほかならない〔10〕。
このように、汪精衛派と国民党内の反共頑迷派との両者は、内外から呼応して、時局を毒気のみなぎる暗黒なものにしてしまった。
多くの人は、このありさまをみて大いに憤慨し、抗日には希望がなくなった、国民党は悪人ばかりだ、そのすべてに反対すべきである、と考えている。われわれはつぎのことを指摘しなければならない。憤慨するのはもっとも至極だ、こうした重大事態を目にして、憤慨しないものがどこにあるだろうか。だが、抗日にはやはり希望があり、国民党内部も、みながみな悪人というわけではない。異なった部類の国民党員にたいしては、異なった政策をとるべきである。良心のひとかけらさえない悪党どもにたいし、あえて八路軍や新四軍の陣地の背後から発砲する連中にたいし、あえて平江虐殺事件や確山虐殺事件をひきおこす連中にたいし、あえて辺区を破壊する連中にたいし、あえて進歩的な軍隊、進歩的な団体、進歩的な人びとを攻撃する連中にたいしては、かならず反撃をくわえなければならず、けっして黙過したり、譲歩したりすることはできない。なぜなら、これらの悪党どもは、すでに良心のひとかけらさえなく、民族の敵が国土ふかく侵入しているときにも、なお、摩擦をおこし、虐殺事件をおこし、分裂をおこそうとしているからである。かれらが心のなかでどう考えようと、実際には日本と汪精衛をたすけているのであり、あるものははじめから潜伏していた民族裏切り者なのである。こうした連中に懲罰をくわえないとすれば、われわれはあやまりをおかすことになり、民族裏切り者と国賊を放任することになり、民族的抗戦に不忠実となり、祖国に不忠実となり、悪党どもの統一戦線破壊を放任することになり、党の政策に違反することになる。だが、投降派や反共頑迷派に打撃をくわえるこのような政策は、ひとえに抗日を堅持し抗日統一戦線をまもるためである。したがって、国民党員のなかの抗日に忠実な人びとや、投降派でも反共頑迷派でもないすべての人にたいしては、われわれは好意をしめすのであり、かれらと団結するのであり、かれらを尊重するのであり、また、国をよくするために、かれらと長期にわたって協力したいとねがうのである。そうしないものは、やはり、党の政策に違反することになる。
つぎが、わが党の二つの政策である。一方では、すべての進歩勢力を結集し、抗日に忠実なすべての人びとを結集すること、これが一つの政策であり、他方では、良心のひとかけらさえないすべての悪党どもに反対し、投降派や反共頑迷派に反対すること、これがもう一つの政策である。わが党のこれらの政策は、時局の好転をたたかいとり、日本にうち勝つという目的をたっするためのものである。われわれ共産党と全国人民の任務は、抗目的、進歩的なすべての勢力を結集して、投降的、後退的なすべての勢力に抵抗し、時局を逆転から救い、その好転をたたかいとることにある。これがわれわれの根本方針である。われわれはけっして悲観も失望もしない。われわれは楽観している。われわれは投降派や反共頑迷派のどんな攻撃もおそれない。われわれはかならずかれらを粉砕しなければならないし、またかならず粉砕することができる。中華民族の解放は必至であり、中国はけっして滅亡しない。中国の進歩は必至であり、後退は一時的な現象にすぎない。
われわれは、また、きょうの集会で全国人民に一つの態度を表明したい。つまり、抗日のためには全国人民の団結と進歩が必要だということである。一部の人は、抗日だけを強調して団結と進歩を強調したがらず、はなはだしいばあいには団結と進歩を全然とりあげないが、これはまちがいである。真の強固な団結がなく、急速で着実な進歩がなくて、どうして抗日を堅持することができよう。国民党の反共頑迷派は統一を強調しているが、かれらのいわゆる「統一」とは、にせの統一であって真の統一ではなく、不合理な統一であって合理的な統一ではなく、形式主義な統一であって実際的な統一ではない。かれらは、統一をわめきたてているが、その実、共産党、八路軍、新四軍、辺区が存在していると中国は統一できないといって、共産党、八路軍、新四重、陝西・甘粛・寧夏辺区を解消しようとしているのであり、全国のすべてを国民党化しようとしているのである。かれらはまた、その一党独裁をつづけているだけでなく、一党独裁を拡大しようとしている。こんなことで、統一などあるだろうか。ほんとうのところ、もしこれまで共産党、八路軍、新四重、陝西・甘粛・寧夏辺区が誠意をもって内戦停止と一致抗日を主張しなかったなら、抗日民族統一戦線を発起するものもなく、西安事変①を平和的解決にみちびくものもなく、抗日も実行のしようがなかったであろう。こんにち、もし共産党、八路軍、新四軍、陝西・甘粛・寧夏辺区および各抗日民主根拠地が誠意をもって抗日の大局を維持し、投降、分裂、後退の危険な傾向に反対しなかったなら、収拾がつかなくなっていたであろう。八路軍、新四軍の数十万人は、敵の五分の二をくいとめ、日本の四十コ師団のうちの十七コ師団と戦っている〔11〕のに、なぜこれを解消しようとするのか。陝西・甘粛・寧夏辺区は全国でもっとも進歩した地方で、ここは民主的な抗日根拠地である。ここには、第一に汚職官吏がいず、第二に土豪劣紳がいず、第三に賭博がなく、第四に娼婦がいず、第五に妾がいず、第六にこじきがいず、第七に徒党をくんで私利をはかるものがいず、第八に意気消沈した気分がなく、第九に摩擦で飯を食うもの〔12〕がいず、第十に国難成金がいないのに、なぜ、これを解消しようとするのか。恥知らずなことがいえるのは、恥知らずな人間だけである。頑迷派にはわれわれのまえで一言でも口をきく資格があろうか。同志諸君、もちろん、そんなことがあってはならない。辺区を解消するのではなくて、全国が辺区に学ぶべきである。八路軍、新四軍を解消するのではなくて、全国が八路軍、新四軍に学ぶべきである。共産党を解消するのではなくて、全国が共産党に学ぶべきである。進歩した人びとがおくれた人びとに見ならうのではなくて、おくれた人びとが進歩した人びとに見ならうべきである。統一をもっとも主張しているのがわれわれ共産党であり、われわれが統一戦線を発起し、統一戦線を堅持し、統一した民主共和国のスローガンを提起したのである。だれにこうしたことが提起できるだろうか。だれにこうしたことが実行できるだろうか。だれに一ヵ月五元の給料〔13〕しかもらわないでいることができるだろうか。だれにこのような廉潔な政治をうみだすことができるだろうか。統一、統一といっても、投降派の統一論は、われわれに投降への統一をもとめるものであり、反共頑迷派の統一論は、われわれに分裂への統一、後退への統一をもとめるものである。われわれに、そんな理屈が信じられるだろうか。抗戦、団結、進歩の三つを基礎としない統一を、真の統一といえるだろうか。合理的な統一といえるだろうか。実際的な統一といえるだろうか。それこそ、寝言である! われわれがきょう大会をひらいたのは、われわれの統一論を提起するためである。われわれの統一論とは、全国人民の統一論であり、すべての良心的な人びとの統一論である。この統一論は、抗戦、団結、進歩の三つを基礎としている。進歩があって、はじめて団結することができ、団結があって、はじめて抗日することができ、進歩と団結と抗日があって、はじめて統一することができる。これがわれわれの統一論であり、真の統一論であり、合理的な統一論であり、実際的な統一論である。あのにせの統一論、不合理な統一論、形式主義的な統一論は、亡国の統一論であり、良心のひとかけらさえないものの統一論である。かれらは共産党、八路軍、新四軍、民主的抗日根拠地を消滅し、すべての地方の抗日勢力を消滅して、国民党に統一しようとしている。これは陰謀である。これは、統一に名をかりて専制の実をおこなうものであり、統一という羊頭をかかげて、かれらの一党専制という狗肉を売るものであり、ずうずうしくでたらめをならべたてて、まったくこの世に恥というもののあることを知らないものである。われわれのきょうの大会は、かれらのハリコの虎をつきやぶるものである。われわれは反共頑迷派に断固反対しなければならない。
〔1〕 本巻の『反動派を制裁せよ』注〔1〕にみられる。
〔2〕 一九三九年十一月十一日、河南省確山県の国民党の特務と軍隊千八百余人が、確山県竹溝鎮の新四軍留守本部を包囲攻撃し、抗日戦争で負傷した新四軍の幹部、兵士とその家族あわせて二百余人を虐殺した。
〔3〕 旧軍とは、国民党の山西省軍閥閻錫山の軍隊をさす。新軍とは、抗日戦争の初期、共産党の指導と影響のもとで新しく発展した山西省人民の抗日武装組織のことで、抗日決死隊ともよばれた。一九三九年十二月、蒋介石と閻錫山は、新軍を消滅しようとして、山西省西部に六コ軍の兵力を集結し、新軍を攻撃したが、新軍の反撃にあって粉砕された。同時に、閻錫山の軍隊は、山西省東南部で、陽城、晉城一帯の県の抗日民主政府と人民団体を破壊して、共産党員と進歩的な人びとを大量に殺害した。
〔4〕 張蔭梧は国民党匪賊一味の河北省保安司令官で、一九三九年以来、蒋介石の指令によって、たえず八路軍を攻撃した。この年の六月には、さらに部隊をひきいて、河北省深県にあった八路軍の後方機関を襲撃し、八路軍の幹部と兵士四百余人を虐殺した。
〔5〕 一九三九年四月、秦啓栄匪賊部隊は、国民党の山東省主席沈鴻烈のさしずをうけ、博山県で八路車山東縦隊第三遊撃支隊を襲撃して、八路軍の連隊長級の幹部以下四百余人を虐殺した。
〔6〕 一九三九年九月、湖北省東部の国民党反動派程汝懐は匪職部隊を集結して、新四軍の後方機関を包囲攻撃し、共産党員五、六百人を虐殺した。
〔7〕 陝西・甘粛・寧夏辺区における国民党の特務とスパイの活動は、辺区の町を拠点とし、さらにこれらの拠点をむすびつけて幾本かの線とし、かれらの反革命活動を配置した。かれらはこうした活動を「点線工作」と称した。
〔8〕 一九三九年の冬から一九四〇年の春にかけて、国民党軍は陝西・甘粛・寧夏辺区の淳化、[木+旬」邑、正寧、寧県、鎮原など五つの県都を占領した。
〔9〕 抗日戦争の期間、国民党反動派はドイツ、イタリアのファシストのやり方をまねて、中国西北部の蘭州、西安から東南部の [章+”ふゆがまえ”の下に”貢”]州、上饒にいたるまで多くの強制収容所をもうけて、大量の共産党員、愛国者、進歩的な青年を監禁した。
〔10〕 一九三八年十月、武漢が占領されたのち、国民党の反共活動はしだいにはげしくなった。一九三九年二月、蒋介石は「共産党問題処理規定」、「被占領区における共産党活動防止措置法」などの反動文書を秘密裏に配布し、国民党支配地区と華中、華北の各地での共産党にたいする政治的圧迫と軍事的攻撃を日ましに強めてきた。こうした圧迫と攻撃は、一九三九年十二月から一九四〇年三月にかけて高まった。これは一回目の反共の高まりとよばれた。毛沢東同志がここであげている、国民党反動軍隊の陝西、甘粛両省での陝西・甘粛・寧夏辺区にたいする攻撃、および共産党の指導する抗日決死隊にたいする山西省西部での攻撃とは、一回目の反共の高まりのなかで、国民党が二度にわたっておこした大きな軍事的攻撃のことである。このあと、一九四〇年の二、三月ごろ、蒋介石はまた国民党反動派朱懐冰に命じて、[”まだれ”の中に龍]炳勲、張蔭梧、侯如[土+庸]などの匪賊部隊をかり集め、三路にわけて、太行地域の八路軍を攻撃させた。このたびの攻撃は、八路軍に徹底的に撃破され、国民党軍の三コ師団が消滅された。蒋介石がおこした一回目の反共の高まりは、これで完全に撃退された。
〔11〕 中国共産党の指導する軍隊がむかえうった日本侵略者の軍隊の数には、そのご、変化があった。一九四三年になると、八路軍と新四軍は中国侵略の日本軍総数の六四パーセントと全かいらい軍の九五パーセントをむかえうって戦った。本選集第三巻の『連合政府について』の「二つの戦場」の節を参照。
〔12〕 「摩擦で飯を食う」とは、一部の国民党員が反共を専門の職業としていたことをいう。
〔13〕 当時、共産党の指導下にあった抗日軍隊と抗日政府の要員の一人あたり一ヵ月の食費と手当は、平均して銀貨五元であった。
① 本題集第一巻の『蒋介石の声明についての声明』注〔1〕を参照。
(一九四〇年二月一日)
これは、毛沢東同志が延安の汪精衛糾弾民衆大会のために起草した通告電である。
二月一日、延安で汪精衛糾弾大会がひらかれた。満場は正義のいきどおりにもえ、汪精衛の売国と投降の糾弾、徹底的抗戦の支持を一致して決議した。時局の危機を救い、抗戦の勝利をたたかいとるため、ここに救国の大計十項目をもうしのべる。国民政府、各党各派、抗戦の将兵および全国の同胞におかれては、これを採択し実行されんことをのぞむ。
第一は、国をあげて汪精衛を糾弾すること。逆賊汪精衛は一味のものをかりあつめ、国にそむいて敵につき、売国の密約を結び、侵略者の手先になって悪事をはたらいており、国民のすべてがこれを殺すべきだというのが当然である。しかし、それは公然たる汪精衛のことであって、かくれた汪精衛についてはまだふれられていない。かくれた汪精衛にいたっては、政府の要職をぬすみとって、大手をふってのしあるき、あるいは社会にふかくもぐりこんで、影をひそませている。汚職官吏はまさにその一味であり、摩擦専門家はみなその部下である。都市から農村まで、上級から下級まで、政党、政府、軍隊、民衆、新聞、知識層の各界をこぞって汪精衛糾弾に立ちあがらせる全国的な汪精衛糾弾運動がなければ、汪一味は根絶できず、汪の災いはいつまでもつづき、外からは敵をひきいれ、内からは破壊をおこない、その害は想像を絶したものとなるであろう。政府は、汪精衛を糾弾するよう全国人民の喚起をうながす命令をくだすべきである。それを執行しないならば、その官吏を罪に問うべきである。汪一味は虎狼の餌食にしてもあきたらず、ぜひとも根絶しなければならない。これが採択し実行してもらいたいことの第一である。
第二は、団結を強めること。いまある人は、団結については□をとざし、統一について語っているが、それは、共産党を解消し、八路軍、新四軍を解消し、陝西・甘粛・寧夏辺区を解消し、各地方の抗日勢力を解消してはじめて統一といえるという意味にほかならない。かれらには共産党、八路軍、新四軍、陝西・甘粛・寧夏辺区こそ、全国でも、統一をもっとも強く主張しているのだということがわかっていない。西安事変の平和的解決を主張したのは共産党、八路軍、新四軍および辺区ではなかったか。抗日民族統一戦線を提唱し、統一的民主共和国の樹立を主張し、しかも身をもってその実行につとめているのは共産党、八路軍、新四軍および辺区ではないか。国防の最前線に立って、敵軍十七コ師団に抗して戦い、中原および西北地方の防壁となり、華北および江南地方を防衛し、三民主義と『抗戦建国綱領』を断固として実行しているのは、共産党、八路軍、新四軍および辺区ではないか。汪精衛が反共親日をとなえていらい、張君[萬+力]、葉青らの化け物どもは筆をもってそれに呼応し、反共派、頑迷派は摩擦をもってそれに呼応している。かれらは統一に名をかりて独裁の実をおこない、団結の大義をすてて、分裂のいとぐちをつくっている。司馬昭の心は、もとより世間の人がみな知るところである①。共産党、八路軍、新四軍および辺区は、断固として、にせの統一に反対して真の統一を提唱し、不合理な統一に反対して合理的な統一を提唱し、形式的な統一に反対して実際的な統一を提唱する。投降に統一するのではなくて、抗戦に統一するのであり、分裂に統一するのではなくて、団結に統一するのであり、後退に統一するのではなくて、進歩に統一するのである。抗戦、団結、進歩の三つを基礎とする統一こそ、真の統一であり、合理的統一であり、実際的統一である。これをおいて統一をもとめることは、たとえどのような手口をもてあそぼうと、どのようなからくりをこらそうと、すべて、南へいこうとして車を北に走らせるようなもので、軽々しく同意できるものではない。各地方の抗日勢力については、一様に愛護すべきであって、一方を優遇し、他方を冷遇することがあってはならず、それを信頼し、補給し、育成し、激励すべきである。人に接するには、いつわりをすてて真心をもち、狭い心をすてて寛大な心をもつべきである。ほんとうにそれがやれれば、下心をもつやからでないかぎり、一致団結して国家を統一するという軌道にのらないものはない。統一はかならず団結を基礎とし、団結はかならず進歩を基礎としなければならない。進歩してこそ団結でき、団結してこそ統一できるということは、真に不変の定説である。これが採択し実行してもらいたいことの第二である。
第三は、憲政を断行すること。「訓政」は多年におよんでいるが、なんらの結果ももたらしていない。物きわまれば、かならず逆転する。いまは憲政をしくことが先決である。しかしながら、言論は自由でなく、政党禁止はまだ解除されていず、すべてがなお憲政に反した行為である。このままで憲法を制定すれば、お役所式のきまり文句となんの変わりがあろうか。このままで憲政を実施すれば、一党専制となんのちがいがあろうか。この国難重大なときに、なお、いまの政策を変えようとしないなら、日本と汪精衛は外部から攪乱をほしいままにし、奸徒は内部から破壊をおこない、国家と人民の運命は、危険きわまりないものとなる。政府は憲政を推進する誠意の表明として、ただちに政党禁止を解除し、世論をもりたてるべきである。大きな信義を国民のまえにあきらかにし、新しい国の気運をひらくことほど急を要するものはない。これが採択し実行してもらいたいことの第三である。
第四は、摩擦を制止すること。昨年三月、いわゆる「異党活動制限措置法」がとなえられてから、限共、溶共、反共の声は全国にひろがり、虐殺事件があいついでおこり、いたるところで血がながされた。だが、それでもあきたらす、昨年十月には、また「異党問題処理規程」なるものがだされた。西北、華北、華中地域では、さらに「異党問題処理実施方案」なるものがだされた。人びとは、すでに「政治面での共産党制限」から「軍事面での共産党制限」の時期にはいったといっているが、これは証拠のあることで、そうでないところがどこにあろうか。いわゆる限共とは反共のことである。反共は日本と汪精衛の謀略であり、中国を滅亡させようとする悪計である。そこで、人びとは驚惑し、十年まえの惨劇がふたたびくりかえされるのではないかと、あわただしくとりざたしている。事態は極点にたっし、ついに湖南省では平江虐殺事件、河南省では確山虐殺事件がおこり、河北省では張蔭梧による八路軍攻撃がおこり、山東省では秦啓栄による遊撃隊せんめつ、湖北省東部では程汝懐による五、六百人にのぼる共産党員虐殺、甘粛省東部では中央軍による八路軍駐屯軍にたいする大挙進攻という事件がおこり、最近、山西省内ではさらに旧軍による新軍攻撃と同時に、八路軍陣地への侵犯といった惨劇が演じられた。これらの現象をすみやかに制止しなければ、いきおい双方がともだおれになり、抗戦の勝利どころではなくなるであろう。政府は団結抗戦を有利にするため、虐殺事件をひきおこしたすべてのものを処罰するよう命令するとともに、ふたたび同様の事件がおこるのを禁ずるよう全国にはっきり指示すべきである。これが採択し実行してもらいたいことの第四である。
第五は、青年を保護すること。最近、西安付近に強制収容所がもうけられ、西北、中原の各省の進歩的青年七百余人が一ヵ所に拘禁され、あたかも囚人のように精神的、肉体的な虐待がくわえられ、その惨状は聞くにたえないものがある。青年たちはなんの罪があって、このような迫害をうけなければならないのか。青年こそ国の精華であり、わけても進歩的青年は抗戦にとっての至宝である。信条は人びとの自由であり、思想はけっして武力によって圧制できるものではない。過去十年におよんだ「文化的包囲討伐」②の罪過はきわめて明らかなのに、なぜこんにちふたたびそれをくりかえそうとするのか。政府は、青年を保護し、西安付近の強制収容所を廃止し、各地での青年侮辱の暴挙を厳禁するようすみやかに全国に命令すべきである。これが採択し実行してもらいたいことの第五である。
第六は、前線を支援すること。最前線にあって、抗日に功労のある軍隊、たとえば八路軍、新四軍およびその他の軍隊は、待遇がもっともわるく、衣食に事欠き、弾薬はつづかず、医療もゆきとどいていない。それにもかかわらず、奸徒は、なにはばかるところなく、ほしいままに中傷をくわえている。その無責任な、まったく常識を欠いた無数のたわごとは、耳を聾するばかりである。かれらは論功行賞をおこなわず、いよいよ血眼になって人をおとしいれ、ますますほしいままに悪らつな策略をめぐらしている。このような、将兵の心を寒からしめ、敵が手をうってよろこぶすべての奇怪な現象は、だんじてゆるすことのできないものである。政府は将兵の士気をはげまし戦いを有利にするため、一方において、前線の功労ある軍隊に十分補給するとともに、他方では、奸徒の中傷、奸計を厳禁すべきである。これが採択し実行してもらいたいことの第六である。
第七は、特務機関をとりしまること。特務機関の横行については、世間の人はこれを唐代の周興、来俊臣〔1〕、明代の魏忠賢、劉瑾〔2〕になぞらえている。かれらは敵に注意をはらわないで、国民に立ちむかうことだけにあけくれ、草でもなぐように人を殺し、あくことなく賄賂をとり、じつにデマの大元締、邪悪の製造所である。これらの極悪非道の特務ほど、全国の人びとの足をすくませ、目をそばめざせるものはない。政府の威信を保つ見地から、人心をとりもどし国の基礎をかためるため、すみやかに特務機関③をとりしまり、改組し、その任務をもっぱら敵と民族裏切り者に対処するものであると確定すべきである。これが採択し実行してもらいたいことの第七である。
第八は、汚職官吏をとりしまること。抗戦以来、国難に乗じて一億元もの金もうけをしたものもおり、八、九人もの妾をかこっているものもいる〔3〕。兵役といい、公債といい、経済統制といい、被災者、難民の救済といい、一つとして汚職官吏の金もうけの機会にならないものはない。国にこの一群のけだものどもがいるかぎり、国事が収拾できないのもあやしむにたりない。人民の憤懣は、すでに極点にたっしているが、その凶悪さをあばく勇気のあるものはいない。国家崩壊の危機を救うためには、すみやかに、断固として有効な措置を講じ、すべての汚職官吏を徹底的にとりしまるべきである。これが採択し実行してもらいたいことの第八である。
第九は、「総理遺言」を実行すること。「総理遺言」には、「余は国民革命に力を致すことおよそ四十年、その目的は中国の自由、平等をもとめるにあった。四十年の経験を積んで、この目的を達成するためには、民衆をよびさまさなければならぬことを深く知るにいたった」といわれている。まことにりっぱな言葉である。わが四億五千万の人民はよくそれを知っていろ。ところがこの遺言を唱えるものは多いが、それにしたがうものはすくない。遺言にそむくものは賞され、それを実行するものは罰せちれる。これほど奇怪なことがあろうか。遺言にそむいて、民衆をよびさますことにつとめず、逆に民衆をふみにじるものがあれば、孫総理にそむく罪をもって処罰するよう政府は命令をくだすべきである。これが採択し実行してもらいたいことの第九である。
第十は、三民主義を実行すること。三民主義は国民党が信奉している主義である。しかし反共を第一の任務とする多くの人が、抗戦の活動を放棄し、人民が抗日に立ちあがると、あらゆる方法でこれを抑圧し阻止しているのは、民族主義をすてたものである。官吏が人民にいささかの民主的権利もあたえていないのは、民権主義をすてたものである。人民の苦痛をみてもそしらぬ顔をしているのは、民主主義をすてたものである。この連中からみれば、三民主義はお題目にすぎず、それをほんとうに実行するものがあれば、余計なことをすると嘲笑するか、さもなければ重刑に処している。このため、奇怪な現象が続出し、三民主義にたいする信頼は地をはらっている。すみやかにふたたびはっきりした命令をだし、三民主義の実行を全国にきびしく督促すべきである。命令に違反するものは重罪に処し、それをまもるものは大いに奨励しなければならない。そうすれば、三民主義の実行される日も近く、抗日事業も勝利の基礎をすえることができる。これが採択し実行してもらいたいことの第十である。
以上の十項目は、みな救国の大計であり、抗日にとっての根本的な方略である。敵のわが方にたいする侵略がますますはげしく、逆賊汪精衛が凶暴をきわめているこのとき、われわれは心に感じる危険を告げずにはおられない。もし以上が採択され実行されれば、それは抗戦にとってもはなはだ幸いであり、中華民族の解放事業にとってもはなはだ幸いである。やむにやまれぬ気持ちで以上のことをもうしのべて、ご教示を乞うしだいである。
〔1〕 周興、来俊臣は、七世紀末、唐の則天武后のころの苛酷な官吏である。かれらは広範な秘密調査をおこない、勝手に罪名をでっちあげて、自分たちにとって好ましくない人びとを逮捕し、さまざまの残酷な刑をもちいて虐殺した。
〔2〕 劉瑾は、一六世紀、明の武宗のころの宦官であり、魏忠賢は、一七世紀、明の真宗のころの宦官である。かれらは大きな権力を握り、廠衛と名づけられる大規模な特務組織を動かして、人民の言論や行動を統制した。かれらに反対するものはみな迫害され、虐殺された。
〔3〕 当時西安にいた国民党の反動的軍事頭目蒋鼎文をさす。
① 司馬昭は、魏の宰相である。かれは帝位を奪おうとひそかにたくらんでいた。このため、皇帝は腹心の官吏をよびあつめ対策をねったとき、「司馬昭の心は、もとより世間の人のよく知るところである」といった。
② 本巻の『新民主主義論』訳注③にみられる。
③ 国民党の特務機関とは、蒋介石集団が革命運動を弾圧し、共産党員、愛国的な人びと、進歩的な青年を迫害するための道具である。解放前、おもな特務組織には、「軍銃」、「中銃」、「中米合作所」などがあった。「軍統」は「国民政府軍事委員会調査統計局」の略称で、一九三八年につくられ、その前身は、「復興社」の中核組織「力行社」の特務課である。「中統」は、「中国国民党中央執行委員会調査統計局」の略称で、一九三八年につくられ、CC系の頭目陳果夫、陳立夫の手ににぎられていた。「中米合作所」の全称は「中米特殊技術合作所」で、一九四三年、重慶につくられ、アメリカ帝国主義が蒋介石集団とぐるになって中国人民の革命運動を弾圧した特務組織である。
(一九四〇年二月七日)
『中国工人』〔1〕の発刊は必要なことである。中国の労働者階級は、この二十年らい、自分の政党――中国共産党の指導のもとで英雄的な闘争をくりひろげ、全国人民のなかでもっとも意識の高い部分となり、中国革命の指導者となった。中国の労働者階級は、農民およびすべての革命的な人民と連合して、帝国主義と封建主義に反対し、新民主主義の中国をうちたてるためにたたかい、日本帝国主義を駆逐するためにたたかってきており、その功績は非常に大きい。だが、中国革命はまだ成功しておらず、自分の階級を結集し、農民やその他の小ブルジョア階級を結集し、知識層を結集し、すべての革命的な人民を結集するために、さらに大きな力をはらわなければならない。これは、きわめて大きな政治的任務であり、組織的任務である。これは、中国共産党の責務であり、労働者階級の先進的な人びとの責務であり、労働者階級全体の責務である。労働者階級と全人民の最終的な解放は、社会主義の実現した時代にはじめて可能であり、中国の労働者階級は、この最終的な目的のために、奮闘しなければならない。だが、社会主義の段階にすすむには、反帝・反封建の民主主義革命の段階を経なければならない。したがって、自分の階級を結集し、人民を結集して、帝国主義と封建主義に反対し、新民主主義の新中国をうちたてるために奮闘すること、これが中国労働者階級の当面の任務である。『中国工人』の発刊は、この任務のためのものである。
『中国工人』は、平易なことばで、多くの道理を労働者大衆に説明し、労働者階級の抗日闘争の実際を報道し、その経験を総括して、自分の任務を達成するために努力するものである。
『中国工人』は、労働者を教育し、労働者幹部を訓練する学校になるべきであり、『中国工人』をよむ者はつまりこの学校の生徒である。労働者のなかから、知識があり、能力をもち、虚名を追うのでなく、じみちに仕事をやれるおおぜいの幹部をそだてあげるべきである。このような幹部がおおぜいいなければ、労働者階級が解放をかちとることは不可能である。
労働者階級は、革命的知識人が自分たちを援助してくれることを歓迎すべきであり、けっしてかれらの援助をこばんではならない。なぜなら、かれらの援助がなければ、自分たちも進歩しないし、革命も成功しないからである。
わたしは、この刊行物が、りっぱにつくられ、型にはまった、ありきたりの、わけのわからない、味もそっけもない、張りのない記事をぜひともさけて、いきいきとした記事を多くのせるよう希望する。
刊行物が発刊された以上、一つの事業としてとりくむべきであり、かならずりっぱなものにしなければならない。これはつくる者の責任であるばかりでなく、よむ者の責任でもある。よむ者が意見をだし、短い手紙や投書をよせ、なにをこのみ、なにをこのまないかを知らせることは、非常に重要であり、こうしてこそ、この刊行物をりっぱなものにすることができるのである。
以上、わたしの希望をのべて、発刊のことばにかえる。
〔1〕 月刊『中国工人』は、一九四〇年二月、延安で創刊され、中国共産党中央労働運動委員会からだされていた。
(一九四〇年二月十日)
これは、毛沢東同志が延安の『新中華報』の発刊一周年記念のために書いた文章である。
抗戦、団結、進歩、これは昨年「七・七」記念にあたって共産党が提起した三大方針である。これは三位一体の方針であり、三つのうち、どれ一つ欠くこともできない。抗戦だけを強調して、団結と進歩を強調しないなら、「抗戦」というものもたよりにならないものになり、持久することができなくなる。団結と進歩の綱領を欠いた抗戦は、結局いつかは投降に変わるか、失敗に終わる。われわれ共産党は、かならずこの三者を一つに結合しなければならないと考える。抗戦のためには、投降に反対し、汪精衛の売国協定に反対し、汪精衛のかいらい政府に反対し、抗日陣営内にひそんでいるすべての民族裏切り者や投降派に反対しなければならない。団結のためには、分裂運動に反対し、内部摩擦に反対し、抗日陣営の背後からの、八路軍、新四軍およびすべての進歩勢力にたいする進攻に反対し、敵の後方にある抗日根拠地にたいする破壊に反対し、八路軍の後方である陝西・甘粛・寧夏辺区にたいする破壊に反対し、共産党の合法的地位の不承認に反対し、大量に流される「異党活動制限」の文書に反対しなければならない。進歩のためには、後退に反対し、三民主義と『抗戦建国綱領』のたな上げに反対し、「総理遺言」にある「民衆をよびさます」という指示の不履行に反対し、進歩的な青年の強制収容所へのおくりこみに反対し、抗戦の初期にあったわずかばかりの言論、出版の自由の完全な剥奪に反対し、憲政運動を少数者のうけおう官僚事業に変えることに反対し、山西省での新軍にたいする攻撃、犠盟のぶちこわし、進歩的な人びとの虐殺〔1〕に反対し、三民主義青年団の咸陽・楡林道路、天水=連雲港鉄道一帯での通行人の拉致〔2〕に反対し、九人の妾をかこったり、国難に乗じて一億元も金もうけした恥知らずなしわざに反対し、汚職官吏の横行や土豪劣紳ののさばりに反対しなければならない。そうしなければ、団結も進歩もなく、抗戦というものも空念仏にすぎず、抗日の勝利はのぞめない。『新中華報』第二年度の政治方向とはなにか。それは、抗日事業のいっそうの勝利のために、抗戦を害するすべてのくされきった暗黒の現象に反対して、団結と進歩を強調することである。
〔1〕 「犠盟」とは、「山西省犠牲救国同盟会」の略称で、一九三六年から抗日戦争の初期にかけて山西省にできた地方的な大衆抗日団体であった。この団体は、共産党と緊密に協力し、山西省での抗日戦争で大きな役割をはたした。一九三九年十二月、閻錫山は山西省の西部で公然と犠盟をぶちこわし、多くの共産党員、犠盟の幹部および大衆のなかの進歩的な人びとをむざんに殺害した。
〔2〕 一九三九年から、国民党はその御用団体である三民主義青年団の「招待所」という名義をつかって、特務をおくり、軍隊と呼応させて咸陽・楡林道路および天水=連雲港鉄道に、封鎖のための多くの関所を設け、陝西・甘粛・寧夏辺区に出入する進歩的な青年や知識人を抑留し、かれらを強制収容所におくって監禁、虐殺したり、特務になるよう強迫したりした。
(一九四○年二月二十日)
これは、毛沢東同志が延安の憲政促進会でおこなった演説である。当時、党内には、蒋介石の憲政実施という欺瞞的な宣伝にまどわされて、国民党はほんとうに憲政を実施するかもしれないと考えた同志がかなりいた。毛沢東同志はこの演説のなかで、蒋介石のこのような欺瞞を暴露し、憲政の宣伝を逆につかって、これを、人民の自覚をうながし、蒋介石に民主と自由を要求する武器にした。このため、蒋介石はすぐに欺瞞の手をひっこめ、抗日の時期全体をつうじて、憲政なるものを二度と宣伝しなくなった。
きょう、延安各界の人民の代表的な人びとが、憲政に関心をよせ、ここで憲政促進会の結成大会をひらいていろ。これはたいへん意義のあることである。われわれのこの会はなんのためであるか。それは、民意を発揚し、日本にうち勝ち、新中国を樹立するためである。
抗日には、みんなが賛成しており、それはすでにおこなわれている。問題はただ、それを堅持することである。もう一つ民主ということがあるが、これは、いままだおこなわれていない。この二つが、いまの中国にとっていちばん大切なことである。中国に欠けているものはもとより多いが、主として二つのものが欠けている。一つは独立であり、一つは民主である。この二つのうちどちらが欠けても、中国の事はうまくはこばれない。一方では、二つのものが欠けているが、他方では、二つのものがよけいである。二つのよけいなものとはなにか。一つは帝国主義の抑圧であり、一つは封建主義の抑圧である。この二つのよけいなものがあるため、中国は植民地・半植民地・半封建の国になったのである。いま、われわれ全国人民が必要としているのは、主として独立と民主である。したがって、われわれは帝国主義を破壊し、封建主義を破壊するのである。これらのものは断固として徹底的に破壊しなければならず、すこしでも容赦してはならない。ある人は、建設だけが必要で、破壊は必要でない、といっている。それならおたずねするが、汪精衛は破壊する必要がないのか。日本帝国主義は破壊する必要がないのか。封建制度は破壊する必要がないのか。これらの悪いものを破壊しないかぎり、建設などは考えられない。これらのものを破壊してはじめて、中国は救われ、建設に着手できるのであり、そうしなければ、それは寝言にすぎない。ふるい、くさったものを破壊してはじめて、新しい健全なものが建設されるのである。独立と民主をあわせたものが、民主的抗日であり、また抗日の民主といわれるものである。民主がなければ、抗日は失敗する。民主がなければ、抗日はつづけられない。民主があれば、八年たたかおうと十年たたかおうと、われわれはかならず勝利することができる。
憲政とはなにか。民主的な政治のことである。さきほど呉玉章同志〔1〕のいわれたことに、わたしは賛成である。だが、われわれがいま求めているのは、どのような民主政治であろうか。新民主主義の政治であり、新民主主義の憲政である。それは、ふるい、時代おくれの、欧米型の、ブルジョア独裁の、いわゆる民主政治ではなく、同時にまた、ソ連型の、プロレタリア独裁の、民主政治でもない。
ふるい型の民主は、外国ではおこなわれたが、いまはもう没落して、反動的なものになっている。われわれは、どんなことがあってもこんな反動的なものを求めてはならない。中国の頑迷派のいう憲政とは、外国のふるい型のブルジョア階級の民主政治のことである。かれらは、口先ではこうした憲政を求めているといっているが、ほんとうにこうした憲政を求めているのではなく、これを口実にして人民をだましているのである。かれらが実際に求めているのはファシズムの一党独裁である。中国の民族ブルジョア階級は、たしかにこのような憲政を求めており、中国でブルジョア独裁を実行しようと考えているが、それは実現できないものである。なぜなら、中国人民は、みんなこのようなものを求めていないし、ブルジョア階級の一階級による独裁を歓迎していないからである。中国の事はかならず中国の大多数の人びとがきめるべきであって、ブルジョア階級という一つの階級だけで政治を請け負うことはだんじてゆるされない。では、社会主義の民主はどうか。もちろん、それはよいもので、将来、全世界のどこでも社会主義の民主を実行するようになるであろう。だが、このような民主は、いまの中国ではまだ実行できないので、われわれとしても、しばらくはそれを求めないことにするほかはない。将来、一定の条件がそなわったのちでなければ、社会主義の民主は実行できないのである。いま、わが中国が必要としている民主政治は、ふるい型の民主でもなければ、社会主義の民主でもなく、いまの中国の国情にあった新民主主義である。いま実施しようとする憲政は、新民主主義の憲政でなければならない。
新民主主義の憲政とはなにか。それは、いくつかの革命的階級が連合して民族裏切り者、反動派にたいしておこなう独裁である。かつて、「飯があれば、みんなでたべよう」といった人がある。新民主主義はこれにたとえることができるとおもう。飯があれば、みんなでたべようというからには、一党、一派、一階級が独裁すべきではない。それをもっともよくいいあらわしたのが、孫中山先生の『中国国民党第一回全国代表大会の宣言』のなかのことばである。その宣言ではつぎのようにのべている。「近世各国のいわゆる民権制度は、往々にしてブルジョア階級に専有され、まさしく平民を抑圧する道具になっている。国民党の民権主義についていえば、一般平民の共有するものであって、少数のものが私しうるものではない。」同志諸君、われわれは憲政を研究するにあたって、いろいろの書物を読まなくてはならないが、とくに読まなければならないのはこの宣言であり、この宣言のなかのさきのことばをよく読んで、しっかり頭にいれておくべきである。「一般平民の共有するものであって、少数のものが私しうるものではない」というのが、われわれのいう新民主主義憲政の具体的内容であり、いくつかの革命的階級が連合して民族裏切り者、反動派にたいしておこなう民主主義独裁であり、こんにちわれわれが求めている憲政である。このような憲政が抗日統一戦線の憲政である。
きょう、われわれがひらいているこの集会は、憲政促進会とよばれている。なぜ「促進」しなくてはならないのか。もしみんなが進んでいるなら、促す必要はない。われわれが苦労してこの集会をひらいたのは、なんのためか。それは、一部のものが進まず、横になってうごかず、進歩しようとしないからである。かれらは進むどころか、あともどりさえする。進ませようとしても、頑として進もうとしない、こういう連中のことを頑迷分子という。手におえないほど頑固なので、大会をひらいて、ひとつ「促」してみようというのである。この「促」すという字はどこからきたのか、だれが発明したのか。これは、われわれが発明したものではなく、偉大な人物、つまり、「余は国民革命に力をつくすことおよそ四十年」といったあの老先生、孫中山先生が発明したものである。見たまえ、先生のあの遺言には「さいきん、国民会議をひらくことを主張した……とくに最短期間のうちに、その実現を『促』すべきであり、このことをくれぐれも頼む」と書いてあるではないか。同志諸君、この「頼み」はただの「頼み」ではなくて、「くれぐれもの頼み」である。「くれぐれもの頼み」とは、なみなみならぬ頼みのことである。それをいいかげんにとりあつかったり、放置したりすることがゆるされるだろうか。「最短期間」というからには、第一にもっとも長いことではなく、第二に比較的長いことでもなく、第三に普通の短さでもなくて、「もっとも短い」ということである。国民会議を最短期間に実現させるには、それを「促」さなければならない。孫先生がなくなってから十五年になるのに、かれの主張した国民会議はいまになってもひらかれていない。毎日、訓政だとさわぎたてて、わけもわからずに時間をつぶし、最短期間を最長期間に変えてしまいながら、それでも、口さえひらけば孫先生をもちだしてくる。在天の孫先生の霊は、こうした不肖の子らをどんなに責めていることだろう。いまの事態はきわめてあきらかで、促さなければけっして進むことはない。後退しているものがたくさんいるし、目ざめていないものもたくさんいるから、「促」さなければならないのである。
進まないから、促さなければならない。進み方がおそいから、促さなければならない。そこで、われわれは大いに促進会をひらくのである。青年憲政促進会とか、婦人憲政促進会とか、労働者憲政促進会とか、各学校、各機関、各部隊の憲政促進会とかがさかんにつくられており、たいへんよいことである。きょう、われわれがさちに総促進会をひらいて、みんなでこれを促すのは、憲政を早急に実施させ、孫先生の遺訓を早急に実行させるためである。
ある人はいう。あなたたちは延安にいるが、かれらは各地にいる。あなたたちが促しても、かれらが聞かなければ、なんの役にもたたないではないか、と。ところが役にたつのである。事態が発展しているので、かれらも聞かないわけにはいかない。われわれが大いに会議をひらき、たくさん文章を書き、さかんに演説をやり、どしどし電報をうてば、かれらも聞かないわけにはいかなくなる。われわれが延安でやっている多くの促進会には、二つの意義があるとおもう。一つは研究であり、もう一つは推進である。なぜ研究しなければならないのか。かれらが進まないから促すのであるが、もしかれらが、なぜ促すのかとたずねたら、われわれはその質問に答えなければならない。質問に答えるには、憲政の道理をよく研究しておかなければならない。さきほど呉玉章同志がいろいろ話されたが、それらのことが道理である。各学校、各機関、各部隊、そしてまた各界人民は、みな当面の憲政の問題を研究しなければならない。
われわれが研究しておけば、人を推進することができる。推進とは「促進」のことである。各方面を推進すれば、各方面はしだいに動きだすだろう。こうして、多くの小さな流れをあつめて、大きな川とし、あらゆるくさりきった暗黒なものをきれいにあらい流せば、新民主主義の憲政がうまれてくる。このような推進の役割は、大きなものとなるであろう。延安の動きは、全国に影響しないわけにはいかない。
同志諸君。諸君は、集会をひらき、電報をうてば、頑迷分子がいたたまれなくなるとおもうのか。かれらが進歩するとおもうのか。かれらがわれわれの命令にしたがうとおもうのか。そんなことはない。かれらはそんなにやすやすということを聞きはしない。頑迷分子の多くは、頑固専門学校の卒業生である。かれらはきょうも頑固、あすも頑固、あさってもやはり頑固である。頑固とはどういうことか。固とはかたいことであり、頑とは、きょうも、あすも、あさっても進歩しないことである。こうした連中を頑迷分子というのである。こうした頑迷分子にわれわれのいうことを聞かせるのは、なまやさしいことではない。
世界の従来の憲政をみると、イギリスでも、フランスでも、アメリカでも、あるいはソ連でも、みな革命が成功し、民主が事実となってから、根本法を公布してそれを承認する。これが憲法である。ところが、中国はそうでない。中国の革命はまだ成功していず、国内では、われわれの辺区などをのぞくと、まだ民主政治という事実はない。中国の現在の事実は半植民地・半封建の政治であるから、たとえりっぱな憲法が公布されても、かならず封建勢力にはばまれ、頑迷分子にさまたげられることになり、順調に実施しようとしても不可能である。したがって、いまの憲政運動は、すでに民主化している事実を確認することではなくて、まだかちとっていない民主をたたかいとることである。これは大きな闘争であり、けっして手軽にやれることではない。
これまで憲政に反対してきた一部のもの〔2〕も、いまでは憲政を口にしている。かれらはなぜ憲政を口にするのだろうか。抗日の人民にせまられて、やむなく調子をあわせているのである。しかも、かれらは声をはりあげ、「われわれは一貫して憲政を主張してきたのだ!」と、鳴り物入りで吹きまくっている。なんとにぎやかなことだろう。何年もまえに、われわれは憲政ということばを聞いたことがあるが、いまになっても憲政の影すら見えない。かれらのいうこととやることとは、うらはらである。これが憲政の二面派というものである。こうした二面派が、「一貫して主張」してきたというものの正体である。現在の頑迷分子が、こうした二面派である。かれらの憲政はまやかしである。諸君はちかい将来、憲法があらわれ、さらには大統領まであらわれるのを見るかもしれない。だが、民主と自由はどうか。それは、いつの日になったらあたえられるのかわからない。憲法は中国にもあったことがある。曹[金+昆]が憲法を発布したではないか〔3〕。だが、民主と自由はどこにあっただろうか。大統領なら、もっと多い。ざいしょの大統領は孫中山で、かれはよかったが、袁世凱に廃されてしまった。二番目は袁世凱、三番目は黎元洪〔4〕、四番目は馮国璋〔5〕、五番目は徐世昌〔6〕、なんと多かったことか。だが、かれらは専制皇帝とどんなちがいがあっただろうか。かれらのものは、憲法にしても、大統領にしても、みんなにせものであった。いまのイギリス、フランス、アメリカなどのような国では、いわゆる憲政とか、いわゆる民主政治とかといっても、実際には、みな人食い政治である。このような状況は中米、南米にもみられ、多くの国は共和国の看板をかかげているが、実際には民主のひとかけらもない。中国のいまの頑迷派も、まったくこのとおりである。かれらの口にする憲政は、「羊頭をかかげて狗肉を売る」ものにすぎない。かれらは憲政という羊頭をかかげて、一党独裁の狗肉を売っているのである。わたしはけっして出まかせにかれらの悪口をいっているのではない。わたしのいうことには根拠がある。その根拠とは、かれらが憲政を口にしながら、人民にはすこしの自由もあたえていないことである。
同志諸君。ほんとうの憲政はけっしてたやすく手にはいるものではなく、困難な闘争をつうじてはじめてかちとられるものである。したがって、諸君は、われわれが集会をひらき、電報をうち、文章を書けば、それで憲政がえられるなどと、けっしておもってはならない。また諸君は、国民参政会〔7〕が決議案をとおし、国民政府が命令をだし、十一月十二日に国民大会〔8〕が招集され、憲法が発布され、さらに大統領まで選挙されると、それで、万事大吉、天下太平だとけっしておもってはならない。それはありえないことであり、そんなことで頭を混乱させてはならない。こうしたことは、民衆がまどわされないように、はっきりと説明しておかなければならない。ことがらはけっしてそんなになまやさしいものではないのである。
このようにのべてくると、ことがらはこうも困難で、憲政には望みがなく、「万事休す」ということになるのではないか。そうでもない。憲政にはやはり望みがあるし、しかも大いに望みがある。中国はかならず新民主主義の国家になるにちがいない。なぜだろうか。憲政が困難なのは、頑迷分子がじゃまをしているからである。だが、頑迷分子はいつまでも頑固をとおすことはできない。だから、われわれにはまだ大いに望みがある。天下の頑迷分子はきょうも頑固、あすも頑固、あさっても頑固であるが、いつまでも頑固をとおすことはできず、ゆくゆくは変わるものである。たとえば、汪精衛は長いあいだ頑固であったが、抗日という地盤のうえでは、それ以上頑固をはることができなくなり、日本のふところにとびこんでいくほかなかった。また、張国燾にしても、長いあいだ頑固であったが、われわれがいくども闘争会をひらき、闘争をかさねるうちに、かれも逃げだしてしまった。頑迷分子は、実際には頑であっても固ではない。頑の果ては変わっていき、だれもふりむかない犬の糞のようなものに変わってしまう。なかにはよい方に変わったものもいるが、それも何回となく闘争されて、あやまりを認め、よい方に変わったのである。要するに、頑迷派は変化するものである。頑迷派はいつも、どのようにして人をそこない自己の利をはかるか、どのようにして二面派の行動をとるかといった一連の計画をもっているものである。だが、これまでの頑迷派がえた結果は、いつもかれらの願いとは反対のものであった。かれらはいつも、人をそこなうことからはじめ、自分を傷つけることに終わる。われわれはかつてチェンバレンを評して「もちあげた石で自分の足をうつ」ものだといったが、いまでは、すでにそのとおりになった。チェンバレンは、以前、ヒトラーという石をもちあげてソ連人民の足をうとうと一心に考えていたが、昨年の九月、ドイツとイギリス、フランスとのあいだに戦争がおこったその日から、チェンバレンのもちあげた石はかえってチェンバレン自身の足をうつことになった。それからずっと現在まで、この石はまだチェンバレンをうちつづけている。中国にも、こうした物語はたくさんある。袁世凱は民衆の足をうとうとしたが、結果はかれ自身をうつことになり、数ヵ月のあいだ皇帝になっただけで死んでしまった〔9〕。段祺瑞、徐世昌、曹[金+昆]、呉佩孚なども人民を弾圧しようとしたが、結果はみな人民にくつがえされてしまった。人をそこなって自己の利をはかろうとするものは、みなかんばしくない結末に終わるのである。
いまの反共頑迷派も、もしかれらが進歩しなければ、やはりこの通則からのがれることはできないだろう。かれらは統一という美名にかくれて、進歩的な陝西・甘粛・寧夏辺区を解消し、進歩的な八路軍、新四軍を解消し、進歩的な共産党を解消し、進歩的な人民団体を解消しようとしている。この一連の大がかりな計画はみなそろっている。だが、わたしのみるところ、きたるべき結果は、けっして頑固が進歩を解消するのではなく、逆に、進歩が頑固を解消することになるだろう。頑迷分子が解消されまいとするなら、かれら自身が進歩する以外にない。したがって、われわれはいつもそれらの頑迷分子に、八路軍を攻撃するな、共産党や辺区に反対するなと勧告しているのである。もしかれらがどうしてもやるというのなら、かれらはまず決議案をつくって、その第一条に、「われわれ頑迷分子は、自身を消滅し、共産党に大きな発展の機会をあたえる決意をもって、共産党と辺区に反対する任務をになう」と、書くべきである。頑迷分子の「共産党討伐」の経験はかなり豊富である。もしかれらがいままた「共産党討伐」をやろうとするのなら、それもかれらの自由である。かれらが、自分の飯を食ったし眠りも十分とったから、「討伐」をやろうというのなら、それも勝手にやらせるほかはない。ただ、かれらはさきのような決議を実行する用意をしておかなければならない。これは動かしがたいことである。過去十年間の「共産党討伐」は、すべてこの決議どおりにおこなわれてきた。今後、さらに「討伐」をやろうとするなら、またこの決議をくりかえさなければならない。だから、やはり「討伐」はやらない方が上策だと、わたしはかれるにすすめる。なぜなら、全国人民が求めているのは、抗日であり、団結であり、進歩であって、「共産党討伐」ではないからである。したがって、「共産党討伐」をするものは、かならず失敗する。
要するに、後退的な行為はすべて、それをやる者のはじめの願いとは反対の結果になるのである。古今東西に、その例外はない。
いまの憲政もそうである。頑迷派があいかわらず憲政に反対するなら、きっとかれらの願いとは反対の結果になるだろう。この憲政運動の方向は、けっして頑迷派の規定した路線にそってすすむことはなく、きっと、かれらの願いとは反対の方向、つまり人民の規定する路線にそってすすむにちがいない。全国人民がそうすることを求めており、中国の歴史の発展がそうすることを求めており、全世界の趨勢がわれわれにそうすることを求めているから、そうなるのは確実である。だれかこの方向にさからえよう。歴史の巨輪はひきもどせるものではない。ただ、それをなしとげるには時間が必要であり、一朝一夕に成功するものではない。また、努力が必要であり、いい加減なことではできるものではない。人民大衆を立ちあがらせることも必要であり、一人や二人の力で効果のあがるものではない。きょう、われわれがこの集会をひらいたのは、よいことである。このあと、さらに文章を書き、通告電をうち、また五台山、大行山、華北、華中で、全国のいたるところで、このような集会をひらく必要がある。こうして数年間もつづければ、目鼻がつくであろう。われわれは、かならずこれをりっぱにやらなければならず、かならず民主と自由をたたかいとらなければならず、またかならず新民主主義の憲政を実行しなければならない。もしそうしないで、頑迷派のやり方にしたがうなら、国は滅びてしまう。国が滅びるのをさけるには、どうしてもそうしなければならない。この目的のためには、みんなが努力しなければならない。努力しさえすれば、われわれの事業は大いに望みがある。また、頑迷派はなんといっても少数であること、大多数の人は頑迷派ではなく、進歩できるものだということを知らなければならない。多数をもって少数に対抗し、さらに努力をかさねたなら、これはいっそう望みのあるものとなる。したがって、わたしはことがらは困難であるが、大いに望みがあるというのである。
〔1〕 呉玉章同志は、当時、延安各界憲政促進会の会長であった。
〔2〕 蒋介石をかしらとする国民党反動派をさす。
〔3〕 一九二三年、北洋軍閥の曹[金+昆]は、一票につき銀貨五千元の賄賂で国会議員五百九十名を買収して「大統領」にえらばれ、つづいて、これらの議員の制定した憲法を公布した。当時、この憲法は、「曹[金+昆]憲法」または「賄選憲法」とよばれた。
〔4〕 黎元洪は、もと清朝の新軍第二十一混成協の協統(のちの旅団長にあたる)であった。一九一一年、武昌蜂起のときは、やむなく革命の側に立ち、革命軍の湖北省都督となった。北洋軍閥が支配していた時期には副大統領、大統領などを歴任した。
〔5〕 馮国璋は袁世凱の部下で、袁世凱の死後、北洋軍閥直隷系(河北省系)の頭目となった。一九一七年、かれは黎元洪を追いはらって北京政府の大統領となった。
〔6〕 徐世昌は北洋軍閥の政治屋で、一九一八年、段祺瑞の御用国会で大統領にえらばれた。
〔7〕 「国民参政会」は、抗日戦争が始まってから、国民党政府がやむをえずにつくった、諮問的性質しかもたない機構である。参政員は、みな国民党政府が「招聘」したもので、形のうえでは、抗日的な諸政党の代表をふくめていたが、国民党員が大多数をしめていた。この国民参政会は国民党政府の政策や措置にたいして、なんら拘束する権限をもっていなかった。蒋介石の国民党が日ましに反動化して、参政員のなかで国民党反動派と他の反動分子のしめる割合がいっそう増加し、民主的な人びとがいっそう減少し、しかも、その言論がいっそう束縛されるようになったことから、国民参政会が国民党反動派のたんなる御用機関にすぎないことは、日ましにあきらかになった。中国共産党の参政員は、一九四一年の安徽省南部事変ののち、国民党の反動的措置に抗議して、いくどか参政会への出席を拒否した。
〔8〕 一九三九年九月、国民参政会第四回会議では、中国共産党と他の諸政党の民主的な人びとの提案にもとづき、国民大会を期日をきめて招集し、憲政を実施するという命令を正式にだすことを国民党政府に要求する決議が採択された。同年十一月、国民党中央執行委員会第六回全体会議は、一九四〇年十一月十二日に国民大会を招集すると公表した。国民党は、これを機会に、欺瞞的宣伝をさかんにおこなった。その後、これらの決議はなに一つ実行されなかった。
〔9〕 袁世凱は、一九一五年十二月十二日、みずから皇帝と称したが、一九一六年三月二十二日には、やむなく皇帝の称号をとり消した。
(一九四〇年三月六日)
これは、毛沢東同志が中国共産党中央のために書いた党内指示である。
(一)いまはこういう時である。一方では、国民党の反共頑迷派が華北、華中などにおけるわれわれの抗日民主政権樹立に懸命に反対しており、他方では、われわれはこうした政権を樹立しなければならないし、また、すでに主要な各抗日根拠地内でこうした政権が樹立できるようになった、という時である。華北、華中、西北における、われわれと反共頑迷派との政権問題をめぐる闘争は、全国的な統一戦線政権の樹立を推進する性質をもっており、全国の注目のまととなっている。したがって、この問題は慎重に処理しなければならない。
(二)抗日の時期にわれわれの樹立する政権は、民族統一戦線の性質をもつものである。このような政権は、抗日にも賛成し、民主にも賛成するすべての人びとの政権であり、いくつかの革命的階級が連合して、民族裏切り者と反動派にたいしておこなう民主主義独裁である。それは地主・ブルジョア階級の反革命的独裁とちがったものであり、また土地革命の時期の労農民主主義独裁ともちがったものである。このような政権の性質についてはっきり理解し、まじめに実行することは、全国の民主化を推進するうえで大きなたすけとなるであろう。左よりと右よりの偏向は、どちらも全国人民にきわめてわるい影響をあたえるであろう。
(三)いまはじまっている河北省参議会の招集と河北省行政委員会の選挙は、重大な意義をもっている。同様に、山西省西北部、山東省、淮河以北地区、綏徳県、[鹿+”おおざと”]県、甘粛省東部などの地区に新しい政権を樹立することも、重大な意義をもっている。さきにのべた原則にしたがってこれをおこない、右よりと左よりの偏向を極力さけなければならない。現在は、中層ブルジョア階級と開明紳士の獲得をおろそかにする「左」翼的偏向の方がいっそう重大である。
(四)抗日民族統一戦線政権の原則にもとづいて、人員配分では、共産党員が三分の一を占め、党外の左派の進歩的な人びとが三分の一を占め、左でも右でもない中間派が三分の一を占めるようにきめるべきである。
(五)政権のなかで共産党員が指導的地位を占めるよう保障しなければならず、そのためには、三分の一を占める共産党員が質的にすぐれた条件をもつようにしなければならない。この条件さえあれば、党の指導権は保障されるのであって、それ以上の人数を必要としない。いわゆる指導権とは、それをスローガンとして朝から晩までさけぶことでもなければ、また、いたけだかになって人をわれわれにしたがわせることでもなく、党外の人びとがよろこんでわれわれの提案をうけいれるように党の正しい政策と自分の模範的な活動でかれらを説得し、教育することである。
(六)党外の進歩的な人びとは、広範な小ブルジョア大衆につながっているので、三分の一を占めさせるようにしなければならない。われわれがそうすることは、小ブルジョア階級をたたかいとるのにきわめて大きな影響をもつであろう。
(七)中間派に三分の一の椅子をあたえる目的は、中層ブルジョア階級と開明紳士をたたかいとることにある。これらの階層をたたかいとることは、頑迷派を孤立させる重要な段どりである。われわれはいま、これらの階層の力をどうしても考えにいれておかなければならず、かれらを慎重に取り扱わなければならない。
(八)共産党以外の人びとにたいしては、かれらが政党に関係があろうとなかろうと、どの政党に属していようと、抗目的で、しかも、共産党との協力をのぞむものでさえあれば、われわれは協力的態度でかれらを取り扱わなければならない。
(九)上にのべた人員の配分は、党のいつわりのない政策であり、いいかげんにことをすませてはならない。この政策を実行するためには、政権の仕事を担当する党員にたいして、党外の人びととの協力をきらったり、それになじまなかったりする心のせまさを克服するように教育し、また、ことあるごとにまず党外の人びとと相談し、多数の同意をえたうえで仕事にかかるという民主的な作風を提唱するように教育しなければならない。同時に、党外の人びとがいろいろな問題について意見をだすように極力はげまし、また、その人たちの意見に耳をかたむけなければならない。われわれは軍隊をもち政権をにぎっているのだから、すべてが無条件にわれわれの決定どおりにおこなわれなければならないと考え、そのため、党外の人びとがこちらの意見をいれ、心からよろこんで実行するようにその人たちを説得する努力をおこたる、というようなことがけっしてあってはならない。
(十)上にのべた人員の配分は大体の規定であって、各地では機械的に頭かずをそろえるのではなく、その地方の実際の状況に応じてこれを実施すべきである。末端の政権の構成については、地主、豪紳が政権機関にもぐりこむのをふせぐため、事情に応じて融通性をもたせてよい。はやくから政権の樹立されている山西・察哈爾・河北辺区、河北省中部地区、太行山地区ならびに河北省南部地区では、この原則にしたがって、自己の方針を再検討すべきである。新しい政権を樹立するさいには、すべてこの原則にしたがうものとする。
(十一)抗日統一戦線の選挙にかんする政策は、満十八歳以上で抗日と民主に賛成する中国人が、階級、民族、性別、信仰、政党、教育のいかんを問わず、すべて選挙権と被選挙権をもっというものでなければならない。抗日統一戦線の政権は、人民の選挙によってうみだされるべきである。その組織形態は、民主集中制でなくてはならない。
(十二)抗日統一戦線政権の施政方針は、日本帝国主義とたたかい、抗日の人民をまもり、抗日の諸階層の利益を調整し、労働者、農民の生活を改善し、民族裏切り者、反動派を弾圧することを基本的な出発点とすべきである。
(十三)われわれの政権に参加する党外の人びとに、共産党員とおなじような生活習慣や言論、行動を要求してはならない。それを要求すれば、かれらに不満と不安を感じさせるであろう。
(十四)各中央局、各中央分局①、各区党委員会②および各部隊の指導者は、この指示が政権の仕事のなかで十分貫徹されるよう、党内で明確に説明されたい。
① 中央委員会は、各地の党活動の指導をつよめるために必要なばあい、数省を指導する中央局または中央分局を設ける。これらはすべて党中央の代表機関である。ふつう、分局の指導する地区は中央局の指導する地区より小さい。
② 区党委員会は、革命根拠地に設けられた党委員会である。それは一つの地区の党委員会であって、その地区とは一つの省の一部分、あるいはいくつかの省のそれぞれの一部分を包括する。区党委員会は、中央局あるいは中央分局の下、地方委員会の上の級の指導機関で、省委員会に相当する。
(一九四〇年三月十一日)
これは、毛沢東同志が延安における党の高級幹部会議でおこなった報告の要綱である。
(一)当面の政治情勢はつぎのとおりである。(1)日本帝国主義は、中国の抗日戦争によって重大な打撃をうけ、もうこれ以上、大規模な軍事的進攻をおこなう力がない。したがって、敵味方の形勢はすでに戦略的対峙の段階にある。だが、敵は依然として中国を滅ぼす基本政策をとりつづけており、抗日統一戦線の破壊、敵後方での「掃討」の強化、経済侵略の強化などの方法によって、この政策をおしすすめている。(2)東方におけるイギリス、フランスの地位はヨーロッパの戦争によってよわまり、アメリカはひきつづき「山上に坐して、相うつ虎の倒るるを待つ」という政策をとっている。このため東方のミュンヘン会議①はとうぶん開かれるみこみがない。(3)ソ連の対外政策はあらたな勝利をおさめ、中国の抗戦にたいしてこれまでどおり積極的援助の政策をとっている。(4)親日派の大ブルジョア階級は、はやくから完全に日本に投降し、かいらいとして登場する準備をしている。欧米派の大ブルジョア階級は、まだ抗日をつづけることができるが、その妥協的傾向は依然としてひどく存在している。かれらは二面政策をとり、一面では、ひきつづき国民党以外の各派の勢力を結集して日本にあたろうとしているが、他面では、各派の勢力を破壊することに懸命になり、とりわけ共産党と進歩勢力を破壊することに全力をあげている。かれらは抗日統一戦線のなかの頑迷派である。(5)中層ブルジョア階級、開明紳士②、地方実力派をふくむ中間勢力は、大地主、大ブルジョア階級という主要な支配勢力とのあいだに矛盾があるし、同時に労農階級とのあいだにも矛盾があるので、とかく進歩勢力と頑迷勢力とのあいだの中間的な立場にたつ。かれらは抗日統一戦線のなかの中間派である。(6)共産党の指導下にあるプロレタリア階級、農民、都市小ブルジョア階級という進歩勢力は、最近大きな発展をとげ、抗日民主政権の根拠地を基本的にきずいた。かれらは、全国の労働者、農民、都市小ブルジョア階級のあいだで非常に影響が大きく、中間勢力のあいだでもかなり影響をもっている。抗日の戦場で共産党がむかえうっている日本侵略者の兵力は、国民党がむかえうっているそれと、ほとんどおなじくらいである。かれらは抗日統一戦線のなかの進歩派である。
以上が当面の中国の政治情勢である。このような情勢のもとでは、時局の好転をたたかいとり、時局の逆転を克服する可能性がやはり存在しており、二月一日の党中央の決定はまったく正しい。
(二)抗日戦争の勝利の基本的条件は、抗日統一戦線の拡大と強化である。そしてこの目的をたっするには、進歩勢力を発展させ、中間勢力を獲得し、頑迷勢力に反対するという戦術をとらなければならない。これはきりはなすことのできない三つの環であって、闘争をすべての抗日勢力の団結達成の手段とするのである。抗日統一戦線の時期には、闘争は団結の手段であり、団結は闘争の目的である。闘争によって団結をもとめれば団結はたもたれ、譲歩によって団結をもとめれば団結はうしなわれるというこの真理は、党内の同志たちにしだいに理解されるようになってきた。だが、理解していないものもまだたくさんいて、かれらのなかには、闘争は統一戦線を分裂させると考えたり、闘争は無制限にやってもかまわないと考えるものもおり、中間勢力にたいして正しくない戦術をとったり、頑迷勢力にたいしてあやまった見方をするものもいる。これらはすべて是正しなければならない。
(三)進歩勢力を発展させるとは、プロレタリア階級、農民階級、都市小ブルジョア階級の勢力を発展させることであり、八路軍、新四軍をおもいきって拡大することであり、抗日民主根拠地を広範に樹立することであり、共産党の組織を全国に拡大することであり、全国の労働者、農民、青年、婦人、児童などの民衆運動を発展させることであり、全国の知識人を獲得することであり、民主主義をかちとる憲政運動を広範な人民のあいだにひろげていくことである。時局の逆転をくいとめ、投降と分裂をくいとめて、抗日の勝利のために確固不動の基礎をうちたてるには、進歩勢力を一歩一歩発展させる以外にない。だが、進歩勢力を発展させるのはきびしい闘争の過程であって、日本帝国主義や民族裏切り者と苛烈な闘争をおこなわなければならないだけでなく、頑迷派とも苛烈な闘争をおこなわなければならない。なぜなら、進歩勢力を発展させることにたいしては、頑迷派が反対し、中間派が疑惑をもっているからである。頑迷派と断固たたかわす、また確実な成果をおさめないなら、頑迷派の圧迫に抵抗することはできず、中間派の疑惑をとくこともできず、進歩勢力は発展のしようがない。
(四)中間勢力を獲得するとは、中層ブルジョア階級を獲得し、開明紳士を獲得し、地方実力派を獲得することである。これらは三つの異なった部分の人びとであるが、みな当面の時局における中間派である。中層ブルジョア階級とは、買弁階級すなわち大ブルジョア階級をのぞいた民族ブルジョア階級のことである。かれらは、労働者とのあいだに階級矛盾があり、労働者階級が独立性をもつことには賛成しないが、被占領区では日本帝国主義に抑圧されており、国民党の支配下では大地主、大ブルジョア階級に制約されているので、やはり抗日をしようとしており、また自分の政治権力を獲得しようとしている。抗日の問題では、かれらは、団結して抗戦することに賛成している。政治権力獲得の問題では、かれらは、憲政運動に賛成するとともに、その目的達成のために、進歩派と頑迷派との矛盾を利用しようとしている。この階層はわれわれが獲得しなければならない。開明紳士は、地主階級の左翼、つまりブルジョア的色彩をおぴた一部の地主であって、かれらの政治的態度は中層ブルジョア階級とほぼおなじである。かれらは、農民とのあいだに階級矛盾があるが、大地主、大ブルジョア階級とのあいだにも矛盾がある。かれらは頑迷派に賛成しておらず、やはりその政治上の目的達成のために、われわれと頑迷派との矛盾を利用しようとしている。われわれは、この部分の人びとをもけっして無視してはならず、かれらを獲得する政策をとらなければならない。地方実力派には、地盤をもつ実力派と地盤のない雑軍との二つの勢力がふくまれる。かれらは、進歩勢力とのあいだに矛盾があるが、現在の国民党中央政府の、人をそこない、自己の利をはかる政策とのあいだにも矛盾があり、またその政治上の目的達成のために、われわれと頑迷派との矛盾を利用しようとしている。地方実力派の指導層も、多くが大地主、大ブルジョア階級に属しているので、抗日戦争のなかでときには進歩的な態度をしめすこともあるが、しばらくするとやはり反動的になる。だが、またかれらは国民党の中央勢力とのあいだにも矛盾があるので、われわれが正しい政策をとりさえすれば、われわれと頑迷派との闘争にさいして、かれらは中立的態度をとることが可能である。以上にのべた三つの中間勢力にたいするわれわれの政策は、かれらを獲得することである。だがこうした獲得政策には、農民や都市小ブルジョア階級を獲得することとちがいがあるばかりでなく、それぞれの中間勢力にたいしてもちがいがある。農民と都市小ブルジョア階級は基本的同盟者として獲得するが、中間勢力は反帝国主義の同盟者として獲得するのである。中間勢力のうち、中層ブルジョア階級と開明紳士は、われわれと共同して抗日することができるし、いっしょに抗日民主政権をうちたてることもできるが、かれらは土地革命をおそれる。頑迷派との闘争では、そのうちの一部のものは一定の限度内でこれに参加しうるし、一部のものは善意の中立をたもち、一部のものは不本意ながらも中立をしめすことができる。地方実力派は、共同して抗日することをのぞけば、頑迷派との闘争のさいに、せいぜい一時的な中立の立場がとれるだけであって、かれらも大地主、大ブルジョア階級であるから、われわれといっしょに民主政権をうちたてることはのぞまない。中間派の態度は動揺しやすく、しかも不可避的に分化する。われわれは、かれらのこの動揺的な態度にたいしては適当な説得と批判をおこなわなければならない。
中間勢力を獲得することは、抗日統一戦線の時期におけるわれわれのきわめて重大な任務であるが、この任務をなしとげるには一定の条件がなければならない。その条件とは、(1)われわれが十分な力をもつこと、(2)かれらの利益を尊重すること、(3)われわれが頑迷派と断固たたかい、しかも一歩一歩勝利をかちとることである。これらの条件がなければ、中間勢力は動揺するし、われわれを攻撃する頑迷派の同盟軍にまでなってしまう。なぜなら、頑迷派もわれわれを孤立させるため中間派の獲得に懸命になっているからである。中国ではこうした中間勢力が大きな力をもっており、われわれが頑迷派と闘争するさいに、しばしば勝敗を決する要素となりうるので、かれらにたいしては十分慎重な態度をとらなければならない。
(五)頑迷勢力とは、現在、大地主、大ブルジョア階級の勢力のことである。これらの階級は、いま投降派と抗日派にわかれているが、今後もしだいに分化していくであろう。現在の大ブルジョア階級の抗日派は、投降派とちがいがある。かれらは二面政策をとり、一面では、まだ団結して抗日することを主張しているが、他面ではまた、将来の投降を準備する段どりとして、進歩勢力を破壊する極端な反動政策をとっている。かれらがまだ団結して抗日することをのぞんでいるので、われわれもかれらを抗日統一戦線のなかにとどめておくよう獲得しうるし、その期間は長ければ長いほどよい。こうした獲得政策を無視し、かれらと協力する政策を無視して、かれらはすでに事実上の投降派であり、すぐにも反共戦争をやろうとしていろ、とみなす見解はあやまりである。しかしまた、かれらは、全国いたるところで進歩勢力を破壊する反動政策をとっているので、革命の三民主義というこの共同綱領を実行しないばかりか、われわれがこの綱領を実行することに強く反対しているので、またかれらのゆるす範囲をわれわれがこえることに強く反対し、いいかえれば、われわれにもかれらとおなじように消極的な抗戦しかやらせないので、しかもわれわれをかれらに同化させるか、でなければ、われわれに思想上、政治上、軍事上の圧迫をくわえようとしているので、われわれもまた、かれらのこうした反動政策に反対する闘争戦術をとり、断固としてかれらと思想上、政治上、軍事上の闘争をおこなわなければならない。これが、頑迷派の二面政策に対処するわれわれの革命的二面政策であり、闘争によって団結をもとめる政策である。もしわれわれが思想の面で正しい革命理論を提起し、かれらの反革命理論に断固とした打撃をあたえることができるならば、もしわれわれが政治の面で時宜に適した戦術的段どりをとり、かれらの反共、反進歩の政策に断固とした打撃をあたえるならば、もしわれわれが適切な軍事的段どりをとり、かれらの軍事的進攻に断固とした打撃をあたえるならば、かれらの反動政策実行の範囲を制限することができ、かれらに進歩勢力の地位を認めざるをえなくさせることができ、また進歩勢力を発展させ、中間勢力を獲得して、かれらを孤立させることができるようになる。同時に、まだ抗日をのぞんでいる頑迷派を抗日統」戦線のなかにとどめておく期間をひきのばすことができ、過去におこなわれたような大きな内戦をさけることもできるようになる。したがって抗日統一戦線の時期における頑迷派との闘争は、たんに、かれらの攻撃をふせいで進歩勢力に損失をこうむらせないようにし、進歩勢力をひきつづき発展させるためだけでなく、同時にまた、かれらの抗日の期間をひきのばし、われわれとかれらとの協力関係をたもち、大きな内戦のおこるのをさげるためでもある。闘争がなければ、進歩勢力は頑迷勢力に滅ぼされ、統一戦線は存在できなくなり、頑迷派の敵への投降をはばむ力はなくなり、内戦もおこることになる。したがって頑迷派との闘争は、すべての抗日勢力の結集、時局好転の実現、大規模な内戦の回避にとって、欠くことのできない手段である。この真理はすでにすべての経験によって立証されている。
だが、抗日統一戦線の時期に頑迷派と闘争するには、つぎのいくつかの原則に注意しなければならない。第一は自衛の原則である。相手が侵してこなければこちらも侵さないが、相手が侵してくればこちらもかならず侵す。つまり、けっして理由もなく人を攻撃してはならないが、人から攻撃されたときはどうしても反撃しなければならないということである。これが闘争の防御性である。頑迷派の軍事的進攻にたいしては、それを断固として、徹底的に、きれいに、全部消滅しなければならない。第二は勝利の原則である。たたかわなければともかく、たたかう以上はかならず勝たなければならない。計画もなく、準備もなく、勝算もないたたかいをけっしてやってはならない。頑迷派の矛盾を利用することを心得ておくべきであって、けっして多くの頑迷派に同時に打撃をくわえるようなことをしてはならず、そのうちのもっとも反動的なものをえらんで、まずこれに打撃をあたえなければならない。これが闘争の局部性である。第三は休戦の原則である。ある時期に頑迷派の攻撃を撃退したのち、かれらがあらたな攻撃をくわえてくるまでに、われわれはこの闘争に一段落をつけるようたたかいを適当なところでとどめなければならない。それにつづく時期に双方が休戦する。このときわれわれは主動的に頑迷派と団結をはかり、相手方の同意をえてかれらと和平協定をむすぶべきである。けっしてのべつ幕無しにたたかいつづけてはならないし、けっして勝利にのぼせあがってはならない。これが一つ一つの闘争の一時性である。われわれは、かれらがあらたな攻撃をおこなったときにはじめて、あらたな闘争をもってこれに対処する。この三つの原則は、ことばをかえていえば、「道理があり」、「有利であり」、「節度がある」ということである。道理があり、有利であり、節度があるこうした闘争を堅持すれば、進歩勢力を発展させ、中間勢力を獲得し、一頑迷派を孤立させることができ、また頑迷派に今後軽々しくわれわれを攻撃したり、敵と妥協したり、大きな内戦をおこしたりしえないようにさせることができる。このようにすれば時局の好転をたたかいとろくとができるようになる。
(六)国民党は複雑な構成要素をもつ党であり、そのなかには、頑迷派もおれば、中間派もおり、進歩派もいて、国民党全体が頑迷派だというわけではない。国民党中央が「異党活動制限措置法」などの反革命的摩擦の法令を公布するとともに、かれらのあらゆる力を動員して全国いたるところで思想上、政治上、軍事上の反革命的摩擦をひきおこしているので、一部の人びとは国民党全体が頑迷派であるかのように考えている。こうした見方はあやまりである。現在の国民党では、頑迷派がまだ同党の政策を左右する地位をしめているが、数のうえでは少数にすぎず、大多数の党員(その多くは名ばかりの党員である)は、かならずしも頑迷派ではない。この点をはっきり認識しておかなければ、かれらの矛盾を利用し、それぞれを区別してあつかう政策をとり、大きな力をそそいで国民党内の中間派と進歩派を結集することはできない。
(七)抗日根拠地内の政権樹立の問題では、この政権が抗日民族統一戦線の政権であることをはっきり規定しなければならない。国民党の支配地域にはまだこうした政権はない。こうした政権は、抗日にも賛成し、民主主義にも賛成するすべての人びとの政権であり、いくつかの革命的階級が連合して、民族裏切り者と反動派にたいしておこなう民主主義独裁である。それは、地主・ブルジョア階級の独裁とはちがうし、厳格な労農民主主義独裁ともいくらかちがいがある。政権の人員配分では、プロレタリア階級と貧農を代表する共産党員が三分の一をしめ、小ブルジョア階級を代表する左派の進歩的な人びとが三分の一をしめ、中層ブルジョア階級と開明紳士を代表する中間的な人びととその他の人びとが三分の一をしめるべきである。こうした政権に参加する資格がないのは、民族裏切り者と反共分子だけである。このような人数をだいたい規定しておくことは必要である。そうしなければ、抗日民族統一戦線政権の原則を保障することはできない。こうした人員配分の政策はわが党のいつわりのない政策であり、まじめに実行すべきであって、お座なりにことをすませてはならない。これはだいたいの規定であって、機械的に頭かずをそろえるのではなく、具体的な状況に応じて適切に実施すべきである。末端の政権では、、豪紳、地主に政権をにぎられないよう、この規定をある程度変更する必要がおこりうるが、その基本精神にそむいてはならない。抗日統一戦線政権では、共産党員以外の人びとにたいして、政党関係の有無、および所属政党のいかんを問題にしてはならない。抗日統一戦線政権の支配している地域では、国民党であれ、別の党であれ、共産党に反対せず、共産党と協力する政党でさえあれば、合法的に存在する権利をあたえるべきである。抗日統一戦線政権の選挙にかんする政策は、満十八歳以上で、抗日と民主に賛成する中国人には.階級、民族、政党、性別、信仰、教育のいかんをとわず、みな選挙権と被選挙権をあたえるものでなければならない。抗日統一戦線政権の成立は、人民の選挙によらなければならず、そのあとで国民政府にその委任方を申請するのである。その組織形態は民主集中制でなければならない。抗日統一戦線政権の施政方針は、日本帝国主義とたたかい、ほんとうの民族裏切り者や反動派とたたかい、抗日の人民をまもり、抗日の諸階層の利益を調整し、労働者、農民の生活を改善することを基本的な出発点とすべきである。こうした抗日統一戦線政権の樹立は、全国に大きな影響をあたえ、全国的な抗日統一戦線政権の雛型となるであろう。したがって全党の同志はこれをふかく理解するとともに、断固として実行すべきである。
(八)進歩勢力を発展させ、中間勢力を獲得し、頑迷勢力を孤立させる闘争では、知識人のはたす役割は無視できないものであり、頑迷派もまた知識人の獲得に懸命になっている。したがってすべての進歩的な知識人をわが党の影響下に獲得することは、必要で重要な政策である。
(九)宣伝の問題では、つぎの綱領を把握すべきである。(1)「総理遺言」を実行して、民衆をよびさまし、一致して抗日する。(2)民族主義を実行して、断固日本帝国主義とたたかい、対外的には中華民族の徹底的な解放をはかり、対内的には国内諸民族の平等をはかる。(3)民権主義を実行して、人民に抗日救国の絶対的自由をあたえ、各級政府を人民が選出し、抗日民族統一戦線の革命的民主主義政権を樹立する。(4)民生主義を実行して、苛酷で雑多な税金を廃止し、小作料と利子を引き下げ、八時間労働制を実施し、農工商業を発展させ、人民の生活を改善する。(5)蒋介石の「土地に南北の別なく、人に老若の別なく、なにびともみな国土をまもって抗戦する責務をもつ」という宣言を実行する。これらはみな、国民党自身が公表した綱領であり、国共両党の共同綱領でもある。だが、抗日という点をのぞいては、現在の自民党はどれ一つ実行することができず、それを実行できるのは共産党と進歩派だけである。これらはすでに人民のあいだに普及しているもっとも簡単な綱領であるが、多くの共産党員はまだ、民衆を動員し頑迷派を孤立させる武器としてそれを利用することを知らない。今後はいつでもこの五ヵ条の綱領を把握して、布告、宣言、ビラ、論文、演説、談話などのかたちでこれをひろめていくべきである。これは国民党の地域ではまだ宣伝の綱領であるが、八路軍、新四軍のいるところでは行動の綱領になっている。これらの綱領にもとづいて活動すればわれわれは合法的であり、われわれのこの綱領の実行に頑迷派が反対するならかれらこそ違法である。ブルジョア民主主義革命の段階では、国民党のこれらの綱領はわれわれの綱領と基本的にはおなじである。だが、国民党の思想体系は共産党の思想体系とまったくちがう。われわれが実行しなければならないのは、この民主主義革命の共同綱領だけであって、けっして国民党の思想体系ではない。
① 本巻の『投降の策動に反対せよ』注〔2〕、注〔3〕にみられる。
② 開明紳士とは、地主、富農階級のなかで民主的色彩をおびた、ごく一部の人びとのことである。これらの人びとは、官僚資本主義、帝国主義とのあいだに矛盾があったし、封建的な地主、富農とのあいだにもある種の矛盾があった。詳細は、本文の(四)および本選集第四巻の『民族ブルジョア階級と開明紳士の問題について』にみられる。
(一九四○年五月四日)
これは、毛沢東同志が中国共産党中央のために書いた東南局への指示である。毛沢東同志が党中央のためにこの指示を書いた時期には、中国共産党中央委員で中国共産党中央委員会東南局書記であった項英同志の思想のなかには、重大な右翼的観点があった。項英同志は、党中央の方針を断固として実行することをしなかった。かれは大衆をおもいきって立ちあがらせることができず、日本占領地区内で解放区と人民の軍隊を大胆に拡大することができず、国民党の反動的進攻の重大性を十分に認識しなかったため、その反動的進攻にたいする精神面、組織面での準備に欠けていた。党中央のこの指示がとどくと、中国共産党中央東南局委員で新四軍第一支隊①長であった陳毅同志は、ただちにこれを実行したが、項英同志は依然としてこれを実行しようとしなかった。かれは、予想される国民党の反動的進攻にたいして、依然として準備をおこなわなかったため、一九四一年一月、蒋介石が安徽省南部事変をおこしたときには、手も足もでない状態におちいり、安徽省南部にあった軍隊九千人に壊滅的な損害をこうむらせた。そして頃英同志も反動分子に殺されてしまった。
(一)敵の後方地区と戦争地域では、すべて、特殊性を強調すべきではなくて、同一性を強調すべきである。さもなければ、非常に大きなあやまりをおかすことになる。華北、華中、華南をとわず、長江以北、長江以南をとわず、平原地区、山岳地区、湖沼地区をとわず、また八路軍、新四軍、華南遊撃隊〔1〕をとわず、それぞれ特殊性をもってはいるが、いずれも、敵をもち、抗戦しているという同一性をもっている。したがって、われわれはみな発展することができるし、みな発展しなければならない。こうした発展の方針を、党中央はいくどとなく諸君にしめしてきた。発展とは、国民党の制限をうけず、国民党のゆるしうる範囲をこえ、他人からの任命をまたず、上級からの軍費支給にたよらず、独立自主的に、おもいきって軍隊を拡大し、断固として根拠地をつくり、その根拠地で独立自主的に大衆を立ちあがらせ、共産党の指導する抗日統一戦線の政権を樹立し、こうして敵のすべての占領地域に発展していくことである。たとえば江蘇省内では、顧祝同、冷欣、韓徳勤〔2〕らの反共分子の批判、制限、圧迫を問題にせず、西は南京から、東は海岸、南は杭州、北は徐州までのあいだで、支配できるあらゆる地域をできるだけはやく、段どりをおって計画的にわれわれの手中におさめるとともに、独立自主的に、軍隊を拡大し、政権を樹立し、財政機関をもうけて抗日のための税金を徴収し、経済機関をもうけて農業、工業、商業を発展させ、各種の学校をつくっておおぜいの幹部を養成すべきである。党中央は、さきに諸君にたいし、江蘇、淅江両省の敵の後方地区で、今年じゅうに抗日武装組織を十万の兵力と銃をもっところまで拡大し、すみやかに政権を樹立することなどを要求したが、諸君はどのように具体的に手配しただろうか。これまでにもすでに時機をうしなったが、今年も時機をうしなうなら、将来はいっそう困難になる。
(二)国民党の反共頑迷派が防共、限共、反共の政策をあくまで実行し、それによって日本への投降を準備しているとき、われわれは統一を強調すべきではなくて、闘争を強調すべきである。さもなければ、非常に大きなあやまりをおかすことになる。したがって、反共頑迷派の防共、限共、反共のためのすべての法律、命令、宣伝、批判にたいしては、理論面、政治面、軍事面のものをとわず、原則的にはいずれも断固反抗すべきであり、断固闘争する態度をとるべきである。こうした闘争は、道理があり、有利であり、節度があるという原則から出発すべきである。それは、つまり自衛の原則、勝利の原則、休戦の原則のことであり、当面の一つ一つの具体的な闘争における防御性、局部性、一時性のことでもある。反共頑迷派のすべての反動的な法律、命令、宣伝、批判にたいしては、われわれはこれとまっこうから対決する措置を提起して、かれらと断固闘争すべきである。たとえば、かれらが第四、第五支隊〔3〕の南下を要求すれば、われわれはどうしても南下できないという態度でこれに対処する。かれらが葉飛、張雲逸両部隊〔4〕の南下を要求すれば、われわれは一部の部隊の北上申請でこれに対処する。かれらがわれわれを兵役制度を破壊するものといえば、われわれはかれらに新四軍の募兵地域を拡大するよう申しこむ。かれらがわれわれの宣伝をまちがっているといえば、われわれはかれらにすべての反共宣伝をやめ、摩擦をおこすすべての法令を撤廃するよう申しこむ。また、かれらがわれわれに軍事的進攻をくわえてくれば、われわれは軍事的反攻によってそれをうちやぶる。このようなまっこうから対決する政策をとるについては、われわれに道理がある。すべて道理のあることは、わが党中央が提起しなければならないだけでなく、わが軍のいかなる部隊もみな提起しなければならない。たとえば、張雲逸が李品仙にたいし、李先念が李宗仁にたいし〔5〕、いずれも下級から上級に強硬な抗議をおこなったのはそのよい例である。頑迷派にたいしてこうした強硬な態度をとるとともに、闘争のさい、道理があり、有利であり、節度があるという方針をとることによってのみ、頑迷派におそれをいだかせてわれわれを圧迫できないようにさせ、頑迷派の防共、限共、反共の範囲をせばめ、頑迷派にわれわれの合法的地位を認めざるをえなくさせ、また頑迷派に軽々しく分裂をひきおこさせないようにすることができる。したがって、闘争は投降の危険にうちかち、時局の好転をたたかいとり、国共合作をつよめるもっとも主要な方法である。わが党とわが軍の内部で、元気をふるいたたせ、士気をたかめ、幹部を結集し、力を拡大し、軍隊を強化し、党を強化するには、頑迷派にたいする闘争を堅持する以外にない。中間派との関係でも、動揺している中間派を獲得し、共鳴している中間派を支持するには、頑迷派にたいする闘争を堅持する以外になく、さもなければ、すべてが不可能である。予想される全国的な突発事変に対処する問題でも、全党と全軍に精神の面で準備をさせ、活動の面で手配をさせるには、闘争の方針をとる以外にない。さもなければ、また一九二七年のあやまり〔6〕をおかすことになる。
(三)当面の時局を評価するばあい、一方では投降の危険が大いにつよまっているが、他方ではこの危険を克服する可能性がまだうしなわれていないことを知っていなければならない。当面の軍事的衝突は、局部的なものであって、まだ全国的なものではない。それは、向こう側の戦略的な偵察行動であって、まだ、いますぐ大がかりな「共産党討伐」をおこすという行動ではなく、向こう側の投降準備の段どりであって、まだ、いますぐ投降するという段どりではない。われわれの任務は、「進歩勢力を発展させ」、「中間勢力を獲得し」、「頑迷勢力を孤立させる」という三項目にわたる党中央の唯一の正しい方針をねばりづよく強力に実行し、これによって、投降の危険を克服し、時局の好転をたたかいとる目的をたっすることである。時局の評価と任務の提起について、左より、または右よりの意見があらわれたばあい、それを指摘し克服しなければ、やはりひじょうに大きな危険である。
(四)韓徳勤、李宗仁の安徽省東部への進攻と戦った第四、第五支隊の自衛戦争、頑迷派の湖北省中部、湖北省東部への進攻と戦った李先念縦隊の自衛戦争、淮河以北地区における彭雪楓支隊の断固たる闘争、長江以北における葉飛部隊の発展、そして淮河以北地区、安徽省東部、江蘇省北部への八路軍二万余人の南下〔7〕などは、みな絶対に必要な、絶対に正しいものであるばかりでなく、安徽省南部、江蘇省南部で、顧祝同が軽々しく諸君を進攻できないようにするための必要な段どりでもある。つまり、われわれが長江以北で勝利し、発展すればするほど、顧視同は長江以南でますます軽々しくは動けなくなるのであり、諸君は安徽省南部、江蘇省南部でますます腕をふるえるのである。同様に、八路軍、新四軍および華南遊撃隊が西北、華北、華中へ華南で発展すればするほど、また共産党が全国的な範囲で発展すればするほど、投降の危険を克服し時局の好転をたたかいとる可能性はますます増大し、わが党は全国でますます腕をふるうことができるのである。もし、反対の評価と戦術をとって、われわれが発展すればするほどかれらがますます投降し、われわれが譲歩すればするほどかれらがますます抗日すると考えたり、いまはすでに全国的分裂の時期であるから国共合作はもはや不可能であると考えたりするなら、それこそあやまりである。
(五)抗日戦争のあいだ、われわれの全国的な方針は、抗日民族統一戦線である。敵の後方につくる民主的な抗日根拠地も、抗日民族統一戦線的なものである。諸君は政権の問題についての党中央の決定を断固として実行しなければならない。
(六)国民党の支配地域での方針は、戦争地域および敵の後方地域とはちがう。そこでは、隠蔽と精鋭化をはかり、長期にわたってひそみ、力をたくわえ、時機を待つのであって、あせったり、自己を暴露したりすることに反対しなければならない。そこでの頑迷派との闘争の戦術は、道理があり、有利であり、節度があるという原則のもとで、国民党の法律、命令および社会慣習のゆるす範囲の利用できるすべてのものを利用し、着実に闘争をすすめ、力をたくわえることである。党員が国民党から入党を強要されたばあいには、これに加入する。地方の保甲団体②、教育団体、経済団体、軍事団体には、広範にはいりこんでいくべきである。中央軍や雑軍〔8〕のなかでは、統一戦線の活動、すなわち友だちづきあいの活動を広範に展開すべきである。すべての国民見地域における党の基本方針は、同様に、進歩勢力を発展させ(党の組織と民衆運動を発展させる)、中間勢力(民族ブルジョア階級、開明紳士、雑軍、国民党内の中間派〔9〕、中央軍内の中間派〔10〕、小ブルジョア階級の上層、さまざまな小政党、あわせて七種のもの)を獲得し、頑迷勢力を孤立させ、それによって、投降の危険を克服し、時局の好転をたたかいとることである。同時に、予想されるいかなる地方的、全国的な突発事変にも対処できるよう、十分準備をすることである。国民党地域では、党の機関を極度に秘密にすべきである。東南局〔11〕ならびに各省委員会、各特別委員会、各県委員会、各区委員会の機関要員(書記から炊事員にいたるまで)にたいしては、一人ひとり、厳格で綿密な審査をおこなうべきであり、すこしでも疑わしいものは絶対に各級の指導機関にのこしてはならない。幹部を保護することに十分注意をはらい、公然化、またはなかば公然化した幹部で国民党から逮捕、殺害される危険のあるものは、他の地区へうつして隠蔽するか、軍隊に転任させるべきである。日本占領地区(上海、南京、蕪湖、無錫などのような大都市、中小都市、および農村)での方針は、国民党地域と基本的におなじである。
(七)以上の戦術についての指示は、今回の党中央委員会政治局会議で決定したものである。東南局ならびに中国共産党中央革命軍事委員会分会の諸同志はこれを討議し、党と軍のすべての幹部に伝達するとともに、断固としてこれを実行してもらいたい。
(八)この指示は、安徽省南部では項英同志が伝達し、江蘇省南部では陳毅同志が伝達すること。また、電報をうけとってから一ヵ月以内に討議し、伝達を終わること。全地区の党と軍の仕事の手配については、項英同志が党中央の方針にしたがって統一的に処理し、その結果を党中央に報告すること。
〔1〕 華南遊撃隊は、中国共産党が指導していた中国南部のいくつかの抗日遊撃隊の総統である。
〔2〕 顧祝同、冷欣、韓徳勤は、当時、国民党政府が江蘇省、淅江省、安徽省南部、江西省などに派遣していた反動的な将領である。
〔3〕 第四、第五支隊とは、新四軍の第四、第五両支隊のことで、当時、江蘇省、安徽省の淮河地区に抗日根拠地をつくっていた。
〔4〕 葉飛、張雲逸両部隊とは、葉飛、張雲逸両同志が率いていた新四軍の一部である。当時、かれらは、長江以北の江蘇省中部と安徽省東部地区で抗日遊撃戦争をくりひろげ、抗日根拠地をつくった。
〔5〕 一九四〇年の三、四月に、国民党の安徽省政府主席李品仙、第五戦区司令長官李宗仁(ともに広西派の軍閥)は、安徽省、湖北省にいた新四軍にむかって大規模な攻撃をおこした。当時、新四軍長江以北の指揮員張雲逸同志と湖北・河南挺進縦隊の司令員李先念同志は、抗日を破壊するかれらの犯罪行為に強く抗議するとともに、かれらの攻撃に抵抗した。
〔6〕 陳独秀の右翼日和見主義のあやまりをさす。
〔7〕 一九四○年一月、中国共産党中央は、淮河以北地区、安徽省東部、江蘇省北部での新四軍の抗日闘争を増援するために、華北から八路軍二万余人を南下させた。この部隊は江蘇省北部に到着した。
〔8〕 蒋介石派はかれら自身の直系部隊を「中央軍」とよび、その他の各派の国民党軍を「雑軍」とよんだ。「雑軍」は蒋介石集団から差別され、「中央軍」とはちがった待遇をうけていた。
〔9〕 「国民党内の中間派」とは、国民党内で、ある時期、反共にさほど積極的でなかったり、中立的態度をとったりした各派や一部の人びとをさす。
〔10〕 国民党の「中央軍」は蒋介石の直系部隊であるが、そのなかでも、一部の将校や一、二の部隊は、抗日のあいだ、反共にさほど積極的でなかったり、中立的な態度をとったりした。「中央軍内の中間派」とはこうした人びとをさす。
〔11〕 東南局とは、一九三八年から一九四一年にかけて、中国東南地区での活動を指導した中国共産党中央の代表機関であった。この地区には江蘇、淅江、安徽、江西、湖北、湖南などの省がふくまれていた。
① 支隊とは、八路軍、新四軍の編制単位の一つである。正規軍にくらべると、比較的融通性があり、時期と地区によって支隊編制の大きさもちがってくる。ここでいう支隊は、正規軍の一コ師団にあたる。
② 保甲団体とは、国民党が地方でファッショ支配をおこなうための末端の権力機構である。詳細は、本選集第三巻の『連合政府について』の[保甲制度」の注にみられる。
(一九四〇年七月)
抗日戦争の三周年は、ちょうど中国共産党の一九周年にあたる。われわれ共産党員は、きょう抗戦を記念するにあたって、自分の責任をいっそう痛感する。中華民族の興亡については、すべての抗日諸政党に責任があり、全国人民に責任があるが、われわれ共産党員からみれば、われわれにいっそう大きな責任がある。わが党中央はすでに時局についての宣言を発表した。この宣言の中心は、あくまで抗戦し、あくまで団結しようとよびかけたことにある。われわれは、友党、友軍ならびに全国人民がこの宣言に賛同することをのぞむものであるが、すべての共産党員は、とくにこの宣言でしめされた方針をまじめに実行しなければならない。
すべての共産党員は、あくまで団結するにはあくまで抗戦するほかはなく、あくまで抗戦するにはあくまで団結するほかはないということを知らなければならない。したがって、共産党員は抗戦の模範とならなければならないし、また団結の模範とならなければならない。われわれが反対するのは、敵および徹底した投降分子、反共分子だけであって、その他のすべての人びととはまじめに団結しなければならない。ところが、徹底した投降分子、反共分子なるものは、どこでも少数を占めるにすぎない。わたしは、ある地方政府の構成員をしるべてみたが、そこで仕事をしている千三百人のうち、徹底した反共分子はわずか四十人ないし五十人、つまり四パーセントたらすで、あとはみな団結と抗戦をのぞんでいる。われわれは、徹底した投降分子と反共分子にたいしては、もちろん大目にみるわけにはいかない。大目にみるなら、かれらが抗戦を破壊し、団結を破壊するのをゆるすことになる。したがって、投降派とは断固たたかわなければならず、反共分子の攻撃にたいしては自衛の立場から断固これを撃退しなければならない。もしわれわれがそうしないなら、それは右翼日和見主義であり、団結と抗戦に不利である。だが、投降分子でも反共分子でも、徹底したものでないかぎり、これと団結する政策をとらなければならない。そういうもののうち、一部は二面派であり、一部は強要されたものであり、また一部は一時のあやまりをおかしたものである。これらの人びとにたいしては、ひきつづき団結し抗戦するために、「かれらを獲得するようにしなければなるない。もしわれわれがそうしないなら、それは「左」翼日和見主義であり、やはり団結と抗戦に不利である。すべての共産党員は、われわれが抗日民族統一戦線を提唱した以上この統一戦線を堅持すべきである、ということを知らなければならない。いま、国難が日ましに深まっており、世界の情勢が大きく変わっているとき、中華民族の興亡について、われわれはきわめて大きな責任をになわなければならない。われわれは、かならず日本帝国主義にうち勝たなければならないし、かならず中国を独立・自由・民主の共和国につくりあげなければならない。この目的をはたすには、政党に属していると属していないとにかかわらず全国の最大多数を結集しなければならない。共産党員は他のものと無原則的な統一戦線を結成することはゆるされない。したがって、溶共、限共、防共、制共といったやり方に反対しなければならず、党内の右翼日和見主義に反対しなければならない。だが、同時に、共産党員はすべて党の統一戦線政策を無視することはゆるされない。したがって、すべての共産党員は、抗日の原則のもとで、まだ抗日のやれるすべての人びとを結集しなければならず、党内の「左」翼日和見主義に反対しなければならない。
このため、政権の問題では、われわれは統一戦線の政権を主張する。われわれは他の政党の一党独裁に賛成するのでもなければ、共産党の一党独裁を主張するのでもなく、各党、各派、各界、各軍の連合独裁を主張するのである。これがつまり統一戦線の政権である。共産党員が敵の後方で敵のかいらい政権を消滅して抗日政権を樹立するときには、政府構成員のなかでも民意代表機関のなかでも、共産党員は三分の一を占めるだけで、三分の二は抗日と民主を主張する他の政党および無党派の人びとに占めさせるという、わが党中央の決定した「三三制」をとるべきである。どんな人でも、投降、反共さえしなければ、すべて、政府の仕事につくことができる。どんな政党でも、投降、反共さえしなければ、抗日政権のもとで存在し活動する権利があたえられるべきである。
軍隊の問題では、わが党は、宣言のなかで、「一切の友軍のなかに党組織をつくらない」という決定をひきつづき実行すると表明している。一部の地方の党組織はこの決定をまだ厳格に実行していないが、ただちにあらためるべきである。八路軍、新四軍にたいして軍事的摩擦をおこさない軍隊にたいしては、一律に友好的な態度をとるべきである。たとえ摩擦をおこしたことのある一部の軍隊でも、摩擦をやめたばあいには、それとの友好関係を回復すべきである。これが軍隊の問題で統一戦線の政策を実行するということである。
そのほか、財政、経済、文化、教育、奸徒粛清の各分野の政策においても、すべて、抗日の必要のために、各階級の利益の調整から出発して統一戦線の政策を実行しなければならず、一方では右翼日和見主義に反対し他方では「左」翼日和見主義に反対しなければならない。
当面の国際情勢についていうと、帝国主義戦争が世界的な範囲に拡大しつつあり、帝国主義戦争のもたらすきわめて重大な政治的危機と経済的危機によって、多くの国ぐにで革命が勃発するのは必至である。われわれは戦争と革命の新しい時代におかれている。帝国主義戦争のうずにまきこまれていないソ運は、全世界のすべての被抑圧人民と被抑圧民族の援助者である。これらはすべて中国の抗戦にとって有利である。だが、同時に、日本帝国主義はいま東南アジアへの侵略を準備し、中国への進攻を強化しつつあり、いきおい中国の一部の動揺分子を投降にさそいこむであろうから、投降の危険はいままでになく重大化している。抗戦の四年目はもっとも困難な年になるであろう。われわれの任務は、すべての抗日勢力を結集し、投降分子に反対し、あらゆる困難を克服し、全国的な抗戦を堅持するということである。すべての共産党員は、友党、友軍と一致団結して、この任務を達成しなければならない。わが党の全党員が友党、友軍および全人民とともに努力するなら、投降をくいとめ、困難にうちかち、日本侵略者をおいはらい、わが山河をとりもどすという目的は達成できるとわれわれは確信する。抗戦の前途は光明にみちたものである。
(一九四〇年十二月二十五日)
これは、毛沢東同志が中国共産党中央のために書いた党内指示である。
反共の高まりという当面の情勢のもとでは、われわれの政策が決定的な意義をもっている。だが、党の当面の時期の政策は、土地革命の時期の政策とは重大な区別がなければならないことを理解していないものが、われわれの幹部のなかにまだ数多くいる。抗日戦争の時期全体をつうじて、いかなる状況のもとでも、わが党の抗日民族統一戦線の政策はけっして変わらないこと、過去十年にわたった土地革命の時期の多くの政策は、現在、安易にとり入れるべきではないことを理解しなければならない。わけても、土地革命の後期に、中国革命が半植民地のブルジョア民主主義革命であり、長期的なものであるという二つの基本的特徴を認識しないことからうまれた多くの極左的な政策は、みなこんにちの抗日の時期にとり入れてはならないばかりでなく、過去においてもあやまりであった。たとえば五回目の「包囲討伐」と五回目の反「包囲討伐」との闘争を、いわゆる革命と反革命の二つの道の決戦であるとする考え、経済面でのブルジョア階級の消滅(極左的な労働政策と徴税政策)と富農の消滅(わるい土地を分配する)、肉体面での地主の消滅(土地を分配しない)、知識人にたいする打撃、反革命粛清における「左」翼的な偏向、共産党員による政権の仕事の完全な独占、共産主義的な国民教育の方針、極左的な軍事政策(大都市の攻撃と遊撃戦争の否定)、白色地区の活動での盲動政策、党内の組織の面での打撃政策などがそれであった。こうした極左的な政策は、第一次大革命の後期における陳独秀の右翼日和見主義とは正反対に、「左」翼日和見主義のあやまりとなってあらわれた。第一次大革命の後期には、すべてのものと連合し、闘争を否定したが、土地革命の後期には、すべてのものと闘争し、連合を否定した(農民の基本層をのぞいて)。これは二つの極端な政策を代表するきわめてあきらかな例証にほかならない。この二つの極端な政策は、いずれも党と革命に非常に大きな損失をこうむらせた。
現在の抗日民族統一戦線政策は、すべてのものと連合し、闘争を否定することでもなければ、すべてのものと闘争し、連合を否定することでもなく、連合と闘争の両側面を総合した政策である。具体的にいえばつぎのとおりである。
(一)すべての抗日の人民が連合して(あるいは、すべての抗日の労働者、農民、兵士、知識層、商工業者が連合して)、抗日民族統一戦線を結成する。
(二)統一戦線のもとでの独立自主の政策である。統一も必要であるし、独立も必要である。
(三)軍事戦略の面では、統一した戦略のもとでの独立自主の遊撃戦争である。基本的には遊撃戦であるが、有利な条件のもとでの運動戦もゆるがせにしない。
(四)反共頑迷派と闘争するときには、矛盾を利用し、多数を獲得し、少数に反対し、各個に撃破する。道理があり、有利であり、節度があるようにする。
(五)敵占領区と国民党支配区での政策としては、できるだけ統一戦線の活動を発展させる一方、隠蔽と精鋭化をはかる政策をとる。また組織形態と闘争形態のうえでは、隠蔽と精鋭化をはかり、長期にわたってひそみ、力をたくわえ、時機を待つ政策をとるのである。
(六)国内の各階級の相互関係にたいする基本政策は、進歩勢力を発展させ、中間勢力を獲得し、反共頑迷勢力を孤立させることである。
(七)反共頑迷派にたいしては、革命的二面政策をとる。すなわち、まだ抗日できる側面にたいしては、連合する政策をとり、あくまで反共をする側面にたいしては、孤立させる政策をとる。抗日の側面で、頑迷派はまた二面性をもっているので、われわれは、そのまだ抗日できる側面にたいしては、連合する政策をとり、その動揺する側面(たとえば、日本侵略者とひそかに結託したり、汪精衛や民族裏切り者反対に積極的でない)にたいしては、闘争し、孤立させる政策をとる。頑迷派は、反共の側面でも二面性をもっているので、われわれの政策にも二面性がある。すなわち、かれらが国共合作の根本的な分裂をまだのぞんでいない側面については、連合する政策をとり、かれらがわが党と人民にたいして高圧政策や軍事進攻をおこなう側面については、闘争し、孤立させる政策をとる。こうした二面派分子を民族裏切り者、親日派と区別する。
(八)民族裏切り者や親日派のなかにも二面分子がいるので、われわれも革命的二面政策でこれに対処すべきである。すなわち、親日的な側面にたいしては、打撃をくわえ、孤立させる政策をとり、一動揺する側面にたいしては、これを籠絶し、獲得する政策をとる。こうした二面分子を、徹底した民族裏切り者、たとえば汪精衛、王揖唐〔1〕、石友三〔2〕などと区別する。
(九)抗日に反対する親日派の大地主・大ブルジョア階級を、抗日を主張する英米派の大地主・大ブルジョア階級と区別しなければならないし、また抗日を主張しながらも動揺し、団結を主張しながらも反共的である二面派の大地主・大ブルジョア階級を、二面性の比較的すくない民族ブルジョア階級、中小地主、開明紳士と区別しなければならない。われわれの政策はこれらの区別のうえにたてられる。上述のそれぞれ異なった政策は、これらの階級関係の区別からきている。
(十)帝国主義に対処するばあいも同様である。共産党は、いかなる帝国主義にも反対するものではあるが、中国を侵略している日本帝国主義を、現在侵略をおこなっていない他の帝国主義と区別しなければならない。また、日本と同盟を結び、「満州国」を承認しているドイツ、イタリアの帝国主義を、日本と対立の立場にあるイギリス、アメリカの帝国主義と区別しなければならない。さらに、かつて極東ミュンヘン政策をとって中国の抗日に危害をくわえていたときのイギリス、アメリカを、いまはこの政策を放棄して中国の抗日支持にあらためているイギリス、アメリカと区別しなければならない。われわれの戦術の原則は、やはり、矛盾を利用し、多数を獲得し、少数に反対し、各個に撃破することである。われわれは、外交政策の面で、国民党とは区別がある。国民党は、「敵はただ一つで、そのほかはみな友である」などといっており、表面では日本以外の国をみな平等にみているが、、実際には親英、親米である。われわれは、第一にソ連と資本主義諸国との区別、第二にイギリス、アメリカと、ドイツ、イタリアとの区別、第三にイギリス、アメリ力の人民とイギリス、アメリカの帝国主義政府との区別、第四に極東ミュンヘンの時期のイギリス、アメリカの政策と当面の時期のそれとの区別、といった区別をすべきである。われわれの政策はこれらの区別のうえにたてられる。われわれの根本方針は、国民党とは反対に、独立した戦争と自力更生を堅持する原則のもとで、可能なかぎり外国の援助を利用するのであり、国民党のように、独立した戦争と自力更生を放棄して、外国の援助にたよったり、いずれかの帝国主義集団に身をよせたりするのではない。
党内の多くの幹部には、戦術問題にたいする一面的な観点とそこから生じる左より、右よりの動揺があり、歴史上および当面の党の政策の変化と発展の面から、かれらに全面的、統一的な理解をもたせなければ、それを克服できるものではない。当面、党内の主要な危険な偏向は、やはり、極左的な観点がわざわいしていることである。国民党支配区では、多くの人が国民党の反共政策の重大さをみてとっていないため、隠蔽と精鋭化をはかり、長期にわたってひそみ、力をたくわえ、時機を待つという政策を、真剣に実行できないでいる。同時にまた、多くの人が、単純に国民党を黒一色とみなし、手のつけようがないとして、統一戦線の活動を発展させる政策を美行できないでいる。似たような状態は、日本占領区でもみられる。
国民党支配区と各抗日根拠地では、連合を知っているだけで、闘争を知らす、また国民党の抗日性を過大に評価したために、国共両党の原則的なちがいをあいまいにし、統一戦線のもとでの独立自主の政策を否定し、大地主・大ブルジョア階級に迎合し、国民党に迎合し、自分で自分の手足をしばり、思いきって抗日革命勢力を発展させようとはせず、国民党の共産党反対、共産党制限の政策と断固たたかおうとしないこうした右翼的な観点が、過去にはひどかったが、現在では基本的に克服された。だが、一九三九年の冬以来、国民党の反共の摩擦とわれわれの自衛闘争によってひきおこされた極左的な偏向が、いたるところにあらわれた。それは、いくらかは是正されたが、まだ完全には是正されておらず、まだ多くの地方の多くの具体的政策にみられる。したがって、当面、それぞれの具体的政策を検討し、解決することが、きわめて必要である。
それぞれの具体的政策については、党中央はこれまでつぎつぎと指示をだしているので、ここでは、ただいくつかの点を総合的に指摘しておく。
政権の組織について。「三三制」を断固実行しなければならないい共産党員は政権機関のなかで三分の一をしめるにとどめ、広範な非党員を政権に参加させるようにする。江蘇省北部など、抗日民主政権を樹立しはじめたところでは、三分の一より少なくてもよい。政府機関、民意機関をとわず、反共に積極的でない小プルジョア階級、民族ブルジョア階級、開明紳士の代表を参加させるべきであり、反共をしない国民党員の参加をゆるさなければならない。民意機関では、少数の右派分子の参加をゆるしてもよい。わが党の一手請負はぜひともさげるべきである。われわれは、買弁大ブルジョア階級と大地主階級の独裁をうちこわすだけであって、共産党の一党独裁でそれにとってかえるのではない。
労働政策について。労働者の抗日への積極性を発揮させるには、労働者の生活を改善しなければならない。だが、極左はぜひともさげるべきで、賃金の引き上げも労働時間の短縮も度をすぎてはならない。中国の当面の状況では、まだ八時間労働制の普遍的実施はむずかしく、一部の生産部門では十時間労働制の実施をゆるさなければならない。他の生産部門は、状況に応じて時間をきめるべきである。労資間の契約成立後は、労働者は労働規律をまもらなければならず、資本家にも利益を保証してやらなければならない。そうでないと、工場が閉鎖されて抗日に不利となり、労働者自身も損をする。農村労働者の生活や待遇の改善は、なおさら、度をすぎるべきではなく、そうでないと、農民の反対、労働者の失業、生産の縮小をまねくことになる。
土地政策について。当面は徹底した土地革命をおこなう時期ではなく、過去の土地革命の時期の一連のやり方は現在に適用できないことを、党員や農民に説明しなければならない。現在の政策として、一方では、基本的な農民大衆の抗日への積極性を発揮させるため、地主の小作料、利子の引き下げを規定すべきである。だが、引き下げすぎてもいけない。小作料は、ふつう二割五分の引き下げを原則とする。大衆の要求が高まれば、農民六割、地主四割、あるいは農民七割、地主三割にしてもよいが、この限度をこえてはならない。利子は、社会経済の貸借関係でゆるされる限度をこえて、引き下げてはならない。他方では、農民が小作料と利子を支払うこと、土地所有権と財産所有権が依然として地主に属することを規定する必要がある。利子の引き下げによって、農民の借金するところがなくなったり、旧債の清算①によって、農民が抵当にいれた土地を無償で回収したりすることがあってはならない。
徴税政策について。収入額におうじて納税額をきめなければならない。免税を規定される極貧者をのぞいて、収入のあるすべての人民、すなわち八〇パーセント以上の住民は、労働者、農民をとわず、すべて国家の税金を負担しなければなちず、地主、資本家に全部を負担させるべきではない。軍隊の給養を解決するために人を逮捕して罰金をかけるやり方は、禁止すべきである。徴税の方法は、われわれがより適切な新しい方法をきめるまで、国民党のふるい方法を適宜に改めて利用してさしつかえない。
奸徒粛清の政策について。徹底した民族裏切り者と徹底した反共分子は断固として弾圧すべきであり、そうしなければ、抗日の革命勢力をまもることはできない。だが、けっして、人を多く殺してはならないし、罪のないものをひとりでも巻きぞえにしてはならない。反動派のなかの動揺分子と、強迫されてしたがっているものは、寛大に処置すべきである。どのような犯人にたいしても、体刑は断固廃止し、供述を軽々しく信じないで、証拠を重んずるべきである。日本侵略軍、かいらい軍、反共軍の捕虜にたいしては、大衆からひどく憎悪されていて、どうしても殺す必要があり、しかも上級の許可をえているもの以外は、一律に釈放する政策をとるべきである。そのうち、強制的に入隊させられ、いくらか革命性をもっているものは、大量に獲得してわが軍のために働かせ、その他は一律に釈放すべきである。もし、ふたたびくれは、ふたたび捕え、ふたたび釈放する。侮辱をくわえたり、金品をとりあげたり、転向を強要したりせず、一律に、心のこもったおだやかな態度で接する。かれらがいかに反動的でも、こうした政策をとる。これは、反動陣営を孤立させるうえで非常に効果的である。裏切り者にたいしては、罪がとくに大きなもの以外、反共をつづけないことを条件に、更生の道をあたえる。もしも改心して革命をやるならば、うけいれてよいが、再入党はゆるさない。国民党の一般の情報要員を日本のスパイや民族裏切り者と混同してはならず、両者の性質をはっきり区別して、処置すべきである。どのような機関や団体でも人を逮捕できるという、混乱した現象をなくさなければならない。抗日の革命的秩序を樹立するために、犯人逮捕の権限は、戦闘中の軍隊をのぞけば、政府の司法機関と治安機関にかぎることを規定すべきである。
人民の権利について。抗日に反対しないすべての地主や資本家は、労働者、農民とおなじ人権、財産権、選挙権および言論、集会、結社、思想、信教の自由の権利をもつことを規定すべきである。政府は、わが根拠地内で破壊活動を組織したり、暴動をおこしたりするものに干渉するだけで、その他のものには干渉せず、一律に保護する。
経済政策について。工業、農業と商品の流通を積極的に発展させなければならない。地区外の資本家でわが抗日根拠地にきて事業をおこす意思のあるものは、ひきよせるべきである。政府の経営する国営企業はたんに企業全体の一部分とみなし、民営企業を奨励すべきである。すべてこれらは自給自足の目的を達成するためである。有益な企業はすべて破壊をさけるべきである。関税政策と貨幣政策は、農業、工業、商業を発展させる基本方針にそむかず、これに適応したものでなければならない。各根拠地の経済を、大ざっぱにではなく、真剣かつ綿密に組織して、自給自足の目的を達成することは、根拠地を長期にささえる基本的な環である。
文化教育政策について。人民大衆の抗日についての知識、技能および民族の自尊心の向上と普及を中心とすべきである。ブルジョア自由主義的な教育家、文化人、記者、学者、技術者が根拠地にきて、われわれと協力して学校をおこし、新聞をだし、仕事をするのをゆるすべきである。抗日の積極性を比較的もっているすべての知識人をわれわれの学校にいれ、短期間の訓練をほどこしたうえで、軍隊、政府、社会の仕事に参加させるべきであり、かれらを大胆に吸収し、大胆に任用し、大胆に抜擢すべきである。反動分子がまぎれこむのをおそれて、あれこれと用心しすぎるのはよくない。そうした連中が多少まぎれこむのはさげられないが、学習と仕事をつうじてそれを排除してもおそくはない。どの根拠地でも、印刷工場をたて、新聞、書籍を刊行し、その発行と配付の機構をつくるべきである。どの根拠地でも、大規模な幹部学校をできるだけ開設する必要があり、それは大きいほどよく、多いほどよい。
軍事政策について。八路軍と新四軍は、中国人民が民族の抗戦を堅持するうえでもっともたよりになる武装力であるから、できるかぎり拡大すべきである。国民党軍にたいしては、相手が侵してこなければ、こちらも侵さないという政策をつづけ、できるかぎり友だちづきあいの活動を発展させるべきである。われわれに共鳴する国民党の将校と無党派の将校を、可能なかぎり八路軍と新四軍に参加させ、わが軍の軍事建設を強めるべきである。わが軍のなかで共産党員が数のうえですべてを独占している状態も、いまでは、あらためるべき点がある。もちろん、われわれの主力軍のなかで「三三制」を実行すべきではないが、軍隊の指導権をわが党の手ににぎっているかぎり(これはぜひとも必要で、ゆるがしえないことである)、大量の共鳴者を軍事部門や技術部門の建設に参加させても、おそれることはない。わが党、わが軍の思想的基礎と組織的基礎の堅固な建設に成功している現在の時期には、共鳴者(もちろん破壊分子ではない)を大量に吸収しても危険でないばかりか、そうしなければ、全国的な共鳴をかちとることも、革命勢力を拡大することもできない。したがってこれは必要な政策である。
以上のべた統一戦線のなかでのそれぞれの戦術的原則と、これらの原則にもとづいて規定された多くの具体的政策は、全党が断固として実行しなければならない。日本侵略者が中国にたいする侵略を強め、国内の大地主・大ブルジョア階級が反共、反人民の高圧政策と軍事進攻をおこなっているときに、上述のそれぞれの戦術的原則と具体的政策を実行しなければ、抗日を堅持し、統一戦線を発展させ、全国人民の共鳴をえて、時局の好転をかちとることはできない。だが、あやまりをただすときは、段どりをおってやるべきで、ことを急ぐあまりに、幹部の不満、大衆の疑惑、地主の反撃などのこのましくない現象をひきおこすようなことがあってはならない。
〔1〕 王揖唐は北洋軍閥時代の大官僚であり、親日派の民族裏切り者である。一九三五年、華北事変ののち、蒋介石に起用された。一九三八年、華北で日本侵略者のかいらいになり、かいらい「華北政務委員会」の委員長になった。
〔2〕 石友三は向背つねなき国民党軍閥のひとりである。抗日戦争勃発後、国民党第十軍団総司令官になり、河北省南部で、もっぱら日本軍と連合して、八路軍を攻撃し、抗日民主政権を破壊し、共産党員や進歩的な人びとを虐殺した。
① 中国語の「清算」とは、敵にたいする闘争の面でつかわれるばあいには、人民大衆が党の指導のもとで、民族裏切り者、地主、悪質ボス、およびその他の悪質分子の、政治や経済の面での犯罪行為を暴露し、その罪状にもとづいて処置することである。ここでいう「旧債を清算する」とは、一抗日戦争の時期、これまで地主から借金して搾取された利子のうち、規定をこえた高すぎる分を人民政府の政策にもとづいて、農民がとりもどすことをさす。
(一九四一年一月)
中国共産党中央革命軍事委員会命令(一九四一年一月二十日、延安にて)
国民革命軍新編第四軍は抗戦に功労があり、内外にその名を知られている。軍長葉挺①は敵とのたたかいを指導して、すぐれた勳功をたてたが、このたび、命令をうけて北方に移動中、突如、親日派の陰謀による襲撃にあい、力つきて負傷し、とらわれの身となった。われわれは、いくたびか同軍第一支隊長陳毅、参謀長張雲逸らから安徽省南部事変②の経過をつたえる電報をうけて、憤激を禁じえず、憂慮にたえないものがある。抗日を破壊し、人民の軍隊を襲撃して、内戦をひきおこした親日派の極悪非道の犯罪行為にたいしては、あらためて処置することとし、ここに、陳毅を国民革命軍新編第四軍軍長代理、張雲逸を副軍長、賴伝珠を参謀長、鄧子恢を政治部主任に任命する。陳軍長代理以下は、ひたすら、同軍を整頓し、内部を団結させ、軍民を親密にし、三民主義を実行し、「総理遺言」を遵守し、抗日民族統一戦線を強化拡大して、民族と国家を防衛し、抗戦を最後まで堅持し、親日派の襲撃を防止するために奮闘されたい。
安徽省南部における今回の反共事変は、早くからたくらまれてきたものである。当面の事態は、全国的な突発事変の発端にすぎない。日本侵略者は、ドイツ、イタリアと三国同盟〔1〕を結んだのち、中日戦争を急速に解決するため、やっきになって、中国の内部に変化をおこさせる策動につとめてきた。その目的は、中国人の手をかりて中国の抗日運動を弾圧し、日本南進の後方をかためることにある。それによって、思いのままに南進してヒトラーのイギリス進攻の行動に呼応しようというのである。中国親日派の主要分子で、早くから国民党の党、政府、軍隊などの各機関にもぐりこんでいるものはかなり多く、かれらは日夜、扇動と誘惑をこととしている。昨年末、その全計画は準備を完了した。安徽省南部の新四軍部隊にたいする襲撃と一月十七日の反動的命令〔2〕の公布は、この計画の表面化の発端にすぎない。もっとも重大な事変が今後しだいに演じられていくだろう。日本侵略者と親日派の計画の全貌はどのようなものだろうか。それはつぎのとおりである。
(一)何応欽、白崇禧の名で朱、彭、葉、項にあてた、「十月十九日」と「十二月八日」の二つの電報〔3〕を公表して、世論を動かす。
(二)内戦をおこす準備として、新聞で軍紀、軍令の重要性を宣伝する。
(三)安徽省南部の新四軍を消滅する。
(四)新四軍が「反乱した」と宣告し、同軍の名称を編制から抹消する。以上の各項はいずれもすでに実現した。
(五)湯恩伯、李品仙、王仲廉、韓徳勤らを華中各路の「共産党討伐」軍司令官に任命し、李宗仁を最高総司令官として、新四軍の彭雪楓、張雲逸、李先念らの部隊を攻撃し、それがうまくいけば、さらに山東省と江蘇省北部の八路軍、新四軍をも攻撃する。日本軍はこれに緊密に呼応する。この段どりは、すでに実行されはじめている。
(六)口実をみつけて、八路軍が「反乱した」と宣告し、八路軍の名称を編制から抹消し、朱、彰の逮捕命令をだす。この段どりは目下準備中である。
(七)重慶、西安、桂林などの八路軍事務所を閉鎖し、周恩来、葉剣英、菫必武、鄧穎超らを逮捕する。この段どりも実施されはじめており、桂林事務所はすでに閉鎖された。
(八)『新華日報』を閉鎖する。
(九)陝西・甘粛・寧夏辺区に進攻し、延安を奪取する。
(十)重慶および各省で抗日の人びとを大量に逮捕し、抗日運動を弾圧する。
(十一)各省の共産党組織を破壊し、共産党員を大量に逮捕する。
(十二)日本軍は華中、華南から撤退し、国民党政府は、いわゆる「失地回復」を宣言するとともに、いわゆる「名誉ある講和」をおこなう必要性を宣伝する。
(十三)日本軍は、これまで華中、華南に駐屯していた兵力を華北に増派して、八路軍にもっとも残酷な攻撃をくわえ、国民党軍と協力して、八路軍、新四軍をのこらず消滅する。
(十四)八路軍、新四軍への攻撃を一刻もゆるめないと同時に、各戦場の国民党軍は日本軍と昨年の休戦状態をつづけ、完全な停戦講和の局面に移れるようにする。
(十五)国民党政府は日本と講和条約を締結し、三国同盟に加入する。以上のそれぞれの段どりは、積極的に準備にとりかかろうとしている。
以上が、日本と親日派の全陰謀計画の大綱である。中国共産党中央は、一昨年七月七日の宣言で、「投降は時局最大の危険であり、反共は投降準備の段どりである」と指摘した。また昨年七月七日の宣言では、「かつてない投降の危険と、かつてない抗戦の困難がやってきた」とのべている。朱、彭、葉、項は、昨年の「十一月九日の電報」〔3〕のなかで、もっと具体的に、つぎのとおり指摘した。「国内の一部のものは、いま、あらたな反共の高まりなるものを策動して、投降への道をはき清めようと企図している。……中日連合の『共産党討伐』なるものによって、抗戦の局面を終わらせようとしている。内戦をもって抗戦にかえ、投降をもって独立にかえ、分裂をもって団結にかえ、暗黒をもって光明にかえようとしている。事態はきわめて険悪であり、計略はきわめて悪らつである。道ゆく人もたがいに取りざたして、大いにおどろいている。時局の危機がこんにちほど重大であったことはかつてない。」したがって、安徽省南部事変と重慶軍事委員会の一月十七日の命令は、一連の事変の発端にすぎない。とくに、一月十七日の命令には、重大な政治的意義がふくまれている。なぜなら、発令者が天下の大悪をおかしても、公然とこの反革命的な命令をだしたうちには、きっと全面的な決裂と徹底的な投降の決意があったはずだからである。中国の軟弱な大地主、大ブルジョア階級の政治的代表者たちは、うしろだてがなければどんな小さいこともやれはしないのに、まして、このような驚天動地の大きなことがどうしてやれようか。いまの時機に、発令者のこの決意を変えさせることは、もはや非常にむずかしいようであり、全国人民の緊急の努力と国際外交面からの大きな圧力がないかぎり、この決意を変えさせることはおそらく不可能であろう。したがって、全国人民の当面の緊急任務は、最大の警戒心をもって事変の発展をみまもり、どのような暗黒な反動的局面にも対処できる準備をしておくことであり、絶対に油断してはならない。中国の将来はどうかといえば、それはきわめてはっきりしている。日本侵略者と親日派の計画が実現したとしても、われわれ中国共産党と中国人民は、身を挺して時局を収拾する責任があるだけでなく、その力もあると確信しており、日本侵略者と親日派がいつまでも横行するのをけっしてゆるすものではない。時局がどのように暗愚でも、将来なおどのような苦難の道を経なければならないとしても、また、その途上でどのような代価(安徽省南部の新四軍部隊がこの代価の一部である)を払わなければならないとしても、結局、日本侵略者と親日派は失敗するものである。その理由はつぎのとおりである。
(一)中国共産党は、もはや一九二七年のときのようにたやすく欺かれたり、つぶされたりすることはない。中国共産党は、すでに、ゆるぎない独立の大政党となっている。
(二)中国のその他の政党(国民党をふくめて)の党員には、民族滅亡の大禍を懸念して、投降と内戦をのぞまない人がきっと多いにちがいない。一部のものは、一時ごまかされてはいるが、時機がくれば、やはり目ざめる可能性がある。
(三)中国の軍隊も同様である。かれらの反共は、その大多数が強制されたものである。
(四)全国人民の大多数は、亡国の民となることをのぞんでいない。
(五)帝国主義戦争は、いまや大きな変化の前夜にある。帝国主義にたよって生きているすべての寄生虫が一時どのようにうごめこうと、結局、かれらのうしろだてはたよりになるものではない。いったん大樹が倒れて、猿どもがちりちりになれば、全局面の様相はかわるであろう。
(六)多くの国ぐにで革命が勃発するのは、時間の問題にすぎず、それらの国の革命と中国の革命とが必然的に呼応しあい、ともに勝利をかちとることになる。
(七)ソ連は、世界のもっとも大きな勢力であり、中国が最後まで抗戦するのを決然と援助するだろう。
以上のさまざまな理由から、われわれはやはり、火遊びをしている連中があまりのぼせあがらないよう希望する。われわれはかれらに正式に警告する。少しはつつしんだ方がよかろう、このような火は面白半分に遊べるものではない、自分の首に用心したまえ、と。もし冷静にものを考えることができるなら、この連中は、おとなしく、急いでつぎのことをやるべきである。
第一、崖っぷちで手綱をひきしめ、挑発をやめること。
第二、一月十七日の反動的命令を撤回し、また、自分がまったくまちがっていたと声明すること。
第三、安徽省南部事変の張本人である何応欽、顧祝同、上官雲相の三名を懲罰すること。
第四、葉挺の自由を回復し、ひきつづき新四軍の軍長をつとめさせること。
第五、安徽省南部の新四軍の兵員と武器を全部送りかえすこと。
第六、安徽省南部の新四軍の全死傷者にたいする弔慰と慰謝をおこなうこと。
第七、華中の「共産党討伐」軍を撤退させること。
第八、西北の封鎖線〔4〕をとりはらうこと。
第九、逮捕されている全国のすべての愛国的政治犯を釈放すること。
第十、一党独裁を廃止し、民主政治を実行すること。
第十一、三民主義を実行し、「総理遺言」にしたがうこと。
第十二、親日派の頭目どもを逮捕し、国法による裁判にかけること。
もし以上の十二ヵ条が実行されれば、事態はおのずから平常に復し、われわれ共産党と全国人民は、それほど度をすぎたことはしない。そうでなければ. 「われは恐る、季孫の憂え、[”山”の下に”而”+頁]臾にあらずして、蕭牆のうちにあらんことを」〔5〕ということになり、反動派は、かならずもちあげた石で自分の足をうつ羽目になる。そうなると、われわれは助けたくても助けられなくなってしまう。われわれは国共合作を大事にするが、しかしかれらも合作を大事にしなければならない。卒直にいって、われわれの譲歩には限度があり、われわれの譲歩の段階はすでに終わりをつげた。かれらはすでに最初の一太刀をあびせてきたのだし、その傷は非常に深いのである。もし、まだ将来のことを考えているなら、かれらは自分からのりだして、この傷の治療にあたるべきである。「羊を失ってからおりをつくろっても、まだおそくはない。」これはかれら自身の生死にかかわる大間題であり、われわれとしては最後の忠告をしないわけにはいかない。もしもかれらが悪事を悔いあらためず無法なことをつづけるなら、全国人民は堪忍ぷくろの緒がきれて、かれらを肥だめになげこんでしまうだろう。そうなれば後悔してもおよばない。新四軍については、中国共産党中央革命軍事委員会が一月二十日に命令をだして、陳毅を軍長代理、張雲逸を副軍長、賴伝珠を参謀長、鄧子恢を政治部主任に任命した。同軍は、華中と江蘇省南部一帯になお九万余名をもっており、日本侵略軍と反共軍からはさみうちにされてはいるが、かならず、苦難にめげず奮闘し、あくまで民族と国家のため忠誠をつくすであろう。同時に、その兄弟部隊である八路軍の各部隊も、新四軍がはさみうちにされているのを傍観するようなことはけっしてなく、かならず適切な措置をとって、必要な援助をあたえるであろう。これは、わたしが卒直にいえることである。重慶軍事委員会のスポークスマンがおこなった例の談話にたいしては、「自己矛盾」の四字をもって批判するほかはない。重慶軍事委員会の命令では、新四軍が「反乱した」といっているかと思うと、そのスポークスマンの談話では、新四軍の目的が、南京、上海、杭州の三角地帯に進出して根拠地をつくることにあったともいっている。かれのいうとおりであったとしても、南京、上海、杭州の三角地帯に進出することがはたして「反乱」することになるだろうか。いったいそこへいってだれにたいして反乱するのかを、おろかな重慶のスポークスマンは考えてみなかったのだろうか。そこは、日本が占領している地帯ではないか。君たちは、なぜ、新四軍をそこにいかせず、安徽省南部にいるうちに消滅しようとしたのか。なるほど、日本帝国主義に忠勤をはげむものは、もともと、そうするのが当然なのである。それで、七コ師団を動員した集中殲滅の計画がうまれ、一月十七日の命令がだされ、葉挺が裁判にかけられたのだ。しかし、わたしは、それでも、重慶のスポークスマンは間抜けだといわなくてはならない。かれは、問わず語りに、日本帝国主義の計画を全国人民にもらしてしまったのである。
〔1〕 一九四〇年九月二十七日に、ベルリンで結ばれたドイツ、イタリア、日本の三国軍事同盟のことである。
〔2〕 一九四一年一月十七日に、蒋介石が国民政府軍事委員会の名で公布した、新四軍を解散することについての反革命的命令のことである。
〔3〕 悪名高い「十月十九日の電報」と「十二月八日の電報」とは、一九四〇年の冬、蒋介石が二回目の反共の高まりをおこしたときに、国民党政府の参謀総長何応欽と副参謀総長白崇禧の名でうった二通の電報のことである。「十月十九日の電報」では、敵後方での抗戦を堅持している八路軍と新四軍をほしいままに中傷し、黄河以南の抗日部隊にたいする命令として期限つきで黄河以北に撤退することを強制した。十一月九日、朱徳、彭徳懐、葉挺、項英の四同志は、大局を考え、何応欽、白崇禧への返電のなかで、「十月十九日の電報」のデマを事実をあげて反駁するとともに、安徽省南部の部隊を北に移動させることを承諾した。何応欽、白崇禧の「十二月八日の電報」は、反共の「世論」をさらにまきおこすため、朱、彭、葉、項の「十一月九日の電報」にほこ先をむけてうたれたものである。
〔4〕 西北の封鎖線とは、国民党反動派が陝西・甘粛・寧夏辺区を包囲した封鎖線をさす。一九三九年以後、国民党は民衆をかりたてて、辺区の周囲に壕や防壁やトーチカをふくむ五本の封鎖線をつくった。この封鎖線は、西は寧夏にはじまり、南は涇水にそい、東は黄河にたっするもので、延延数省にまたがっていた。安徽省南部事変の直前には、辺区を包囲する国民党の軍隊は二十余万に増強された。
〔5〕 これは、『論語』のなかの孔子のことばから引用したものである。季孫は魯国の大夫、[”山”の下に”而”+頁]臾は春秋時代の小国で、蕭牆は古代の宮廷の門内にある目かくし用の小さな塀である。季孫は[”山”の下に”而”+頁]を討とうとしたが、華孫の憂いは外にあるのではなくて内にあるのだと孔子は考えたのである。
① 葉挺(一八九六~一九四六年)は広東省恵陽県の出身で、中国共産党員である。一九二二年、孫中山の護衛連隊の大隊長となった。北伐戦争のとき、国民革命軍第四車独立連隊の連隊長となった。一九二七年に第一次大革命が失敗したのち、南昌蜂起の指導にくわわり、第十一軍の軍長となった。同年十二月、また広州蜂起の指導にくわわり、総指揮となった。抗日戦争勃発後は、新四軍の軍長となり、華中の敵後方で抗戦を堅持した。一九四一年、安徽省南部事変で捕えられたが、獄中では断固として節をまげなかった。一九四六年三月に出獄したが、四月八日、重慶から延安に帰る途中、飛行機事故で遭難した。
② 一九四〇年、蒋介石は二回目の反共の高まりをおこしたとき、黄河以南で敵後方での抗戦を堅持していた八路軍、新四軍にたいし、一ヵ月以内に全部黄河以北に移動することを強制する命令をだした。中国共産党は、このでたらめな要求を反駁するとともに、時をうつさず国民党の反共・投降の陰謀を暴露した。しかし、大局を考え、抗日民族統一戦線の分裂をさげるために、安徽省南部にいた新四軍の部隊を長江以北に移動させることに同意した。一九四一年一月七日、蒋介石の指定したコースにしたがって北に移動していた新四軍の司令部とその所属部隊九千余は、安徽省南部の南澤県茂林地区で、侍らぶせていた国民党部隊八万余の攻撃をうけた。新四軍は七昼夜も勇敢に奮戦したが、弾薬も食糧も尽きはて、千余人が包囲を突破したほかは、大部分が壮烈な最期をとげ、軍長葉挺は捕われ、副軍長項英は戦死した。これが国内外をおどろかせた「安徽省南部事変」である。新四軍がこの事変で重大な損失をこうむったのは、項英の重大な右翼的指導ときりはなすことができない。本巻の『おもいきって抗日勢力を発展させ、反共頑迷派の進攻に抵抗せよ』の解題を参照。
(一九四一年三月十八日)
これは、毛沢東同志が中国共産党中央のために書いた党内指示である。
(一)何応欽、白崇禧の「十月十九日の電報」(昨年)にはじまった二回目の反共の高まり〔1〕は、安徽省南部事変と蒋介石の一月十七日の命令で最高潮にたっしたが、三月六日の蒋介石の反共演説と参政会の反共決議〔2〕は、この反共の高まりから兵をひくさいの一戦であった。これから時局は一時的に、ある程度の緩和にむかうであろう。世界の二大帝国主義集団の決定的な意義をもつ闘争がおこなわれる前夜にあって、依然として日本侵略者と対立している中国の英米派の大ブルジョア階級は、現在の緊迫した国共関係の、一時的な、わずかばかりの緩和をはからざるをえなくなっている。同時に、国民党内部の状況(中央と地方、CC系と政学系、CC系と復興系①、頑迷派と中間派とのあいだにはいずれも矛盾があり、CC系内部と復興系内部にもそれぞれ矛盾がある)、国内の状況(広範な人民が国民党の横暴に反対し、共産党に共鳴している)、わが党の政策(抗議運動をつづけている)も、国民党に、過去五ヵ月間のような国共間の緊迫した関係をつづけさせることをゆるさない。したがって、いま一時的な、わずかばかりの緩和をはかることが、蒋介石にとって必要となっている。
(二)こんどの闘争は、国民党の地位の低下と共産党の地位の上昇をしめし、国共の力関係にある種の変化をおこさせる鍵となった。このような状況は、蒋介石にその地位と態度の再検討をよぎなくさせている。かれがいま国防を強調し、党派観念はすでにふるくさくなったと宣伝しているのは、大地主、大ブルジョア階級と国民党の支配を維持するために、「民族の指導者」の資格で、国内のさまざまな矛盾のうえにのって、表面的には、一階級や一政党にかたよらないことをしめそうとたくらんでいるのである。しかし、それが形式上の欺瞞にすぎず、政策上の変化がないとすれば、このたくらみはかならずむだ骨に終わるであろう。
(三)わが党は、こんどの反共の高まりがはじまったとき、大局を考え、意を曲げても折り合っていくという譲歩政策(昨年十一月九日の電報)をとって、広範な人民の共鳴をえたし、安徽省南部事変ののちに、はげしい反攻(二つの十二ヵ条〔3〕、参政会への出席拒否、全国的な抗議運動)に転じて、これも全国人民に支持された。道理があり、有利であり、節度があるというこのわれわれの政策は、こんどの反共の高まりを撃退するのにぜひとも必要であったし、またすでに効果をあげている。国共間の主要な各争点が合理的に解決されるまでは、われわれは、国民党内の親日派、反共派のつくりだした安徽省南部事変やさまざまな政治的、軍事的圧迫にたいして、やはり厳正な抗議運動をつづけ、最初の十二ヵ条についての宣伝をひろげるべきであり、それをゆるめてはならない。
(四)国民党はその支配地域内で、わが党や進歩派にたいする抑圧政策と反共宣伝をゆるめることはけっしてありえず、わが党は警戒心を高めなければならない。淮河以北地区、安徽省東部、湖北省中部にたいする国民党の進攻はまだつづくにちがいないので、わが軍は断固としてこれを撃退しなければならない。各抗日民主根拠地を長期にわたって断固堅持するために、各根拠地は、昨年十二月二十五日の党中央の指示〔4〕を断固実行して、党内での戦術教育を強化し、極左的な思想を是正しなければならない。全国でも、各根拠地でも、国共が最終的に決裂したとか、すぐにも決裂するであろうといった、時局にたいするあやまった評価と、それから生ずる多くの正しくない意見に反対しなければならない。
〔1〕 本選集第三巻の『国民党中央執行委員会第十一回全体会議と第三期国民参政会第二回会議を評す』のなかの、今回の反共の高まりについての叙述を参照。
〔2〕 一九四一年三月六日、蒋介石は国民参政会で反共演説をおこない、敵後方の抗日民主政権の存在はゆるされないとか、中国共産党の指導する人民の武装力はかれの「命令と計画にしたがって指定地域に集結」しなければならないなどといい、「軍令」、「政令」は「統一」されなければならないとわめきたてた。同日、国民党反動派のあやつる「国民参政会」は、蒋介石の反共、反人民的犯罪行為を弁護し、共産党の参政員が安徽省南部事変に抗議して、参政会への出席を拒否したことを大いに攻撃する決議を採択した。
〔3〕 最初の「十二ヵ条」は、一九四一年二月十五日、中国共産党の参政員が国民参政会にだしたもので、その内容は、『安徽省南部事変について発表した命令と談話』のなかの「談話」の部分にあげられている十二ヵ条とおなじである。二回目の「十二ヵ条」は、一九四一年三月二日、共産党の参政員が国民参政会に出席する条件として蒋介石にだした臨時的な措置のことで、その原文はつぎのとおりである。「一、全国における共産党への軍事進攻を即時停止すること。二、全国における政治的抑圧を即時停止し、中国共産党および民主諸党派の合法的地位を認め、西安、重慶、貴陽および各地の被逮捕者を釈放すること。三、閉鎖された各地の書店の封印を解き、各地へ郵送する抗戦的な書籍および新聞のさし押さえ命令を解除すること。四、『新華日報』にたいするすべての抑圧を即時停止すること。五、陝西・甘粛・寧夏辺区の合法的地位を認めること。六、敵後方の抗日民主政権を認めること。七、華中、華北、西北の守備地域はいずれも現状を維持すること。八、中国共産党の指導する軍隊としては、十八集団軍のほかに、もう一つ集団軍を編成し、合計六コ軍を統轄すべきであること。九、安徽省南部で逮捕されたすべての幹部を釈放し、犠牲者の家族に弔慰金を支給すること。十、安徽省南部で逮捕されたすべての兵士を釈放し、すべての兵器を返還すること。十一、各政党の連合委員会を組織し、各政党はそれぞれこれに代表一名をおくり、国民党の代表を議長にし、中国共産党の代表を副議長にすること。十二、国民参政会議長団に中国共産党代表をくわえること。」
〔4〕 本巻所載の『政策について』のことをさす。
① CC系、復興系については、本巻の『上海・太原陥落後の抗日戦争の情勢と任務』注〔10〕を参照。政学系については、本巻の『戦争と戦略の問題』注〔13〕を参照。
(一九四一年五月八日)
これは、毛沢東同志が中国共産党中央のために書いた党内指示である。
今回の反共の高まりは、三月十八日の党中央の指示でのべられているように、すでにすぎさった。つづいてあらわれたのは、あたらしい国際的、国内的環境のもとでひきつづき抗戦するという局面である。このあたらしい環境のなかでふえた要素は、帝国主義戦争の拡大、世界の革命運動の高揚、ソ連と日本の中立条約〔1〕、国民党の二回目の反共の高まりの撃退、それによって生じた国民党の政治的地位の低下と共産党の政治的地位の上昇、さらに、日本の中国にたいする最近のあらたな大挙進攻の準備である。全国人民を結集して抗日を堅持し、大地主・大ブルジョア階級の投降の危険と反共の逆流をひきつづき効果的に克服するためには、今回の反共の高まりにたいする英雄的な勝利のたたかいのなかでわが党がおさめた教訓を検討し、学習することが、ぜひとも必要である。
(一)中国の二大矛盾のうち、中日両民族間の矛盾は依然として主なものであり、国内における階級間の矛盾は依然として従属的な地位にある。民族の敵が国土にふかくはいりこんでいるというこの事実が、すべてを決定する役割をはたしている。中日の矛盾がひきつづきするどく存在するかぎり、たとえ大地主・大ブルジョア階級がのこらず裏切り、投降したとしても、けっして一九二七年の情勢がつくりだされ、四・一二事変〔2〕や馬日事変〔3〕がくりかえされるようなことはない。前回の反共の高まり〔4〕は 一部の同志から馬日華変とみなされ、今回の反共の高まりも四・一二事変や馬日事変とみなされたが、客観的事実はこのような評価が正しくなかったことを立証している。これらの同志のあやまりは、民族矛盾が主なものであることを忘れている点にある。
(二)こうした状況のもとでは、国民党政府の全政策をうごかしている英米派の大地主・大ブルジョア階級は、依然として二面性をもった階級である。かれらは、一面では日本と対立し、他面では共産党やそれに代表される広範な人民と対立している。また、かれらの抗日と反共にもそれぞれ二面性がある。抗日の面では、かれらは、日本と対立しながらも、積極的に戦わず、汪精衛、民族裏切り者に積極的に反対せず、ときには、日本の講和の使者と気脈をつうじてさえいる。反共の面では、かれらは、安徽省南部事変をおこしたり、一月十七日の命令をだしたりするほど共産党に反対しているが、しかし、最後的な決裂はのぞんでおらず、依然として、たたいたり抱きこんだりする政策をとっている。これらの事実も、今回の反共の高まりのなかでふたたび立証された。きわめて複雑な中国の政治は、われわれの同志がこれにふかい注意をはらうことを要求している。英米派の大地主・大ブルジョア階級が、いまなお抗日しており、わが党にたいして、いまなお、たたいたり抱きこんだりしている以上、わが党の方針も「その人の道をもって、その人にむくい」〔5〕、たたくことにはたたくことをもって、抱きこみには抱きこみをもってすることであり、これが革命的二面政策である。大地主・大ブルジョア階級が完全に裏切らないかぎり、われわれのこの政策は変わることはない。
(三)国民党の反共政策とたたかうには、系統だった戦術が必要であり、けっしていい加減であってはならない。蒋介石に代表される大地主・大ブルジョア階級の人民革命勢力にたいする憎悪と残忍さは、過去十年の反共戦争で立証されているばかりでなく、さらに抗日戦争中の二回におよぶ反共の高まり、とくに二回目の反共の高まりのなかでの安徽省南部事変によって完全に立証されている。いかなる人民革命勢力も、もし蒋介石によって消滅されるのをさけ、蒋介石にその存在を認めざるをえなくさせようとするならば、かれの反革命政策とまっこうから対決する闘争をおこなう以外にとるべき道はない。全党は、今回の反共の高まりのなかで項英同志のおかした日和見主義〔6〕の失敗をふかい戒めとすべきである。しかし闘争は、道理があり、有利であり、節度があるというものでなければならず、この三つのうちどれが欠けても、損失をこうむるのである。
(四)国民党頑迷派にたいする闘争において、買弁的な大ブルジョア階級と、買弁性がないか、買弁性の比較的すくない民族ブルジョア階級とを区別し、もっとも反動的な大地主と開明紳士や一般の地主とを区別することは、わが党が中間派を獲得し、政権の「三三制」①を実行するうえでの理論的根拠であり、昨年三月以来、党中央がしばしば指摘してきたところである。今回の反共の高まりは、このことの正しさをもう一度実証した。われわれが安徽省南部事変のまえにとった「十一月九日の電報」〔7〕の立場は、事変のあと、われわれが政治的反攻に転ずるのにぜひとも必要であった。これなしには、中間派を獲得することはできなかったのである。というのは、何回も経験をくりかえさなければ、わが党がなぜ国民党頑迷派と断固闘争しなければならないのか、なぜ闘争をつうじて団結をもとめるよりほかはなく、闘争を放棄すればいかなる団結もありえないのかということを、中間派は理解できないからである。地方実力派の指導層も、大地主・大ブルジョア階級ではあるが、中央政権をにぎっている大地主・大ブルジョア分子とのあいだに矛盾があるので、一般的には、これも中間派としてあつかうべきである。前回の反共の高まりのなかでもっとも反共に力をいれた閻錫山は、今回は中間的立場にたった。そして、前回は中間的立場にあった広西派が、今回は反共の側に転じたが、かれらと蒋介石派とのあいだには依然として矛盾があるので、おなじものとみなしてはならない。まして、その他の地方実力派については、いうまでもない。ところが、われわれの同志のなかの多くのものは、安徽省南部事変ののち、地主階級、ブルジョア階級が全部裏切ったかのようにみて、いまなお地主階級の各派、ブルジョア階級の各派を混同している。これは、複雑な中国の政治を単純化したものである。もしわれわれがこのような見方をとり、すべての地主階級、ブルジョア階級を国民党頑迷派とおなじにみるなら、われわれ自身を孤立させる結果になるであろう。中国の社会は、両端が小さく、中間が大きい社会である〔8〕から、もし共産党が中間階級の大衆を獲得して、それぞれの状況に応じてところをえさせることができなければ、中国問題は解決できないということを知らなければならない。
(五)一部の同志は、中日の矛盾が主なものだという点について動揺をしめし、そのため国内の階級関係についてまちがった評価をしているので、党の政策にたいしても時おり動揺をしめすことがある。これらの同志は、安徽省南部事変ののち、それは「四・一二」や馬日事変だとするかれらの評価から出発して、昨年十二月二十五日の中央の原則的指示は、もう適用できなくなったか、あまり適用できなくなったとおもっているようである。かれらは、いま必要なのは、もはや抗日と民主を主張するすべての人びとをふくめた政権ではなくて、いわゆる労働者、農民、都市小ブルジョア階級だけの政権であり、もはや抗日の時期の統一戦線の政策ではなくて、過去十年間の内戦の時期のような土地革命の政策であると考えている。これらの同志の頭のなかでは、党の正しい政策はすくなくとも一時的にはあいまいになっている。
(六)これらの同志は、わが党中央が国民党のひきおこす可能性のある決裂や、時局発展の最悪の可能性にたいして準備せよと指令したとき、他の可能性を忘れてしまった。最悪の可能性にそなえることはぜひとも必要であるが、これはよい方の可能性を放棄することではなくて、まさに、よい方の可能性をたたかいとり、それを現実性に変えるための条件であることを、かれらは理解していない。こんどのばあいは、われわれが国民党のひきおこす決裂にそなえて十分な準備をしていたので、国民党は軽々しく決裂できなかったのである。
(七)また、いっそう多くの同志は、民族闘争と階級闘争との一致性を理解せず、統一戦線政策と階級政策を理解せず、したがって、統一戦線教育と階級教育との一致性を理解していない。かれらは、安徽省南部事変ののちは統一戦線教育とは別の階級教育なるものをとくに強調する必要があると考えている。かれらは、わが党が抗日の時期全体をつうじて、国内の上層、中層のいまなお抗日している人びとにたいしてとる政策は、それらの人が大地主・大ブルジョア階級であろうと、中間階級であろうと、連合と闘争という二つの面をもった(二面的な)完全な民族統一戦線政策以外にはないということを、いまなお理解していない。たとえかいらい軍、民族裏切り者、親日派分子であっても、そのうちのあくまでも絶対に悔悟しようとしないものにたいしては断固打倒する政策をとるが、その他のものにたいしては、やはりこのような二面的な政策をとるのである。わが党が党内と人民にたいしておこなう教育も、この二つの面をもった教育である。すなわち、どのようにしてブルジョア階級、地主階級のそれぞれ異なった階層と、それぞれ異なった形で連合して抗日するか、また、程度の異なるさまざまなかれるの妥協性、動揺性、反共性と、程度の異なるさまざまな闘争をするのかを、プロレタリア階級、農民階級およびその他の小ブルジョア階級に教えるのである。統一戦線政策とは階級政策であり、この二つは切りはなせないものである。この点がはっきりわからなければ、多くの問題もわからなくなる。
(八)また、一部の同志は、陝西・甘粛・寧夏辺区や華北、華中の各抗日根拠地の社会の性質がすでに新民主主義的なものであることを理解していない。ある地方の社会の性質が新民主主義的なものであるかどうかを判断するには、主として人民大衆の代表がそこの政権に参加しているかどうか、共産党がそれを指導しているかどうかを原則とする。したがって、共産党の指導する統一戦線政権が新民主主義社会のおもな指標となる。ある人たちは、十年の内戦の時期のような土地革命がおこなわれなければ、新民主主義が実現したとはいえないと考えているが、これはまちがいである。いま、各根拠地の政治は抗日と民主に賛成するすべての人民の統一戦線の政治であり、その経済は半植民地的要素と半封建的要素を基本的に排除した経済であり、その文化は人民大衆の反帝・反封建の文化である。したがって、政治からみても、経済からみても、文化からみても、小作料・利子の引き下げを実行しただけの各抗日根拠地と、徹底的な土地革命を実行した欧西・甘粛・寧夏辺区とは、どちらも新民主主義の社会である。根拠地という雛型が全国的なものになったときには、全国は新民主主義の共和国となるのである。
〔1〕 一九四一年四月十三日にソ連と日本が調印した中立条約をさす。この条約によって、当時のソ連東部辺境の平和は確保され、ドイツ、イタリア、日本三国の対ソ連合進攻の陰謀はうちやぶられた。この条約はソ連の平和外交政策の大きな勝利の一つであった。
〔2〕 四・一二事変とは、一九二七年四月十二日に蒋介石が上海でおこした反革命事変のことである。蒋介石は、この事変で共産党員と革命的労働者、農民、知識人を大量に虐殺した。本選集第一巻の『湖南省農民運動の視察報告』注〔5〕を参照。
〔3〕 本選集第一巻の『井岡山の闘争』注〔16〕にみられる。
〔4〕 一九三九年の冬から一九四〇年の春にかけて蒋介石がおこした一回目の反共の高まりをさす。本巻の『すべての抗日勢力を結集して反共頑迷派に反対しよう』注〔10〕を参照。
〔5〕 これは朱熹が『中庸』第十三章の注のなかでのべたことばである。
〔6〕 本巻の『おもいきって抗日勢力を発展させ、反共頑迷派の進攻に抵抗せよ』の解題を参照。
〔7〕 「十一月九日の電報」とは、一九四〇年十一月九日、第十八集団軍の朱総司令、彭副総司令と新四軍の葉軍長、項副軍長が、何応歓、白崇禧の「十月十九日の電報」に回答したものである。この電報は、国民党反動派の反共、投降の陰謀を暴露し、黄河以南の新四軍、八路軍を期限つきで北に移動させるという何応欽、白崇禧のでたらめな命令を反ばくした。しかし、団結抗日の大局を考え、不本意ながらも、新四軍の長江以南の部隊を長江以北へ移動させることに同意し、さらに国共間のいくつかの重要な懸案を解決することを一歩すすんで要求した。この電報は、当時の中間派の共鳴をえて、蒋介石を孤立させた。
〔8〕 毛沢東同志のこのことばは、革命を指導する中国の産業プロレタリア階級と反動的な中国の大地主・大ブルジョア階級が、人口からいうと、ともに少数しかしめていないことをさしている。本選集第三巻の『陝西・甘粛・寧夏辺区参議会における演説』を参照。
① 「三三制」の政策は、抗日戦争の時期における統一戦線政権についての中国共産党の政策である。この政策によれば、抗日民主政権の構成員は、共産党員がだいたい三分の一、進歩的な人びとがだいたい三分の一、中間的な人びとやその他の人びとがだいたい三分の一をしめることになっている。